暗殺者の哀歌 前編
作:紗慈鴻玄





プロローグ

 緑の海の上を、五・六才くらいの少年が勢いよく走っていく。
 目指すは遠くからでもその大きさをうかがえる大木がある場所。少年のお気に入りの遊び場所である。
 少し前まではただのお気に入りだったのが、ここ数日で大層なお気に入りとなった。
 少年は小高い丘を一気に駆け上がり、大木を一望する。
 その根元に、二つの影があった。こちらに気付いたのだろう、小さな影がこちらに向かって大きく手を振るのが見える。その隣に少し遅れて、先のよりちょっとだけ大きな影が何の動きもなく立った。
 それを見て少年は苦笑する。相手の顔がどんな風になっているか手に取るように分かったからだ。
 少年は一度大きく手を振り。そして駆け出した。




「…………ん……」
 カーテンの隙間から差し込む朝日をまぶたに受けて、ブラッドは目を覚ました。むくりと体を起こし、一度大きく伸びをする。
 年の頃は十代半ば。短めに整えられた漆黒の髪、銀色の瞳は寝起きのけだるい雰囲気を惜しげもなく発していた。
「……朝、か……」
 そう呟きながらベッドから出ると、ブラッドは小さな桶と布切れを片手に部屋を出た。
 小さな集合住宅の二階の一部屋に住む彼は、さんさんと降り注ぐ太陽光から目をかばいながら空を見上げる。
「……いい日差しだ」
 住処の近くにある井戸までやってくると、ブラッドは持ってきた桶に水を汲み、顔を洗い、身体を拭くために上着を脱ぐ。その胸元では首から下げられた、まるで切り出したばかりのような青い鉱石が朝日を反射して輝いていた。
 この時間帯はもうどこの家も井戸の水を汲み終わっているため、所々傷のある上半身をさらしても、奇異の目を向ける者はいなかった。
 家に戻り、簡単な朝食を取っていると、コンコンと何かが窓ガラスを叩く音が聞こえてきた。
「ん?」
 窓の方を見てみると、一羽の鳩が首をかしげている。この位置からでは窓枠が邪魔になって見えないが、その足には依頼の手紙が付けられているはずだ。
「……そういえば結構久々だな」
 音もなくブラッドは窓に近寄り、鳩を中へ迎え入れる。案の定取り付けられていた手紙を取り外し、朝食を少し分け与えてから、彼は鳩を空に返した。
「さてさて……」
 朝食を中断して手紙にざっと目を通す。書いてあったのは次のような事だった。

 我が血の盟友へ。
 先日ジュード・ノトスの葬儀が行われた。
 その折、彼の二人目の娘を私が預かること
 となったのだが、間の悪いことにある伯爵
 に会いに行かなくてはならない仕事が入っ
 てしまった。そこで君に留守を頼みたい。
 期間は二週間程だ。君が望むならクレイを
 頼ってもかまわない。
 それではくれぐれもよろしく頼む。

 一見すると、それは知人にあてた頼み事の手紙に思えたが、書かれている字は間違いなく教養のある大人のものだ。十代の、しかも貴族でもなんでもない少年が受け取るにしてはいささか不自然な代物である。
 しかしブラッドはただフンと鼻を鳴らしただけだった。
「ジュノー……。なるほど、それで俺か。んで、標的はそこの伯爵の次女様、と。要望内容が……」
 ブラッドはそこで一度言葉を切り、大きなため息をついた。
「クレイ、ね」
 その部分だけで依頼者の要望が何か分かった。正直、あまり好きではない方面の話だ。
 とはいえ、仕事の選り好みが出来る立場ではない。自分は暗殺者、ただ組織に命じられるままに人を殺す人形に過ぎないのだから。
 ブラッドは手紙を何もない暖炉に放り込み、マッチで火をつけて焼却した。その後再び朝食に手をつける。
「ジュノー、カナス領…か。何年ぶりかな。……それにしても、何で今になって……」
 ジュノーの街があるカナス領は、今住んでいるヤークン領から馬車に乗って丸二日はかかる距離にある、どちらかと言えば辺境、もとい田舎に類する場所だ。そこの領主であるホーマル伯爵は穏やかな性格と古き良き騎士の精神を持つ人として知られ、領民から厚い信頼を受けている人物である。
 反面、都に住む貴族達からはあまり好かれていない。王に対しても毅然とした態度を取ることが出来る伯爵は、王に媚びへつらうことしか出来ない者達にとって疎ましく妬ましい存在だからだ。
 さらに王は王でそんな伯爵の態度にいたく感銘を受けており、何かと伯爵に相談を持ちかけたりしているらしい。これでは都の貴族達は面白くないだろう。
「……そういやつい最近、この伯爵が賊に襲われたって話をどっかで聞いたな」
 ブラッドは伯爵について知っている事柄を思い出す過程で、つい最近もその名前に触れたことを思い出した。
 確か領内視察中の伯爵を狙って賊二十数名が襲いかかったが、連れていた見慣れぬ風の従者一人にあっさりと撃退されたという話だ。伯爵襲撃の報は国中に広まり、それが本当ならその従者は相当の手練だなと感心したことを覚えている。
 ふと、ブラッドは何か考え込むようにして右手を口に当て、自分が燃やした手紙の灰をじっと眺めた。
 しばらくそうした後、軽く息を吐くようにして微笑する。
「なるほど。そういうことか」
 ブラッドは食べかけの朝食を片付け、いそいそと出かける準備を開始した。その動きに先程までのだるそうな雰囲気はなく、新しいおもちゃを見付けた子供のような雰囲気を帯びていた。


 暗殺の期限は二週間。移動に二日、下調べに一週間、作戦を立てるのに一日かかるとして、残りは四日ということになる。まあ四日しかなかろうと一ヶ月あろうと暗殺実行日はその日限りで失敗すれば後はないわけだが。
「……これでよし、と」
 目的地で宿をとって早々、ブラッドは組織の仲間にしか分からない目印をつくり、自分が来た事を知らせた。後は相手からの接触を待つばかりである。
「っても、あのクレイだしな。……今のうちに街を見物しておくか。昔と様変わりしている所があると面倒だし」
 持ち歩いているとまずいものは全て部屋に残し、ブラッドは宿を出る。とりあえず露店で果物を買い、それをかじりながらぶらぶらと街を練り歩いた。その途中いたるところで巡回中の兵士を目にする所を見ると、先の事件でだいぶ警戒の目が厳しくなっているようだ。
 奇襲、闇討ち、暗殺等は最初が最も成功率が高く、後になればなるほど困難になってくる。
 しかも今回は初めの襲撃からまだ日が浅い。いくら目標が娘に変わっているとはいえ、賢明な伯爵は家族の安全にも十分な配慮をしているはずだ。
「ま、それはそれでやりがいがあっていいけど」
 結局、ブラッドは日が落ちるまでに街中の裏道や袋小路の全てを調べ尽くし、宿に戻って地図を作成し始めた。
「ここの道がここへつながっていて、こっちはあの辺りに出る、と。……ふーん、さすが伯爵。昔よりもずいぶんと整備されてる。えーっと、ここは行き止まりだけど壁の向こうはここに通じて――」
「ご苦労なこった」
 突然ブラッド以外の声が発せられ、彼の独り言を遮った。
 少しだけ顔を上げてちらりと声の発せられた方に目を向けてみると、テーブルを挟んで反対側で細身の男が口の端を吊り上げて笑っていた。
 ランプの明かりに浮かび上がるきらびやかな金髪。夜の闇の中では見えにくいが、赤紫の瞳は見るものの心を騒がせる魔性の光を帯びている。
「お前、ずいぶんと腕が落ちたな。一体いつから俺がここにいると思ってるんだ?」
「十分くらい前からだな」
 そう即答され、男は一瞬絶句し、そして何とも言えない声を漏らした。ただ単に自分が無視されていただけだと分かったからだ。
「……ちっ。何だよ、気付いてんならなんか言えよな。これだからガキは」
「確かに俺はまだ十六だが、ガキだってのはお前の事だろ? クレイ。十九にもなってつまらない事をするな」
「ああん? ちょっと確かめたかっただけださ。仕事のパートナーに足を引っ張られるのは嫌だろ?」
 クレイは肩をすくめながら溜め息をつくように言った。
「……そうだな。気付かれていないと思って襲い掛かったのに、実はとっくに気付かれていて返り討ちにあった、なんてのは笑い話にもならないな」
「…………。面白えじゃねえか」
 クレイはちらりと外の夜空を見上げ、
「なら、今度は本気でやってやろうか?」
 クレイの顔から表情が消え、その身体から尋常ならざる殺気が放たれる。常人なら腰を抜かしかねないほど強烈な殺気だったが、何故か放たれると同時に急速に霧散してしまった。
 何故なら、
「っ………!」
「頭はどうか知らないが、身体は結構利口だな。しっかりと自分を守っている。もし後少しでも長く殺気を発し続けていたら、お前の心臓は音を刻まなくなっていた」
 クレイに寄り添うようにして立ち、冷めた口調でそう言うブラッドの手には、地図を書いていたペンが握られている。そしてそのペン先は、クレイの頚動脈わずか数ミリメトル手前に突きつけられていた。
 クレイがつばを飲み込む音がやたらと大きく聞こえる。
 それを確認すると、ブラッドはペンを下げ、床をキイキイ鳴らしながらテーブルの横を回ってイスに座り、地図の作成を続行した。
 その様子を、クレイは呆然と眺めた。
 彼がブラッドから目を離したのはほんの少し、時間にして二秒あるかないかだ。ということはそのわずかな時間のうちに、ブラッドはクレイの目の前に達し、ペンを突きつけたということになる。イスに座っていて、間の床は少し体重をかけるだけで音が出る状況下だったにもかかわらず、だ。
「これが、「黙歩」……。サイ…レス……」
 クレイはあとずさりながら、そう口走った。
「……彼の者は音無しの化身。静寂に身をおき、己が音すら消し去る者。その姿見し者未だおらず。彼の者と会い見えし者、永久(とわ)に音を失うが故……だったか? いつだったか吟遊詩人の間で流行ったの詩は。まあ、あの頃は上が派手に俺を使いまくったからな。変な二つ名付けられたもんだぜ」
 地図を作成する手を止めずに、ブラッドは面白くなさそうに坦々と言った。
「まったく、あんなに殺気を出すなよ。この街には相当な使い手が少なくとも一人いるんだぞ? いたずらに怪しませるような事をすんな」
 ブラッドはそこまで言うと今度は手を止め、顔を上げてクレイを見つめた。
「……殺すぞ?」
 ブラッドににらまれ、クレイはさらに一歩あとずさった。
 殺気を感じたわけではない。ただその目が、まるで氷のように冷えきった銀眼が、言いようもない恐怖をクレイに与えていた。
「あ、ああ。分かった。もう…おかしな真似はしない」
 あえぐようにクレイがそう言うと、ブラッドはうむうむと満足げにうなずいた。
「さて、それじゃまずは情報の交換だな。クレイ、お前がここにきたのは?」
「よ、四日前だ。俺は本部から直接ここに来たからな」
「なら当然兵士の巡回時間と経路のパターンはある程度調べてあるな?」
「当然だ。これにメモしてある」
 クレイは懐から数枚のメモを取り出しブラッドに手渡した。
 それに一通り目を通すと、ブラッドはクレイにメモを返し、
「よし。じゃあお前がこれの出来ている所にメモの内容を映してくれ。最初っからこれだけ分かってれば、下調べはすぐに片がつきそうだ」




 うそつき。
 少女は小さく言葉を発した。
 空には月や星が浮かんでおり、すでに子供の出歩く時間帯ではないというのに、少女は地面に座り込んでじっとしていた。
 すぐに戻ってくるって、言ったのに。
 少女は近くにあった小石をつかみ、ひょいと投げる。その行為に何の意味もないが、少女はしばらく、小石がなくなるまでそれを続けた。
 そして、
 ―――の馬鹿……
 抱えた膝に顔を埋め、少女は小さくそう呟いた。


 夜空には幾多数多の星々と、大きな月が浮かんでいる。
 少女はテラスにゆったりと座れる一脚の椅子を持ち出し、そんな夜空を眺めていた。
「………………」
「お嬢様」
 少女の後ろから声が掛かる。しかし少女は返事も身動きもせずに夜空を見上げ続けた。
「お嬢様」
 声が近づいて来る。しかし少女は何も言わない。やがて声の主は少女の真後ろに達し、そっと手を伸ばして少女の両頬に触れた。
「ひゃっ」
 少女は驚いて声を上げた。どうやら眠っていただけのようだ。
「泣いて、いたのですか……?」
 自分の指についた液体を眺めながらそう尋ねたのは、長い黒髪を紐で縛って垂らしている、こちらも見た目にはまだ少女といっていい人物だった。
「え? あ、本当だ。どうしたのかな、私」
 少女は目をこすって涙を取り去ると、
「ところでシーマ。一体どうしたの?」
「どうしたの? ではございませんよ、リエラお嬢様。常々申し上げていますでしょう? 外に出るのはかまいませんが、そこで寝てしまうのはおやめください。風邪でもひかれたらどうするのです?」
「でも、気持ちがいいとつい……」
 リエラはペロッと舌を出して悪戯っ子な笑みを浮かべる。
 シーマはふうと息をはいた。
「今は伯爵様の周りで何やら不穏な動きがあるのです。その娘であるお嬢様にも何か危険がないとも限りません。ですから――」
「もう少し警戒して行動してください、でしょ? もう何回も聞いた」
「でしたら……」
「嫌」
「は?」
「だって、シーマだって私がいつも言ってる事をやってくれないじゃない」
「……二人だけの時は他人行儀な喋り方はしないこと、ですか。しかし私は自分の素性も知らぬ、伯爵様の御好意で雇われている者に過ぎません。そんな私が……」
「それも前に言った。あなたの素性なら私が知ってる。あなたはミレ――」
「シーマ」
 リエラの声にかぶさるようにして、低く重みのある声がシーマを呼んだ。
「ここにおります、伯爵様」
「おお、ここにいたか。うん? リエラと話していたのか。これはすまない」
 テラスにやってきたのは立派な髭を蓄えた熊を思わせる男だった。
 グライト・ホーマル伯爵。四十をいくらか過ぎているのだが、若々しく精悍な顔立ちをしている。服に隠し切れない分厚い胸板やたくましい腕は、まさしく民を守る戦士のそれである。
「いいえ、またお嬢様がここで寝てしまわれていたものですから。それはそうと、何か御用でしょうか?」
「ん? おお。うむ。実はな、少し相談したい事があるのだ」
「私にできる事でしたら」
「というより、お前にしか頼めない事だ」
 シーマの目がほんの一瞬だけ細まり、すぐに元に戻った。
「分かりました。では用事を済ませた後執務室の方へ参ります」
「うむ」
 伯爵がうなずくと、シーマは一礼して二人の前を辞した。それを見送ると、伯爵は複雑な顔をしている娘の肩に手を置いた。
「リエラ、あまりシーマに無茶を言って困らせたりしないようにな。ここのところわしもシーマを頼ってばかりなのだ。一見すると何でもなさそうだが、相当疲労してしまっているはずだ」
「ええ、知っています。彼女は…昔からそうでしたから……」
 リエラの言葉の後半部は誰にも聞き取れないほど小さくなっており、伯爵は娘の言葉を不審に思うことなくテラスを後にした。
一人残されたリエラは、服の下から青い宝石を取り出す。綺麗にカットされているそれは月明かりに美しく輝いた。
「…………いつかまた、あの場所で……」
 リエラは再び夜空を見上げ、静かに、小さくそう呟いた。


 執務室におもむいたシーマは伯爵から数枚の報告書を渡された。日付はつい最近のものである。
「目を通せばわかると思うが、どうも気になってな」
「確かに妙ですが、何かしらの奇病という事は考えられませんか?」
 報告書に目を通しながらシーマは率直な意見を述べた。
「それならそれで対策を考えねばならんだろう。しかし奇病で片付けるにはおかしな点が多すぎる気がするのだが……」
「……症状が出ているのは主に一歳くらいまでの赤子と飼い犬等。一帯に住んでいる野良達。他の人々にこれといった変化は無し……。確かにおかしいといえばおかしいですが、報告書には次の日の昼までにはほとんどなくなったとあります。通り雨のような何かだったのでしょう」
 シーマの言葉に伯爵は腕を組んで目を閉じる。しばらくそうして、ゆっくりとくまが出来た目を開いた。
「……今のこの時期に、このタイミングで通り雨、なのだよ。シーマ」
「…………。分かりました。調べてみましょう。今は少しでも不安材料を無くしておくべきですから」
「すまない。お前も疲れているだろうが……」
「いいえ。素性もわからぬ私を雇ってくださいました伯爵様のためならば、この命を削る事になろうともかまいません」
「…………すまない」
 自分の娘とそう変わらない少女に、伯爵は深く頭を下げた。




 怖かった。ただただ怖かった。耳をつんざく悲鳴が、息苦しくなるほどの血の臭いが、自分の周りで踊り狂う死の影が……
 少年の周りにはおびただしい数の死が転がっていた。突然放り込まれた空間の中で怒りをあらわにしていた女も、怯えて身を寄せ合っていた子供達も、それを優しく慰めていた老人も、みんな。
 何でこんな事になっているの?
 少年は恐怖で停止しかけている頭でそう考えた。そしてすぐにあることを思い出した。
 そうだ。誰かが言ったからだ。自分以外をすべて殺せ。そうして残った一人だけが外に出ることが出来るって。
 新たな悲鳴が上がり、また一人死に捕らわれて動かなくなる。これで残ったのは自分と同じように恐怖で動けない者が数人と、今人を切り殺した男だけ。
 男はゆっくりと近くに居た子供のほうへ近づいていき、容赦なく子供を切り殺した。
 悲鳴を発することもできずに、その子供は崩れ落ちる。
 そして男はまた一人、また一人と何の躊躇もなく残った者を凶刃にかけていった。そうして少年以外の相手をすべて殺し、男は初めて少年を真っ向から見据える。その目は、もはや狂気にとり憑かれていた。
 怖い。死んじゃう。どうして? 僕は何もやっていない。どうして父さんと母さんは僕をこんな所に寄越したの? あの時貰っていた皮袋は何だったの? 何で誰も助けてくれないの? 何で……
 迫り来る死の恐怖でパニックに陥った少年は、胸の前で固くこぶしを握り締め、手から赤い血を流した。
 痛い。何で痛いの? 僕の手の中には……
 ちらりと自分の手のひらを眺めてみる。そこには所々角ばった青い鉱石があった。それには革紐が通されており、少年の首から下がっていたもののようだった。
 これ…は……?
 少年に影がかかる。見上げると男が笑いながら少年の前に立ち、高々とサーベルを振り上げているところだった。その瞬間、少年の瞳孔がすぼまり、彼ははじかれたように動き出していた。
 男の腰に抱きつくようにして体当たりをする。
 武器を振り上げて重心が後ろにいっていた男はあっけなく少年に倒された。
 少年は自分でも驚くほどのすばやさで立ち上がり、たった今倒した相手の心臓めがけて首から引きちぎった青い鉱石を力いっぱい突き刺した。
 男の体がびくりと反応し、少年は男の振り回した腕に跳ね飛ばされる。とっさに体を丸めて受身を取った少年はすぐさま辺りを見回し、近くに落ちていたナイフを手に取ると、上半身を起こしたばかりの男に向かって突進した。ナイフは鈍い感触とともに男の喉を貫き、少年は生暖かい返り血を全身に浴びる。
 その異様な感覚に、限界まで疲労していた少年の脳が耐え切れなくなり、彼は意識を失った。


 ブラッドは最初、自分が今どこにいるのか一瞬分からなくなった。目覚めたばかりだというのに外はすっかり暗くなっているし、今さっきまで見ていた光景とはあまりにかけ離れていたからだ。
「…………夢……か」
 よくよく考えてみれば当然の事なのだが、夢を見ている当人がこれは夢だとはっきり認識するのは難しい。目覚める事がなければ、それは現実になりうるのだから。
 もぞもぞとベッドから這い出て部屋の中を見回す。外はとっぷりと暮れ、店も閉まっている時間だというのに、クレイは部屋の中にはいなかった。
「ま、どうでもいいか」
 クレイの事をひとまず無視する事にしたブラッドは、ろうそくの火をつけてテーブルの上に広げてある自作の地図を覗き込んだ。
 それには見張りの具体的な人数、装備品、時間ごとの巡回経路等が事細かに書き込まれており、街のほぼ中心に位置している伯爵邸に至る様々なルートが思案されている。そのどれもが警備のほんのわずかな隙を突くものばかりであった。
「あとは具体的な作戦を考えるだけか。クレイ抜きの俺一人ならここまでやる必要はないんだが……」
 ブラッドはガリガリと頭をかく。
「要望、ねえ……」
 ブラッドはふうと息を吐いた。そして何気ない動作でテーブルの上に置きっぱなしだったペンを手にとり、極自然にそれを窓枠に向かって投げつけた。
「――!」
 ペンが木製の窓枠に突き刺さり、同時に何者かの気配が急速引いていくのがブラッドには感じられた。その直後、
「ん? どうかしたのか?」
 何かの荷物を抱えたクレイが戻ってきた。
 それを見てブラッドは小さく舌打ちする。さっそく足を引っ張られたらしい。
「だけど、それは俺も同じか……」
 ブラッドは窓枠に刺さったペンを抜き、元のようにテーブルに戻した。
「何だ? 何か言ったか?」
 クレイは怪訝な顔をする。ブラッドはそんな彼に、
「予定変更だ。どうやら、見付かっちまったらしい」
 どこか笑みを含んだ顔でそう言った。


「……不覚」
 シーマは誰もいない真っ暗な大通りを走りながら、頭の中に今夜の巡回兵士の巡回時間と経路を思い浮かべた。一刻も早く、今の事を伝えなければならないからだ。
「早く……早くしないと……」
 シーマは奥歯をかんだ。そうしていないと、大きな声で叫んでしまいそうだった。
「まずい……まずい……まずい……」
 自分の存在に気付いた以上、相手は既に動き始めているはずだ。自分なら絶対にそうする。だから、まずい。
 走り始めて五分ほどたった頃、彼女はようやく巡回途中の兵士に出くわした。兵士達は夜の街を疾駆する影を見て色めき立つ。
「貴様何者だ!」
「は…伯爵様に仕える者です」
「何? む。おお。これはシーマ殿ではありませぬか。かような時分に一体何を?」
「詳しく説明している暇はありません。今すぐ邸に戻り、急いで防御を固めなくてはなりません」
「防御を? 一体な――」
「賊がそこに向かっているのです!」
「!!」
 兵士達の顔が一様に青ざめる。しかしそこは伯爵が鍛えた兵士たちである。呆然としていたのはほんの少しの間だけで、すぐに一人の兵士が笛を吹き鳴らす。澄んだ笛の音が夜の街に響き渡った。
「シーマ殿、賊を見つけたのはどのくらい前でしたか?」
「つい先程です。相手は警戒しながら進むでしょうから、急げばこちらのほうが早く邸へ戻れるはずです」
 シーマと残った兵士は互いにうなずきあう。
「シーマ殿は先に行ってください。我々に合わせていては到着が遅れてしまいます」
「分かりました」
「我等もすぐに向かいます。それまで伯爵様を頼みますぞ」
「この命に賭けて」
 再びシーマは全速力で駆け出した。
 比較的邸に近い場所を巡回中の兵士達はすぐに守りを固められるだろうが、賊の実力は相当なものだった。自分と互角かそれ以上なのは間違いないだろう。 兵士達を信頼していないわけではない、しかし、はたしてどれだけ抵抗出来るだろうか。
「くっ……」
 シーマは頭を振って考えを振り払った。今はそんな事を考えている場合ではない。とにかく一分、一秒でも早く相手より先に邸に戻る事だ。
 永遠にも感じられる数分の後、シーマは邸を臨める大通りに出た。邸の門の前で先に戻ってきていた兵士達が守りを固めるために右往左往しているところを見ると、まだ賊は来ていないようだ。
 でも安心するのはまだ早い。まだ伯爵様の安全が確保できたわけではないのだから。
「…………?」
 シーマは門の前におかしなものを見た。熊と見まがうほどがっしりとしている影だ。そんな人物が兵士達の中にいただろうか?
「って、あれは……伯爵様!?」
「おお。シーマか。よくやってくれた。お前のおかげで何とか防備を固められそうだ」
 伯爵はさも当然であるかのように一人でシーマを出迎えた。一瞬その胸に飛び込みたくなったシーマだが、それをぐっとこらえて伯爵を怒鳴りつける。
「狙われている張本人が一体何をしていらっしゃるのですか!?」
「見てのとおり指揮を執っているのだが、何か問題でもあるのか?」
「あるのか? ではありません! このような遮蔽物の少ないところに堂々と姿をさらすのがどれほど危険であるか、知らないわけではないはずです!」
 シーマは精一杯凄んでみせたが、伯爵はどこ吹く風といった体である。普段ならシーマのこの手の意見には割りと素直に従ってくれるのだが、今回は連日のストレスや相手の先手を取ったという事実が伯爵に悪い影響を及ぼしてしまっているようだ。
「は――」
「ちょっといいですかい?」
 さらに文句を言おうとしたシーマの声を遮って、一人の兵士がすすっと前に進み出た。
「伯爵様。どうかこのシーマの嬢ちゃんの言うことを聞いてくれやせんか?」
「む。兵士長まで何を……」
「いえね。伯爵様に居ていただけるのは非常にありがたいことではあります」
 伯爵はそうだろうとうなずく。逆にシーマは心配そうに兵士長を見つめている。
「ですが、それによる弊害もまたありますので」
『?』
 伯爵とシーマが同時にきょとんとなる。
「さっき嬢ちゃんが言っていたような危険はもとよりですが、何よりリエラお嬢様のことが気になって仕方がないんですよ。今お嬢様はお一人なんでしょう?」
「む……」
 伯爵が言葉に詰まる。忘れていたわけではないのだろうが、改めて他人の口から聞かされたことによってその重大さを再認識させられたのだ。
「どうです? そんな風に気にし始めるとなかなか安心出来ないでしょう? 伯爵様がそうなんですからあっしらは……」
「う…む……」
 伯爵の額に脂汗がにじむ。たぶん二つの事柄を天秤にかけているのだろうとシーマは勝手に想像した。
「……分かった。兵士長、ここは任せたぞ」
「はっ。何人たりとも邸への侵入は許ません」
 兵士長の敬礼に見送られて伯爵が邸の中に消える。シーマはそれを見て安堵した。
「ありがとうございました」
「なあに。お礼を言われることじゃあないさ。あの方を守りたいのは、何もお前さんだけじゃあない」
 兵士長がにかっと笑う。
「それでは、くれぐれも気を付けてください。普通の敵ではありませんから」
「分かった。嬢ちゃんも頼んだぜ。しっかりと守ってくれよ」
「はい」
 シーマはてきぱきと近くにいた兵士達に賊の容姿や考えられる攻撃方法などを説明し、邸に仕掛けた罠を作動させるために自分も邸の中に入っていった。
 その後一通りの準備を整えた兵士長は、見える範囲にいる仲間に呼びかけた。
「さあ、そろそろ時間だ。相手の賊は二人。相当な手練のようだが、俺達だって負けてないよなあ?」
『おおー!』
「よし。それじゃ各自配――」
 そこまで言ったところで、兵士長の世界は突然全くの無音に包まれた。
 自分の声も、周りの音も一切聞こえない。
 さらに何故かどんどん地面が近づいてくるが見えた。どうやら倒れているようだとあたりをつけ、手を出して支えようとするが、体が全く反応しなかった。
 鈍い音とともに地面に顔をぶつけ、そのままごろりと転がる。その時にちらりと彼の視界に入ったのは、恐怖に引きつった顔でこちらを見ている仲間の兵士達と、首から鮮血を噴出して崩れ落ちる何人かの兵士だった。
 そしてそれが、兵士長の見た最後の光景となった。


 シーマは屋敷の使用人たちをある一室に集め、自分か伯爵がくるまで決して外に出ないように指示を出し、その後で屋敷内の罠作りを開始した。
 もともと重要な部分以外の取り付けは完了しているので、ものの五分足らずで仕掛けは完了する。
「あとは私の立ち回り次第…か」
 シーマは書斎に隠れている伯爵親娘の元へ向かう。前もって決めておいたとおりのノックの仕方で鍵を開けてもらい、シーマは中へ滑り込んだ。
「シーマ!」
 リエラが飛びついてくる。その体はかすかに震えていた。
「大丈夫です。あなたには伯爵様が、このシーマがついております。気をしっかりと持ってください」
 やさしく抱きしめながらシーマはリエラの背中を軽く叩く。
「シーマ、屋敷の者達は?」
「一部屋に集めて決して出てこないように言ってあります。相手の狙いは伯爵様かリエラお嬢様でしょうから、相手の姿を見てしまわない限りは彼等に危害が及ぶことはないと思います」
「そうか」
 伯爵は少しだけほっとしたような顔を作った。こんなときでも自分より使用人たちの心配をする。こんな性格だからこそ彼は人々に愛され、信頼されているのだ。
 それを……
 シーマの中には怒りの炎が燃えていた。自分に出来ないことが出来る伯爵を勝手に憎んで殺そうとする輩がいる。それが許せなかった。
「伯爵様は秘密の抜け穴からお嬢様をつれてお逃げください。私が時間を稼ぎます」
「そんな! だめよシーマ。あなたも私たちと一緒に……」
 瞳に涙をためて訴えるリエラを、シーマは再び優しく、そして強く抱きしめた。その温もりを決して忘れてしまわぬよう、強く、強く。
「申し訳ありません、お嬢様。私は一緒には行けません。もともと私はもしもの時のための駒としてここに置いていただいていたのです。そして今がその時である以上、私は駒としての役目を果たさねばなりません」
「違う! 違うよシーマ。私もお父様も、邸のみんなだって、あなたを駒だなんて思っていない。シーマ・グリュフィルドでいいの。私は……私は……大切な人を二度も失いたくない……」
 リエラはシーマの胸に深く顔を沈め、すすり泣いた。しばしの沈黙が部屋の中を支配する。
 それを破ったのは、邸の中に響き渡ったガラスの破砕音だった。だがその異変にもかかわらず兵士達の声は一切聞こえない。それが意味するところは明らかだった。
「さあ、お嬢様。私は行かなければなりません」
「いや! お願い…シーマ。私達と一緒に逃げて!」
 リエラはしっかりとシーマに抱きつき、なんとしても行かせないようにする。
 さすがに見かねたのか伯爵が引き剥がそうと近づいてくるが、シーマはそれを目で制した。
「……分かりました、お嬢様。私も一緒に行きましょう」
 リエラが勢いよく顔を上げ、驚きの顔をシーマに向ける。シーマは微笑してうなずき、
「ですが、少しでも時間を稼ぐために扉に最後の細工をしなければなりません。このままではそれが出来ないので、一度離れていただけるとうれしいのですが……?」
 リエラはきょとんとした顔のままシーマに抱きつき続けていたが、シーマの言葉を理解すると満面の笑みになってシーマから離れた。次の瞬間。
「申し訳ありません。お嬢様……」
「え……?」
 ヒュッと風を切る音がして、シーマの繰り出した手刀がリエラの首筋を捉える。
「シー…マ……?」
「さようならです、お嬢様」
 意識を失って倒れるリエラを優しく抱き上げると、シーマは伯爵に彼女を預け、すぐさま身を翻した。そのまま振り向くことなく扉の前に立ち、
「相手の実力から考えても、最高で相討ちだと思います。伯爵様は私が部屋を出たらすぐにここを離れてください。どうか……御無事で」
 そう言い終えるとともにシーマの姿は書斎から消え失せていた。後に残るのは、不自然なほどの静けさだけ。
「ミレ…ナ……」
 伯爵に横抱きにされているリエラの口からかすかな声が漏れ、閉じた瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。


「ちっ。なあブラッド。裏にいた連中をやったときもそうだったがよ、何でてめえは殺さねえで気絶させてるだけなんだ?」
 自らの手で刈り取った命の抜け殻を踏みつけているクレイは、一滴の血も流さず倒れ伏す兵士達の中に立つ少年に忌々しげな視線を向けた。
「血は嫌いなんだ」
「………………………………………は?」
 長い沈黙の後でクレイは間の抜けた声を発した。
「血は、嫌いなんだ」
ブラッドはもう一度同じことを言う。今度のクレイの反応は早かった。
「おいおいおい。お前何言ってんだ? 俺達の職業は何だ? 暗殺者、殺し屋だぞ? 他人の血を流させてなんぼのものだろうが。それを何だ? 血は嫌いだと? 冗談。何を馬鹿な」
 ブラッドは何も答えない。
 ブラッド。血。そうだ。今になってみれば、なんと皮肉な名前をつけられたことだろうか。確かに、あの時の俺は――
「――ッド。ブラッド!」
「…………ん?」
「何をぼけっとしていやがる。さっさと中に入るぜ」
 そう言ってクレイは邸の玄関へと歩き出す。ブラッドはぼんやりとそれを眺めていた。
 そうだな。そこは何かあった時外の兵士を収容するために何も仕掛けることが出来ないはずだ。だから侵入する上で一番安全と言えるのはそこだ。そこなんだが……
「…………。よし。すぐ向こうに誰かいるってことはねえな。ブラッ――ってお前、何してやがる!」
 玄関の大扉に身を寄せて中をうかがっていたクレイは、振り返った先にいたブラッドを見て驚愕の声を上げた。
 それじゃあ面白くない。面白く……ないんだ!
 ブラッドは気絶した兵士から取り上げた剣や槍をまとめて一階の窓に投擲し、それをぶち抜いた。
 けたたましい破砕音が夜の闇に響き渡った直後、投擲と同時に駆け出していたブラッドが邸の中に消える。
「なっ……。ちいっ! 「第一世代」の暴走にはまだ時間があるはずじゃ……まあいい、こうなったからにはもう一つの方の依頼を優先させるまでだ」
 吐き捨てるように言ったクレイはすぐさま身を翻し、邸の中へではなく敷地の外へ影のように消えていった。