Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第6章(前編)
作:きぁ





第6章:シーン=S=サイア(前編)


 「ルーソ?」
 不意に、耳慣れた声が聞こえた。
 反射的に閉じてしまった瞳を見開き、視線を上げると、そこには古い馴染みの顔があった。思わず、緊張で強張った顔がほころぶ。口を突いて出るのは、この局面には不釣り合いな挨拶であった。
「久しぶりだな、王子様。見違えたぜ」
「その呼び方は止めろと、いつも言ってる」
 剣を鞘に収めながら、不服そうに相手は顔を背けた。ルーソの一言が堪えたらしい、自嘲するように、奇妙に口許が歪んでいる。普段は微笑は勿論、負の表情すら浮かべぬ男だ。
 また親子喧嘩でもしたらしい。或いは、兄弟喧嘩か。
 全身を鎧兜で固めた相手の、頬や肩口から僅かに覗く傷口を目敏く見付け、ルーソは内心で溜息を吐く。彼の知るその男――と言っても、年齢ならルーソの方が二つ三つは年上であり、まだ青年と呼べる年頃なのだが――の肩書きは、この魔窟の全財産に加え、天上天下を支配する力の相続権を有する者、偉大なるかなナシム国王の後継者殿である。その彼にこれ程の深手を負わせられる相手は、名実共に城内に多くはない。
 無論、内心の考察などお首にも出さず、ルーソはニヤリと笑ってみせると、彼のブレストアーマーをコツコツ、と叩いた。
「こんな所で何を?」
 敢えて話題を逸らす事で、ルーソは相手に状況の説明を求めた。彼がその装束を纏う事を、自分の父親か、或いはそれ以上に忌み嫌っている。某の事情があっての事だろう、そう踏んだ。
 直接問う事は躊躇われた。後継者だの財産権だのという無形の足枷が、彼の自由を拘束し、その精神を多大に苛んでいる事を、ルーソは自らの経験からも嫌と言う程知っている。血筋というものは、己が好き好んで選べる代物ではない。皮肉にも、血筋だからこそ現在の己が存在していられる場合も有り得る。“運命”とは、決して格好の良いものばかりではない。
 深慮に気付いたのだろう、相手の青年はほんの半瞬、苦微笑など浮かべた。
 この一年半程会っていなかったが、随分と感情表現が豊かになったものだ。ルーソは少々意外な事実を発見し、それを口にするかどうか、僅かの間迷った。
 だが、青年は即座にその笑みを掻き消した。それを見て取り、ルーソもすぐに表情を引き締める。
 青年はいつも通りの鉄仮面を貼り付かせ、冷徹な質問を突き付けた。
「さっきのあれは、ミフィアだな?」
 ルーソはわざとらしく道化のように肩を竦めて見せ、口調だけはくだけたまま、しかし真摯な眼差しで問い返した。
「ちょっとばっかし事情があって、迷子だ。この広いお屋敷の、果たしてどの辺りから聞こえたか、分かるか王子様?」

 「ミフィア、ミフィア!落ち着いて。僕が分かるね?ミフィア!」
 薄暗い廊下の隅に無理矢理ミフィアを座らせると、エインは彼女の肩を両手で掴んだ。その姿勢のまま、ミフィアの顔を覗き込む。
 ミフィアの目からは、いつもの好奇心旺盛な、子供らしい純粋な輝きが失われている。まるで死者の眼差しだ、といつかエインが感じた瞳。それが少しずつ、霜が融けて露を帯びるように、色彩と光沢を取り戻す。ミフィアが“戻りつつある”証拠だ。
「……エ……イン……」
 寝惚けたような口調で、ミフィアは大切な友の名を呼ぶ。
 エインは焦る気持ちを抑え付け、出来るだけ優しく、彼女に問いかける。
「うん、分かるね?ミフィア、動けるかい?」
「動く……」
「うん、だからね、ミフィ――」
 ハッと、エインは言いかけた言葉を飲み込んだ。ミフィアを背中に庇い、立ち上がる。
 確かに、人間の移動する衣擦れが聞こえた。微かだったが、足音も。だが、あまりに俊敏な移動のせいか、或いは他の要因が働いているのか、それらしい人影を視認する事は出来なかった。
 魔術師か。エインは内心で舌打ちする。先代、すなわち現国王ナシムが、この広大な城を武力で制圧する前にこの地を治めていた王は、魔導と呪術に長けた女王だったと聞いている。政の一切をその特殊な“能力”で決定し、それでも国が安定していたというから、余程卓越した才能の持ち主であったのだろう。統治者が魔術師なのだから、当然ながら、配下の者にも魔導を得意とする魔術師達が多く、彼女は強力な魔術の使える者は、階級が平民であったとしても一切関係なく、好待遇高階級で取り立てていたらしい。その残党が、どうやらナシムの側近にもいるようだ。
 恐らく、姿を隠す魔術をその身に施し、ふたりにじわりじわりと接近してきている。五感は勿論のこと、超常的な第六感に於いても鋭いエインであったが、それでも姿を完璧に見極める事が出来ない。相当な使い手だ。
「ミフィア、……このままだと、囲まれる」
「う、うん。どうしよぉか、エイン?」
 やっと己の状況を思い出したらしいミフィアが立ち上がり、エインの袖をぎゅっと掴んだ。

 エインはミフィアを見る。いつもおっちょこちょいでトラブルメーカーで、けれど、どんな逆境にあっても元気で明るくて優しい、妹のような存在。大勢の友達、父親のように慕っているルーソ、そして自分自身の為に、失うわけにはいかない大切な家族。紫水晶の色彩を放つ大きな瞳に、“世界”の行く末を映し続ける、過酷な“運命”を背負わされた占い師。彼が誰よりも大切に想う、ミフィア。
 今、彼女を失うわけにはいかない、絶対に。
「……ミー」
「なぁに?」
「サイノスに貰った石、覚えてる?」
「?うん、分かるけどぉ?どうしたの?」
「あれ、サイノスに返しといて」
「え?サイノスに?」
「サイノスに。分かった?ミフィア」
「う、うん、分かった。サイノスに。……うん」
 穏やかに微笑んで言い聞かせるエインに、ミフィアは、突然始まった脈絡のない会話に戸惑いつつも、つい頷いてしまう。エインはそれが他愛ない約束なのだと錯覚させるように、笑いながら何度も、ミフィアに繰り返す。
「そう、サイノスにね。頼むね、ミフィア?……覚えたね?じゃあ、“言ってみて”?」
「うん。えっと、“サイノスに、あの石を、返す”……」
 ハッと、ミフィアが顔を上げた。彼女の瞳に、あの紫水晶のような、エインの大好きな美しい瞳に、驚きとそれを確信してしまった恐怖が映る。
「だめっ!」
 次の瞬間、ミフィアの姿は廊下から忽然と消えていた。その場に初めから存在していなかったかのように。普段ならば不可視の存在である幽霊か精霊が、人間をからかう為にひょい、と顔を出し、スッと消え失せて見せたかのように。
 ミフィアの悲鳴にも似た制止の言葉は、幻想の残滓の如く、薄暗く広い廊下に木霊して消えた。

 リーマを介添えながら、エフィーラは不意に耳に飛び込んできた声に、首を捻った。それは、この場にまるで不釣り合いな、まだ幼い少女の声だったからだ。
 彼女の同僚である城仕えの女中の何人かには、まだ幼い子供を持つ者もあったが、彼女の知る限り、好んでこの城内にそれを引き入れるような罪深き父母は、皆無と言ってよかった。
「今のは?」
 盲目という暗澹たる闇に貶められたリーマは、失われた視覚を補う為に他の感覚が他者より遙かに過敏である。当然ながら、その絹を裂くようなか細い悲鳴は耳に届いていた。
 エフィーラは思うままを素直に口にした。いつの頃からか、この姫君には己の思考が全て見透かされているような、表現しがたい不可思議な感覚を憶えて以来、エフィーラは努めて正直に、物事をリーマに伝えるよう心掛けていた。
 無論、実際にリーマの中でそのような“能力”が萌芽しつつある事など、彼女は知る由もない。
「分かりません、姫様。けれど、小さな子供のようでした」
「子供?どうして、こんな場所に――」
 言いさして、リーマは不意に口を噤んだ。病的に細く、白い指を揃え、ドレスの裾を軽く摘むと、正しく王女の如き優雅さで会釈する。元々貴族出身であるリーマには、一連の儀式の如き社交辞令がごく自然に身についていたが、その意味する所をエフィーラが理解出来たのは、彼女が低頭した相手の姿が薄闇の向こうから垣間見えてからであった。
「あれは、“革命派”の残党です。リーマ姫」
「あ、アリオン様!」
 エフィーラが慌てて数歩下がり、跪く。だが、恐縮するそれを構うこと無く、青の騎士団長はいつもの鉄仮面のまま、リーマに告げた。
「私の執務室でお待ち下さい、リーマ。後ほど、会わせたい人物が居る」
「会わせたい……?」
「貴方のよく見知った男です」
「!」
「但し、他言無用。宜しいですね」
 決して語調を荒げた訳ではないが、しかしながら有無を言わせぬ迫力を含んだ一言をふたりに投げかけ、長の名の通りの威厳を全身に漲らせたまま――尤も、対するふたりは、アリオンのその威風堂々を絵に描いたような雄姿以外を見た事は無かったが――、足早に去っていく。
 アリオンの背中が廊下の闇に消えるのを見送ると、エフィーラはリーマの手を取り、急き立てた。城仕えの彼女にとって、城主ナシム王の右腕とも言われる“青の騎士団”団長の言葉は、どんなに不条理な内容であっても、不可侵の命令に他ならない。
「リーマ様、参りましょう」
 だがリーマは、ぼんやりと放心したように宙を見つめたまま、まるで動こうとしない。曇り硝子のような瞳が、刹那、穏やかな光が灯ったように輝いたのを、エフィーラは見た気がした。
 紅を挿した唇が、微かに震えた。それはリーマが永年求め続けていた者の名を、今にも消え入りそうな声で、愛おしげになぞっていた。
「……シーン様……」

 窓辺から零れる陽射しが、淡い乳白色から、仄かな色味を帯びて薄氷の色に染まる。それが次第に蒼くなる。清々しい程の朝焼け。それを背に、さながら後光のように浴びながら、セシムは彼に対峙する者を睨み続けている。携えられた剣は、さながら贄を渇望する呪いの刃のように、侵入者たる娘を映して輝いている。
 対する少女は、初対面の時より更に一刻余り、ずっと口を閉ざしたまま、王をやはり見つめている。その瞳には何か魔性の気配が顰み、唇には、微かだが確かに笑みがある。妖艶にして、嫣然たる微笑。それがナシムを躊躇わせている。彼の剣がひとたび踊れば、それで全ては決する。侵入者である娘に既に武器はなく、王には長年愛用した、己の半身とも言うべき刀があるのだから。
 初めに出会った時の、鋭く冷たい、三日月の切っ先に似た“暗殺者”の雰囲気が、娘からは消えていた。代わりに、まるで皇女の如く威風堂々とした気迫が、いつからか浮かんでいるのだった。
 ナシムは眉を顰めた。窮地に立たされてる者の表情ではない。
「……何がおかしい?」
 それから更に半時を沈黙のままに過ごし、室内から完全に夜陰が消え去った頃、ナシムは遂に、自ら口を開いた。
「死を決したか?それとも、勝利を夢見たか?」
「……いいえ」
「では、何だ?」
「……」
 娘は再び口を閉ざした。
 ナシムは、僅かに焦燥の色を顔に浮かべ、剣を構え直した。本能が、彼の腕を、剣を振り上げた。
「僭越ですけれど、ご忠告申し上げますわ、城主殿」
「!」
 ぴくり、と、ナシムの腕が停まる。眉根に刻まれた深い皺に、つ、と汗が一筋伝い、それが豊かに蓄えられた髭に染み込んでゆく。
「“それ”を振り下ろした瞬間に、貴方は死にます」
「何、だと?」
「嘘だとお思いでしたら、どうぞ?お邪魔はしません」
 そして、娘はきゅっと唇を吊り上げ、笑った。それは、数刻前に見せた微笑みとは全く異質なものだった。
「貴様……、“何者”だ?」
 剣を上段に振りかぶったまま、ナシムは問うた。その声音に驚愕と戦きを含ませながら。
 娘は、奇妙な微笑を湛えたまま、応えた。
「貴方ご自身の、仰ったとおりですわ城主殿。私は、貴方もよく知る存在。……そう、確か――」
 問うておきながら、王はその剣を次の半瞬には振り下ろしていた。平常心を、彼の中で刹那にして膨れ上がった恐怖が喰らい尽くしていた。
 ごとり、と、本人すら予期せぬ音が、耳元から聞こえた。
 ナシムには己の身の上に何が起こったのか、それすら理解する事が適わなかった。
 純白の大理石の床を、真紅の血が不浄の生き物のように這い広がってゆく。その上を、ごろりと、つい先程まで娘を見下ろしていた頭蓋が転がった。
 続いて、恰幅のよい身体がそれの上に覆い被さるようにして倒れた。ばしゃ、と、己の体内から流れ出た真っ赤な血液が飛沫を撒き散らし、豪奢な衣装を朱に染めてゆく。
 返り血を浴びてなお、娘はまるで動揺すら見せず、今は物言わぬ肉塊に向かって続けた。
「……“終焉の神”なんて、呼ばれていましたね、昔は」