Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第2章(前編)
作:きぁ





第2章:カイル=M=シース(前編)

 河原に初夏を告げる花々が咲き乱れている。鮮やかな色彩のそれを数本手折りながら、アーナは森を抜け、神殿への帰路を急いだ。もう片手には、先刻サーシャ婦人が分けてくれた焼きたてのパンがあった。
 『アーナ、花を摘むときは、決して一カ所からみんな持ってきては駄目。花をつける植物にとって、花が無くなるということは、未来が無くなるということだから。分かるよね?』
「……綺麗だね」
 小振りな薄紫の花。可憐で儚げではあるが、決して弱々しくはなく、寧ろ大地にしっかりと根付いた、生命力あふれる花。野山に咲く花は決して他の生命に媚びることなく頼ることなく、強く息づいている。
 もう、そんな季節なんだ。
 自分に照りつける陽射しに季節の巡る早さを感じながら、彼女を思い出す。優しく強い、この花のような彼女の事を。

 アーナは足下の悪い岩場を身軽に飛び越え、目指す神殿へ向かって、微かに草木を分けた跡だけが残る小道へ差し掛かった。
 目指す神殿まであと少し。バスケットの中からは、まだ仄かに熱を持つパンが放つ甘く香ばしい匂いが香り立ち、少年の鼻腔をくすぐる。自然歩みは速くなった。
「……!」
 だが、彼はそれ以上前には進まなかった。
 ――否、進めなかった。
 彼の行く手を阻む形で、数人の男がその小道に立っていたからだ。
「小僧、この辺りに神殿らしきものを見たことはないか?」
 アーナに有無を言わさず、威圧的に問う男の言葉には、“大陸”のものと思われる訛があった。群青色の重そうなアーマーで身を固め、腰にはそれぞれに種類の異なる刀が下げられている。そのどれもが飾りではないことは、使い古した鞘の、皮の色味具合で一目で分かった。深い葡萄茶の染みは恐らく、獣の血ではあるまい。
 アーナは出来るだけ平静を装って、軽口を叩くように答えた。
「さぁ、知らない」
「嘘を吐くと痛い目に遭うぞ?」
「知らないったら知らないよ。おじさん達こそ、何で神殿なんか探してるのさ?」
「この辺りに逃亡者が逃げ込んで、そいつを捜している」
「逃亡者?」
「“天上人”の若い男だ」
「ああ、その人なら、死んだよ」
「死んだ?」
「僕、死体を見たもん。黒い髪の男の人でしょ?」
「何処だ?」
「もっと上流。血の痕くらいはあるかもよ。この辺は、鳥葬させる仕来りだから。何でも自然に還すんだ。だから、鳥が食べるのをずっと待つのさ」
 アーナはさっさと男達の間をすり抜ける。
 と、彼の腕を、男のひとりが掴んだ。
「小僧、お前も“天上人”だな?」
「嘘吐かないでよ!僕はここの人間だよ!神様だって“大地の神様”だもん!何なら、お祈りの言葉を言ってみせようか?」
「――行ってよし」
 言われるより先に男の腕を振り切って、アーナは駆け出した。
 ご免なさい、ご免なさい、ご免なさい、クラリス――!
 心の中で何度も、懺悔の言葉を繰り返しながら、アーナは神殿への道を、後も振り返らず駆けた。
 “風の女神”様、ご免なさい。クラリス、ご免なさい。酷い嘘言って、ご免なさい。“大地の神様”、ご免なさい。信じてないのにあんな事言って、ご免なさい。

 「カイルー!カイル、カイルカイルカイルーっ!」
 そのまま神殿の裏庭へ出たアーナは、窓枠を飛び越えて廊下へ入り込んだ。
 その肩に、ぽんと手がかかる。
「うわぁっ!」
「……連呼するな、聞こえてる」
 渋い顔で溜息をつきながら、カイルは長く伸び過ぎてしまった自分の前髪を掻き上げた。どうやら書庫で何かを読んでいたらしい。普段は滅多に使われることのない地下室の、綿埃や黴の匂いが衣服に染み付いていた。
「あ、カイル!」
「どうした?」
 穏やかに訊ねるカイルに、アーナは真剣な眼差しを向けた。
「カイル、悪い人なの?」
「……」
 ぴくり、と、カイルの眉が、刹那、引きつった。
 それを見落とさず、アーナは続けた。
「真っ青な鎧の、“大陸”の兵士みたいのが、カイルを探してる。カイル、悪い事したの?」
「そうだ」
 一言、あまりにも明快すぎる答えを口にしたカイルは、アーナが抱えていたパンのひとつを取り、それを囓りながら、再び書庫に続く細い地下通路へと降りていった。
「……『そうだ』って……、そんな……」
 置き去りにされたアーナは、カイルの遺した言葉の意味をどうしても飲み込みきれずに立ち尽くした。
 『悪い事したの?』
 『そうだ』
 では、カイルは彼奴等に追われて、森へ逃げて来たのか?あの時の怪我は、そのせいだったのか?殺されてもおかしくない程の悪いことをしたのか?カイルが?
 カイルが正しいのか、それともあの兵士達が正しいのか――。
「……僕は、どっちを信じればいいの?ねぇ、クラリス……」
 ずるずると床に座り込み、アーナは小さく呟いた。
 いつだって彼に的確な答えを与え、導いてくれたクラリス。
 彼女がこの神殿の神官を捜しに出て、もう数ヶ月が経過する。しかし、父親の消息はおろか、彼女自身の安否、それすら何の便りもないまま、時間だけが徒に過ぎていった。気付けば、巫女姫が愛した季節になろうとしている。
 『アーナ、他人が正しいということを、何も知らないままに、自分で考えないで信じては駄目。自分の心で決めるの。アーナにとって、どれが大切な事なのか。それがアーナだけの、本当の答え。他人の答えと違っていたからといって、間違いだと思っては駄目。いつだってアーナの中に、アーナだけの答えを持っていなくては駄目。それが正しいとアーナが信じられるなら、それがアーナの答え』
 クラリスはいつか、そんな事を言っていた。彼女の言葉はいつも抽象的で掴み所が無く、アーナには理解出来ないことばかりだった。巫女という職業柄だろうか、彼女は物事の善悪よりも、その真理について語ることが多かったような気がする。穏やかな口調で、聖母のような微笑みを決して絶やさない彼女の横顔を眺めながら、アーナはいつか自分もこんな立派な事を考えられる人間になって、神官様みたいになろう、と思っていたものだった。
 幼いアーナがクラリスの言葉を、その真意を理解するには、まだまだ時間が必要だった。
 だが、彼に猶予されるべき時間は、その意志とは無関係に、永劫の封印に陥落することになる。