野獣 第二章
作:坂田火魯志





 僕は宿にしているホテルに泊まった。この国ではかなり高級なのだろう。クーラーまである。
「さてと」
 僕はシャワーを浴びベッドに入った。夕食はクスクスをワインで流し込んだ。クスクスとは小麦粉の粉の上にカレーに似たソースをかけて食べる料理である。美味い。それと駝鳥の肉だった。最近日本でも食べられるがここの方がよく食べるのだろうか。
 そのまま眠ろうとした。ここで部屋の電話が鳴った。
「はい」
 誰だろう、と思ったがまずは出た。それはガイドからだった。
「明日の予定ですか?」
 僕はふとそう思った。だが違った。
「そんなんじゃありませんよ」
 その声は不自然な程震えていた。
「どうしたんですか、追い剥ぎにでも遭ったのですか?」
 この国ではまだそうした輩が出る。治安はまだいいとは言えない。
「追い剥ぎだったら私が叩きのめしていますよ」
「ハハハ、そうでしたね」
 彼は腕っ節が自慢である。実際に腕相撲や力比べで負けたことはないらしい。
「人間相手だったらいいんですけれどね」
「まさかとは思いますけれど」
 僕はその言葉を聞いて悪い予感がした。
「今さっき見たんですよ」
「何処ですか!?」
 僕はすぐに尋ねた。
「そちらのホテルから暫くいった公園のところです。私もいますよ」
「すぐ行きます、気をつけて下さい」
 僕はそう言うと着替えてホテルを出た。そしてガイドが言った公園に向かった。
 公園まで駆けた。そして入口に辿り着くとガイドが待っていた。
「速いですね」
「駆けてきましたから」
 僕は息を整えながら答えた。
「そしてムングワは」
「静かに」
 彼はまだ息の荒い僕を宥めながら言った。
「着いて来て下さい」
 そして僕を公園の中に案内した。
「最初は私も見間違いだと思いましたよ」
 彼は少し恐怖に震えながら言った。
「本当に見間違いなんじゃないんですか?」
 僕は少しからかうつもりで言った。実際に彼は結構お酒が入っていた。
「そんなこと仰るんですか!?」
 だが彼はそれに対し不快感を露わにした。
「言っておきますが私はお酒には強いんですよ。どれだけ飲んでも自分を見失うことはありません」
「そうですか」
 口では半信半疑なふうに言ったがそれは本当のようだ。見たところ言葉も普通だし足取りも確かだ。
「だから余計にこうして言うんですよ、大体・・・・・・」
「それでムングワを見たというのは何処なんですか!?」
 長くなりそうだったので僕はそれよりも前に尋ねて言葉を打ち消した。
「はい」
 彼もそれで話を中断した。
「あちらです」
 彼はそう言うと茂みの中を指差した。深い木々に覆われている。茂みというより藪だ。それもかなり深いものだ。
「この中に入るのですか!?」
 見たところかなり危険だ。蠍や毒蛇が潜んでいそうだ。
「いえ、中に入ったら向こうの思う壺です」
 彼は手を横に振ってそれを否定した。どうやらムングワはこの中にいるらしい。
「相手はライオンや豹よりずっと悪質なんですよ。こんなところで襲われたらひとたまりもありません」
「ですね」
 ネコ科の多くは木の上からの攻撃を得意とする。ライオンや虎も木の上に登る。それを考えると茂みの中に入るのは極めて危険だ。木の上からでなくともこの深い藪では隠れるのも容易だとすぐに察しがついた。
「道から見ましょう。いいですか、何かあったらすぐに撃ちますよ」
 彼はそう言うと懐から拳銃を取り出した。
「はい」
 僕は残念ながら拳銃は持っていない。だがナイフ位は持っていた。護身用に現地で買ったものだ。よく切れる。
「あまり使いたくはなかったのですがね」
「そんなことを言っている暇じゃありませんよ」
 ガイドは僕の言葉を否定した。確かにそんな悠長なことを言える相手ではない。何しろ何人も殺されているのだ。
 僕はガイドに連れられて道を進んだ。ガイドは茂みの中を探り続けている。
「いました」
 そして足を止めた。同時に懐から拳銃を取り出した。
「ここですか」 
 僕も覚悟を決めた。そしてナイフを左手に持った。ゴクリ、と喉が鳴った。
 茂みの中を見る。見れば暗闇の中に何かが蠢いていた。
「あれが・・・・・・」
 頭部を下に向けている。こちらに背を向けるかたちだ。見たところ何かを食べているようだ。
 暗闇の中なのでよくは見えない。だがその姿は巨大であった。
 豹、いやライオンよりも遥かに大きい。虎でもあれ程の大きさのものはそうはいないであろう。熊に似た印象も受けた。
 しかし明らかに熊ではなかった。それにしては身体つきが違いすぎた。しなやかで鞭の様だった。ネコ科の身体であった。
「はい、あれがムングワです」
 ガイドは小声で僕に言った。
「気をつけて下さいよ、あいつはかなり勘がいいですから」
 何故そんなことを知っているのだろう、と思ったが彼は友人を今目の前にいる怪物に惨殺されている。感情的にもそう思うのだろう。
 それにしても何を食べているのだろう。ここからではどうもわかりづらい。
「見たところかなり大きな獲物のようだが」
 しかしこの街中で大きな獲物をいえば。どうも考えが及ばない。一体何であろうか。
 ムングワが顔を上げた。そして口に何かをくわえていた。
「鳥かな」
 見たところそのようである。一瞬人間かとも思ったが違うようである。
「この辺りは鳥が多いですからね。餌には困らないのでしょう」
「そうですか」
 ではやはり人間を襲うのは食べる為ではないのか。聞いたところによるとネコ科の動物は大抵人間を御馳走とは思わないらしい。彼等にとってはまずいものであるようだ。
「やはり何かしらの宗教組織がいるのだろうか」
 僕は考えた。そこでムングワはこちらに顔を向けた。
「おっと」
 僕等は慌てて身を隠した。そして物陰から野獣を覗き見た。
 幸い気付かれなかったようだ。ムングワは僕達に気付かず食事に戻った。
 食事が終わると野獣はその場をあとにした。そして何処かへと消えていった。
「まさか本当にいるとは・・・・・・」
 この目で見てもまだ信じられなかった。
「ええ、私も見たのははじめてですよ」
 ガイドはまだ身体が震えていた。
「えらく大きかったですね。ライオンでもあれだけ大きくはありません」
「はい、一体何なんでしょう」
「それは・・・・・・」
 正直わかりかねた。だが僕の知っている動物でないことだけは確かだった。
「今日は帰りましょう。そして朝になったら警察に行くことにしましょう」
「そうですね」
 茂みの中に入る気にはなれなかった。蛇や蠍もであるが何よりもムングワが潜んでいそうで恐ろしかったのだ。
 僕達は周りを用心しながらその場を去った。そしてそれぞれの場所へ戻った。
 
 翌日僕達は連れ立って警察に行った。するとあの医者がいた。
「どうしました」
 彼は僕の顔を見て尋ねてきた。
「実は昨日・・・・・・」
 僕達は昨日の夜の話をした。彼はそれを聞いて顔を顰めた。
「そうなのですか。実は昨日も犠牲者が現われたのですよ」
「えっ・・・・・・」
 僕達はそれを聞いて慄然とした。
「貴方達がムングワを見たのは何時頃でしたか」
「確か・・・・・・一時頃だったと思います」
「そうですか」
 彼はそれを聞いて頷いた。
「ちょっと来てくれませんか」
 そして彼は僕達に対して言った。
「何処へですか?」
 僕達は尋ねた。
「事件が起こった現場です」
 彼はそのまま飾らずに言った。有無を言わせぬ強い口調であった。僕達はそれに従うことになった。
 僕達は医者に連れられ事件現場に来た。見れば僕達が昨日の夜ムングワを見た公園だ。
「ここか」
 朝の日差しはもう強くなってきている。半袖でも汗が滲んでくる。
 その中に虫の声が聞こえる。そして木々が左右に生い茂っている。
「夜に見るのと雰囲気が全然違うな」
 僕はふとそう思った。あの時はこの木々が化け物のように思えたが。
 現場は僕達がムングワを見た場所と殆ど離れてはいなかった。すぐ側の木の下であった。
「これは・・・・・・」
 僕はそれを見て絶句した。それは若い男の無残な死体であった。
 全身がズタズタに切り裂かれている。喉は食い破られそこから血が噴き出したあとがある。そして手も足も爪か何かしら鋭いもので切られていた。
 だが何処も千切られてはいない。そして全身をくまなく切られている。それを見て何か人間めいた犯行であるように思われた。
「これについてどう思われます」
「どうと言われましても」
 正直に言わせてもらうと死体を見るのは今まであまり機会がなかった。ましてや殺害された人間の死体なぞ。見ていてあまり気分のいいものではない。
 しかし気を失うようなことはなかった。僕はどうもこうしたものを見ても平気な体質のようだ。
「何者がやったように見えますか」
 本当に率直に聞いてくる人だと思った。
「ネコ科でないとは思いますが。少なくとも野生の」
「やはり」
 どうも僕がそう言うのを予想していたようだ。僕でもネコ科の習性はある程度知っている。これはネコ科のやり方とは到底思えなかった。
「人間がやったものに近いような気がします」
 殺すのを楽しんでいるふしがある。これは全身をくまなく切り刻んでいるところからそう思ったのだ。
「ですね。前から思っていたことと同じです」
 彼は言った。
「我々もこれは人間、もしくは人間の指示で起こった事件だと考えています。この殺し方は将に人間のそれです」
「ではやはり」
「ですね」
 彼は僕の言葉に対し頷いた。
「おそらくこの国の何処かに潜んでいるのでしょう。それも地下に」
「地下ですか」
 昨日の話だとそこにいたらおそらく見つけ出すのは絶望的だ。
「こうなったら我々にも意地があります」
 その言葉は意外であった。
「地下にでも何でも行って見つけ出してやりますよ。そしてムングワを必ず仕留めます」
 言葉には怒気が含まれていた。
「本気ですか!?」
 僕も昨日とは様子が全然違うので正直驚いた。
「このままでは何人死ぬかわかりませんからね。上の方からも言われたんです」
(どうやらこの事件はこの国の上層部とは無関係みたいだな)
 僕は咄嗟にそう思ったが口には出さなかった。
「では早速やるんですか」
「はい、徹底的にね」
 彼の言葉は強いものであった。
「上の方から相当な圧力があったみたいですね」
 ガイドが僕にそっと囁いた。
「かも知れませんね」
 僕もそれに相槌を打った。そういう見方もできた。
 
 だが僕にはこれといって関係がなかった。僕はその日はガイドと一緒に博物館等でムングワについて調べて過ごした。
「この国にいるまでに見つかればいいんですがね」
 僕は店でガイドとピーナッツのシチューを食べながら話していた。このピーナッツのシチューはマリの料理だという。
なかなかいける。
「まあそうそう上手くはいかないでしょう」
 ガイドは醒めた声で言った。
「そちらでも最近はそうでしょう?」
「ええ、まあ」
 我が国の警察の検挙率の低下はやはり心配だ。
「けれど我が国は悪い事をしても捕まらないどころかそのまま刑務所から逃げちゃう奴がいますからね。日本の方がまだいいかな」
「いえ、そんなことはありませんよ」
 僕はガイドのその言葉を否定した。
「確かに脱獄は滅多にありませんけれどね。そのかわり我が国ではマスコミや学者が犯罪者を擁護しますから」
「それは嘘でしょう」
 彼は笑ってそう言った。
「いえ、これが本当に」
 僕は手の平を振ってそう言った。
「信じられないことでしょうが」
 ここで僕の顔はおそらく歪んでいたことだろう。
「証拠が見つかっていても冤罪はいけない、とか言うんですよ。そして犯人を無罪にしてしまうのです」
「酷いですね」
「それだけではありませんよ。その犯人がまた殺人をして捕まったんですよ」
「その人殺しを擁護していた人間は被害者に謝ったんでしょうね」
「まさか。また擁護していますよ」
「・・・・・・信じられませんね。少なくとも私には」
「残念ながら我が国の学者やマスコミはこういった手合いばかりなのです。少年が人を殺したらこの国ではどうなりますか?」
「死刑です。昔みたいに首を刎ねたりはしませんが」
「我が国では軽い刑罰で済みます。弁護士がその被害者の遺族の前で勝ち誇ってもいいのです」
「御言葉ですが」
 ガイドは真剣な顔で僕に言った。
「弁護士や裁判官、学者といった職業を一新した方がいいかと。そんな酷い話ははじめて聞きました」
「僕も全く同じ意見です」
 僕はガイドの意見に同意した。実際にこうした恥知らずで人権の本当の意味まぞ一切知らない輩が大手を振って歩いている。我が国の最も恥ずべきことだ。
「まあそれは置いておきまして」
 僕は話題を変えたかった。あの連中のことは考えるだけで不愉快だ。
「ムングワはこの街に住んでいるのですかね」
「嫌な話ですね」
 彼はその言葉に表情を暗くさせた。
「しかし昨日出ましたが」
「はい。私もこの街の何処かに潜んでいるのではないか、と考えています」
「そうですか」
「しかし何処かまではわからないです。というかわかっていたらこんなところにはいませんね」
「それはそうですね」
「昼に出ることはないようですからね。昼間は何処かで息を顰めているのでしょう」
「もしかすると道の隅にでも」
「怖いこと言わないで下さいよ」
「すいません」
 ガイドが怯えたふりをして言ったので僕も微笑んで謝罪の言葉を述べた。だが彼もこの街にいると思っているようだ。
 僕達はガイドと暫し別れある店に入った。そこは土産物屋であった。
「いらっしゃい」
 小柄で痩せた老人が出て来た。
「何をお求めですか?」
「そうですね」
 僕はふと日本にいる両親に土産を買おうと思った。
「これなんかいいかな」
 ふと象牙に似た白い首飾りを手にした。
「おいくらですか」
 言われた値段は驚く程安いものであった。
「本当ですか!?」
 それには僕も驚いた。幾ら何でも安過ぎると思ったからだ。
「うちは儲かる商売はしていないんじゃよ」
 その老人は口をあけて大きく笑いながら言った。歯は一本もなかった。
「わしも歳じゃからのう。家族もいないしこうして道楽でやっとるんじゃ」
「そうなのですか」
「そうじゃ。人生の最後位好きなことをしてもいいじゃろ」
 彼は腰を伸ばして笑った。声はしわがれているがかん高い。
「じゃあこの首飾り下さい」
「うむ」
「あとは・・・・・・」
 僕は奥に置いてある豹の置物に気付いた。
「あれは大き過ぎるな」
「あれは駄目じゃ。店の看板みたいなものじゃからな」
「はあ」
 僕はその言葉に答えた。
「ん!?」
 ふとその置物をよく見た。それは置物ではなかった。剥製である。
「それ剥製ですね」
「おお、よく気がついたのう」
「そりゃもう。あれだけ立派ですと」
 こちらに向けて身構え牙を剥いている。今にも向かってきそうだ。
「まるで生きているみたいですね。それにやけに大きな豹だ」
「アフリカの豹としては大きいと言われたことがあるのう」
「そうですね。シベリアの豹位はありますよ」
 動物は寒い場所にいる程大きくなる傾向がある。虎や狼等がその顕著な例だ。豹も例外ではない。
「そうか、そんなに大きいとはのう」
 彼は嬉しそうにその剥製を撫でた。何かいとおしくてたまらないようである。
「この豹は生きていた頃はそれは多くの人間を食い殺してきたそうだがのう」
「人食い豹ですか」
「うむ。本当かどうかはわからんが」
 よくある与太話である。少なくとも僕はその時はそう思った。
「わしはこの剥製が気に入っていてのう。悪いがこれだけは売るわけにはいかん」
「わかりました。では他のものを買って満足するとしましょう」
 僕はそれで納得した。そして幾らか買ってその店をあとにした。
 
 それから僕はガイドと夜まで遊んでいた。ムングワが出るというので皆すぐに帰宅する。
「やっぱり街の人は皆怖がっていますね」
「そりゃそうでしょう。何人も死んでるんですから」
 そう言う彼も早く帰りたそうである。
「では我々もそろそろ」
「はい」
 この日はガイドの家に泊まることになっていた。彼は独身生活を満喫しているらしい。
「といってもちゃんと恋人はいますがね」
「今度合わせて下さいよ」
「そのうちね。ヘヘッ」
 どうも自慢の恋人らしい。美人を恋人に持つのは誰でも嬉しいことだ。
 僕達は夜の道を歩いていた。月明かりが照らしていた。
「こういう日はムングワも出ないでしょうね」
「ええ。それに出来るだけ安全な道を選んでますしね」
 彼も用心していた。そして道を足早に歩いていく。
「待って下さいよ、早いですよ」
「やっぱり気になりますから」
 どうやら彼も怖いらしい。
 僕達は月に照らされた道を進んでいく。その時だった。
 上の方で何やら呻き声が聞こえた。
「!?」
 僕達は何だろうと思い咄嗟に顔を上げた。
 だがそこには何もいなかった。いや、既にいなかったのだ。
 奴は僕達の目の前にいた。そして牙を剥いていた。
「まさか・・・・・・」
 僕もガイドも絶句した。そこにいたのはあの野獣であったのだ。
「ムングワ・・・・・・」
 ガイドは震える声で言った。僕も恐怖で震えていた。
 豹に似ている。斑点まである。そして均整のとれたしなやかな身体をしている。
 だが大きい。まるで熊のようだ。昨日僕達が公園で見たのと同じであった。
 まだあった。その目は血に飢えていた。野獣そのものの目であった。
「糞っ!」
 ガイドは咄嗟に拳銃を取り出した。僕もナイフを出した。
 ムングワは襲い掛かって来ない。僕達の隙を窺っているようだ。
「グルル・・・・・・」
 唸り声をあげた。低くまるで地の底から聞こえてくるようだ。
 僕達はムングワの目から視線を外さなかった。逸らしたら来る、直感でそう感じていた。
 僕は右に、ガイドは左に動いた。そして奴の動きを少しでも撹乱しようとした。
 僕は懐からナイフをもう一本取り出した。一本よりも心強いと思ったからだ。
 ムングワは僕に顔を向けてきた。どうやら拳銃よりナイフの方が相手をし易いと思ったのだろう。
 跳び掛かって来た。牙が僕の喉を狙っていた。
「危ないっ!」
 その時だった。ガイドが拳銃を発砲した。僕を守る為だった。
 拳銃はムングワの後頭部をかすめた。そして建物の壁に当たった。
 それで動きが少し変わった。ムングワは僕から動きをそらし後ろに着地した。
「こっちに!」
 ガイドは僕を呼んだ。僕は咄嗟に前へ転がりガイドの横に来た。
「私から離れないで」
「はい」 
 彼がこんなに頼りになるとは思わなかった。僕は彼の側で身構えた。だがナイフではやはりいささか無理があった。
 ムングワは後頭部の怪我をものともせず僕達を睨んでいた。そして再び襲い掛からんと身を屈めた。
「また来るか」
 ガイドは拳銃の狙いを定めた。
「今度は外さないぞ」
 そして引き金を引こうとする。その時だった。
 急に何か不思議な笛の音がした。ムングワはそれに反応した。
「笛の音!?」
 僕達のその音色にハッとした。ムングワはそれを聞くと僕達に背を向けた。
「あ、待てっ!」
 ガイドは発砲した。だがそれは当たらずムングワは夜の闇の中に消えていった。
「消えましたね」
「ええ」
 僕達は顔を見合わせた。そして用心しながらガイドの家に入った。
 
 翌日僕達はまた警察に向かった。そして昨夜のことを報告した。
「よくご無事でしたね」
 警官達は驚いた顔で言った。
「何とか。笛の音もありましたし」
「笛!?」
 警官達はそれを聞いて目を見張った。
「はい、それが聞こえるとムングワは急に何処かへ行ってしまったのです。何かに呼ばれたかのように」
「そうですか、笛ですか」
 彼等はそれを聞いて考える顔をした。
「犬笛はご存知ですね」
「はい、犬を操る笛ですよね」
 僕は答えた。
「それと同じようなものでしょうね。ムングワを操る為の」
「というとやはり奴を操る人間がいるのですね」
「間違いありませんね」
 彼等は頷いた。
「おそらくムングワは何者かに操られているのです。その操っている人間こそが」
「今回の事件の黒幕」
「はい」
 僕達はそれを聞いて戦慄を覚えた。
「この街の何処かにいますよ、その黒幕が」
 その中にはあの医師もいた。彼は窓の外を見ながら呟いた。
「そして邪な企みを胸に人の命を奪い続けているのです」
「何の目的で」
 僕は問うた。
「そこまではわかりません。しかし」
 彼は首を横に振ったあとで語気を強くした。
「それは人の世において許されるものではないことは確かです」
 それだけはわかっていた。僕達は彼の強い目の光にそれに対する怒りを感じた。
 
 僕達は警察をあとにした。帰り際に僕は拳銃を手渡された。
「用心の為にどうぞ」
「しかし」
 僕はそれを断ろうとした。
「どうしたのですか?」
「僕は拳銃を取り扱う資格を持っていないので」
「それなら大丈夫ですよ」
 拳銃を手渡そうとした警官は笑って言った。
「この国では銃を持つのに制約はありません」
「そうなのですか?」
「はい、何かと物騒ですからね。自分の身は自分で守る為にです」
「そうなのですか」
 だがそれがかえって治安を悪化させているのではないかと思った。
「しかしそれでも」
 だが僕はやはり断ろうと思った。
「そんなこと言わずに。またムングワに襲われたらどうするつもりですか?」
「しかし・・・・・・」
 僕はバツの悪そうな顔でそれを拒否しようとした。
「銃の扱い方も知りませんし」
「何だ、それでしたら簡単ですよ」
 彼は笑って言った。
「え!?」
 流石にその言葉には驚かされた。
「今から教えますね。簡単なことですよ」
 彼はそう言うと説明を開始した。それはほんの数分のことだった。
 驚く程あっけなかった。僕は忽ちこの拳銃の扱い方を覚えてしまった。
「拳銃って思ったよりシンプルなんですね」
「そうじゃなければ手頃に扱えませんよ」
 警官は苦笑して僕に言った。
 
「ううむ、それにしても」
 僕は帰り道その拳銃を見ながらガイドと二人歩いていた。
「思ったより簡単な構造だったのですね」
「そうですよ、むしろ貴方の国の銃の方が複雑です」
 彼は笑いながら言った。
「それは自衛隊の銃のことですか?」
「はい、よくあんな複雑なつくりの銃を使っていますね」
「そうなのですか。僕は銃のことには詳しくないので」
「私は銃のことには興味がありますからね」
 意外にも彼はガンマニアのようだ。
「色々と勉強したりしているのです。それで日本の銃についても読みました」
「そうだったんですか」
「私はあんな銃は使いたくはないですね。手入れが面倒だ」
「手入れ、ですか」
「おっと、馬鹿にしてはいけませんよ」
 彼は顔を引き締めて言った。
「手入れを怠ると大変ですよ。暴発してしまうかも知れませんしね」
「暴発、ですか」
 急に手に持っている拳銃が怖くなった。
「そうです、部品一つなくしても銃は駄目になってしまうのですよ」
「案外繊細なのですね」
「そう、女の子のようにね」
 彼はにんまりと笑ってそう言った。
「女の子みたいにですか」
「そうですよ、そう言うとわかりやすいでしょう」
「はい」
 彼の言葉に少し怖くなっていた僕の心が明るくなった。
「銃は細かい手入れをしておけばいいです。あとは簡単です」
「そうなのですか」
「今はそれよりもムングワのことを考えましょう。またすぐ出て来るでしょうし」
「僕達を襲いにですか」
「そうかも知れませんね」
 今度は笑ってはいなかった。
「奴が私達の顔を覚えていれば間違いなく」
「来るでしょうね」
 ネコ科の生物は執念深いと言われる。ムングワもそうであろう。
「これからはその銃を常に身に持っておいて下さいよ。もしもの時はそれが最も心強い友人になります」
「わかりました」
 その言葉には重みがあった。僕はその言葉に対し頷いた。