第三の剣 第2章
作:社長





第2章  王子の物語





「お、おい、フォンだろ? ど、どこ行くんだ?」
 フォンは自分が呼びとめられていることに気づかなかった。
「おい、フ、フォン?」
 誰かに行く手をはばまれ、ようやく自分のことだということに気づく。自分でつけたにもかかわらず、いまだにフォンという名には慣れなかった。
「ああ、スライか。暗くてよく見えなかったんだ、ごめん」
 スライは夜だというのにあいかわらず大汗をかいていた。その巨体を動かすにはかなりのエネルギーを消費するのだろうが、もう一つ彼はその巨体に似合わず非常に恥ずかしがりやだった。だから誰に何を話しかけるにしろ、常に緊張のあまり汗をかいてしまうのだ。
「……スライはどこに行くんだ? まさか、あの花の館…なわけないよな」
 フォンの問いにスライは短い首がちぎれるのではないかと思うほど、激しくかぶりを振った。
「あ、あんな、バチあたりなとこ、い、行くはずねぇ」
 フォンもうなづいた。スライは非常に信心深く、真面目な男だった。ほかの漁師仲間になんと言われようと行くことはないだろう。
「お、おれは、き、教会へ行くんだ。フ、フォンも一緒に行くか? こ、今夜はお祝いだから、ご、ごちそうが出るんだ」
「……いいよ、おれは食べてきた」どこで食べたのかは言わないでおいた。たとえ何もしてこなくても、娼館に足を踏み入れたと聞いただけで、スライが嫌な顔をするのは容易に想像できた。
「か、帰るのか。だ、だったら、シーウィーにメシやっといてくれや」
 フォンは了承し、二人は曲がり角で反対の方向へ分かれた。
 フォンは1年前スライに命を助けられてから、彼の巨体には小さすぎる海辺の家で一緒に暮らしていた。シーウィーはスライが大切にしている犬で、フォンはシーウィーに認めてもらうまでかなり努力しなければならなかったことを思い出し、小さく笑った。


 スライの家、いまではフォンの住みかとも言える海辺の漁師町へ近づくにつれ、城周辺の喧騒や消えることのない灯火が遠ざかっていく。いつもは皆早々に眠りにつくこの国にとってたしかに今日はお祭り騒ぎだった。
 だが、フォンは今夜皆とはちがう意味で動揺していた。
 命を助けられ、身体の傷が癒えてからの半年は、スライたちと漁に出ることが楽しくて、自分がなぜここにいるのかなど考えたことがなかった。
 いや、あえて考えないようにしていたのかもしれない。何かを決意することから逃げていたのかもしれない。思わぬ形で手に入った自由。このまま何もかも忘れて、スライたちと気ままに暮らすことを止める者は誰もいない。
 だが、1週間前、エンヴィ王女の結婚話がフォンの平穏だった生活を破った。もちろん、それはフォンの心の中だけの変化で、スライですら彼の動揺に気づかなかった。
 エンヴィの相手は隣国フォレスの王子――ワイス・オウル・グリーンリーフ、フォンの双子の弟だった。この名前はいやでもフォンに自分の過去を思い出させた。
 フォンの本当の名はフォス・フォレス・グリンリーフ。やがてフォレス国を統治する……はずだった。





 今ではすっかり住み慣れた家に戻り、シーウィーに飛魚を焼いたものを与えると喜んで食べた。犬にしてはめずらしく魚が好きだった。
 フォン、いやフォスは窓から見える月とその真下にそびえる城の輪郭を見つめた。城はまるで昼間のように明かりが灯っているが、こちらから見て右端にある、高い崖の上に建つさらに高い塔だけは、いつも通り暗かった。城は自分の一部ではないようにその塔を無視していた。
 フォスはなぜかその塔が気になった。気がつくといつも見つめていたのか、あるとき漁師仲間のルーマスが言った。
「おまえも悪魔の花嫁の話を聞いたのか?」
 何も知らなかったフォスが尋ねるとルーマスは得意げに話してくれた。8年前に悪魔によって呪われ、醜い姿となった王女ピアが、あの塔の頂上に幽閉されていると。
 ピアのことをもちろんフォスは覚えていた。でも父親からは森の中で獣に殺されたと聞かされた。たしかにあのときウォラ国で国を上げて葬儀が行われたのをフォスも見聞きしていた。
「あの塔の窓に誰かが立っているのを見たやつがいるらしいぜ」
 フォスも目はよい方だが、正直それは嘘だと思った。あまりに高い塔なので、下からではまるで見えない。だが、塔の頂上と同じ高さに見ようとしたら、よほど遠くから見なければならない。そんな位置で、人の区別がつくかどうか疑問だった。
 フォスはさっきプローフェたちにも言ったように自分の目で見たものしか信じなかった。だからその噂話が本当かどうかは信じていない。だが「呪い」という言葉はずっとひっかかっていた。自然と父の最期の言葉を思い出させた。


―― 三本の剣を探せ ――


 フォスは巨大な魔物のように闇にそびえる塔を見つめながら、庭から岩場を降り、砂浜へ出た。穏やかに波が打ち寄せる海は青黒く、地平線のところで闇に溶け込んでいる。
 フォスは命が助かってからはじめて、自ら過去を振り返ることにした。





「おまえもわかっているだろう……あやつは…ワイスはもうお前の弟とは違う……異形のものに……なりはてた……」
 身体中に毒が回り、目や鼻…身体中の穴という穴から血を流し、苦痛のあまり意識が途切れがちな中、フォレス王は何かに突き動かされるように言葉を吐き出した。
 フォスはそのとき正直恐ろしくて逃げ出したかった。だがフォレス王は息子の右腕を信じられないほどの力で掴んでいた。あまりに強く握られていたからか、フォスは父の苦しみが右腕を伝って自分にも移るのではと怖くなった。
「…だが、あれが……タイトの呪いだとしたら……三本の剣が……ワイスを救うかも……しれぬ……」
「タイト?」
「……いいか……三本……剣を…探せ…そ」
 そこで言葉は途切れた。代わりにフォレス王の口から吐き出されたのは大量の血だった。目を見開いた苦悶の表情のまま、二度と動くことはなかった。医者ですら恐ろしさのあまり、彼らを遠ざけて立ちすくんでいた。
 フォスは右手首を掴んでいた力がなくなっていることに気づくと、手をかざし、父のまぶたを閉じた。


 弟が変だということに、フォスは父のフォレス王が殺されるまで、全く気づかなかった。だがあれを異変というのなら、かなり前から変だったということになる。つまりワイスは子供の頃から今と同じく思っていることを半分も語らない性格だった。しかし少なくとも10歳くらいまでは、フォスの行くところはどこにでもくっついてきた。一緒に生まれてきたはずなのにフォスと正反対で全く力がなく、父から贈られたフォスとおそろいの長剣も持ち上げることすらできないくらいだった。なのにフォスとフォレス王が一緒に狩りに行くときには必ず後を追ってきた。負けん気が強いわけではない。ただ一緒にいたいだけなのだ。けれども弟のそういうところがフォスは好きだった。フォレス王はなんとかワイスを鍛えようとしていたけれど、フォスはそれでいいと思っていた。なぜならワイスはとても賢かった。フォスがころんで怪我したときも、手近にあった薬草ですばやく手当てしてくれた。いつも本を読んでいるからか、フォスの知らない遠くの国のことまで、よく知っていた。フォスはワイスの話から遠い外国に思いをはせた。


 フォレス王はフォレス国と隣国ウォラを隔てる広大な森の入り口で、毒矢に当たった。そのとき王とフォスたちは毎年豊饒を祈って神に捧げる大鹿を探していた。とくに立派な角を持った牡鹿を。それは普段の狩りとは違い、神聖な儀式だった。
 あのときワイスに声をかけられなければ、フォスは王から離れることはなかった。
「ねえ、あれ、もしかして大鹿じゃない?」
 めずらしくすばやい動きで馬を走らせたワイスにフォスは思わずついて行った。
 それからすぐに背後で矢が放たれる小さな音と王の短い唸り声が聞こえた。
 戻ったときには矢はすでに王の背中に深々と突き刺さっていた。すぐに家臣たちが集まってきた。王を貫いた矢を見て、皆たちまち動揺した。
「この矢は……フォス様の……」
「違う、兄はずっとぼくと一緒にいた」
 すかさずワイスが答えたが、フォスは聞いていなかった。フォスはぐったりしている王の身体を苦労しながら自分の馬に乗せ、急いで城まで戻った。
 医師に見せて、はじめて矢の先に毒が塗ってあったことがわかった。誰も解毒剤を作ることができず、そうしている間にも王の身体に毒が回っていった。医師によれば、おそらくこの毒は「南国の悪魔」と呼ばれるもので、まず内臓がつぎつぎと腐り、身体中の穴という穴から血が流れ出し、やがて死んでしまうということだった。
 誰もが手をこまねいて、王の苦しむ姿を見ているしかなかった。王妃は倒れてしまい、別室でワイスが慰めていた。フォスは自分の義務であるかのように王のそばからけっして離れようとしなかった。
 そんな中、家臣たちが噂しているのが聞こえてきた。
 王を殺したのはフォスかもしれない。
 最近、フォスは王とたしかにあることで言い争っていた。だが父親を殺そうなんて、誰が思うだろう。フォスは憤怒で身体が燃えるように熱くなったが、何も言い返さなかった。
 夜が明ける前にフォレス王は亡くなった。フォスに謎の言葉を残して……


 そして暗殺の手がフォスに向けられるまで、たいした時間はかからなかった。王の死後、自動的にフォスは王となった。だが戴冠式の前にフォスは家臣たちに呼ばれた。彼らは今まで王を支えてきた者たちで、おおまかに神に仕える神官と剣を振るって外敵を追い払う剣士とに分かれていた。
 口火を切ったのは神官たちを治める最高神官のカウスだった。
「フォス様、われわれはあなたを王として認めるわけにはまいりません」
 その言葉は予想していた。カウスがワイスを王にしたがっていたのは、鈍感なフォスでも知っていた。
「カウス殿、フォス様に何の不足があるのです? これ以上、王としてふさわしい方はいないと思うが」
 一方、フォスの味方となったのは剣士隊長のスピドだった。
 一触即発のにらみ合い。いつしかフォスをはさみ、神官側と剣士側にきれいに分かれていた。フォスはうんざりして思わずため息をついた。
「……やめてくれ、おれは王になるなんて言ってない」
「けれども長子が後を継ぐのは代々の慣わし」
「カウス、あんたはワイスを王にしたいんだろう? だったらそうしょう。だいたい、あいつの方が賢い。おれは政治のことなんて全くわからないし、興味もない」
 フォスの答えを予想していなかったのか、カウスは困った顔をしていた。
「そんなことは不可能です」
「だったら…どうしろって」
「兄さん、あなたが死ぬしかない」
 神官たちの背後の扉が開き、ワイスが姿を現した。するとそれを合図に神官たちが退き、かわりに見たこともない者たちが大勢彼を取り囲んだ。肌の色が黒く、身体を覆う布は腰の周りに一枚だけ。だがその身体は鍛えられ、敏捷そうなのはひと目でわかった。
「南国人だな……ワイス様、あなたがあの毒を…」
 スピドが怒りに声を震わせて尋ねた。だが、それを無視してワイスはフォスを見た。
「争いはできれば避けたい。兄さん、あなたの決意次第で、無用の血が流れずにすむ」
 自分と同じ声が恐ろしいことを語りかけていた。まさか弟の言葉とは信じられなかった。どうにかして弟が首謀者でないと思いこもうとした。そうだ、カウスにそそのかされているに違いない。
 だがこちらを見つめ返す弟の冷静な目つきは、その思いを打ち砕いた。
 そのとき先頭に立っていた南国人の一人がわずかに動いた。スピドは反射的に長剣を相手の喉に振るった。その後は簡単だった。張りつめていた空気は南国人の粗野な槍と剣士たちの長剣がぶつかる音にかき消された。
 フォスはまだ動けずにいた。そんなフォスの状態に気づいた南国人の一人が、対峙していた剣士を力技でなぎ倒し、彼の前に走り出した。
 目の前を誰かが横切り、次の瞬間、その南国人の首は飛んでいた。
「戦を目の前で見たのははじめてでしょうが、目覚めてください! 斬らねば、自分が死にますよ!」
 スピドがフォスの前に立ち、つぎつぎと振りかぶる矛先を器用に圧し返していた。
 足元は血の海だった。周囲に倒れているのは、昨日まで一緒に訓練に励んでいた剣士たち。フォスは震えていた。そう、フォスは剣の腕はたしかだったが、人を殺すことを思って剣を振るったことなど一度もなかったのだ。
 やがてフォスはその仲間の亡骸に握られた剣へと手をのばしたが、まだ躊躇していた。
 だが何かが前に飛び出したとき、フォスは仲間の剣を掴み、前に振り払っていた。フォスの刃はその南国人の腹を裂き、はらわたが飛び出して落ちた。フォスはその光景に青ざめたが、向かってくる矛先を反射的に剣で振り払っていた。


 気がつけば、どちらも数はだいぶ減っていた。不思議なことにワイスは剣を手にすることもなく、数人の南国人の後ろに悠然と立っていた。
 剣士は誰もワイスに手を出せなかったのだ。
「ワイス様、もうやめましょう、やめさせてください!」
 スピドが息を切らしながら叫んだ。
「そなたたちがやめればいい。兄が死ねばそれでいいのだから」
「なぜだ? おれはここを出ていく! それでいいだろう?」
 フォスの言葉にワイスは首を横に振った。微笑みすら浮かべて。
「仕方がありません、フォス様、やるしかない!」
「いやだ!」
 スピドの言葉をフォスは自分でも驚くほど拒絶した。
 するとワイスがはじめてその場から動き、足元で息絶えている剣士から剣を拾いあげた。
「やめろ、ワイス、お願いだ…」
 ワイスはゆっくりと前に進むと、剣を構えるフォスの左腕に斬りつけた。さらに右腕。
 左、右、左……
 浅い傷ではあったが、フォスの両腕はたちまち血で濡れた。
「何をしているのです! フォス様、動いてくれ!」
 スピドらが応援に入ろうとしたが、南国人たちに阻まれた。互いに最後まで残っていただけあって、戦闘能力はほぼ互角だった。
 フォスはどうしても弟に斬りつけることができなかった。力でワイスの剣を叩き落そうとしたが、意外にもワイスは強い力で剣を握り締めていた。その姿は別人としか言いようがなかった。
「……なぜなんだ、なぜ、急に」
「急? 急なものか……兄さんが気づかなかっただけだ……こんなことはどこの国でもよくあることだよ」
 出血のせいか、フォスの両腕がしびれていく。剣を握る手に力が入らなくなってきた。
「おかしな話だと兄さんも思うだろう? 先に生まれたというだけで、何もかもを手に入れるなんて」
 つぎの瞬間、両腕に衝撃が伝わり、フォスの剣が叩き落された。驚く間もなく、胸の前をワイスの刃がかすり、フォスは背後へ飛びのいた。
「死ね」
 つぎは避けられなかった。よく砥がれた刃の部分がフォスの左肩を深く切り裂いた。
 経験したことのない痛みと衝撃にフォスは声にならない悲鳴をあげた。
「でないとお前は必ず私を倒しに戻る」
 死の恐怖にとらわれはじめたフォスにはそれが弟の声なのかわからなかったが、どうでもよくなった。倒れて、目を閉じて、この悪夢を終わらせたかった。
「そうだ、運命を受け入れよ」
 ワイスが剣を頭上に高々と振り上げたのを見て、フォスはこの場にはふさわしくない感動を覚えていた。弟は賢くて、おまけに強くなった。自分よりもうまくこの国を統治するかもしれない。
 力で?
 恐怖という名の圧力で?
 フォスはのろのろと頭を振った。それは許せなかった。もしかしたらフォレス王は歓迎したかもしれないが、フォスは嫌だった。
「あなたたち、何をしているのです?!」
 王の間から出てきたリーフ王妃の声だった。だがフォスはワイスから目をそらすことができなかった。
「……ああ、なんてことなの……血、血の海だわ!」
 夫の死の悲しみから完全に癒えていない王妃にこの光景に耐えろという方が無理だった。母の倒れる気配を感じた瞬間、ワイスは駆け出していた。やつれ、すっかり面離れしてしまっている母の身体をワイスは支えていた。
「今のうちです、逃げて」
 スピドがフォスの腕の下から手を入れて、立ちあがらせた。
「いやだ、今、逃げるのは…」
「今のあなたにはむりだ! それに逃げることにはならない」
 自らも傷を負っているというのにスピドはほとんど自分だけの力で、フォスを抱えて階下へと降りていく。フォスはなすすべもなく、連れられていくしかなかった。
「あとで必ず戻るのならば、逃げることにはなりません!」
 南国人たちがなにごとかわめいている声がどんどん近づいてくる。馬舎にたどり着くと、スピドはフォスをスプリントの背中に乗せた。黒いたてがみの白馬スプリントは、背中にいる主人の異変を察知し、怯えていた。
「スプリント、お前だけが頼りなのだ。あの森を抜けろ、獣よりも早く走るのだ」
 スピドはスプリントの顔を両手で挟み、言い聞かせると、尻を強く叩いた。スプリントはいななき、駆け出した。
「……スピド!」
 いつもは自分の足のように自在に動くはずの愛馬の背中にただしがみつき、フォスは遠くなる馬舎の方を振りかえった。南国人たちが追いついたのか、馬たちの鳴き声がつぎつぎと聞こえた。





 水音が、フォスを現実に引き戻した。
 両手はあざやかに思い出した記憶のため、細かく震えていた。視線を両手から音の方へ移す。静かな海があるだけだ。
 いや、何かが動いている。
 フォスは砂浜を走った。ちょうど塔のある崖下の辺りに波とは違うものが動いていた。
 誰かが落ちた? 溺れたのか?
 近づくにつれ、誰かが、誰かを引っ張っているのがわかった。フォスはどんどん海の中へ入っていった。
 追いついてみると大きな犬だった。その口は服の襟をくわえている。もちろん服を着ている女の方を助けようとしているのだ。
「よし、おれも手伝う。だから、それを離すんだ」
 犬は言葉がわかるのか、すぐに口を離した。フォスは女をはがいじめするように後ろから片腕を回した。溺れた者によくあることだが、しがみつかれるとこちらまで溺れてしまうので、それを避けるためだった。
 だが、そんな心配は無用なのはすぐにわかった。女はぐったりしていて、長い髪が波に揺れていた。手を離せばたちまち沈んでいってしまうだろう。
 フォスは犬に誘導されるように急いで浜まで泳いだ。足がつくようになって、女を抱えてみるととても軽くて驚いた。長い髪が顔にからみついており、よく見えないが、フォスとたいして歳の離れていない少女のような気がした。
「おい! おい!」
 少女を砂浜の上に横たえたとたん、月が雲間に隠れ、暗くなった。犬が海水のしずくを落としながら、心配そうに彼女とフォスの周りをうろついている。
「おい!」
 今度は呼びながら頬を何度か軽く叩いた。そのときざらりと妙な感触を手のひらに覚えたが、気にしている場合ではなかった。
 フォスは思いきって少女の胸のあたりに耳をあててみた。かすかに心臓の音が聞こえるような気がしたが、あくまで気のせいかもしれない。
 死んでいるのだろうか。でもできるかぎりやってみようと思った。
 月明かりがなくなってしまったので、どこに少女の口があるのかもわからなかった。フォスは手探りでそれを探し当てると、自分の口をつけて、大きく息を吹き込んだ。
「ゲホッ…」
 三度目で、少女が水を吐き出し、フォスはほっとした。そばにいた犬が駆け寄り、少女の顔をなめた。
 まだ苦しいらしく、横を向いたまま、咳き込んでいる。フォスは背中をなでてあげた。
 ようやく息が整ってきたのか、少女が顔を上げた。と同時に隠れていた月が姿を現し、彼女の顔を照らし出した。
 フォスは思わず息を呑んだ。