仇討ち
作:AKIRA





 京都の夏の蒸し暑さは尋常ではない。
 萱野三衛門は夏の京都に潜伏してもう三ヶ月にもなる。
 彼には潜伏する理由があった。
 彼は追われている。一人の男に。しかも仇だという。
 三衛門にとっては身に憶えの無い事だった。あの事を除けば・・・


「えやぁぁぁぁ!!」と大きな声と撃剣の音が道場内に響く。
 ここは数ある江戸道場の中でも猛稽古で知られる極新館道場である。
 流派は今時珍しい小野派一刀流である。
 一刀流といえば有名なのは北辰一刀流であるが、この小野派一刀流は北辰流の源流ではあるが、現在数多くの若い諸藩の藩士達は名前が通っている北辰流に流れてしまう為、この現在小野派で修行するものは珍しくなってしまった。
 萱野三衛門はそんな小野派一刀流道場である極新館で塾頭になっていた。
 三衛門は、実に稽古に熱心な男で、昼は木刀に布団地の様な少し柔らかい物を巻き、防具をつけた稽古を夕方まで行い、その後は道場内を蝋燭で明るくし、真剣を振っている。
 道場内では三衛門の他に約二十人程の内弟子と通い弟子が五人程いるくらいで、その内初伝目録を貰っている弟子は約半分程である。
 その目録を貰っている弟子の中に山名藤次郎という男がいた。
 彼は桑名藩江戸藩邸詰めで、禄高は三十俵で無役だった。
 しかし、この幕末のご時世でどの藩も遅すぎる「武技奨励」で藩士は何処かの道場で修行を受ける事になっている。
 それが国許から出た場合、「剣術詮議」であり、幕末の雄桂小五郎(後木戸準一郎、孝允)等はそれになる。
 ちなみに坂本竜馬の場合は少し違い、私費で来ている為、藩からの給金は出ない。
 この山名も藩の要請で剣術をする事になり、極新館の通い弟子になった。
 生粋の江戸っ子でありながら、山名はどこか陰を落とす男だった。
 だが、ひとたび防具をつけ、木刀を持つや顔が変わり、まるで獰猛な虎の如き容貌になる。
 一種の二重人格者だったのかもしれない。
 手を合わせた弟子の中には、二度と手を合わせたくない、といって逃げてしまう者もいたほどである。
 三衛門も始めはこの山名の捌きを見て頼もしく思っていた。
 ある日、三衛門は山名に稽古をつけてやろうと思い、朝から昼まで途中休憩は挟んだものの、殆ど休み無しの撃ち込みをした。
 撃ち込むにつれ、山名の捌きが鋭くなり、ついに三衛門は面を一本取られてしまった。
(くそっ・・・)そう思った瞬間、三衛門は逆上してしまい、篭手を撃ち、木刀を落としてしまった山名に対して、突き、面、胴とたたみかけ、山名が倒れたにもかかわらず、三衛門は背中、側頭部、あるはうなじに叩きこんでいった。
 他の弟子が止めに入った時、山名は気を失っていた。
 弟子の某が山名を介抱しようとして、山名の胴衣を寛げた時、山名の上半身は、痣だらけになっていた。


 翌日から山名は稽古を休み、激しく撃ち込んでしまった当の三衛門も呵責に悩んでいた。
 そんな師匠の姿を見て、この萩岡某という内弟子は山名藤次郎の元に向かう事の了承を得ようと、三衛門に許しを乞うた。
 三衛門は承諾し、手土産を持たせてやった。
 桑名藩邸門で萩岡は、山名への怪我見舞の旨を門番に取りつけ、藩邸内の山名の住宅に通された。
「山名殿、貴殿、何故道場に姿を見せないのですか」という萩岡の顔は少し赤黒くなっている。
「萩岡殿よ、それがしは衆人の中であれほどの醜態を見せてしもうたのが恥ずかしゅうてたまらん」山名は眼に涙を浮かべながら話した。
「師匠も呵責に悩んでおられておいでです。誰もあなたを辱めてはおりませぬ。
 考え直して戴けませぬか」と萩岡は懇願した。
 そんな萩岡の懇願にはさ山名も閉口し、遂にわかった、と受け入れた。
 ただ、と山名は付け加えた。
「ただ、今からでは気が引けます故今夜にでも道場に伺いたいが、それでもよろしいか」と尋ねた。


 萩岡から山名が今夜にでも道場に来る旨を三衛門に告げると、三衛門はそう
 か、と一言呟いた。その表情はどことなく安堵していたようだった。
 三衛門という男は、逆上すれば酷いが、普段は優しい人間のようだ。
 山名が来たのは、弟子がそれぞれの藩邸に戻った頃の宵五つ(午後八時)だった。
 その頃、三衛門はいつも通り真剣で素振りをしていた。
 周りは、蝋燭で灯されている為、外より遥かに明るい。
「来たか」三衛門ほどになれば気配で少しはわかるらしい。
「先生・・・」といったきり、山名藤次郎はうな垂れている。
「どうした?少し乱取りしようか。少し身体も鈍っているだろう」
「いや・・・」
「ん?どうした?そこにかかっている木刀を取って来なさい」
 といって三衛門は太刀を鞘に収め、床の間にある太刀置に置こうとした時、
『何か』が動いた。
 三衛門が振りかえると、脇差を抜いてたっている山名の姿があった。
「血迷うたか!」という三衛門の怒鳴り声で別室で就寝していた弟子達が一挙に起き出したようだ。
 しかし、その三衛門の怒鳴り声に山名は、全く動じない。ただ、眼だけが異常に血走っている。
(やはり、あの事を根にもっていたのか)三衛門は自分のおかした事を後悔した。
 脇差を構える山名の姿は道場内で防具を着けた時より一段と狂気が増している。
 咄嗟に三衛門も太刀を抜いた。
 もう弟子たちは、道場に来てはいたが、誰も足を踏み入れる事は出来なかった。
「わかった。山名、貴様にもう少し図太さがあれば、こんな事にはならかなっただろう。儂もやり過ぎた。それは反省しておる。それだけはわかってくれ」
 と言って三衛門は構えた。青眼、それでいて至極自然体だ。
 声にならない「音」を上げて山名は一挙に間合いを縮めた。
 それに合わせるかのように、三衛門も間合いを取っていく。
 両者は、間合いの取合いで道場内に大きく円弧を描いていく。
 山名は、痺れを切らしたように描いた円弧を半分に断ち割り、脇差を突き出した。
 三衛門はそれを鍔元で受け止め、肩口で山名の躯を押した。
 刹那、山名の躯が開くや、三衛門はそれを逃さず、袈裟懸けに斬った。
 太刀は鎖骨を断ち割り、切先は心の臓まで深ゞと入っていた。
 おい、と弟子の一人を呼び、桑名藩の役人を呼ぶよう、遣わした。
 それから間もなくして、役人、山名の家族がやって来た。
 役人が検分する中、山名の家内であろう女性は慟哭していたが、一人の少年が眼に涙を溜めて、一言、殺してやる、と呟いた。
 三衛門はその少年の眼の中に宿る憎悪を見て、ぞっとした。
 後で聞けば、その少年は山名の息子で、名を弁助、というらしい。
 その後、この極新館道場はやはり北辰流に弟子を取られ、遂に看板を降ろす事になった。


 それから、暫くの間萱野三衛門は他の道場で寄食していたが、清川八郎という男に誘われて京都に上京した。
 勤王志士になったのだ。しかも反幕派である長州藩に身を寄せていた。
 それからは、長くの間勤王志士として活動を続けていたが、新撰組という武力組織が登場してからは身を潜める生活が続いている。
 彼の精神は、すでに限界に達しかけていた。
 当時、長州藩に寄食する勤王志士達にとって新撰組の存在は脅威と恐怖だった。
 しかも彼の場合、仇討ちにも追われている。それも彼の精神を磨り減らすきっかけになっていた。
 ただ、仇討ちに来るだけなら彼も対処の仕様があったが、その彼を付け狙っている仇討ち、というのは新撰組に平隊士として所属している、というのだ。
 当時、新撰組に所属している隊士というのは、皆が皆免許目録を持っていて、しかもその中でも選りすぐられた人間達なので、三衛門程度の腕ではまず殺される事は間違いない。


 三衛門達のような勤王志士はまず、幕府の要人を斃す事から始まる。
 今日も、料亭『陽月』で三衛門達は会議を開いている。
「そういえば、もうそろそろ土佐の武市瑞山先生が京に来るらしい」
 と某が話を切り出した。
 三衛門はそんな中にあって、さほど熱心ではない。いや、それどころではなかったのかもしれない。
 周りはどんどん新撰組に殺されている。
 正面から斬り殺されただけではなく、仲間に扮して不意をつく事もあれば、はたまた寝込みを襲う事もあったという。
 その中で、生き抜くという事がどれほどの精神的負担になるか、想像に難くない。
(この中にもし壬生狼がいるのかも・・・)と三衛門は疑心にかられだした。
 壬生狼、というのは京都の人間達がつけた新撰組の蔑称である。
 それほどこの新撰組という団体は、京都の人間から忌み嫌われていた。
(いや、そんなことはない)と思い直し、酒を飲んだが、やはり気持ちが収まらない。
 三衛門の心の中で葛藤が起き始めていた。
 周りを見れば、皆は夢見ながら楽しく酒を酌み交わしているが、それすらも嘘ではないか、と三衛門は思い始めている。
(いや、こいつらはそんな事をするはずがない)と三衛門は気持ちを落ちつかせようと酒をあおったが、一向に落ちつかない。
(しかし、壬生狼が我々を騙してそしらぬ顔をして酒を飲んでいる事も考えられる。もし、それが、あの山名の息子であったなら)
 三衛門は表情をこわばらせた。
「おい、この事はあいつらには・・」と隣にいた男に尋ねると、
「あいつらって誰だ?」と逆に尋ねられた。
「ほら、新撰組だよ、壬生狼・・・」と言ってしまった、と三衛門は思った。
「壬生狼?まさか、ここに我々がいるなんて思わないだろう」と男は答えた。
(まさか、今俺が口を滑らした事で、もし新撰組がここにいれば、山名の息子がいれば)と三衛門の背中に戦慄が走った。
 三衛門は新撰組の具体的な顔ぶれなぞは知らず、しかも山名の息子の顔も一度少年の時の顔を見ただけで、知らないのだ。
 だからなのだろう、三衛門の中で新撰組と山名の息子がどんどん膨らんでいったのは。
 その時である。
「しかし、山名よ・・・」と三衛門の隣にいた男が真向かいに話しかけた瞬間、
「貴様だったのかぁぁ!!」いきなり三衛門が大声をあげた。
 次の瞬間、太刀を抜いて山名と呼ばれた男に切っ先を向けた。
「な、何をするんだ」と“山名”は切っ先を突きつけられて慄えている。
「貴様、新撰組隊士で、山名弁助だろう」と言う三衛門の眼には狂気しかなかった。
「ち、違う。確かに俺は山名だが、弁助じゃない」と山名は弁明するが、
 狂気に走った三衛門の耳にはそのような弁明など入るはずが無かった。
「うるさい!嘘をつくな。貴様、俺を誑かすつもりだろうがそうはいかんぞ」
「違う。本当に俺は新撰組隊士なんかじゃない」
 周りにいた志士達も、呆然と見守るしかなかった。それほどこの三衛門の狂気は度しがたいものだったのだろう。
「あの時、貴様の親父は、いきなり脇差で俺を刺そうとしたんだ。そりゃ、俺もやりすぎたとは思っているが、あれは仕方なかった」
「何を言ってるんだ?俺の親父は二年前に労咳(結核)で死んだんだぞ」
「やかましい。貴様の嘘に乗せられるほど俺は甘くないぞ。貴様、腕を上げて新撰組に入ったらしいな」
 その言葉を聞いて、周りにいた志士達が一挙に色めきだった。
「う、嘘だ。俺は新撰組になんかは入っていない。本当だ。信じてくれ」
 と山名は泣き出しそうな顔をしたが、三衛門はゆっくりと切っ先を引っ込めた。
 山名が、安堵の表情をついた瞬間、三衛門の太刀は山名の胸を刺し貫いていた。
「山名!!」と一人の男が駆け寄った。すでに山名は事切れている。
「山名甚太郎はな、俺と一緒に肥後藩を脱藩した仲だったんだぞ!なぜそんな男が新撰組なんかに入るか!」
 と駆け寄った男はきらりと太刀を抜いた。
「お前を殺してやる」と男は呟いた。
 瞬間、三衛門の脳裡にあの時の記憶が甦った。
(あ、あの時の眼だ)とおもった刹那、三衛門は逃げ出そうとしていた。
 男は、三衛門の背中を割った。


 後に分かった事だが、萱野三衛門を追っていた山名弁助改め利光は、新撰組に入隊するとすぐに、コロリ(コレラ)にかかり、死んでいる。