幼馴染の三人(後編)
作:砂時





 5

 村の成人式は一週間後にまで迫っていた。
 成人を迎えた少年少女たちはそのほとんどが成人式と同時に結婚する。それは強制ではなかったが村の慣習の一つではあったので、ここで結婚できないことはあらゆる意味で不名誉な烙印を押されることになる。
 そのため、結婚相手を探すために子供どころかその親までが奔走し、村の中はいつも慌しい雰囲気に包まれていた。少年たちは生涯の妻を迎えるためにあらゆる努力をし、少女たちはとっておきの服で美しく着飾り、大人たちは子供を手助けするためにパーティーの準備をするなど手助けを惜しまない。普段はあまり娯楽の多くないこの村にとって、この騒ぎは一つのお祭りのようなものだった。
 だが、バーネットにとってそのような雰囲気は苦痛でしかなかった。
 愛馬にやや強めの鞭を入れ、バーネットは軽く息を切らしながら草原を駆け抜けていく。
 突き抜けていく風の感触が心地よかった。初夏の日差しに目を細め、絶え間なく流れてくる汗を腕で拭きながらバーネットはひたすらに馬を駆けさせる。
 こうして全速力で馬を駆けさせているときだけ、バーネットは胸の中に暗く沈んでいる想いを忘れることができた。
 ムーアとの一件以来、バーネットはウェインとまともに話していなかった。
 牧場や道端でウェインと会うことはあった。だが、ウェインの姿を見るだけで心が重くなり、ただ挨拶を交わすことぐらいしかできない。
 できるなら二人きりで話をしたい。今までのバーネットならそれは難しいことではなかった。夕食に招待すれば食後にゆっくりとした時間を過ごすことはできたし、一緒に馬を走らせれば自然と会話は弾んだ。作ろうと思えば、機会はいくらでもあったはずだった。
 だが、実際にはもう一月もウェインとの会話らしい会話はなく、気がつけば成人式は間近に迫っている。後悔と焦りは日ごとに膨らんでいくばかりで、バーネットは自分の勇気のなさを呪ったが、結局何もすることができないまま時間は過ぎていく。
 さらに、周囲の環境がバーネットを苦しめた。
 両親は彼女の心境を思いやってか特に干渉してくることはなかったが、友人たちとの悪意のない会話や無責任な噂話は嫌でもバーネットにまとわり付いてくる。
 他人の恋愛沙汰ほど話題として面白いことはない。ウェインとバーネットとの仲は前々から村で噂になっていたが、成人式を前にムーアがウェインに接近して、バーネットが身を引いたことは話題のタネとしては十分すぎた。
 いくら男勝りに振舞っていようとも、バーネットの心は普通の女の子と変わらない。
 心が強ければウェインへの想いを見失うことはなかったはずだった。ムーアから何を言われても、自分の想いを貫くことができたはずだった。
 幾度となくバーネットは自分の心の弱さを悔やんだが、どれだけ悔やんでも失った過去を取り戻すことなどできはしない。
 バーネットの心の痛みは日々増していくばかりだった。人前ではなんとかそれを隠せても、一人のときにはとても抑えきれない。どうにかなってしまいそうなほどの胸の痛みに耐えるには、ただひたすらに馬を駆けさせることしかバーネットには思いつかなかった。
 村から少し離れた、小高い丘の斜面を駆け上がっていく。
 そこはバーネットのお気に入りの場所の一つだった。村を見下ろすような場所にあるその丘は歩いていくには遠く、街道からも離れているために人が通りかかることは滅多にない。一人でいたい気分の時には最高の場所であった。
 重くなってきた腕を振り上げ、バーネットはやや強めに鞭を入れる。
 苦しそうな息を吐きながらも愛馬は勢いよく加速し、丘の上へ上へと登っていく。
 バーネットの心臓が悲鳴を上げかけた寸前、ようやく頂上へと到着する。
 普段ならば自分以外に誰もいるはずのない場所。しかし、今日はなぜか先客の男女が二人いた。そのうち一人の姿を確認して、バーネットは思わず馬首を返そうとする。
「待てよ、バーネット」
 相手の声を聞いた瞬間、バーネットは金縛りにあったかのように動けなくなった。
 最悪の事態を想像しながらも、バーネットはゆっくりと顔を上げる。彼女に声をかけたのはウェインだった。そして、彼の隣にはバーネットにとってかなり意外なことにミューゼルの姿があった。
「ミュウちゃん?」
「あはは…ちょっとね〜」
 バーネットに手を振るミューゼルの声は上ずっていた。バーネットは一瞬よからぬ想像をしてしまったが、ウェインとミューゼルの組み合わせに限ってそれはないだろうとどうにか自分を落ち着かせる。
「あ、私そろそろ戻らなくちゃ」
「送っていこうか?」
「大丈夫だよ。心配しないで」
 馬の手綱を手に取り、ミューゼルはバーネットの横を通り過ぎる。
「……頑張ってね」
 かすかに笑みを浮かべながら耳元で囁くミューゼルにバーネットは頬を真っ赤にしながら何か言い返そうとしたが、ミューゼルは逃げ足すばやく丘を駆け下りてしまっていた。
 蹄の音が少しずつ遠ざかっていく。
 丘の上には、バーネットとウェインだけが残された。
 ここ一ヶ月ほど、バーネットはウェインと二人きりになることはおろか軽いお喋りの機会さえなかった。子供の頃にウェインと初めて出会ってから、これだけ長い間距離がおいてしまったことは一度もなかった。そのために話すべき言葉が見つからず、バーネットは愛馬の手綱を握ったままその場を動けずにいた。
「……来いよ」
 どこかぶっきらぼうな口調で、ウェインはバーネットに呼びかけた。
 おずおずと彼の隣に腰を下ろすバーネットに、ウェインは無言のまま水の入った皮袋を差し出した。バーネットはぎこちなくうなずきながら、皮袋の中身を半分ほど飲み干してウェインに返す。
「……ありがと」
「ああ……」
 それだけの言葉が交わった後、また沈黙が訪れる。
 ウェインはバーネットから視線をそらしたまま遠くを見つめていた。その視線の先には、豊かな自然に囲まれた自分たちの村があった。その眼差しはどこかもの悲しげで、バーネットは声をかけることができずに彼の隣に座っているしかなかった。
 だが、バーネットはいつまでも口を閉ざして景色を眺めてはいられなかった。口を開くことは怖かったが、沈黙が続くことはもっと怖い。
「あのさ、ウェイン」
「なんだい?」
「……さっきミュウちゃんと一緒だったけど、何を話していたの?」
「うん。バーネットには話してもいいと思うけどさ……」
 少しためらった後、ウェインは小さく肩をすくめ、
「ミュウの奴、物好きにもディックに気があるらしい」
「うん。知ってる」
「……何だよ、つまらないな」
 驚いてくれるのを期待していたらしく、ウェインは悔しそうに舌打ちする。その様子がどこか子供っぽくて、バーネットは笑いをこらえるのに苦労した。
「ミュウちゃんはディックのどこが好きになったんだろうね?」
「大人っぽいところがいいそうだよ。まあ、あいつは一つ年上だから少なくとも外見は年上に見えるけど、大人っぽいかどうかは俺としては疑問だね」
「そうかな……ディックは冗談が好きだけど、大人っぽいところはあると思うよ」
「おいおい。バーネットまでディックの味方かよ」
「味方ってわけじゃないけど……」
 競馬大会が終わった夜、自分を見つめるディックの顔を思い出してバーネットは思わず赤面する。
 ディックは一年前に成人式を済ませていた。普通ならばここで同時に結婚式を挙げているところだが、彼は独身の道を選んた。新成人のすべてが結婚するというわけではないが、冗談好きで女の子からの人気も悪くなかったディックが独身というのは周囲を少なからず驚かせた。
 色々な噂が流れたが、お喋りなディックがこの件についてはかたくなに口を閉ざしているため、真相は誰も知らない。それだけに、バーネットは自分に想いを打ち明けてきたディックに無関心ではいられなかった。
「でも、ディックはミュウちゃんのことをどう思っているんだろう?」
「わからない。ディックは自分の恋愛を妙に秘密にするからな。ミュウも奴の気持ちがわからないって、ずいぶん気にしていたよ」
「そう……」
 ディックとの出来事を思い出し、バーネットは複雑な胸の痛みを覚えた。
 ウェインの顔を小さく見上げるように見つめ、そっと溜め息をつく。
 あたしは、ディックのことは嫌いじゃない。
 だけど、好きかどうかって問題になるとちょっとなぁ……
 ウェインと一緒にいると、すごく胸が痛くなって、気恥ずかしくなっちゃうけど。
 ディックと一緒にいても、そうなることは全然ない。
 この胸の痛みが恋だとしたら、私の想いはディックに向けられていない。
 この世界中でたった一人。
 ウェイン、あなただけに向けられているんだよ。
「……いつまでもガキのままでいられればよかったのにな。そうすれば、こんな騒ぎなんかに関係なく、毎日遊んでいられたのに」
「そうだね……あたしも、そう思うよ」
 ウェインが小さく呟いた言葉に、バーネットは素直にうなずく。
「最近みんなぴりぴりしていて、話しかけにくいんだよね。お昼を一緒しても、なんだか雰囲気がぎこちなくて……嫌だな」
「ボール蹴りや競争もやらなくなったしな。おかげで、かなり運動不足だ」
「お腹の周りが気になってきた?」
「その言葉、お前に倍にして返してやる」
「あ〜、そういうこと言うわけ? レディに対して失礼だと思わない?」
「うっ……悪かった」
「え……あ、うん?」
 すまなそうな顔をして頭を下げるウェインに、バーネットは強烈な違和感を覚えてうろたえた。
 普段なら、この程度でウェインが頭を下げるはずがなかった。お前がレディを名乗るには十年早い、くらいのことは口にしていたはずだった。
 だが、今のウェインは違った。うなずいたまま無言のままでいるバーネットの視線を避け、ばつが悪そうに地面を見つめている。
 そんなウェインの様子が可愛く思えて、バーネットはくすりと笑った。
「……ウェインも、少しは私のことをレディと認めてくれたのかな?」
「ああ。まあ、な」
「そうすると、私のことを女の子として見てくれていることになるよね?」
「ああ。バーネットは立派な女の子だよ」
 自分でも何を言っているのかよくわからないのか、ウェインは戸惑いを隠せずにいる。
 そんなウェインに、バーネットは小さな小さな声で尋ねた。
「それじゃ……ウェインは一人の女の子として私をどう思う?」
「……えっ?」
「私のこと……どう思う?」
 言葉を紡いだときには、バーネットはなぜかそれほど緊張していなかった。心の一番奥にしまっていたものをそっと差し出すような感覚。それはどこかあっさりとしていて、現実感に乏しかった。
 だが、口にしてしまってからバーネットは胸の奥から吹き出してくる羞恥心に瞬時にして燃やし尽くされ、顔を真っ赤にして視線を地面に落とす。
 言った。
 ついに言っちゃった。
 いつかは言わなくちゃとは思っていたけど、まさかこんなに恥ずかしいなんて……
 でも、ウェインの気持ちはどうなんだろう。
 ウェインはどうして何も言ってくれないんだろう。
 胸が痛い。焼けるみたいに、熱い。
 返事をしてよ、ウェイン。
 お願いだから何か言ってよ。
 うつむいたままのバーネットの肩に、そっと腕が伸ばされる。
 びくりと肩を震わせてバーネットが顔を上げると、そこにはどこか思いつめたような表情をしたウェインの顔があった。バーネットが動けずにいるとウェインはそっと身体をバーネットの右半身に寄せ、おずおずと両手を首に回す。
「ウェイン……」
 暖かなぬくもりに包まれ、バーネットは震える声で彼の名前を呼んだ。抱きしめられているせいで、バーネットはウェインの顔を見ることができない。それを残念に思いながらも、バーネットはウェインの身体に腕を回した。そして、言葉にしたいことを口にする代わりにウェインを強く強く抱きしめる。
「バーネット、俺は……」
 ウェインが何か言いかけたが、彼に抱きしめられていることで完全に心を満たされているバーネットは何も気にならなかった。服越しに伝わる温もりと、耳元に聞こえるウェインと吐息の音。それだけでバーネットは幸福だった。
 わずかにウェインの身体が揺れ、彼のうなじにバーネットの唇が軽く触れる。
 あとほんの少しウェインが首を回せば、キスできるかもしれない。
 そんな想像を思い浮かべて、バーネットは頬を真っ赤に染めた。
 だが、バーネットの妄想に反してウェインは首を動かそうとしなかった。ただバーネットを抱きしめたまま、沈黙を守っている。
 そんなウェインにほんの少しだけもの足りない気持ちを覚えながらも、バーネットもまたウェインの腕に抱かれるがままでいた。そっと目を閉じてみればウェインの心臓の音さえ伝わってくる。それがバーネットにはなぜかとても嬉しかった。
 ……どれだけ二人はそこでそうしていたのだろう。
 やがて、ウェインはバーネットを抱きしめる腕を離した。彼女の金色の髪をそっと撫で上げ、ウェインはゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ……戻らなくちゃな」
 そう言って、ウェインはバーネットに手を差し出す。
 至福の時間が終わってしまったことを残念に思いながらも、バーネットはウェインの手をとる。その手はとても暖かくて、握り締めた瞬間に力強くバーネットを引き寄せ、彼女を立ち上がらせた。
「ウェインの手って、暖かいね」
「そうかな?」
「うん。とっても暖かいよ」
 そのまま、バーネットはウェインの手を離さない。
 ウェインもまた、無理のその手を振りほどこうとはしなかった。
「ねえ、ウェイン。もうちょっとで成人式だね」
「ああ、そうだね」
「成人式になったら、えっと……」
 その先の言葉を、バーネットは言うことができなかった。
 頬がかぁっと熱くなり、ウェインの顔を真正面から見ることができない。
 ついさっきはあれだけ恥ずかしい言葉を口にすることができたというのに、今のバーネットには何も言うことができなかった。ウェインもまた何も口にせず、沈黙の時が二人の間を流れていく。
 やがて、ウェインはそっとバーネットの手を離した。顔を上げるバーネットに、ウェインは小さく笑いかけた。
「さぁて、そろそろ村に帰るとしようぜ」
「あ……そうだね」
「久しぶりに村まで競争でもしようか? たまにはいい汗を流したいな」
「お腹の辺りが気になるってこともあるしね」
「お前な……まだそういうこと言うか?」
 苦笑を浮かべながら、ウェインは自分の馬の元へと駆け出していく。
 そんなウェインの姿が、バーネットにはなぜかすごく遠くに見えた。
 ウェインのぬくもりは、その手にその胸に残っているというのに。
 幸せな時間は、ついさっきまで続いていたというのに。
 なぜか、バーネットにはウェインの姿がすごく遠くに見えてならなかった。


 6

 結局、バーネットはウェインの返事を聞くことができなかった。
 それから成人式まではバーネットも何かと準備が忙しく、ウェインと二人きりになる機会はなかった。顔を合わせることはあっても、気恥ずかしさのあまり顔をそらしていまい、まともに話をすることができない。
 それでも、バーネットは自分の想いがウェインに伝わっていると信じていた。好き、という言葉は結局言えなかったけれども、想いが伝わった確かな手ごたえをバーネットは感じていた。
 だが、バーネットは忙しさのあまり大切なことを忘れていた。
 自分はもちろん、ウェインもまた好き、という言葉を口にしていないことを。
 そして、いつになく苛烈な光を瞳に宿してバーネットの言えなかった言葉を口にすることができたムーアの存在を。


 7

 村の小さい教会の礼拝堂には、純白の花嫁衣裳を身に纏った数十人の少女たちが神父の言葉に耳を澄ませていた。
 少女たちの顔には普段ならほとんどすることのない化粧が施されており、花嫁衣裳はいつもの衣服とは比べ物にならないほど上質な布で織られている。また、少女たちがそれぞれ手にしている花束は彼女たちが何日もかけて摘んできたもので、どれもみなそれぞれの個性と感性で彩られている。
「……あの神父さん、いつまでこんなお話を続けるんだろうね」
 花束に顔を埋もれさせるようにしてあくびを隠しながら、ミューゼルは隣に座っているバーネットをそっと肘で小突く。
「さあ。あの人の話はいっつも長いからね」
 そう応じながら、ヴェールを軽く上げてバーネットはちらりとミューゼルの顔を見つめる。
 うっすらと化粧されたミューゼルはいつもよりずっと大人っぽく見えた。周囲の顔なじみの女の子たちもみな、衣装と化粧の魔力のせいか信じられないほど綺麗に見える。
 それもみな、教会の外で落ち着きなく待っているであろう少年たちのためだ。
 成人式は男女別々に行われ、いくつかの儀式めいた手順を踏んだ後で教会でお祈りをして幕を閉じる。男子は一足先に式を終わらせ、教会の前で女子の式が終わるのを待ちわびているはずだ。神父のお祈りが終わった後のことを考えると、さすがのバーネットも緊張を隠せなかった。
「ねえ、バーネットちゃんはウェイン君となんとかなりそう?」
「……そういうミュウちゃんはどうなのよ?」
「あは……ちょっと怖いかも」
 ミューゼルもまた、人生の大きな分岐点を前に花束を握る手を震わせていた。
 女子たちのおよそ半分も落ち着かなげに視線をさまよわせたり、熱心にお祈りをしたりしている。残りの女子が妙に余裕を保っているのは、おそらく好きな男子と事前に固く約束をしていているからなのだろう。彼女たちがほのかに浮かべている笑顔を、バーネットは心から羨ましいと思った。
「……では、ここに新たにこの村の一員となる者たちの名を神の御前に詠もう」
 聖書を胸に抱き、神父は一人の少女の名前を呼ぶ。名前を呼ばれた少女はやや緊張した面持ちで立ち上がると、ゆっくりと一礼して再び腰を下ろす。
 次に名前を呼ばれたのはミューゼルだった。自分の名前を呼ばれたミューゼルは弾かれたように立ち上がると妙にぎこちなく一礼し、腰を下ろす際に少し大きな音を立ててしまい周囲の女の子の小さな苦笑を買った。
 その何人か後でバーネットも名前を呼ばれた。慣れないドレスのスカートのおかげで立ち上がるのに少し苦労したもののバーネットは無事に一礼し、ほっと息をつきながら腰を下ろす。
 次々と少女たちの名前を読み上げる神父の口調は誰に対しても代わりのない平板なものだった。だが、ある少女の名前を読んだ声はわずかに震えていた。
「……ムーア・シンクレイア」
 薄茶色の髪を純白のヴェールに包んだ少女が、ゆっくりと立ち上がる。
 その動作はなめらかで、ある種の気品さえ感じさせた。窓から差し込んでくる日差しの中で、ヴェールの中の髪が金色に輝いているように見える。
 バーネットは成人式の間、できるだけムーアを見ないようにしていた。彼女の姿を見ていると、胸の中に潜んでいる不安と嫉妬の念に苦しめられずにはいられないから。だが、今ムーアの横顔を見てバーネットが感じたものはただ美しさに対する純粋な感動だった。
「うわぁ。ムーアちゃん、綺麗だね」
「……うん」
 感嘆の声を上げるミューゼルに、バーネットはただ同意するしかなかった。
 ムーアちゃん、本当に綺麗だな。
 私なんかより、ずっとずっと綺麗だ。
 これなら、ウェインがムーアちゃんを好きになるのも仕方ないかもしれない。
 私より家事はなんだってうまくできるし、優しいし、綺麗だし。
 あは……よく考えたら、私がムーアちゃんに勝てるものなんて何一つないじゃない。
 暗い表情で溜め息をつくバーネットを、ミューゼルは心配そうに見つめていた。
 やがてすべての少女たちの名前を読み上げた神父が厳かに成人式の終わりを告げた。それと同時に少女たちの多くは先を争うようにして席から立ち上がると開け放たれた扉から外へ出ていく。
 バーネットもまた周囲につられるようにして立ち上がったが、その動きはひどく鈍かった。少しでも早く外に出ようとする少女たちに圧倒され、ほとんどその場から動くことができない。
「どうしたの、バーネットちゃん。早く出ようよ」
「うん……」
「ウェイン君に告白するんでしょ。ねえ、早くしないと」
「ううん。いいの」
 力なく首を振り、バーネットはうつむきがちにミューゼルに目をやった。
「やっぱり私なんかが結婚なんて無理だよ。料理はできない、洗濯物はたためない、掃除だって満足にできない奥さんなんてさ」
「バーネットちゃん……」
「ウェインだって、私よりムーアちゃんの方がいいに決まってるよ。こんながさつな女より、ムーアちゃんと結婚した方がよっぽど幸せ……」
 ぱちん、という小さな音と共にミューゼルの手がバーネットの頬を張った。
「バーネットちゃん。それは違うよ」
 振り切った手を小さく震わせ、呆然として頬を押さえるバーネットをミューゼルは真正面から見つめる。
「ウェイン君はがさつな女の子が嫌いだなんて言ったの? 家事ができる女の子の方が好きだなんて言ったの? バーネットちゃんよりムーアちゃんが好きだって、そう言ったの?」
「……」
「今を逃したら、もう二度とウェイン君に気持ちを伝えることができなくなっちゃうんだよ。もう二度と、やり直せないんだよ。バーネットちゃんはそれでもいいの?」
 そういえば、ソフィアさんもそんなことを言っていた気がする。
 恋は機会を逃したら一生取り返すことはできない、って。
 こんなところで諦めてどうするの。
 ウェインのことが好きだって気持ちは嘘だったの?
 ううん。そんなことは絶対にない。
 強く首を振り、バーネットは花束を持っていないほうの手を思いきり握り締める。
「そうだよね。こんなところで弱気になるなんて、どうかしてた」
 苦笑を浮かべ、バーネットは扉の方へ身体を向ける。
「早く行かなくちゃね……ミュウちゃんも、行こう」
「もちろんだよ。バーネットちゃんこそ早く」
 二人はうなずきあい、駆け足で教会の外へと出る。
 教会の外では成人式を終えた少年少女たちが人生最大の舞台に立っていた。ある二人はお互いの想いを伝え合って幸福の中でキスを交わし、ある者は目端に涙を浮かべながらその場を後にする。顔馴染みが舞台で活躍するのを横目で見ながら、バーネットはウェインの姿を求めて歩き続ける。
 だが、さほど多くはない集団の中にウェインの姿はなかった。そして、ムーアの姿もまた。
 不安と焦燥が胸の中に積もっていくのを感じながら、バーネットはウェインの姿を求めて必死に駆け続ける。長いスカートの裾は動きやすい服装を好む彼女にとっては邪魔でしかなかった。教会の前ではウェインの姿は見当たらず、バーネットは叫びだしたい気持ちを抑えながら今度は教会の周囲を探す。
 気がついてみれば、後ろにいたはずのミューゼルの姿はいつの間にか消えていた。
 どれぐらい探し続けたのか、バーネットにはわからなかった。だが教会の裏手、雑木林が茂る場所で彼女は木々の間からようやくウェインを見つけた。
 ほっと息をつき、ウェインの元へ走り出そうとして、バーネットの身体は凍りついた。
 ウェインの目の前には花束を胸元に抱きかかえたムーアの姿があった。何か話し合っているように見えたが、距離が遠すぎて二人の会話はバーネットにほとんど届かない。
 やがて、ムーアがそっと花束をウェインの方へ差し出す。
 その花束を受け取らないでと、バーネットは心の中でウェインに叫んだ。
 だが、バーネットの声は届くことがなく。
 ウェインは花束を受け取ると、手にしていた小さな花束をムーアにそっと差し出し。
 ムーアはそれを愛おしそうに胸元に抱きしめると、そのままウェインの方に身体を寄せる。
 そこまで見届けて、バーネットは踵を返した。
 悔しさと悲しさと空しさがごちゃ混ぜになったような感情を抱きながら、バーネットは無言のままその場を離れるしかなかった。
「バーネット……」
 教会の前まで歩いてきたところでディックに呼び止められ、立ち止まる。
 もう教会の前には誰もいなくなっていた。濡れた瞳には、差し込む夕日が眩しすぎた。
 事情をある程度察しているのか、ディックは何も言わずにバーネットを見つめている。その優しさが、今のバーネットにはありがたかった。
 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
「ディックは結婚相手は見つかったの?」
「いや。残念ながら、相手の方がここにいなくてね。ずっと待っていた」
「……」
「こんな時に僕の気持ちを伝えるのはフェアじゃないかもしれない。だけど、僕は本気だ。バーネット、僕は君のことが……」
「それ以上言わないで、ディック」
 顔を上げることなく、バーネットはディックの言葉を制止する。
「気持ちは嬉しいよ。だけど、私が好きな人はたった一人なんだよ」
「僕だってそうだ」
「でも、ディックのことを好きな人はいるよ」
「……僕の好きな人は一人だけだ」
「でも、その人の気持ちはディックに向けられてないんだよ。だけど、ディックのことを好きな子はまっすぐにディックを好きになってくれてる。その気持ちを大切にしてあげてね」
「バーネット」
「ディック……お幸せにね」
 結局一度も振り返ることなく、バーネットは教会を離れた。
 村の広場では村の人間のほとんどが集まり、新成人たちを祝うパーティーを開いていた。バーネットは誰にも見つからないように村のはずれをぐるりと回り、家へと戻る。
 家には誰もいなかった。薄暗い家に明かりを灯すことなく、バーネットは部屋へと戻る。
 誰もいない静かな家。一人になると、バーネットはもう自分を抑えられなかった。
 全力でもって花束を壁に叩きつけ、バーネットは声を上げて泣いた。
 その涙が枯れ、疲れが暗い眠りに誘うまで。
 花嫁衣裳を身に纏ったまま、バーネットはただ泣き続けるしかなかった。


 8

 結局ウェインはムーアと結婚し、ディックはミューゼルと結婚した。
 同じ歳の友人たちはほとんどが結婚し、自分の家を持って独立を果たしている。
 だが、バーネットは自分の家に残ったまま抜け殻のような生活を送っていた。何かをしようとしてもその気力が起こらない。外に出ればウェインに会ってしまうかも知れないので、必然的に部屋に篭ることが多くなっていた。
 バーネットの両親は一人娘をひどく心配したが、しばらくはそっとしておこうと決めたらしい。
 そうしている間にも季節は巡り、時が流れれば良くも悪くも変化は現れる。
 成人式から3ヵ月後、ムーアの養父である神父が亡くなった。それから間もなくウェインの母親であるソフィアもまた病に倒れ、冬の訪れを待たずに帰らぬ人となってしまった。
 ソフィアが亡くなる一ヶ月ほど前、バーネットはウェインやムーアに出会わないようにこっそりとソフィアの元を訪れたことがある。
 ベッドに横たわったままソフィアはバーネットと話をしたが、その中で彼女はバーネットをまっすぐに見つめて言った。
「……想いを忘れることはとても難しいわ。だけど、想いに縛られて自分の生き方を壊してしまうのはよくないことだと思うの。忘れられなくてもいい。だけど、叶うならバーネットちゃんにとって一番の人生を歩んでくださいね……」
 これほど思いやりと温かさに満ちた言葉を、バーネットは聞いたことがなかった。
 この日からバーネットは部屋に籠もることをやめ、再び外で働きだすようになった。ウェインやムーアと出会ってもうつむきながらとはいえ挨拶くらいは交わすようになり、娘の変化を喜んだ両親は村の内外から婚約者を募集して毎日のように娘を悩ませるようになった。
 ソフィアの死から数ヶ月。巡り巡って季節は春になり、新成人たちの生活も落ち着いてくる頃。
 突然、バーネットの元にムーアから一通の手紙が届いた。


 9

 成人式が終わってからすぐ建てられた家はまだ素材の匂いがした。
 開け放たれた窓からは柔らかい日差しが差し込み、そよ風が二人の髪をかすかに揺らす。テーブルの上にはお茶のカップが並べられ、ほのかに湯気を上げている。
「……ごめんね、バーネットちゃん。急に呼び出してしまって」
「別にいいよ。どうせ暇だったしね」
 すまなそうに頭を下げるムーアに対して、バーネットの口調はややきつい。
 その視線は、かすかに膨らんだムーアの腹部に注がれている。
「夏の終わりには生まれるんだって?」
「うん。順調に育ってくれれば」
「……早く元気な子供が生まれるといいね」
 ありきたりな言葉を返し、バーネットは視線を床に落とした。
 バーネットにしてみればここにいることは苦痛でしかなかった。本来ならば自分自身がウェインと一緒にこの家で過ごしていたかもしれない、そう思うとやりきれない気持ちになった。ムーアのお腹に宿った新しい命を見ていると、その気持ちに拍車がかかってとてもムーアの顔をまっすぐに見ることができない。
「私、バーネットちゃんに謝らなくちゃいけない」
「何をさ?」
「私がウェインと一緒にいることを」
「……謝る必要なんて、ないじゃない」
 わずかに声を震わせ、バーネットは椅子の手すりを強く握り締める。
「結局、ウェインはあんたを選んだんだから……ウェインの意思をどうこう言ったってしょうがないじゃない。あんたが謝るようなことじゃないじゃない」
「だからこそ……私は謝らないといけないの」
「なんで謝るのさっ」
 激昂し、バーネットは音を立てて椅子から立ち上がった。
「ウェインと一緒にいることを謝るくらいなら、あんたなんて最初からウェインと一緒にならなければよかったんだ。私がどんな気持ちであんたの幸せそうな顔を見てきたかわかってんの?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、バーネットちゃん」
「だから、なんで謝るのさっ」
 うつむきながら謝罪の言葉を口にするムーアに、バーネットの自制心は焼き切れる寸前だった。彼女が身籠っていなければ、とっくに胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
「……ごめんなさい、バーネットちゃん。私がウェインと一緒になってしまって」
「さっきからそんなことを謝らなくてもいいって、何度言えばわかるわけ?」
「違うの。私はウェインにもバーネットちゃんにもひどいことをしてしまったから」
「ウェインにひどいこと……って何さ。まさか脅迫でもしたって言うの?」
「そうだよ……」
「あんたがウェインを脅迫、まさか」
 ムーアの告白に、バーネットは信じられないと首を振った。
 だが、真剣そのもののムーアの瞳に見据えられ、バーネットは思わず息を呑む。
「私があんまり身体が丈夫じゃないことは、バーネットちゃんも知ってるよね?」
「まあね。昔っから季節の境になるとすぐ熱を出したりしていたっけ」
「実はね……私、もうあまり生きられないの」
 その口調があまりに平板だったので、バーネットは最初その言葉の重大さが把握できなかった。
「……それって、本当?」
「うん。一度街のお医者様に診てもらったんだけど、今年の冬までもつかわからないって」
 そう言って、ムーアはそっと両手を膨らんだ腹の上に置く。
「私ね、怖かったんだ。お義父さんも具合が悪いことはわかってたし、このままだと一人ぼっちで死んじゃうんじゃないかって……そう言ったら、ウェインは一緒にいてくれるって言ってくれたの」
「……」
「私はずるい……ウェインが優しいことを知っていて、私の願いを断り切れないことを知っていてウェインに告白したんだから……バーネットちゃんがどんな気持ちでいるのかも知っていながら、ね」
 うつむいたムーアの瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうになっていた。
 重いため息をつき、バーネットは力なく腰を椅子に戻す。
 先ほどまで膨れ上がっていた怒りは、とうにどこかへと消え去ってしまっていた。
「……ずるくなんて、ないよ」
 しばしの沈黙の後、バーネットは唐突に口を開いた。
 顔を上げるムーアに、バーネットはできる限りの微笑を浮かべて潤んだ薄茶色の瞳を見つめる。
「もしも私がムーアちゃんだったら、同じことをしたと思う。神父さんが死んだら一人きりになっちゃうのに、本当に好きな人と一緒にいることができないのは……つらいよね」
「でも……」
「もういいから。過ぎてしまったことは、仕方ないんだからからさ」
 本当は、仕方ないで済ませられるほど気持ちが割り切れているわけじゃない。
 まだムーアちゃんに対して暗い想いがあることは否定できない。
 だけど、ムーアちゃんの気持ちもわからないわけじゃないし。
 ウェインの優しさも、わからないわけじゃないから。
 まだ胸の中はすっきりしないけど、ちょっとだけムーアちゃんを見ているのがつらいけど。
 ムーアちゃんを許してあげても、いいと思う。
「だけど、赤ちゃんがお腹にいてムーアちゃんは大丈夫なの? 具合がよくなるまで、その、そういうことはやめておけばよかったのに」
「あ……でも、ウェインは優しくしてくれましたから」
「そういうことじゃなくって……具合がよくなるまで赤ちゃんを作るのをやめて静養していれば、もっと長生きできるかもしれないじゃない。ウェインはそういうこと考えなかったの?」
 頬を染めて言うバーネットに、ムーアはくすりと笑った。
「そうかもしれない。ウェインも同じことを言っていたし、お医者様もそう私に忠告しました……だけど、すぐにでも子供がほしいって頼んだのは私ですよ」
「どうして……?」
「好きな人の子供を産みたかったんです。少しでも早く、私の命が尽きる前に……」
「……」
 愛おしそうにお腹を撫でるムーアに、バーネットは何を言えばいいのかわからなかった。
 自分の命を縮めてまで赤ちゃんがほしいなんて、私にはその気持ちがよくわからない。
 私だったら、一日でも長くウェインと一緒にいたいと思う。
 ムーアちゃんだって、そう思うだろうと思っていたのに。
 その時間を削ってまで、子供を産みたいと言うなんて。
 妻になれば、そういう気持ちになるんだろうか。
 今の私には、まだわからないなぁ……
「ねえ、ムーアちゃん。その子の名前はもう決めてあるの?」
「うん。男の子ならエリオット。女の子ならエミリアって名付けようと思うの」
「それってどっちが考えたの?」
「さあ……内緒です」
 にこやかに笑うムーアにつられて、バーネットもまた声を上げて笑った。
 久しぶりに心から笑えたような気がして、バーネットはムーアが驚くほど笑い続けた。
「バーネットちゃん。実は、バーネットちゃんをここに呼んだのはウェインとのことを謝りたかったのと、もう一つ用があったんです」
「えっ?」
「バーネットちゃんが私を許してくれたのなら、一つだけお願いをしようと思って……」
「お願いって?」
「はい。それは……」


 10

 漆黒の棺が目の前に運ばれてくる。ウェインはまだ立つことさえできないような年齢の女の子を胸に抱いたまま、その棺が地面に下ろされるのを待っていた。
 棺の中には、純白の衣装を纏ったまだ年若い女性が淡桃色の海の中に横たえられていた。衣装は彼から彼女への初めての贈り物であるドレスであり、海は彼が求婚の際に腕一杯に摘んできた高原にしか咲いていない小さな花だ。
 胸の前に組まれた指には銀のロザリオが握られていた。彼女が物心ついたときから祈りを捧げ、肌身離さず大事にしてきた厚い信仰の証。
 だが、誰よりも純粋に神を信じてきたはずの彼女が蘇ることはなかった。その瞳は堅く閉じられ、もはや何も映すことはない。
「エミリア。お母さんにお別れをしなさい」
 胸に抱いた彼の娘を、ウェインはそっと母親の元へと近づける。
 だが、まだ幼いエミリアは母親の死を理解できないようであった。その目を閉じた顔に手を伸ばすこともなく、ただちらりと一瞥しただけですぐに彼女は父親の方へ身体を向けると、その襟元を引っ張って無邪気な笑い声を上げる。
 ウェインはそれを母親への別れと受け取った。
「牧師様。お願いします」
 彼の後ろに立っていた牧師は小さくうなずくと、控えていた村人たちに棺の蓋を閉じるようにと命じる。
 四人がかりでもって持ち上げられた蓋がそっと下ろされる。蓋が音をたてて閉められるその瞬間まで、この世では二度と会うことはないであろう妻の姿を瞳に焼き付けようとするかのようにウェインは彼女をじっと見つめていた。
 棺は墓穴に納められ、花輪のかけられた十字架の前には彼女の名前を記した墓石が置かれていて、夕日に染められようとしている丘には彼とその腕の中で寝入っている娘の他に誰もいない。
 いや、一つだけまだ残っている長く伸びた影があった。
 それは彼と同じくらいの年齢の、どこか活発な雰囲気を纏った女性だった。肩までの金髪はあまり手入れされておらず、服装も機能性を重視した乗馬服でおせじにも女らしいとはいえなかったが、日に焼けた肌とすっきりとした顔立ち、気丈さをたたえたその青い瞳は十分に魅力的であった。
「バーネット……まだ残っていたのか」
「まあね。ぼ〜っと死んじゃった奥さんのお墓を泣きそうな目で見つめている幼馴染みを放って帰るなんてさすがにできないわよ」
「俺を心配してくれていたのか?」
「冗談。私が心配していたのはエミリアちゃんよ。まだこんなに小さいのに、黄昏ちゃってる親父に夜になるまで付き合わせるわけいかないじゃない」
「……そうだな」
 苦笑しながら、ウェインは寝息を立てている娘をそっと抱きしめた。その身体は驚くほどに温かく、ほのかに幼児特有の日向くさい匂いがした。
「……大丈夫なの?」
「何がだい?」
「この子はこんなに小さいのに、母親がいなくなっちゃって大丈夫かって聞いたのよ。あんたはこの子と二人きりなんだよ。これからどうすればいいのか、考えていないわけじゃないでしょ」
「俺の愛さえあれば問題はない」
「……本気で聞いているの」
 まっすぐに彼に向けられた眼差しは、ただ真剣に彼を案じている。
 その揺れる瞳に堪えきれなくなり、ウェインは目を伏せると彼の妻の墓に向き直った。
「本当は、すごく困っているんだ。エミリアを産んでからムーアの具合は悪かったけど、まさか死んでしまうとは思わなかったし、俺もムーアも両親はもういないし、こうして親子二人きりだとどうしていいのかわからないし……」
 こぼれ落ちそうになる涙を必死に堪えようとしたが、もはや止められなかった。頬を伝っていく涙を拭いながら、赤くなった目でウェインは墓石の前に膝をつく。
 ウェインの後ろで、ムーアの墓をじっと見つめるバーネットの目に涙はなかった。涙は何日も前にとっくに枯れてしまっている。
 ムーアちゃん……約束は絶対に守るよ。
 ウェインのこと、エミリアちゃんのこと、私にできる限りなんとかしてみせるから。
 その代わり、もしも私がウェインと結婚したりしても恨まないでね。
 それもまた、約束の一つなんだからさ。
 私はあんまり信心深くないけど、もし死んだ後でもう一度3人出会えるときが来たら。
 その時は、3人で仲良く暮らそう。
 それまでは、私がウェインとエミリアちゃんの傍にいるよ。
「まったく。大の男がめそめそといつまでも泣いているんじゃないよ。情けないなぁ」
 バーネットはウェインの襟首を掴むと、力任せに彼を立ち上がらせた。
「ほら、さっさとあたしのうちに行くよ。母さんがあんたとエミリアちゃんの分の晩御飯を作って待っているんだ。しっかりと歩きなよ」
「いや、俺は……」
「うるさいっ!」
 彼女の申し出を断ろうとするウェインの手を荒々しく握り締めると、バーネットは女性とは思えない力で彼をずるずると引っ張っていく。
「こういうときは一人でいるよりも大勢といたほうがいいんだよ。エミリアちゃんだって、こんな湿っぽい親父と二人きりじゃかわいそうじゃない」
 強引ながらも思いやりの含められたバーネットの口調に、ウェインは小さく笑った。
「……ああ、そうだな。お前の言うとおりだよ」
 手を引っ張られながら、ウェインは妻の墓を見つめていた。
 暗くなっていく空の下、白い十字架がぼんやりと薄闇の中に浮かんでいた。その元に眠るのは彼の最愛の人。彼が愛したただ一人の女性。
「さよなら、ムーア」
 胸に募る思いを切り捨てるようにウェインは墓に背を向けると、遅い遅いと騒いでいるバーネットに手を引かれ、エミリアを起こさないように村へと続く道を歩いていく。
「……さよなら、ムーア」
 ウェインの手をを引っ張りながら、バーネットは墓の方を見ずに小さな声でムーアに別れを告げる。 その瞳には、枯れたはずの涙がまた光っていた。















   〜あとがき〜

 かなり長い間放置していたこの作品ですが……ようやく完結できました。
 あまり長い期間が開くとかなり書きにくかったりしますし、バーネットやムーアの話し方がかなり怪しいのが怖いです。
 今度からは、長編や中編を手がけるときはできるだけ継続して書こう。
 ……と思わずにはいられません
 最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。


                                     〜砂時〜