幼馴染の三人(前編)
作:砂時





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 少年と最初に出会った日のことを、バーネットは今でも鮮明に思い出すことができた。
 それは寒い冬の日。雪はいつまでも途切れることなく降り続き、男たちは雪かきや家畜の世話に追われ、女たちもそれを手伝い、バーネットはというと危ないからと外出を禁じられ、暖炉の前で人形遊びをしているしかなかった。
 両親は家畜の世話で忙しいので、家の中にはバーネットただ一人だけしかいない。耳を澄ませば、聞こえるものは風の声と薪のはぜる音。ただそれだけだ。
 つららの垂れた窓の外を眺めてみれば、一面の冬景色。
 遊びたい盛りの子供にとって、雪を目の前にしてそれを家の中でただ眺めているだけというのは、あまりに辛いことであった。こっそりと外に出てみようとも思ったが、雪はバーネットの腰くらいにまで積り、今もすぐ目の前が見えないほどに降り続いていて、一人で窓の外の世界に出かける勇気はまだ小さいバーネットにはなかった。
 どうすることもできずに、ただ飽くこともなく降り積もる雪を彼女が眺めていると、ふと視界の隅に黒い塊が動いているのが見えた。
 目を凝らしてじっと見つめてみれば、それはサイズの合わない防寒具を何枚も重ねて着込んだ、バーネットとそう年齢の変わらない少年だった。白い息を吐き、額の汗を何度も腕で拭いながら、少年は行く手をさえぎる雪を必死に掻き分けていく。
 あの子、すごいな。
 一人で怖くないのかな。
 どうやったら、あんな風に雪の中を歩けるんだろう?
 わたしもあの子と同じように歩きたいな。
 あの子にできるなら、わたしだってきっとできるよね。
 そう思うと胸のあたりが熱くなり、たまらなくなってバーネットは壁に掛けてあった大人用の防寒具に手を伸ばし、玄関から外に出ようとする。
 だが、ちょっとドアを開けた瞬間、入り込んできた冷たい風に頬を撫でられ、勇気が挫けた。
 ……やっぱり、怖い。
 わたしには一人で雪の中なんて歩けないよ。
 わたしは女の子だもん。無理だよ。
 とぼとぼと窓際に戻り、少年の姿を探す。
 少年はまだ雪と必死に格闘していた。何度も転び、雪の中に顔を突っ込みながらも彼は歩くことをやめなかった。濡れた金色の髪を帽子の中に押し込み、再び彼は雪に立ち向かう。
 そんな彼の姿を見ているうちに、バーネットはまた外に出たいという衝動に駆られたが、あの冷たい風に逆らう気にはもうなれなかった。防寒具を握り締めながら、ただ少年の姿を見つめていることしかできない。
 どさり、と屋根から滑り落ちたのだろう雪の重い音。
 それに気をとられた少年は周囲を見回し……その視線がバーネットの瞳と重なった。
 少年に見つめられ、バーネットはどうしたらいいのかわからなかった。瞳をそらすことさえできずに、ただどぎまぎしながら少年を見つめ返すばかりだ。
 少年の腕が、バーネットの方へ差し出される。
 そのバーネットと同じ青色の瞳は、僕と一緒に行こうと彼女に誘いかけていた。
 ほとんど反射的に、バーネットはうなずいていた。慌てて防寒具を着込み、長すぎる裾をずるずると引きずりながら、バーネットは力強くドアを開ける。
 冷たい空気がバーネットを包み込み、雪が彼女の金髪に降り積もっていく。だが、もはや恐怖は感じなかった。雪に足をとられながら、彼女は急いで少年の元へ向かう。
 わたし一人だったら、きっと外になんて出られなかった。
 だけど、あの子と一緒ならきっと大丈夫。
 きっと、何だってできる気がする。
 ふたりでなら、きっと。
 雪の壁を突き抜け、その勢いで頭から雪に倒れこんだバーネットの手を、悪戯っぽい笑みを浮かべた少年が力強く握り締める。
 それが、バーネットとウェインの最初の出会いであった。


 1

 春の柔らかな日差しのもと、爽やかな風が草原を吹き抜けていく。
 放牧された羊や牛の群れはのんびりと草を食み、昼飯時らしく煉瓦造りの家の煙突からは白い煙が立っている。小さな教会からは時間を知らせる鐘の音が響き、お腹をすかせた子供たちは昼食に遅れまいと家路を駆け戻っていく。
 そんなのどかな雰囲気の中。家畜の群れを蹴散らし、蹄の音を高く響かせ、子供の集団のすぐ真横を突き進んでバーネットの乗った馬は村の小道を猛速でもって駆け抜けていく。
 風圧を避けるために背を低くし、腰を浮かせ、拍車を入れる。鹿毛の馬は一声いななき、荒く息をつきながらもさらに速度を上げていく。
 手綱を握るバーネットの手の感触はほとんどなくなり、心臓は悲鳴を上げることにもう疲れ果てていた。馬も限界が近かったが、ここで速度を緩めるわけにはいかなかった。
 なにしろ、彼女の好敵手がすぐ後ろにまで迫っているのだ。
 振り返らずとも、彼女の馬のものとは違うもう一つの蹄の音でわかる。距離は本当に近く、手綱を放して手を伸ばせば彼の身体に届くかもしれない。あとほんの少し目を後ろに流せば彼の栗毛の馬の頭が見えるかもしれない、そんな距離だ。
 胸の底から湧いてくるような焦りを感じながら、バーネットは強く馬に鞭を入れる。手を振り上げることさえ今の彼女には苦痛だったが、焦りを消すためにはとにかく馬を走らせるしかなかった。
 追ってくる。追ってくる。
 さっきあれだけ差をつけたのに、ここまで来て追いつかれるなんて。
 だけど、あたしは負けるわけにはいかない。
 こっちが苦しいときは相手だって苦しいはずなんだ。
 もうすぐゴールのはず。そう、もう少し我慢すれば……
 緩やかな坂に差し掛かる。ここを抜ければゴールである教会までは目と鼻の先でしかない。
 汗のおかげで狭まっていた視界の中に、教会の屋根に立つ十字架が入ってくる。
 あと少しで勝てる。バーネットのその小さな気の緩みが、二人の勝負を分けた。
 横から、すっと栗毛の馬を操るウェインがバーネットの横に並ぶ。バーネットの浮かべた驚愕の表情を見て、彼は歯を食いしばりながらもにやりと彼女に笑いかけた。
「勝負はもらったぞっ、バーネット」
「くっ……待ちなさいよっ」
 視線を動揺する彼女から前へと戻し、ウェインは馬に拍車を入れる。栗毛の馬がわずかに追い上げ、その差は少しずつ広がっていく、バーネットがどんなに鞭を入れても、拍車を入れても、その差はまったく縮まらず、ただ広がるばかりだ。
 ウェインの馬が先頭を維持したまま、二頭は坂を登り、下った。
 バーネットは全力でもって彼の背中を追い続ける。だが、もはや届かない。腕をいっぱいに伸ばしても、もうウェインの背中には届かない。
 最後の力を振り絞って、バーネットは馬に拍車を入れる。近づいてくる仲間たちの歓声。前脚を振り上げ、バーネットの駆る鹿毛の馬はウェインに三馬身ほどの差をつけられたままゴールインした。


「バーネットちゃん。お疲れ〜」
 近隣の村から馬術に優れた少年たちが集まった競馬大会。それはトラックを何周もするのではなく、村の中を一周する長距離レースだ。一見単純だが、整備もされていない道は起伏が大きく、坂なども多いために乗り手も馬も体力を極度に消耗する。
 そこに少女でありながらも飛び入り参加し、見事に準優勝を勝ち取ったものの、もはや歩くことさえままならないバーネットに、どこかぼおっとした印象を与える、長い金髪を後ろで結んだ少女、ミューゼルがタオルと水を手渡す。
「ありがと、ミュウちゃん。助かったよ」
 片手で汗を拭きながら、バーネットはグラスの中の水を一息に飲み干す。
 目鼻立ちのすっきりとした活発そうな顔立ち。同じ年の少年たちよりやや長いくらいのぼさぼさの髪。さらに男性用の乗馬服を着たバーネットの姿はお世辞にも女の子らしいとはいえなかったが、その屈託のない表情は十分に女性的な魅力を持っていた。
「さっきは惜しかったよね。あとちょっとでバーネットちゃんが優勝できたかもしれなかったのに」
「最後の坂でウェインに抜かされちゃったからね……優勝を狙えると思ったんだけどなぁ」
 グラスをミューゼルに返すと、バーネットは全身の力を抜いて草の上に横たわる。
 涼やかな風が、汗ばんだ肌に心地よかった。日差しの中で目を閉じていると、ウェインに勝つことができなかった悔しさもいくらか落ち着いてくる。
「そういえばさ、ミュウちゃん。他の連中はどうしてるの?」
「わかんない。私たちの村のみんなはまだ誰も帰ってきていないんじゃないかな」
「はっはっ。それは甘いぞ、ミューゼル」
「よお、バーネット。生きてるかい?」
 声のした方を振り返ってみれば、そこには二人よりも少し年上の少年がなぜか妙に堂々と分厚い胸を張って立っていた。その隣には、まだ息の整っていないウェインも並んでいる。
「お帰りなさい、ウェイン君。ディックさんも、もうゴールしたんですか?」
「ウェインはともかく、あんたはとてもじゃないけどこの時間に戻ってこれるような位置にいなかったような気がするんだけど。しかもやたらと元気だし」
 バーネットが疑いの視線を向けると、ディックは妙に爽やかな笑顔を浮かべて親指を立ててみせ、
「魔法を使ったのさ」
「実際のところは、スタート地点から近い丘で落馬して、戻ってきただけなんだとさ」
「ウェイン……ネタをばらすなよ」
「あの丘で落馬したなら、ウェイン君たちより早く帰って来れそうな気がするんだけどなぁ」
 ミューゼルの指摘に、ディックはぴくりと頬を引きつらせながらも、やはり笑顔のまま、
「いや、ちょっと村を一周散歩していたんだ」
「早く帰ってくると格好悪いからな」
「あはははは」
「ウェイン。お前な……」
「途中で棄権したあんたと違って、俺は疲れているんだ。嫌がらせの一つくらい我慢してくれ」
 苦い顔をするディックににやりと笑いかけながら、ウェインはバーネットの隣に腰を下ろす。
 優勝を持っていかれたことに対して何か文句の一つでも言おうか。
 それとも、細かいことは忘れて、ただお疲れ様と言おうか。
 彼を見つめたまま言葉を見つけられずにいるバーネットに、ウェインは小さく笑ってからその肩を軽く叩く。
「お疲れさん。なかなかの名勝負だったぜ」
 聞き方によっては相手を馬鹿にしているようにも聞き取れる言葉だが、その口調に勝ち誇るような様子はなかった。
 その言葉に隠された、彼女の体調を案じるウェインの気遣いを感じて、バーネットは照れ笑いを浮かべながら彼の背中を少し強く叩き返した。
「ウェインもね。まったくもう、あんたったらさ……最初のうちは陰も形も見えなかったのに、後半になったらすごい勢いで追い上げて来たせいで、あたしのペースが崩れちゃったじゃない」
「スタートで先頭を取れなかったから、仕方がなかったんだよ。無理に馬群を追い抜くのは馬に負担がかかるからな。それに、英雄は逆転勝利が定番だしさ」
「あんたね……自分が英雄だとでも言いたいわけ?」
「追い抜く寸前の勝利宣言。いかにも英雄って感じだったろう?」
「やられる方としてはすっごくムカつくことだということを、今度はあんたに教えてあげるよ」
「それは楽しみだ」
 金色の髪をかき上げ、ウェインは悪戯っぽい笑みを浮かべた。それに笑顔で応えながら、バーネットはウェインがひどく汗をかいているのにタオルを持っていないことに気づく。
 ウェインったら、タオルの用意を忘れていたのかな。
 あたしのタオルを貸してあげたら、ウェインは喜ぶかもしれない。
 だけど、このタオルは私が先に使っちゃったしなぁ。
 使ったタオルを貸されるのは、あんまり嬉しくない気がする。
 ……どうすればいいんだろう。
「ウェイン君。お疲れ様」
 相手を心から気遣うような声とともに、優しげな眼差しをした、首に銀のロザリオを飾った少女が後ろからそっとウェインにタオルをかける。
 腰まで伸びた薄茶色の髪が、風を受けてふわりと膨らむ。かすかに微笑みを浮かべながらこちらを見下ろす少女を見て、ウェインは少し照れたように笑った。
「ありがとう、ムーア。俺の活躍を見ていてくれた?」
「はい。最初から最後まで、ウェイン君が優勝するところもちゃんと全部見ていました」
「それじゃ、優勝のお祝いってことで何かご褒美でもくれないか?」
 ウェインの言葉に、ディックとミューゼルは期待に目を輝かせる。
 ムーアは少し困ったような顔をしていたが、やがて何かを思いついたように後ろを向くと、草の上に置かれた、水の入ったグラスが四つ置かれたトレイを取り、その一つをウェインに手渡す。
「それじゃ、ウェイン君たちのために持ってきたお水をどうぞ」
「……ああ。ありがとう」
 笑顔で受け取りながらも、ウェインはムーアからは見えないように小さく息をつき、ディックは何も言わずに彼の方をぽんと叩き、ミューゼルは悔しそうに頬を膨らませる。
 そんな中で、バーネットだけが何も反応せずにただウェインとムーアを見つめていた。
「はい、バーネットさんの分です」
「えっ」
 気が付けば、バーネットの前にはグラスを手にしたムーアがいた。もう他の三人には配ってしまったらしく、トレイは脇に抱えられている。
 ついさっきミューゼルから水を貰ったばかりとはいえ、馬上でたっぷりと汗をかいたバーネットはまだ喉の渇きを覚えていた。
 でも、今はムーアちゃんから水を貰うのはなんだか嫌。
 理由はわかってる。
 あたしより先に、ムーアちゃんがウェインにタオルをかけてあげたのが気に入らないだけだって。
 大人気ないことだと思う。こんな小さなことなんて気にしなければいいとも思う。
 だけど……
「……あたしはいいよ。さっきミュウちゃんから貰ったし」
「バーネットがいらないなら俺が貰うぞ。やっぱり一杯じゃ足らないや」
「僕にも半分わけてくれないか?」
「途中棄権するような野郎と分かち合うものなんて何もない」
 手を伸ばすディックの背中を踏みつけ、ウェインは苦笑するムーアからグラスを受け取るとそのまま一息に飲み干す。
「そういえば、バーネットさんのお父さんがウェイン君とバーネットさんを呼んでいましたよ。表彰式の打ち合わせをしたいから、すぐに来てくれって」
「何でそんな面倒なことを……さぼっていいかな?」
「だめです」
 意外にも強いムーアの口調に、びくりと身体を震わせてウェインは思わず姿勢を正す。
「せっかくの表彰式なのに、優勝したウェイン君が出席しないでどうするんですか。ウェイン君は今日の主役なんですよ」
「表彰式が終わったあとの打ち上げパーティーには出席するから、それで許してくれない?」
「だめです。ウェイン君のお母さんだって表彰式を見に来るんですよ。ウェイン君が優勝したと聞いてとても喜んでいたのに、がっかりさせてしまっていいんですか?」
「……わかったよ、ムーア」
 やれやれと首を振り、ウェインは立ち上がった。もう少し粘ってもよかったが、先月病気で父を失ってしまった母親のことを持ち出されてはさすがに抵抗することはできなかった。
 大きく伸びをして、服に付いた草や土を払う。タオルで身体中の汗を拭き、それを首に巻いてからウェインはまだ座ったままのバーネットに手を伸ばした。
「……ウェイン?」
「お前も呼ばれているんだろ。ついでだから、一緒に行こうぜ。手を貸してやるからさ」
「……うん」
 差し出された手を強く握り締める。
 そのぬくもりは、初めて出会った雪の中と変わらない感触。
 バーネットにとって、ウェインとの繋がりを信じられる唯一の絆。
「ほら、行くぞ」
「ちょっと、疲れてるんだからゆっくり走ってよね」
 手を繋いだまま、二人は風の吹く草原を駆け抜けていく。
 面倒な表彰式が終われば、その後にはパーティーが待っている。羊を丸ごと一頭焼き上げたり、去年作られたばかりの葡萄酒が配られたりなど、楽しいことばかりだ。
 今はこんな感じでいいかもしれない。
 こうやって一緒に走って、笑って、楽しんでいられればそれでいい。
 あたしのことをウェインがどう思っているのか、それはわからないけど。
 今は、このままでいい。
 ただウェインと一緒にいられれば、あたしはそれで構わない。


 2

 肉の焼けるいい匂いが、広場中に漂っている。
 丸焼きにされている羊は五頭目。そのうち一頭は大人たちがまだ食べているが、残りの三頭はすべて食欲旺盛な子供たちによって消化されてしまった。おいしく焼き上がろうとしている肉を少しでも多く奪い取ろうと、子供たちは目を輝かせて狙っている。
 いつもならば、バーネットたちもその輪の中に加わっていただろう。ところが、今夜は少しばかり様子が違っていた。
 バーネットと年齢が近い若者たちは皆、広場から少し離れたところで談笑を楽しんでいた。他の村の仲間とは、こういった共同の催しがあった時くらいしか集まって顔をあわせる機会がないので、自然と会話が弾む。
 だが、バーネットにはその雰囲気がどこか妙に感じられた。
 その場にいる誰もが落ち着きがなく、熱に浮かされたような表情をしている。ときどき誰かが席を立つと、それにつられてまた誰かが席を立ち、どんどん人がいなくなっていく。
「ねえミュウちゃん。今日は皆の様子が変じゃない?」
「ん〜。それは、今夜が成人式の前夜祭だからだね〜」
 ワインのグラスを片手に、ほろ酔い加減のミューゼルはくすくすと笑う。
「前夜祭って……あたしたちの成人式はまだ一ヶ月先のことじゃない?」
「ん〜。バーネットちゃんは、どうしてこの時期に競馬大会があるのか知ってる?」
「大人の都合でしょ」
「ふっふっふっ。少しかすっているけど、それは違うんだよぉ、バーネットちゃん」
 酒臭い息を吐きながら、ミューゼルはバーネットの腕に頬擦りする。
「競馬大会に出場するにしてもしないにしても、この辺りの村の若い人たちがみんな集められたでしょ。それはね、一ヵ月後の成人式のために結婚相手を決めておけという、大人たちからの無言のメッセージなの〜」 
「はあ、結婚っ?」
「ん〜。成人式が終わったら、私たちだって結婚できるんだよ」
「そりゃまあ……そうだろうけど」
 結婚だなんていきなり言われても、実感はあんまりないなぁ。
 いつかは結婚しなければならないだろうけど、結婚した自分なんて想像もできない。
 だけど、もしも誰かと結婚するというのなら。
 やっぱり、あたしは……ウェイン、かな。
 ウェインと結婚式を挙げて、ウェインと一緒の家で暮らして、ウェインの腕に抱かれて。
 そしていつかは、ウェインの子供を産む。
 ……なんだかしっくりこないなぁ。
「それで、バーネットちゃんは私と結婚してくれるんだよね?」
「……はぁ?」
 狼狽するバーネットに、ミューゼルはがっしりと抱きつく。耳元にかかる息はかなり酒臭い。どうやら意識も怪しいのか、くすくす笑いながらミューゼルはバーネットの胸に頬擦りする。
「バーネットちゃんが競馬大会に出てくれたのは私のためだって、ちゃんとわかっているの〜」
「ううん。あたしはウェインと公式の大会で決着をつけたかっただけなんだけど」
「いいのよ〜。優勝はできなくても、私はバーネットちゃんを愛してるんだからぁ」
「あのね。どうして競馬大会に出場したらあたしがあんたと結婚しなきゃならないのよ?」
「だってぇ。競馬大会って男の子が女の子にいいところを見せるための大会だったのよぉ。男の子たちにとっては、自分の将来を左右しかねない決戦の場所。そこへ飛び入り参加なんて、私への愛を証明しようとしているとしか考えられないよ〜」
「……村の連中が必死になってた理由がようやくわかったわ」
「それにしても、優勝したウェイン君がうらやましいなぁ。今頃、両手に花どころかハーレムの計画なんて立てていたりして」
「えっ?」
 ミューゼルに言われて、バーネットはようやく重大な事実に気づく。
 この大会がミューゼルの言うように男が女に格好をつけるための大会ならば、優勝者であるウェインが放って置かれるはずがない。準優勝のバーネットは放って置かれたのは、やはり彼女が女性だからだろう。その代わりに男が集まらないのは、実力に裏付けられた男勝りの性格が男性陣に敬遠されたためか。それとも怪しい雰囲気のミューゼルに遠慮したためか。
 席から立ち上がり、慌ててウェインの姿を探す。薄暗い広場の中を歩き回り、あちらこちらに置かれているテーブルの周りの顔ぶれを一つ一つ確かめていく。
 どうして、こんなに大切な時にウェインと一緒にいなかったんだろう。
 ミューゼルちゃんだって、今日が大切な日だってことを教えてくれてもよかったのに。
 まあ、酔っぱらい相手に文句を言ったってしょうがないかもしれないけど。
 とにかく、ウェインを探さなくちゃ。
 ウェインが女の子たちに手を出す前に。
 何より、ムーアちゃんがウェインに会う前に。
 広場の中を探し回り、息が少し苦しくなってきたころ、バーネットはようやくウェインの姿を見つけた。
 ミューゼルが予想したとおり、ウェインは色とりどりの花に囲まれて談笑していた。右手で葡萄酒入りのグラスを持ち、左腕で隣の女性の肩を抱き、上機嫌だ。
 華やかな雰囲気に包まれたウェインにバーネットは声をかけることができなかった。ただ胸が苦しく、目の奥が熱い。
 なにより、ウェインに抱かれている女性。
 長い茶色の髪。銀のロザリオ。飾り気はないが、清楚な雰囲気を与える白い衣装。
 ムーアの姿を見た瞬間、バーネットはすべての言葉を失っていた。
 ウェインに肩を抱かれたムーアは嬉しそうに笑いながら、彼のグラスに葡萄酒を満たしていた。彼の周囲の女性からはムーアに羨望の眼差しを向けるものもいたが、彼女はまったく気にしていない。
 ムーアの口元にウェインがグラスを差し出す。ムーアが遠慮がちにウェインが手にしたままのグラスに口をつけると、周囲から黄色い歓声が上がった。ムーアが半分ほど葡萄酒を減らしたところで、ウェインが残りを一息に飲み干すと、さらに大きい歓声が上がり、興奮した他の女性が空になったそのグラスに葡萄酒を注ぐ。
 バーネットが見ていたのはそこまでだった。
 ウェインたちに背を向け、そこから遠ざかるためにとにかく走る。どうしようもない怒りが身体の中で燃えていたが、それが誰に向けられているのかまったくわからなかった。薄闇の中で親しげにしているカップルたちの横を駆け抜け、バーネットはただウェインから少しでも離れるために走る。
 別にウェインが誰と付き合っていたって、あたしには関係ないじゃんか。
 ウェインと結婚の約束をしているわけじゃないし、特別な関係があるわけでもない。
 ウェインがムーアちゃんと付き合っても、他の女の子たちに囲まれていてもあたしには関係ない。
 ウェインが何をしたって、あたしには何も関係がない。
 だけど。せめて声くらいかけてくれたってよかったじゃないかっ。
 一緒に飲もうかって、軽く誘ってくれてもよかったじゃないかっ。
 涙で頬をぬらしながら、バーネットは心の中で叫ぶ。
 気がつけばバーネットは村のはずれの草原にいた。周囲に人気はなく、広場の騒ぎもここまでは届かない。草の上に身体を投げ出し、涙を拭いながらバーネットはただ遠くに見える広場の明かりを見つめる。
 どうやらダンスが始まったらしい。遠く聞こえてくる旋律に合わせて、村人たちが男女でペアを組み、ひときわ大きい篝火の周りを回りながら踊る。バーネットは無意識にウェインの姿を探していたが、踊りの輪の中に彼の姿を見つけることはできなかった。
 ウェインにとって、あたしって何なんだろう?
 ウェインはあたしのことをどう思っているんだろう?
 あたしの気持ちを少しでも知ってくれているんだろうか?
 わからない……わからないよ。
「……バーネット」
 ウェインだろうか。バーネットは一瞬期待したが、振り返った先にいたのはディックだった。肩で息をしているところを見ると、どうやら全力で彼女を追いかけてきたらしい。
「ディック。どうしてここに?」
「どうしてって……そりゃ、泣いている女の子が気にならない男はいないだろう」
「……ごめん」
「ウェインのことかい?」
「なっ……どうして?」
 驚愕の表情を浮かべるバーネットに、ディックは肩をすくめて、
「バーネットのそういう変に素直なところがわかりやすいんだよな」
「ディック。あたしをからかってるの?」
「からかっているわけじゃないんだ。ただ、バーネットって本当にわかりやすいからさ……」
 一拍おき、ディックは溜息と一緒に言葉を紡ぐ。
「だから、何も言わなくてもわかってしまうことがあるんだ」
「そう……」
 適当にうなずき、バーネットは立ち上がるとディックの方を振り返らずにそのまま足を進める。
 今は誰とも関わりたくなかった。ただ一人になりたかった。
「バーネット。どこへ行くんだ?」
「あたしの家に帰るの」
「子供じゃあるまいし、寝るにはまだ早い。広場に戻って……僕と一緒にダンスでも踊らないか?」
「……ディック?」 
 ディックの誘いに、バーネットはふとその足を止めてディックを見つめる。
 成人式の前夜祭でのお誘い。その意味は、決して軽いものではなかった。
 ディックは何も言わずに、ただバーネットの答えを待っている。春とはいえ夜風は冷たい。草の揺れる音が、やけに耳に響く。
 いつ終わるとも知れない重い沈黙の末、バーネットはディックから視線をそらし、星々の散りばめられた夜空を見上げた。
 そこに浮かぶ顔は、今も昔もただ一つ。
 白銀の世界で出会った、あの笑顔だけ。 
「悪いけど……遠慮させてもらうね」
「バーネットっ」
「ディック。ごめん」
 ディックが駆け寄るより早く、バーネットは夜の闇の中に走り去っていく。
 やっぱり、あたしはウェインを諦められない。
 ずっと昔から、あたしはウェインといつまでも一緒にいたいと心から願ってきた。
 かけがえのない友達として、共に一緒の道を歩いていきたいと心から願ってきた。
 だけど、今は違う。
 あたしは女として。恋人としてウェインと一緒にいたい。
 女の子に囲まれるウェインを見て、またウェインの隣にいたムーアを見て、バーネットの中で何かが大きく変わろうとしていた。
 ウェインの気持ちはまだわからない。
 ひょっとしたら、ムーアちゃんのことが好きなのかもしれない。
 あたしのことなんて女だとすら思っていないかもしれない。
 だけど、あたしは諦めない。
 ウェインの本当の気持ちを知るまで、絶対に。















   〜あとがき〜

 『新・やっぱり富士が見たい』初めての投稿になると思います
 受験が終わって自由の身の砂時さんですが、復帰最初の作品はやはり最も手ごたえを感じた『見守る瞳は……』の続編を書きたかったのです。
 今作は勝気なバーネットが主人公です。最終的にはムーアとのウェイン争奪戦に破れ、ムーアの死後に彼と結ばれるわけですが、それまで誰とも結婚せず、ただウェインだけを想っていたバーネットの姿を描いてみました。
 まだエミリアも生まれていない時代だけあって、ウェインもバーネットもムーアさえもまだ大人ではありません。今回はバーネットの心理描写に力を入れていますが、彼女の視点から三人の抱える様々な感情を読み取って下されば光栄です。
 ブランクのおかげで多少文章は衰えたかもしれませんが……遅れは必ず取り戻します。

                                   〜satoki〜