Because It Is There〜選定の恋文〜 2
作:アザゼル





 ex2「12月13日18時25分」


 クラブが終わる頃になると、最近ではほとんど辺りは真っ暗になっていた。日が落ちるのが早くなったせいだろう。
 小西佳織は上州高校の門の前で、ぼんやりと日の落ちた空を仰いでいた。
 僅かにこげ茶色に染めたショートの髪が、夜風に静かになびいている。
「待たせたな」
 声は佳織のすぐ後ろからかけられた。
 嬉しそうに振り返った佳織の視界に、乱れた制服――おそらく急いで着替えてきたのだろう――に身を包んだ少年、上杉泰氏が息を荒くして立っている。
 泰氏はあまり部活動の盛んではないこの高校のテニス部のキャプテンで、地区の大会では唯一の上位入賞者でもあった。さらさらと伸ばされた黒髪と、アイドルのような端正な顔立ちのおかげで、校内外に関わらず彼のファンは多い。
 そんな彼氏を持つことが、佳織にとって誇りでもあり、また心配の種でもあった。
 なぜなら佳織はお世辞にも美人と言えるような容姿ではなく、周囲からもアンバランスなカップルだと囁かれていたからだ。
「んじゃ、帰るか。佳織――」
 泰氏が言いながら、そっと佳織の肩を抱き寄せる。
 そんないつも通りの行為に、やはりいつも通り顔を僅かに朱に染めながら、佳織は小さく頷いた。
 周囲からどんな噂が立っても、泰氏は気にしない。そもそも彼は自分がどんな目で見られているのかあまり理解していなかった。
 その泰氏の鈍感さが二人の仲を今まで保ち続けてきたのだが、もし二人を引き裂く何かがあるとすれば、それも結局はそういうところからなのかもしれなかった――


「そう言えばさ、遂に取り壊しが決まったんだってな」
「何が?」
 街灯が照らし出す泰氏の横顔に見とれていた佳織は、彼の何気なく放った言葉に、確かめもせずに聞き返した。
「『ラプンツェルの塔』だよ。最終日に、俺たち並んだじゃん」
 だがまるで気にした様子もなく、泰氏は歩きながら言葉を続ける。
 繋いだ手の反対側で純のラケット入れが揺れるのを眺めながら、佳織はこの街でかつてシンボルと言われていた『ラプンツェルの塔』のことを思い出していた。閉館が決まった最終日に、二人でそこを訪れたのは、もう一年以上前の話だ。
「……あぁ。あそこ、壊れるんだ?」
 だからか、大して感慨もなく佳織は言った。
「みたいだな。て、なんだよ。あんまり関心なさそうだな」
 話を振った泰氏は、佳織があまり興味なさそうななので、少し不満そうな声をあげる。
 それに対して佳織は小さく首を横に振ると、泰氏の横顔にちらっと視線を送り、それからまるで人生に疲れた老人のようなため息を洩らした。
「そうじゃないんだけどね。私には他に心配事が多くてさ」
「心配事って何だよ?」
「それは……」
 言いかけて、佳織はそこで歩みを止める。
 手を繋いでいたせいで、泰氏も半ば強制的に歩みを止めた。
 静かな路地の中、街灯に群がる虫が焦げて落ちる音だけがやけに大きくジジッと響き渡る。
「……そう言えばさ、みどりが今日告白したんだって」
 流れた沈黙を払うように、佳織はわざと明るい口調で、全然違う話を振った。
「うまくいったのか?」
 唐突な話題に、今度は泰氏の方が興味なさそうに聞き返す。
「うん。うまくいったって、さっきメールがきたもん。みどりは純君のことずっと好きだったから、ホント良かったよ」
「でも、そうなったら友弘はかわいそうだよな」
 言いながら、泰氏は口にした少年のことを思ってか僅かに顔をしかめた。
 それが心底から放たれた言葉だと理解して、佳織は少し気まずそうに押し黙る。泰氏が放つ言葉はいつも偽りがなく、本気のもので、彼のそういう誰にでも等しい優しさのようなものに惚れてもいたが、それが苛立ちの元となることもあった。
 優しさは自分にだけ向けて欲しい――
 そう思うのは、年頃の少女にとって傲慢なことではなかった。
「男と女……だからね」
 妙に達観したように呟いて、佳織はまたゆっくりと路地を歩き始める。
 手を繋いでいた泰氏もつられるように歩き始めた。
 二人の影が、街頭の光を受けて路地のアスファルトに長く伸びる。夜風が音をたてて辺りに吹き荒れ、静寂が再び支配を始めた頃、
「……悩みって、何だよ?」
 泰氏が静かに口を開いた。その口調には、ぶっきらぼうだが佳織に対する限りない優しさに溢れているのが分かる。
 自分に真摯な眼差しが送られているのを感じて、佳織はまるでそれから目を背けるように前を向いたまま言葉を紡ぎ始めた。
「あのね、この前ね。……みどりが見たんだって」
「何を?」 
 聞き返す言葉は、やはり優しい。
 佳織はなぜかそんな泰氏の横に自分が歩いているのが酷く恥ずかしくなって、僅かに早足になると、無意味に明るい声で言葉を続けた。
「……泰氏と麗花さんが、一緒に二人で喋ってるところを見たんだって。なんだかすごい親密そうで、麗花さんって綺麗な人だからさ、私はほら、全然かわいくもないし。泰氏を取られちゃったりしたら悲しいじゃん?」
「……」
 横を歩く泰氏は、何も言葉を挟まず、ただじっと佳織の言葉に耳を傾けている。
 それが無言の重圧を与えたのかどうか、佳織はさらに早口になって言葉を続けた。
「世の中ってそういうもんなのかな、なんて無情みたいなものを感じちゃったりしてさ。だから悩みって言うよりは、嫉妬みたいなものなの。こういうこと言う自分はすごく嫌いだけど、やっぱりどうしようもなくて……っん!?」
 支離滅裂にまくし立てられた佳織の言葉を塞いだのは、泰氏の唇だった。
 唇と掴まれた右手が、泰氏の体温で熱くなるのを、閉じた瞳の向こうで佳織はぼんやりと感じている。
 冷たい世界で、そこだけがリアルな感覚。
 風が荒む音と共に、どこかで何かの物音が聞こえ、それと同時に佳織はともすれば包み込まれそうになる泰氏の優しさに必死に抗った。
「やめてっ!」
 吐き出すようにそう言い、佳織は泰氏を突き飛ばす。
 不意の行動に泰氏は軽くよろめき、驚いた顔で佳織を見つめ返した。今までそういう風に彼女に拒絶されたことがなかっただけに、ショックだったのだろう。
「何を怒ってるんだ? それに、俺は別に麗花とは何でもないよ。彼女はいい友達だけど、佳織とは違うし……」
「じゃあ、誤解されるようなことはしないで! 他の女の子と話すのもやめて!」
 突然のヒステリックな絶叫が、優しく投げかけられた泰氏の言葉を、またも拒絶する。
 自分でも無茶なことを言っていると理解して、佳織は叫んでいた。このままでは、泰氏の優しさに何もかもを曖昧にされそうで怖かったから。
「泰氏が他の女の子と噂になるたびに、私は辛いのよ……」
 次に紡ぎ出した言葉は、悲痛な心の痛みそのものだった。
 ちょうど二人の頭上を照らしていた街灯が、小さく二度瞬く。その一瞬だけ、月のない世界は真の闇に包まれた。
 お互いの顔が見えない状態で、香織の鼻をすする音だけが小さく響く。
 街灯の明かりが再び灯り――優しく微笑んだままの泰氏が、まるで小さな子を諭すような口調で香織に語りかけてきた。
「そんなわがままを言わないでくれ。俺が嘘をついて誰とも話さないというのは簡単だけど、そういうのは嫌いなんだ。でも、誰が何と言おうと俺が付き合っているのは香織だけで、それだけは事実だから――」
 言いながら歩み寄る泰氏に、佳織の心が揺れる。だがそれを振り払って、彼女は彼に背を向けた。そして、そのままその場から逃げるように走り出す。
 目から溢れた涙が、頬を伝って次から次へと流れ落ちていった。
 逃げ出したのは泰氏のせいではなく、自分があまりにも彼に比べて惨めだったからだと、走りながら佳織は理解していた。本当にアンバランスなのは、容姿なんかではなく、彼の広い優しさと誠実さ。それに対する自分の心の矮小さであることも――理解していた。
 冷たい風が、走る佳織の体を無情に引き裂いていく。
 その中で、先の泰氏の唇の温もりだけが、残された彼の残滓のように佳織の中でいつまでも燻り続けていた。


 「12月14日18時50分」

 上州高校の下駄箱は、広いホール状の空間になっていた。
 この時間になると、数少ない部活動で残る生徒たちもほとんどが帰宅してしまっていて、下駄箱には人の姿が見当たらない。明りも僅かにホール内に設置された物のみで、放課後の学校特有の無気味な静けさが、そこを支配していた。
 その下駄箱に、スポーツバッグを担いだ泰氏が現れる。
 テニス部のキャプテンである泰氏は、来週の対校試合の打ち合わせを顧問の先生としていて、それで帰りが遅くなってしまったのだ。
 静かなホールの中、早足で自分の下駄箱に近付いた泰氏は、すぐに異変に気が付いた。
 下駄箱から少しはみ出た、ピンク色の何か。
 開けないでも、それが意中の人への思いを綴った物だと――つまりラヴレターだと、泰氏には理解できる。なにせ、そういう物を今まで飽きるほどもらってきたのだから。
 それでも泰氏は下駄箱を開けて、慎重にそれを取り出した。彼には例え恋人がいようが、真剣な思いを書いた物を粗末にできるような非情な心はない。
 取り出したそれは、ピンク色の猫の絵が入ったかわいい封筒だった。
 封筒と同じ猫の絵のシールを剥がして、泰氏は中の便箋を取り出す。


 Dear 上杉泰氏さま
  突然、こんな手紙を出してしまってごめんなさい。
  でも、あなたを思う気持ちは本当です。好きなんです。
  付き合ってください。
  今日の午後8時35分まで、八坂公園の入り口、公園案内板の前で待っています。
  PS、絶対にこの手紙を持って来てください。
                           あなたを思う少女より


「……」
 読み終えた泰氏は、内容の不思議な奇妙さに首を傾げた。
 差出人が明確に書かれていないのは、この手の手紙では良くあることだ。だが、奇妙なのは、なぜか詳細に指定された時間と場所。それに追記で書かれた「絶対にこの手紙を持って来てください」の文字。そして、文面全体から醸し出される不思議な静けさ。
 だがすぐに泰氏はそれら全てを相手の何かの事情だと思い込むと、腕にしたスポーツ時計に目を遣った。
 ――19:05
 八坂公園までは、ここからだと一時間ほどかかるが、なんとか間に合う時間だ。
 今日は佳織は学校を休んでいたし、例え休んでいなくても、そんな所に人をずっと待たせておくことなど泰氏には考えられなかった。
 急いで靴を履き替えると、泰氏は下駄箱を後にする。
 後にはまた、人の姿が消え静けさを取り戻したホールがひっそりと佇むのだった。


 「同日20時20分」

 八坂公園は日中は近くの団地の子供たちで賑わう所だったが、今はその面影はなく、ただ重い静寂に包まれている。
 園内を囲むように植えられた木々が、風に吹かれてなびく音だけが、さわさわと辺りに響いていた。
 入り口にある、公園内の見取り図を簡潔に記した案内板。
 指定されたその前で、泰氏はやっと落ちついてきた息を整えて待っていた。腕時計に目を落とすと、もう二十分を少し回っている。あの手紙の書き方では、ここでずっと待っているのかとも思ったが、どうやらまだ手紙の主は来ていないようだ。
 いたずらかもしれないという懸念が泰氏の脳裏をよぎる。が、それならそれで構わないと彼は考えていた。余計な噂がたっては、また佳織の逆鱗に触れてしまう。
 泰氏はそんなことを思いながら、自然と目を公園内にあるブランコへと向けていた。
 泰氏が佳織と付き合い始めたのは、上州高校に入ってからだ。告白しようとしてなかなか言い出せないでいる佳織に、逆に告白したのが始まりだった。それまでの二人は、同じ公共団地の隣同士という間柄で、昔からよく一緒に遊んだりしていたが、お互いを好きという気持ちはその時からあったのかもしれない。昔、一緒にブランコではしゃいでいた関係は、時の経過と共に、彼氏彼女の関係へと発展していった。
 泰氏は目の前に見えるブランコに乗る、幼い頃の自分たちを思い描いていた。
 ――その時、頭上で何かが弾けたような音が鳴る。
 とっさに音のした方に目を向けるが、そこには月と星々が煌く夜空しか映らない。
 気のせいかと視線を戻した泰氏の視界に、今度はこちらに向かって歩いてくる人影が映った。時計を見ると三十分を少し回っている。手紙の主がやっと現れたようだ。
 人影の注意を引こうと泰氏が手を上げかけた瞬間――また何かが弾けるような音が、さっきよりも激しく鳴った。
 だが、今度は泰氏はそちらの方を振り向くことができなかった。
 なぜなら、その時にはすでに泰氏は全身を痙攣させ、絶命していたからだ。
 一瞬で命を奪い去った理不尽な死。それは途中で擦り切れた電線が、ちょうど真下にいる泰氏にもたらした高圧電流だった。弾けるような音は、老朽化した電線から漏れた電流が、スパークする音だったのだ。
 ぴくりとも動かなくなった泰氏のズボンのポケットから、携帯電話がメールを受信した音が鳴り響く。メールは佳織からの謝りのメールで、だがそれを読む者はもう……この世界には存在を無くしていた。
 虚しく響き渡るメールの受信音は、しばらく鳴り続けた後、唐突に鳴り止む。
 後にはただの肉塊へと変わり果てた泰氏の体と、それを包む静かな闇が残るだけだ。吹き荒む風はいつにも増して強く、死者の上を無情に叩きつけていく。
 そこへ、一人の人影が近付き……


 「12月16日13時50分」

 佳織は目の前に横たわるものが、信じられなかった。
 木製でできた長方形の箱の中。数多くの花の上に横たわる、生をなくした少年――上杉泰氏。所々焦げたような傷はあったが、それはまだ生きていて、今にも動き出しそうであった。
「……何の冗談よ、泰氏」
 突然の恋人との別れが理解できず、焦点の定まらない瞳を虚ろわせながら、佳織が呟く。
 後ろには上州高校の同じ学年の生徒たちが焼香をあげるために列をなしていて、いつまでも動かない佳織に不平をあげていた。
 だが、それらは佳織の耳には届かない。
 回りの景色が急激に遠ざかっていき、世界に自分と目の前に横たわる泰氏だけがいるような感覚。目の前の物言わぬ泰氏に、佳織は生前と変わらぬ口調で語りかけていた。
「ねえ。この間はごめんね。私がわがままだったよね。あの後、ずっと泣いてたらさ、目が真っ赤に腫れちゃってさ。お母さんがその私を見て酷い顔なんて言うから、学校休んじゃったの。本当は直接謝りたかったんだけどさ、恥ずかしいからメールで謝ることにしたんだ。ねえ、見てくれた? 私のメール。ねえ、見てくれた?」
 何かにとり憑かれたように喋り続ける佳織に、周囲の生徒が気味悪がって後ずさっていく。
「ねえ、何か言ってよ泰氏。どうして何も言ってくれないの? ねえ……」
 喋りかけながら、佳織は泰氏の眠る棺にそっと手を伸ばした。
 ――と、その手が横から伸びた手に掴まれる。
 差し出した手の正体は、悲痛な面持ちで佳織を見つめる一人の女生徒――相田みどりだった。
「もう、やめよう。泰氏君は……死んだんだから」
 一言一言噛み締めるように諭しながら、みどりは反対の手で佳織を優しく抱きしめる。
「何言ってるの? 泰氏は目の前にいる。手を伸ばせば届くところにいるんだよ?」
 だがその親友の言葉すら届かないのか、佳織は必死にみどりの腕の中で抗った。抗いながらも、手だけはどうにかして泰氏の元に届けようと伸ばし続けている。
 それをみどりも必死になって押さえつけて、周囲の奇異の視線を浴びながらも、その場を佳織を引きずるようにして後にしたのだった。


 泰氏や佳織が住んでいる公共団地から、僅かに離れた位置にその神社はあった。この地区での葬式は、大概がそこで行われることになっており、それは泰氏の場合も同様だ。
 小さな神社で、今は上州高校の生徒たちが境内を埋め尽くしていた。
 その境内の外。木造のベンチの上で、佳織はさっきからずっと俯いたまますすり泣いている。
 涙は決して枯れ果てることなく、太ももの上にぽたぽたと小さな水溜りを作り続けていた。
「飲む? 温まるよ?」
 その佳織に、近付いてきた黒髪の少女――みどりが、買ってきた缶コーヒーを差し出す。手にはもう一つ、自分のために買ってきた缶コーヒーが握られていた。
「……ありがと」
 差し出されたそれを受けとって、俯いたまま佳織は礼を言う。
 そんな佳織を静かな眼差しで見据えながら、みどりは彼女の横にゆっくりと腰を下ろした。
 しばらくの間、沈黙が流れ、二人が暖かいコーヒーをすする音だけが響く。
 頭上には太陽のない灰色の空がずっと向こうまで横たわり、どこか冷ややかに下界を覆い尽くしていた。風はなく、張り詰めたような大気が永遠とも言える瞬間を演出する。
 沈黙を破ったのは、どこか遠くに語りかけるような、佳織の呟きだった。
「……謝れなかったのよ」
 それだけを呟くと、またすぐに口を閉ざしてしまう。
 みどりはかける言葉を見つけることができず、ただ中身の減った缶コーヒーに視線を落とすことしかできない。恋人を亡くした者を癒す言葉を紡ぐには、彼女はまだ若過ぎると言えた。
 遠くの方から聞こえる生徒たちの声が、二人の耳朶に酷く非現実的な響きをもって届く。
 ――再び訪れた沈黙を破ったのは、今度は二人の頭上からだった。
「佳織ちゃん……」
 低いその声に名前を呼ばれ、佳織は緩慢な動きで顔を上げる。
 そこには一人の黒いスーツ姿の中年の男が立ち尽くしていた。白髪の混じり始めたその男は、顔に無理をして貼り付けたような不自然な笑みを浮かべている。
 男は、上杉泰氏の父親だった。
「泰氏の……。泰氏君のお父さん?」
 途中で言い直して、佳織は少し驚いたような声をあげた。
 佳織が泰氏の父親を見たのはずっと昔のことだったが、彼女は男に小さい頃、泰氏と一緒にキャンプなどによく連れて行ってもらったことを今でも覚えている。
「この度は息子の冥福を祈ってもらい、ありがとうございました――」
 神妙に言って、男は二人に深々と頭を下げる。
 つられるように二人も頭を下げた。
 男はしばらく頭を下げ続けた後、不意に顔を上げて、胸ポケットを探り始める。取り出したのは、メタリックシルバーに彩られた最新機種の携帯電話だった。
 それに見覚えのある佳織が、思わず声を洩らしそうになる前に、男はそれを彼女の前に差し出す。
「え?」
「それは息子があなたと一緒に買いに行った物らしいですね。遺品と呼べる物はありませんが、それを持っていてやってくれませんか?」
 驚いた表情で見つめる佳織に、男は優しくそう言うと、携帯を彼女の手に握らせた。
 手にしたそれをしばらくぼんやりと眺めていた佳織は、込み上げてくる何かを押さえようともせずに大きく頷く。
「分かりました。これは……これは私がずっと、持っています。ずっと……」
 後は声にならなかった。
 泣き崩れた佳織を、横のみどりが優しく抱きしめる。
 そんな二人を眺めながら、男は僅かに目を細めると、静かにその場を立ち去っていった。


 「12月22日16時15分」

 あの日以来、佳織は学校に行っていない。
 ずっと自宅の自分の部屋に篭ったままだ。
 部屋は親でさえ入れないせいか、散らかり放題で、まるで巨大な玩具箱をひっくり返したような状態になっていた。
 その散らかった部屋の中で、佳織は屈み込んだまま手にした携帯をじっと見つめている。携帯は葬式の日に泰氏の父親からもらった物で、メタリックシルバーのそれは、どこか寂しげな光沢を放っていた。 
 ボタンを操作しながら、佳織はこの間までの二人のメールのやりとりを、何度も何度もディスプレイに表示させている。
 回想に浸り続けなければ、日々を過ごすことができなかった。
 ずっと一緒にいた者が、理不尽に消失する虚無感。
 どこにぶつけていいか分からない怒りは、開放されることなく佳織の心を蝕んでいく。
 繋ぎ止めた過去の亡霊を、胸中で反芻することが唯一の慰みで、そしてそれを責めることのできる者はもちろん――いない。
 今や現実は、佳織にとって何の意味も成さない虚構に過ぎなかった。
 だから初めは佳織を呼ぶその声も、耳には届かなかったのだ。
「佳織、佳織!」
 遠くの方から聞こえる声に、佳織ははっきりと分かるほど嫌悪の色を顔に浮かべる。声は母親のもので、部屋から出てこない彼女を心配していつも大声で彼女の名を呼んでくる。
 だがそれは佳織にとっては、現実に自分を引き戻すための悪魔の声にも等しかった。
「うるさいっ! 私のことはほっといてよ!!」
 耳を塞ぎ、大声で言葉を返す。
 いつもならそれで母親は諦めるはずだった。だが、今日は違う。声はさらに大きくなって、佳織の耳朶を打った。
「佳織、出てきなさい! お友達が見えてるわよ!!」
「……?」
 友達という言葉に、佳織はぴくりと反応する。同時に脳裏にみどりの顔がよぎった。
 さすがに親友の来訪をむげに断るわけにはいかないと思ったのか、すっと立ち上がると、佳織は部屋の鍵を開けて扉を僅かに開く。そこから顔だけを出して、彼女は大きな声で叫んだ。
「お母さんは入ってこないでよ! 友達だけ、連れてきて!」
 言い終えて、また扉を閉める。
 しばらく玄関辺りで母親と友達の会話が交わされるのが聞こえた後、足音が一つだけ佳織の部屋に向かって歩いてきた。
 だが扉を開けて入ってきた来訪者は、予想に反してみどりではない。扉のところに姿を見せた人物は――


「……森……君?」  
 扉のところに姿を見せたのは、学生服に身を包んだ少年――森秀一だった。
 適当な感じに伸ばされた黒髪と、眼鏡の奥の端正な顔立ち。
 ほとんど面識のない香織だったが、秀一のことはよく知っていた。上州高校は校内でテストがある度に成績上位者を掲示板に張り出していて、彼はそれの常にトップに名を残していたからだ。
「具合はどうだ」
 そんなことはどうでもいいといった口調で――それでも一応は心配そうに声をかけながら、秀一は遠慮なく佳織の部屋に入ってくる。同時に彼は酷く散らかった部屋に一瞬目を遣ったが、大して気にもならないのか、表情はぴくりとも動きを見せなかった。
「……何を、しにきたの?」
 散らかった物を脇にどかしながら腰を下ろす秀一に、佳織は明らかな警戒の色を含ませて口を開く。
「見舞いだよ。名目はな」
「名目?」
「ほら、これは休んでいた間のノートのプリントだ」
 聞き返した佳織の言葉には答えず、秀一は鞄から取り出した用紙の束を彼女に放り投げた。そこには詳細に彼自身が記した授業の内容がまとめられているが、おそらくはそれも名目の一つなのだろう。
 それを理解していたのかどうか、佳織は自分の足元に投げ捨てられたプリントには目もくれず、秀一をじっと睨みつけている。
「……報告に来たんだよ。本当はな」
 その迫力に押された秀一は、小さく肩をすかせて呟くように言った。
「報告って、何の報告よ?」
「……相田が死んだ。小西が女子の中では親しかったからな。だから、俺が報告に来たんだ」
「!?」
 淡々と告げられた言葉に、佳織は一瞬何を言っているか分からないといった表情で秀一を見つめ返す。
「嘘……でしょ?」
「事実だ」
 きっぱりと言い放つ秀一。
 そこには憐れみとか、そういう感情は一切なく、ただ書かれた文字を読むような無機質な感じだけがあった。
 その無機質さが、より真実味をもってみどりの死を佳織に悟らせる。
 秀一を見据えていた双眸が大きく揺らぎ、不意に輝きを失った。何かが欠落していき、さらに巨大な虚無の感情が佳織を包む。
 ――その後の秀一の言葉は、ほとんど耳には届かなかった。
 何かを必死に佳織に尋ねてくるが、それの内、彼女の耳に届くのは酷く断片的なものでしかない。「上杉が最初だ」「もうすでに四人」「全てがただの事故だ」「悪意を感じる」などが、遠い場所にある壊れたラジオから漏れた音のように聞こえてくるだけだ。
 やがて秀一は諦めたように大きくため息を吐いた。
 ゆっくりと腰を上げて、視界に映る呆然としたままの佳織を見下ろしながら、部屋を出ていこうとする。
 扉のドアノブに手をかけ――
 そこで何かを思い出したように、秀一はもう一度佳織の方を振り返った。
「……小西」
 呼びかけるが、返事はない。
 それでも構わず言葉を続ける。
「思いを引きずるのは勝手だが、時間が戻ることは絶対にない。過去に囚われ続ける限り、恋人は永遠にあんたの過去から解き放たれることはないんだぜ。それはやっぱり……冒涜してることになるんじゃねえか? あんたの恋人を――」
 言って、秀一は今度こそ部屋を出ていってしまった。
 扉が閉まる音が狭い部屋に響く。
 同時に残された佳織の瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。


 「12月24日16時50分」

 佳織の目の前には、灰色の空に突き出すように、巨大なアトラクションタワー『ラプンツェルの塔』がそびえ立っていた。周囲の建造物のどれよりも大きく高いそれが、天に向かって伸びるさまは、どこか荘厳な雰囲気すら漂って見える。
 どうしてこんな所に来てしまったのか。
 佳織はビルから跳ね返る突風を全身で浴びながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
 今朝のラジオで、年初めに取り壊されるということを聞いて、ここに来たのは間違いない。もちろんその時に脳裏をよぎったのは、泰氏との最後の会話だ。
 でも実際のところ、ここまで足を向けさせたのは、何かの意思のようなものを佳織は感じていた。
 ゆっくりと、ビルの正面玄関に足取りを向ける。
 なぜかいつもは立ち入り禁止の看板と共に張り巡らされている有刺鉄線が、この日に限っては全て切られていて、そのおかげで佳織は難なく入ることができた。
 正面玄関を抜けた先は広いホールになっている。天井を見上げると、ずっと彼方に灰色の空が、小さな円の中に収まって見えた。その吹き抜けから漏れる小さな風の音が、ホール内に低く響いている。
 佳織はじっと立ち尽くしたまま、その低い風の音にぼんやりと耳を澄ましていた。
 どれくらいそうしていただろう。
 自分の体が溶けて、『ラプンツェルの塔』の一部となったような不思議な感覚が佳織を包み込んでいく。
 同時に低い風の音に混じって、子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてきた。
「……?」
 首を傾げながら、佳織は辺りに視線を馳せる。
 ――ホールに人影の姿は見えない。
 気のせいかと思い直して視線を戻した瞬間、目の前の中央エレベーターの入り口に二人の子供の姿が見えた。さっきまで、そこに人影はなかったはずである。
 それを視界に捉えた佳織の表情が、驚愕に激しく歪んだ。
 子供たちがこんな所で遊んでいたからではない。その子供たちが、幼い頃の自分と泰氏の姿をしていたからだ。
「どう……なってるの?」
 呟くように洩れた呻き声は、虚しく風のうねりに掻き消される。
 突如現れたとしか言いようがないその子供が、佳織に向けて手を振って見せた。手を振ったのは、幼い時の佳織の姿をした方である。
 自分が自分に呼ばれる奇妙な感覚を味わいながら、佳織はふらふらと子供たちに近付いていった。
「お姉ちゃんも、一緒にアソボ?」
 幼い佳織が、目の前まで近付いた佳織を見上げて無邪気に問いかける。
 その屈託のない笑みにつられて、思わず頷きを返した佳織の手を、幼い佳織が嬉しそうに掴んだ。
「今からね、泰氏君と一緒に屋上に行くんだ」
 言いながら、幼い佳織は掴んだ手を引っ張ってエレベーターの中に乗り込む。
 エレベーターの中には、すでに幼い泰氏が乗り込んでいて、彼は入ってきた佳織に鋭い眼差しを向けた。
 双眸が放つ強い輝きに、佳織が僅かに気圧される。
「ねえ、お姉ちゃん。実は私たちボタンに手が届かないんだよね。押してちょうだい?」
 だがのんびりとした口調の幼い佳織の声に、佳織はなんとか平静を取り戻すと、言う通りに最上階のボタンを押してあげた。
 一瞬の間があって、エレベーターの扉が閉まろうとする。
 だが扉は、差し出された小さな手によって完全には閉まることができなかった。
 手を差し出したのは、幼い泰氏だ。彼は不満な顔をする幼い佳織をなだめながら、佳織の方を先と同じように鋭く見据えて口を開く。
「こっからはダメだ」
 きっぱりと言い放たれた言葉に、佳織は声にならない声をあげた。なぜならそれは、泰氏の声そのものだったからだ。幼い頃ではない、ついこの間まで聞いていた泰氏の声。懐かしいその声に、思わず彼女の涙腺が緩む。
 だがそんな佳織には構わず、幼い泰氏は言葉を続けた。
「……こっからは佳織の世界じゃない。だからついて来ることはできない」
「どうして?」
「いつまでも過去に囚われていたら駄目だからだ。時間が流れ続ける限り、不変なものなど存在しない。不変なものは死だ。俺を引きずり続けると、佳織の心は死んでしまう。俺は……」
 そこまで言って、幼い泰氏は言葉を切った。ふっと双眸の輝きが柔らかくなり、同時に彼は佳織の頬に手を伸ばす。
 自然と頬を伝っていた涙が、その手によって優しく拭われた。
「俺は……この世界で一番好きだった佳織が死んで欲しくない」
 次の瞬間、佳織の体は押され、エレベーターの外に出される。
 同時に閉まっていくエレベーターの扉。
 閉まる直前、幼い泰氏がにっこりと微笑むのが佳織の目には見えた気がした。
 エレベーター脇の階を示すボタンの点滅が、上に昇っていくのを見ながら、佳織はポケットからメタリックシルバーの携帯電話を二つ取り出す。メールの受信箱を同時に開き、そして――両方の全消去ボタンを押した。
「これでいいんだよね、泰氏――」















あとがき

 はいはい、お久しぶりです(?)
 アザゼルの……何作目だろ、これ?(ぉぃ)
 今回はどうなんでしょうねえ。そろそろ、ちょっとくらい面白い話が書きたかったりするアザゼルですが……。まあ、この話に期待です♪
 ではでは、プロットでメインキャラがすでに15人と、変なところだけ半端ではありませんが。よろしければ、この戯言に近い小説をお楽しみ下さい〜

 追記
 「未来」をテーマにしたのに、いつの間にやら「死」がテーマになったのは、ここだけの内緒です(しー)