Because It Is There〜選定の恋文〜 3
作:アザゼル





 ex3「8月31日」


 小野寺健太はその体格のせいか、それとも陰鬱な性格のせいか、学校でイジメにあっていた。登校拒否児となり、一学期の途中から学校に通うのをやめてしまっている。もし彼に、それを支える友人――森秀一や笠原武司などがいなかったら、彼も他のよくいる登校拒否児たちと同じく、そのままずっと学校に通うことはなかっただろう。
「おい、次はあれに乗るぞぉ!」
 言い終らないうちに、短い髪をツンツン立たせた武司は向こう側に見えるコースターへと走っていってしまった。混雑する人ごみ――なにせ、今日は夏休み最終日だ――の中に、その後姿が一瞬で掻き消えていく。
「……おいおい。今日は健太のために来てるってのが、あいつは分かってんのか? 悪いな健太、お前の好きなのに乗ってもらおうと思ったのに」
 こめかみを指で押さえながら、眼鏡をかけた秀一は走り去っていった武司の方を見据え、小さく嘆息して見せた。
 横にいた太った少年――健太は、そんな秀一の様子におかしそうに笑みを洩らす。
「相変わらずだね、武司は。秀一が苦労してるのも、相変わらずだし」
「俺は武司の子守りじゃないんだがな……」
 皮肉を言って健太の肩に手をかけながら、秀一はコースターの方へと歩き始めた。眼鏡の奥の聡明そうな双眸はぴくりとも笑っていなかったが、だが別に冷たいという表情でもない。
 そんな秀一を横目で見ながら、健太は心中で「ありがとう」と小さく呟いた。
 秀一と武司が、健太を『ラプンツェルの塔』に誘ったのは、夏休みも後僅かとなった頃だ。二人は健太にとって小学生の時からの数少ない友達で、登校拒否に陥っていた彼を心配する唯一の存在だった。上州高校の二年に上がってからは、二人とはクラスが別々になり――それもいじめられる要因の一つで――もしかしたら忘れられているのかと危惧したが、そんなことは全然なかった。家に尋ねてきた武司は、いきなり登校拒否をしている健太を怒り、秀一はなぜか健太よりも先に武司を諭し始めるという展開は、昔と何一つ変わらない――
「お前ら、おせーよ。取っといたから早く入れ!」
 コースターの乗り場。混雑した列の中から、武司が近付いてきた秀一と健太に向けて手を振りながら叫んでいる。
 『ラプンツェルの塔』の目玉でもある、ビルの周囲を飛び出して走るこのコースターは、休日でなくとも大抵一時間は待ち時間ができるので有名だ。
「また、あの馬鹿は……」
 列の中で一際目立つ武司に、秀一が頭を抱える。同時に健太をその場に残すと、コースターの乗り場まで駆け寄っていった。
「どうしたんだ?」
 健太を連れずに駆け寄ってきた秀一に、武司が首を傾げて問う。
 その武司の頭を軽く小突きながら、
「馬鹿野郎、後ろに並んでる人に失礼だろう!?」
 言って、秀一は武司の着ていたパーカーのフードをがっしりと掴んだ。そのまま、ずるずると健太の並ぶ列の最後尾まで引きずっていく。
「武司が強引なのは変わらないね」
「強引なのは俺じゃねえ。この、優等生ぶりぶり男だ! 場所取りなんて、みんなしてるじゃねえか!」
 結局後ろに並ばされた武司が、健太の笑いながら放った言葉に猛烈に反論する。反論しながら向けられた指先は、平然と佇む秀一に向けられていた。
 その指先をまるで他人事のように冷たく見据えながら、秀一は僅かにずれ落ちた眼鏡を指で大仰に持ち上げて、静かに口を開く。
「俺は人として当然のことをしたまでだ。それに、他人の愚行を真似るような男は、お前が最も嫌う男なんじゃないのか?」
「……」
 痛いところを突かれ、沈黙する武司。
 相変わらず端正な顔を微塵も崩さない秀一。
 必死に笑いを堪えている健太。
 やがて前の方から列が動き始め、それに紛れて健太が小さな――ともすれば聞き逃しそうなほど――声で二人に言った。
「今日は、二人ともありがとう――」
「何を言ってんだ。オーバーな奴だな!」
「今度は俺たちなんかじゃなく、デートで――例えば赤城なんかと来るんだろ? まあ、今日はその予行練習って奴だな」
「ば、馬鹿! 麗華と来るのは俺だって!」
「呼び捨てだし……」
 健太の殊勝な言葉をまるで気にもせず、それぞれが笑い合い肩を叩き合う――
 本当の友達というものが存在するのなら、それはこういう関係のことを言うのかもしれない、と健太は出発したコースターをぼんやりと眺めながら、考えていたのだった。


 「12月16日10時45分」

 健太は必死に学校の廊下を走っていた。休み時間で、多くの生徒たちにぶつかりながらも、彼は必死に走っていた。手には何か布切れのような物を持っている。
 何人かがぶつかっていく健太に文句を言うが、それらも全て彼は無視した。
 辿り着いた場所は、男子トイレ。
 中に駆け込み一番端の個室に入った健太は、勢いよく扉を閉め、同時に鍵も閉める。そこで彼は、やっと一息吐いた。
「ふぅ……」
 深くため息を吐き、個室の壁にもたれかかる。
 その健太の顔には、何かを成し遂げた満足感のようなものが浮かんでいた。興奮しているのか、ふっくらとした頬に朱がかかっている。しばらくそうやって壁にもたれかかっていた彼は、不意に思い出したように手に握る物に視線を落とした。
 健太の手の中でくしゃくしゃに丸められたそれは、白い女性物の下着だ。
「……ふふふ。やったぞ。これからは、ずっと一緒だ」
 顔中を満面の笑みで埋めながら、小さく呟く健太。その瞳の輝きは、正気のものではない。
 悦に入って食い入るように手にした下着を見つめる健太の耳に、その時、授業開始を告げる鐘の音が鳴り響いた。
 慌てて下着をズボンのポケットに仕舞い込む。
 同時に個室の扉を開けた健太の目に、偶然トイレに駆け込んできた秀一の姿が飛び込んできた。
「……健太? ああ、大きい方か」
「う、うん」
 個室から出てきた健太に、秀一が大して感慨もなく声をかける。その声色には、別にからかうような色も何もなく、ただ分析して言っただけという響きしかない。
 それに対して小さく頷きを返した健太は、まるで逃げるように秀一の脇を早足で通り抜けた。
 通り抜けようとしたその背に、
「あ、健太――」
 思い出したように秀一が口を開く。
 びくんと身体を震わせた健太は、俯いたまま振り返らずに声だけを返した。
「な、何?」
「お前らのクラス、次は物理室だろ。急げよ」
 それだけ言って、小水を便器にぶつかる音を響かせる秀一。
 もうこちらには注意を払う様子もない秀一を横目で盗み見ながら、健太は気付かれないように深く嘆息した。完全に安心しきった彼は、だからトイレを出る時に秀一が自分の方を疑惑の眼差しで追っていたのには気付かないのだった。


 「12月17日15時32分」

 三人は廊下を並んで歩いていた。
 二学期に入ってからは、全員クラブ活動をしていないということもあって、一緒に帰るようにしている。誰から言い出したわけでもなかったが、いつも一人で帰る健太にとって、それは楽しい一時だった。
「おい健太。今朝のあれは何だったんだ?」
 廊下を学校指定のスリッパでぺたぺた踏み鳴らしながら、武司が横を歩く健太に話しかけた。何気ない口調だが、興味しんしんなのか吊り上がり気味の瞳は真剣そのものだ。
「あれは……まあ、色々だよ」
 だが質問された健太は、武司の問いかけに口を濁す。
 その答えが納得いかないのか、武司はさらに口を開こうとして、だがそれは滑り込むように会話に入ってきた秀一に阻まれた。
「――色々だよ、色々。健太もつまり、そういう年頃ってわけだ。あんまり詮索してやるなよな、武司」
「だってよお……」
 ツンツン頭を揺らして、武司が不満そうに洩らす。
 武司も健太も――ついでに言うなら一応、秀一も。全員一人の女子生徒に一年の頃から憧れていた。赤城麗花という生徒で、どこかの令嬢らしい彼女は、平たく言えば清潔な感じの美人だった。――ただし、少々キツそうな性格ではあったが。
 その麗花と健太が何かあるとなれば、武司も内心穏やかでないのは仕方ないことだろう。
「まあいいじゃない、そんなことは。それより今日ゲーセン行かない? 武司の好きなガンゲームが新しく入ったらしいよ」
 仏頂面顔で歩く武司に、健太がなだめるように言う。その口調は、麗華との仲を示唆するようなものではなく、どこかこの話題から逃れたいというような響きを持っていた。
 敏感にそれを感じ取った秀一が、何か言いたげに健太に視線を送る。
 だがそれは、ガンゲームにすっかり興味を変えた武司と健太の会話で、自然と流されてしまった。
 仕方なく詮索を諦め、秀一もゲームの話題に混じる。
 今日行くゲームセンターの場所を話し合っていたところで、廊下の向こう側からこちらに一人の女子生徒が近付いてくるのが、三人の目に映った。
 厚底の眼鏡と、肩に僅かにかかるくらいで切り揃えられた髪。微かに明るい髪は、中途半端なところで切られたせいか、外側に軽く跳ねている。眼鏡の度がきついため表情は窺い知ることができないが、どこから見ても暗そうなその少女――山内玲奈は、三人の向かい側から一直線に健太を目指して歩いてきた。
「あの……話があります」
 健太の眼前まで静かに歩み寄った玲奈が、抑揚のない声で彼に告げる。同時に健太の横にいた二人に視線を馳せると、僅かに眉根をよせた。
 それが二人だけで話したいという合図だとすぐに悟った秀一は、武司を促して、
「じゃ、俺ら下駄箱で待ってるからな」
 言い残すと、その場を足早に離れて行く。
 もちろん武司はまだ状況を飲み込めてないらしく、不満げに声をあげていたが、その声も秀一に引きずられ廊下の向こうにすぐに掻き消えていった。
 二人の姿が消えるのを見届けてから、健太が口を開く。
「で、僕に何の用なの?」
「麗花さんから、手紙を預かってきました」
 変わらず抑揚のない声で答えて、玲奈が胸ポケットから小さく折りたたまれた便箋を取り出した。薄いピンクの便箋で、四つに小さく折りたたまれている。
 健太は差し出されたそれを受け取り、玲奈の視線を気にしつつ開けた。


 Dear 小野寺健太さま
 まず、今朝のこと謝らして下さい。
 何か勘違いしていたようです。
 本当にごめんなさい。
 それと、実は貴方に相談したいことがあるんです。
 誰にも聞かれたくないので、玲奈と二人で五段坂まで来て下さい(もちろん、その後は玲奈には席を外させます)
 PS、絶対にこの手紙を持って来てください。
                      あなたを密かに思う赤城麗花より


 手紙を読み終えた瞬間、健太の顔が一瞬で真っ赤に火照っていく。正確には、最後の一文が多分に影響しているのだろう。
「――さあ、行きましょう。麗花さんが待ってるわ」
 だが健太の胸中の思いなど気にかける素振りもなく、玲奈は未だ食い入るように手紙を読み返す彼に、冷えた声で告げた。同時に、彼の返事を待つこともなくさっさと歩き始めてしまう。
「ま、待ってよ!」
 その後を慌てて追いかけながら、健太は大事にポケットに便箋を仕舞った。
 廊下ですれ違った秀一と武司が、自分たちを追い抜いて早足で歩いていく健太に声をかけるが、彼の耳には届かない。
 今、健太を支配しているのは、憧れの女子生徒――赤城麗花のことだけだった。
 横に幅をとる巨躯を揺らしながら向こうに去って行く健太の背を、二人は半ば呆然とした面持ちで眺めることしかできなず、そしてその背が――


 「同日18時15分」

 五段坂というのは、非常に緩やかな傾斜の長い坂を指してそう呼ばれている。市街から離れた所に位置し、今では人通りもまばらだが、昔は旅の者を癒す遊郭街として栄えていた歴史のあった場所だ。
 その坂のちょうど中央付近。
 寂れた――というよりは、もはや誰も使うことのなくなった電話ボックスの中で、健太は一人待っていた。
 玲奈にここまで連れて来られたのだが、彼女はこの電話ボックスで待つことを告げると、手紙に書いてあった通りさっさとどこかに行ってしまっている。
「……緊張するなあ」
 ボックスの中。そこから見える殺風景な情景に目を遣りながら、健太が呟いた。声はボックス周囲を囲むガラスに白い円を描く。中は風が入らないため比較的寒さは和らいでいたが、それでも吐息を白くさせるくらいはやはり寒かった。
 その寒さにしばらくは身を震わせていた健太だったが、ふと何かを思い出すと、おもむろに鞄の中を漁り出す。ノートの隙間に手を入れながら、取り出したのは――例の下着だった。
「これは、もう必要ないよね」
 言って、目の高さまで持ち上げた下着に、もう片方の手にいつの間にか握っていた黒い百円ライターで火を点けた。ライターはこの間、秀一が健太の家に忘れていった物である。
 下着は初めなかなか火が点かずに燻っていたが、一度火が点くと一瞬で燃え広がっていった。手に炎が届きそうになるまで掴んでいた健太は、さすがに熱くなってきたのか手を離す。それは静かに地面に落ち、数刻で灰と化してしまった。
「早く……来ないかな?」
 灰と化した下着に目を落としながら、健太が寒さを紛らわせるように呟く。それに答えたわけではないだろうが、次に顔を上げた彼の視界の先に、黒いダッフルコートに身を包んだ、ロングヘアーの美少女が映った。
 ――赤城麗花である。
 麗花はかなり離れた所から電話ボックスの中の健太に向けて、その端正な顔に笑みを浮かべて見せた。
 どこか凄惨な雰囲気すら漂うその微笑みに、健太がこちらはぎこちない笑みを送り返す。
 そしてその笑みが、健太の最後だった――
 すっかり向こう側から歩いてくる麗花に気を奪われていた健太は、自分の方に猛烈な勢いで迫る暴走トラックに気が付いていなかった。否――おそらくは車の走る音には気が付いていたのだろう。ただ、注意が彼女の方に向いていたせいで、そちらを振り返ることができないでいた。
 異常に気が付き、健太が振り返った先には、電話ボックス目掛けて突っ込んでくる大型トラックが視界いっぱいに広がっている。そして、その時にはもう何もかもが遅きに失していた。
 悲鳴をあげる暇すらなく、中途半端に開きかけた口は一体何の言葉を紡ぎ出そうとしていたのだろうか――
 電話ボックスのガラスが一瞬で大破し、巨大な鉄の塊が健太の身体をもみくちゃにする。潰れた身体から飛び出した臓物や鮮血に混じって、割れたガラスの破片がその小さな地獄をせめてもの餞にと煌きながら演出した。
 全てが終わり、静寂を取り戻した五段坂の下方から、一陣の強い風が吹き上がる。
 その風に長い黒髪をなびかせて、麗花は小さく口の端を歪めたのだった。


 「12月18日13時53分」

 秀一は今朝の担任の言葉を思い返していた――

「――これで、立て続けに不慮の事故が二度も起こっている。小野寺健太の葬儀は明日になる予定だが、休日ということもあり自由参加だ。このクラスで参加を希望する者は、放課後に私のところまで来るように。それと最近、こういった人通りの少ない場所での事故が増えている。下校はなるべく友達と一緒に帰ることを心がけ、寄り道などはしないようにしなさい。……では、授業を始める」

 秀一が健太の死を知ったのは、今日の一時間目の授業中だった。担任の教える数学の授業で、彼の死は担任の口から語られた。
 クラスの反応は冷たかったが、他のクラスの生徒であることを考えると仕方がないのかもしれない。だが秀一は、友達であったはずの自分が健太の死に、さして衝撃を受けないでいるのが意外だった。悲しまなかった自分が悲しかったのではなく――ただ不思議だったのだ。
 秀一はそこまで考えて、ふと横を歩いている武司を盗み見る。ツンツン頭で、いつも明るいのが取り柄の彼の表情は、今は深く沈んで見る影もない。
 武司はおそらく健太の死を一番悲しんでいる者の一人だ。担任が淡々と告げる健太の死に、激昂したのは彼だった。見当違いだと分かりながら担任に詰め寄った彼の気持ちが、だが、秀一には理解できない。
「……いい奴、だったんだ」
 ぽつりと、まるで独り言のように武司が口を開いた。顔を上げずに、視線は下を向いたままである。
「俺の家さ、食品を扱うスーパーじゃん?」
「ああ」
 唐突な内容の会話に、秀一は訝しがりながらもとりあえず頷きを返した。
「小学生の時、学校の帰りに捨てられた子犬を拾ったんだ。でも親からは衛生とかの問題で飼えないって言われてさ……」
 武司は喋りながら、歩く速度を徐々に緩めていく。表情は俯いたままのせいで分からないが、口の端は少し上に吊り上がっていた。笑っているのだろうか――
「俺はでも元の場所に戻すのがかわいそうでさ。すげえ、その時にはなついてしまってて。だから、健太と一緒に飼ってくれる人を探すことにしたんだ。でも俺の家の近くは商店街だろ? 誰も話なんか聞いてくれなくてよ。すぐに諦めて、俺は一人で犬を拾ったところでその子犬をぼんやり見てたんだ。暗くなるくらいまでそうしててさ、俺が結局子犬を箱の中に戻そうとした時、健太が誰かを連れて戻ってきたんだ」
 武司の足はいつの間にか止まっている。そこは五段坂のちょうど下方に位置する場所で、彼は見上げるように坂の上に視線を遣った。
 ――太陽が灰色の空に頼りなげに浮かんでいて、光が淡く坂の上に降り注いでいる。
 じっと見据えた武司の双眸が、一瞬細くなった。
「健太は飼ってくれる人を、隣の町まで探しに行ってくれてたらしくてさ。俺は子犬を見捨てようとしたのに、あいつだけは諦めてなかったんだ。すげえ情けない気持ちで健太を見てたら、あいつは一言「良かったね」て、何でもないように笑いやがってさ……。いい奴――優しい奴だったんだ……」
 細められた瞳に光るものが浮かんで、秀一は慌てて視線を横に逸らす。武司が泣くところを見るのは初めてで、何か見てはいけないものを目にした気がしたからだ。
 揺らめいていた太陽が雲に隠され、僅かに暗くなった世界に虚しい風が吹き荒ぶ。
 秀一は風になびいた髪をうるさそうに掻き上げながら、武司と同じように視線を坂の上に遣って、それから静かに口を開いた。
「とりあえず、見に行くか。健太の最後の場所を――」
 囁くように言って、眼鏡の縁に指をかける。
 その秀一の言葉に、無言で武司は頷いた。


「……」
「……」
 秀一と武司は、そのあまりにもの光景に思わず言葉をなくしていた。
 電話ボックス――とは、もはや呼べないもの――の中に散乱するガラスの破片と、アスファルトに染みついた無数の黒い血痕の跡。ボックスを支えるフレームが一つ残らずひしゃげていて、事故の凄惨さを物語っている。
 事故が起こった時のまま凍りついたその情景を、二人はしばらくの間、ただ黙って見つめていた。
 不条理な焦燥感が二人を包み込む中――武司が震える声で口を開く。
「ちくしょう……」
 武司が呪詛を吐くように呟いたその言葉は、事故現場に深い憎しみと共に流れ落ちた。
 放たれた言葉が意味するのは、一体何なのであろうか。友を奪った無情な死への怒りか、凄惨に彩られた惨劇を邂逅しての友への嘆きか、残酷に過ぎ行く時に忘却される者に対しての悲壮か、或いはそれら全て――か。
 だが秀一は、健太の死に武司のように憤ることもなく、ただ漠然とした不信感だけを抱いていた。眼鏡の奥の透徹した瞳が、目の前の惨状を静かに見据えている。そしてその双眸が、ボックス内に転がる何かを捉えた。
「おい、秀一……」
 横にいた武司が声をかけるのも無視して、秀一は躊躇なく中に足を踏み入れていく。乱雑としたガラスの破片を足で蹴りながら、彼はゆっくりと身を屈めてそれを拾い上げた。
 プラスチック製の黒い百円ライター。
 それが健太の家に忘れていった物だと思い出すのに、大して時間はかからない。
「ん? 何だこれは――」
 手にしたライターをポケットに入れながら、身を起こそうとした秀一は、目に映ったもう一つの何かに声を洩らした。手を伸ばして拾い上げたそれは、小さくなった布の切れ端のようである。
「……布切れ、か?」
 そうとしか言いようがない言葉を紡いで、首を傾げる秀一。しばらく黙考し、だが結局何を思いつくことなくそれもポケットに忍ばせた。
「どうしたんだ?」
「何でもない」
 武司のかけた声に揶揄するように両肩をすくめて、秀一は立ち上がる。だがその瞳には、まだ釈然としない迷いの残滓が揺らいでいた。武司を見据え、もう一度ボックス内を振り返り、彼は何気ない口調で誰にでもなく問いかける。
「……どうして、健太は自分の家とは反対の方向のこんな所にいたんだ?」
「俺たちと一緒に帰れば、こんな事故に遭うことも無かったのにな」
 返ってきた言葉は、問いかけに対する返答ではなく、どこかそうしなかったことに対する自噴の響きを持った言葉だった。
 秀一は心底から放たれたであろうその言葉に、曖昧に頷きを返す。だが――彼は死んでしまった者に今更後悔することの無意味さを、頷きとは逆に悟っていた。それよりも彼の心を今支配するのは、健太の死に対する不明瞭な疑念だ。
 事故は確かに偶然起こったものだ。飲酒運転していたトラックの運転手の証言からも、それは明らかである。そこにたまたま居合わせた健太に、そこにたまたま突っ込んでしまった暴走トラック。だが――
「あの時、彼女は何の話があったんだ? 俺たちと一緒に帰れば、事故には巻き込まれなかった。裏を返せば、あの時彼女が健太に話しかけなければ、俺たちはいつも通り帰っていたんだ……」
 口の中だけで呟いて、秀一は祈るように天を仰ぎ見た。
 先刻、雲に隠れた太陽が、冷えた空にまた姿を見せている。おぼろげな日の光がその輪郭を柔らかくし、下界を優しく照らしていた。
「まあ、事故は所詮事故……てわけか」
 太陽に答えを期待したわけでは無いだろうが、眼鏡に反射する光に僅かに顔をしかめて、秀一はまた口の中だけで呟きを洩らす。
 その秀一の肩を、武司が軽く叩いた。
「一緒に墓参りくらいは行ってやろうぜ。あいつも俺らが悔やんでる姿は見たくないはずだしな」
 武司は無理な笑みを浮かべて言うと、同じように空を見上げる。おそらくさっきから天を仰いでぶつぶつ独り言を放つ秀一を、悲しみに暮れていると思い、慰めようとしたのだろう。その視線の先には、天の国に旅立った友の姿が映るのだろうか――
 誤解された慰めに、秀一は小さく苦笑を浮かべたのだった。


 「12月19日20時50分」

 センター街――
 クリスマスが近くなり、この時間になると街は華やかなイルミネーションに包まれる。通りは肩を寄せ合う恋人たちで溢れ、鳴り止まない喧騒が街全体を支配していた。
 そんな中、秀一は先程購入した参考書の山を袋に詰めて歩いている。休日に街の大型書店で参考書を漁るのは、彼の趣味の一つでもあった。
 別に勉強をするのが目的ではない。そもそも秀一のテストの結果が良いことなど、彼の趣味に付随した結果に過ぎない。はっきりとしないことをはっきりとさせるのが彼の性分で、ただその過程を楽しむためだけに参考書を開くのだ。解けない問題をはっきりとさせることほど、単純に彼の性分を満足させる手段はない。
 だがその手段を手にした秀一の表情は、なぜか陰鬱に沈んでいた。いつもは聡明そうに輝く双眸も、今は僅かに暗く陰っている。
「……」
 そんな秀一の視界が、不意に巨大なクリスマスツリーを捉えた――実際は、さっきまで俯いていた彼が顔を上げたところに、それが存在していただけなのだが。ぼんやりとしていた彼は、一瞬、視界を覆い尽くしたそれに息を飲む。
 センター街のほぼ中央に飾られたツリーは、派手な電飾が施されていて、多くのカップルたちが足を止めて見とれていた。楽しげに交わされる恋人たちの語らいが、ツリーの周囲を優しく包み込んでいる。
「クリスマス……か」
「一人身は寂しいか?」
 ぽつりと口をついて出た言葉に、背後から声が重なった。
 慌てて振り返る秀一。
 そこには、上下を黒いスーツで固めた男――リュウジが、同じようにツリーを眺めて佇んでいた。胸元の逆十字のロザリオが、イルミネーションに反射して小さく煌く。
「……誰、ですか?」
 突然自分の背後から声をかけたリュウジを、訝しそうな眼差しで見据えながら、秀一が問いかけた。
「待ちぼうけを食らっててね。話す相手を探してたんだ」
「俺、男ですよ?」
 リュウジの返答に、秀一はさらに疑惑の眼差しを濃くする。確かに見知らぬ男から声をかけられて、そっちの気があるのでは、と疑うのは無理がない。なにせそういうのはこのセンター街では、裏通りに行けば吐いて捨てるほど存在するのだから。
 言葉の意味を吟味し、リュウジが小さく失笑を洩らす。警戒を解かせようと大袈裟に肩をすくめ、
「そういうつもりじゃない」
「じゃあ、どうつもりですか?」
 きっぱりと言い放った言葉に、すかさずきっぱりと尋ね返され、今度はリュウジも鼻白んだ。秀一が会話をするつもりなど毛頭ないことに、気付いたのだろう。それでもさっさと立ち去らないのは、彼の性分によるものだ。
「さすがに、彼女が目をかけるだけはあるな……」
 感心したように、秀一には意味不明な言葉を洩らすリュウジ。同時に視線を空に飛ばして、口の端を小さく歪める。漆黒の夜空の向こうで誰かの笑い声が微かに響き――それはすぐに吹き抜ける風の音と喧騒に掻き消えていった。
 そのリュウジの様子をどう捉えたのか、秀一はそこでやっと自分から口を開く。
「結局、何が言いたいんですか。あなたは?」
 秀一の眼差しは、警戒の色からどこか憐憫の色に変化していた。おそらくリュウジのことを、痛い人間と認識したのだろう。語調もどこかさっきまでより柔らかい。
「いや、本当に話し相手が欲しかっただけだよ。話してみないことには、理解できないこともあるだろ?」
「……で、理解できました?」
 まるで気にした素振りもないリュウジに、呆れながら秀一は聞き返す。
「ある程度は」
 だが、答えるリュウジの表情は真摯そのものだった。深い漆黒の眼差しは、秀一の心の中まで見透かそうと煌いている。そこに浮かぶのは、どこか父が子を心配するような慈愛の色だ。
 秀一がその眼差しに僅かに戸惑いを見せる。
 それを受けて、リュウジは言葉を続けた。
「一つ忠告しよう」
「忠告……ですか?」
「君の求めている明確な回答、というものはこの世界には存在しない。あまり固執すると身を滅ぼすことになる――この俺みたいにな」
 どこか芝居がかった台詞と共に、リュウジは自嘲を纏った笑みを浮かべて言った。言いながら、手は自然と胸元のロザリオに――それがまるで拠り所であるという風に――触れられている。しばらく秀一を見つめ続けていた彼は、不意に視線をツリーを挟んで向かい側の道路へと動かした。
 その動きにつられるように、秀一も顔をそちらに向け――表情を僅かに強張らせる。
 視界に映ったのは一組のカップルだ。
 赤城麗花と椎橋優。彼らは秀一と同じ上州高校の生徒で、腕を組んで歩いている様は誰が見ても恋人のそれだった。
 秀一が顔を強張らせた原因は、もちろん麗花に対してだ。
「……武司と健太が黙ってないな」
 自然と洩れた呟きに自戒の色を浮かべ、なぜか秀一は彼らを追って駆け出している。嫉妬のためではない――が、では何のためかと聞かれても、彼には答えられなかっただろう。心の奥底で気になった何かをはっきりさせるというのが、答えといえば答えだった。
 駆け出した秀一は、だがすぐに立ち止まる。それからゆっくりとリュウジの方を振り返り、彼にしては珍しく明快な笑みを浮かべて言った。
「さっきの話ですが、俺はそうは思いません。明確な回答がないというのなら、それはきっと見過ごしてしまったんですよ。真実という回答を――」
 芝居がかった口調はリュウジに影響されたのだろうか。それだけ言うと、今度こそ秀一は雑踏の中に走り去って行ってしまう。
 その背をただ黙って見据えるリュウジの瞳の色は暗い。
「……だが、それでも君には見つからないさ」
 ぽつりと呟いた言葉は、まるで自分に言い聞かせるような響きを持っていた。


 二人を追いかけていた秀一の、目の前に広がる光景は、もはや二人のことなど忘却の彼方に吹き飛ばすような衝撃があった。
 ――高速の高架の下。
 そこから落下したであろう巨大なコンクリート片が、地面に冗談のように横たわっている。おそらくは長年改装工事を怠ったため、耐久強度が限界を超えたのだろう。だが、秀一を驚かせたのはそんなことではなかった。
 横たわったコンクリート片から、まるでそれ自身が流しているかのような大量の血が、アスファルトに黒い池を作っている。もちろん血を流しているのはコンクリートではなく、その下に轢かれた人間のものだ。不気味に折れ曲がった細い四肢が、コンクリートから僅かにはみ出ている姿は、周到に計算された何かのオブジェのようにすら窺えた。
「……何なんだ、これは?」
 洩らした呟きは酷く無意味なものだ。
 不気味なオブジェと対峙する自分が、現実からかけ離されたような奇妙な虚脱感を秀一に覚えさせる。その彼の視界が血溜まりの中、何かを捉えた。ゆっくりと近付き、血溜まりの前で屈み込んだ彼は、そこに浮かぶ小さなそれが何であるかを悟り――
「またか」
 低く呻きながら、血に濡れるのも躊躇わずに拾い上げる。
 拾い上げたそれは上州高校の校章だった。銀の縁と中に学年を記したそれは、秀一の物と同じだ。
「偶然がこれで三度。偶然も続けば必然……か」
 口の中だけで呟き、秀一はコンクリート片の下に存在するであろう自分と同じ学校の同胞を見据える。その眼差しは、死を前にするにはあまりにも静謐だ。コンクリート片を持ち上げて調べたい欲求もあったが、大き過ぎてそれが不可能なのは明白だった。
 高架の上を走行する車の音だけが、下にいる秀一の耳朶を獣の咆哮のように刺激する。
 ――秀一が警察に連絡をいれたのは、それからしばらく経ってからだった。


 「12月24日16時32分」

 秀一は、結局明確な回答を見つけられないでいた。
 探偵まがいのことを数日続けたが、それらは全て徒労に終わり、事故を事故以上のものとして認識するには至らない。偶然が必然に繋がる糸は見つからず、残ったのはやはり漠然たる疑念だけだ――
 もはや秀一の中で、健太の死は問題を解決する一つの鍵にしか過ぎなくなっていた。他人が彼の心中を察したら、酷薄な奴だと思うだろう。だが彼にとっては、自分の最優先――何もかもをはっきりとさせる性分――が友の死を上回っているだけに過ぎない。そして、その始まりの思いを薄れさせないために、彼は今ここに来ているのだった。
「……あれから随分と寂れたものだな」
 それを見上げながら、秀一は大して感慨もなく呟く。
 空に突き出した巨大なビル――『ラプンツェルの塔』は、秀一たちが健太を連れて訪れた時とは比較にならないほどの寂寥感を漂わせていた。大勢の人を楽しませた塔も不況の流れには逆らえず、今では取り壊しを待つだけのただの廃墟だ。
 その廃墟へと、秀一は静かに足を向ける。
 残酷な時の流れを嘆くような色は、だがその双眸には見られなかった。


 塔の吹き抜けを螺旋状に巡る階段の上。
 数ヶ月前には一番人気のコースターを待つ人たちで行列ができていたその場所で、秀一は何をするでもなく佇んでいた。
 構造上どこからでも見える吹き抜けを見上げれば、弱い日の光が微かに目を刺激する。
そこから洩れる風の音に耳を澄ませながら、秀一は今は動かぬコースターの乗り場へと視線を馳せた。
「健太……」
 そこに過去の幻影でも映るのか、囁くように放たれた声は、答える者を待つような響きが含まれている。だが、もちろん答える者は存在せず、声は反響すらしないで小さな風の音に埋もれていった。
 悲哀を含んだ静寂が周囲を包む中で、秀一は何を思うのだろうか。
 亡くした友を嘆くことすらできない自分への憤りか、明確な回答を手にすることができなかった自分の不甲斐なさか――だがそれが何であるにしろ、秀一の透徹した双眸からはやはり窺い知ることができない。
 階段の手すりにもたれかかり、秀一はそこから眼下に見える正面ホールを見下ろした。もはや誰も受け入れることがないホールは、やはりどこか寂しげで、僅かに秀一の鋼の心を感傷的にする。
 ――と、突然秀一は何かを探すように周囲に目を遣り始めた。
 すぐに目的の場所を見つけ、秀一はその中に、彼にしては珍しく慌てた様子で駆け込む。ずっと冷えた場所に身を置いていたため尿意を催したのだろう。駆け込んだのは、男子トイレだった。
 用を足しながら、不意に秀一の脳裏に少し前の光景がよぎる。
 健太が死ぬ一日前。トイレで会った彼の様子は明らかにおかしかった。なぜあの時、自分から逃げるように立ち去っていったのか。何かを隠していたのは分かっていたのに、どうして何も尋ねなかったのか。
 よぎった光景を思い返しながら、秀一は自問自答を繰り返した。用を足し終えてもしばらくは黙考を続け、だがその記憶が何一つ繋がることのない糸だと気付くと、口の端に自嘲の笑みを浮かべる。
「何でも関連付けるのは、俺の悪い癖だな」
 呟いた秀一の耳に、その時、何かが軋むような音が響いた。
 反射的にそちらに目を向ける。
 軋むような音の正体は、個室の一番奥にある用具入れが中途半端に開いているせいだった。古くなって立て付けが悪くなっているのか、僅かに入り込む風に身を揺らす度に、それは耳障りな音をトイレ内に反響させている。
 なぜか無性に苛立ちを覚えた秀一は、軋みながら揺れる扉を力任せに思いっきり閉めつけた。
 刹那――どこかで小さな「カチリ」という物音が鳴る。
 だがそれは、扉を強く閉めた音に掻き消されしまい、秀一の耳には届かない。
「……この世界では真実は見つからない、か」
 トイレを後にし、そのまま塔の外まで出てきたところで、秀一は誰かに聞いた台詞を口の中だけで反芻した。同時に着ていたコートのポケットからマルボロを取り出し、口に咥える。先端に黒い百円ライターで火を点けると、彼はゆっくりと一度ふかし込んだ。
 口から吐き出された煙が、吐息と混じって白く虚空に霧散していく。
「まあ、結局どうということのない、ただの事故だったってことになるんだろうな。少なくとも、俺にとっては……」
 吐き出された言葉はしかし、それが正しくないと示唆するような響きを持っていた。だがいくら秀一が納得がいかなくても、時は残酷に刻まれていくだろう。皮肉なのは、彼にとって生まれて初めて曖昧に過ぎた事象であるが故、それに絡みつくように健太の記憶は薄れることがないということだろうか。
 歩き出した秀一の背に、塔の長い影が覆い被さる。それはまるで、彼をそこから追い立てているようにも見えた。















 あとがき

 こんにちは、アザゼルです♪
 寒いですね。凍えるように寒いです。特に風呂上りの寒さといったら半端ではありません。最近、バスローブが切実に欲しいと願うアザゼルです(望)
 まあ、そんなどうでもいい話は本当にどうでもいいんですが、この話。今回で一応三話目です。しかし実のところ、どこから読んで頂いても構わない作りになっていたりします。
 願わくば――どうか矛盾が見つかりませんように(笑)
 ではでは、つたない&意味不明な話ですが、最後までお付き合いくださいませ〜♪(ぺこり)