Because It Is There〜選定の恋文〜 4
作:アザゼル





ex4「12月18日12時10分」


 綾野遥は、男子生徒に囲まれ楽しそうに会話している金髪の少女――新原美紀をぼんやりと机の上に肘をつきながら眺めていた。彼女自身もその輪の中にいるのだが、さっきから一言も喋らず曖昧な笑みを浮かべているだけである。楽しく談笑している美紀をどこか遠い眼差しで見据える彼女は、耳に付けたシルバーのピアスを指で弄びながら物思いに耽っていた。
 遥と美紀の付き合いは長い。中学一年から今に至るまで四年以上の付き合いだ。美紀の親は何度も離婚を繰り返し、遥は父を亡くしたという環境からか、二人は良き相談相手としてお互いを励まし合ってきた。大人しい遥は、活発ではっきりとした性格の美紀をまるで姉のように慕い、同じように美紀は遥を妹のように可愛がっていた。いつも一緒に仲良く遊んでいた二人の関係は、だが、高校に入った頃から一変する。美紀がセンター街で売りを始めたのだ。家庭の事情や、その時付き合っていた彼氏と別れたことなどが理由なのかもしれないが、彼女は何も語らなかった。そして、そこから歯車は狂い始め――
「――に決まってるじゃん! ねえ、遥?」
 いきなり話を振られて、物思いに耽っていた遥は焦ったように美紀を見つめ返した。美紀の青い双眸――もちろんカラーコンタクトだ――と、瞬間視線が交わる。
「え、えっと。何だっけ?」
「うわ。聞いてなかったよ、この子。やっぱ脈ないね、あんた」
 首を傾げて尋ねた遥に、美紀がおどけたように肩をすくめて後ろを振り返った。その視線の先には、茶髪の軽薄そうな少年が笑みを浮かべて立ち尽している。遥には名前すら思い出せない彼は、彼女の視線に気付くと、さらに笑みを深めて見せた。
「つれねえなあ。デートくらい付き合ってくれよお」
「……また今度、ね」
 軽薄な男の軽薄な口調に辟易としながら、遥はため息混じりに答える。すでに視線は彼から外れ、窓の外に移っていた。
「値段次第じゃ、私が遥との仲を取り持ってあげよっか?」
 そんな遥を気遣いもせず、愉快そうに美紀が口を挟む。
「お前たちに正規の金を払ってたら、俺のバイト代なんか一瞬でパーだぜ」
「まけとくわよ。友情割引ってやつで」
「友情……あるのか、お前?」
 茶髪の少年が心底驚いた顔で聞き返し、美紀に拳を食らう。それを周りの男子生徒たちが、からかいながら笑い飛ばした。
 教室中に美紀たちの笑い声が響き渡り――
「うるさいっ!!」
 放たれた布を裂くような声で、一瞬で静まり返る。
 声の主は、長い黒髪の女子生徒――赤城麗花だった。彼女は意志の強そうな吊り上がり気味の瞳を燃やし、美紀たちの方を鋭い眼差しで見据えている。その横には、いつも彼女の側にいる厚底眼鏡の少女――山内玲奈が、おろおろした様子で佇んでいた。
「少しは静かにできないのかしら。あなたたち騒音公害って言葉知ってます!?」
「私たちが公害だとでも言うの!?」
 麗花の挑発に、美紀が同じく挑発を返す。
 それを横目で眺めながら、遥は誰にも気付かれないように深く嘆息した。彼女にとってこの光景は見慣れたものである。お嬢様の麗花――噂ではどこかの企業の令嬢らしい――と、素行が悪いので有名な美紀はことある毎に対立していた。お互いがお互いをどうしようもなく――それこそ理由もなく毛嫌いしているのだ。
「だいたい、毎回毎回うるさいのよ! 私たちがどこで何をしようと、あんたには関係ないでしょ。教室はあんただけのもんじゃないのよ!!」
「……そうね」
 いつもの言い争いが続くのを予想していた遥は、麗花の次に放った低い同意の言葉に眉をひそめる。それは美紀も同様のようだった。
 そんな二人を鋭く見据えていた麗花は、不意に嘲笑うような冷笑を口元に浮かべる。
「確かに。あなたが教室で壊れたラジオのようにわめこうと――あなたが街で淫売をしようと、私には関係がないわね――」
 洩れた愚弄の言葉に、美紀の褐色の顔色が一瞬で真っ赤に染まる。
 遥や他の男子生徒たちが止める暇すらなく、美紀は一瞬で麗花に詰め寄ると制服の襟首を掴み上げた。
 ただならぬ気配に、教室中が騒然とする。
「あんたみたいなお嬢様に何が分かるってんだ!」
「分かりたくもないわね」
 強い力で締め上げる美紀に、変わらず冷笑を浮かべたまま言う麗花。その双眸を一瞬よぎった暗い煌きに、遥は今まで感じたこともないような底知れぬ恐怖を感じる。
 だがそんなことにはまるで気付かないのか、美紀はさらに強く締め上げると、投げ捨てるように襟首を掴んでいた手を突き放した。
 勢いあまって麗花の身体が椅子から転げ落ちる。
「こっちだって、分かって欲しくないわよ!」
 床に身を落とした麗花を見下しながら、美紀が吐き捨てるように言った。
「そこまでよ。これ以上やったら先生が来るわ」
 さらに詰め寄ろうとする美紀を止めたのは遥だ。彼女は美紀の肩に手をかけると、静かに力をこめる。
「先に仕掛けてきたのはこいつじゃんか……」
 その手を鬱陶しそうに払いのけながら、美紀がわざと大きな声で悪態をついた。もちろんそれは麗花の耳にも届くが、彼女の表情は相変わらず不気味な笑みを張り付かせたままだ。
「そうだぜ。先にいちゃもんつけたのは、赤城じゃねえか!」
「俺らが何しようが文句を言われる筋合いはねえよ!」
「ホントは俺らと遊んで欲しいんじゃねえか? 男っけなさそうだもんなあ、こいつ」
 美紀の言葉に続くように、彼女を囲んでいた男子生徒たちも、次々に麗花に対して罵りの言葉を浴びせかける。彼らも或いは、日頃からの鬱憤が溜まっていたのかもしれない。なにせ麗花は男女問わず、自分の気に入らない者には容赦なく暴言を吐いていたからだ。
 さすがに数人に責められて、麗花は――それでも不遜な態度は崩そうともせず、ゆっくりと立ち上がる。同時に無言のまま隣に佇んでいた玲奈を促し、教室から出ていった。
 その出ていく間際、不意に振り返った麗花の視線と、そちらをぼんやりと眺めていた遥の視線が交わる。
 双眸をまた暗い煌きが走り、だがそれを遥が捉えた頃には、麗花はすでに教室の外に消えていた。
「……逃げるなら、初めから仕掛けてくるなってーの!」
 静まり返った教室の静寂を打ち破るように、美紀が毒づく。
 それを合図に他の生徒たちも、先まで自分たちがしていた作業に戻った。
 緊迫から開放され、教室内に再び平穏が戻り――
「今回に限れば、赤城が正しいんだがな」
 また騒ぎ始めた美紀たちに、感情のこもらない言葉を放ったのは、縁のない眼鏡をかけた端正な顔立ちの少年――森秀一だ。彼は手にした文庫本から視線を外し、その透徹した眼差しを美紀たちに向けている。いつもは他人にはさして関心を向けることがない彼がそんなことを言ったのは、やはり今日の朝、担任が知らせた悲報のせいだろうか。
 だが美紀は秀一の言葉に、麗花の時とは全然違う反応を返した。
「……ごめんなさい」
 殊勝に呟かれた言葉に、周りの男子生徒たちが唖然とする。だが遥だけは、彼女の行為を予測していたかのように平然としていた。
「自習の時間は、自ら習うことじゃなかったのか? 俺にもあんたたちは、ただ無駄な会話を繰り返しているようにしか見えなかったけどな」
「ごめんなさい……」
 再度放たれる秀一の言葉に、再度謝る美紀。その彼女の頬が、僅かに朱に染まっているのを遥は見過ごさなかった――というよりは、やはり予測していたのだろう。遥は美紀が秀一のことを好いているのを知っていた。だからこそ、彼女は美紀をかばうように背にして、口を開く。
「ごめんね。迷惑だもんね。これからは静かにするから、許してくれない?」
「……いや。別に俺に謝られても。まあ、俺はそこまで気に障ってるわけじゃないから構わないんだが」
 なら、どうしてそんなことを口にしてしまったのか――自分でも分からないといった語調で、秀一は言葉を返した。おそらくは気付かないくらいの、情緒の揺らぎが彼の中であったのかもしれない。
 秀一はそれ以上は何も言わず、視線を机上の文庫に戻すと読書を再開した。
 美紀がそれを見て安堵のため息を洩らす。
 遥は友人の大切な何かを守った達成感で、なぜか満ち足りていたのだった。


 「12月19日20時08分」

 センター街の夜は眠らない。あらゆる場所で光り輝く電飾と、途切れることのない喧騒。それらが尽きることのない人々の黒い欲望を、それこそ無尽蔵に引き出している。
 そして――彼女たちも、眠らないこの街で欲望を引き出す役を担っていた。
 遥はさっきからずっと浮かない顔で、美紀と一緒にコーヒーショップ前のベンチに腰を下ろしている。手にはそこで買ったコーヒーのプラスチックカップを、そこから暖を取るように両手で握り締めていた。
 その横で忙しそうに携帯のメールをチェックしているのは美紀だ。その横顔は遥と同じようにどこか浮かない。今日の収穫が思った以上に少ないせいだろう。売りのチームに所属している彼女は――遥もだが――平日も休日も関係なく、こうやって街で客を探している。が、やはり学生の彼女が一番客を相手にできるのは、休日だ。その休日に収入が見込めないのは、親と喧嘩してホテルを転々としている彼女にとっては痛い。
「あームカツク。エロおやじの分際で、私の誘いを断るなってんだ!」
 唐突に、美紀は携帯のディスプレイを睨んだまま叫び声をあげた。
 通りを歩く数人が、そんな美紀を奇異の目で振り返る。
「どうしたの、美紀?」
 だが向けられた視線は慣れたものなのか、遥は大して気にもせず、いつもの調子で美紀に問いかけた。
「この前、マルの地下で捕まえたおやじいたじゃん」
「誰……だっけ?」
「私たちとカラオケしただけで、上機嫌で三万くれたおやじよ。白髪の紳士ぶったきもい奴!」
「ああ。思い出した」
 尋ねたくせに興味のなさそうな遥は、話を聞きながらもどこか上の空で返事を返す。手に持っているコーヒーは、冷たい風に晒されて、徐々に温もりを失っていた。
「あいつが私の誘いを断りやがったのよ。くっそー。エロそうなおやじだったから、もう少し引っ張れると思ったのに。だいたい本当なら向こうから連絡とるのが普通じゃんね。思わない、遥?」
「――――しない?」
「え? 何?」
 一方的に不満を言い連ねていた美紀は、ぼそりと呟かれた遥の声が聞き取れず、首を傾げて尋ね返す。
 遥はそこで初めてコーヒーに口をつけると、何か覚悟を決めたような真摯な顔つきで美紀の双眸をじっと見据えた。
 二人の視線が近距離で交錯する。
 美紀の瞳はただ不思議そうに、遥の瞳は僅かの揺らぎもなくお互いの姿を映し出し――
「……もう、こんなことやめにしない?」
 紡がれた言葉は、だが、興味の対象を移した美紀の耳に届くことはなかった。
 美紀の視線はすでに遥を離れ、通りの向こうに向けられている。そこを歩く一組のカップル――黒いダッフルコートに身を包んだ赤城麗花と、白いパーカーを羽織った椎橋優に、目を奪われていたのだ。彼女たちは数年を共にした熟達のカップルのように、お互いの身体を寄せるようにして歩いている。
「ねえ、ちょっと! あれ見て!!」
 美紀がそちらを指差して、大声をあげた。またまた周囲の奇異の視線が彼女に突き刺さるが、もちろん彼女は気にも留めない。
「赤城さんと……あれは、椎橋君?」
 美紀の指差した方を見据えて、遥は自分の言葉が無視されたことも忘れ、呆気に取られたように言葉を洩らした。だが彼女が呆気に取られるのも無理はない。学校でも有名なお嬢様でプライド高い麗花が、こちらも別の意味では有名なイジメられっ子の優と仲良く歩いているのだ。
 二人は通りの向こうを何か語らいながら、ゆっくりと進んでいく。間を遮るように行き交う人々の群れで、それらは遥たちの視界から消えたり現れたりを繰り返していた。このままベンチに座っていれば、彼女たちの姿はいつか群集に消え行くだろう。
「何してんの? 追いかけるわよ!」
「え?」
 立ち上がった美紀に、遥は間抜けな声で聞き返す。彼女が売りの現場を放棄して、そんなことに身を乗り出すとは思ってもいなかったからだ。
「超スクープじゃん! あいつの弱みを握るのよ!!」
 だが遥の思いをよそに、美紀は今にも駆け出しそうな勢いである。その横顔には、獲物を狙う高揚とした笑みが浮かんでいて――
 なぜかそれが、遥に郷愁の思いを抱かせた。
「うん」
 弾かれたように頷きを返し、遥も立ち上がる。スクープという言葉に、思わず中学での新聞部時代を思い出したのかもしれない。美紀が部長で、遥が副部長だった新聞部は、生徒たちのスキャンダルでいつも好評を博していた。休日にはわざわざデート現場を押さえるために、遠出をすることさえあったほど熱を入れていたのだ。
 遥は駆け出した美紀の背中を見据えながら、考える。
 ――もし、時がただ何も変えずに流れるだけのものならば、自分たちはまだあの頃のままでいられたのだろうか――
 と。


 センター街は、大通りを外れると細い路地が網目のように入り組んでいる。曲がり角の多いこういった路地での尾行が難しいのは、美紀と遥にとっては既知の事実だ。一定以上離れて歩かなければならない性質上、短い間隔で路が分岐するのは非常に厄介で、尾行には向かない。
 だが、それでも今のところ、二人は運良く彼女たちを見失ってはいなかった。
「また、曲がったね」
 二人の視界の向こうで、白と黒のカップルが何度目かの角を曲がるのが映る。
 遥は前を行く美紀にこれも何度目かの台詞を吐きながら、静かに歩みを速めた。
「この道がどこに続いてるか知ってる?」
 それに押されるように美紀も歩みを速めながら、後ろの遥に向けて口を開く。その口調は、どこか楽しげだ。
「さあ……?」
「あんたもこの辺りは良く使うでしょ。……ホテル街よ」
 言って振り返った美紀の口の端が、小さく吊り上がった。無邪気――ではないが、快活な笑み。それは遥が久しく見ることのなかった笑顔だ。
 懐かしい感覚が遥を一瞬包む。
「私の携帯。画像も撮れるんだ」
「あはは! それナイス!」
 口をついて出た遥の言葉に、美紀が賞賛を送る。と同時に、曲がり角に身を寄せて、向こう側に注意深く視線を遣った。
 通りの向こうでは、彼女たちが次の曲がり角を左に折れていくのが見える。
「よし。行くよ!」
 それを確認して、美紀はまた尾行を再開した。
 遥も美紀の背中を追うように駆け出そうとして――不意に足を止める。履いていたスニーカーの紐が解けたのだ。
 だがそれには気付かずに、美紀は先に行ってしまう。
 すぐに追いつけるだろうと遥もさして頓着はせずに、ゆっくりと紐を結び直した。しっかりと結び直し、立ち上がった彼女の耳に――刹那、轟音が響き渡る。
「何!?」
 地面が激しく振動するのを感じながら、小さく呻き声をあげる遥。
 振動は一瞬で収まり、すぐに静寂が戻る。
 だがその静寂は、漠然とした不安を、遥の中で巨大に膨れ上がらせた。
「美紀!」
 叫んで、駆け出す遥。路地の角を曲がり、勢いよく飛び出したその先に待ち受けていたのは――
「――――!」
 言葉を失うことしかできない光景だった。
 高架の下に落下した巨大なコンクリート片と、その下から滲み出すように広がる大量の血。その向こうで、こちらを見据える麗花。横に佇む優は、輝きを失った瞳を虚空に虚ろわせている。
 まるで一枚の絵画を眺めるように、遥はその光景に見とれていた。
 理解を超えた何かが、遥の中に浸透していく。時間にすればほんの僅かの時にしか過ぎないのだろう。だがそれは、彼女にとって永遠ともいえる時だった。いや、むしろ――氷結した時の融解を、彼女自身が望まなかったのかもしれない。なぜならそれは、理解したくない現実を受け入れるのと同義だったからだ。
 時を動かしたのは、麗花だ。
 麗花の異様なほど紅い唇が、小さく動きを見せる。
「――良かったわね。あなたは、事故に巻き込まれなかったみたいで」
「あ……」
 麗花が放った言葉に、遥は何かを言おうとして、だがそれは言葉にはならなかった。洩れたのは小さな吐息だけである。
「偶然、高架のコンクリートが崩れてきたのよ。あなたも危なかったわね。もう少しでくだらない人生を、そのコンクリートに潰されるところだったんだから」
 だが気にした様子も見せず、麗花は言葉を続けた。その口調は、目の前の惨劇を嘲笑うような響きすら内包している。
「偶然……?」
「そうよ。当たり前じゃない? おそらく老朽化していたんでしょうね」
「本当に、偶然なの?」
 その響きを感じ取ったのかどうか、遥は目の前のことが偶然でないような感覚に捕われていた。確かに、偶然にしてはあまりにもでき過ぎた偶然だ。
 だがしつこく聞き返す遥に、次に放たれた言葉は、彼女を戦慄とさせる。
「――もし、偶然じゃないとしたらどうだと言うの?」
「……!」
 麗花は笑っていた。見る者が凍てつくような、凄惨な微笑みだ。彼女の長い黒髪が風になびき、まるでその笑みを隠すように彼女の顔を覆い尽くす。
 その微笑みが何を意味するのか――
 遥は恐怖した。理屈などは分からないが、確信したのだ。
「やっぱり、あなたが……」
「運がいいのはどれだけ続くのかしらね。試してみましょうか?」
 遥が言いかけた言葉を遮って、麗花が口を開く。
 それは、明らかな脅しだった。
 全身を悪寒が一瞬で駆け巡り、ゆっくりと遥はその場を後ずさる。彼女の心を今支配するのは、死に対する恐怖だ。誰もが抗うことの叶わない絶対的な恐怖が、目の前に存在する恐怖。
「こういう死に方だけは、悲惨だわね――」
 横たわる巨大なコンクリート片を見下ろしながら、麗花はそう言うと、低い声をたてて笑った。地の底から響くような、果てしなく暗い笑い声である。
 ――それが引き金となった。
 遥は迷わず降り返ると、無我夢中で駆け出す。路地を何度も折れ、自分が今どこを走っているかも分からない状況で、それでも彼女は決して後ろを振り返らない。
 耳朶にこびり付く麗花の笑い声。 
 どれだけ速く走ろうと、必死に耳を塞ごうと、それだけは直接遥の脳裏に響き続けた。


 「12月20日」

「ねえねえ、次はあれに乗ろうよ!」
「あのね、美紀。私たちは取材できてるのよ……」
「うわっ! 超混んでるじゃん!!」
 諭すように放った遥の台詞をまるで無視して、美紀は観覧車の乗り場に駆け出していった。首にかけた小型のデジタルカメラが、彼女の歩調に合わせて大きく揺れている。
 遥はその背を呆れたように見送りながら、小さくため息を吐いた。
 今二人は、新聞部の取材という名目で、ここ『ラプンツェルの塔』に来ている。彼女たちが今回予定しているのは、クリスマスを恋人と過ごすためのデートスポット特集だ。なかなかタイムリーでいいアイデアなのだが、部長の美紀は着いた瞬間から取材そっちのけで、乗り物巡りをしていた。
「絶対に経費の範囲をぶっちぎってんだけど……」
 口の中でぶつぶつと呟きながら、遥は美紀の並ぶ列の最後尾に近付いていった。確かに彼女の言う通り、中学生の部活動の経費などたかがしれているのだろう。
「何をぶつぶつ言ってるかなー、この子は! 経費なんて気にしちゃダメ。要は楽しんだもん勝ちってやつよ!」
「……だから取材だって」
 ほとんど会話にならないのを悟ったのか、遥の返した言葉は小さい。
 二人はそれからしばらく、無言で列の流れに身を任せていた。その間に、少しは自分の仕事を思い出したのか、美紀はデジタルカメラで今から乗ろうとしている観覧車を適当に画像に撮り込み、遥はメモ帳に記事用の文章を走り書きしていた。
 列が進み、二人の順番が近くなる。
 口を開いたのは、メモ帳を胸ポケットに仕舞った遥だった。
「……もうすぐクリスマスだね」
「えぇ!? まだ、彼氏はできてないって!!」
 遥の言葉に、なぜか赤面しながら過剰に反応する美紀。周りの視線が一斉に彼女に集中する。
「いや、まだ何も言ってないって……」
 その視線の中、さすがに恥ずかしそうに遥が呟く。
 だが美紀には周囲の視線も遥の言葉すらも届かないようだ。赤面したまま、長い黒髪を振り乱して言葉を続ける。
「ほ、本当なの! ちょっといいなーて人を見つけただけでさ!! そ、それにまだ名前も知らないし……!」
「み、美紀……恥ずかしいからストップ!」
 堪りかねて遥が戒めると、そこでやっと美紀は周りの状況に気が付いた。同時にさらに顔を赤くして俯いてしまう。
 周囲の人たちがすぐに興味をなくしたのを見計らって、遥は俯いたままの美紀に小さく口を開いた。
「で、誰なの?」
 その口調は、果てしなく底意地が悪い。
「……えっと、オフレコだよね?」
「特集組もうか?」
 顔を上げる美紀に、またもや意地悪そうに遥が言う。
 ご丁寧にさっき仕舞ったメモ帳まで取り出した遥を睨みつけ、美紀は大きく一度深呼吸すると、誰が聞いてるか分からないといった感じで声を潜めた。
「――隣の中学の人なんだ。この間の文化祭で見かけたの。三人くらいで来てたんだけど、後のはアウトオブ眼中って感じ。超クールっぽくて……はあ。これが一目ぼれってやつなのね……」
 言いながら悦に入る美紀に呆れながらも、遥は問いかける。
「で、どんな人? 格好いいの?」
「もちろん! あ、でも、今風じゃないんだ。眼鏡かけてるし」
「秀才タイプ?」
「うーん。確かに頭は良さそうだったなあ……切れ長の綺麗な目をしてて、ちょっと何を考えてるのか分からない――言うなれば、ミステリアスタイプ?」
 逆に聞き返す美紀は、完全にその相手に惚れ込んでいるようだった。
 遥は友人の恋話に僅かな羨望を感じる。彼女自身も普通の少女と同じように、恋をしたい年頃だったが、美紀のように積極的にはなれなくて、まだ恋愛経験はなかった。
「ま、美紀ならすぐにおとせるんでしょ? これで次のスクープは決まったってわけね」
 だがそんなことはおくびにも出さずに、遥は舌を出しながら意地悪く言った。
「ちょ、ちょっと! ダメだって!! 私を記事にするのは、なしでしょ!?」
「じゃあ、今回の経費は美紀持ちでどう?」
「うう……人の弱みに!」
 顔をしかめる美紀。
 勝ち誇ったように大きく笑みを浮かべる遥。
 やがて彼女たちの番が来て、二人一緒に観覧車に乗り込んだところで、美紀は諦めたように財布の中身をこっそり数えていたのだった……


 「12月21日13時45分」

 美紀の葬式は形だけのものだった。
 遺体は原型を留めていないほど悲惨な状態だったらしく、棺桶の中は当然空である。儀礼だけの葬儀が淡々と行われる様は、死者を悼むような感情などどこにも存在しないかのように見えた。
 美紀の父親はさっさと焼香を済ませると、親族に断ることもなくどこかに消えてしまい、母親も別段伏せることなく近所の友達と談笑に耽っている。
 ――異様なほど空虚な葬式。
 遥は上州高校の面々からは離れた場所――葬式を行っている式場の外のベンチで、静かに一人泣いていた。悲しみもあったが、とめどなく溢れる涙はほとんどが悔しさのせいだ。彼女は悔しかった。誰も本当の美紀を知らないことが――
「美紀……私、どうしたらいいの?」
 両手で顔を覆いながら、遥は亡き友に語りかける。
 もちろん返ってくる言葉はない。
 それでも、遥は何度も同じ問いかけを口の中で反芻した。反芻しなければ、どこまでも深く沈んでいきそうだったから――例え、自ら時をそこで止めることになったとしても、彼女はそれを望んだだろう。
 自分にとって美紀がどれだけの存在だったかを、遥は今更ながらに痛感していた。
「こんな所にいたのか。探したぜ、綾野――」
「……?」
 頭上から降りかかった無機質な声に、遥がゆっくりと顔を上げる。
 遥を日の光から遮るように立ち尽くしていたのは、一人の男子生徒――森秀一だ。彼は縁のない眼鏡の奥の双眸で、顔を上げた遥を見下ろしていた。静謐で、揺らぎのない眼差しだ。
「森君? 探してたって?」
 遥はその透明な瞳に魅入られるように、秀一の目をじっと見据えながら尋ねる。さっきまでとめどなく溢れていた涙は、いつの間にか止まっていた。
「あんたなら、何か知ってると思ってな」
「……何を?」
「新原が死んだ理由だよ。警察の調べでは、偶然耐久度が限界に達していた高架のコンクリートが、偶然あの時あの場所を歩いていた新原の上に落ちたらしいが……」
 言いながら、秀一は遥が座るベンチの隣に腰を下ろした。だが眼差しは彼女には向けられず、どこか遠くを静かに見据えている。
「……偶然の事故が、立て続けにこれで三度。俺はそんな偶然を、偶然で見過ごすことはできない。何かは分からないが、俺は意思のようなものを感じているんだ。これらの事故の背景にな」
「意思……」
 秀一の横顔に見とれながら、遥は小さく彼の言葉を繰り返してみる。彼女の脳裏に、麗花のあの時の笑い声が蘇った。
 ――同時に蘇る、恐怖。
「知らない! 私は何も知らない!!」
 遥は脳裏に響く笑い声を追い出そうと、必死に頭を振りながら叫ぶ。
 だが秀一は、突然の遥の豹変にも冷静な態度を崩さなかった。静かに横に座る彼女を抱き寄せると、腕の中で何かに怯える彼女を優しくなだめる。
 しばらく秀一の腕の中で暴れた遥は、彼のなだめの甲斐あってか、やがて落ち着きを取り戻した。
「――やはり、何か知ってるんだな?」
 落ち着きを取り戻した遥に、秀一が優しく問う。
 問いかけは、麻薬のような優しさで遥の耳朶を打った。
 誰かに聞いてもらいたい――
 その欲求は、あの時からずっと遥が胸に抱き続けていたものだ。だが、
「ごめんなさい……本当に、何も知らないの」
 絞り出すように吐き出したのは、拒否の言葉だった。その拒否には、遥の秀一を巻き込みたくないという勇気もあったが、同時にもっと――それこそ彼女が自分でも気付かないくらい――根深い麗花に対する恐怖も含まれていた。
「知らないわけないだろ! あんたは何かを知ってるんだ。誰かに、聞いてもらいたがってる!」
「……ごめんなさい」
 激しく肩を掴んで激昂する秀一に、遥はもう一度小さく謝る。
 秀一はそれでも諦めずにしつこく問いただそうとしたが、結局返答が「ごめんなさい」から変わることはなかった。
 やがて生徒たち全員の焼香が済み、二人の周りが騒がしくなってきた頃――秀一は諦めにも似た深い嘆息を、ゆっくりと一度虚空に吐き出した。
「あんたは――」
 白い吐息が霧散する前に、秀一が小さく口を開く。
「あんたは、友人の死が故意のものだとして――それを納得するのか? 俺はそんなのはごめんだ……」
「……森君」
 秀一の言葉は、彼にとっては偽善に過ぎなかった。遥から聞き出すための、最後の賭け――
「役に立てなくて、ごめんなさい」
 だがその言葉すらも、遥の心の奥底に巣食った恐怖を揺るがすには至らなかった。
 秀一の表情が僅かに歪む。だがそれは刹那の間にまるで淡雪のように掻き消え、次の瞬間にはいつもの彼の冷然とした顔つきに戻っていた。
「いや、いいんだ。変なことを聞いて悪かったな綾野。大切な友人を亡くした奴に言うようなことじゃなかった。悪い」
「……」
 だが遥の目には秀一のその冷然な顔が、酷く不安定なものに映った。同時に胸を締め付けられるような思いが、彼女の中でこみ上げる。
「――え?」
 気が付くと遥は秀一を抱きしめていた。
 突然の行為に、驚いたように秀一は目を見開き呟きを洩らす。さすがの彼も、遥のこの行動は予想外だったらしい。だがすぐにその腕の中に身を任せると、彼は額を静かに彼女の胸に沈めさせた。
 遠くから聞こえる周囲の喧騒だけが、奇妙な現実感を演出する。
 時にすれば、一刻にも満たないだろう――
 遥は胸に抱いた秀一を、美紀が好きな人であったことに、僅かに罪悪感を感じていた。だが腕の中の彼を見下ろすと、それすらもどうでもよくなるような愛おしさを感じてしまう。
 ――やがて秀一は、ゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう」
 囁かれた呟きが、遥の耳朶を優しく撫でる。
 同時に秀一は遥から身を離すと、すっと立ち上がった。その双眸に、さっき彼女が感じたような揺らぎは消えてしまっている。
「綾野は強いな。あんたはあんなことがあったのに、まだ人を思いやる余裕がある。俺は自分だけで手一杯だ」
 自嘲の笑みを洩らし、言う秀一。
 遥は秀一のその言葉に、腕の中の温もりの残滓を確かめながら首を横に振った。
「私はそんなに強くない。美紀がいなくなって、これからどうしたらいいか、とか全然分からない。私は森君だったから……」
「そんな、大した奴じゃないよ。俺は」
 遥の言葉を遮り、秀一はさらに自嘲の笑みを濃くして言った。それから不意に真剣な表情に戻ると、彼は彼女を見下ろして口を開く。
「俺は死んだ友達のことよりも、自分を優先させるような奴なんだ。あんたが優しくしてくれるほど、立派な奴じゃない。それに、俺はあんたなら大丈夫だと思ってる。過去を引きずって悲しむような真似だけはしないでくれ――」
 それだけ告げると、秀一は背を向けてその場を立ち去っていった。
 残された遥は、まだ微かに温もりの残る自分の手と、立ち去って行く秀一の背を見比べながら、小さくため息を吐く。
「……美紀、ごめんね。私初めて人を好きになったみたい」
 口の中だけで呟かれた言葉は、だがその言葉の意味ほど感情の奔流に流されてはいなかった。亡き友に対する、贖罪の意が含まれていたからだろうか。あっさりとそれを覆すような存在に出会ったことと、それをすぐに受け入れようとした自分自身の貪欲さ――それらは背徳にも似た感情を遥の中で隆起させた。
 だが、背徳であろうが遥は手に入れたのだ。
 絶望と同時に巡り合わせたのは、僥倖と言ってもいいだろう。
 未来への道標は、総じて、人が生きていくのに必要なものであるのだから――


 「12月24日18時48分」

 遥は『彼』と別れて、一人裏路地を歩いていた。
 狭い道はゴミ箱が倒れ中身が散乱していたり、黒人の不法入国者バイヤーが携帯片手にたむろしていたり、明らかに夜の仕事と分かる派手な格好の女が歩いていたが、それらは遥のよく見慣れたものだった。彼女の属していた売春斡旋のチームは、客が取れないと、こういう所でもよく客引きをやらせていたからである。
 だが――今や彼女はここの住人ではなかった。
 あの日以来、売りはやっていない。チームに戻るつもりもない。ならなぜ彼女が今ここにいるのか――
「この店よね……」
 遥は目の前のキャッチバーの黒い看板を見上げて、独りごちた。
 ――看板には「紙の月」と白字で書かれている。
 遥はここで、チームにいる女の子たちをまとめていた女性と、待ち合わせをしていたのだ。美紀の紹介で知り合った、センター街での売春を統括している女性。
 呼び出したのは向こうだが、遥もいつかは会わなければならないと考えていた。
 過去を引きずらないため、過去を清算するために。
「待った?」
 声は唐突に後ろからかかった。
 遥が降り返ると、そこにはパーカーとジーパンというラフな格好をした、長い金髪の異国の美女が立っている。柔らかい碧眼の双眸を優しく細めて笑いかけるその女性こそが、街で最大の売春チームを束ねる人物だ。まだ二十代の前半くらいで、とても売春を斡旋している者とは思えない格好をしていたが、それでも隙のない眼光は本物だった。
「お久しぶりです、リリィさん」
「本当に久しぶりね。遥ちゃんは元気だった? ……て、そんなわけないか。お友達があんなことになったんだから」
 遥の挨拶に、女性――リリィは顔を翳らせながら驚くほど流暢な日本語で答えた。澱みがなく、声だけを聞けば誰もが日本人だと信じるような自然さである。
「知っていたんですか?」
 驚きの声をあげる遥。
 それに対しリリィは少し得意げな顔で、胸を張って答えた。その仕草はどこか子供じみていて、彼女の立場を知る者なら滑稽に映っただろう。
「当たり前よ。私はこの街のことなら、それがどんな些細なことでも知ってるわ」
「そうでしたね……」
 相づちを返す遥の顔は、どこか陰鬱である。美紀のことを思い返しているのだろうか。
 しばらくお互い黙り込んでしまい、僅かな沈黙が辺りを流れた。
 リリィは目の前で物思いに耽る遥を、ただじっと見据えている。繊細なガラス細工のような碧眼は、深い慈愛の色と共に、全てを見透かすような底のない深淵さも兼ね揃えていた。
 周囲を歩いていた通行人が消え、風の音だけが流れる沈黙に牙を剥く。
 ――断ち切ったのは、遥だ。
 額にかかる前髪を指で掻き上げ、覚悟を決めたように口を開く。
「……で、今日は私に何の用なのですか?」
 思い出したように何気ない口調で放たれた言葉だったが、そこには強い意志が含まれていた。
 それを感じ取ったのか、リリィも微かに表情を引き締める。
「あなたに客よ。それも私たちにとっては上客。十月に取った客に、議員の男がいたでしょ? あの人が、あなたを連れてきて欲しいと言ってるの」
「……私はもう、売りはやりません」
 きっぱりと言い放った遥に、リリィの目が初めて厳しいものに変わった。彼女を包む雰囲気が、同時に圧倒的な重圧を醸し出す。
 だが、それでも遥は怯まなかった。
「抜けると言うの?」
「はい」
 問う言葉も短ければ、答える言葉も短い。
 リリィの眼差しと遥の眼差しが宙で交錯し、揺らぐことなく、互いが互いの姿を映し出す。リリィの全てを『視る』目は、遥の中に何を見たのだろうか。先に折れたのは、彼女の方だった。
 不意に目を細めたリリィが、ふくよかな唇を静かに動かす。
「――決意は固いようね。ただ……」
 言いかけて、リリィは小さく手を上げた。
 それの意図するところが分からず、遥は首を傾げようとして――
「きゃあっ!」
 何者かに後ろから羽交い締めにされ、悲鳴をあげる。
 一体いつの間にそこにいたのか、一人の黒人の男が遥を締め上げていた。彼は遥を身動きできない状態にすると、そのごつい手で口を塞ぎ、リリィの方に視線を遣る。
「ただ、今回の仕事はしてもらうわよ? 表に車を止めてるから、そこまで運んで」
 前半は遥に、後半は男に言い、リリィはさっさとその場を立ち去っていった。
 遠ざかっていくリリィの背に、遥が必死に何かを訴えようとするが、口を塞がれているせいで言葉にはならない。
 男の膂力は凄まじく、遥は身体をぴくりとも動かせなかった。
 ずるずると無理やり引きずられ、遥が諦めにも似た脱力感に全身を蝕まれそうになった時――聞き覚えのある声が彼女の耳に届く。
「あんたは彼女をどうするつもりなんだ?」
 透明で無機質な、だが遥にとっては温かい声。
 黒人の男は遥を押さえ付けながらも、瞬時に声の主を探した。鋭い眼差しが、すぐに自分の目の前に佇む一人の少年を捉える。
 黒いズボンと黒いダウンジャケットに身を包んだ少年――秀一だ。彼は片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方の手で口に咥えた煙草を掴んでいる。目が合うと、彼はその体勢のまま無造作に男に近付いていった。
「その手を離してくれないか? 俺の知り合いなんだ」
 煙草の煙を吐き出しながら近付いてくる秀一に、黒人の男が一瞬躊躇する。このまま目の前の少年を殴り飛ばすのは容易いが、それでは遥に逃げられてしまうかもしれないし、だからといって放っておくわけにもいかない。
 ――だが、躊躇は男の隙となった。
「ぎゃっ!?」
 秀一が放り投げた煙草が、男の褐色の頬に見事に命中する。ジジッと肌を焦がす音と共に、男は低い悲鳴の声をあげ、同時に遥を掴んでいた手を離した。
 拘束を解かれた遥が、慌てて男から離れる。
「キサマ……!!」
 だが逆上した男は、逃げた遥には見向きもせず、秀一に向かって駆け出した。巨大な拳を握り締め、男が殴りかかる。
 まともに受ければ、線の細い秀一など一撃で昏倒するような拳だ。
「がはっ!?」
 だが、漏れた悲鳴はまたも男のものだった。
 秀一の目の前で背中からアスファルトに叩き付けられた男は、受け身を取ることすらできずに、強い衝撃を受け呼吸困難に陥る。
 遥はそれを、呆気にとられた表情で見ていた。彼女の目には、男の拳を受けた秀一の手首が、一瞬翻ったようにしか映らなかった。それだけで、男の方が勝手に地面に叩き付けられたのだ。 
 何が起こったのかまだ理解できないでいる遥の手を、秀一の手が掴む。
「逃げるぞ。今のは運が良かっただけだ――」
 囁くように耳元で言い放ち、秀一は遥の言葉も待たずに駆け出した。
 引っ張られる形で、遥も一緒に駆け出す。
 まだ倒れたままの男が、逃げる二人に向かって何かを叫んでいたが、それもやがては遠ざり――


「ここまで来れば、追ってこれないだろ」
 表通りに出たところで、秀一はやっと足を止めた。
 ずっと秀一の走る速度に合わせていた遥は、彼の言葉にしばらく返答を返すこともできずに、喘いでいる。さすがにこのくらいの年頃になると、男と女では体力に差が出てくるようだ。
 必死に呼吸を落ちつかせようと奮闘する遥を、秀一は何も言わずに黙って待っていた。
 ――徐々に呼吸を整えながら、遥が口を開く。
「……はぁ。久しぶりに本気で走ったよ……」
「いい運動になっただろ?」
 肩をすかし、揶揄するように答える秀一。
「確かに……いいダイエットにはなったかもね」
 まだ荒い息を吐きながら答える遥に、秀一が小さく笑い声をあげた。屈託のない、年相応の笑みだ。
 それを受けて、遥も笑い出す。
 二人ともやはり先のことでまだ興奮しているらしく、一度始まった笑いはなかなか収まらなかった。
 周囲を歩くカップルたち――なにせ今日はクリスマスイヴだ――が、何事かと二人を振り返っていく。
 だがそれは、少なくとも遥にとっては心地のいい注目だった。
 ひとしきり笑い合った後、遥が涙目のまま口を開く。
「……ねえ、あの黒人を投げ飛ばしたの、どうやったの?」
「合気だよ。攻撃を流して流転する技。まあ、あの人もよほど慢心してたんだろうな。素人に近い俺に容易く投げ飛ばされたんだから」
 言いながら、秀一は少し照れたように顔を赤らめる。だが彼は気付いていない。最小の動きで大の大人を投げ飛ばした技量は、はっきりと素人のものではないということを。もし彼が合気を始めたばかりだというのなら、凄まじい才能の持ち主である。
 だが遥にはもちろんそんなことが分かるはずもなく、秀一の言葉に素直に感心したように頷いた。
「へー。すごいんだね、合気って」
 素直に誉められて、秀一はさらに顔を赤くする。
 普段は絶対に照れたりしない秀一のそんな様子を見て、遥はなぜか無性に嬉しさが込み上げてくるのを感じていた。行動が大胆になったのも、そのせいだろう。
「ねえ、何か食べに行かない? 私お腹空いちゃってさ」
 軽い口調で言いながら、遥は秀一の腕に自分の腕を絡めさせる。それは他人から見れば些細なことかも知れないが、彼女にとっては勇気ある行動。
 だが――絡めた腕の先の手を、優しく包んだのは秀一の方からだった。
「じゃ、綾野の奢りだな」
「……助けてもらったしね!」
 照れ隠しに放った秀一の言葉に、遥は顔を喜色でいっぱいにして頷いた。
 二人はそのままセンター街の喧騒の中に、身を寄せ合い消えていく。
 真実を追い求め敗れた男と、死んだ友に繋がる過去を清算した女――その行く末には、一体何が待ち受けているのだろうか。それがただの慰め合いでしかないと気付いた時、彼らはどのような決断を下すのだろうか。
 もちろんそれを窺い知る術はない。
 生きる者の未来など、誰にも予測することのできないことだからだ――
 ――華やかなイルミネーションが煌く街に、白い宝石が天から降り始め、それはより一層鮮やかな街並みを際立たせたのだった……















あとがき

 思ったより長くなってしまった「Because〜」第四話です。
 さて、新しい年の幕開け。今年もみなさま、アザゼルの拙い話。どうぞよろしくお願いします――(^^;)ぺこぺこ
 PS:ここまで書いてきて、キャラが勝手に動いたせいで、軌道修正を始めたのはやっぱり内緒の方向で(笑)