ダメ人間の強盗指南 1
作:九夜鳥





 *

 さて、問題です。
 地球上の人類六十億人を、二つに分けてみる、として。つまり、自分の側と、そうではない側という分け方。例えば、僕は「男」で、とするともう一方は「男ではない」となる。この場合、自分側と自分でない側の割合はどれくらいになるのでしょう。圧倒的にどちらかが数的優位にあるとは思えないけれども。
 この要領で、自分が属する側が、限りなく少数派になるように分けてみましょう。……おっと、「南国大学の学生、天川唯忠である」か「南国大学の学生で天川唯忠ではない」かなんて、固有名詞や職業などを用いて個人を限定するようなやり方は反則です。ズル過ぎるし、何より面白くないので。
「…………し、静かにしろぉっ。喚くなっ」
 耳元で怒鳴られました。僕はこれっぽっちも喚いていないのですけれど、怒鳴った対象が僕ではないのでそれは言っても仕方の無いことです。むしろ、あなたが静かにしてください、だなんて。思っただけで別に口には出しませんよ。いくら僕が世間とズレているからって、それくらいの処世術は心得ているつもりです。ええ、物事にはTPOってものがありますから。
「きゃあああっ」
「うわぁぁぁぁっ」
 騒々しいですね。僕としては静かなほうが好ましいのですけれど。あっ、ほら、そんなに慌てているから転んだりするんです。まぁ転んだのは僕ではないのだし、此処は一つ自業自得と割り切っていただきたいな、と。あーあ、そんなにいっぺんに、出口を通れませんってば。ま、それはさて置き。
 ……さて、さっきの続きです。自分が、より極少数に含まれるには、どういった限定が必要でしょうか。
 年齢でも、性別でも少数というには多すぎるでしょうね。僕がギネス級の超高齢というのであれば話は別なのですが、生憎と僕は当年とって二十一歳。奇病難病になんかかかってもいない、至って健全な男子です。それでは世界に数人だなんて少数派にはなれません。勿論、アフリカの奥地に暮らす少数民族でもなくて、生まれも育ちもれっきとした日本人です。そう、世界に数人の少数派。これは、そこまで限定できないと面白くないゲームなのです。
 実のところ、切り札は既に手元に持っています。これを出したら僕も全世界少数派の一人になること確実でしょう。と思った瞬間、ぐいっと喉元に当てられた大型のカッターナイフがさらに強く押し当てられた。刃ではなく、腹のところだから切れることは無いのですが、少し苦しいかも。
「は、早くしないとこの男が死ぬぞ。早くしろっ」
 受付のオネーサンが、スポーツバッグに札束を詰めている。おおお、あれ全部ホンモノの諭吉ですか? 束でひーふーみ、お、また奥から出てきた。やぁなんと言いますか、自分のものではないとは言え、流石にあれだけの諭吉は初めて見ます。こんな状況でもちょっと嬉しかったりして。ええ、人間どんなときでも心にゆとりを忘れてはなりません。
 諭吉さんを見て思い出しました。そもそも僕は、この銀行にはお金を下ろしに来たのです。ATMで順番待ちをしていたのがほんの一分前。人生一寸先は闇と言いますが、まさかこんな断崖絶壁急転直下を誰が想像できることでしょう。神様、できれば次回からは予告して欲しいんですけれども。
「お前、さっきから何ぶつくさ言ってる」
 後ろの男が問いかけてきた。問いかけというか、これは言外に黙れと言っていますか。僕は顔の高さにまで持ち上げっぱなしの手で頬を掻いた。
「いや、別に何も」
 ……「全世界のたった今この瞬間、銀行強盗に刃物を押し付けられて人質になっている」か、「なってない」か。果たして一体どれだけの人間が、しかも今この瞬間現在進行形という限定下で、銀行強盗の巻き添えを食らっていることか。そこへ来て更に人質となれば、これはもう五指に入ること確実。いやあ唯一と言い切ったとしてもあながち過言ではないでしょう。
 つまり、それが、今この瞬間僕の置かれている状況なのでした。

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 さて、問題です。
 あなたは自分の将来についてどのように考えていますか。五文字以内で簡潔に答えなさい、なんちゃって。さすがに五文字じゃ短いよね。短すぎることこの上なしって、一文字って言わないだけマシかも知んないけれどさ。え、あたし? あたしが何て答えるかって。
 ところでちょっとだけ話変わるけれど。
 入試とかって、字数限定で小論文があったりするでしょう。あれって、短すぎても駄目なんだよね。千文字以内なら九百字以上じゃないと減点……じゃなくても、マイナス評価だったりするらしいね。望ましいのは九百五十字以上。だからあたしは自分の将来を五文字以内で語れと言われたら、迷わずこう答えるわよ。『成功確実。』句点コミでぴったり五文字。
 ええ、あたし夏野千雪は自分が成功するって、信じてる。だって自分が信じていない自分の人生なんてお先真っ暗の烙印を押されたのも同然だから。何を以ってして成功とするのかってのは、まあ個人の価値観によって変わってくるだろうし、二十四歳ってまだまだ人生の前半戦なあたしじゃどんな成功が成功なのかなんて言えないけれどさ。取り敢えず、銀行強盗するような人生は、成功とは言い難いかなぁ。もっとも世の中にはどんでん返しの大逆転で大富豪になる元強盗だっているだろうケド、目の前で若い青年にカッターナイフを突きつけているこの覆面強盗がそうなるだろうとは思えないな。
「は、早くしないとこの男が死ぬぞ。早くしろっ」
 怒鳴られた。
 あたしは心の中で舌を出した。へんだ。
 覆面男は人質の首筋にカッターの腹を押し当てる。べっつに一生懸命やっていないわけじゃないし、あたしのせいで流血沙汰はイヤだから仕方無しにバックに万札の束詰め込みますよ言われた通りに。手元の札束は全部入れてしまったから、奥から金を持ってくるのを待ってるんじゃん。手元に金が無いのに金を詰めろだなんてどうしろって言うのさ。
 そうこうしているうちに、新入社員の男が札束を山ほど抱えてやってきた。どうやら奥の大金庫を開けてしまったらしい……って、あんたにあの鍵開ける権限ないでしょ!? 半べそかきそうになっているのを見ると、何も考えずに独断で開けて浚ってきたらしい。
「早くしろっ」
 後輩がびくりと体を震わせた。情けない……。
 ああもう、あたし知らないからね。ほら、あっちで右往左往している部長が青い顔して睨みつけている。だからあたしは悪くありませんってば。
 ばかもう。あたしは札束を抱えてきた後輩に小声で毒づいた。彼は一瞬ぽかんとしたが、何のことかわからなかったらしい。そのまま走って端の方へと逃げていった。
 もう、本当に使えないったら。男だったらあたしと代わってあたしを逃がすくらいのことしなさいよ。何が馬鹿って、セキュリティが作動したとか何とか言って、いくらでも誤魔化せるに決まっているのに、命令されて馬鹿正直に持ってくるから馬鹿なのよもう。ちったあ頭使え頭を。って、あいつにいくら文句を言っても事態は好転しない。もう。
 ぎゅうぎゅうに札束を詰め込んで、バッグのファスナーを閉める。これで当銀行の暫定的被害総額は一気に千数百万を数えた。ああもう、これは確かに私のお金じゃない。だけれど、目の前の犯人の物でもない。神様、こんな大金強盗なんかやらかす奴に渡していいんですか? 世の中間違っている。
「はい、これでいいんでしょ」
 ああ、もうっ。

 *

 さて、問題です。
 ……私の人生、一体何が間違っていたのでしょう……?
 残念ながら答えてくれる人は誰もいません。親は十年ばかり前に二人とも病気で亡くなってしまいました。もともと親戚づきあいの殆どなかったわが一家、しかも兄弟のいない私は、以来天涯孤独に暮らしていました。
 子供の頃から大人しく、何をやっても駄目だった、と言うのは残念ながらも事実です。
 勉強も運動も人の倍頑張ってやっと人並みがせいぜい、見た目も取り立てて良くはなく、性格もおとなしい(暗い)私は進学することなく高校卒業後小さな企業に入って、以来可も無く不可も無くという状態のまま今日まで生きて来ました。いえ、こんなところで見得張っても仕方ないですね。可は無く不可しかなく、が本当です。それでも、自分では何時だって精一杯やってきたつもりです。
 そりゃ、何をやらせてもらっても駄目駄目でした。運動会・体育会では十二年間お荷物扱い、「休め」と言われたことは数知れず。一度など、担任に隠れて学級会を開かれたこともありました。議題は『いかに横尾を当日休ませるか』。
 学芸会では折角クジで引き当てたロミオの役を、「どうせ失敗すると判っている横尾に任せるくらいなら」との先生の命令でクラス1カッコいい翔太君に譲ったこともあります(そして私はジュリエッタのいる塔の壁に巻きつく蔦の役でした)。
 運動部に入って体を鍛えようとも思いまして、野球部に入部しました。勿論選手として。そしてどういうわけか、以後の三年間、毎日玉磨きを欠かすことはありませんでした。というか、玉磨き以外のことに手を出すなと厳命されたのは、いじめでしょうか。来る日も来る日も、練習試合でも大会でも、私は玉磨きをしていました。一度たりとも素振りをした覚えがありません。
 他の三年生が引退したのに、後輩に私だけ部活に呼び出されては玉磨きさせられていたのもやっぱりいじめでしょうか。
 青い恋心を胸に、なけなしの勇気を振り絞り告白すれば「将来性が無さそうだから」と思いやりの一切無い言葉で振られたりもしました(尤も、今では残念ながら慧眼だと言わざるを得ません)。別の女性には唯一言、「無理」と告げられたことも。
 あるときは頼んでもいないのに辻占に「人生に華が存在し得ないそこの貴方」などと侮辱以外の何物でもない言葉で呼び止められました。
 あまりのことに思わず占ってもらったのです。初老の女性は私の掌を少し眺めて、占いの結果を一切告げず哀れみの瞳に「頑張って生きるのよ……」と言いつつ、逆に私に万札を渡してきたことも。彼女に一体何が見えたのか、私は怖くて尋ねることができませんでした。
 今にして思えば、辻占の彼女には何も見えなかったのではないのか、と思います。いえ、彼女に占い師としての能力が無かったのでなくて、私の人生に、視るべきものが、何も。
 そんなこんなで、華々しい思い出が一切存在せずに生きてきた私にも、先々月、終に転機が訪れました。
 高校の卒業とともに就職し、二十数年無遅刻無欠勤の私ですが、この数年間の営業成績の不振を理由にクビとなったのです。ええ、御察しの通り、我が社(と言う呼称も最早使えないのですが)ははっきり言って零細です。社員は数名の、常に自転車操業の、いつ潰れてもおかしくは無い場所です。私はそこの営業担当だったのですが、私が担当していた契約先との更新が御破算になったのがきっかけでした。
「もう、うちには君を雇う余裕は無い」なんて温かい言葉ではなく、「この数ヶ月君は新規の契約を一切取れなかった。だから解雇するに当たって、その間の給料を返して貰えないか」と。
 私は土下座して社長に頼みましたが、取り消してはくれません。そりゃ、あっちだって必死です。結局私はそのまま解雇となりました。以来二ヶ月、私は数十社回ってみましたが、未だに再就職の目処は立っていません。僅かばかりの貯蓄ももう底が見え始めています。借金が無いことが、せめてもの救いですが…………。
 事此処に至って、私はやっと悟ったような気がします。所詮この世は弱肉強食弱者恐縮、奪うか、奪われるか。私だってこのままでは終わる気などは無い。だったら、奪う側に回るだけのことです。
 私だって、人並みの未来を夢見たっていいはずだ。其処に至るために、私は奪う。グっと手にしたカッターナイフに力を込めて、叫びました。
「は、早くしないとこの男が死ぬぞ。早くしろっ」
 壁に並んでいる女が、びくりと震えたのが見えた。
 なんという快感。私は始めて、人の上に立って命令する側となった。ちょっとだけ嬉しくなってもう一度、早くしろ、と叫んだ。
 そう。私横尾俊太郎は、齢四十五にして初めて銀行強盗に挑戦しております。どうか神様、私の人生にほんの少しの成功を下さい。

 *

 流石に死ぬのは、いやですねぇ。なんて場違いな感想を思い浮かべながら、僕が気にしていたのはちょっと別のことでした。
 僕だって大学生、もういい年した大人と言っていい年齢なのだから、世の中の一般的な事柄の全部とは言えずともいくらかは経験しているわけです。ですが、幾らなんでも銀行強盗に巻き込まれるなんて初めてだし、勿論本気で首筋にカッターナイフを突きつけられているなんて。
 そこで、問題。この覆面のおじさんは果たして本気で切ってくるか。
 ええ、これはダイレクトに僕の生死に関わってくるため、非常に深刻な問いであると言わざるを得ません。もう少し時間をかけて観察すれば、この犯人の心の機微を掴むことも可能でしょうが。
 ところで、この事件の発生から既に四・五分は経っているでしょうか。十分は経っていないと思うのですが。
 周囲を伺うと、既に僕以外の一般客は全て逃げてしまったようです。本来なら混雑しだすこの時間なのに、一部を除いて非常に静かです。心地の良い落ち着いた音楽が、場違いのように流れています。
 カウンターの向こうには受付のお姉さんが、渡されたばかりの札束を詰めています。作業はもう少しで完了しそうですが。
 元々は彼女以外にも十数人ほどの行員がデスクワークをしていたのですが、いつの間にやら大半が逃げたのでしょう。時宜を逸してしまった残りの五人が、壁に並んでこちらを伺っています。そんな風に見られていると、自分が檻の中の動物みたいに見られているようで恥ずかしいんですけれども。
 首を動かせないので、状況の把握はこれが限界ですか。体は動かせるのですが、残念なことに僕には武道の経験が皆無です。したがって、背後の犯人をのしてしまうのは論外と考えるべきでしょう。
 もしそれが可能なのであれば理想的なのですがねぇ。鮮やかに投げ飛ばし蹴倒し捕縛し事件は解決。しかし現実に実行するのであれば、まず喉に大怪我を負う覚悟が必要か、と。
 それはいやだなあ。では、次善の手段を実行するしか。
「はい、これでいいんでしょ」
 受付のお姉さんが、犯人に告げた。バッグはパンパンで、見るからに重そうです。
 犯人が手を伸ばし、バッグを掴もうとしたとき、
「あのう」
 僕は口を開いたのです。

 *

 あたしは、成功する。
 それがあたしのモットーであり、また人生の目標でもあるのだが。だからと言って無条件一目散に他人を蹴散らし傷つけてまで、という気はさらさら無かった。
 もちろんいざとなったら、そうすることも在るかもしれないが。
 だから、パンパンに膨らんだバッグを振り回してぶつけてやったら、さぞかし痛いだろうなとは考えこそすれ、実行には移さなかったのだ。きっと人質くんが怪我をする。
「あのう」
 そして犯人がついにお金を手にしようとしたその直前、それまで大人しかった人質の男の子が口を開いた。おずおずと、と言う感じに。
 あたしと、銀行強盗は彼に注目する。
「まずいんじゃ、無いんですか」
 なにがよ。
「まずい、何が」
 返したのは犯人だ。あたしではない。
「や、だって札束でしょう」
「そ、その何が悪い」
「ぱっと見た感じですが、多分、全部ピン札の束ですよね。……それも先月発行されたばっかりの、新札」
 犯人の目が怪訝そうに歪んだ。
「番号が、控えられているかも知れないってことですよ」
「それが」
「つまり。この場でお金を手にすることはできますが、貴方は使えないわけですよ」
 そこでやっと、あたしは気がついた。彼が言わんとしていることを。
「……何を、言っている。まっさらな新品の札が使えないわけが無い」
 犯人はまだ意味がわからないようだ。
 さらに人質青年は、首筋にカッターナイフを押し当てられ、両手を上げた状態で説明を続ける。ゆっくりと、言葉を選ぶようにして。
「あなたはお金を持って逃げる。ひとまず落ち着いて、奪ったお金を使おうとするでしょう。でないと、強盗なんてした意味がありませんし」
「当たり前だ」
「ですが、その頃にはもう既に警察が網を張っているでしょう。新品の札束なら通し番号だしマークするのは簡単です。もし、使用したお札が網に引っかかれば……」
 其処まで言われて犯人は彼の言わんとしている事にようやく思い当たり、愕然とした顔を見せた。そりゃあそうだろう。折角強盗までして手に入れた金が使えないと宣言されたのだ。それどころか。
「そのお金の流れから、貴方の居場所が特定される可能性は高いですね。それも、使えば使うほどです」
 足枷なんて物ではない。使用した瞬間にスイッチが入る探知機のようなものだ。あたしは心の中でほくそえんだ。ざまあみろ、だ。

 *

「ですが、その頃にはもう既に警察が網を張っているでしょう。新品の札束なら通し番号だしマークするのは簡単です。もし、使用したお札が網に引っかかれば……」
「………………っ!」
 なんということだ。
 成功は目前だったはずだ。
 後は、お金を奪い逃走する。それで私は勝つはずだった。何に。社会に。勝てるはずだったのに。
 だと言うのに、今一歩のところで、勝利は遠くへいってしまった。まるで道端のビニール袋を拾おうとしたら、強い風が袋を吹き飛ばし舞い上がってしまったかのように。
「そのお金の流れから、貴方の居場所が特定される可能性は高いですね。それも、使えば使うほどです」
 人質とした青年が更に続けた。ここまで言われれば、私にだってその先は予想できるというもの。
 つまり。
 金を使用してからいくらかのタイムラグは発生するかも知れないが、最初に使用された場所さえ特定できれば私の足取りは掴める。繰り返せば逃走経路の予測もできるかも知れない、というわけだ。
(なんということだ)
 私は呻いた。使い続ければ続けるほど、警察から身を隠すことはできない。隠れたければ金は使用できない。だが、それではこうして強盗をしている意味がない。
(なんということだ)

 *

 ……この程度の話術で言いくるめられるって……。
 駄目で元々のつもりでしたが、だったら次も、上手くいくでしょう。
「ですが」
 さらに、僕は言葉を重ねる。

 *

「ですが」
 と、さらに彼が口を開いたとき、あたしは心底驚いた。
「方法は、あります」
(…………はぁ? 一体何を言うつもりなのよ!?)
 犯人は彼の言葉に明らかに動揺した。わざわざ自分で動揺させておいて、なのにどうして、助け舟を出すようなことを。
「お金を使い足が着くのは、それはどうしようも無いことかも知れません。でもそれは、お金の番号が控えられている場合に限ってのことです」
 あたしがぽかんとしている間に、彼の助け舟は進んでいく。
「ならば、お金をバラで受け取ればいいんですよ」
 その通りだった。
 あたしは金庫管理を担当したことは無いが、何度か立ち入ったことならある。新品の現金に限って言えば数十束ごとまとめて保管するので、たとえ番号を控えていなくても、跳んだ数字からどの束が持ち去られたのか容易に判別できるだろう。そうなれば先ほど彼が言ったとおり、其処から足が着くことだって十分に考えられる。
 だが、それは新札に限っての話だ。
 此処は銀行。旧札だってあれば、その札束だって大量にあるのだ。通し番号なんてわけがない。それを持って逃げられたなら、はっきり言ってお金から追いかけることは不可能だ。無論、番号を控える時間などある筈も無い。
 犯人かどんな逃走手段を用意しているか知らないが、少なくとも、追っ手の足掛かりが一つ消えることになる。
 何でそんな入れ知恵を。
 あたしが歯噛みしていると、更に彼は続けた。
「つまり、新品の束をもっと持って来てもらって、ですね」
 …………。
 はい?
「で、全部の束からランダムに数枚ずつ抜いていくんです」
「おお!」
 心から感心した声を、覆面親父が発した。満面の笑みを浮かべて。カッターを持っていなければ、ポム! と手を打っている所だ、っていやいやいやいや、ちょっと待て。
「これなら番号の控えようがありません」
「オオオ、素晴らしいっ。早速そうしようではないかっ」
 とイヤに上機嫌で、「そォこの君ィッ」とさっきの若造を呼びつけた。こ、声のテンションがオカシイヨ。オッサン。
 じっとりと睨みつけるあたしの視線に気が付かず、覆面オッサンは呼びつけた後輩に、嬉々として指示を出した。ホクホク笑顔が、マスクの上からでもよく判る。札束をもっと持ってこい、いやいや、では無くて、それでは私が去った後片づけが大変だろうから、いまこの彼が言ったように札束から数枚ずつ抜いて持って来い云々…………。
 いや、だから待てよ。オカシイヨ、その理論おかしいってば!
 私の心の声を聞いた訳ではないのだろうが、人質クンと目が合った。それで彼は察したのだろう。私が、彼の言葉が根本的に間違っていると気が付いたことに。
 彼がニコリ、と笑う。無邪気なこどものように、というよりは。
 それは悪戯を考え付いた悪ガキの笑みだった。

 *

 なんと。なんといい人なのだろう。
 世の中はまだまだ捨てたものではないのだ、と私はシミジミと思った。いや、待て待て。しみじみしている場合などではない。早速彼の案を実行しなければ。
「そォこの君ィッ」
 うわぁ自分でも声が上ずったのが判る。いや、それはさて置き。
 幾つかの指示を出しながら、私は有頂天になっていた。再び呼ばれたために、半泣きになって走っていった行員の顔。何て優越感だろう。
「おっと、そこのお嬢さんは、バッグに入っている分の札束を担当してもらおうかな」
 ただぼさっと突っ立っているだけでは間抜けなだけですから。私はせいぜい悪役らしく、ドスを込め(たつもりで)言った。
「早くしないと、この、人質が死んぢゃうよ?」
 折角アドバイスをくれた彼に、内心で頭を下げながら、私は笑みを浮かべるのを抑えることができない。きっと、何もかもが上手くいく。何せ人質の彼も私の味方なのだから。私の人生、これでバラ色……!
 そう、きっとバラ色だとも。私は上手いこと逃げ出すのだ。そして熱海辺りの古い温泉宿にでも行こう。とても歴史の古い、由緒正しい旅館が良い。のんびりと温泉に浸かりながら、私は自分のこれまでとこれからをしみじみと吟味する。そしてきっと私は奪ったお金を元に、会社を興す。いいやそうだ、そうに違いない。
 なに、経営に心配は要らない。私の成功は間違いの無い決定事項なのだから。大ヒット商品をバンバンと飛ばし、僅か半年で一部上場したりしてぇ!?
 おっと。熱海では美人未亡人女将とのアヴァンチュールを忘れてはいけないな。「あなた無しでは生きていけません……」なんて言われても、私には人生を成功させるという目的があるのだからなぁ。彼女だけではない。有能な美人秘書とか、取引先の美人社長とか。あああ、なんてすばらしい人生だろうか。
 私はしばらく、とても甘い空想に浸っていた。それはとてもとても甘い、甘美な空想だった。

 *

「早くしないと、この、人質が死んぢゃうよ?」
 しかし、間抜けなのは僕か、彼か。
 片や自分がアドバイスしてあげた相手に脅しのダシにされて、片やそのアドバイスが何の意味も無いことに気が付いていない。まさか本当に信じてしまうなんて。
 目の前で折角詰め込んだ札束を取り出しているお姉さんは僕の話の矛盾に気が付きましたようで。そりゃちょっと考えれば判ることですが。
 つまり、この犯人って、もしや、何も考えてないのでは。
 ああ、もうぶっちゃけて言ってしまえば馬鹿ですか?
 まあ、これで十分に時間は稼げたでしょう。ですから、そろそろ。

 沈黙の時間が、無為に流れ。音がするのは、相変わらず場違いに流れ続けるクラシックの音楽。僅かな衣擦れ。お姉さんの作業の物音。それくらいでしょうか。みんなが息を潜めて、君臨する暴君の注目を得まいとする。でもその暴君は非常に間抜けなのがわかってしまったので。中途半端な緊張感が居た堪れないというかなんと言うか。
 それはほんの数十秒だったのだろうけど。妙に長く感じられた。もしかしたら、数分たっているかもしれません。
 誰も口を開くことはなかったのですが、それでも僕には背後の犯人が上機嫌なのが伝わってきました。
 例の若いお兄さんがこの部屋に戻ってきた途端。
『はぁぁんにんにぃ告ぐぅ!! 人質を解放し、大人しく出て来なさい』
 ビクゥ、と犯人が反応した。
 思ったより時間が掛かりましたが……。
 取り敢えず、目標は達せられそうです。
 しかし警察も人が悪い。
 サイレンを今まで鳴らさずにいた辺り、静かに包囲して、犯人が出てきたところを取り押さえるつもりだったのですかね……。