第3章 交錯する運命
作:社長








 何かの見間違いかも。
 そう思い、フォスはさらによく見ようと少女に顔を近づけたが、その動作が途中で凍りついた。
 これは……人間なのか。
 じつに異様な風貌だった。彼女の顔には相反する二つのものが同居していた。
 信じがたい美しさと目をそむけたくなるような醜さ。
 それがちょうど顔の真中できれいに分かれている。
 右側は……とにかく美しかった。
 上等の真珠や新鮮なミルクのような乳白色の肌、大きく見開かれた瑠璃色の瞳、まだ血色が戻っていないが、ふっくらした形のよい唇。濡れて砂にまみれてるため、今はひどいありさまだが、乾けば風に波打つであろう白銀の豊かな髪は、月の光に輝いていた。
 そして……左側は……右側が美しいためにことさらおぞましさを増していた。
 死人のように血の気の抜けた青白い肌。左目の辺りから顔の外側へ向けて青黒いあざのようなものがまるで呪いの紋様のように走っていた。年寄りのように水気を失った皮膚はところどころひび割れ、まるで鱗のように見える。
 左目の瞳だけは右目と同じきれいな瑠璃色だった。その瞳がフォスに焦点を合わせたのにフォスも気づいた、とたん――
「きゃぁ!」
 かすれた叫び声が聞こえ、フォスの目に何かが飛びこんできた。少女が砂を投げつけたのだ。
「うわっ!」
 彼女がよろめきながら砂浜をかけていくのを気配で感じ取ったが、フォスは目を開けられない。
「…ま、待てよ!」
 ぼろぼろとこぼれる涙にまかせ、フォスは砂を出そうと何度もまばたきした。
「こ、来ないで!」
 混乱してうわずってはいるが、普通の少女の声だった。
「セイント、こっちへ、一緒に来るの!……セイント?」
「ワオン」
 犬の両足がフォスのひざに乗りあがったのを感じた。フォスはやっと目を開けることができた。犬の濡れて光る黒い瞳が彼を見上げていた。
 フォスは顔を上げ、少し離れたところに立つ少女を見た。
 両のこぶしを握り締め、細かく震えているその小さな身体はとても魔物には見えなかった。
「……もしかして、君は」
 自分でそうつぶやいたとたん、フォスの中ですべての事象がつながった。
 魔物の血に穢され、呪われた王女。
 一方、少女の方もフォスを見て、口を開いた。
「……あなたは…ワイス王子じゃ……!」
 王女の言葉が途切れた。





 フォス王子……ワイスの双子の兄。
 息を吹き返し、ふたたび目にした相手をピアはてっきりワイスだと思った。だからとっさに砂を投げつけ、逃げた。
 だが何かが違う。自分を助けてくれた。心から心配したまなざしで、見つめていた。
 そしてピアは今確信していた。
 目の前にいるのはフォスなのだ。その証拠に左耳の下に赤い星のようなあざがある。
「……ピア王女だろ?」
 ピアはやや顔をこわばらせたまま、うなづいた。
「……フォス王子でしょう?」
 なぜ生きているのだろうと思いながらピアも聞き返した。
「……おれを知ってるのか?」
 ピアはその質問には答えられなかった。塔の上から毎日見つめていたことを。
 会って話をしたい、それはある意味現実にはなりえないからこそ、ピアは夢見ることができたのだ。それなのに今こうして残酷な形でその夢はかなってしまった。
「やめろ、血が…」
 フォスに言われて、ピアは自分が無意識に唇を噛んでいることに気づいた。
「……血は、赤いんだな」
 何気なく言ったつもりだろうが、フォスの言葉にピアは傷ついた。唇ににじんだ血の味も苦かった。
 乾きかけた髪を潮風がなで、ピアの顔の周りで踊った。反射的にピアはいつものごとく髪で顔の醜い部分を隠そうとしたが、いまさら遅いことに気づき、投げやりに手を下ろした。
 そして彼に背を向けて走り出した。
「…え? おい?」
 フォスが砂を踏み、追いかけてくる気配を感じながら、ピアは走った。
「ちょっと、待てよ!」
 速かった。すぐに追いつかれ、左肩をつかまれた。冷たい肌に彼の手の温もりを感じながら、ピアは振り向いた。
「離して!」
 フォスの驚く顔を見て、ピアはさらに叫んだ。
「なぜ、追いかけるの? 私のこと気持ち悪いと思っているくせに!」
 ピアはフォスの手を振り払い、彼に背を向けた。気持ちが昂ぶり、自然と涙が浮かんできた。
「……塔の上から飛び降りたんだよな?」
 フォスはピアの言葉に激するわけでもなく、こう尋ねた。
「……何かあったんだろ?」
 ピアはわずかに振りかえった。フォスの表情は堅かったが、彼女が今までに遭遇してきたあからさまな嫌悪や恐怖は見られなかった。
 だがピアはフォスを信じてしまうことが怖かった。彼だってワイスのように変貌しないともかぎらない。
「……私、なにがなんだかわからないんだけど……これだけはわかってるの」
 自分が口を開いたことで、表情をやわらげたフォスを見つめながらピアは険しい表情で告げた。
「ワイスは……私を呪った魔物だから……倒さなきゃ」





「ワイスが…」
 フォスはそうつぶやいただけだった。
 ピアはまだ混乱した頭のまま、少しづつ考えはじめた。この人は知っているのだ。そう、彼にも何かあったことはたしかなのだ。光の的に姿を現さなくなってからの1年間。そしてワイスの言葉。
「ワイスが……あなたはお父様と一緒の病で死んだと言っていた」
 ピアの言葉にフォスは首を横に振った。
「おれは……ワイスに殺されかけたんだ」
 フォスは左肩を押さえて顔をしかめた。何かを思い出しているような顔だった。
「でも逃げた……そして、今も……逃げ続けてる」
 しかめ面がやがて泣き出しそうな表情に変わったので、ピアは驚いた。
「おれは……弱虫だ」
 ピアがどう言葉をかけてよいのかわからず戸惑っていると、フォスの表情が急に変わった。ピアも振りかえり、フォスの視線の彼方を見た。浜辺に沿って立ち並ぶ民家の暗い輪郭、その向こうからもれている明かりがどんどん強くなってゆき、同時に大勢の足音が近づいてきた。
 ピアは恐怖に身がすくむのを感じた。城の者たちだというのはなんとなくわかった。そして自分を案じて探しにきたのではないということも。
 ピアは急に手を引かれた。
「こっちへ」
 フォスに引っ張られるまま、ピアは砂浜を走り、木陰に隠れるようにして続く小道を登った。たどり着いたのは誰かの家の裏庭だった。波に洗われ丸くなった岩を重ねて造った粗末な家はこの辺りではみな似たり寄ったりのようだ。
 ココナツの細長い葉をそのまま使った日よけを上げ、フォスは家の中へ入り、ピアを招き入れた。ピアは戸惑い、中を観察する余裕もなく、ひたすらフォスの顔を見た。
「だいじょうぶ、ここはおれの部屋だから」
 だが、外の騒がしい声はだんだんと大きくなっていった。
「ちょっと外の様子を見てくる」
 出ていこうとするフォスの服をピアは思わずつかんでいた。
「……必ず戻ってくるから」
 暗くて表情はわからなかったが、フォスの声に安心したピアはうなづいた。


 取り残されて、不安になったピアの足元をセイントが触った。ピアはしゃがみこみ、セイントに抱きついた。
「……私、どうすればいいんだろう」
 もちろんセイントからの答えはない。ピアは苦笑した。
「バカみたい。『おまえを倒してやる』なんて言ったけど、こうして一歩外に出たとたん、自分の姿を見られることにおびえて……」
 語尾が震えてきた。
「ひとりじゃ何もできないのに……」
 ピアは必死に涙をこらえた。泣くことは今の境遇をさらにみじめなものにするだけのような気がした。
 セイントがピアの頬を舐めた。ピアは目にたまった涙を拭うと、微笑んだ。
「……ん、そうだよね、私はひとりじゃない。おまえがいるもんね」
 それに……
 ピアはフォスが出ていった方を見つめた。





 フォスが外へ出てみると、小さな通りは人であふれかえっていた。家の前には眠りをやぶられて、まだ眠そうな顔をしている住民達がいぶかしげに兵士達を見つめていた。
 兵士達も今日はおそらく宴に参加していたのだろう、中断されてあきらかに不満気な顔をしていた。たいまつを持った手をやたらに振り回す者がいて、それを目にした子供が怯えて泣きだした。
 この隊を統括しているのか、一人だけ色の違う立派な鎧を着けた男が、数軒手前の家の前で家主に話かけていた。フォスは向かいの家の前に顔見知りの老人が立っているのを見つけ、声をかけた。
「何があったんだ?」
「……おお、フォンか。何がなんだかわしにもようわからん。が、あの話はどうやら本当だったようじゃな」
「……あの話」
 とっさにフォスの表情がこわばったが、それに気づくこともなく老人は話を続けた。
「あの塔のてっぺんにはやはり魔物がいたのだよ。さっき……その姿を見た侍女が殺されたらしい。それを追いかけたワイス王子が、やつが塔の窓から飛び降りたのを見たそうじゃ。……おそらく浜からこの町へ逃げ込んだに違いないとな」
「…な…んだって?」
 フォスの頭の中は完全に混乱していた。
 ワイスは……いったい何を考えているのか。
「おそろしいことじゃな。わしゃぁ、これから聖水をもらいに行こうと思うとるんじゃ。玄関前にまいとくといいらしい……おや?フォン、帰るのか?」


「ピア!」
 貝殻をつなげて作った御簾で隔てられただけの自分の部屋にフォスは飛びこむようにして戻った。
 ピアは困ったような顔でフォスを見て、その目を足元へ移した。ピアの足元でセイントが姿勢を低くして、臨戦体制に入っている。セイントとにらみあっているのは小さな犬、シーウィだった。
「しーっ、シーウィ、頼むからケンカしないでくれ! 彼女たちは敵じゃないって!」
 フォスはシーウィの背中をなでて、必死でなだめた。シーウィは今にも飛びかかりそうな姿勢をほどいたが、まだ二人を疑ってかかっていた。
「……外はどうだった?」
 窓を背にしているため、わずかな月明かりが照らすだけのこの部屋ではピアの表情は全くわからなかった。だがその声はかすかに震えていた。
 フォスもすべてを信じたわけではないが、聞いたことを正直に告げた。
「……君が…侍女を殺して…この町へ逃げ込んだとワイスが言っているらしい」
 薄闇の中でピアの影が動いた。
「ひどい…! 違うわ! トネリを……殺したのは…あの人よ!」
「……ワイスか」
 ピアは答えなかったが、それが充分答えになっていた。
「ごめんなさい、あなたの弟なのに。でも……信じてもらえないかもしれないけど、本当なの」
「……信じるよ」
 フォスはうなづいた。自分を斬り殺そうとしたときの弟の表情を思い出しながら。
「でも……あいつも……元から魔物だったはずはないんだ」
 幼い頃、重い剣をひきずりながら自分と父の後をくっついてきたワイスの無垢な顔。その思い出はフォスの胸を締めつけた。
「……そういえば、父が言っていたんだ……タイトの呪いかもしれないと」
「……タイト? ……それが魔物の名前なの?」
 フォスは首を横に振った。
「わからない。でももう一つ言っていた。三本の剣を探せ……って」
「……三本の剣」
 ピアはかみしめるようにその言葉をつぶやいた。フォスは灯りをつけようと油を探した。彼女ともっと話をする必要があった。彼女はフォスの知りたいことを知っていた。そしてフォスも彼女の知りたいことを知っている。
「おれたちは……会うべくして会ったのかもしれない。神のご意志なんだ、ワイスを…弟を救えと」
 フォスは自分でそう言って、本当に弟を救えるような気がしてきた。だがその高揚した気分をすぐさまピアの言葉が突き落とした。
「……神様なんていないわ」
 フォスは言葉を失った。その声に彼女の長い間の苦しみと絶望を感じ取ったからだ。
「フォス……あなたは神様を信じてるの?」
「……いや」
 あらためて聞かれ、フォスは恥ずかしくなった。普段は目で見たものしか信じないと言っているくせに、こういうときだけ都合よくその名を口にするなんて。
 けれどもフォスは難しいことを考えるのが苦手だった。神がいるのかいないのかなど、この際どうでもよかった。自分の数奇な運命と彼女の呪われた運命はたしかにどこかで交錯しているのだ。
「でも……おれたちの目的は同じだろ? 三本の剣を探しに行こう」
 薄闇の中で、ピアが顔を上げた。
「……一緒に?」
「もちろん。この騒ぎが収まったら、急いで出発するんだ」





 フォスの申し出が嬉しくて、胸がいっぱいになり、ピアはなかなか返事ができなかった。
「……ピア?」
 その沈黙をドアを開く音がやぶった。フォスが玄関の方を振り返る。
「フ、フォン、い、いるんだろ? なんで、真っ暗にしてるんだぁ?」
「……スライ」
「フォン?」
 ピアは驚いた。てっきりフォスが一人で住んでいるものと思いこんでいたからだ。
 だがふいの闖入者に驚いている間もなく、向こうの方がわずかに明るくなった。ピアの鼻を生臭い匂いが突いた。それは魚の油に火がつけられた匂いだった。
「ス、スライ」
 フォスの声もあきらかに動揺していた。灯りはすぐに近づいてきて、大きな右手に灯油が入った貝殻を持ったスライが御簾を上げて部屋の中へ入ってきた。
 大きな男だった。ピアは凍りついたように動けず、スライを見つめ返すだけだった。
 一方、スライも口をぽかんと開け、彼女を見つめていた。
「なっ、なっ……」
 そして言葉にならない声を出したスライの表情はみるみる歪んでいった。額よりぐっと落ち窪んだ小さな目をしきりにまたたかせていた。ピアは最初この男に殺されるのではないかと思ったが、すぐに勘違いだとわかった。
 なんとスライは泣き出したのだ。
「フ、フォン、おめ…!」
 怒りなのかわからないが、身体を小刻みに震わせて、傍らにいるフォスをにらんだ。
「お、おめえが、そ、外で、何をしてこようと、かまやぁしねえ。け、けど、おれの、神聖な、い、家に、お、女を連れ込んだのか!」
 フォスは目を丸くして、ピアを見た。ピアも何がなんだかわからず、彼を見返す。
 だが、ふいに気づいて顔に触れた。そうだ、髪で左の醜い部分は隠れていたのだ。それを言うなら顔と同様に青ざめ、醜いあざが浮かびあがっている左の手足はむき出しだったのだが、そういう部分は案外顔ほどとっさには気づかないものなのかもしれない。
 つまり、スライはピアの異様な部分には全く気がついていなかった。
「さ、さあ、で、出ていけ!」
「ま、待ってくれよ、スライ! 彼女はそういう女じゃない!」
「んじゃ、何なんだ?」
「……な、何って……」
 フォスたちのやりとりをよそにピアは急に奮い立った。人の目を恐れることはない。要は問題の部分を何とかして隠せばよいのだ。おそらく真実以上にピアは呪われた自身の姿を過大視してしまっていたのだった。長い間人の目から隠されてきただけに。
「ごめんなさい。夜明け前には出ていくわ」
 ピアの落ちついた言葉を聞いて、スライ以上にフォスの方が驚いているようだった。
 しかもピアは明るくなった室内でとっさに目についたフォスの寝台にあった布を身体に巻きつけていた。おかげで二人にはピアの右の顔しか見えていなかった。
「……そうだ…夜明け前には出て行く」
 フォスはまだ驚いた顔でピアを見たまま、つぶやいた。スライも興奮がおさまったのか、ぼんやりとピアを見つめていた。
「……あ、あんた、キ、キレイだな」
 スライは自分でつぶやいた言葉にあわてていた。とたんに顔が真っ赤に染まり、額に目に見えるほど大量の汗がどっと吹き出した。
「きれい? 私が?」
 ピアははずかしさよりも戸惑いの方が大きかった。自分がどんな姿をしているのか、ピアははっきりいってよくわかっていなかった。あの悲劇以来、人の言葉や態度で彼女は自分の姿を判断してきたのだった。塔のせまい部屋の中にもじつは鏡があったのだが、ピアは一度も見たことがなかった。いや、見ようとしなかったのだ。
「……スライ、おれも彼女と一緒に行くんだ」
 スライはきょとんとして、フォスを見返した。
 ピアは思った。このスライという男はあまり頭はよくないのかもしれない。でもそれだけに純真な印象を受けた。
「そ、そっか、…あんた、フォンの大事な人…だったのか。わ、悪かったな、おれ、ひどいこと、言った」
 ピアはあわてて首を横に振った。
「お、おめが結婚するって言ったら、み、みんな喜ぶ。そ、そうだ、ミドンの家の隣に、あ、新しい家を、建てたらいい…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、スライ!」
 フォスがやっと言葉をはさんだ。フォスもわずかながら顔を赤らめ、あわてているようだった。
「……そ、そんなんじゃないんだ。おれ、国へ帰ることにしたんだよ」
「く、国へ?」
「ああ、おれが、この国の人間じゃないのはなんとなくわかってただろ? おれは……国から逃げてきたんだ。でも……やっぱり帰らなきゃいけないんだ。きちんと……決着をつけなきゃ……」
 スライが子供のように顔をくしゃくしゃに歪めていくのを見て、ピアまで胸が痛んだ。
「彼女も……外国人なんだ。だから途中まで一緒に行こうと……な?」
 ピアはスライに嘘をついたことに驚くほど心が痛むのを感じながらうなづいた。
「け、けど、夜明けなんて、は、早過ぎるだろ。み、みんなにあ、挨拶してけや」
 スライが言うと、フォスははじめてつらそうな顔をしてうつむいた。
「……いいんだ、ごめん、みんなには……世話になったって、伝えてくれ」





 城の者が小さな漁師町にまで押し寄せてきたことに人々は動揺したが、思ったよりも早く、彼らは引き上げていった。その理由は全くわからなかった。
 もちろんスライの家の戸も叩かれた。だがスライは城の者たちの質問を笑い飛ばした。
 自分は神に守られているし、神を愛している。
 そんな邪悪な物が自分の家に入りこむはずはない。
 一方、城の者たちも自分たちの頭の中で魔物の姿を作り上げていた。それは腐った息を吐く、毛むくじゃらの大きな怪物のようなものでもあったし、黒い布をまとった骸骨かもしれない。とにかくこの辺の狭い民家におとなしく隠れていられるような代物ではないと皆が思っていた。
 誰からともなく、結論が導かれた。魔物は城の後ろにある暗い広大な森へ逃げ込んだのだと。それは誰もが納得できる話だった。


 そして空は白みはじめたが、ピアとフォスは眠らずにひざを抱えたまま、向かい合っていた。御簾の向こうでは、部屋の隅の小さな調理台でスライが大きな手を器用に動かし、二人の旅の足しになるようにと保存食を殺菌作用がある大きなスハの葉で包んでいた。


 二人はこの辺の者が旅に出るときの典型的な服装に身を包み、朝もやの中に立った。ピアは亡くなったスライの母のものである黒い大きな布で身体をくるんでいた。すそに美しい刺繍がほどこされた布をもらったとき、ピアは躊躇したが、スライはいらないものだと言ってじつに気前よく、ピアに与えたのだった。
「こ、これで、あんたは、神に守られる。か、母さんが、教会に行くとき、かならず着てたものだから」
「ありがとう……」
 神に守られるかどうかは疑問があったが、ピアはスライの気持ちがうれしかった。
「……じゃ、行くよ」
 フォスの姿はピアと違って身軽で、昨夜会ったときからほとんど変わっていないほどだった。ただひとつ違うのは、腰に短剣を差していた。
「……スライ、ありがとう。おれは……命を助けてもらったのに、あんたに何もお礼ができなかった」
 スライは小さな目を細めて、首を横に振った。
「い、いいんだ。おめえが来てから、み…短い間だったけど、た、楽しかった」
 フォスもさびしそうに微笑んだ。
「ま、また、戻ってくるだろ?」
「……それは……」
「戻ってくるわ、ね?」
 ピアは思わず言っていた。この先どんな旅になるのか全く想像もつかなかったが、ピアはフォスにはまたここに戻ってほしかった。
「……そうだな」
 フォスもうなづいた。その青い目は強い意思で輝いていた。


 日中は比較的暑いこの国も朝方は少し肌寒かった。まだ本当に陽が昇ったばかりで、未舗装の漁師町の道から、石畳の商家が続く街並みへ入っても、どこにも人の姿はなかった。
 ピアもフォスも並んで歩いてはいたが、お互い違う物思いにふけっており、黙ったままだった。ピアはいつも塔の上から眺めていた街並みを間近にして、しばらくは自分がどこへ向かっているのか、考えもしなかった。
 だが、ようやく気づき、フォスを見た。
「……これから、どこへ行くの?」
 フォスは眠りから覚めたような顔で、ピアを見返した。
「わからない」
「え? そんな…」
 フォスの頼りない答えにピアはあきれると言うより驚いた。
「……もちろん、フォレスに戻って、城を探してみれば、父が何か書き残してるかもしれない。けど、実際、そこへ行くのはかなり難しい……今は」
 ピアの希望はいっきにしぼんでいった。かと言って、自分にもあてがあるわけではない。
「……あのさ、占い師に会いに行こうと思うんだ」
 ピアは顔を上げた。
「占い師?」
「昨日、会ったんだ。みんなが言ってた、彼女には未来がわかるんだって」
「未来がわかる……本当なの?」
 フォスは首を横に振った。
「本当かどうかわからない。でも剣のことを知っているかもしれないだろ?」
 三本の剣……タイトの呪い……ピアはさきほどのフォスの言葉を思い出した。
「そうね、今はそれだけが……手がかりだもんね」
「ピア、君には何も心当たりがないのか?」
 ピアの表情が自然に硬くなった。
「その…魔物に襲われたとき……君はやつの姿を見たんだろう?」
 頭の奥の暗闇から、何かもやもやした煙のようなものが、沸きあがってくるのをピアは感じた。
 ヒースベリーの実がつぶれて、真っ赤に染まった地面を思い出した。
 いや、それはヒースベリーの果汁ではない。ピアにはわかっていた。
 頭を割られた……ホーリーから流れ出た血だった。