Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜」 第5章(前編)
作:きぁ





挿話1:“聖伝”


 汝、その名を以て、翠緑の大地を絶望で穿ち、瑠璃の大海を悲哀で涜せ。
 汝の名は“破壊”。
 天と地とを毀す者。

 汝、その名を以て、荒廃の大地に希望を育み、混濁の大海に歓喜を注げ。
 汝の名は“七聖”。
 天と地とを紡ぐ者。

 汝、その名を以て、世界に混沌の嚆矢を弓引き、世界に秩序の旋律を奏でよ。
 汝の名は“神”。
 天と地とを統べる者。










第5章:リーマ=V=ルフィーム


 コツコツコツ。
 忙しく、しかし決して騒々しくなく、寧ろ人目を憚るように小刻みに部屋の主を呼び続けるノックに、リーマは目を覚ました。
 浅い眠り。胸騒ぎがする。
 リーマは、微かに上擦った声で誰何を問うた。
「何方?」
「リーマ様、騎士団長様がお呼びです。お支度を」
 答えはすぐに返ってきた。耳慣れた女中の声。三十代後半か、もう少し年輩か。リーマの姉に当たる年齢だが、落ち着いた物腰の堅実な女性で、彼女が信用のおける唯一の人間だ。
 灯り取りの窓はなく、燭は消されたままだ。室内は漆黒の闇に満たされている。だが、肌に触れる空気の冷たさ、周囲からの物音、微かに聞こえた礼拝堂の鐘の音色で、大凡の時刻が知れる。そろそろ、月が大地に融けて沈む刻。それでも、日の出まではかなり時間がある筈だ。
 訝しげに、リーマは問いかけた。
「こんな夜更けに?」
「はい、急のご用向きとか」
 リーマは、露を帯びた大気から素肌を隠すように、胸元を掻き合わせた。
「……分かりました。すぐに伺いますと、伝言を」
「はい、では」
 何人か他にも控えの者があったようで、誰かが足早に足し去る衣擦れの音が耳に入る。そして、ぎぃ、と朽ちかけた木製の戸が開かれる音。
 そして、じっ、と燭に炎が灯される音。蛾の羽音に似てささやかなものだったが、リーマはその音に息を飲む。寒いはずもないのに、身体が勝手に戦慄き始める。細く白い指が、掻き抱いた着物をきつくきつく握り締める。
 その音は、彼女を他の寝所へと連れ去る屈辱の音色に他ならない。普段ならば。
「……本当に、アリオン様のお召し?」
 部屋の戸が閉ざされる音が聞こえ、室内に女中と自分以外の人影がない事を確かめると、リーマは獣に追われ立ち竦む野兎のように震えたまま、彼女に問うた。言葉には、先程までの冷静さはまるで留まっておらず、子供のようである。
「はい、姫様」
 答える女中の声はいつもと同じ穏やかさだ。
「……。どうして……」
「ご用向きは分かりませんが……、アリオン様のお呼びでしたら、夜伽のお勤めではないでしょう」
 そして彼女は、リーマの手をそっと取った。
「失礼致します」
 馴れた様子でリーマの指を解き、用意していたドレスをリーマの肌に当てる。
 薄紫の衣装は、至る所に金糸の縫い取りが施され、貴重な宝石の散りばめられた、女性ならば思わず目が眩む高級品であったが、リーマにそれが分かるはずもない。せいぜい、使われている生地の良さを素肌で知るのみだ。
 手早くリーマの着替えを済ませると、女中は彼女の顔を覗き込んだ。
 真正面を見えているはずの瞳は硝子細工のように霞んで、生気は全く見受けられない。彼女がこの部屋に幽閉され、情欲の相手としてナシム王の床に入る以外、一切の外出を禁じられて数年が過ぎる。悪い病に冒されたわけでもないのに、太陽が彼女を優しく照らし出すことがなくなった時から、彼女の視界からも光は失われた。良家の令嬢であったはずのリーマに、嘗ての生命力に溢れた、若々しい美しさはない。だが我らが主は、彼女を殊の外寵愛しており、月に照らされてひっそりと咲く月下美人の花を愛でるように他の人目に触れさせることもなく、未だ幽閉から解き放とうとはしない。
 月下美人。確かにリーマは美しい娘だ。用意されたドレスはリーマの為に設えられた物だが、それにしても素晴らしかった。
 リーマに薄化粧を施し、全ての支度を整えると、女中は心の底からの讃辞を述べた。
「良くお似合いになりますわ、姫様」
 女中はこの娘を不憫と思いながらも、その意向をナシムに告げることが出来ずにいる。リーマがいなくなれば、彼女と同じ悲劇に見舞われる娘がまたひとりふえるだけだ。己の手で招くことは憚られた。主の興味が他に向くのを待つより他にない。
 リーマが虚ろな表情で頷き、部屋を出るのに介添えながら、女中は内心で己の無力を感じずにはいられない。
 そして、リーマもまた、己の視力と引き替えに、思い掛けず手に入れたその“能力”の為に胸を痛め、その事を責める事が出来ない。この混濁と陵辱の闇からの救済を求める事が出来ない。
《お赦しを、姫様。どうかお赦しを、我が神よ。酷たらしいこの勤めを成さなければならない私を、どうかお赦し下さい……》
 女中の胸の内に反芻するその懺悔に、リーマは口を噤むよりない。

 「ふん、逃げたか……」
 薄暗い自室で、“青の騎士団長”ことアリオンは独り呟いた。端整な顔立ちには机上に置かれた小さなランプに照らされて、深く濃い影が落ちている。瞳は閉ざされており、祈るように組み合わせられた手に額を押し当て、微かに負の表情を浮かべている。額には珠のような汗が浮き出ており、彼が何かの苦行に耐えているかに見えた。
 ふっと、アリオンは目を見開いた。藍色の瞳は、靄がかかっているかのように霞んで、岸に打ち上げられた魚の死骸のように生命の気配が消え失せている。その瞳に、ゆっくりと覚醒の光が注し始める。澱みが消え、普段のあの鋭い眼光が彼の目に宿る。
 軽く頭を振って、アリオンは立ち上がった。
「……“予定”より少々早いが……、まぁ、仕方がないだろうな。何しろ“虚無”の男が首謀者なのだから」
 リン! 呼び鈴を鳴らし、配下の兵を呼びつけると、アリオンは既に先程までの苦悶を完全に振り払った騎士の顔で、彼に告げた。
「皆に伝えろ。城内に入り込んでいる者達を残らず捕らえろ。それから、“弟”が牢を破り、城内に潜伏している可能性がある。あいつには構うな――もし遭遇してしまったら、構わずに殺せ」
 尤も、お前達に出来るものなら、な。
 最後の一言を、アリオンは胸の内のみで呟いた。

 「すっごーい!広ーぉいお城ぉ!」
 およそ深夜の城内に不釣り合いな感嘆が漏れ、それが第二者によって慌てて遮られる。
「ミフィア、もちっと静かにっ!」
「ここで見つかっちゃったらお終いなんだから!」
 言うまでもなく、“革命派”――“レジスタンス”を名乗る反政権集団の最年少テロリスト・ミフィアと、彼女と行動を共にしているリーダーのルーソ、参謀エインの3人組である。
 むぎゅっと、ミフィアの口を押さえ、ルーソは深々と溜息をついた。
「おいおい、頼むぜミフィア。目的地までかなり距離があるんだからな?――だよな、エイン?」
 冷え冷えとした廊下に灯された松明に、手にした地図を翳し、エインは現在地を確認してルーソに頷いた。
「うん、やっぱりあのドアだね。“青の騎士団”の控え室」
 すっと指さした先には、殆ど視界の利かない、幅にしておよそ2メートル弱の長く、細い廊下が続いている。彼等の立つ場所より数メートル前方。十字路の接点と思われる広間が見える。右手には下り方向の階段、左手はかなり年季の入った木製の扉に遮られている。時折、そこから兵士らしき人影が飛び出して来ては、彼等のいる方向とは別の方向に――すなわちこの廊下の延長線上に、或いは階下へと走り去ってゆく。
 そして、あの不快な音を立てて開閉するドアを横切った先に、3人の目的地があるのだった。
「タイミングの問題。要はあそこさえ見つからなければ、いいわけだね」
 エインが明快に言い切ったが、表情は暗い。運や神頼みでは片付けられない、人間という意志のある生命体が関与する奇跡的なタイミング。それが命を賭すに値するほど高い確率でない事はエインもよく承知している。
「さぁて、どうすっかなー……」
 ちらり、とエインを盗み見て、素早く視線を戻し、ルーソはぼそりと呟いた。
 気付いたエインが顔を上げる。
「“使う”?」
「まさか。こんな場所じゃ勿体ねぇ」
 軽く戯けて見せたルーソに対し、エインは沈痛な表情を浮かべて頭を振る。
「……せめて、もうちょっと“力”があったらね。何回でもこなせるくらい……」
「エイン」
 窘めるように彼の名を呼んで、ルーソは息子の髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。
 ぎゅっと唇を裂けんばかりに噛み締め、俯いたエインは、己を覗き込むミフィアの、心配そうな眼差しを受け、力無く微笑んだ。そう、いかに些細なことであったとしても、彼自身が不安要素を周囲に振りまく訳にはいかない。それが参謀としてのエインの勤めだ。例えそれが己の胸内を裏切った偽りの仮面であったとしても、ここで演じきれなければ、その先に待つものは己より大切な者達を危険に晒すという、大きすぎる代償なのである。
「……ご免、忘れて?――そうだな、やっぱり二手に分かれるべきじゃない?敵を二分させるのにも有効だし。ミフィアの“閃光”で目眩まししてさ。ルーソはその間にあっち。僕等は今来た道を先に引き返す。ルーソについて走れる程、僕等は健脚じゃないし、往復に付き合える程時間もない。僕もミフィアも足手まといになるだけだ。ルーソ、それでいいよね?」
「けど――」
「あたし、だいじょぶだよっ!」
 彼の逡巡を拭い去るように屈託無い笑みを見せると、ミフィアはルーソの手をぎゅっと握って見せた。
「ね?大丈夫だよ、ルーソ。僕等ならやれる」
「……」
 沈黙のまま、時が流れた。それは恐らく数十秒にもなるかという、敵地内に於ける奇襲作戦という行動下にある者としては、あまりに無防備な時間であった。
 やがて、ルーソが重々しく口を開いた。
「……大丈夫だな?」
 念を押すようなその質問は、よもや疑問形ではなく、確信を得た命令形に近い音色を帯びていた。『無事で帰って来い』という命令だ。
「勿論」
「だぁじょぶ!」
 力強く頷くと、エインはにっこりと微笑んだ。
「さぁ、行って行って!僕等の未来の“お母さん”が待ってるんだからね!」

 どうする?
 薄暗い城内を、正しく夜陰に紛れて進みながら、カイルは胸の内で葛藤を巡らせている。牢を破り飛び出したはいいが、これから何処へ向かうべきか、彼は決め倦ねていた。留まる事はもはや不可能だろう。と言って、逃げ落ちる当てなどあろう筈もない。城下に知人もあるが、旧知のよしみで匿って貰えば、またあの悲劇を繰り返すだけだ。そう、地の果てまでも城から離れ、幸運にも“大陸”の王の目を欺く事が出来たとしても、あの男から完全に逃れる事は出来ない。そして、“青の騎士団”の長たるあの男は、彼の部下に命じ、執拗な追跡の後、容赦なくカイルを捕らえさせるだろう。無慈悲にも、何の謂われのない者達を巻き添えにして。
 ならばいっそ、この手で――。
「!」
 何者かがこちらに近付いてくる。気配を察知し、カイルは素早く階段下の闇に身を潜めた。廊下から踊り場へ、2名分の足音が接近してくる。それは、この場には些か不釣り合いなもので、カイルは眉根を寄せる。それは、警備の兵でも魔術師達でもなく、若い女性のものだったからだ。
 革命派達が侵入しているこの非常時に、何故女が、護衛も付けず、連れ立ってこんな場所を?逃げ遅れたのか。或いは侵入者によって解放された者が道を誤ったのか。それとも……。
 カイルは複数の可能性を脳裏に列挙し、そのひとつひとつを恐るべきスピードで検証していった。修羅場を経験した者のみが本能で体得する、それは戦略家に近しい思考回路である。
 そして、最終的にカイルは、己が運命を彼女達に賭す事に決めた。何者かまでは分からないが、足音だけで他者の身体的特徴は勿論のこと、その心理状態をも読み取る事が出来る。彼女達は何処かへ向かう最中、それも急ぎの用向きで呼び立てられた様子だった。とすれば恐らく、“革命派”や自分の情報が未だ伝達されていないはずである。だから不用心にも、人影疎らな城内を彷徨いていられるのだ。
 先程看守から失敬した刀に手をかけ、カイルは物音の立たぬよう気配を殺し、細心の注意を払いながら踊り場に立つと、彼女達を待ちかまえた。

 「待って」
 リーマが立ち止まり、同行していた女中は不思議そうな表情を浮かべ、哀れな姫君を振り返った。
 幽閉され、視界を奪われて以来、リーマは例え女中を伴っていても、部屋から一歩でも外に出れば、逃れる事の出来ない屈辱に怯えて身を強張らせ、紅を挿した唇は決して微笑むことはなく、いつも真一文字に結ばれた。この姫君が真に恐怖しているのは、光の射さぬ闇ではなく、絶対服従を強いられた相手の中に蠢く権力という暗黒、それなのだ。
 だが、そのリーマの口から、はっきりと、声が聞こえた。
「何方?」
「は?」
「何方か、そこにいらっしゃるでしょう?」
 すっと、リーマは病的なまでに色素のない、白く細い指で前方の薄闇を指した。燭の投げかける微かな灯りに浮かぶのは、見慣れた階段の踊り場。そこに人影はない。
「姫様?何方もいらっしゃいませんよ」
「貴方は何方?どうして、隠れていらっしゃるの?」
「リーマ様、参りましょう。騎士団長様をお待たせしては失礼です」
 リーマの手を取り、宥めるように言い聞かせるのだが、彼女はまるで誰かを“見て”いるかのように一点を見つめたまま、動こうとしない。
「……貴方でしたか、リーマ」
 と、不意に、その暗がりから声がかかった。
「何者です?」
 女中が声を荒げたが、リーマはそれを片手で制した。
「どうなされたのですか、このような場所で?」
 女中が呆気に取られ、立ち尽くしている横を、リーマはつい、と抜けると、その声の許へ歩み寄った。盲目とは思われない、その危なげのない自然な動作は、リーマがどれ程この廊下を歩き馴れてしまっているか、皮肉にも雄弁に物語っていた。
「貴方こそ、何故あいつに呼ばれているんです、リーマ?」
「御用向きは、私も存じ上げません。急なお呼びとの事で、これからお伺いするのです」
「……そう、ですか」
 声の主は些か苦々しげに答えると、姿を現した。
 女中が驚きの声を上げる。その人物は、彼女やリーマ姫が時折会話を交わした事すらある、よく見知った人物に間違いなかったが、出で立ちはその過去からは想像も付かない、あまりに酷たらしいものだったからだ。
 それは、まだ若い――リーマよりも若い青年だった。上半身は裸で、そこに、火傷と言わず擦過傷と言わず刀傷と言わず、無数の、ありとあらゆる類の生々しい傷が刻みつけられている。本人も流石にそれが堪える様子で、時折、苦痛に顔を歪めた。
「何て酷い事を……!」
 女中は悲痛な声音で叫び、彼の側に寄ろうとした。そして、それを視線のみで拒否される。
 リーマは親しき友人に再会した歓びの表情から一転し、霞のかかる瞳を殊更に曇らせた。青年の噂を耳にしていたからだ。
 そう、彼は確か、某の理由でナシム王の逆鱗に触れ、一度は監獄へ送還されたものの、国外へ逃亡したのだと聞いた。そして、最近になって“青の騎士団”に遂に捕らえられたとも。
 それを知った時、リーマは身を斬られるような哀切に捕らわれたものだ。囚われの姫君は、自らの意志でこの魔窟を脱し、束の間であっても自由を得たこの青年の身の上を、自らの憧憬も重なったせいもあり、我が事のように案じていた。
「まさか……、また、獄を破られたのですか?」
「……いろいろあって」
 事情を説明する事で、リーマや女中に害が及ぶ事を危惧したのだろう、青年は言葉を濁した。
「そう、ですか……。では、お引き留めしてはなりませんわね。どうか、早くお逃げ下さい」
 それを察し、凛とした言葉で彼の杞憂を拭うと、リーマはほんの僅かとは言え、普段は決して浮かべることのない微笑を見せた。
「ご無事をお祈りいたしております、カイル様」