Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第2章(後編)
作:きぁ





第2章:カイル=M=シース


 書庫へ戻ったカイルは、ドアを固く閉ざし、それに凭れたまま深い溜息を吐き出した。
 ここも嗅ぎ付けられたか。
 自嘲めいた笑みが、頬に浮かんだ。
 何を考えている?分かっていたはずだ。“彼”には自分が何処にいるか、全て“見える”のだ。“出来損ない”の自分とは違う、正真正銘の“力”。想像や洞察、推測などという生易しいレベルではない、即ち、どこまでも現実の“能力”。その前には、どれ程足掻こうが藻掻こうが、所詮“神”の手の上で踊る人間の愚行――。
 だとしても、ここで事を構えるのは得策じゃない。
 カイルは本棚から一冊の古文書を引き抜き、頁を捲った。本には不自然に刳り抜かれた穴が開き、埋め込まれるように六芒星の銀の首飾りが納められている。
 しゃらん。それに繋がれていた、繊細な鎖が揺れた。小さな銀の首飾り。あの巫女姫が身につけていたものだ。飾りの部分は彼の掌の半分程の大きさで、職人の粋を尽くした細工が施されている。高価な品のようであったが、銀の台座は幾らか腐食して、くすんだ暗灰色に変色していた。それに、貴石と思われる小さな石が7つ填め込まれている。
 決して“地上人”の宗教に関わり合いのないこの神殿の巫女が、何故六芒星という地上の宗教の印を抱いていたのかを知りたくて、カイルは書庫に籠もって古文書の類を捲っていたのだった。
 それの一冊によると、“天上人”にとっての六芒星とは、この世界にある“聖戦”の折りに建てられたという神殿の所在地を示したもの。それぞれ異なる色彩の貴石は、“7人の聖者”の象徴。中央に据えられた乳白色の石は、第7番目に数えられる“最後の神”、“風の女神”。美しく優しい、そして強い、自由を司る女神だと、アーナは言っていた。まるで、クラリスのようだと――。
 彼女は無事だろうか。
 恐らくクラリスは、彼の怪我を刀傷だと知っていた。尋常ならざる怪我だ。それでも、彼を介抱したのは、彼女の信仰心からか?それとも、彼女は分かっていたのか?自分が彼女と“同じ”だと。
 カイルは、その鎖を首からかけた。そして、懐深くにしまった。
 途切れた記憶を繋ぐ言葉が、彼の脳裏にフィードバックされる。

 『姫様が、その通り伝えるように言われたからね』
 廊下で倒れていたカイルを発見したのは、サーシャと名乗ったあの婦人だった。意識を取り戻した彼に、婦人はこう言って、首飾りを差し出した。
『「貴方の思うままに進んで下さい。そして、私達の事はどうか忘れて下さい。必要ならば、これをお金に換えて下さい」。それだけだよ』
『彼女は、何処へ?』
『先刻出発されたよ。もう村を降りてる時間だ』
『……』
『私にどうこう言う権利はありませんけどね、それを売っちまったらきっと一生祟られる。それは、女神様が身につけていたものだから』
『女神?』
『“風の女神”様。この神殿を護って下さってる。いつでも、どんな時でも、私達を護り導いて下さる女神様だよ』
 こんな時まで、その話なのか。信仰心とは、人ひとりの生命をも揺るがすものなのか。そこに疑問はないのか。カイルは苛立ちを覚え、婦人に烈しい言葉で訊ねた。
『何故、彼女を止めなかった?“大陸”の王の噂くらい、知ってるだろう?』
 カイルの言葉に、婦人は力無く首を振る。
『誰にも、姫様をお止めすることは出来ませんよ、あたし達にゃあね。姫様は本当に神官様を愛してらっしゃる。実の父親のようにね』
『……』
 カイルには、何も言えなかった。
『ここは、あの“大陸”から逃げてきて、神官様に救って頂いた人間ばっかりが暮らす村。みんな、神官様をお救いしたいと思ってるし、姫様ひとりを危険に晒すような真似、したかないよ。けど、もうあたし達にゃ、とても出来やしないんだよ……』
 そう呟いた婦人の瞳からは、熱い涙が滝のように流れていた。

 涙。
 カイルが霞む記憶の中で垣間見た、浅黄色の瞳に湛えられた雫。
 何故、少女は泣いていたのだろう――。

 ドンドンッ!
 乱暴に戸を叩く音に、カイルは思考を強制的に現実に引き戻された。反射的に、腰に仕込んでいた小刀に手がかかる。
「カイル!カイルいる?」
「アーナ」
「いいよ、開けなくて。時間ないから」
 ドア越しに聞こえる声は、余程長い距離を走った後なのか、あれ程敏捷な少年であるにも関わらず、呼吸が乱れていて荒々しく、時折言葉が濁って途切れた。
 ドアに耳を押し当て、カイルは少年の声を拾った。
「さっき森で会った兵士みたいのが、村に来たらしいんだ。サーシャさんが報せてくれた。誰かが教えちゃったらしくって、こっちに向かってるって」
「……!」
 来たか。
 小刀に掛けた手が、武者震いのように震えた。
 今、彼の手許にはこの貧相な剣一本以外、武器と呼べるほどのものは何一つ無かった。神殿に武器庫があるはずもなく、まして村に降りて武器を手に入れる事など到底出来なかった。近隣の村には老人と幼い子供しかおらず、鍛冶屋の老いた店主は、包丁を打ち直すのが精一杯という有様だった。
 対抗する手段は、何一つない。まさに、四面楚歌の状態にある。
「連中、もうじきここへ来るよ」
「……分かってる」
 分かっているが、しかし、どうすればいい?
 胸の内で己の焦りを押し潰しながら、カイルは極力冷静に答えた。
 彼の胸中を知るはずもないが、その後に続いたアーナの言葉は、彼に可能性という未来を示した。
「この部屋、“聖戦”の時の隠し扉があってさ、外に出られるんだってさ。だから、そこから行って」
「何?」
「逃げろって言ってるんだよ」
「何を言ってる。俺を匿ったりしたら、お前だって――」
 『殺されるぞ』。
 その一言を、カイルは口に出来なかった。例え彼がここにいなかったとしても、この神殿が“大陸”の王の息の罹った者に発見されれば、無事では済むまいと思ったからだ。
 ずきり、と胸が痛んだ。
 昔の自分であったら、構わずその隠し扉とやらから脱兎の如く逃げ出している。誇りも何も、彼はとっくの昔に捨て去ってしまっていた。捨て去るしか、生き延びる道はなかった。不器用に逃げ回り、誰かを傷付ける事でしか生きられなかった嘗ての自分ならば、年端もいかない少年がもたらしてくれた一筋の光明に、後の事など考えずに飛びついただろう。間違いなく、卑怯者の誹りを受けるべき人間が、いた。綺麗事だけでは生きてはいけない。そう言い訳をしながら。
 しかし――。
 暫し返答に迷った後、カイルはドアノブに手をかけた。
「お前も一緒に来い、アーナ」
「……駄目。僕、あいつらに顔見られちゃってる」
 心細そうに呟く少年の声は、ひどく頼りなく脆弱だった。
「そんなこと関係ないだろう」
 カイルはドアを開けた。
 だが、数センチ程開いたところで、その戸は外側から強制的に閉ざされた。
「開けないで!」
「?」
「……もう、駄目……なんだ。だから……」
「アーナ?」
「カイル、ご免……。遅かったみたい……」
「アーナ、おいっ?」
 ガンッ!
 その時、突然、ドアノブがはじけた。誰かがそれを叩き壊したらしい。そして、ドアノブが抜け落ちてぽっかりと開いた穴から、刹那、何かが室内に飛び込んできた。
「……!」
 カイルはカッと目を見開いた。
 それは、既に着火された爆薬だった。

 その日、まだ昼間にも関わらず、近隣の村々からは緑深き森の一部が、一瞬のうちに眩しいほどの火柱を吹き上げ、それが見る間に広がって、周囲の森の一帯を容赦なく焼き尽くす様が、さながら地獄絵図のように見えたという。
 しかしながら、それを語ることが出来る者は、現場であるはずの村には残されていなかった。
 その情報が中央大陸“カオス”を始めとする諸国にもたらされたのは数週間後、その周辺を根城とする行商人が、たまたま村を通りかかった為であった。
 村はまるで戦の後のようであったと、行商人達は口々に語った。住人と思われる人間の骸が見るも無惨に散乱し、一部は腐臭さえ放っていた。それを埋葬する者、祈りを捧げる者、ただ呆然と立ち尽くす者、全ては村から遠く離れた場所に居を構えていた友人、或いは一族の者で、村人は老人から赤子に至るまで全員、惨殺された後であった。
 殺戮の現場を目撃した者は皆口を封じられ、誰にも、そこで何が起こったのかは分からなかった。
 話を聞いて、友人の死を悲しむ者、己の身の上を嘆く者は勿論のこと、密かにほくそ笑む者があったのは言うまでもない――。