Because It Is There〜選定の恋文〜 5
作:アザゼル





ex5「4月12日」

 永遠に守り続けられる約束など、果たしてこの世に存在するのだろうか。
 何時いかなる状況で交わされた約束であろうと、守り続けられるというのは幻想に過ぎない。大切なのは、交わされた瞬間の思い――それに尽きる。
 時が何もかもを洗い流していく中で、瞬間の思いは確かに忘れ去られるだろう。
 だが記憶の奥底で芽吹いたその思いは、どれだけの時が経過しても消えることはない。なぜなら、忘れることと消えることは同義ではないからだ。
 ――そして、いつかその思いはまた芽吹く。大切なこととは、結局後になってから気付かされる過去の残滓のようなものだ――


「約束だぜ!」
「うん、約束!」
「これからは、絶対に隠しごとなんてなしだぞ!」
 最後に福山純が強い口調でそう言うと、他の二人――西中友弘と相田みどり――は、大きく頷いた。輪になった三人の手が、中央で重ねられる。
 『ラプンツェルの塔』のミラーハウスの中。
 子供たちの間で交わされた、彼らにとっては真剣な――だが、他愛のない約束。
 面倒見がいい二人の兄貴分の純と、すぐに喧嘩して問題を起こす友弘、それに友弘と同じく活発で男勝りのみどりは、親同士が仲がいいのと、同じ小学校ということもあって、いつも一緒に遊んでいた。
 だがしばらく前から今日この日まで、三人は実は少し疎遠になっていたのだ。
 原因は友弘である。彼がみどりに悪戯をしている中学生たちを相手に、喧嘩を仕掛けたのが始まりだった。
 中学生たちは数人で寄ってたかって友弘を殴り、さらに脅かして彼に無理やり万引きをさせたのだ。彼らにしてみれば、単に退屈凌ぎだったのだろう。だが他人に万引きをさせることに味を覚えた数人の内何人かは、それからも友弘とみどりを脅かし、万引きを繰り返させた。「もし他の奴に話したらお前らがやってることを学校にばらす」という不条理な脅しに怯え、二人は仕方なく誰にも言わずに――純にも相談せずに――彼らに従うことにしたのだ。
 だが、万引きはある時、友弘が服の中に入れた商品を落とすというミスによって、店の人にばれることになる。二人は学校の先生と両親にこってりと叱られ、その時になってやっと二人はことの真相を話したのだった。
 中学生たちは厳重に注意を受け、友弘とみどりに手を出すことはなくなった。親や先生たちも脅されてやったことを知り、怒りの矛先を二人からその中学生たちへと変えた。
 ――だが、そんなことは二人にとって些細なことに過ぎなかった。
 話を聞いた純が、二人に見せたことも無いような剣幕で激怒したのだ。そしてこれも二人が驚くほど悲しげな顔で、二人に「しばらく顔を見たくない」と、告げた。彼は一言も相談されずにいたことが、悲しかったのだろう。同時に数週間もそんな状態が続いたにも関わらず、気付けなかった自分自身にも憤慨していた。
 断絶は、数週間続いた――
 友達同士になってから多少の諍いなどはよくあったが、それだけの間、お互い口をきかなかったのは彼らにとって初めての経験だった。初めての経験であるが故、その期間はお互いへの重要性を彼らに再認識させることになる。
 和解を申し出たのも純だった。
 純は『ラプンツェルの塔』のチケットを、二人のランドセルに手紙と同時にさり気なく入れておいた。その案は純の父親のものだったが、もちろん彼も望んでのことだ。
 そして、彼らは今――
「で、これ……」
「どこが出口なの、純?」
「俺に聞かないでくれ……」
 ――まだ、ミラーハウスの中だったりする。
 全面に張り巡らされた鏡が、三人の泣き出しそうな顔を虚しく映し出していた。
 無数の自分たちに囲まれる中、純が意を決したように係員呼び出しボタンに手をかけたのは、それからしばらく経ってからのことだった。


 「12月18日12時52分」

 カーテンの閉じられた、薄暗い教室の中。
 棚の中のビーカーやフラスコ。ホルマリン漬けの小動物に、劇薬から塩化ナトリウムなどの様々な薬品。そして実験室にはつきものの、グロテスクな人体模型。
 観衆と言えば、物言わぬそれらだけの静寂の中で――
「ん……」
 少女の甘い吐息が漏れる。
 カーテンの隙間から僅かに差し込んだ日の光が、抱擁を交わす二人の人影を黒く映し出していた。
 ――人影は、純とみどりのものだ。
 純の明るい栗色の髪から覗く凛とした瞳と、みどりの微かに濡れた瞳が、もの言いたげに二人の間の空間をさ迷っている。
 恋人たちの密会。
 だが幸せな時を堪能しているはずの二人の眼差しには、どこか翳りが見えた。何かを裏切った者の、背徳的な翳り――
 みどりは純の胸の辺りに指を柔らかく押し付けると、少し不満そうに口を開く。
「ねえ、いつまで黙ってるの? いつかばれる時が来るに決まってる。その時に、私は友弘に言い訳なんかしたくないよ」
「……俺も、したくはないさ」
 純は答えながら、押し付けられた指を手で優しく包み込んだ。同時に顔を僅かに曇らして、付け足すように言葉を紡ぐ。
「だがまだ言う時じゃない。友弘の気持ちに、気付かないわけじゃないだろ?」
「……うん」
 答えるみどりの表情も、その言葉を受けて暗く沈む。
 密会は、文字通り二人にとっての密会ということなのだろう。知られたくない相手はただ一人で、しかしそれは彼らにとっての大切な友人だ。
 差し込んでいた日の光が、位置を変えたのか弱まる。濃くなった闇と、実験室特有の薬品の匂い――そして二人の間を漂う葛藤が、静寂に拍車をかけた。
「佳織がね……」
 肥大しかけた静寂を溶かそうと、みどりが昨日今日と学校を休んでいる友人の名前を口にする。
「佳織が、こういうことははっきりさせといた方がいいって言ってた。時間が経てば経つほど、言い難くなるから。言い出せないような状態になって、私たちの口からじゃなく、他人から聞かされたら、もっとショックだろうって。あの時そうだったみたいに、私もそう思うんだ……」
 最後は純の反応を窺うように上目遣いになるみどり。
 純は何を思うのか、みどりから視線を外し黄色く薄汚れた天井を仰いだ。それから彼女にも聞こえないほどの声で、小さく何かを呟く。
「――」
 呟きはすぐに天井に吸い込まれ――今言葉を発したのが嘘だったと言わんばかりに、何でもないような顔で、純はみどりに視線を戻した。そこに浮かぶのは、苦い笑みだけだ。
「そうだな。でも、言う時は俺から言うよ。その方が友弘にとってもいいだろうし」
「ごめんね……」
「みどりが謝る必要はない」
 小さく首を横に振り、純はおもむろにみどりの手を引いて抱き寄せた。
 柔らかい唇同士が音もなく触れ合う。
 その重ねるだけの口付けの中、みどりは純の温もりに浸り、幸せを噛み締めていた。目の前の彼が、この瞬間自分だけを見つめてくれているという幸せ。心が他に何も考えられなくなるような、至福の時――
 だが、思っていたよりも早く、純の唇はみどりから離れた。
 少し不満げに目を開けたみどりは、純の顔を拗ねたように見上げ――そこに浮かんだ表情に怪訝そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「今誰かが、カーテンの隙間から覗いていた気がしたんだ。気のせいだとは思うが……」
 純の顔に浮かんでいたのは、緊張の面持ちだ。彼は答えながら、視線を廊下側の窓に向けている。外側に面した窓と同じく、そこもカーテンで閉ざされていたが、中央付近に僅かに隙間ができていた。
「嘘!?」
 みどりが同じようにそちらに視線を遣りながら、幾分焦った声をあげる。
 上州高校は、たまに見られる男女間の交際を禁止したりすることのないオープンな学校だったが、二人にとっての問題はそこではなかった。もし生徒の内の誰かに見られ――運悪くそれが女子だったりしたら、噂は一瞬で広まってしまう。そうなれば、友弘の耳にも届くことになり、それだけはまだ避けたかった。
「……やっぱり気のせいみたいだな」
 隙間の向こうに人の気配がないのを確認して、純が安堵の声を洩らす。
 それに頷きを返しながら、だがみどりは脳裏に微かによぎった暗い影に、得体の知れない不安を感じていた。
 ――それが何であるか、もちろん知る由もなかったのだが。


 「12月19日13時52分」

 小野寺健太の葬儀は、休日に行われたせいか閑散としていた。
 上州高校の生徒が自由参加ということでほとんど集まらなかったのが、その原因だろう。
 純とみどり、友弘の三人は、その閑散とした葬儀会場の隅の方で、焼香を終え暇を持て余していた。
「――にしても、最近続くなあ。短い期間の間に、二人も同じ学校の奴が死ぬなんて」
「佳織、あれから学校来てないみたいだけど……大丈夫かな?」
「今度みんなで行ってみるか」
 純がそう言うと、みどりと友弘は同時に頷いて見せる。
 ――葬式は滞りなく進行しているようで、スピーカーからは出棺を知らせるアナウンスの声が流れていた。それと同時に、親族と思われる人たちが、会場からぞろぞろと出てくる。
 その流れを、三人とも遠い世界を見据えるように無言で見送っていた。
「彼は選定されてしまったのよ」
 だから不意に放たれた言葉は一瞬、誰が発したものか彼らには分からなかった。
 三人と同じ上州高校の制服に身を包んだ少女。だが、彼らには見覚えのない生徒が、目の前に忽然と佇んでいたのだ。
 肩まで伸ばされた微かに明るい髪と、見る者に畏怖すら与える整った顔立ち。
 少女は三人の視線に気付くと、口の端を小さく歪めて微笑した。
「誰なんだ、お前?」
 異様な雰囲気を醸し出す少女に、臆することなく問いかけたのは友弘だ。彼は少女に一歩近付くと、鋭い眼光を光らせる。喧嘩の場数を人より多く踏んできた彼には、少女が何かやばい存在であることを本能的に感じとったのかもしれない。
 だが、少女は友弘のほとんど喧嘩腰の態度にもまるで表情を変えなかった。むしろさらに笑みを深めると、少女は三人に近付きながら、まるで秘め事を話すように小さく口を開く。
「あなたたち、知ってる? 例の噂――」
「噂?」
 質問とは違う言葉を吐き出した少女に、憤る友弘をなだめ、純が聞き返す。
 それに対しまた小さく笑みを洩らすと、
「上杉泰氏と小野寺健太。彼らが死んだ理由よ」
 少女は内容にそぐわない楽しそうな口調で答えた。同時に反応を窺うためか、三人を舐めるように見回す。
 ――ねっとりと絡みつくような視線。
 甘く妖艶なその眼差しに、三人はそれぞれ視線を合わすのを躊躇って、思わず目を逸らした。
「彼らが死んだのはどうしてだと思う?」
「……事故でしょ?」
 少女の問いかけに、顔を逸らしながらみどりが答える。
「違うわ」
 だがあっさりと少女はそれを否定した。みどりよりも背の低い彼女は、三人を下から覗き込むように見上げると言葉を続ける。
「彼らは『選定の恋文』を手にしてしまったのよ。悪魔が選定した、死を運ぶ恋文をね。未来には悪意はないけれど、誘導した者には悪意があったってわけ」
 言いながら、暗く微笑む少女。
 三人には少女の言葉の意味がまるで理解できなかったが、一つだけ確信できることがあった。それは、目の前の少女が底知れぬほどの悪意を持っているということだ。
 だがそれは半分正解で、半分間違いだった。
 少女が持っていたのは、悪意というよりはもっと超越した――その悪意すらも嘲られる自分自身に対しての優越感。
 ――緊張して身を強張らす三人の前で、不意に少女は笑みを和らげる。さっきまでのどこか得体の知れなかった笑みではなく、普通の少女が浮かべるに相応しい笑みだ。
「時間と場所が奇妙に正確に記されたラブレターには、気を付けた方がいいわ。それが死を呼ぶって噂だからね。あなたたちが悪意の気まぐれに巻き込まれないよう、祈ってるわ」
 忠告は具体的だったが、やはり意味不明だ。
 だが三人が何か言おうとする前に、少女は用が済んだとばかりに身を翻した。
 立ち去っていく少女の背。
 その背が完全に見えなくなったところで、友弘が小さく息を洩らす。
「……なんだったんだ、あいつは」
「さあな」
 答える純も、他の二人にも、少女の存在がよほど重圧になっていたのか、冷たい汗が流れていた。
 葬儀はすでに終わり、辺りは静まり返っている。
 不気味な静寂は、彼らの胸中に浮かび上がった漠然とした不安に拍車をかけた。


 「12月20日15時40分」

 広いホール状の下駄箱――
 帰宅準備を終えた生徒たちで埋め尽くされる中に、純たち三人の姿もあった。
「今日どうする?」
「カラオケ行こうぜ、カラオケ!」
 純の何気なく放った言葉に、すぐさま大声で答えたのは横にいた友弘だ。彼はすでに外靴を履き終え、短く刈り込んだ黒髪を両手で必死に整えようとしていた。髪質が頑固なのか、思ったように整えられず悪戦苦闘している。
「またカラオケかよ。お前マイク離さないからなあ……」
 下駄箱に上履きを放り込みながら、純が友弘を横目に苦笑を洩らす。
 だがそんなことはお構いなしに、友弘は上機嫌ですでに鼻歌を歌い始めていた。授業が終わると急に元気になるのが、彼の特徴だ。
「あっ……!」
 その時、向かい側の下駄箱――女子の下駄箱は男子とは別になっている――から、みどりの少し驚いたような声があがる。
 純と友弘が、何事かとみどりの方に駆け寄ると、彼女は手に何かを持ったまま、困った顔で彼らの方を振り返った。
 手にしていたのは、水色の小さな封筒だ。
 純も友弘もそれが何であるか一瞬で理解する。
 やや古典めいた手だが、下駄箱にラブレターというのはやはり未だにスタンダードな手法であるし、それに――
 昨日の少女の言葉が、三人の脳裏を同時によぎった。
「……とりあえず、開けてみたらどうだ?」
 漠然とした不安が沈黙を描くのを遮って、純が口を開く。
 みどりはそれに軽く頷いて見せると、二人の前で丁寧に封筒を開封していった。
 中から出てきたのは封筒と同じ水色の便箋で、綺麗に四つに折りたたまれている。

 Dear 相田みどり様
  突然、こんな手紙を出してしまってごめんなさい。
  でも、本気で相田さんのことが好きなんです。
  付き合ってくれませんか?
  返事は直接聞きたいです。
  今日の午後6時55分まで、神無橋の橋の上で待ってます。
  PS、絶対にこの手紙を持って来てください。
                           あなたを思う者より

『……』
 今度こそ、沈黙が三人を覆い尽くす。
 手紙の内容は、少女の言った通り時間場所を正確に指定していた。
 昨日少女に言われなければ、看過していたかもしれないようなことだったが、今となってはそこだけが奇妙に正確に記されているのが分かる。
「……どうしよう?」
 ラブレターを手にしたまま、みどりが不安に顔を歪めた。
 その手から、強引にラブレターを奪い取ったのは友弘だ。彼は顔を真っ赤にして、みどりに怒鳴る。
「行くな!」
 その声があまりにも大きくホール内に響いたので、周囲の生徒たちが一斉に彼らの方を振り返った。
 だが周囲の目などまるで気にした様子もなく、友弘は次にびりびりと便箋を破いてしまう。紙の破片が彼の足元にはらはらと舞い落ち散乱した。
「……友弘?」
 突然の行動に、みどりが驚いた声をあげる。
 純も呆気にとられたように、友弘を見つめた。
「……え? あ……そ、そういう意味じゃなくて。あれだ。ほら、万が一ってこともあるだろ? 俺はそれを心配してだな……」
 二人に見据えられて、友弘はそこで初めて我に返り、焦ったようにろれつの回らない口調でまくし立てた。赤くなっていた顔は羞恥のためかさらに朱を濃くし、今にも湯気が頭から立ち昇るような雰囲気である。
 もちろん、友弘の言葉に嘘はない。例の少女が語った噂が心配だったのは、本当だろう。だがそれとは別に、みどりに告白しようとする者に単純に憤りを感じたというのも嘘ではなかった。
 ――友弘も、みどりのことが好きだったのだ。
「まあ、俺も友弘の言う通りだと思うよ」
 さらに何か言い訳を捻り出そうと熟考する友弘を横目に、純が口を開く。その眼差しは、何かを訴えかけるようにみどりを見据えていた。
 ――一瞬の沈黙の後。
 みどりがその眼差しに何を見出したのか、小さく苦笑を洩らす。それから友弘の足元に散った紙の破片を、身を屈めて拾い始めた。
「……分かった。行かないよ」
 拾い集めながら、みどりが言う。
 それに小さく安堵のため息を洩らした友弘は、何も言わず、同じように身を屈めて紙屑を拾うのを手伝い始めた。
 二人のそんな共同作業を見下ろしながら、だが純だけは浮かない顔で思慮に耽る。彼の胸中に渦巻く思い。それはただ一つ――
 裏切りだ。
 下駄箱ホールの向こうの灰色の空から、雨がぽつりぽつりと降り始めて、それは地面を打ちつけると同時に、何か良からぬことが起こる前の不協和音を奏で始めていた。


 「12月22日7時30分」

 八坂公園は、純と友弘とみどりの家からちょうど中間辺りに位置していて、三人は登校前に毎朝そこで待ち合わせをしていた。
 朝の公園は、昼間のように子供たちが騒ぐこともOLが談笑を交わすこともなく、澄みきった静けさに包まれている。
 その公園の、いつもの待ち合わせ場所。
 入り口に近い鉄棒付近で、純は青い顔をして立ち尽くしていた。
 目は投射することを忘れたように虚ろで、その下には寝ていないのか大きなクマができている。栗色の髪はいつもは綺麗にセンターで分けられているのに、今はぼさぼさで所々から髪の毛が跳ね出ていた。
「悪いな、ちょっと遅れた!」
 その純の後ろから、元気に声をかけたのはもちろん友弘だ。
 だが純は振り返らない。
「どうしたんだ、純。立ったまま寝てるのか?」
 再度友弘が声をかけたところで、純は背を向けたまま緩慢な動作で頭を垂らした。彼の身体は学生服の上からでも分かるほど、小刻みに震えている。
 純の異様な雰囲気を察した友弘が、訝しそうに眉根を寄せた。
「……何だ? 腹でも痛いのか? そう言えば今日はみどりが遅いな」
 みどり。
 その言葉に、ぴくりと純が震えるのを止めた。
「みどりがどうかしたのか?」
 純の反応を目敏く見極め、友弘は声を荒げて彼の肩に手をかける。
 だが、純はそれでも沈黙を守ったままだった。
「どうしたんだ! 何か言えよ、純!!」
 肩にかけた手を激しく揺らし、友弘が無理やり純を振り向かせた。
 純は糸の切れたマリオネットのように抵抗なく、身体を友弘の方に向ける。
「……純?」
 ――純は泣いていた。
 生気をなくした青白い頬を伝う涙の筋を見て、友弘の頭の隅が何かを理解する。だがそれが何であるかを理解したくない自分自身が、必死に思考を押し止めた。理解したくない一心で、理解した何かを曖昧にするために頭の中に深い霧を作る。
 だがそれはどれだけ霧を深くしても、次から次へと霧のない場所を求め、明確な形を現そうと浮かび上がってきた。
 耐えかねて、友弘が重い口を開いた。
「みどりは、どうしたんだ?」
「――死んだ」
 掠れた声で、だがきっぱりと純が答える。
 ――遠くの方で、犬が吼えていた。それに混じって、飼い主が何かを叫ぶ声が聞こえる。別の場所からは子供たちの笑い声が、風に乗って微かに友弘の耳に届いた。
 全ての現実は、酷く不明瞭だ。
 友弘は何かを言おうとして、だが口を閉ざし、それから不意に小さく笑い始める。笑いは徐々に発作的になり、やがて彼は目の端に涙を浮かべながら大声で笑い出した。
「何の冗談なんだ、それは?」
 笑いながら、友弘は純の肩を叩いて言った。
「もう少し笑える冗談にしろよ。目薬使って、演技までしてるところ悪いけどよ」
「冗談なんか言わない。みどりは死んだんだ。昨日の夜、学校の裏手にある土手で土砂崩れに巻き込まれて……」
 狂ったように笑う友弘を見て、僅かに落ち着きを取り戻したのか、純はみどりの死を正確に語り始める。涙の跡が残るその顔は、真剣な面持ちで友弘をしっかりと捉えていた。
 だが――
「何だよそれ!!」
 淡々と語られる言葉を、友弘の激昂が遮った。
「昨日までみどりはいたんだ。今日もいるに決まってる! 明日も明後日もその次もそのまた次もだ!!」
「俺だって、信じたくないよ……」
 友弘の激昂が収まるのを待ってから、純は静かな呟きを返した。そこには残酷な現実を享受した者が持つ、深い悲しみと諦めの色が混じっている。
 だから――それ以上は友弘も何も言えなかった。
 二人とも黙り込んでしまい、朝の公園はまた元の静寂を取り戻す。緩やかで冷たい風が、公園を優しく撫でるように吹き抜け、二人の身体をゆっくりと冷やしていった。
 時間にすれば長針が僅かに動いたか動かないか。
 先に口を開いたのは純だ。拳を強く握り締め、何かを決意した彼は、もう一つの告白を口にしようと友弘を見据える。
「俺と……」
 だが友弘に見つめ返され、純は言いかけた言葉を呑み込んだ。
 力なく曇る友弘の双眸が、純の決心を鈍らせる。
 ――黙っておくこともできた。別に必ず言わなければならないようなことでもない。むしろ言うことによって、純は大切な何かを失うことになるかもしれなかった。
 だが、それでも純は一度閉ざしかけた口を再度開く。
「……俺とみどりは付き合っていたんだ」
「……!?」
 友弘の表情が、その告白に大きく歪んだ。
 戸惑い、悲しみ、怒り――雑多な感情が、次々に浮かび上がっては消えていき、友弘は言葉の意味を自分の中で咀嚼するのに、僅かな時間を要する。
 その友の様子をしっかりと見据えながら、さらに純は言葉を続けた。
「いつか言おうと思っていた。でも、今を逃せば言う機会なんて二度と来ないかもしれない。俺はお前には嘘がつきたくない。だから――」
 言葉は最後まで紡がれなかった。
 友弘が純を殴り飛ばしたのだ。
 かなりの力が込められていたのか、純は勢いよく地面に倒れ伏し、口の端から流れた赤い血の筋が、公園の土の上に零れる。
 血は一瞬で黒くなり、土の中に染み込んでいった。
「隠しごとは……無しじゃなかったのか?」
 倒れ伏した純に、友弘の意外なほど静謐な声が浴びせられる。
 それが或いは辛辣なほどの怒声や罵声なら、純にとってどれだけ楽だっただろうか。だが友弘の口から漏れたのは、かつて純が投げかけた約束の言葉だ。
「俺がみどりのことを相談した時には、すでにそうなっていたんだな。なら俺は、あいつの中で最後までピエロだったってわけだ――」
 倒れたまま動かない純に、友弘がさらに冷えた声で告げる。
 ――決別の言葉。
 背を向け去って行く友弘に、純はかける言葉すら見つけられない。ただ公園の乾いた地面を虚ろな眼差しで見下ろすことしか、彼にではできなかった。
 緩やかだった風が、徐々に勢いを増し吹き荒ぶ。
 その中で、純は口の中に入り込んだ砂と血が混ざる不快感も気にせず、小さな呟きを洩らした。
「……みどり。俺はどうすれば良かったんだ?」
 呟きは強い風の音に掻き消され、散っていく。
 低い位置で輝く太陽が、地面に倒れたままの純の冷えた身体を微かに暖め――彼はゆっくりと身を起こすと無意識に天を仰ぎ見た。どこまでも続く雲一つない空に、なぜか無性に苛立ちを募らせた彼は、大きく一つ舌打ちしたのだった。


 「12月24日17時25分」

 純は一人で『ラプンツェルの塔』の中を歩いていた。
 閉館が決まった時から、みどりと一緒に一度来ようと約束していて、それを今日思い出したのだ。
 ――数あるアトラクションの中で、みどりは特にミラーハウスが好きだった。好きな理由は純もあまり覚えていなかったが、当時鏡の中のアリスに憧れていたとか、そんな他愛もない理由だったと彼は記憶している。
 向かった先は、もちろんそのミラーハウスだ。
 吹き抜けを巡る螺旋階段を上りながら、純は自然と頭の中に浮かび上がる過去の記憶を繋ぎ合わせ、回想に浸る。思い出すのは、三人でよくここを訪れた頃の記憶ばかりだ。過去は総じて美化されるものであるが、彼にとってはあの頃がベストだった。実際、彼からみどりに恋心を抱いたわけではない。告白をしたのは彼からだったが、それはみどりのそういう仕草を敏感に感じ取ってのことだった。
 三人ずっと友達のままで――
 純のその理想は、だが時の流れが許さなかった。
 階段を一歩一歩踏み締めながら、純は時が狂わせた歯車に歯噛みしている自分に気付く。懐古主義が現実に何ももたらさない無用の長物であると割り切れるほど、彼はまだ大人ではない。
 だからこそ、純は今日ここに一人で来たのだ。
 ミラーハウスの前まで辿り着き、純は一度大きく深呼吸する。もう使われなくなって久しい『ラプンツェルの塔』内の、黴臭い香りが彼の鼻腔をくすぐった。
 入り口は閉鎖されておらず、賑わっていた頃、列を整理するのに使ったであろうロープがだらしなく地面に垂れ落ちている。
 純はそのロープを躊躇なく踏み付けながら、中へと足を踏み入れた。
 ――四方を鏡で張り巡らせた、ミラーハウスの中。
 自分の姿が奥の方まで幾重にも映し出される景観に、純は一瞬軽い立ち眩みを覚えた。手近の鏡に手をつき、よろめく身体をなんとか支える。と同時に、そこに映った自分の顔を見て、彼は小さく苦笑を洩らした。
 鏡に映った顔は、酷いものだ。
 顔色はみどりの死を知った時よりも悪く、瞳には輝きというものがすっかり抜け落ちてしまっている。
 純は自分自身でも嫌になるようなその顔から目を逸らすと、迷宮の探索を開始した。
 昔は何度も迷っては、係員や家族の世話になったが、壁を鏡で作られているということを除けば、今の純には単純な代物だ。右手を壁に付けて、彼はどんどん先を進んでいく。
 その時、順調に進んでいた純の耳に、誰かの叫び声が届いた。
 ――女の怒声。
 続けて、何かが爆発したような凄まじい音が迷宮内に反響する。
「……何だ?」
 訝しがって純が足を止めるのと同時に、二度目の爆発音が鳴り響いた。鼓膜が破れそうなほどのその音に顔をしかめる彼の耳に、さらに続けて、どこかで聞いたような声が聞こえてくる。
「――諦めなさい。世界のバグを生かしておくわけにはいかないのよ。あなたの死は『実験』に関わった時点で決まってたの。さあ、観念して……」
 意味不明な言葉と共に、純の前に姿を見せたのは一人の少女だ。
 小野寺健太の葬儀で、純たち三人に例の噂を吹き込んだ少女。
 だが純が驚いた理由は、それだけではなかった。それよりもむしろ、少女の手に握られた少女には不似合いな代物――一丁の拳銃に、純は言葉を失う。
 禍々しい光を放つ拳銃を構えた少女は、だがこちらも純の姿を見ると同じように言葉をなくして立ち尽くした。
 ――しばらく気まずい睨み合いが続く。
 だが少女はすぐに真顔に戻ると、大きな舌打ちを一つ残して、反対方向に走り去っていった。
「……何だったんだ。今のは?」
 少女の姿が消えた方を呆然と眺めながら、残された純が疑問を洩らす。だが、おそらくその答えは、彼には一生出ないだろう。それに、すぐに彼は忘れてしまうに違いない。
 なぜならこの時の奇妙な出来事は、その後の――


 迷宮を出てきた純は、入口のすぐ隣にある出口で立ち止まった。閉じられた空間から開放された感覚で、またも軽い目眩を起こした彼は、そのせいか視界が一瞬ぶれたような錯覚を味わう。
「……?」
 その純の目の前を、刹那、三人の子供の姿が駆け抜けていった。
 ――子供の頃の自分と友弘……そして、みどり。
 純がそれに気付いた時には、子供たちの姿は跡形もなく掻き消えている。
 まるで起きたまま見る夢が如く、初めからそんなものは存在しなかったかのように。
 我に返った純が、子供たちの消えた方へ何か――失った大切な何かを必死に捕まえようと、手を伸ばした瞬間。
 今度は背中に軽い衝撃が走った。
「痛ってー!」
 同時に聞こえる、純には聞き慣れた声。
 その声を聞いた途端、なぜか純は彼自身も気付かないほど、自然に涙を流していた。頬を伝う熱いものが何であるか、彼には分からない。
「あれ? なんで純がここにいるんだ!? お、おいおい。何を泣いてんだよ!」
 振り返った純に、声の主――友弘が焦ったように声をかけた。
 だが純は言葉を返すことすらできず、顔を俯かせたまま低い嗚咽を繰り返すことしかできない。意味もないのに、後から後から溢れ出てくる涙を止めることができなかった。
 静寂に包まれた『ラプンツェルの塔』の中で、純の嗚咽だけが反響し――
 友弘はそんな純をしばらく呆れたように見据えていたが、不意に苦笑を浮かべると、俯いたままの純を優しく宥め始めた。その彼の顔にはすでに裏切られたという思いは消えていて、親友を労わる友の顔が取り戻されている。
 ――約束に、意味などない。
 だが、その時の思いはいつでも修復可能なもので、彼らはその一番大切な思いを幸運にもこの場所で取り戻すことができたのかもしれなかった――















あとがき

 うぉっと、いつの間にやら五話目に突入!
 この後、やっと本編が始まります。ていうか、果てしなく長い前振りだったような……
 まあ、いつもの如く、気合は左から入って右から抜けていくようなアザゼルの酸っぱい話ですが、どうぞ、せめて本編の方も見てやってください。この場を借りて、アザゼルの影武者である私から、切なお願いをさせてもらったりもらわなかったり(笑)
 ではでは、後三話(含むエピローグ)夜露死苦!(死語)