Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第1章(前編)
作:きぁ





第1章:クラリス=A=レンブラント(前編)


 「クラリスーっ!クラリス、クラリス!」
 軽快な駆け足の音と共に、その主と思われる少年の声が、白御影石で築き上げられた神殿に響き渡る。
 少年に連呼された少女は、愛らしい仕草で肩を竦めた。確かにここには少女と少年の他に神の言葉を学ぶ者はなく、敢えて厳しく礼儀を教える事もなかったけれど。否、だからこそ、これは少々灸を据えてやらなければならないかな。
「アーナ、出来ればもう少し静かに――」
「クラリス!今日は東の森だよね?僕、ちゃんと言いつけ守ったよ?ヤクの世話もしたし、香草も摘んだよ!さぁ、行こうよ!」
 彼女の咎め立てをアーナと呼ばれた少年は先刻予想していたらしい。息を継ぐことなく一気に捲し立てると、少年は子供らしい強引さで少女の手を引いた。
 少女と言っても、彼女はアーナの遊び相手としては少々年齢が回っている。アーナはまだ村の学校へ通っているが、彼女はとっくに卒業し、この神殿で日々祈りを捧げる巫女だ。そうそう出歩いてもいられなかった。
 彼女――クラリスは困ったように、首を振った。
「ご免、アーナ。今日は行けない」
「何で!」
「父上が街へ出ていらっしゃるんだ。その間の留守はしなくちゃね」
「約束したじゃないか!」
 アーナにしても、この神殿で共に育った彼女の身の上は、当然ながら承知している。だからこそ、不条理な文句のひとつも言いたくなるのだ。
 クラリスは懐に忍ばせた革袋を取り出し、その中から結晶を取り出した。俗に屑石と呼ばれる、装飾品等の加工には向かない“出来損ない”の鉱石だ。
 ぱっと、アーナの頬に赤みがさした。少年の好奇心は移ろいやすく、先程までの不機嫌は消し飛び、すっかりそれに心を奪われてしまっている。
「これをあげる。多分、黄玉だと思う」
「何処で拾ったの?」
「河原。上流から流れ着いたみたい」
「僕、行って来る!」
 言うが早いか、アーナは既に走り出している。
 クラリスはその背中を目で追いながら、苦笑する。結局、注意も何もあったものではない。また今度、この次にはちゃんと叱ろう――。そう思って実行出来ず仕舞いなのは、己が一番よく知っている。
 クラリスは、やんちゃで少々そそっかしい部分のあるアーナを、実の弟のように大切に思っている。心配している。親兄弟の知れないアーナは、この神殿で育った孤児のひとりだった。そして、クラリスもまた――。
「……“風の女神”。どうか、アーナをお護り下さい」
 少女の祈りを聞きとげるかのように、一陣の風が、白の神殿を駆け抜けていった。
 
 岩山をよじ登り、水面を蹴って、身軽に急流を遡りながら、アーナはクラリスの言う河原を目指していた。初春の陽射しは暖かで、水は澄み、渡る風はとても心地良い。クラリスも来られれば、どんなに喜んだろう。
 クラリスは彼の良き遊び相手だが、巫女である以上は無理強い出来ないのはよく分かっているつもりだった。あんな言い方をして、きっと困らせてしまっただろう。大きな水晶を見つけたら、まず真っ先に彼女にあげよう。
 額にうっすら汗をかきながら、アーナは普段の半分程の時間で河原に辿り着いた。そのまま水に飛び込む。火照った身体を、せせらぎが優しく撫でてくれる。
 中州まで泳ぎ、アーナは揺らめく水面の下へ目を凝らした。山育ちの彼の素晴らしい視力は、川底の僅かな煌めきを見落とさなかった。
「あった!」
 バシャン!水飛沫が、貴石の輝きに勝るとも劣らぬ光を放ちながら宙に舞う。アーナは器用に水中に潜ると、目標と定めた位置へ手を伸ばし、小石混じりの砂を両手ですくい上げた。
「へへへ、結構大きいや……、あれ?」
 掌の中には、クラリスが見せたものと同じ種類の、鮮やかな山吹色の鉱石があった。
 だが、アーナの関心は、その鉱石よりも手から零れる雫に移っていた。すくい上げた水が、僅かに紅に染まっていたからだ。
 不思議に思って、上流へ視線を向けた。渓流とまではいかないにしても、山間を縫うように流れるこの川は源流に近く、うっかりすると足を取られる程度には速い。それの出所を掴むことは出来なかった。だが、その紅色が流れ出た地点は確かに、上流にあるようだった。
 動物でも猟師の罠にかかったのだろうか?
 アーナは岩をよじ登った。上流へ向かえば向かうほど、平坦な場所は減り、鋭く削られた肌を露わにした岩ばかりが堆積する、獣道すらない険しい行程になる。気を付けないと足を滑らせてしまいそうになる。故に、滅多に人の寄り付かない場所だった。
「……うわぁぁぁぁっ!」
 ものの数分、岸壁を上った頃。
 アーナはその紅い流れの正体を見出した。
 思わず悲鳴を上げ、数歩後ずさる。
 それから、先程とは比べものにならないスピードで、山を駆け下りた。
 それは、哀れな山の糧ではなく、紛れもない人間の血だった。

 「!」
 意識が肉体に戻ってきた時、最初に視界に飛び込んできたのは澄んだ菫色の空だった。
 そして、春風にはためく純白の衣――。
「……ぁさ……ん……」
 無意識に呟いた言葉。思わず、手を伸ばして掴んだ白く細い腕。
「あ、あの……っ」
 徐々に視界が鮮明になり、青年はハッと手を離した。
 彼が血塗れの掌で掴んでいたものは、夢枕に錯覚したそれではなく、まだうら若い女性の腕だったのだ。
 豊饒の草原を思わせる浅葱色の瞳の少女は、彼を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「気がついた?」
「……は、……ここ、は?」
「待って、まだ喋っては駄目。今、手当を」
 少女は泣き出しそうな表情を浮かべ、彼の唇に、言葉を封じるように人差し指を当てた。
 さらり、淡い小麦色の髪が揺れる。結い上げられたそれが、覗き込む少女の肩からこぼれ、微かに彼の頬を撫でた。
 青年は首を振る。途端、肩口辺りと膝に、焼け石を当てられたような痛みが甦った。斬られた傷だ。相当深いらしい。
 だが、青年はそれを圧して立ち上がった。
「俺は、こんな所に――」
 ……こんな所に、いちゃいけないんだ……。
 言葉は掠れ、足に込めたはずの力が、すっと抜ける。
 瞳に映るものは一気に色褪せ、意識が再び混迷の闇に落ちる。

 「!」
 頽れる身体を慌てて支えた少女は、息を飲んだ。
 とん、と、背中が岩に当たった。そのままずるずると、青年に半ば押さえ込まれるように座り込む。不器用な姿勢のままだったが、意識の喪失してしまった人体は想像以上に重く、それを立て直すことすら適わない。
 カラカラ、乾いた音を立てて足下の小石が転げ落ちる。
 青年を何とか水辺から河岸まで引き上げたものの、女子供の力ではどうにもならず、少女――言うまでもなく、クラリスである――は、アーナを使いに走らせ、自らはそこで青年の目覚めを待っていた。
 しかし、青年の傷は想像以上に深手であったらしく、クラリスが当初目論んだように、彼に介添えて山を下るのはおろか、立ち上がることさえままならぬ状態だった。
 そして、彼女は今、倒れかかってきた青年を抱き締めている。
 腕の中で細く苦しげな呼吸を繰り返す青年を、クラリスは嘗て、何処かで見たような気がする。何処かで出逢った気がする、何処かは分からないけれど、遙か昔に――。
 ふ、と、疑問が口を突いて出た。
「……貴方は、誰?」
 問いかけてみたものの、無論、答えが還るはずもない。
 何者だろう?この人は。
 村の民なら、獣罠を張ったこの谷には無闇やたらに入り込まない。第一、彼女が知る限りでは、この辺りにある村には彼女と同じ年代の青年は、数える程しか残っていない。若人は皆山を下り、街へ出て働いている。子供達は貧しい親元から引き離され、曾祖母や祖父母と共に、両親や兄姉の帰りを待ち侘びている。そしてやがて、彼等を追うように村を出る。
 この辺りの村はいわば、残り幾ばくもない余生を、ただ穏やかに、静かに慎ましく暮らしたいと願う老人達だけが肩を寄せ合う、時の流れを止めてしまった村だ。
 そんな村に一体何故、青年は訪れたのだろう。
 青年の身体に刻まれた傷は、間違いなく鋭利な刃物で斬りつけられて出来たものだ。彼は、誰かに追われているのだろうか?誰かと戦っていたのだろうか?
 クラリスは形のいい眉を顰めた。
 貴方は、誰かを傷付けてきたの?それとも――。
「誰かに……、傷付けられてきたの?」
 さらさらと、野山を渡る風のみが、少女の困惑を、そして微かな予感を乗せて流れてゆく。
 
 応援を呼びに行ったアーナと駆けつけた村人達の手によって、クラリスは青年と共に神殿に帰り着き、それから数時間は数人が交代で付きっきりの介護が続いた。青年の傷は重傷で、村医に診せても彼が助かる確率は五分だと言われた。
 欠けた月が遠くの山陰に消える頃、クラリスは神殿の祈りの間にいた。祈ること、それが今彼女が青年のために成し得る全てだった。
「クラリスー、身体を壊しちゃうよ……」
 アーナが眠そうに目を擦りながら現れ、彼女はそっと微笑み返した。
「大丈夫」
「でも」
 アーナは手にしていた上着をクラリスの肩に掛け、自分も跪いた。
 彼等の前には、両手を胸元で組み、真っ直ぐに天に顔を上げる女神の像がある。自由を象徴する風を司る女神。だが、女神の立像とは言え、それは決して豊穣の聖母像ではなく、瞳は凛々しく見開かれ、虚空に強い意志の力を投げかけている。それは、寧ろ正義の守護者と思しき姿であった。
「アーナ?」
 少年の行動に戸惑い、思わず名を呼ぶクラリスに、彼はその年齢にしては大人びた口調で問い質した。
「僕は、あの人は多分“天上人”だと思う。何となくだけど、分かる。それでも、護るの?」
「……それが、女神様のご意志なら」
「“風の女神”様は、きっと護れって言うだろうね。女神様、“天上”の神様だもんね」
「そうだね」
 頷いたクラリスの瞳に、微かに悲愴の色が挿した。そこには確かに、“天上人”という迫害される者の命運に対する哀切があった。


 “天上”暦1014年、“地球”。

 “聖戦”より一世紀を迎えたその惑星には、“地上人”はもとより、分裂された惑星に馴染めず、家族や友人、財産や地位、そして“天上人”たる誇り、全てを抛って舞い戻った“天上人”達が流れ着き、その人口は、“地球”が抱えきれる限界を越えていた。
 人々に突き付けられた苦渋の選択。自らの滅亡と他種の排除。そのどちらを選択しても多くの犠牲を払うことになる。
 そして、自然の摂理、生物の原理が歪んでしまったこの惑星で、遂に人間による人間の淘汰が始まる。
 “地上人”と”天上人”の対立――嘗て同じ世界に生を受け、万物を共有し合った二つの種族による血塗られた戦の始まりである。

 混迷を極めた争いの末、“地上人”は自らの領域を守り抜き、堕天使たる“天上人”は再び彼等の惑星へ追い戻された。
 天に舞い戻る資格を失い、地に居を構える権限をも剥奪された“天上人”達は、“地上人”から逃れるように、険しい山や深い谷、怪物の潜む森に分け入って、細々と生き延びていた。
 ただ、彼等の信ずるもの――“聖戦の神々”に縋って。


 野山を縫うように駆け抜けた陽射しが、やがて白御影石の神殿にも届き始めた時刻、青年は柔らかな床の上で、奇跡的にも生命を吹き返していた。
 混濁していた意識が、己の身体に脆弱ながらも、徐々に甦る。
 それが鮮明な認識を得、彼は重く閉ざされていた瞳をゆっくり開いた――。
「……?」
 最後に彼が見たものは、確か紺碧の空だった。
 しかし、今彼の目に映るのは、白い天井だった。左手より、太陽光と思われる淡い金色の光を受けて、微かにオパール質に輝いている。石材だ。
 彼は身を起こそうとして、体中に激痛を覚え、そのまま床へ逆戻りした。とても動ける身体ではない。まして、再び剣を握るなど、とても適いそうもないように思えた。
 しかし、彼は再び身を捩った。両手を寝台につき、やっとの思いで上半身を持ち上げる。脂汗がどっと浮かんだ。唇から切れ切れに零れる吐息は、既に数里の道程を駆けた程に荒く熱い。
 ここが一体何処なのか、それは分からない。
 しかし、彼には留まることは許されない。
 行かなくては。“彼”の手の届かない何処かへ。
 そして……。
「!まだ起きては駄目!」
 悲鳴にも似た制止の声が飛び込んできたのは、その時だった。
「どうしてそんな無茶をするの?」
 つかつかと歩み寄るその姿に、青年は息を飲む。
 幻だと思っていた――。
「そんな事しないで」
 彼女は彼の傍らまで半ば駆け寄り、それから彼をじっと見据えて言った。
「お願いだから、死にたがらないで」
「……君は……」
 青年の問いかけを皆まで聞かなくてもすぐに理解したらしく、少女は初めて、彼に向かって微笑んだ。
「私は、クラリス。ここは、貴方がいた森からすぐの神殿」
「……クラ……リス、頼む。俺に……」
 関わるな、そう告げようとした青年を寝かしつけ、クラリスは首を振る。
「駄目よ。今の貴方は、放っておいたら死んじゃうわ」
 先程同様、まるで青年の心を見透かしたような答えが返ってきて、彼は驚きに僅かに目を見開いた。
 心を見透かす?――心が分かるのか?言わなくても?
 まさか、彼女は……。
「貴方の名前、聞いてもいい?」
「……カイル」
「そう、カイルね?」
 満足げに頷き、彼女は毛布を掛けながらカイルにきっぱりと告げた。
「ここにいれば安全。誰も貴方を傷付けない。だから、せめて傷が治るまで大人しくしていて?」
 そして、クラリスはそのまま出ていってしまった。
 青年は、少々呆気に取られ、暫し彼女が出ていった扉を見つめた。
 鍵は部屋の扉に付いていたが、それは内鍵で、無論開いたままだった。誰かが見張っている気配もない。ベッドサイドには腰の高さほどの窓があって、朝日に揺らぐ木陰が初春の緑青の影を落としている。彼がその気になれば、いつでも出て行けるという事だ。
 たった今、無理に起きあがろうとした彼を、クラリスと名乗った少女は目撃している。
 傷が癒えるまでここに留まると、信じたのか?
「……クラ、リス……」
 掌を天井に向かって差し上げ、美しい少女の名を呟いてみる。彼のその手を取ったのは、確かに彼女だった。
 ……幻だと思っていた。
 “女神”が、俺に手を差し伸べたのだと思っていた。死を、滅亡の安らぎを与えてくれるのだと思っていた。
 それなのに――。
 振り上げた手で顔を覆い、青年は唇を噛み締めた。これでもか、という程。
 己の存在を悔いる気持ちと、それでもなお生に縋り付いている傲慢さ、その狭間で葛藤する心を押し潰すかのように。
 
 「クラリス、嬉しそうだね」
「え?」
 アーナの言葉に、クラリスは振り返った。
 部屋を出た彼女を待ち伏せしていたのだろう、アーナは着替えてくると言った先程の寝間着姿のままだった。
 少年の、いかにも子供らしい嫉妬が垣間見え、彼女は苦笑する。昨日以来、青年の看病に没頭していた為、アーナと交流する時間を得ていなかったのは事実だった。
「そう?」
「そうだよ。クラリス、あの人が好きなの?」
「好き、って……」
 あまりにストレートな質問に、思わず言葉に詰まってしまった。
 そんなクラリスの沈黙を、少年は曲解した。冷めた視線で彼女を一瞥し、アーナはサッと踵を返して駆け出した。
「あ、アーナ?」
「クラリスの馬鹿!僕はどーなっても知らないからねっ!」
「アーナ!」
 背中に呼びかけた声だけが、空しく廊下に響いた。
「……好、き……?」
 クラリスは小さく呟き、自分の胸に手を当てた。
 胸元に下げられていた六芒星を描いた首飾りを握り、彼女は眼差しを出てきた扉へ向けた。
「……どうして……?」
 瞳を閉じて、クラリスは最初に青年――カイルに出逢ったときの事を思い出した。
 彼と出逢ったのは、初めてではない気がする。
 どうしてだろう?
 あの時と同じように、早春の漣のような微かな予感が彼女に押し寄せ、そして、淡雪のようにすぅっと消えていく。