Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第3章(その3)
作:きぁ





第3章:ミフィア=S=シレン(その3)

 同じくジグルの街で、同時刻、やはり月明かりに照らされて、ふたりの男が対峙していた。
 しかしそこは貧相な町外れでも人で賑わう市場でもなく、静寂に支配された古城の一室であった。
 いかにも執務室、という質素な事務机と本棚、ベッド以外家具らしいものはないその部屋に、ふたりの他に人影はなく、彼等は無言のまま、数時間という途方もない時を、ただお互いを睨み付け、微動だにしないで過ごしていた。
 ひとりは、群青の鎧に身を固めた騎士である。彼は部屋の主であるらしく、椅子に座ったまま、両手を組んで机についている。華美ではないにしろ、職人が見れば腰を抜かす程の見事な装飾の施された剣がその腰に携えられており、光の加減か、時折それが光を跳ねて鋭く煌めいた。かなりの値打ち物のようであったが、持ち主の方はその価値を気にもかけていない様子で、鞘には幾らか緑青色の錆が出ていて、束にも綻びが生じていた。鎧もまた、相当に使い込まれた代物である。幾多の戦闘を経験している猛者に違いなかった。
 対するもうひとりの男は、両腕を背に縛り上げられており、勿論武器の類は一切身に着けていなかった。囚人としては日が浅いらしい、頬をはじめとして体中に幾つかの切り傷があり、傷口は未だ彼の流す血液で濡れていた。しかし、男は痛みを覚えていないらしい。或いは、痛みがあっても感じられない程の局面に追い詰められている、そんなところだ。傷は決して浅くはない。にも関わらず、彼の目は痛覚を一切映さず、鋭い眼光を湛えて相手の男を見据えている。
 ふたりとも、男と呼ぶより青年と呼ばれる年代である。そして、見る者が見れば分かったであろうが、彼等は実によく似ていた。顔立ちや髪の色、肌の色、衣装のことではなく、彼等の醸し出す雰囲気が、である。
 数時間の沈黙を破って、鎧に身を固めた青年が口を開いたのは、それから更に1時間程経過した頃である。月は既に天頂近くまで達し、室内は深海のように蒼のグラデーションで染め上げられていた。
「……やはり生きていたか」
 その言葉に、囚われの身である青年は絞り出すような声で答えた。
「あれは、お前の差し金だったのか?お前が、あの神殿を……!」
「自惚れるな」
 冷たく、騎士を拝命する青年は言い放った。
 その瞳は鎧と同じく深い藍色であったが、そこには立ち尽くす青年を見下すような、冷ややかで無慈悲な光があった。
「お前などの為に、あんな大がかりな罠を仕掛ける必要が何処にある」
「……!」
 カッと、青年の頬に侮蔑に対する赤みが挿した。
 それを一瞥し、騎士の青年は視線を机上に戻した。そこには、報告書と題された書類が上げられている。
「あれは“天上人”の神殿だ。それを解体し、信者と思われる住人を規則通り処罰しただけだ」
「ナシムの命令か」
「その口の利き方は、不敬罪に値するぞ」
「殺したければ殺せばいいだろう!何故俺を生かしておく?お前には目の上の瘤でしかない俺を。俺がいなくなれば、王位継承者はお前しかいなくなる」
「……哀れだな」
 ぼそり、と呟き、騎士の青年は囚人たる青年の前に立った。
 そして、その胸に下げられた鎖を引きちぎる。
「!返せ!」
 サッと、囚われた青年の表情からは怒りの色が消え、代わって焦燥の二字が浮かんだ。
 その変化に目敏く気付き、騎士の青年は囁きかけるように小声で、しかしはっきりとした重圧感を加えた声で問うた。
「……何処にいる?」
「……」
「答えろ。“これ”の最初の所有者をお前は知っているはずだ」
「……彼女に、何をする気だ?」
「お前の“望む”事だ」
「……なに?」
 囚われの青年はその返答に疑問を投げ掛けたが、騎士の青年はこれを容易く無視した。そのまま、言葉を続ける。
「神殿にはいなかったらしいが……、お前の友か?それとも、もっと親しい相手か?」
「違う!」
 混ぜ返された問いに、青年は激しく頭を振った。事実、彼はその人物と懇意な間柄ではなかった。たった2日間限りの知人だ、お互いの人生でほんの一瞬すれ違った、いわば同じ交差点に立っただけの旅人同士と言っても過言ではない。
 彼はこの時、己の矛盾に気付いていない。相手の策謀に乗るまいという意識しかなかったからだ。そのすれ違っただけの相手を、何故それ程までに気遣う必要があるか――。
「では庇う必要はないだろう。これの持ち主――“第7の女神”の末裔は、何処へ逃げた?答えろ、カイル」
 騎士の青年は、微かな笑みを浮かべて、彼の目の前にその首飾りをかざして見せた。
 青年は、当事者すら気付いていない、彼の中に生まれた脆くて危ういその感情に無論勘付いていた。

 ……ぱたっ、たん、たたん……。
 何処かから、水の漏れ出している音がする……。
 カイルは目を覚ました。そこは、ただ虚無の空白が広がる世界だった。誰もいなかった。何もなかった。ただ、一面の白。真冬に霧氷に閉じ込められるとこのような感じだろうか、と、ふとカイルは思った。しかし、それは否定される。身を切るような寒さ、というのがなかった。或いは感覚が麻痺しているのかも知れないが、自分の手はちゃんと見えたし、指も思い通りに動く。凍傷にはかかっていない。
 ぱちゃん、たたん……。
 彼の意識を漫ろにする音は、彼方から微かにだが、しかし未だ途切れることなく続いている。まるで、彼を誘うように。
 カイルは、その真っ白な世界で一歩、前へ踏み出した。足を着いて歩いている感触はあるが、何処かぎこちない。まさに雪原を歩いている感触だった。
 ぱたん、ぽたぽたぽた……。
 喧しい。……誰か、止めてくれ……。
 音のする方向へ向かっているはずなのだが、景色は相変わらず標的も何も見えす、単調極まりなく、彼は自分が前進しているかどうかさえ怪しいと思った。
 ぱたっ。
 と、その時、自分の頬に、突然、何かの雫が当たった。
 恐らく、この不快な音の正体だろう。
 そっと手をやる。思ったより重く、粘性のある液体が指にこびり付いてきた。
 ……色が、違う……?
 ぽたたっ。
 再び、それが目の前に降ってきて、カイルは視線を地面、或いは床と思われる方へ向けた。
 そこに零れた、数滴の雫。
 その色は、指先を染めたそれ同様の、真紅。
 滴ってくる原因を突き止めようと顔を上げた次の瞬間、カイルは絶叫していた。
『ぅあぁぁぁぁぁっ!』

 「っ!」
 気付くと、牢獄の寝台に寝かされていた。薄暗く陰湿な雰囲気が漂う室内。弱々しく揺れる蝋燭の灯りだけが頼りの地下の囚人牢。誰かの呻き声が、己をここへ閉じこめた者への呪詛を吐露し続けている。岩肌が剥き出しの床を撫でるように、水滴が天井から落ちている。晩秋ではあるが、暖房器具のまるでない監獄は肌寒く、軽く身震いする。
 左手首はベッドのフレームに強制的に手錠で繋がれていて、寝返りでも打った為か、かなりきつく伸びている。掌は半ば鬱血しかけていて、青紫色に変色していた。その痛みと、それまでに受けた拷問のせいで、ひどい夢を見たらしい。珠のような汗が額を走っていた。
 夢――。
 カイルは手を緩めて鬱血した指をさすりながら、頭を振った。日常、煩わされるほど記憶に留まらないはずの夢が、目覚めた今も色鮮やかに脳裏を蝕んでいる。
 目の前に吊された、少女の身体。そこから流れ落ちる鮮血。
 一目で、それが死んでいる、と感じた。だが、死体であるはずの少女の顔は、決して死への恐怖に取り憑かれてはいなかった。美しかった、神々しいほどに。
 その死体は紛れもなく、ほんの数回顔を合わせただけの、ただの通りすがりのはずの巫女姫の顔だった。
 出逢った時の、花開くような可憐な笑顔。虚ろな意識で垣間見た悲哀の涙。夢の中の真紅の血。美しすぎる死に顔。脳裏で交錯する、虚偽と現実。
 例え無意識の産物であるとは言え、彼女の死を想像してしまった自分が、ひどく汚れた生物に思えた。何故彼女が死ななくてはならない?もうご免だ、俺のせいで、誰かが殺されるのは――。
「……すまない……」
 ぼぞり、呟いた台詞は本人の耳にすら届かず、暗く湿った獄中に溶け入るように消えた。

 ど……ん!
 突然だった。大地の底から突き上げてくるような激しい爆裂音が轟き、間髪を於かず、ぐらりと、眩暈に似た微かな揺れが牢全体を震わせた。
 爆薬――襲撃か?
 カイルはベッドの上で、がばりと上半身を起こした。びんっ、と腕を手錠が拘束する。
 慌ただしく牢の前を駆けていく兵士達が、口々にその爆音と振動の正体らしきものを、囚人である彼に聞こえる程の声で吐露していく。
「奇襲!裏門から侵入者!警戒せよ!」
「数にしておよそ10名、裏門を突破し、場内へ潜伏した模様!警戒せよ!」
 連絡経路がいつもの伝令役を介してではなく、監獄の警備に回されている者にまで直接流されているということは、侵入者の目的はこの地下牢ではなく――。
「“革命派”――“レジスタンス”の連中か?」
 今度は意識的な台詞だった。
 声を聞きつけた兵士のひとりが、牢の錠前を背に隠し、片手でそれを巧みに外しながら、彼に向かって小声で答えた。あくまでその獄中の凶悪犯を逃亡させじと守っているかに見える。
「はい、カイル様」
「どの辺だ?」
「裏門から侵入して、現在は何組かに分かれて別行動を取っている模様です。ここへ押し寄せてくる気配はありません」
「とすれば、狙いは当然――」
「ナシム様かと」
 チャリン!行き交う兵士の足音に紛れて、微かな金属音が響いた。すっと視線を走らせて、それとなく足を移動させる。程なく、足の裏に金属が触れた。手錠のカギ。それを不自然にならないように、側へと引き寄せる。
「悪ぃ」
「お気をつけて」
 兵士はそれだけ言い残し、他の兵に紛れて走り去った。
 行くか。
 素早く立ち上がり、カイルはベッドにかけられていた、粗末な枯れ草色のシーツを乱暴に引き剥がした。その時彼は、既に全ての障害をクリアし、自由の身であった。
 シーツを被って、カイルは牢から飛び出した。カシャン、と空しい音と共に、錠が床に転がる。
「貴様!いつの間に!」
 気付いた看守が駆けつけてくる。片手には警備用の棍棒が握られていた。カイル自身、それに打ちのめされた記憶のある有り難くない代物だ。
 だが、カイルは怯むことなく看守に駆け寄ると、その目の前でシーツを翻した。相手が動揺している間に懐へ攻め入り、鎧に守られていない唯一の急所、下顎に拳を叩き込む。
 数秒の出来事。鮮やかな攻撃。
「ぐっ……!」
 看守が床へと崩れる。その脇差しを手早く失敬して、カイルは階上への石階段を駆け上がった。