Arcadia 〜もうひとつの聖戦〜 第6章(後編)
作:きぁ





第6章:シーン=S=サイア(後編)

 「……くぅ……っ……!」
 ミフィアを見送ったエインは、さながら突然の発作に苦しむ病人のように、自分の胸を押さえ、片膝を付いてその場に蹲った。全身を這い回る表現し難い悪寒に、思わず口許を押さえる。堪えきれなかった吐息が、喘ぐように指の隙間から漏れる。きつく閉ざされた瞼の裏に、ミフィアが最後に見せた、今にも泣き出しそうな顔がよぎった。
 泣かないで。エインは小さく呟いた。
 姿を隠していた魔術師達が、彼の“力”に驚愕しながらも、しかしその変化に気付いて迫ってくる気配が分かる。魔導の道に立つ者であれば、誰もが経験する苦い業――高度な魔術を使う反動にエインは襲われているのだ。
 すうっと、数人の人影が現れる。全員が全員、一様に黒衣を纏って顔を隠している為、素性は分からないが、それの放つ異様な雰囲気と独特の物腰は、紛れもなく魔術師であった。廊下の左右から、彼を遠巻きに取り囲んでいく。
「小僧、お前もしや……」
 ひとりが口を開いた。一歩、前へ歩み出る。
 その瞬間、エインは動いた。
 正しく電光石火の勢いで走り寄ると、近付いて来た魔術師を羽交い締めに捉え、懐に仕込んでおいた小刀を突き付ける。
「動かないで!」
 額から大量の汗を流しながら、震える声でエインは叫んだ。
「僕は、誰も殺したくない!抵抗は止めて、道を譲って下さい!」
 魔術師達の間に動揺が走る。小声で何かを囁き合うのが、微かにエインの耳にも届いた。味方を見殺しにしても少年を捉えるか、それとも穏便な対応をすべきか。判断を考え倦ねているらしい。
 敵が垣間見せた、一瞬の迷い。それをエインは見逃さない。
『どんな相手でも、隙は一瞬でも見せるな。逆に相手の隙は、ほんの僅かでも見逃すな。人間だからな。どんなヤツであっても、必ず油断するもんだ』
 義父譲りの策略を、エインはそのまま言葉通りに実行に移した。尤も、彼に厳しく教え込んだ張本人であるルーソは、自らがその失態を演じてしまっている。それも、彼の最愛の息子を想っての事だったとは。
 無論、エインはそんな事とは露とも知らず、捉えていた男を突き飛ばすと、すぐさま逃走に入る。
 すぐに追っ手がかかる。体調が万全ではないエインは、荒い呼吸のまま、時折苦しげな咳を吐き出しつつ、ひたすらに走るより術はない。逃げの一手に転じる。
 薄暗い廊下に、突如として淡い陽射し飛び込んできた。天井部分に硝子が填め込まれた通路。ルーソと分かれ、ミフィアと走った道を逆送しているのか。けど、まさか夜が明けていたなんて……。
 色々考えを巡らせながら走っていたエインは、天井から目の前の廊下に視線を移し、ぎくり、とした。一瞬にして足が凍り付く。数歩の余韻の後、完全に立ち止まった。
 数メートル先に、目の覚めるような蒼の甲冑で身を固めた兵士が、行く手を阻むように立っていたのだ。
「……!」
 背後からは、当然ながら魔術師達が追ってくる。もうじき、追いつかれるだろう。
 コツ、コツ、と足音を響かせ、兵士がこちらに向かって歩いてくる。手には、使い込まれた鈍色の剣を握っていた。生々しく、乾ききっていない血液が付着している。
 じりり、と、数歩後ずさりし、魔術師達の気配にそれも止まった。
 兵士が黙ったまま、剣を振り上げる。鎧の軋む音がすぐ耳元で聞こえる。恐怖と緊張のあまり、エインはその一挙手一投足から目を反らす事が出来ない。
 逃げなくては。そう思った時には、既に遅かった。
 ぶんっ!容赦なく振り下ろされた剣から、蜂の羽音に似た風を斬る音が響く。エインは思わず頭を抱え、目を閉じていた。

 もう、夜が明けてしまったのか。
 吹き抜け構造の中庭を囲むように巡らされた廊下。明けの明星を探し、そこから方位を探りながらシーンは走っている。
 濃紺であった夜空は仄かに白み始め、藍から淡い菫、紫苑、薄藤、深紅へと刻一刻とその色模様を変貌させる。駆ける頬を撫でる夜風は曙の暖かさを孕み、温んだそれにうっすらと朝露が含まれてる。衣服をしっとりと濡らし、肌にまとわりついた。
 “革命派”と呼ばれる“天上人”の一派に与してこの城に侵入して、数刻が過ぎた。城主ナシム王を亡き者にし、囚われた同士を救い出す。それがどれ程の代償を伴うのか、彼は勿論理解していた。それでも、彼等の中に流れている“天上人”の血が、『仲間を救え』と駆り立てる。理性や知能をも支配する、精神そのものが疼くのだ。それはもはや“天上人”の中にある種族の違いをも超越した使命感、或いは古から継承された種の保存という本能と言うべきか。
 所詮、“地上人”と“天上”は相容れぬ存在なのかも知れない。
 シーンは時折、そんな事を考える。
 嘗て、現王城が別の小国の名を冠されていた平穏な時代――一介の傭兵に過ぎなかったナシムの反逆によってかの国が占拠される遥か以前から続く、由緒正しい商家の血筋。この地に移り住み、種族を偽り“天上人”たる誇りを捨ててまで、彼の父が心血を注いで得た財産、地位、名誉。その全てを抛って“革命派”を支持する自分。他界した先祖が現在の彼を見たら、裏切り者と嘆くだろうか。愚か者と嘲るだろうか。それとも――、誉めてくれるのだろうか、「それでこそ、サイア家の末裔」と。
 全ては、仲間の為。そして、最愛の“妻”の為。
 その為ならば、私は――。

 硝子のすっかり抜け落ちてしまった、低い天窓の枠越しに、薄暗い街並みに四角く切り取られた朝焼けを見上げていたサイノスは、はじめ、空耳かと思った。或いは自分は寝惚けているのか。どちらにせよ、その“声”がこの辺りに聞こえる筈もない。自分の聴力にそう言い聞かせ、粗末なあばら屋の天井を見るともなしに見上げながら寝返りを打った。
 だが、やがてそれははっきりと聞こえるようになり、確かに自分を呼ぶ“声”だと認識すると、がばり、と毛布をはね除けて起き上がった。微睡んでいた意識は、はっきりと冴え渡っていた。
 昨晩遅く、父は彼を、家族を置いて出ていった。少年は、友と、仲間と、父と共に戦う事を強く希望したが、それは聞き届けられなかった。聞く耳持たぬ、と叱咤され、殴られて部屋に押し込められた。それが父の自分に対する精一杯の愛情なのだと理解するには、少年はまだ幼な過ぎた。泣きながら戸を叩き続け、疲れ果てていつしか眠りこけていたらしい。気付けばもう明け方。もうじき母が朝食の準備に取り掛かろうかという頃合い。
 サイノスはいつも彼がそうするように、素足のまま天窓から這い出した。建物としては約3階建ての高さを有する場所にそれはあったが、サイノスは馴れた様子で隣家の屋上に飛び移り、廃材を掻き集めただけの、どこも彼処も全く同じに見える、無個性で単調な屋根をミシミシと軋ませながら、野良猫よりも俊敏な動きで次々に渡っていく。

 ナシム王の“気配”が、途切れた。それも、彼以外の何某によって、不自然な形で、無理矢理捻じ曲げられ、ぷっつりと断ち切られた。病死でも老衰でも事故でもない、紛れもない第三者の意識の介在した死。
 無敵を誇った独裁者が、何者かに殺された。
 アリオンが室内に踏み込んだ時、彼の予想通り、そこに嘗ての主の姿はなく、代わりに父にしてこの独裁国家“カオス”の最高権力者・ナシム王と、警備の兵士と思われる2体の躯だけが、床にだらしなく転がっていた。軽蔑の眼差しでそれらを一瞥し、あっさりと無視した。
 血みどろの部屋で唯一、生命ある人間――死体の傍らに立ち竦む黒衣の人影に目をやる。己の半身とも言うべき剣の柄に、無意識のうちに手を添えていた。
 彼の視線を感じ取ったらしい、相手が顔を上げる。朱一色に染め上げられた凶器と思われる小振りの刀を、震える細く白い指できつく握り締めている。それから、ぽた、ぽた、と、深紅の血が滴り落ちている。
 刹那、眼が合った。
 アリオンは、彼自身が作り上げたお定まりの“青の騎士団長”という仮面に、驚きの色を滲ませた。だがそれは、本当にささやかな時間であり、対面した相手がそれに気付く事はなかった。彼はすぐに、持ち前の冷徹な思考力と推察力をもってそれを素早く封印すると、この状況に至ったあらゆる可能性を脳裏に弾き出した。最も有力と思われる仮説を導き出すと、彼にとって最も好ましいと思われる結末と、それに至る行程を一気にシミュレートする。その間、たったの数秒である。
 そして、アリオンは即座に行動に出た。
 柄を握り直し、動揺も露わに身動きが取れずにいる侵入者に電光石火の勢いで迫ると、その腹部に、鈍く重い当て身を咬ませた。
「……っく……」
 相手が苦痛に呻き、身体を前のめりに屈めた。アリオンの技は間違いなくその鳩尾に決まった。手から小刀が滑り落ちる。
 素早くそれを足で払うと、アリオンは、既に意識が途切れ頽れるそれを、馴れた様子で受け止めた。
「……」
 アリオンは無言のまま、腕の中に眠る人物を見つめる。彼が捕らえた黒衣の相手は、自分よりも若い女だった。血にまみれた衣服から覗く顔は、端正な面立ちで美しいが、まだ女性と言うよりも少女のあどけなさが残っている。人殺しを生業にするにはあまりに幼く、ひどく不釣り合いに見えた。城下の“革命派”の顔は大抵見知っている筈のアリオンにも、彼女の記憶はなかった。
 そして何より、彼は少女の頬を伝う、まだ暖かな雫、それに無意識にも目を奪われた。
 少女は、恐らくは彼女自身が葬り去ったと思われる生命の成れの果てを前に、涙していたのだ。その理由が解せなかった。
 何故、己が討った敵の死に泣く?後悔か?謝罪か?懺悔か?それとも――、哀悼なのか?王を、側近の兵を殺めたのは、“お前ではない”のか?
「――!」
 刹那、彼の脳裏に甦った“伝説”に、アリオンは、深く底の知れぬ大海の色彩にも似た、群青の瞳をカッと見開いた。そこに、春雷の稲光のように鋭利な、閃きが走る。
 そうか。アリオンは納得した。
 “彼女”は未だ、己に課された“運命”を知らない――。

 サイノスは屋根伝いにいつもの空き地に辿り着くと、身の丈の3倍はあろうかという高みから身を躍らせ、器用に着地した。雑草を啄んでいた痩せこけた鳥達が驚いて一斉に飛び上がる。
 もうすっかり、夜は明けていた。
 サイノスは目を凝らした。その鮮やかな黄金色を背負って、案山子のようなひょろりとした黒い影が立っている事に気付く。蜃気楼か陽炎、あたかも、その瞬間に出現した幻影のように。
 無論サイノスには、それがどれ程希有な事象であるか、状況を飲み込む事など適う筈もなかった。
 やっぱり。サイノスは内心で頷き、でもそれを上手く言葉で表現する事が出来ない、奇妙なもどかしさを感じながら、その影に駆け寄った。
 細くて小柄で華奢なそれは、彼の思った通り、よく知った少女だった。普段とは違い、死に装束のような真っ黒な衣服に身を包んではいたが、それは紛れもなく、占い師ミフィアなのだった。
「ミフィア?何でお前、こんな所にいんだよ?逃げ出して来たのかよ?役立たず」
 またやってしまった、と、頭の中でもうひとりの自分が舌打ちする。また、きつい言い方をしちまったなぁ。別にミフィアが嫌いな訳でも憎い訳でも何でもねーのに。何でこんな言い方しか出来ねーんだろ、俺?
「……」
 彼の後悔を余所に、ミフィアの方は俯いたまま沈黙している。
 勝ち気で好奇心旺盛なサイノスには、少女の沈黙が何かを勿体ぶっているかに見え、先程の反省などすぐに消し飛んでしまって、矢継ぎ早に捲し立てた。
「どーなったんだよ?オヤジは?ルーソは?エインは?みんな無事か?ちゃんと敵の首、取ったか?なぁ、ミフィアー、教えろよー!」
 エイン、の名に反応して、ミフィアがびくり、と顔を上げる。
 澄んだ紫色の瞳から、ぱらぱら、と大粒の雫が飛び散った。
「え?」
 ぽかん、と呆気に取られるサイノスの手を掴み、ミフィアはそこに小さな鉱石の欠片を載せると、無理矢理握らせた。
 そして、己の“運命”を詛う言葉を、生まれて初めて心の底から叫んだ。
 占い師としてではなく、まして“世界”の行く末という重すぎる“運命”を背負う者としてでもなく、ただ、大切な家族を想う、ちっぽけな少女の言葉で。
「こんな……、こんなの、こんなの嫌だ!こんな“未来”の為にあたし、生まれたんじゃない……!」

 “青の騎士団長”が軽く指を鳴らすと、何処からか音もなく、数人の黒装束の男が現れた。先刻エインに忍び寄ったナシム王付の魔術師達に酷似していたが、醸し出す雰囲気には彼等よりも一層毒気を孕んだ、存在するだけで周囲をどろりとした重苦しい空気で覆い隠してしまうような、明らかな負の気配があった。
 男達は動揺ひとつ見せず、無言のまま王の亡骸を取り囲む。その行動は恐ろしく俊敏で、獲物を狙う蛇か蜘蛛の如く、足音はおろか衣擦れの音ひとつない。王の身体はすぐさま黒いヴェールの向こう側に隠された。
「……」
 アリオンはそれを沈黙のまま見つめている。
 やがて、その黒い固まりの中から、奇妙な音が漏れ始めた。
 ごきゅり、めきょり、と、関節を無理矢理におかしな方向にねじ曲げたような、形容し難い音声が、幾度となく早朝の寝室に響いた。
 先程まで黒装束達が放っていた禍々しい邪気が更に強大に膨れ上がるのを肌で感じ取りながら、アリオンはなおも無言である。だが、その鉄仮面には、本人すら自覚し得ない変化が生じていた。完璧に押し殺したはずのアリオンという一己の人間の感情が、再び露出し始めている。
 それは、畏れや戦慄でなく、まして安堵や哀切でもなく、その部屋で、彼の目の前で繰り広げられている“儀式”に対する、紛れもない嘲笑であった。

 夢幻と消えようとしている夜の残滓が、冷ややかな夜露を含んで靄として立ち込める城内。それを追い払うべく射し込む朝陽が織り成す、仄かな黄金色の光の帯から身を隠すように、廊下の僅かな闇に身を潜め、周囲に素早く視線を走らせながら、ルーソは内心で舌打ちする。
 城内は、明け方までの騒動が嘘のように静まり返っていた。侵入者を捕らえるべく奔走している筈の兵士達の足音はおろか、人ひとり、小鳥の一羽すら絶え果ててしまったかと錯覚させる無音の世界。己の吐き出す呼気だけが、むしろ耳障りなほどに響く。
 故意に作られた沈黙。偽りの静寂。
 そのような“芸当”を打てる人間を、ルーソはたったひとりだけ知っている。
 否、それこそが、“彼女”の“能力”――曰く、“同じ”存在。
「いるんだろ?出て来い!」
 意を決し、立ち上がるとルーソは叫んだ。己の居場所を故意に敵に晒す行為。敵地に於ける侵入者として、間違いなく常軌を逸脱した行動である。だが、ルーソは躊躇わなかった。
「全て思惑通り、って訳だ。俺やミフィア、エインは……、いや、ひょっとしたらアリオンも、アンタの掌の上で見事に踊らされた、と。そういうこったろ、“古の魔女”さんよ?」
 数秒の沈黙。ルーソの怒声のみが、空しく虚偽の空間に木霊し、掠れて消えた。
 ルーソは暫く黙って反応を伺っていたが、己の怒りの矛先が露と消え、無駄と見て取ると、再び口を開きかけた。
 不意に、まさにそれを制するかのように、廊下に落ちる幽かな陰が、ゆらり、と揺らめいた。つい先程まで、ルーソ自身が潜んでいた闇。壁面と床を這っていた二次元の黒色がにわかに空間軸に迫り出し、形を成していく。
 やがて、それは紛れもない人型を形成した。
 だがそれは、決して人間とは呼べない、異形の怪物そのものであった。
 顔に当たる部分だけが仮面の如く白く、他の部位は全て、ドロリとした重油のような、重く粘性のある黒。背の丈はちょうどミフィアと同じか、少々高い程度。どう転んでも、決して生命体とは思われないそれの顔面が、ちょうど彼を嘲るように逆三日月型にぱっくりと割け、老婆と思われる嗄れた声が漏れた。
「……これは、随分な口をきく」
「利きたくもなるさ、アンタみたいな裏切り者相手じゃな」
「妾は裏切ったりはせぬ、全てはこの“世界”の為」
「夫を――一族の当主を、ナシムみてぇなろくでなしに売った人間とは思えねぇ台詞だな。……いや、もう“人間じゃあねぇ”ようだが」
「ふふ、気付いたか……。やはり、“神”の子よの、シーン」
「その名で呼ぶな」
「ふふふ、何を躊躇うか?サイア家の末裔、“闇を統べる神”の後継者……、妾の可愛い息子」
「アンタを母親だと思った事なんて、一度もねぇ!」
 明らかな嫌悪と侮蔑の表情を浮かべ、“母”を名乗った怪物の言葉を一言のうちに唾棄して、ルーソは懐から小刀を抜いた。
 鋭く光を撥ねるその切っ先を向け、ルーソは腹の底から声を絞り出した。
「退け。退かねぇなら――、斬る!」