第3の剣 第1章
作:社長





第1章 魔物の花嫁





「魔物の花嫁?」
 店の中はいろんなにおいでむせ返りそうだった。好奇心旺盛な若い娘の声はカウンターの隅に座るプローフェの耳にも入ってきた。
 さっきからいやな頭痛に悩まされている。加えて、悪寒のようなものを首筋のあたりに感じるのだった。プローフェはそうすれば悪寒がやわらぐかのように全身を包む黒い布を胸元でかきあつめて身を縮めた。
「ああ、知らなかったのか? 有名な話だぜ」
 若い娘に問いかけられて得意げになっているのは漁師だ。たくましい体の海の男はそれだけで店の娘たちに歓迎された。離れているはずなのに男の体が発散する潮の匂いが、プローフェの鼻を突いた。
「やめて、ルーマス。くだらない話でこの娘(こ)をまどわせるのは」
 そう言ったのは若い娘とともに男をはさんで座っているサロメナだった。サロメナはこの娼窟「花の館」の女主人で、娘がはじめて客を相手にするときには必ず同席するようにしていた。
 サロメナも本気で嫌がっている。プローフェにはわかった。
「なんで? サロメナ。アタシ、知りたい、魔物の花嫁の話」
「なぜって…キュリア、こんなめでたい夜に王室の名を汚すようなつくり話は…」
 サロメナの声をルーマスの笑い声が割った。その高らかな笑い声はプローフェの頭痛にますます拍車をかけた。
「あんたがそんなびくついたこと言うなんて驚いたな。王室がなんだってんだ? 婚礼の振る舞い酒だって、ここには贈られなかったんだろ?」
「……ええ、たしかにここは王様の目には決して入らないわ。だけどそれとこれとは別。そんなおぞましい話、みんな気持ちよく酔ってるっていうのに聞きたくないのよ」
 サロメナはトンミの葉を口に放り込み、噛み砕いた。さわやかな香りが一瞬プローフェの方まで香った。
 おぞましい話と聞いて、キュリアはますます好奇心をそそられたようだった。大きな果実のような胸を押しつけるようにしてルーマスに顔を近づける。
「…よ、よし、そうだな。2階へ上がって二人きりになったら話してやるよ。なあ、サロメナ、だったら文句ないだろ?」
 言いながらルーマスはサロメナの手に金を握らせた。虹色に輝くルンム貝1枚。穢れを知らぬ娘とはいえ、男はずいぶん奮発したようだ。祭りの夜とあって、気分が高揚しているのだろう。サロメナは何も言わなかった。当然だ、彼女は商売人なのだから。
 ルーマスは小柄なキュリアを抱えるようにして階段を上がっていった。
 プローフェも商売のためにここにいることを思い出した。だがとても客を相手にできる状態ではない。大切な商売道具の「心の目」がすっかり曇っていた。そう、空を覆う雨雲のように「心の目」は暗く、何も見えてこなかった。
「……どうしたの? プローフェ。顔色が悪いわ」
 サロメナが黒い布からわずかに見えるプローフェの顔をのぞきこんでいた。
「……なんだかとっても嫌な感じがするの。なぜかはわからないけど……」
「あら、わからない、なんて。あんたでもそんなことあるのね」
 プローフェは思わず顔を上げて、サロメナに向き直った。
「サロメナ、誤解してるわ。私は何でもわかるわけじゃない。そりゃ、ときどき本当に『見える』時もある。でもたいては…相手の話を聞いていれば、望む答えが出てくるのよ。あなたも自然にやってることだわ、お客相手に」
 サロメナは信じられないという表情を見せた。
「……だってあんたは」
 言いかけて口をつぐむ。プローフェはサロメナの飲み込んだ言葉がわかっていた。
 (あんたはアタシとは違う。あんたは「忌むべき者」だもの)
 プローフェの胸がちりりと一瞬痛んだ。もちろんサロメナに悪気がないのはわかっている。2年近くここで商売をさせてもらって、サロメナは正直で、だからこそ信頼できる友人だと思っていた。プローフェの表情を見て、サロメナはあわてたようだった。
「ご、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないの。あんた、アタシの周りにいる連中とは違うし、…って、ああ、ますます差別してるみたいな言い方しちゃって。違うの、あんたと話しているとアタシ、自分の仕事に誇りが持てるのよ。こんなの初めてなんだから…ああ、なんて言ったらわかってもらえるかな」
 プローフェはサロメナの手に触れた。そういえばサロメナは彼女に触られることを怖がらない数少ない人間のうちの一人だった。そしてそれは勇気ある者の証明でもあった。
 プローフェは首を横に振った。
「うん、わかってる、ありがとう」
 不思議なことに頭痛は少しやわらいでいた。
「ねえ、そこの二人。魔物の花嫁ってホントにあそこにいるのか?」
 温かい気持ちを壊してくれた誰かにプローフェもサロメナも相手が客だということを忘れ、振り向いてにらみつけた。
 だが男は動じなかった。横にいたサロメナの表情が彼を見てとっさに変わったことにプローフェは気づいた。あきらかに男の若さと美貌に見惚れていた。プローフェもたしかにそれを認めたが、彼女はあまり外見の美醜には興味がなかった。
 男は女たちの視線に慣れているのか気づかないのか、その席を立ち、二人の前に来た。
「なあ、あの中にいるって…誰か見たの?」
 晴れた日の海のように澄みきった青い瞳を右斜め上に向けている。日に焼けた右手の人差し指もやはり同じ方向に突き出している。彼の指している方向をプローフェはわざと見なかった。
「いらっしゃい、フォン。あなたの噂は聞いてたわ。うちの娘たちもいつ来てくれるか、待ち焦がれてたのよ」
 サロメナが男の注意をそらすためか彼の視界に入ったが、男の視線はプローフェの目を捉えて離さなかった。まるで彼女が答えてくれるかのように。
「なぜそんなに知りたがるの?」プローフェはあきらめて尋ねた。
「知りたいからだ」
 男は即答した。フォンという男は妙な自信に満ちていた。それは若さや美貌だけから来ているわけではないようだった。
 見たところ歳はプローフェより三つか四つ下、16、7といったところか。他の海の男たちに比べてまだまだ体が完成されていない感じがするからだ。どうやらサロメナが言うようにこの店に来たのははじめてらしい。
「あの塔の中に王女が住んでいるとか…」
 フォンは自分から話を切り出した。その噂については正直プローフェも詳しく知らなかったので、サロメナを見た。サロメナはあきらめたのか、ため息をつきつつも口を開いた。
「ええ、でもあれはあくまで作り話。……ピア王女が7つのとき、魔物が長き眠りに入るところを邪魔したために魔物の怒りを買ったの。でも危ういところで白き魔女ホーリーが命と引き換えに魔物を撃退し、王女は助かった。けれどもそのとき魔物が傷つき流した血が、王女の左目に入ってしまった。たちまち王女の体の左半分は魔物に呪われて、世にも恐ろしい姿になってしまった…という話よ、たしか」
 プローフェもいつしか興味を持ってサロメナの話に耳を傾けていた。断片で聞いていた噂話がきちんとつながった。
「そして今、王女は城の端にある、あの高い塔の頂上に閉じ込められているわけか」
 フォンが後を継ぐと、サロメナは半分あきれ顔で首を横に振った。
「いいえ、王女は死んだのよ、王様の言う通り。森に入って、かわいそうに獣に襲われてしまった。その方がもっともな話じゃない? 魔物なんて……口にするのも恐ろしい」
「ああ、おれも自分のこの目で見たものしか信じない」
 フォンは力強く言った。プローフェは一瞬その鋼のような強い心にすがりつきたい気持ちになった。小さくかぶりを振る。
 いけない。「心の目」が曇ってしまう。だから彼の前からも消えたのだ。
 プローフェはひさしぶりに彼のことを思い出した。プローフェと同じ漆黒の髪、藍色の瞳を持つ男。プローフェと違って何の力もない男。でも誰よりも賢く、いつでも落ち着きを保っている男。
「王女の死体を見たわけじゃない。だから死んだとも言えないよな」
 フォンの言葉にプローフェは我に返り、サロメナは目を丸くした。そして、笑い出した。
「何がおかしい?」
「だ、だって、あんた。アタシたちみたいな身分の者が、王女様の死体なんて見られるわけがないわ。…8年前、盛大なお葬式をやったじゃない。あんたも見たでしょう?」
 フォンはそれには答えず、なにやら考え込むように視線を右上に向けた。店の外にはたしかにその方向に塔があった。ただし、歩いて2時間以上かかるが。
 プローフェはフォンの見事な金色の巻き毛から垣間見える赤いあざを見つけた。左耳のすぐ下あたりにあるそのあざは夜空に輝く星のようにも見えた。
 プローフェの視線に気づいたのか、フォンはすばやく左手であざを隠した。
 見られたくない? なぜ?
「先に帰る」
 漁師仲間だろうか、そばにいた男に言うとフォンはプローフェたちに背を向けて出ていった。
「……変わった子ねぇ。でもあんなきれいな子、アタシはじめて見たわ」
 サロメナは腕組みをしたまま、彼の出ていった戸口を見て言った。
「あのお葬式を見ていないなんて完全なよそ者ね。……1年ほど前、森を抜けて半死半生のところを漁師たちに助けられたらしくて、そのまま彼らの仲間になったそうだけど…過去のことはいっさい語らないんですって。でもあの美しさでしょ、あっという間に街中の女たちの噂の的よ。……ただ、誰にもなびかないようね。というより女のことを知らないって方が正しいところでしょうけど」
 言いながらサロメナは無意識にあざやかな赤毛をかきあげた。そんなささいなしぐさですら色気に満ちている。彼女の方が10歳上とはいえ、自分がサロメナの歳になったとしても、ああはなれないだろうとプローフェは思った。
「……たぶん、元はフォレスあたりの貴族のおぼっちゃんじゃない? 世間知らずって感じがするし。運がよかったのね、あの森を一人で抜けて助かるなんて」
 プローフェの言葉にサロメナも身震いしてうなづいた。
 もしかしたら、ただのおぼっちゃんじゃないのかもしれない。
 プローフェはなんとなくそう思った。彼と出会ってから、さきほどまでの頭痛や悪寒がすっかり消えていたからだ。単純に具合がよくなっただけなのかもしれないが、プローフェはなぜか運命的なものを感じずにはいられなかった。
 そして急にそれは見えた。
 「心の目」に彼の姿が映った。青銅の鎧に身を包んだフォンが炎の中で立っている。その右手には剣が握られていた。さきほど見た当人と変わらない力強い視線で前を見据えている。
 見えたときと同じくふいに消えた。
 こういうヴィジョンを見ることはプローフェにとって別段異常なことではなかった。それゆえ彼女は「忌むべき者」と言われ、人との接触を絶たれているからだ。
 接触――
 プローフェは驚いた。そういえば彼女はフォンの身体に指一本触れてはいない。彼女が未来を見ることができるのは相手の身体に触れたときだけなのだ。
 また会うことになるだろう、プローフェは思った。それは予感ではなく、確信だった。





 ピアは目を閉じて座っていた。暗闇は心が落ち着く。柔らかい毛で覆われたセイントの首に両腕をまわして、顔をうずめる。セイントが返事をするようにクゥンと鼻を鳴らした。
 どうやら今日は眠れそうもない。ここからずっと離れているはずの大広間の騒ぎがピアの心をかき乱す。城の中はもともとたくさんの人間がいるが、それでも普段は夜になれば皆眠りにつく。だが今夜はどうしようもなかった。特にこうした不特定多数の人間が集まる宴ではどうしたってさまざまな思惑が渦を巻いて彼女の心につぎつぎと飛び込んでくるのだ。―― やっと姿を現しやがった、レークの老いぼれめ。さて、ご機嫌伺いに行くか ―――― あれがフォレスの王子ね。噂以上に美しい方。まあ…エンヴィ王女の勝ち誇ったような顔ったら……あんな子供より私の方がよっぽど…… ―――― あの若造、うまくやったな。レークはフォレスの広大な森をもう手に入れた気でいやがる。おれも不本意ではあるが、どうみてもこれからはあの若造に追従した方が賢い選択だ。念のため、ご意見番の声も聞いてみるか ――
「……やめて…なんとかして…誰か」ピアは思わずうめいた。―― ああ、やっぱり退屈。私の結婚の宴のはずなのに……あんのじょうみんなお父様の方ばかりに声をかける。まあ、退屈な政(まつりごと)の話をされても私には何も答えられないけれど ――
「……エンヴィ?」
 ピアは闇の中で顔を上げた。―― でも…ワイス……この人と結婚できてよかった。もしかしたら海の向こうのスカーズ国のトラッシュ王子と婚約していたかもしれない…いいえ、ワイスと結婚しなかったら間違いなくあいつと結婚することになってたわ。そんなの冗談じゃない、あんな野蛮人。目の前のこの人を見てよ。国中の女性たちが彼を見つめてる。こんなにきれいな金色の巻き毛は見たことないし、瞳だって今までに見たどんなに上等のサファイヤよりも透き通った……そう、海の色みたいな青、優美な鼻の線、ほんのり薔薇色の唇…さっき私の頬に触れた唇 ――
 息苦しさにも似た、乱れたエンヴィの感情がピアの心に流れ込み、同じようにピアの心臓も高鳴っていく。
 ピアは闇の中で一点を凝視していた。その表情はまるで雷に打たれたようだった。
「……聞いた? セイント」
 もちろんただの犬であるセイントに自分と同じく思念を感じ取ることはできないのはピアもよくわかっていた。だが長い間生活をともにしてきた彼は、ピアにとって家族以上の存在だった。
 セイントもピアの言葉がわかるのか、彼女の問いかけに必ず短くワンとほえる。
「……下に降りて見たいな……彼の顔を」
 言葉とともに立ち上がったピアのかび臭いドレスのすそをセイントが引っ張る。
「……だいじょうぶ、セイント。誰にも見つからないようにそっと見るだけ」
 セイントはドレスのすそを噛んだまま、離さなかった。
「どうして? 行っちゃダメ?」
 黒い目をうるませて、セイントはピアを見上げていた。
「だって、今のエンヴィの話……彼とそっくりじゃない? 彼が現れなくなってもう1年ぐらい経つけど……忘れるはずない。それまでは毎日見てたもの」
 窓の外の闇夜に目をやりながらピアは言った。三日月が手に取れそうなほど近くに見える。そのはるか下に海のように広がる森の北に一ヶ所、小さな荒地があった。そこだけはピアがこの高い塔に入ったときから樹の生える気配がない。いやおそらく何百年も昔からあの地には何も生えていないのだろう、草すらも……。砂浜と同じ白い地面があるだけだった。
 ピアはそこを「光の的」と呼ぶことにした。深緑の海の中で、そこだけは光を当てたように白く、目を引くからだ。
 そしてピアが10歳になったころ、その「光の的」に毎朝彼が現れるようになった。
「黒いたてがみの白い馬なんてめずらしいものに乗っていたから……高貴な家の生まれかもとは思ってたけど……まさかフォレス国の王子だったなんて」
 彼は朝日が昇る前に白い馬に乗ってやってくる。そこで空が白みはじめるまで、剣の練習をするのだった。
 ある朝偶然彼を目にして以来、ピアは彼と同じく朝日が昇る前に目覚め、光の的に彼が来るのを待つようになった。
 彼はよく手入れされた細めの長剣を使っていた。突いたり、払ったり、そのダンスのような動きをピアもよくこの塔の狭い部屋で真似たりした。長い糸巻きを彼の剣と同じように見たて、右に左に動いてみる。だがとうてい彼みたいに身軽には動けなかった。
 はじめ彼の練習じたいにあった興味が次第に彼自身へと移っていったのはいつだったのか、ピアにもわからなかった。ピアの呪われた身体も日々成長し、丸みをおびた、女の身体へと変化していった。ピアは自分の成長には気づかなかったが、毎日見つめている彼の身体が日に焼けてひきしまり、がっしりしていくのに気づいていた。
 だが彼と話をしたいとは望まなかった。とうていかなえられない望みだからだ。
 普通の人間だったら見えない距離にいる彼の姿が仔細に見えるのは、ピアの受けた呪いの意外な力だったが、1年ほど前のある朝から突然彼が現れなくなってからは、かえってピアは自らの呪われた身体に憎しみをつのらせた。
 最初から彼のことを知らなければよかったのに……
「そうだよね……見に行って、彼だったからって、どうしようって言うの? 私はすでに……死んだも同然なんだし」
 ピアは言葉を詰まらせるとしゃがみこみ、両手を組み合わせた。左の手の指は冷たく、まるで他人の手に触れているようだった。
「神よ……もしいるのならば、少しでも私を憐れだと御思いならば、どうか私に安らかな死を与えてください。ほかには……何も望みません」
 だが、それもかなえられない望みであることをピアはよく知っていた。
 彼女はこれまでに何度も……長剣に見たてた糸巻きの先端を……自らの呪われた身体に突きたてた。だが魔物が彼女に安らかな死を許さないのか、その傷は血を流すこともなく、たちどころに消えるのだった。
「ホーリー、私が死ぬことができないのは、私が神の存在を信じることができないから?」
 これもまた、何度も虚空に問いかけたことだった。誰も答えてはくれない。
 ただ、セイントだけは彼女の足元に身を寄せていた。
 ピアは雪のように白い右手でセイントの身体をなでた。そうすることでしか自分がこの世に存在するのを確かめることができないかのように。





「トネリ、あの子の様子を見に行ってくれた?」
 トネリは突然呼びとめられて、危うくレグープの果実がのった大皿を落としそうになった。深紅の長いローブに身を包んだ銀髪の女性が、柱の陰からこちらを見ていた。
 トネリは思わず上を見上げ、それから顔をしかめた。その表情を見て、言葉を聞かずとも銀髪の女性はすべてをわかったようで、うなづいた。
 縦にも横にも大きい身体を揺さぶりながら、小走りで、しかし周囲の視線にも注意して、トネリは銀髪の女性の前に来た。
 幸い、誰もトネリと女性―― ここウォラ国の王妃クリステル ――が二人きりでいるのに注意を払う者はなかった。
「申し訳ございません、忙しかったものですから、つい……なんということでしょう、これからすぐに何か持っていきます。そうでした、このレグープもピア様の大好物…」
 トネリの唇にクリステルの細い指がそっと重ねられた。
「しっ……誰が聞いているか……とくに陛下に知られては大変なことに……あなたには苦労をかけますが、注意していただきたいのです」
「申し訳ございません。とにかく、これからすぐにお食事を持っていきますわ」
 トネリは言ったそばからもう走りだしていた。クリステルは一瞬周囲を見まわしたが、招待客のほとんどはレーク王と隣国の王子ワイスに集中していることに気づくと小さくためいきをつき、レークたちのいる玉座へとわずかに重い足取りで歩いていった。


 トネリがなかなかピアの元へ行けなかったのにはわけがあった。いそがしかったのも嘘ではないが、なんとなく行ってはいけないような気がしたのである。もちろんピアが半日以上何も食べていないのも知っていた。なぜなら彼女の存在を知っているのは母親のクリステルとトネリの二人だけだからだ。
 トネリは学もなく、見た目もどちらかというと醜い女だったので、両親は彼女の将来を悲観した。ところが8年前、ちょうどピア王女の盛大な葬式が行われた直後、城から密使がやってきて、トネリはクリステルと謁見することとなった。
 クリステルに優しいまなざしを向けられてもトネリは彼女の目的がわからず、恐怖に震えるばかりだった。クリステルはトネリに自分のことや両親のことを語らせ、黙って聞き入っていた。そして何事か納得したらしく、クリステルは決意にこわばった顔で、驚くべきことをトネリに告白したのだった。
 ピアは生きていた。だがその姿は魔物の血に呪われて、世にも恐ろしいものとなっている。そんな彼女を恐れずに世話してくれる者がどうしても必要だというのだ。
 トネリはピアに引き合わされるまで、自分がその立場に選ばれたのだとはまだ信じられずにいた。
 ピアの姿を見たとたん、トネリは女王の申し出だとしてもなんとか断れないものかと思った。だが、その心を読んだかのようにクリステルがつぶやいた言葉がトネリの身体を凍りつかせた。
「もしもあなたに断られたら、彼女は本当に死ぬしかないのです……」


 気がつけば、8年たっていた。今ではトネリもピアのことを恐れなくなっていた。それどころか、妹のような親しみさえ覚えていると言ってもよかった。ピアは幼いうちにこのような境遇に陥ったからか、高貴な者にありがちな傲慢なところが微塵もなかった。
 もしも方法があるなら、なんとか彼女を救ってあげたかった。ピアがひそかに自分の命を何度も絶とうとしていたことも知っていた。もし、救済の手段が彼女の死だったとしても、それはそれで彼女に安らぎをもたらすような気がした。
 だが一方で、かならず呪いを解く方法があることもトネリは何の根拠もなく確信していた。トネリに唯一与えられた神の贈り物はこの勘だろう。しょっちゅう働いてはくれないが、肝心なときに彼女の勘は確実に当たった。
 そしてその勘が今はこうささやいているのだ。
 彼に気づかれてはいけない。ピアの元へ行くのを躊躇していたのは、ずっと自分を観察する邪悪な視線を感じていたからだった。
 視線の元を何度もたどってみたが、トネリにはどうしても信じられなかった。
 ワイス王子……まばゆいばかりの美しさ、優雅な微笑み。まだ子供のエンヴィ王女に自ら求婚して、今夜、ウォラ国とフォレス国の和平を結んだ少年。
 人々がうらやむ何もかもを持ったこの少年があんな邪悪な視線で自分を見つめている。トネリは熱が上がっていくときのような悪寒すら感じはじめた。それがますます彼女の勘に対する確信を強めていった。


 行くと決めたはいいが、どうしようかトネリは悩んだ。塔にはいくつか部屋があったが、上へ行けば行くほど窓は少なく、光りも射さない狭い石の階段はじめじめと冷たい。そしてまことしやかに語られる亡霊物語。それは一番上にあるピアの部屋に人が立ち寄ることを遠ざけるのに十分だった。
 ふいに邪悪な視線がすっかり消えていることに気づいた。そうなってからどれほどの時がたったのかわからないが、そんなにはたっていないはずだった。
 だがトネリは大きな失敗を犯したような気がした。
 とりあえず温めたスープとレグープをひと房手に持つと、いつもより足早に石の階段を上りはじめた。


 セイントが突然立ちあがって吠えた。ピアもつられて立ちあがり、月の光も届かない入り口の辺りを見つめた。
「トネリなの?」
「……こんばんわ」





 ピアは自分の見ているものが信じられなかった。あんなにも会いたいと思っていた人が、月の青白い光にだんだんと姿を見せていく。
「ぼくを覚えてる?」
 やわらかく、おだやかな声。ピアはまだ言葉が出ず、首を横に振ることしかできなかった。
「……なんだ、残念。でもぼくは覚えてる。君が5歳になったお祝いにぼくら自分の一番大切なものを君にあげたんだよ」
「ぼくら?」
 ピアにはワイスの言うことが全くわからなかった。必死に記憶の糸をたどろうとするが、正直言って、あのいまわしい出来事以前、7歳より昔のことはほとんど思い出せないのだ。
「これはセイントだね」
 ピアの驚きは頂点に達した。
「なぜ、セイントを知ってるの?」
「これは兄さんがプレゼントしたものだもの。兄さんはこいつをすごくかわいがっていたからね。……ぼくのプレゼントしたキティはどうしたんだろう?」
 キティ……その子猫もピアにあの恐ろしい日を思い出させた。
「ごめんなさい……私が襲われた日に……いなくなってしまったの、たぶん」
 ワイスには月明かりに照らされたピアの姿が見えているはずだ。なのに少しも表情を変えない。ピアは泣き出しそうになった。
 やはりこの人が私をここから救い出してくれる人なのかもしれない。
 緊張がわずかにゆるんだ瞬間を見透かしたかのようにワイスはさらに彼女との距離を縮めた。
「……あなたでしょう? 毎朝、剣の練習をしていた……」
 でも何か違うような気がした。ワイスの顔を間近で見て、その姿形は彼女の記憶と完全に合致しているにもかかわらず、ひとつだけ、何か見落としている気がする。
「君を救いに来た」
 いつのまにかワイスは彼女の血の通わない左頬とクリーム色の暖かな右頬に両手を添えていた。
「こんな暗い場所に隠れていることはない……ぼくのものになれば、この世を思いのままにできるよ」
 ぼくのもの…?
 戸惑うピアの唇が何か言う前にワイスはキスをしてきた。
「……で、でも……あなたはエンヴィの……」
 ふたたび唇をふさがれて、ピアは身体の力が抜けるのを感じた。そんなに力があるようには見えなかったが、ワイスはピアの身体をしっかりと抱きとめていた。
「……君に会いたかった……そのためにはどんな手段もいとわない」
 人に抱きしめられるのは何年ぶりだろう。しかも好きだった人にここまで求愛されるなんて。これが夢ならずっと目覚めないでほしい、ピアは願った。
「私のこと……怖くないの?」
 ワイスは微笑みを返しただけだったが、ピアにはそれで十分だった。ワイスは軽々とピアを抱き上げると、粗末なベッドの上に彼女を横たえた。
「……何をするの?」
 ワイスはピアの身体をまたぐような恰好のまま、彼女を見下ろしていた。そのときはじめてピアは恐怖を覚えた。
「君もぼくのことが好きだったんじゃないの?」
 ワイスがその美しい顔を近づけてささやくと、ピアの恐怖はぼんやりとかすんでいった。その感覚は眠りに落ちていく瞬間に似ていた。
 ワイスの唇がピアの唇から首筋をなぞるように胸元へ移動していくのを感じながら、彼女はどうすることもできなかった。ワイスは不思議なことにことさら彼女の醜い左半身の肌を愛でているような気がした。
 ピアはすっかり混乱していた。このまま身をまかせてしまいたいという気持ちと、ここから逃げ出したいという気持ち、相反する二つの感情が激しく攻めぎあい、身体は固まったまま、動くことができずにいた。
 下着に近い粗末なドレスの肩をワイスの手が引き下ろそうとしているのを感じて、ピアはふたたび目を開けた。ワイスはピアの顔の左側に顔をうずめていたので、ちょうど彼の首筋と左の耳が見えた。
 ピアは思い出した。
「ワオン」
 ピアの心を読んだかのようにセイントが二人の間に飛びこんできた。
「……どうした?」
 ワイスが悲しそうな顔で見返したので、ピアは自分が失礼なことをされかけていたにもかかわらず、心が揺れた。
「……私が、いつも見ていた人は……左の耳の下に赤い…星のようなあざがあった」
 そのとたん、ワイスの顔色が変わった。
「そっくりだけど……あなたは違う」
 ワイスは笑った。地の底から響くような恐ろしい笑い声だった。ピアは震えあがった。
「そうさ、あれはぼくの双子の兄さんだ。けど、もう兄さんには会えないよ」
 ニヤニヤ笑いを浮かべて近づいてくるワイスは何か別の生き物に見えた。いや姿形は何も変わっていない。ただ、全身からあふれだす邪悪な気配がピアには目に見えるようだった。ピアはワイスの方を見たまま、後へ逃げようとした。
「かわいそうに兄さんは父といっしょに流行り病で亡くなった」
 ニヤニヤ笑いをはりつかせたまま、ワイスは言った。
「……!」
 ショックで固まったように動けなくなったピアにすかさずワイスは手を伸ばした。だが、セイントがワイスに飛びついた。同時にピアもベッドの端から落ちた。
「ちっ、いまいましいクソ犬め!」
 ワイスが叫び、セイントを振り払った。セイントはひらりと身をかわし、両足でしっかりと着地した。すぐにも飛びかかるべく、身体を低くしてうなり声を上げている。
 だがワイスはピアの方を見ていた。ピアは立ちあがると糸巻きを手に取った。
「……そんなものでどうするつもりなんだ? ぼくを刺し殺すというのか?」
 ワイスは少しも恐れる様子はなかった。それどころかピアが何をしようとしているのか面白がっているようにも見えた。
「……あなたは何? ワイス王子じゃない……」
「何をバカなことを……」
「……何かとりついているんだわ」
 ほとんど直感でピアはそう言った。
「なぜそう思う?」
 ピアが答えようとすると、ワイスが先に口を開いた。
「なぜなら君の身体に流れる血の半分が、ぼくとひとつになりたがっているからだ」
 ワイスはまた優しい表情に戻った。
「……あのとき私が言ったことを無意識に覚えていたのだろう?」
 ワイスの声ではなかった。もっと低い、大人の声だった。
「おまえが望むと望まざるとにかかわらず、私の血を受け入れた瞬間から、おまえは私の花嫁となることが決まったのだ」
 ピアはもう少しで倒れてしまうかと思った。
 すると目の前に立っている男は……あのときの魔物なのか。
「……さ、運命を受け入れるのだ」
 近づくワイスにピアは震えながら糸巻きを自分の喉元へ持っていくことで抵抗した。
「無駄な抵抗なのはおまえが一番よくわかっているだろう」
 その言葉でピアは確信した。彼がピアにおぞましい不死の呪いをかけた魔物なのだ。
「よく考えてみろ。おまえのように醜い姿の女を誰が愛でる?」
「私だけだ。おまえを愛し、崇めたててやれるのは」
 ピアはワイスの方を向いたまま、下がれるだけ下がった。後に目をやるまでもなく、もう後がないのはわかっていた。頬をなでる心地よい海風。
「ピア様!」
 ワイスははじめて慌てたようだった。入り口にトネリが立っていた。次の瞬間、トネリは手にしていたスープ皿を落とした。
「トネリ、逃げて!」
「ピア様、それに……ワイス王子、あなたさまはここで何を?」
 トネリが言葉を切る前に、ワイスは驚くべき早さでトネリの首を右手でつかんだ。
「運が悪かったな」
 ピアはワイスのしたことが信じられなかった。あまり力のなさそうな細い手が、トネリのがっしりとした首をひねり、骨の折れる音がした。その音はまるでトネリの死の瞬間を告げるかのようだった。
 声のしない悲鳴をピアはあげ続けた。頭の中が真っ白になり、ワイスに飛びかかろうとしたのか、倒れようとしていたのか、とにかく身体が前に傾いだ。
 そのときふたたびピアの前に飛び出してきたのがセイントだった。
 ピアは我にかえった。
「どうした? 私が憎いのだろう?」
 まるで糸くずをはらうかのようにトネリの身体を投げ出して、ワイスはピアの方に向き直った。
「……まさか、そこから落ちて死ぬつもりか? 岩に打たれてさらにおぞましい姿になるだけだ。おまえは死ねないのだから」
 ピアはわずかな窓枠に足をかけた。はるか下に岩に打たれてしぶきをあげる青黒い海が見える。ピアは恐ろしさに足がすくむかと思ったが、恐怖よりも強い感情があることをはじめて知った。
「……死にはしない。おまえを倒すまでは」
 自分でも驚くほどしっかりした声音だった。
「私を倒すだと?」
 ワイスは笑った。そのぞっとする笑い声にもピアはひるまなかった。
「この不死の身体で、いつかおまえを倒す方法を見つけてみせる。そのときおまえははじめて後悔するのよ、私の存在を」
 ピアは微笑みすら浮かべて、ワイスの前から姿を消した。
 セイントもひるむことなく、その後を追って海に飛び込んだ。