幼馴染の三人(中編)
作:砂時





 3

 ウェインの気持ちを確かめるって、決心したのはいいんだけど。
 問題はどうやって確かめるかなんだよね。
 直接聞いてみるってのが一番手っ取り早いとは思うけど、そこまで直球勝負はできない。
 人に頼んで聞いてもらうっていう手もあるけど、色んな噂が広がりそうで嫌。
 それならどうすればいいかっていうと、結局何も思いつかないんだよね。
 大きく溜息をつき、バーネットは目の前のウェインの家に目を向けた。
 少し汚れたレンガ造りの壁の中からは、かすかな物音が聞こえてくる。
 壁を照らす、目を覚ましたばかりの朝日を見つめながら、バーネットは手にしていたバスケットにそっと触れた。まだ早朝というよりは夜に近い時間に無理に目を覚まし、両親の驚きの視線を背中に受けながら焼いたパンは、家を出る前に保っていた温もりをすっかり失ってしまっている。
 やろうとすれば簡単なことのはずだった。
 ただ玄関のベルを鳴らし、朝御飯を一緒に食べようとバスケットを差し出せばいい。
 それは今までにもよくやっていたことだったし、ときには窓から侵入してウェインを驚かしてやったことさえもあった。
 それなのに、今は玄関から少し離れた場所に隠れるようにして一歩も前に進むことができなかった。家の中がまだ静かなうちからこうしているというのに、どうすればいいのかはわかっているはずなのに、ずっとそこに立ち尽くしたままどうすることもできない。
 だが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
 何もしないままではウェインの気持ちを知ることなどできはしない。たとえどんなに気恥ずかしくても、今は行動するしかない。
 そうしなければきっと後悔するだろうとバーネットは感じていた。成人式まではあまり日数がなかった。もたもたしていては、あっという間に当日になってしまう。そうなってからでは遅い。
 なけなしの勇気を振り絞りってバーネットは玄関の前まで進み、ベルに手を伸ばそうとしてその手を止め、少し迷ってから背を低くして窓の方へ向かう。
 窓のすぐ向こうはリビングになっている。すぐ近くに足音と食器の置かれる音が聞こえてくるところをみると、どうやら朝食の支度をしているらしい。
 窓のすぐ下にまで辿りつく。
 あとは立ち上がり、ウェインに何か声をかけるか、もしも近くにいたのならいきなり腕でも掴んでやればいい。そうすれば、後は自然に朝食の席が出来上がるはずだった。
 いつもなら、ウェインは驚いて背筋を伸ばし……ときに失敗してにやりと笑われることもあったが、ちょっと悔しそうな顔をしながらバーネットに手を貸して家の中に引っ張り上げ、今日はバターにするかイチゴジャムにするかと尋ねてくれるだろう。
 それはいつまでも変わらないと信じて疑わなかった朝食の光景。
 だが、今はどうしても不安だった。なにがどう不安なのかはバーネットにもよくわからない。ただ、おそろしく胸の奥が痛む。
 それを振り切るように、バーネットは勢いよく立ち上がり。
 ほとんど同時に外開きの窓がぎいと少し耳障りな音を立てて開けられ。
 窓枠に頭を突き上げてしまい、ガラスの鳴るすごい音と共に、バーネットはその場にひっくり返った。
「……何しているんだ、お前?」
 かなり驚いているらしいウェインの表情を見て、一応驚かせることには成功したのかなと、くるくる回る世界の中でバーネットはそう自分を慰めるしかなかった。


「バーネットさん。今度からは、ちゃんと玄関から入ってきてくださいね」
 ウェインの母親であるソフィアはくすくすと笑いながら、目立たない程度に腫れ上がっているバーネットの頭に濡れタオルを置いた。
「……ごめんなさい」
「そんなに謝らなくてもいいんですよ。窓も壊れなかったですし」
 優しそうに笑うソフィアに、バーネットはただ素直に頭を下げるしかなかった。
 彼女にとって、ソフィアは第二の母親のような存在だった。
 ウェインと一緒にいる機会が多かったバーネットは食事を一緒にすることも多かったし、小さい頃は本を読んでもらったりしたこともある。それに何より、ときどき見せてくれる優しい笑顔がバーネットは大好きだった。
「それにしても、お前って運が悪いよな」
 バーネットの持ってきたパンにジャムを塗りながら、ウェインは溜息をつく。
「俺が窓を開けると同時に頭を上げるなんて、狙っても難しいぞ」
「そうだね……この前のお祈りをサボったせいかも」
「まあ、この程度の罰で済んだんだから軽いもんだよな。ところで、バーネットはバターとジャムのどっちがいい?」
「ジャムでお願い」
「おう」
 イチゴジャムの瓶を空け、ウェインはパンの上にジャムをたっぷりと塗ってバーネットに渡した。その間に、ソフィアは紅茶をもう一人前用意してバーネットの前に置く。
 流れるようにもう一人分の席が出来上がり、たちまち会話に花が咲いた。
「なあ、バーネット。ルートンの旅役者っていつ村に来るんだっけ?」
「えっと……確かあと二ヶ月くらいしたらまた来てくれるって言っていたと思うけど、それがどうかしたの?」
「前回の演劇のとき、母さんは病気のせいで観られなかったんだ。だから、次の機会にはぜひ特等席に招待したくてさ」
「ウェイン。そんなことしなくていいから……」
「いいんだよ、母さん。最前列を取るつもりだから、期待していて」
「私も手伝う? 温かいスープを用意しておくよ」
「おっ、さすが相棒。気が利くぜ」
「まっかせなさい」
 会心の笑みを浮かべ、二人はテーブル越しにがっしりと握手を交わす。
 握った手にウェインの体温を感じながら、バーネット心の中で小さな寂しさが湧き上がってくるのを感じていた。
 こうやって友達として付き合うのなら、いつだってうまくいくのに。
 どうして、女の子としてウェインと一緒にいるとダメになってしまうんだろう。
 もしもこのままの時間がずっと続いていくのなら、あたしはこのままの関係でもいいのに。
 だけど、あと一ヶ月で成人式が来てしまう。
 そうなれば結婚することもできるし、親から離れて家を持つことも許される。
 成人になってすぐにウェインが結婚するかどうかはわからない。
 だけど、基本的に成人したら結婚するというのは村の決まりごとのようなものだし。
 ムーアちゃんのように親しい女の子もいるわけだし。
 とにかく、今のうちにウェインの気持ちを聞いておかなくちゃいけないのに。
 あたしには勇気が出せない。
 ウェインはすぐ目の前にいるのに。手を伸ばせば届く場所にいるのに……
「……ところで、ウェインはこれから何か予定があるの?」
 どこか忙しそうにパンを紅茶で飲み流しているウェインにバーネットが尋ねると、ウェインは口元を少し乱暴にナプキンで拭きながら、
「これからお前の父さんのところに行くんだ。牧場の柵が壊れたから、修理を手伝えってさ」
 ナプキンをテーブルの上に置き、勢いよく立ち上がる。
「それじゃ、行ってくるよ。昼には一度帰ってくるから、それまで母さんはゆっくりしていて。バーネットはどうする?」
「あたしは……」
 一緒に行くことができたら、どんなによかったろう。
 あたしだって力には少し自信があるから、何か手伝えるよって。
 だけど、あたしにはそう言うことができない。
 馬鹿なことだけど、あたしはどうしてもウェインに素直になることができない。
「……しばらくソフィアさんと話をしていていいかな?」
「そうか。それなら母さんが寂しくなくていいな」
「ウェイン。私のことは心配しないで。それより、もう時間じゃないかしら?」
「うん。じゃあ、行ってくるから」
 そう言うと、ウェインは慌しく扉を開け、風のように牧場の方へ駆け出していく。
 後には、まだ食事を終えていないバーネットとソフィアだけが残された。
「ごめんなさいね、バーネットさん。あの子ったら、いつも落ち着きがなくて」
「え……いや、そんなことないです」
 どう答えればよいのかわからず、紅茶のカップを片手にしどろもどろな返事をするバーネットにソフィアはくすりと笑う。
「そんなにあらたまなくてもいいんですよ。いつものように自然でいてくれればいいのに」
「えっ……あたし、どこか変ですか?」
「変というわけではないんだけど、ちょっといつものバーネットちゃんらしくなかったですね。何かあったのなら、私に話してくれませんか?」
 相変わらずソフィアさんは鋭い。
 そういえば、小さい頃からずっとそうだった。
 隠しごとや悪戯はいつの間にか気がつかれていて、まるで何もかもを見通す力でもあるかのよう。
 悩みごとを抱えていれば、いつもそれとなく話を聞いてくれたっけ。
 ソフィアさんに相談すれば、何かいいアドバイスがもらえるかもしれない。
 今までだって、ソフィアさんと相談すればいつもうまくいっていたから、きっと。
 でも、さすがにウェインの名前は……出せないよね。
「あの……実はソフィアさんに相談したいことがあるんですけど、いいですか?」
「ええ、いいですよ。ですが、まずはテーブルの上を片付けてからにしましょう」
「あ、手伝います」
 ソフィアが食器を片付けている間に、バーネットはテーブルの上を布で拭く。
 それはバーネットが小さい頃から続いていたことで、小さい頃はウェインがテーブルの半分を受け持っていたが、今ではすっかりバーネットの役割になっていた。ちなみに、今のウェインは食器運びという新しい任務が与えられていたりする。
 テーブルを拭いている間、バーネットはどうやってソフィアに相談しようかとずっと考えていた。
 できればソフィアにも自分の気持ちをあまり知られたくなかった。だが、相談する以上はどうしても心の中を見せなければならなくなる。
 ソフィアの前でそれをどこまで少なくできるか、バーネットは不安で仕方なかった。
 頭を悩ませている間に、食器洗いを終えたソフィアが紅茶入りのカップを二つ運んでくる。
 それを椅子に座りなおしたバーネットの前に置き、自分自身もバーネットの正面に腰掛けるとソフィアはそっとカップをテーブルの上に置いてバーネットの瞳を優しく見つめる。
「それで、相談したいことはどういうことなのかしら?」
 来た。両膝の上に置かれた手を握り締めながら、バーネットは息を呑む。
 下手にソフィアに隠しごとをしても無意味だろう。それなら、いっそのことウェインの名前だけ伏せて正直に答えるしかない。
「実は……好きな人ができたんです」
「まあ。バーネットちゃんの好きになった人なら、きっと素敵な人なんでしょうね」
「……名前とか、聞かないんですか?」
「言いたくないんでしょう? 言うつもりがあったら、先に名前を出していますよ」
 穏やかに微笑むソフィアに、バーネットは頬を染めてうつむくしかなかった。
「それで、その人と何かあったの?」
「何かあったというかその……実はちょっとばかり複雑というかなんというか」
 さて、問題はここから。
 一口だけ紅茶をすすり、小さく深呼吸して、顔をうつむかせたままバーネットはたどたどしく口を開く。
「実は……その人のことを好きな人がもう一人いるんです。他にもその人を好きな子がいないわけじゃないんですけど、強敵はその子だけって感じで。その子は本当に可愛いし、おしとやかだし、料理もうまいし、何より今その人に一番近いのはその子みたいで……あたしは可愛くなんてないし、どっちかというと男みたいだし、料理どころか家事はほとんどダメだし、その人もあたしなんかよりその子と一緒にいた方がいいんじゃないかなだなんて思っちゃったりして……だけど、それでもその人と一緒にいたいんです。一緒にいられるなら恋人なんかじゃなく友達としてでもよかった。だけど、もうすぐ成人式で、その人が結婚してしまったらもう今までと同じように接していくことはできないんじゃないかって思うと……怖いんです」
 バーネットの告白を、ソフィアは沈黙を守ったまま最後まで聞いていた。
「……バーネットちゃんも大人になったのね」
 つぶやいたその言葉は、バーネットには届かなかった。
 ゆっくりと紅茶を飲み干し、ソフィアは改めてバーネットを見つめた。心のどこかではまだ子供だと思っていた少女は、肉体的にも精神的にもずっと大人になって、うつむきがちな瞳をソフィアに向けている。
「バーネットちゃん。ちょっと質問していい?」
「あ、はい」
「バーネットちゃんは、その好きな人に自分の想いを伝えたのかしら」
「えっ」
 ソフィアのその言葉に、バーネットは明らかにうろたえたようだった。
 顎の下に手を当て、想い出という名前の本を必死になってめくっていたが、そこには彼女の求める光景はどこにも見当たらないようだった。
「……伝えてないです」
「あらあら」
 溜息交じりのその言葉にソフィアは小さく苦笑し、テーブルの上に置いていた両手を組む。
「恥ずかしいでしょうけど、好きな人には自分の気持ちをちゃんと伝えないとダメですよ」
「わかってます。わかってるんですけど、その……やっぱり恥ずかしいし、もしも断られたらって思うと怖いし、それに何よりあいつはあたしのことなんて女と思ってさえないかもしれないし……」
「それは違います。バーネットちゃんは素敵な女の子よ」
 それは決して大きな声ではなかったが、バーネットの心の中に強く響いた。
「でも、あたしは料理も家事もできないし……」
「そんなことは問題ではないですよ。確かに、バーネットちゃんは男の子みたいな一面があるかもしれません。だけど、ちゃんと女の子らしい一面を持っている」
「え、例えば?」
「私に恋の相談をしてくれたところとか」
「あぅ……」
 顔を真っ赤にしてうつむくバーネットに、ソフィアはくすりと笑いかける。
「料理だって家事だって後でいくらでも練習することができます。だけど、恋は機会を逃したら一生取り返すことはできませんよ」
「……はい」
「まずは相手に自分の気持ちをしっかりと伝えないと。どんなに恥ずかしくても、勇気を出して好きな人に告白してください」
「でも……」
「バーネットちゃん。言葉や行動にしなくては、想いを相手に届けることはできないのよ。黙っていては想いは伝わらない。想いを胸に抱えたままその人が他の誰かを好きになってしまうのを黙って見ているのは、とてもつらいことだと思うの」
 ああ、そうかもしれない。
 胸に染み入るようなソフィアの言葉に、バーネットは素直にうなづいた。
 今までだって、ずっとそうだった。
 ウェインが他の女の子と仲良くしているとき、あたしはそれを見ていることしかできなかった。
 心の中ではいつも面白くなかったけど、それに対してあたしは何も言うことはできなかった。
 そういうことは個人の問題で、隣から口を出すのはよくないことだって思っていたから。
 いくらウェインが女の子と仲良くしていても、いつでも一緒にいることはできたから。
 だけど、いつまでもこのままじゃいけないよね。
 他の女の子はウェインに色々な意思表示をしているのに、あたしは何もしていない。
 女の子として、あたしは他の子達と同じラインにすら立っていない。
 心のどこかでは、口に出さなくてもあたしの気持ちはウェインに伝わっていると思っていたけど。
 お伽話じゃないし、そんな考えは甘かったんだよね。
 小さく苦笑し、バーネットは顔を上げてソフィアの方を向いた。
 胸の中に沈んでいた暗いものはもうほとんど消えてしまっていた。どこかすっきりとした表情をしているバーネットを見て、ソフィアはにこやかな笑みを浮かべる。
「どうやら決心はついたみたいですね」
「はい。ソフィアさんのおかげでずいぶん気持ちが楽になりました」
「それならよかった……ところで、もう一つ聞きたいことがあるのですけど」
「え、何ですか?」
「バーネットちゃんの好きな人の名前を教えてくれませんか?」
 バーネットの思考回路は一瞬、完全に停止した。
「え……やだなぁ、ソフィアさん。そんな冗談」
「冗談なんかじゃなくて、本気で知りたいんですけど」
 バーネットの記憶にはない、人の悪い表情でソフィアはバーネットを見つめる。
「ちょっと失礼なことかもしれませんけど、バーネットちゃんが好きになる人のタイプって想像できないんですよ。だから、ぜひとも教えてほしくて」
「あ、それは、ちょっと……」
「これでも私は口が堅いんですよ。それに、少しくらいなら手伝えることもあるかもしれませんし」
 ソフィアの協力が得られるのならば、それはバーネットにとって間違いなく最強の切り札になるだろう。
 何しろ好きな人の母親が味方になるのである。ソフィアがウェインの花嫁を強制するとはバーネットには思えなかったが、ほんの些細な協力でもそれは大きな効果となって表れるはずだ。だが、動揺していたバーネットはそこまで打算的な発想をすることができなかった。
「あ、あの……それは秘密ということにしておいてください」
「そう。言いたくないのならしょうがないですけど……」
 とても残念そうな顔をして、ソフィアはしぶしぶこの話題から引き下がった。
 額に浮かんだ汗を腕でぬぐい、少し冷めた紅茶を飲み干してバーネットはほっと一息つく。
 ソフィアに相談したことで胸の奥に沈んでいた闇は消え去り、これから自分がやるべきことも見つけることができた。それなら、今すぐにでもウェインに自分の気持ちを伝えたい。
 ウェインが家を出てからまだあまり時間は経っていない。この家で彼の帰りを待っていてもよかったが、バーネットはもはや一分でも時間を無駄にしたくなかった。
「あの、ソフィアさん。あたし、そろそろ行きますね」
「大好きな彼のところに?」
「あぅ……」
 再び顔を真っ赤にするバーネットに、ソフィアは悪戯っぽく微笑みかける。
「行ってらっしゃい。未来の彼氏さんによろしくね」
「あ、はい。頑張ります」
 苦笑しながらも丁寧に頭を下げ、バーネットは燕のように身軽に玄関へと駆け出す。
 もはやバーネットに悩むことは何一つとしてなかった。ウェインがどのような答えを出すのかはわからなかったが、不安はなかった。むしろ何もかもがうまくいくという自信が、胸の中に満ち溢れていた。
 だが、その自信の源泉は玄関から一歩踏み出した瞬間に枯れ果てた。
 ウェインの家から少し離れた、オークの木の下に立つ茶色の髪の少女。
 その髪と同じ色の瞳に見据えられ、一瞬、バーネットはすべての動きを封じられた。


 4

 茶色の髪の少女に軽く挨拶をして、そのまま通り過ぎる。
 そうしようと思えば、簡単にできることのはずだった。
 彼女などに構わず、ウェインに想いを伝える方がバーネットにとってずっと大切なことのはずだった。
 しかし、バーネットの視線と足は自然と少女の方へと向いていて。
 気が付けば、目の前には茶色の髪が風に揺れていた。
「おはよ、ムーアちゃん」
「おはようございます、バーネットちゃん」
 バーネットは軽く手を挙げ、ムーアは小さく頭を下げて挨拶を交わす。
 頭を上げたムーアの髪と同じ色の瞳には強い光が宿っていた。いつものムーアからは想像もできない、苛烈な光が。
「バーネットちゃん。ウェイン君の家で何をしていたんですか?」
「別に……ただ、ウェインと一緒に御飯を食べてソフィアさんとお話しただけだよ」
「本当に、それだけですか?」
「本当だってば」
 いつになく強いムーアの口調に、バーネットは戸惑いとひるみを覚えずにはいられなかった。
 大人しくて優しいムーアの持っていた、バーネットには想像もできなかった一面。その静かな激しさに、バーネットはどうすることもできない。
「それなら、ソフィアさんと何を話したのか教えてください」
「何って、ちょっとした雑談だってば」
「その雑談の内容が知りたいんです」
「えっと……ビーフシチューのおいしい作り方を教えてもらったんだよ」
「そんなのは嘘です!」
 ムーアの剣幕に、バーネットは首をすくめる。
 まあ、信じてもらえるとは思わなかったけどさぁ。
 それにしても、どうしてムーアちゃんは怒っているんだろう。
 あたしがいったい何をしたっていうの?
 なんであたしがわけのわからないことで怒られなくちゃいけないの?
 バーネットの胸の中に、ふつふつと怒りが湧き上がっていく。
 元々、バーネットは一方的に押されっぱなしで我慢していられる性格をしていない。
「バーネットちゃん。ウェイン君の家で何をしていたのか、本当のことを教えてください」
「そんなたいしたことはしてないよ。ただ、ウェインと一緒に仲良く朝御飯を食べてソフィアさんとお話していただけだってば」
 一緒に、と仲良く、の部分を強調してバーネットはムーアの瞳を正面から見据える。
「あとは二ヶ月後にルートンの旅役者が来たら、ソフィアさんのために一緒に席取りをしながら、一緒に温かいスープを飲もうって約束したくらいで、たいしたことは話してないよ」
「……それはウェイン君がバーネットちゃんに誘ったことなんですか?」
「うん。そうだよ」
 今度の嘘はムーアにも見抜けなかったらしい。
「そんな。それって……」
 顔色を変えたムーアは何かを口にしようとして、慌てて口を閉じる。
 不審に思ったバーネットがムーアの視線の方を振り向くと、ウェインの家の窓の中に編み物をしているソフィアの姿が見えた。
 こんなところで声を出していては、ソフィアに聞かれてしまうかもしれない。
「バーネットちゃん。場所を変えて話しませんか?」
 ムーアの言葉に、バーネットは無言のままうなずいた。


 子供たちにとって、オークの森は冒険心を刺激する最高の場所だった。
 森の中は日差しが差し込んでくるおかげで明るく、足元も意外と歩きやすい。少し森の奥に進めば小さなせせらぎや洞窟もあり、自然の悪戯が造った不思議な場所もある。そういった発見をするために、小さな冒険者たちは先を争ってオークの森に踏み出していく。
 時には迷子になってしまうこともあるので、昔は同じ子供だったはずの大人は自分の子供にオークの森には行かないように注意する。だが、子供たちの冒険心は大人に釘を刺されたところで止められるものではなかった。
 バーネットやムーアもよく冒険に出かけていた。ときには皆で迷子になることもあったし、危険なこともあったが、オークの森の中には大切な想い出がいっぱい転がっている。
 そして、その場所もまた思い出の一つだった。
 木の棒や板切れで無理やり骨格を作り、その上に草や藁を敷いて作った粗末な小屋。
 今は屋根が崩れ落ちたり骨格が折れたりして見る影もないが、そこはバーネットたちがよく使っていた秘密基地の一つだった。
 昔は少し身体を小さくすれば入れた小屋も、今となっては入り口を破壊するか壊れた屋根から侵入しない限りは中に入れそうもない。自分の目線ほどの高さにある屋根を見つめ、バーネットは時の流れを実感せずにいられなかった。
 それはムーアも同じようで、小屋の近くに転がっていた、小さな棒をじっと見つめている。
 その棒の妙な形が、バーネットの記憶を刺激した。
「それって、子供の頃にウェインがムーアちゃんに作ってあげた杖じゃない?」
「はい。あまり体力のない私のために、ウェイン君が作ってくれた杖です」
「だけど使いにくそうだったし、その日のうちに真っ二つになっちゃったよね。そのおかげで、ムーアちゃんは頭から転んじゃったっけ」
「……だけど、私は嬉しかったんですよ。ウェイン君が私を気遣ってくれていることが感じられたから。転んだときの痛みなんて、すぐに忘れてしまうくらいに嬉しかったんです」
 杖を拾い上げ、ムーアはバーネットへ振り返る。
 その茶色の瞳からは、さっきまで宿っていた苛烈な光は消えていた。だが、バーネットはいつもと同じような穏やかさをたたえているムーアから不思議な威圧感を感じずにはいられなかった。
「バーネットちゃん。一つだけ、聞いてもいいですか?」
「……いいよ」
「バーネットちゃんは、ウェイン君が好きですか?」
 バーネットにとって、それは難しい質問ではないはずだった。
 好きだと答えても、ただうなずくだけでも構わない。
 ただそれだけで、自分の意思を示すことができる。
 それなのに、バーネットは茶色の瞳に見つめられたままどうすることもできなかった。言うべき言葉は最初から決まっているのに、それがどうしても口から出てこない。
 あたしはウェインが好きだよ。
 胸が痛くて壊れそうなくらい、ウェインのことが好きだよ。
 ずっと二人で一緒に暮らしていきたいって、心からそう思っているんだ。
 それなのに、どうしてあたしはムーアちゃんにそう言うことができないの?
 答えなんてとっくに決まっているのに、どうして?
「……ムーアちゃんはどうなの?」
 ようやくバーネットの口から出た言葉は、ひどく弱々しいものだった。
 そんなバーネットに対して、ムーアは奇妙なほど落ち着いていた。そして、その一言は何気ない挨拶のように自然に、しかし目に見えない重みをもって紡ぎ出される。
「私はウェイン君のことが好きです」
 無数の氷の矢が、バーネットの全身を貫いた。
 杖を胸に抱きしめ、打ちのめされたように沈黙するバーネットを前にムーアは一言一言を噛み締めるように言葉を続ける。
「ずっと子供の頃から、私はウェイン君のことが好きでした。教会の窓から皆が楽しく遊んでいるのを黙ってみているしかなかった私に手を差し伸べてくれた時から、ずっと。ウェイン君が好きかと聞かれたら私は何度だって好きだと答えられます。だって、私は本当にウェイン君のことが好きなんですから」
 茶色の瞳に、またあの苛烈な光が浮かび上がってバーネットを見据える。
「だから、私はたとえバーネットちゃんがウェイン君のことを好きだとしても絶対にウェイン君を諦めません。ウェイン君から最後の答えを聞くまで、絶対に」
 ムーアの言葉に、バーネットは凍りついたようにたたずんでいるしかなかった。
 いつしかウェイン君の隣には知らない女の子がいて、幸せな時間を過ごしているの。
 ウェイン君の隣に他の女の子がいたらって……バーネットちゃんは想像できる?
 そして、バーネットちゃんはほんの小さなことで失ってしまった恋を悔やむの悔やむの……
 ずっと昔に誰かから聞いた言葉が、胸の中に響いてくる。
 聞いたときには、かすかな不安こそあったが実感は乏しかった。
 だが、今やその言葉は現実となってバーネットの目の前にある。
 耐え切れなくなって、バーネットは不意に身を翻すと、全力でもって駆け出し、元来た道を引き返し始めた。
 ムーアが何か叫んだようだったが、バーネットにはまったく聞き取ることができなかった。
 胸がひどく痛み、瞳の奥が熱くなる。
 あたしだって、ウェインのことが好きだよ。
 絶対に嘘なんかじゃない。
 気持ちに気づくのは遅かったかもしれないけど、絶対に嘘なんかじゃない。
 あの雪の降る日の小さな冒険から、ウェインはあたしにとって特別になったんだ。
 ムーアちゃんよりずっと前から、あたしとウェインは一緒にいたんだ。
 それなのに、どうしてムーアちゃんに勝てないような気分になるんだろう。
 ウェインへの気持ちがムーアちゃんより劣っているとは思いたくない。
 だけど、あたしはムーアちゃんみたいに堂々とウェインが好きだと言えなかった。
 それは、あたしよりムーアちゃんの方がウェインのことを好きだってことなの?
 曇った視界の奥に二つの人影を見つけて、バーネットは思わず木の陰に身を隠す。
 二つの人影はミューゼルとディックだった。二人ともバーネットには気づかなかったようで、楽しそうに談笑を交わしている。
 そんな二人にバーネットは自分とウェインの姿を重ねようとしてみた。だが、その自分の姿はどうしてもムーアに変わってしまい、余計にバーネットの気分を暗くさせた。
 やがて、二人は手を振って別方向に分かれていく。
 ミューゼルがバーネットの隠れている木の方へ歩いてきたので、バーネットは慌てて身を隠そうとしたが、その前に気づかれてしまったらしい。
「あっ、バーネットちゃんだ」
 笑いながら、ミューゼルはバーネットの方へ駆けつけてくる。
 仕方なく、バーネットは涙を拭いてミューゼルに姿を見せるしかなかった。
「や、ミュウちゃん。今日もご機嫌だね」
「うん。バーネットちゃんは……ちょっと元気ない?」
「いやいや、そんなことないって」
 無理に笑顔を作りながら、バーネットはミューゼルの肩を叩く。
「そういえば、ミュウちゃんはさっきディックと話してたよね。何を話してたの?」
「それは秘密……って言いたいけど、本当にただお喋りしていただけなんだよ」
 そう言うミューゼルの顔は、バーネットにとって眩しいぐらいに嬉しそうだった。
「ディックって面白いよね。ちょっととぼけてる感じがするけど、そこが可愛いと思うの。バーネットちゃんはどう思う?」
「さあ……どうかな?」
「そうなんだってば。例えばねぇ……」
 楽しそうに、ミューゼルはディックについての話を続ける。たわいのない話にうなずきながら、バーネットは無邪気なミューゼルを心から羨ましく思った。
 きっと、ミュウちゃんはディックのことが好きなんだろうな。
 その気持ちに気づいているのかいないのかは、なんだかよくわからないけど。
 あたしも、こんな風に何気なくウェインの話ができるようならよかったのに。
 そうすれば、もっとうまく自分の気持ちを伝えられたんじゃないかな。
 ムーアちゃんの前でだって、ちゃんとウェインのことが好きだって言えたんじゃないかな。
 そうすれば、ウェインにだって想いを伝えられたかもしれない。
 私はウェインのことが好きだって、ちゃんと言えたかもしれない。
 だけど、あたしはミュウちゃんみたいに無邪気になれない。
 ムーアちゃんみたいに、堂々と想いを打ち明けられない。
 成人式まで、もう一ヶ月もないのに。
 人生の分岐点は、すぐそこにまで迫っているのに。
 あたしは、どうすればいいんだろう……。















   〜あとがき〜

 ようやく中編が終わった……ずいぶん長くなりました。
 大学生活が忙しくて少しずつ書いていたせいか、ずいぶん疲れました。怠け癖がついているのかな。もっと頑張らないと。
 そういうわけで、後編はもっと早く終えられるよう努力します。