Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第3章(その2)
作:きぁ





第3章:ミフィア=S=シレン(その2)

 まるで祭見物でも終えた観光客のように、その一部始終を見守っていた群衆がまた日常へと立ち返る。日暮れの市場は、再びもとの喧噪と活気に包まれた。
 そんな中、自分の背中に投げ掛けられる、それまでとはまるで異質の眼差しに、クラリスは振り返った。
 郷里を離れて数ヶ月、彼女はあの独特な巫女姫の衣装を捨て、街の娘のような流行ものの衣服を着用していた。争いを禁じられている筈の職にありながら、懐には、護身用とは言え小刀さえ挿している。長く美しかった髪は肩の辺りで乱暴に切り落とされており、その耳朶には色鮮やかな耳飾りを下げていた。
 嘗ての清楚な少女を知る者ならば、その変化は目を瞠るものがあった。
 だが、それでも尚、少女の瞳は底深くに眠る意志に輝いていたし、小麦色の髪も彼女のその生気に満ち溢れた美を損なう事はなく、寧ろ現在の彼女には似つかわしくさえあった。
 自分を射殺そうと狙いを定める狩人のような視線を感じながらも、クラリスは平然とした様子で、さらりとその視線の主に“話しかけた”。
《貴方ね?“精霊使い”を探してる、って聞いたんだけれど?》
 そこは、通りを見下ろせるテラス式の飲み屋であり、その窓辺に腰を下ろし、少女を観察していた男は、少女の“返答”に軽く肩を竦めた。
 男は、視線に込めていた殺気をあっさりと消し去り、軽く微笑んで立ち上がると、彼女に向かって手を振ってみせた。
《気に入った。上がってこい》
 “声なき声”――、“天上人”の中でもごく限られた一部のみが使用する事が出来る、真性の“力”で、男は応えた。
 今度は、クラリスが苦笑する番だった。
《お酒は飲めないの、これでも“巫女”なので》

 「随分堂々と喧嘩を売るんだな、今頃の“巫女”さんは」
 シーンはそう言って、自分が見つけ出した“精霊使い”の娘を不躾に見つめた。今やか細い外灯だけが頼りの、日暮れの裏路地で少女の細く華奢な腕と顔が、それこそ妖精か幽霊のように仄白く浮いて見える。
 自ら“巫女”と“精霊使い”という異業種を兼務する、と名乗った少女は、半ば含みを持たせた口調で反論した。
「まさか。あんな事、日常ではしないわ」
「へぇ、そうは見えなかったけどねぇ」
 頷きながら、シーンはニヤリ、と皮肉った笑みを浮かべた。
 『日常では』。即ち、罪なき者を無理矢理罰せようとする『非日常』の行為には、至極当然の行動だ――彼女はそう言ったのである。
「それに……、私が手を出さなくても、貴方があそこから酒瓶でも投げてたでしょ?」
「……まぁね、あれは俺の身内だから」
「ああ、ミフィア。お嬢さん?」
「まさか!俺は独身だよ」
「……そう?」
 問い返されて、その眼差しに、シーンは思わず視線を逸らし、軽く咳払いをする。
 真っ直ぐに彼を見つめる娘は、ひどく美しい。大きな浅葱色の瞳は夕映えに輝いている。ざんばらに斬られた髪も、どうやら本人が故意にがさつに見せかけているだけのようで、よく櫛が通っていて艶やかに光っている。本人にその気はまるでないのだろうが、否、その気がまるでないからこそ、疚しい気分を充分に掻き立てられる、そんな娘なのだ。
 老婆心から、そして自制心から、説いてみる。
「それより、クラリス、だっけ?お前さんみたいな若くて美人の娘が、こんな時間まで城下をフラフラしてんのは、ちょっとばっかし頂けねぇんじゃねぇのか?」
「そう?」
「それも、こんな人気のねぇ道端で、仮にも独身男とふたりで。俺じゃなくても、“青い兵隊さん”に『引っかけてくれ』って言ってるようなもんだぜ?」
「『引っかけ』……?何を?」
 不思議そうに少女は首を傾げる。
 シーンは、そんな少女の反応に、苦笑した。
「あー、分かった分かった。お前さんがなぁんにも知らない“いい子ちゃん”なのは、充分に分かった。……充分に分かった上で訊くけど、クラリス?」
 ぐい、と少女の両肩を掴み、乱暴に胸に抱き寄せると、シーンはぼそりと、先程まで軽口を叩いて談笑していた男とは思われない冷たく険しい口調で、少女の耳元に囁いた。
「これから俺が誘う場所は、死と隣り合わせ。例えこっちが殺られなくても、目的は人殺し。それを分かってて来るんだろうな、“天上人”の“巫女”さん?」
 突拍子もないシーンの行動にも、世間に憚られるべき内容の会話にも、少女は動じず、腕の中で平然と微笑した。没した太陽に代わって月明かりが挿し、神の悪戯か、無垢で純粋な美少女を完全に消し去り、妖艶という別の美貌に変化させていた。
「……ええ、勿論」

 市場を抜け、旧市街地と呼ばれる社会的弱者や下層階級市民ばかりが集められている区域へ出た頃には、もう陽が暮れていた。薄墨が滲んだように、地平線をなぞって仄かに明るいが、天頂にはもう星が瞬いている。
 三日月。淡く柔らかな光が幼い少女の陰影を大地に落としている。その衣服のせいか、僅かに覗いた顔だけが、月明かりに青白く浮かんで見えた。表情は、鉄仮面のように凍て付き、瞳は衣に月光を遮られたせいか、はたまた他の要因か、まるで生気を失っていた。
 何千人もの人間が犇めきあって暮らしているはずの旧市街地に活気はなく、時代に取り残された廃墟のような雰囲気さえ漂っている。家々の窓に明かりは灯っているが、そのどれもが天から降り注ぐ月明かりにさえ及ばない。彼等の中には“天上”を故郷とする者も大勢いて、皆太陽光はおろか、その僅かな煌めきにすら、己の姿を晒すことを恐れているかのようであった。
 人影の全くない薄暗い道で、ミフィアは立ち止まった。背後から、彼女目指して誰かが駆けて来る気配。足音はその人物が、俊敏で身軽な、まだ若い少年であることを告げている。
「ミフィア!」
「あ、サイノス。ただいまぁ」
 先程までの、少女とは思えない程老け込んだ、あの重々しい表情は微塵も残っていない。彼女は年齢相応の可愛らしい顔に戻って、にこりと笑った。
 駆けてきたのは、褐色の肌に真っ黒な髪の少年だった。彼女の遊び仲間だ。占い師であっても、ミフィアはまだまだ子供で、友人もあれば家もある。尤も、両親には生まれて間もなく先立たれて、現在の彼女はある占い館の養女、兼、雇われ占い師であった。
 開口一番、少年――サイノスは彼女に怒鳴った。
「『只今』、じゃねぇよ!」
「にゃぁ?」
「『にゃぁ』、じゃねぇだろ、ミフィア!俺もエインもどんだけ探し回ったと思ってんだよっ!このボケ!カス!トロ!」
「エイン来てるの?」
 ぱぁっと、怒鳴られて萎れたミフィアの表情に、無邪気な明るさが戻る。水を得た魚、という感じだ。
 それを見て、サイノス少年は続けざまに叱りつけた。幾ら怒鳴っても叱っても、当のミフィアにはちっとも堪えていないのは、毎度の事なのだが。
「タコ!そういう問題じゃねぇってんだよ!エインがいてくれたから、お前見つかったものの……」
「サイノス、その位にしてあげて」
「エイン!」
「エイン!」
 ミフィアとサイノスが同時に振り返り、ミフィアは相手も確かめずに、薄暗がりに立つ発言主に馴れた調子で飛びついた。
 街に破壊されずに残っている数少ない外灯の下に立ち、ふたりを待っていたのは、年齢としては青年と呼ぶには幼い、しかしながらサイノスよりは年上の少年だった。落ち着いた物腰の彼は、ミフィアをやはり馴れた様子で抱き留めて、サイノスに感謝の意を込めて微笑みかけた。
 サイノスは、決まり悪そうに頷いて見せ、ふい、とそっぽを向いた。
「んじゃ、俺、帰る」
 そのまま、サイノスは角を左折し、闇に溶け入るように姿を消した。
「サイノスー!ありがとー!ばいばい!」
「……おぅ」
 小さな返事だけが、少女の耳に届いた。

 占い師ミフィアの家は、旧市街地でも奥まった場所にある。路地を折れ、更にそこから迷路のように縦横無尽に入り組んだ通用路へと、細い階段を下りてゆく。この辺りになると、外灯は勿論民家の明かりさえも乏しく、視界は極めて不明瞭だ。上下水路がすぐ側を流れてゆく。異臭が立ちこめる通用路は、舗装もされておらず、ぬかるんで、それを埋めるように腐敗した廃棄物が至る所に散乱していた。ちょろちょろと、痩せこけたネズミが駆け抜けていく。
 何度か上り下り、右折左折を繰り返した後、ミフィアの家は忽然と通路の前に現れる。登り切った階段の最後の段は、ちょうどミフィアの身長程の高さがあって、入口に当たるドアは腰の辺りにその足場がある。そこまでは、生野菜を入れていた木箱が無造作に積み上げられていた。建物だけが先にあり、後から外部に通じる扉を作ったのだ。しかし、このような不自然な住居はこの街には至る所にあって、現在進行形で構築されているに違いない。地図など存在し得なかった。住人ですら、己の帰路を迷う街だ。
「さて、何処まで行ってたの?ミフィア」
 先立ってドアへ飛び移ると、ミフィアの手を取り、エインは優しく訊ねた。
 その問いに、ミフィアはふっと俯いた。
 立ち止まり、疲れ切った病床人のような萎えた眼差しで足下を見つめる。背には月光を後光のように受け、彼女の整った顔立ちに重く深い影を落とし、表情は一層窶れて見えた。
「……ひょっとしたら、見つけ……てしまったのかも知れな……い……」
「ミフィア?一体何の――」
 エインは、少女のその姿にハッと言いさした言葉を噤んだ。
 ミフィアと彼女の遊び仲間の中では、エインは唯一、少女の“正体”を知っていたからだった。
「“最後”の……、“神”、を……」
 幼い少女の瞳は、曇り硝子のように澱んでいた。