Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第4章(前編)
作:きぁ





第4章:エイン=J=ディアマス(前編)


 時刻は、月の暦にして天頂より数刻後、日の出より数えて2時間程前へ遡る――。

 細く冷たい、刃の切っ先のような青白い三日月が、夜の王城の尖塔にかかっていた。
 まるで“女神の槍”のようだ、とクラリスは思う。天に瞬く星々の中にあって一際目映い光彩を放ち、太陽に代わって夜という静寂と虚無を統べる星、月。満月は“女神の楯”、三日月は“女神の槍”。それら“天より賜りし武器”が“破壊の神”を封じ、地上に平和をもたらした、という説話が“風の女神”の伝説にある。遥か昔、“天上人”がその名の通り、空を自在に舞う“力”を持ち合わせていた時代、この豊饒の楽園を追われた“天上人”達は、あの白磁の輝きを放つ天体に還っていった、と言われている。
 私も、飛べたら良かった。飛べたら、父様を救う事が出来たのに……。
 脳裏に、あの酷たらしい光景がちらついた。深紅一色に塗り込められ、引き裂かれた僧衣。大切な“神”の御印と教えられ、魂が肉体より切り離されてなお握られたまま、掌と共に冷たくなった六芒星の首飾り。肢体と頭部のない遺体、へし折られた杖。弔う事さえ許されず、城の外に粗末に打ち捨てられ、野晒しにされた多くの形無き人々。物言わぬ肉片。主を失った遺品。その“一部”に過ぎなくなってしまった、誰よりも敬愛した人。
 涙も、出なかった。
 賤送にさえ立ち会えぬせめてもの詫びに、その場で髪を切り、大地を腐臭と流血で埋める屍の群れに手向けた。
 テラスは宵を楽しむ人々の喧噪に包まれていた。酒を勧めに来た店員に僅かに頭を振って断り、クラリスは立ち上がる。
 己が目的のために。例えそれが、更なる悲劇の連鎖を呼ぶ事になっても。

 黙したまま、相席のシーンはその細く華奢な少女の背中を見送った。
 まるで、死に場所を求める戦士だ。シーンは眉を顰める。
 仇を討つという名誉や誇りなど関係なく、まして敵わぬかも知れぬ望みである事さえも目的ではなく手段であり、ただただ、自滅だけが終着点の、空虚で退廃的、排他的な自殺願望。
 クラリスは決して何も語らなかった。何故無謀とも言えるシーンの企てに手を貸すのか、何故彼と同じ志を抱くに至ったのか、何故、何もかも諦めてしまったような、胸を掻き毟られるような切ない眼差しを見せるのか――。
 察する事は容易い。シーン自身、否、彼に与する者達全てに共通する苦悩を少女が内包している事は、手に取るように分かった。
 だから本来ならば、発案者であるシーン本人が少女を即刻解雇すればいいだけだったのだ。
 冥府へ赴こうとする者が、未来を求めて戦うなど出来る筈もないのだから。
 それでもなお、シーンはクラリスを引き留める気にはなれなかった。

 「勅使様の到着だぜっ!開けろよ!」
 ばんばんばんっ!硝子戸を乱暴に叩く音が聞こえ、エインは突然の来訪者に苦笑しながらそれを開けた。
 ひらり、と、身軽な少年が室内へ転がり込んでくる。サイノスだ。
「ぉらよっ!コレ!」
 ポケットに忍ばせた紙片をごそごそと取り出し、気休め程度に皺を伸ばしてそれをエインに握らせると、サイノスはニヤリと笑った。
「今夜、決行だってよ。確かに伝えたかんな!」
「有り難う、サイノス」
 自分の用件を言うだけ言って、エインの返答など聞きもせず、サイノスは再び窓枠を乗り越えて出ていってしまった。
 くすくすと笑いながら、エインは窓を閉め、手渡された紙片に素早く目を通した。
 『午前3時、例の場所で。R』
 用件はそれだけだった。走り書きと思われる、しかしながら筆者の教養の高さを窺わせる流暢な書体で記されたそれを二度見ることはなく、燭に近づける。サッと、炎が紙を包み込み、一瞬にして文字は朱に塗り潰される。
 火傷を負う寸前まで紙の端を手にしていたエインは、それが燃えて灰となり、さらにはふぅわりと蝶のように舞い上がって大気に溶けるまで、じっと見送った。その瞳にはまるで表情が無く、先刻、ミフィアが彼に見せた顔つきに酷似していたが、当然ながら本人が知る由もない。
 来てしまった。
 エインは胸の内につかえた何かを吐き出すように、溜息をついた。柔らかな茶褐色の髪に常緑樹色の瞳。面立ちも優しげで、少年は年齢の割には大人びて見える。彼の吐息は、そんな容姿もさることながら、年齢以上に苦難に満ちた人生を体験している事を象徴するように、重々しく響いた。生涯の最果てに立ち、やがてその身に訪れる全てを受け容れた老人の、潔い諦観に似た音色であった。
「エイン?サイノス、来たの?」
 声をかけられ、エインは軽く肩を竦めて見せた。
 もうひとりの住人、ミフィアの声。彼女には当然、サイノスがこんな深夜にこの家を訪れた目的が、既に分かっている。
「うん、今夜だって」
「……そう」
 不意に、背中に暖かなものが触れた。細く小さな腕が、彼の腰に抱きついてくる。
 しゃらん。少女の着けた装飾品がもの悲しい音色を奏でる。
「ミフィア?」
「エイン、今なら、貴方だけならここから引き返せるのよ。……いいの?」
 まだ10代になったばかりの少女の言葉とは思えない、ひどく大人びた発言であった。
 だが、エインは驚かない。
 少女の身の丈に合わせて跪き、入れ墨が彫り込まれた手を優しく取ると、エインはふっと微笑んだ。
「君の“白昼夢”が違える事を、この十年、ずっと祈り続けてきたけれど……、僕は悔やんではいない。君だけをこの“運命”の渦中に置き去りにはしないと、あの日決めたんだ。だから――」
 そのまま、ミフィアの温かな掌を自分の頬に当てる。少女の手は細かく震えている。ぱたぱたと、熱い雫が彼の髪に降り注いだ。だが、少年はそれを厭わない。寧ろ、愛おしいとさえ思う。
「だから、これでいいんだ」
 それはまるで、永い年月連れ添った伴侶のような姿であった。

 廃墟にも見える漆黒の街並みに、細い三日月がその片鱗を埋める時刻、エインはミフィアと共に町外れにある広場にいた。
 ふたりとも、夜陰に紛れるように墨色の羽織を纏い、微かに覗かせた白い手を繋いでいる。傍目には仲のいい兄妹のように見えた。月も溶け入るような深夜に、人気のない街に立っていることを除けば。
 ふたりの他に、数人の人影がある。各々ふたりと同じように、姿が見えにくい色彩の衣服を身につけていたが、決定的な違いは、彼等とふたりの間には数十年の年齢の開きがある事だ。他は皆、ふたりの両親、下手をすれば祖父にあたる年齢の男達ばかりだ。
「サイノスは?」
「置いてきた。あいつはまだガキだ。お祭り気分で、自分が何やってるか、まるで分かっちゃいねぇ」
 サイノスの父親だ。その言葉に数人が笑った。エインも、ついつい苦笑する。
「ミフィア嬢ちゃんも悪ぃな、こんな夜中に起こしちまって。普段ならもうおねむの時間だもんなぁ?」
「んー、らぁいじょぉぶぅ」
 答えるミフィアは、すっかり睡魔に負けてしまっており、呂律が怪しい。またしても、笑い声が漏れる。
 ミフィアの髪を撫でながら、エインはやや改まった声で訊ねた。
「それで、作戦は?」
「ああ、ルーソがやってるよ。俺達はあいつ等の指示待ちだ」
「『あいつ等』?」
「おぅ。何でも、“精霊使い”をひとり、拾って来たとか来ねぇとかでな。どっかで打ち合わせしてるよ」
「“精霊使い”」
 突然、ミフィアの真剣な声が会話に割って入った。あまりに唐突な横槍に苦笑しながら、サイノスの父親は答えた。
「ああ、えらくべっぴんなお姫さんだそうだ。あのルーソがそう呼んでたな」
「すっごーい!お姫様!」
 ミフィアの言葉は、あくまで好奇心旺盛な子供が、大人だけの秘密の会話に割り込んで、秘密を共有出来たと思い込んで喜んでいる、といった雰囲気だった。興奮気味な語調であったし、奇妙な意識の高揚感さえある。まるでさっきまでの気怠さが嘘のように、もう飛び跳ねて騒いで見せている。
 だが、隣で彼女の掌を握るエインには、その心が、まさしく手に取るように理解出来た。子供特有である少々暖かいその掌には、じわり、と汗が滲んでいた。瞳には、どうしても隠しきれない苦痛の色が浮かんでいたが、それにサイノスの父親が気付くことはなかった。

 「でも、ルーソってそんな偉い人と、一体何処で知り合ったんでしょうね?」
「さぁなぁ。あいつは昔っから、俺達の知らねぇ所で何かしてるって感じがあるしな。資金繰りもヤツがしてるし。盗賊にしちゃぁ、傭兵とか商人とか、妙な連中に顔が利くしよ。案外、あいつは王子様だったりしてな。放蕩息子で、親の反対押し切って、流浪の旅とやらをしてんのさ」
 サイノスの父親は、厳めしい顔に愛嬌のある笑顔を浮かべ、肩を竦めて見せた。彼お得意のジョークだ。周囲から大爆笑が起こる。
 ルーソが聞いたら、何て言うだろう……。
 困惑を曖昧な笑顔で誤魔化したエインだったが、刹那、ハッと顔を上げる。
 自分の頭の上に、たくましい腕が凭れかかるように乗っかった。
「そーだよ、俺は実は王子様だったんだよ、なぁ、エイン?」
「ルーソ!」
 ミフィアが目を丸くしてその青年を見上げ、それからさも当然というように、彼に抱きついた。
 彼女の表情に満足げに頷いて、ルーソはミフィアを、やはり馴れた様子で軽々と抱え上げると、肩車に乗せ、エインにニヤリと微笑んだ。
「よぅ、エイン!久しぶりだな」
「ルーソ、驚かせないでよ。今のは本当に分かんなかったよ、僕は。」
 正体が知れて安心したせいで、普段はミフィアにしか使わないような打ち解けた語調で、エインはルーソに笑顔で非難の言葉を浴びせた。
 だが、エインの背には、先程のミフィアと同じ類の汗が伝っていた。確かに周囲は殆ど灯りのないだだっ広い場所ではあるが、夜という絶対的な闇の中、視界が不明瞭である上に足場も悪い。開墾しただけで手付かずの広場だから、何かを踏んだり、躓いたりせずに前進するのは容易ではない。少なくても足音位は聞こえても良さそうなものだ。それに、これだけ大勢の人間が集まっていれば、誰かしろ気付いた筈だ。彼の職業柄、それを隠し仰せて、全ての条件をクリアする事が出来たとしても、エインとミフィアのふたりに揃って気付かせなかったのだ。非人間的なレベルで、まるで野生の獣のように勘の強い彼等を騙す事は、至難の業であるはずだった。
「ちょろいちょろい。お前等、“気配”で読むからな。それを消してやればいいの」
 まるで手品師の言葉のように、他の者が耳に挟めば意味不明の言葉をエインの耳元に囁きかけ、ルーソは何食わぬ顔でミフィアを乗せたまま、大人達の間に紛れていった。
「……『消した』?そんな、まさか……」
 聞かされたエインは、絶句したままその場に立ち尽くした。
 “気配”を消す、などという非凡な現象が、そう簡単に起こせるものではない。
「ルーソ、やっぱり“そう”なんだね……」
 ぽつり、と呟いて、エインは頭を振った。己の思考を己で断ち切るかのように。
 次の瞬間には、エインはいつもと同じ穏やかな笑顔で、仲間達の輪に加わっていた。