野獣 第一章
作:坂田火魯志





 あれは僕がアフリカのとある国に旅行に行っていた時のことだった。
 そこはギニア湾に面した多くの国の一つであった。僕はその地にいるという謎の多い生物について興味を持ちこの国にやって来たのだ。
「ムングワですか!?」
 話を聞いた現地のガイドがそれだけで眉を顰めた。
「はい、ムングワですけれど」
 僕は何故彼が眉を顰めたのかわかっていた。
「あれに関わっちゃあ駄目ですよ」
 彼は流暢な日本語で答えた。何でも昔日本大使館にいたらしい。そこで日本語を覚えたという。
「何でも見つかったら最後切り裂かれて殺されると聞いていますが」
「はい。私の友人も奴に殺されました」
 彼は目を伏せてそう言った。
「夜に飲んだ時ですけれどね。友人が用を足しに街の林に入ったのですよ」
 この国には公衆便所は少ない。大抵は草むらや林の中で用を足す。
「はい、林の中で」
 僕はそこに突っ込んで尋ねた。
「ほんの数分位でしたかね。少し遅いな、と思って行ってみたらもうやられてましたよ」
「ムングワにですね」
「・・・・・・はい」
 彼は力ない声で答えた。
「もう全身ズタズタでした。どんな残酷な奴でもあそこまではしなかったでしょう」
「ズタズタですか」
 僕はこの時一つ妙なことに気付いた。だがそれは今は言わなかった。
「はい、友人はそれでも何とか抵抗しようとしたのでしょう。死ぬ間際にムングワの毛を掴んでいました」
「毛を、ですか」
「はい」
「その毛はどうなりました?」
「警察に渡りました。そして今は我が国の博物館に置いてあります」
「そうですか、博物館ですか」
 僕はそれを聞いて頷いた。そして次には博物館に向かった。
「ほう、日本から来られたのですか。それは珍しい」
 博物館に入るとそう言われた。この国では日本人は珍しいらしい。よく言われることである。
「はい、実はこの国の生物で興味があるものがいますので」
「おお、それは有り難い。我が国は野生動物の宝庫ですからな」
 博物館員はそれを聞いて機嫌をよくした。
「何についてでしょうか?象にゴリラ、ライオン・・・・・・。そうそう、動物園にはオカピもいますよ」
 オカピとはキリン科の動物である。密林に住み首は短い。極めて貴重な生物である。
「オカピもいいですが」
 僕はここで話を振った。
「ムングワについてお聞きしたいのですが」
「あれにですか」
 館員の顔が急に暗いものになった。
「はい。こちらにムングワの毛が保管されていると聞きましたので」
「そこまで」
「はい。ガイドの方にお聞きしました」
「そうですか、そこまでご存知でしたら」
 彼は観念したようにして言った。
「ムングワの毛は」
 そして後ろの棚から何かを取り出した。
「これです」
 彼はケースの中に収められている毛を取り出し僕の前に出した。
「これがムングワの毛ですか」
 僕はその毛を見てまずそう言った。
「ううむ・・・・・・」
 その毛は何かの毛に似ていると思った。
「豹の毛に似ているとお考えでしょう」
「はい」
 博物館員に言われ僕は答えた。実際に先端が黒くなっているところからそれを連想していた。
「実際に私共も調べたのですが」
 彼は顔を顰めて言った。
「これは実際に豹の毛でした。目撃例もありますが豹かライオンに似ているそうです」
「やはり」
 それは聞いていた。
「実はこのムングワは二十世紀前半に既に目撃例がありまして」
「わりかし古いのですね」
「我が国が建国される前ですけれどね」
 彼はここで少し哀しそうに微笑んだ。当時アフリカの殆どの国はイギリスやフランスの植民地であったのだ。
「すいません、それを忘れていました」
 僕はそれを聞いて慌てて謝罪した。
「いいですよ、今はこうして独立していますから」
 彼は普通のやさしい笑顔になってそれを手で制した。
「で、ムングワですが」
 彼は表情を真摯なものに戻した。
「この生物が発見されたのはタンザニアにおいてでした」
「タンザニアで、ですか」
「はい」
 タンザニアはアフリカ東海岸に位置する国である。この国からはかなり離れている。気候も風土も異なっている。
「そこで度々謎のネコ科の生物に人や家畜が襲われ殺される事件が起こりまして。それの犯人ではないかと言われていた未確認生物なのです」
「それは聞いています」
 僕はそれを学生の頃聞いた。そしてこの生物が再びアフリカに現われたと聞いてこの国へやって来たのだ。
「ある夜の犠牲者がそのムングワの毛を持っていたのですが」
「ここでの事件と同じように」
「はい」
 彼の表情が暗くなった。
「それからこの生物のことが語られるようになったのです。謎のネコ科の動物として」
「アフリカには多いですね、岩のライオンとか水のライオンとか」
「よくご存知ですね」
 彼はそれを聞いて目を大きく見開いた。岩のライオンはアフリカの高く連なる山の上に棲むといわれる未知の種のライオンである。水のライオンはより不思議な種でサーベルタイガーに酷似した姿を持ちカバを追い回し殺すらしい。その本当のことはまだよくわかってはいない。
「確かにアフリカにはそうした未知の動物がまだ大勢おります」
 彼は言った。
「ですがこのムングワは違うと私は思うのです」
「何故ですか」
「あまりにも行動が不自然なのです」
 彼は懐疑的な表情で答えた。
「何故かこの生物は人や家畜を食わないのです。いつもズタズタに引き裂いているだけです」
「そういえばそうですね」
 そのことは僕も以前より不思議に思っていた。
「それに長い間姿を見せませんでしたし。そのうえにタンザニアの話ですよ、遠いタンザニアでの」
 彼はそれをやや強調して言った。
「我が国とは気候や風土が異なるのです。しかもあれだけ離れているのに」
 東海岸から西海岸へ行くには相当な労力が必要である。ネコ科の生物としては考えられない移動距離である。
「私はこのムングワが巷で言われているようなネコ科の生物だとは思えないのです」
 彼は強弁した。
「では何だとお考えですか!?」
 僕はあらためて問うた。
「ネコ科の生物でないとしたら」
「はい」
 彼は落ち着きを取り戻して話を再開した。
「これも以前から言われていることですが」
 彼は再び口を開いた。
「何かしらの怪しげな秘密結社ではないかと考えます」
「宗教的な、ですか」
はい」
 彼は答えた。
「殺し方もそう感じさせるものがあります。ズタズタに切り裂くのはどちらかというと人間です」
 ライオンや虎はまず爪と前脚で獲物を張り倒しそれから牙をメインで使う。彼等の最大の武器はその牙と顎の力なのである。
「しかも五体満足である死体が多いですし」
 顎で引き千切る為であろうか。ライオンや虎に襲われた場合首や腕が引き千切られる場合が多い。
「それに爪の跡も異様に鋭いのです。到底獣のそれではないように」
「何かおかしなことだらけですね」
「爪は獣の跡らしきものもありますがね」
「複数あるということですか!?」
 僕はそれを聞いてハッとした。
「ええ、まあ」
 彼もそのことに今気付いたようだ。
「そういうことになりますね」
 彼は答えた。
「最初は牙によるものと考えていたのですが」
「そこから唾液のあとは見つかりましたか!?」
「それは・・・・・・」
 彼は口ごもった。
「そこまでの詳しいことは警察になりますね。私ではわかりかねます」
「そうですか」
 博物館での話はそこまでだった。僕はそこをあとにすることにした。
「お役に立てなくて申し訳ありません」
 その館員は出口で僕に対して言った。
「いえ、そんなことはありません」
 僕は彼を慰めるように言った。だがこれは本心であった。
「またこちらにお伺いすることもあるでしょうし。その時はまたお願いします」
「はい」
 こうして僕は博物館を後にした。そして警察病院に向かった。
 
「ムングワの犠牲者ですか」
 中年の医師が出て来た。そしてムングワの話を聞くと顔を暗くさせた。
「実は今年に入って既に五人の犠牲者が出ているのです」
「五人もですか」
「はい、今年に入って急に出て来たのです」
 彼は暗い顔のまま言った。
「私も今までタンザニアの古い御伽噺だと思っていたのですがね。実際に目撃例もありますし」
「何でも豹かライオンに似た姿だとか。博物館でもそれはお聞きしました」
「その通りです」
 彼は答えた。
「博物館では豹やライオンの犯行とは思えないと言っていましたが」
「でしょうね。我々もそう考えております」
 彼の言葉は僕の予想通りであった。
「普通に考えたらです。豹やライオンの行動とはかけ離れております。しかし」
 彼はそこで言葉を続けた。
「あの毛からも、そして牙によるものと思われる傷跡に付着していた唾液からも調べたのですが」
 毛、と聞いて僕は次にくる言葉が予想できた。
「豹のものとしか考えられないのです」
「やはり」
 僕はそれを聞いて頷いた。
「ですがこの行動は少なくとも野生の豹のものではありません」
「といいますと」
「訓練されたものであると考えます」
 ここでも犯人の推測は同じであった。
「ではそのムングワを使うものがいると」
「はい。被害者の中にはナイフのようなもので切り裂かれたとおぼしき者もおりますし」
「ナイフのようなもの、ですか、爪や牙ではなく」
「はい」
 僕はそれを聞いて考え込んだ。
「実は博物館の方が言っておられたのですが」
「何かしらの宗教的な一団が関わっているのではないか、と仰りたいのですね」
「は、はい」
 警察もそれはどうやら考えていたようだ。僕も急に言われて驚いた。
「それは我々も考えています」
 彼は医者であると同時に警察関係の人間であるのでこうした話し方になる。
「ただ何処にいて何者なのか全くわからないのです」
「そうなのですか」
「貴方は日本人ですね」
「はい、よくわかりましたね」
 僕はいきなり言われてまた驚いた。
「英語の発音でわかりますよ。日本人の英語と中国人の英語は異なりますから」
「そうなのですか」
 それはよく言われることだが実際に聞いたことがないのでよくわからない。実際に僕も英語はあまり上手くはないのでたどたどしい言葉を使っているのだ。
「某国人なら私は人目でわかります」
「何故ですか!?」
 これには不思議に思った。よく世界中何処にでもいると言われたのは昔はイギリス人とフランス人だった。植民地政策のせいだ。今は日本人とアメリカ人、中国人である。ここに来るまでにも空港等で彼等が母国語で話しているのを聞いているし海外旅行等に行く度に見る。彼等は大体がビジネスである。だが某国人とは何故だろう。こう言っては何だが彼等はアフリカではそれ程名が知られてはいない筈だが。
「この間某国の外交官が我が国で騒ぎを起こしましてね」
「何でですか?」
 東南アジアやアジア太平洋地域ではよく聞く話だ。大体予想はついていた。
「車で衝突事故を起こしたのですよ。向こうのスピード違反です」
「それはまあ」
 この国は交通ルールにはうるさくない。車が少ないせいもあるが。だがその彼等が顔を顰めてそれを批判するということはかなりのスピードを出していたのだろうか。
「それだけならいいのですがぶつけた相手に逆上して殴りかかったのです。それで大騒ぎだったのですよ」
「そうですか」
 よく聞く話だ。彼等の国の企業や観光客が引き起こすトラブルの数々は何だか我が国の進歩的と称する学者様や文化人殿、新聞社や出版社が二十年程前に色々と批判していた我が国のそれとそっくり、いや比較にならない程酷いものだ。確かに我が国の企業や観光客の一部のマナーは考えものであったがいくら何でも傷害事件を続出させはしなかった。
「全く大変な事件でしたよ」
「普通の交通事故で傷害事件のように思えますが」
「捕まえてからが大変だったんですよ」
 この医師はムングワより某国人の方が嫌いなのではなかろうか、と思った。言葉に熱がこもっている。そして顔に嫌悪感が滲み出ている。
「取調べ中にも暴れて殴り掛かるし外交官特権を振りかざすし。最後には強制退去にしましたが」
「無茶苦茶ですね」
 僕は相槌を打ったがそれは残念ながらアメリカでも中国でも東南アジアでもしばしば見られる光景だ。アメリカのとある都市の暴動の話をしたら彼はどう思うだろうかとふと考えた。
 だが話すのはやめた。彼の言葉がさらに熱を帯びたからだ。
「一体彼等は何なのですか。あそこまで気が短く横柄な人を見たことがありません」
「それはアジア太平洋地域に来られればよくおわかりになると思いますよ。何なら彼等の祖国にでも」
「御免こうむりたいですね」
 彼はすぐにそれを拒否した。
「貴方の国へは一度行ってみたいとは思いますが」
「そうですか」
「はい。ではムングワに話を戻しましょうか」
 彼はそこで話を戻してきた。
「わかりました」
 彼の表情がもとに戻った。それにしても先程とは別人のように穏やかで真面目な顔である。
「私はどうもこの事件は何か裏があると確信しているのです」
「その宗教組織か何かがムングワと言われるものを操っていると」
「はい。ムングワはおそらく既存のネコ科の猛獣でしょう」
「単に訓練されているだけで」
「軍用犬のような感じで」
「ですか」
 僕はそれを聞いて考え込んだ。
「しかし猫は犬に比べると訓練が困難ですが」
「それでもやろうと思えばできますよ。餌付けも可能ですし」
「それはまあ」
 しかしライオンや豹を訓練するのは相当な労力が必要だが。それが可能な人間がいるとしたならばかなり特殊な組織だ。だからこそ宗教組織と思われるのか。
「そうした宗教組織に心当たりはありますか」
 僕は尋ねた。
「いえ」
 彼は首を横に振った。
「この国は多様な宗教が存在しております。大体部族ごとに。そしてキリスト教やイスラム教も存在しています」
「そうですか。その中にライオンや豹を崇める宗派はありますか」
「それはまず最初に調べたのですが」
 どうやら違ったらしい。
「おそらくは地下に潜伏しているのでしょう。ですから容易に見つからないのです」
「そうなのですか」
 これもカルト宗教にはよくある話である。
「タンザニアにムングワが現われた頃から宗教組織の存在は噂されていましたね」
 僕はそのことを尋ねてみた。
「はい」
 彼は答えた。実際に今宗教組織の話になっているのもそれが根拠だからだ。
「そうした組織が流れ込んできた経路等はありませんか」
「全く。少なくとも建国以来はありません」
 彼は首を横に振った。タンザニアからここはあまりにも遠い。それは容易に調べがつく。
「余計に地下が怪しいということなのですが」
 彼は顔を顰めたままである。
「ですが地下となると我々は捜査することができません」
「何故ですか」
「裏の社会の力が強いですし」
 これは多くの国にある話である。彼等は国の上層部と結託している場合がありタチが悪い。
「それに地下世界は複雑に入り組んでいるのです。犯罪結社一つ潰すのにも多大な労力と犠牲がいるのです」
「そうなのですか」
 これは望み薄だと思った。
「しかし捜査は続けますがね」
 この言葉は強がりにしか聞こえなかった。
「ムングワを捕らえないとこの国がその恐怖に支配されたままになりますから」
 彼はそう言うと窓の向こうを見た。もう陽は落ちようとし暗闇が近付いてきていた。