Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第5章(後編)
作:きぁ





第5章:リーマ=V=ルフィーム(後編)


 刃の切っ先のような月が完全に大地に没し、淡く仄かな白濁が地平を染める頃、国王にして独裁政権の最高権力者ナシム王は、朝焼けと呼ぶにはまだ早い、しかしながら確実に未来を予感させる曙の煌めきに目を細めながら、窓辺に立っていた。
 足下には、先程彼の許へ伝令を携えて謁見を求めた兵が、今や変わり果てた姿で床に伏し、冷たく無機質な瞳で彼を見上げている。物言わぬ唇からは鈍色に変色した血が漏れ、それも既に乾き始めている。首筋には、鋭利な刃物でそれを一度に掻き斬られたらしい傷口がある。
 だが、ナシム王の関心は既にその肉の一塊に変貌した兵にはない。淡い霞の底に沈んだ己の領地、それだけを見下ろしている。
 口許に、秘やかな笑みさえ浮かべている。意味するところ、すなわち残忍なる肉食獣の、獲物を目の前にした悦に入った笑み。それである。
「いつまでそうしている?」
 “カオス”の独裁者は、その本性を別儀としても、王と呼ばれるに相応しい威厳ある声で、背後に重く淀んだ影に声をかけた。
「儂を殺しに来た。そうであろう?そして、今、それの適う距離にいて、儂を眈々と狙っておる。どれ程“気配”を殺しても、儂には分かるぞ。黒々とした“殺気”が、お主の中で蜷局を巻いている様が」
 彼の言葉は無論、彼の手に罹った哀れな屍にかけられたものではない。
 声をかけられた人物はそれを悟っている。夜陰に紛れ、あまつ“革命派”の襲来に乗じるという、綿密かつ剛胆に練られた暗殺計画は、事実上失敗に終わった。そしてそれを、事もあろうか目標たる当事者の口から告げられる事になろうとは、何たる皮肉か。
 正しく野獣の嗅覚、という訳か。
 何者かの奇襲がある、知ってもなお警備の兵すら付けないとは、幾ら私室であるとは言え、一国を預かる者の寝室とは思われない。己を過信しているのか、或いは罠か。
 不必要なまでに面積を有するその部屋は暗く、窓辺からの仄かな陽射しは、室内の全てには達しない。豪奢で優美な装飾が至る所に施されている素晴らしい設えであるにも関わらず、陵辱と愛欲の墓場たる寝所には、主の内面を映したように、点された炎すら淀む不浄の毒気が、混沌たる闇が蠢いている。触れただけで精神が穢れに感染してしまいそうな、野蛮で下品で乱暴な、禍々しい闇。
 不意に、その一部が動いた。戦場という修羅の世界を生き抜いた彼でなければ、その存在すら気付かなかったであろう。それ程“気配”は希薄であった。だが確かに、全身を鴉色の衣で覆い隠した人影が、ナシムの言葉通りそこにあった。
 彼は動じた風もなく、道化のように戯けた口調で出迎えた。
「ほ、これは驚いた。この部屋に入った女は数える程あるが――」
 ナシムは振り返った。半身を夜の闇に浸し、半身に生まれたばかりの、まだ脆く幼い陽射しを浴びたその姿の、闇にかかった部分に彼の魔性が垣間見える。
 狂喜の笑みを、そしてその底に潜む獣の牙を、無断に侵入した不届者に剥いて見せた。
「……手に刀を携えるは、お主が初めてだ」

 ぴりり、と、目に見えない何かが振動した。
 奇妙な錯覚に捕らわれ、ミフィアは思わず足を止めた。
 この歪んだ空間軸を持つ魔窟で、某の“能力”が動いた。尋常ならざる“何か”が。水面を揺らす朝露のように僅かであったが、その波紋が自分の神経に触れた刹那、直感で感じた。
 この城に、“いる”――!
「ミフィア?」
 突然立ち止まったミフィアに、エインは焦燥感を隠せずにいる。出来るだけ早くここを立ち去らねばならない、それはミフィアも重々承知している。
 彼等ふたりの現在置かれた状況は、巨大な迷宮を逃げ惑う子供、それだった。
 僅かばかりの魔力を持つミフィアが、“閃光”の魔法で“青の騎士団”の待機室に目眩ましを仕掛け、ルーソを通路の向こう側へ送り出した直後から、幼い彼等は言わずもがな、“青の騎士団”はもとより、この城の警備の兵、更には城仕えの魔術師達の標的となってしまい、執拗な追跡を受けた。はじめのうちは記憶していた間取りも、追われるうち忘却を余儀なくされ、右も左も分からない混乱状態に陥った。薄暗い廊下を必死で走る。そうこうしているうちに、窓辺に見ていた星が朝焼けの光に融け、方位さえも失った。すなわち、彼等は紛れもない迷子だった。
「ミフィア、行こう?ルーソ達に追いつかなきゃ」
 別行動に移った後にルーソがどうなったか、作戦が無事成功したのか、彼等は知る術がない。
 だが、ふたりは、育ての親であり、良き相談役であり、同胞であるルーソの無事を信じて疑わなかった。約束とは、ただの飾りではない。それを守る為にある。まして、ルーソとの約束は絶対である。だから僕らは、帰らなくちゃいけない、仲間の、ルーソの待つ場所へ。
 ミフィアは虚ろに霞のかかった瞳で、エインを見上げた。
 ハッと、エインが息を飲む。それは彼等が“白昼夢”と呼ぶ、ミフィアの“能力”が顕れた時に見せる表情だった。そこにある筈のミフィアという少女の存在は虚無となり、代わりに何者かが彼女の意識体を超越して憑依したかのように、言動が一変する。ミフィア本人にその状態に陥った時の記憶があるにはあるのだが、それが果たして無意識が紡ぎ出した彼女の内なる言葉なのか、或いは本当に何者かに支配された、神憑り的な依り代としての真言なのか、それは不明だった。
 分かっているのはただ一つ、“白昼夢”の言葉には、ミフィアの意志や理想は全く介在せず、ただただ紛れもない“未来”であるという事――。
「……“運命の……”が、“破壊”……を……」
「?」
「……殺……れ、る。……皆……が……」
「……ミフィア?僕が分かる?ミフィア?」
 かたかた、と、ミフィアの小柄な身体が戦慄き始め、瞳に現実の光沢が戻って来る。エインは尋常ならざる姿に、彼女の肩をそっと掴んだ。
 それを、ミフィアは乱暴に振り払い、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 そして突然、緊張が限界に達したかのように、絶叫を上げた。
「きゃぁぁぁっ!」

 悲鳴は2階から聞こえた。聞き覚えのない、幼い子供の声。
 “青の騎士団”を率いる細身の青年は、その絹を裂くような恐怖の声音に、微かに馴染みのある“気配”を感じた。
 ここは、子供達が好き勝手に遊び回れる場所ではない。暴力と抗争の恐怖政治の中心部であり、この“世界”の心臓部である都市国家カオスの王城だ。そのただ中で、こんな明け方に子供の悲鳴など、存在し得るはずもない。
 騎士団長アリオンは、フッとその口許に冷笑とも思しき微笑を浮かべた。彼とこの城の主、ふたりに対面を為しえた者なら気付くであろう、その笑みは彼の父であり、絶対不可侵の存在である国王ナシムのそれに酷似していた。
「……“レジスタンス”だな」
 碧瑠璃のマントを翻し、アリオンはその悲鳴の発された階下へと足を向けた。

 「お主が“魔女”の言う“最後の女神”か?」
「……」
 ナシムの質問に、鴉色の装束の侵入者は無言のままだった。
「成程、それで“運命”を“裁き”に来たか。……ならば仕方あるまい」
 ナシムは独り言ちると、腰の剣に手をかけた。年季の入った、それ故に名宝級であろう素晴らしい装飾の施された束から抜き払われた剣は、朝日に晒されて、ぎらり、と光った。
 王はそれを相手へ突き付けた。手早く、一歩の隙もない見事な剣捌き。
 侵入者は、それまでの鉄仮面の如き無表情から一変し、スッと目を細めた。手にした小刀を、倣うようにナシムに向け、下段に構える。刃渡りが違う以上、それを上段に挙げた時点で腹を捌かれ、またそれで無理に刀を払えば、間違いなく肩を斬り付けられる。その判断は、その類の戦闘を極めた、ナシム同様の強者であることを示している。
 無論、それはナシムの察するところでもある。彼はにやり、と笑った。本能で己と同等程度、或いはそれ以上の“強さ”を渇望する、武士の表情。
「なかなかいい顔をする。腕も立つようだな。では――」
 王は剣を構え直した。
「参る!」
 絶叫と同時に、齢50を上回るとは思えない跳躍、一気に間を詰める。そのまま剣を大地と水平に、空を斬るように振る。
 侵入者の瞳に、刹那、驚きの色が挿す。判断を迷ったが故に、その動きに半瞬の隙が生まれていた。一歩身を退いたが、既に遅かった。
 そこを、王は逃さずに突く。矛先を足下から突如として切り返し、彼の敵たる者の手元へ、迷わずに振り上げた。
「!」
 小刀が宙を舞い、それは彼方の壁面に突き刺さった。
「……くっ!」
 その左腕から真紅の血液を迸らせながら、鴉色の衣を翻して姿を眩まし、慌てて距離を開ける。
 その時初めて、侵入者の素顔が王の目に晒された。
 晩秋の豊かな大地のような小麦色の髪、鮮やかな翠緑の瞳の、それはまだうら若い娘だった。

 ほぅ、と、色を好む王は、目の前の美少女に下卑た感嘆の吐息を漏らした。
 城下では見かけない顔だった。この近隣でも、これ程の容貌を兼ね備えた娘はまずいまい。
「娘、“レジスタンス”か?」
「……」
 侵入者である少女は、無言のままにナシムを見据えている。
 否定。王は眼差しから己の問いへの回答を読み取る。
「ならば、何故参った?私怨か?それとも、強奪か?」
 少女は押し黙ったまま、答えない。これも否定。彼は内心舌打ちする。この程度の怪我では、娘は彼に屈服する予定はないらしい。
「最後の問いだ。お主……、死は怖いか?」
 最後だと告げた問いに、彼は返答を求めてはいなかった。この城に忍び込む者は皆、当然ながら決死の覚悟でいるだろう。だが、情けなくも彼等は、その覚悟を、死を垣間見た瞬間に鈍らせ、生命の断絶を恐怖し王に許しを乞う。浅はかで見苦しく、救いようのない愚者を、かつて掃いて捨てる程、正しく数えきれぬ程見てきた。その全てを斬って捨てた。この娘もやがて、その運命をなぞるだろう。
 だが、ナシムの意に反し、少女は桜色の唇を微かに動かし、答えた。
「ええ、勿論」
 少女は、敵であるはずの彼に向かって、微笑んだ。
 王は面食らった。絶対的優位にある自分に物怖じせず口を開いたかと思えば、いとも容易く本性を吐き出す。このような対面は初めてであった。
 気付くと、ナシムは豪快に笑い声を上げていた。
 気の済むまで笑い続けると、ナシムはぴたり、と笑顔を引っ込め、おもむろに剣を構え直した。
「面白い、正直者よ!ではその恐怖、身をもって味わうが良い!」

 微かに、か細く耳に届いた程度だったが、間違いない。あの悲鳴は、ミフィアの声だった。階下から聞こえたが、だが、彼等の居ると思われる位置は、退路として示し合わせた地下通路の出入り口とはまるで正反対の方向からであった。
 道に迷ったか、敵に追い込まれたか。退っ引きならない事情がなければ、エインが過ちを犯すはずがない。どちらにせよ、侵入者であるはずの彼等の、城内で居場所の分かるほどの声が響いたという事は、すなわち――。
 ぎりり、と、唇が裂けんばかりに歯を食いしばり、現在に至る判断を誤ったという後悔の念を噛み締める。無論、現状を打破する為にも、中途半端な疑念や悔恨を並べ、悲観している場合ではない。彼等を信じ、作戦を信じ、己の任務を遂行せねばならない。それが、今彼が取るべき行動であり、彼の全てであるべきなのだ。そうと知っても、それでも、彼の精神を負の感情が、じわりじわりと蝕んでいく。彼自身の判断が、仲間を窮地に立たせたという、事実を確認する術のない恐怖。反政権集団“レジスタンス”の首謀者を自負するルーソという“天上人”にとって、何より、守り、愛すべき者を抱える一己の人間として、耐え難い苦痛であった。
 緊張の為に涸れた喉が、彼の心理に呼応して鳴った。背筋を、暑い筈もないのに幾筋もの温んだ汗が伝い落ちていく。
 どうする?引き返すか?
 この期に及んで、ルーソは判断を迷った。敵地内での一瞬の油断。それは同時に最大の危機をも生み出す。熟知し、仲間に言い含めた筈の鉄則が、情という、人間の生涯の敵に、正しく最悪のタイミングで敗北を期してしまっていた。
 或いは仲間がいれば、その間隙を埋める事が出来たかも知れない。だが、それは無い物ねだりというものだ。彼はそれを承知の上で、この作戦に与しているのだ。
 己を見失ったその刹那、背後に更なる人物の気配が迫った。
「!」
 気付いた時には、既に避ける事も受け流す事も出来ない距離で、鈍色の光沢が松明に閃いて、空を斬っていた。
 そして、次の半瞬には、強靱な刃が彼に向かって振り下ろされていた。