Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第1章(後編)
作:きぁ





第1章:クラリス=A=レンブラント(後編)

 大丈夫、大丈夫。そう、大丈夫……。
 己を鼓舞する言葉を、クラリスは胸の内で繰り返し呟いた。
 彼女の目の前には客間の扉があり、そしてその向こうには青年――カイルがいるはずであった。青年の傷は一晩眠った位で癒えるような軽いものでは決してない。例え意識を取り戻したにせよ、数週間は絶対安静にしていなければいけない、と村医は言った。傷口の縫合は出来たとは言え、きちんと治療し続けなければ、またいつ血を吹き出すとも知れない深手のもの。何より、大量出血をもよおした後らしく、その体力の低下は医師ですら目を覆う程であったらしい。しっかりとした栄養を付け、療養を続けなければ、すぐに倒れてしまうのは火を見るより明らかだった。
 クラリスは、ドアノブに掛けた手を、躊躇って一度放した。あんなに大見得を切ってはみたものの、ドアを開けて、彼が部屋に留まっているという確証は無かった。もし彼が出て行ってしまったら、その責任はやはり自分にある。みすみす見殺しにしたようなものだ。誰も彼女を咎めはしない、それどころか、彼女の行為に敬意すら表するであろう。しかし、彼女自身が己を責め続ける。それは言うまでもなく苦痛だった。
「……カイル?」
 ドアの前で数刻逡巡を繰り返した挙げ句、声をかけてみた。それが一番自然なような気がしたからだった。
 返事はない。
 まさか――。
 焦燥感を掻き立てられ、クラリスはドアを開けた。
「……!」
「……おはよう」
 ベッドの上で上半身を起こし、片手に分厚く巻かれた包帯を忌々しげに見つめていたカイルは、彼女に気付いて顔を上げ、決まり悪そうに小さく呟いた。
 その姿を見出して、クラリスの方が言葉に詰まってしまった。
 『おはよう』。そう、朝なんだから、おはようって、答えなきゃ……。
 焦れば焦るほど、唇は凍り付いたように動かない。
 本当は他に言葉があるはずなのに。言わなきゃいけないことが、沢山あるはずなのに。そう、起きられて良かったね、とか、もう大丈夫?とか、何だってあるのに――。
 幾ら考えても、巧い言葉がどうしても見つからなくて、クラリスは結局、小さく応えるのが精一杯だった。
「……お、はよ……」
 声が上擦っていたのを、自分でも自覚していた。
 気付いた時には、クラリスはそのまま部屋を飛び出し、ドアを閉めていた。
 ひどく鼓動が速い。ドアについた両手は、彼女の感情の変化に幽かに震えていた。
 ゆらり、と、自分の指が、ドアが、目にしているものが、凪の海を一陣の風が抜けたように、滲んで揺れた。
 驚いて、火照った頬に手を当てる。
「あ、あれ……?」
 細い指先を、暖かな雫が伝い落ちていく。
 純白の僧衣にそれがゆっくりと染み込んでいくのを、クラリスは他人事のように呆然と見送った。
 どうして、涙が出るんだろう――。
「!クラリス?どうしたの、あの男の人、何かあったの?」
「何でも、ない……、何でもないよ、アーナ……」
 アーナが駆けつけ、おろおろと少女に訊ねる。クラリスは、ただ首を横に振り続けた。彼は、クラリスが相手がアーナであるとは言え、人前で涙を流すのを見るのは初めてであったし、彼女もまた、自分から零れていく感情の理由に皆目見当が付いていなかった。
 それは、安堵という喜びの感情だった。
 
 「ハイ、朝ご飯」
 どんっ、と、乱暴にベッドサイドのテーブルに朝食のパンとヤクのミルク、冷水を乗せ、アーナはさっさと部屋を出て行こうとした。
 それを、カイルが呼び止める。
「待ってくれ」
「何か用?」
 突っ慳貪に言い返す少年を真っ直ぐ見つめて、カイルは訊ねた。
「彼女……、クラリス、は?」
「お祈り」
「……祈り?」
「巫女だから」
「ここは、何処だ?」
「神殿だよ。見れば分かるじゃない」
「そうじゃなくて――」
 カイルが言いかけた言葉は、第三者の、朝の神殿という場所に全くそぐわない悲鳴によって断ち切られた。
「姫様!姫様ぁぁ!」
 年輩の婦人のものと思われるその声に、アーナは弾かれたように走り出した。
「サーシャさんだ!」
 それは、アーナも、勿論クラリスにも馴染みのある、この神殿に熱心に通ってくる信奉者の女性だった。

 廊下へ飛び出してすぐ、アーナは駆け込んできた婦人を見つけ出した。横に広がった脂肪だらけの身体を忙しなく揺すりながら、婦人は息を切らせて走ってくる。その姿は尋常ではなく、ふくよかで普段は笑顔を絶やさない顔は、蒼白を通り越して土気色に変色していた。
「サーシャさん、どうしたの、こんな早くに?」
「早く姫様に会わせておくれ!」
 言いながら婦人は、事態が飲み込めず困惑するアーナを押し退け、ずんずんと神殿の奥へ上がり込む。
 半ばその腕に縋り付く形で、アーナは婦人を押し留めた。
「ね、ねぇ、待ってよ。よっぽどの事がなきゃ、僕だってクラリスには会えないんだ」
「その、よっぽどの事なんだよ!神官様が――、神官様が“大陸”の王様に捕まっちまったよ!」
 それは、腹の底から絞り出した絶叫だった。
 婦人はその一言をアーナに告げると、風船から空気が漏れてゆくように、へたへたとその場に頽れてしまった。
 慌ててアーナが駆け寄る。だが、彼の細い腕では、恰幅の良い婦人を立ち上がらせることは敵わなかった。
 と、その彼の肩に優しく手が掛かった。
「アーナ、サーシャさんにお水を」
「クラリス!」
「姫様!」
 それは、この神殿の巫女姫だった。この局面に於いて、ただひとり、少なくても表面上は冷静に、穏やかに、サッと指示を下す。
「サーシャさん、立てますか?ここでは何ですから、他の部屋へ」
「ああ、姫様。どうしたら良いのでしょう……」
「サーシャさん、落ち着いて状況を話して下さい。アーナ、お水」
「あ、あ、うん。分かった!」
 立ち尽くしていたアーナは、クラリスの言葉に弾かれるように走り出した。
 だが、彼の足は台所へは向かわず、そのままカイルが休んでいた客間に再び駆け込んだ。
 そこには、恐らく廊下での会話が聞こえていたらしいカイルが、険しい表情で彼を待っていた。
「さっき『“大陸”の王』って言ったな?まさか――」
「これ!貰うよ!」
 カイルの質問は無視して、彼の朝食にと用意した水差しから水を汲むと、アーナはそれを零さないように注意しながら、クラリス達の元へ引き返す。
「はい!」
「有り難う」
 アーナの頭の回転の速さに苦微笑さえ見せ、グラスを受け取ると、クラリスは婦人の手を取り、それを優しく握らせた。
 
 奥の間は、儀式を執り行う際の準備室であったものを仕切り、現在ではクラリスが私室と兼用にしている。本来ならば巫女は神殿で祈りを捧げるのだが、神殿には既に熱心な参拝者が現れる時刻で、人々の妨げにならないようにと、毎朝の礼拝だけは、クラリスはこの部屋で膝を折るのだった。
 彼女は神殿に音の漏れないこの一番奥の部屋を選び、婦人とアーナを招き入れた。
「どうぞ、かけて下さい」
 一脚しかない椅子を婦人に差し出し、アーナには自分のベッドに腰掛けるよう勧めて、クラリスはきゅっと表情を引き締めた。
「サーシャさん、先に申し上げておきます。どのような事情があったにせよ、その件についてはここより他には口外しないで下さい。父上の事は、この神殿に来て下さる皆様にもご迷惑をおかけするかも知れませんから」
「けれど、姫様」
「事情をお聞きした上で、こちらで何とかします。先の判断は任せて下さい」
 淡々とした口調で、至って事務的に返答する。言葉に迷いはなかった。
 婦人はクラリスの凛とした態度に、深々と頭を下げた。そして、彼女が耳にした悲劇を話し始めた。
 彼女は村でただ一軒の宿屋の女将である。訪れた旅人から仕入れた情報によれば、神官と思われる壮齢の男性が、城下町の地下教会で“大陸”の王直属の兵に捕らえられ、幽閉されたというものだった。真偽の程は定かではない。だが、その教会に集まっていた者は全員が投獄され、一部では処刑も始まっているという。
 それまで思い詰めた表情で黙り込んでいたアーナが、出て然るべき質問をクラリスに投げかけた。
「それが本当だとして……、どうするの?クラリス」
 刹那、視線を彼方へと彷徨わせた後、クラリスは首を軽く振った。己の中にある何かを振り払うように。
「……ここを空けるわけにはいかないけれど、でも、父上のお手伝いには行かなくちゃ」
「僕も連れてって!」
「駄目」
「どうして!」
 アーナは涙目でクラリスを見上げ、大声で訊ねた。クラリスの考えは、アーナにも容易に想像し得た。我が儘を言って同行したとして、彼女の足枷になるのは目に見えている。しかし、どうしてもここで諦めるわけにはいかなかった。身寄りのない自分を育ててくれた神官の為に、クラリスの為に、自分の出来る事をしたかった。きっとクラリスは許してはくれないだろうけれど、出来るなら彼女と一緒に、囚われたという義理の父を救い出したい――。
 だが、クラリスの答えは、彼の意表を突くものだった。
「アーナには別の仕事が」
 クラリスはにっこりと微笑んで、アーナの瞳から零れた涙を、大切な宝でも掬い上げるかのようにそっと拭った。
「ここに残って、この神殿を守って欲しい。父上の代理に」
「僕が……?」
 アーナは思ってもみない大役に、驚きの表情のまま、クラリスをじっと見つめた。その彼に、彼女は勇気付けるように力強く頷いてみせる。
 眉間に皺を寄せ、暫く悩んでいたアーナは、やがて顔を上げ、闊達な笑顔で応えた。
「……分かった。僕、待ってる」
「有り難う」
 優しくアーナの頭を撫でながら、クラリスは婦人を見つめた。その眼差しは、神殿に祀られた女神像の似て、強く、美しい煌めきが宿っていた。
「サーシャさん、どうかアーナを宜しくお願いします――」
 
 春の恵みを運ぶ微風が窓から吹き込み、宥めるように髪を揺らして通り過ぎていく。心地良い風に吹かれながら、しかし彼は険しい表情のまま、じっと天井の一点を睨み続けていた。特に何があるわけではない、その視線の先にあるものは、決して視認出来るものではなく、彼の胸の内のみに存在する無限の混沌だった。
 カイルは、先程漏れ聞いた言葉を脳裏で反芻している。
 『“大陸”の王に捕まった』。
 “大陸”の王。間違いなく、中央にある大陸“カオス”の国王、ナシム王の事だ。周辺の小国を次々と武力で制圧し、独裁政権を樹立して、権力による恐怖政治を国民に植え付けた張本人。他の大陸との国交を絶ち、その裏でごく限られた貿易商を城に招き入れ、その仲介料として巨万の富を得る比類稀なる貿易商。挙げ句国民の血税を搾り取り、更なる贅沢三昧に耽る独裁者。村々から若い娘を強制的に召し上げ、日毎夜伽を楽しむ好色男。
 そして――“天上人”を片っ端から捕らえ、“魔術狩り”の名目で無差別に処刑し続けている、反“天上人”派の筆頭。
 何故だ?
 カイルの中で、ひとつの疑問が渦巻いていた。何故大陸に、“天上”の教えを説く神官がわざわざ出向く必要があった?ナシムの目の厳しい城下のこと、“天上人”は勿論、その関係者というだけで即刻捕らえられ、身元が明らかになるまでは更迭、“天上人”と知れれば即刻死刑。知らなかった筈はない。
 今、カイルがいるこの島は、確かにナシムの城から離れてはいるが、彼の領地の一部であることに変わりはない。誤って彼の出所が知れたら、この神殿に兵が押し寄せることになる。寛容や慈悲という言葉と無縁の王は、全てを文字通り破壊するだろう。
 何故だ?何故、自ら危険を招くような真似をした?彼を信じ、待ち侘びる者達が、大勢の信者が、愛娘がいるんじゃないのか?
 何故――。
 
 「カイル、入ってもいい?」
 声がかかり、カイルは我に還った。
 ドアから数回ノック音が聞こえ、すっとそれが開く。
 巫女姫、クラリス。
 その年齢にしては少々幼い仕草で――ドアから上半身だけ乗り出してこちらを覗き込み、少女は彼の姿を確認すると、野に咲く可憐な花のような微笑を見せた。
「ここは君の家だ。俺に遠慮する必要はないだろう」
「でも今は貴方の部屋」
「……じゃあ、遠慮せずに入ってくれ」
 少々呆れて、カイルは軽く肩を竦めた。
 少女は彼の人を喰った返答に笑って、室内に姿を見せた。
 その姿は、既に旅支度だった。挨拶にと立ち寄っただけ、と、彼女の雰囲気からして容易に想像が出来た。
「あの、多分聞こえてたと思うんだけど」
「……ああ」
「貴方の面倒、アーナが看るから。それから、出来れば、この近くに貴方の身寄りがあれば、そこに連絡しておきたいんだけど」
「ないよ。俺は独りだ」
「……この先、何処か行く当ては?」
「ない」
「……。じゃあ……、私、これで」
 取り付く島もない返答に、ついにかける言葉を失ってしまったらしい。悲しそうな表情を浮かべたクラリスは、立ち去るのに躊躇った素振りを見せたが、すぐにカイルに背を向けた。
「待てよ」
 その細く華奢な背に、カイルは厳しい言葉をぶつけた。
「死ぬ気なのか?“大陸”に“天上人”が渡るなんて」
「……死ぬ?」
「そうだ。死に急いでるのはどっちだ。君が行ったところで無駄死にするだけ、殺人狂の餌食になるだけだ」
「……」
 暫くカイルの言葉を背中で聞いていたクラリスは、くるりと振り返ると、満面の笑みを浮かべた。
「死ぬ気はないよ、私」
「だけど」
「私の命、私の運命は私が決める。誰にも、貴方にだって動かすことは出来ない。いつ死ぬかは私が決める」
「そんな理屈、奴には通じない」
「それでも、私はそう信じる」
「殺されるぞ!」
 毛布をはね除け、カイルは感情のままに怒鳴っていた。
 そんな彼の激情を静かに受け止め、クラリスは先程とは全く別の表情をして、頷いた。
 それは、あの穏やかで優しい少女の面影を完璧に消し去った、まさに氷のような嫣然とした微笑だった。
 
 「……!」
 カイルは、少女の眼差しに思わず息を飲んだ。蛇に睨まれた蛙の気分だった。ぞくり、と背筋を冷たいものが流れる。それは、彼が嘗て相対した仇敵に勝るとも劣らぬ、否、それ以上の緊張感を彼の全身に叩き込んだ。
 まるで別人の顔で、クラリスは場違いな、ゆっくりとした口調で答えた。
「死が怖いなら、行かないわ」
「なら、何故、危険を冒して……」
「……私には、歪曲した“運命”を正しく廻す“役割”があるから」
 少女は艶やかな笑みを浮かべたまま、カイルの理解を超えた言葉を、桜色の唇から呪文のように迸らせた。そして、サッと踵を返し、部屋を後にする。
「!待て!」
 少女の姿が完全にドアの向こうに消えて、カイルは呪縛から解き放たれたかのように、ハッと自我を取り戻す。傷を圧して立ち上がり、そのまま廊下へ飛び出す。
 未だ癒えぬ傷口からは激痛が走り、脂汗が額と言わず背中と言わず、全身から流れ落ちる。耐え難い痛みを内包した声で、カイルは彼女に叫んでいた。
「行くな!君までいなくなったら、アーナやこの神殿をどうする気なんだ!」
「その心配は要らない。“風の女神”を信じ、愛する誰かがここを受け継いでいく。信仰とはそういうものよ」
「違う……!君自身を愛してる人達を置き去りにするのか?君はそれでいいのか?」
 がくり、と膝から力が抜けた。カイルはそのまま跪く。咄嗟に床に付いた腕には満足に力が入らず、だらしなく床に突っ伏した。
「……やめろ、行くな……」
 譫言のように呻いた言葉が、果たして少女に届いたかどうか。
 ふっと、視界に影が射した。誰かが彼の傍らに立ち、覗き込む気配を感じた。
 朦朧と霞む目でその人影を追う。彼を見下ろす、美しい碧の瞳。それは露を帯びていた。
 小麦色の髪が風に煽られ、彼の腕に触れる。
 カイルは、戦慄く腕を必死で振り上げ、乱暴にそれを掴むと、自分の胸元に引き寄せた。
 ぱらぱら、と、温かな雫が彼の頬を打った。
「……行くな、クラ、リス……」
 そして、記憶が途切れた――。