Because It Is There〜選定の恋文〜 6(上)
作:アザゼル





 FS「12月11日16時15分」

 テニス部の部室前で赤城麗花は毎日の日課の如く、冷えたペットボトルとタオルを抱えて立ち尽くしていた。
 そこに近付いてきたのは、汗の滴るテニスウェアに身を包んだ、端整な顔立ちの少年――上杉泰氏である。彼は部室にタオルを取りに来たのだが、麗花の姿を見つけると、一瞬ぎょっとしたように足を止めた。
 その泰氏に、麗花がにっこりと微笑む。
「はい。お疲れ様」
 言いながら、ペットボトルとタオルを差し出す麗花。
 泰氏は困ったように目の前に差し出されたそれらを見据えると、長い黒髪を掻き上げながら口を開いた。
「……ありがとう。でも、俺だけにこんなことされても……」
「好きな人以外に、無駄な労力を使うつもりないから」
 口篭もる泰氏に、麗花が微笑んだままさらりと言い放つ。
 割と大きな声だったらしく、泰氏の後ろにいた何人かの生徒たちが彼らの方を非難めいた顔つきで振り返った。その中には泰氏の先輩にあたる者もいて、彼は気まずそうに顔を下に俯かせ、
「と、とにかく。前から言ってるように、俺は麗花とは……」
 小さな声で抗議の言葉をぼそぼそと紡ぎ始める。
 だが最後まで完璧に拒否できないところが、泰氏の優しさであり――弱点でもあった。 
 麗花もそのことは熟知しているのか、泰氏の言葉を笑みを浮かべたまま聞き流す。 
学校でも噂されるほどの美人でお嬢さまの麗花と、他校の生徒にまで人気のある、テニス部のキャプテンでアイドル並みの容姿を持つ泰氏。
そんな二人が向かい合って話をする姿は、お似合いのカップル以外の何物でもない。実際には麗花の一方的な片思いなのだが、周りの人間から見れば、泰氏の本当に付き合っている彼女――小西佳織の方がアンバランスに映るのも仕方がないことだ。
 ――困り果てる泰氏にマイペースに喋り続ける麗花を止めたのは、テニス部の先輩や顧問の先生ではなく、一人の女生徒だった。
 肩の上辺りで切り揃えた黒髪と、快活な眼差しの少女――相田みどりは、泰氏の姿を見つけると真っ直ぐに駆け寄ってくる。
 それに迷惑そうに顔を歪める麗花。
 逆に泰氏はほっとしたように表情を和らげた。
「泰氏君。向こうでマネージャーが呼んでたよ。来週の校外試合の打ち合わせをするんだって!」
 早口でまくし立てるみどりに、泰氏はほっとした表情を隠し、頷きを返す。
「分かった。じゃあ、悪いけど……」
「試合頑張ってね」
 申し訳なさそうに振り返った泰氏に、麗花は気にしてないといった感じで声援を返す。
 泰氏は麗花のその様子に素直に安堵の表情を浮かべると、きびすを返して、先に歩き始めていたみどりの後を追った。
 二人の姿は、すぐに校舎の中へと消えていき――
 それを見送りながら、一人残された麗花はさっきまでとは違う憤怒の形相で、指の爪を強く噛み締める。爪は彼女の口の中で、小さく音をたてて砕け散った。
「……どうしてこの私が、あんな女に劣るというのよ!」
 吐き出された言葉は、罵倒の言葉だ。もちろんその対象はみどりではなく、泰氏の彼女の小西佳織である。
 麗花にとっては、どうして自分より全てが劣っているはずの女を、泰氏が好きでいるのか不思議で仕方がなかった。恋愛がロジカルなものでないという、一番単純なことすら、彼女には理解できていなかったのだ。彼女が或いは、もう少しそのことに深く考察していたのなら――
 ――その時、麗花のコートのポケットから、シューベルトの「死と乙女」の後半部分の演奏が流れてきた。それは彼女がわざわざ自分で楽曲を探し、携帯電話に登録したメールの受信音である。
 ポケットからダークグリーンの携帯を取り出した麗花は、慣れた手つきでメールボックスを操作し、
「……?」
 不意に手を止めると、訝しげな表情で首を傾げた。
 麗花が手を止めた原因は、メールの差出人だ。そこの表記が、おかしなことに自分の名前になっていたのである。
「悪戯メールかしら?」
 不審な顔のままそう呟き、麗花はメールを開けた。

 おめでとうございます!
 やりましたね、あなたは日本国民一億数千万人の中から選ばれました!
 あなたは運命を支配する権利を獲得したのです!(パチパチ)←拍手
 
 あなたの身の回りで、気に入らない人間いませんか?
 反りの合わない人間いませんか?
 見ているだけで腹の立つ人間いませんか?
 そんな奴ら、全部きれいに消し去ってやりましょう!

 手順は簡単。
 犯罪も立証できなし、あなたが手を汚すこともありません。
 下記の場所に、指定された時間に消したい人間を誘うだけでいいんです。
 簡単ですよね? ね?

 「時間と場所」
 
 12月11日19時28分 ○○街道の○○前
 12月11日23時50分 ○通りの十字路○○駅側
 12月12日 1時22分 ○○デパートの屋上
 ……
 ……

 メールはその後も延々と、時間場所を表記し続けている。
 ただの悪戯にしては手の込んだそのメール内容に、麗花は暫し呆然としていたが、すぐに表情を戻すと面白くなさそうに小さく呟きを洩らした。
「……そんなことをしたら、この世から私以外の人間全て消えてしまうじゃない」


 「12月13日18時31分」

 麗花は学校近くの路地の角から、二人の人影を目で追っていた。
 人影は、学校帰りの泰氏と佳織である。
 風が冷たく吹き荒み、麗花の身体を厳しく打ちつけるが、彼女はまるで頓着した様子もなく、ただじっと無表情に通りを歩く二人を見据えていた。彼女の手はすでに冷えきって、血色を失っている。ずっと前からこの場所に留まっていたせいだろう。
「……どうしてあんな女がいいの、泰氏」
 爪を噛み締めながら、麗花は身を寄せ合い歩く二人に呟きを洩らす。
 人影はもちろん麗花が見ているとは知らず、何か談笑を交わしながら通りをゆっくりと歩いていた。
 街頭の光でできた二人の影が、麗花の方にまで長く伸びてくる。その影を踏みつけながら、彼女は見つからないように、さらに彼らの近くの角へと素早く移動した。
 街頭の光でできた二人の影が、麗花の方にまで長く伸びてくる。その影を踏みつけながら、彼女は見つからないように、さらに彼らの近くの角へと素早く移動した。
 ――麗花のこの尾行めいた行為は、もう何ヵ月も前から続けられているものだ。彼女自身、この行為自体が不毛なものであることには気付いていたが、なぜかやめるつもりにはなれなかった。
 その曖昧な思いこそが、麗花が理解できない人の気持ちであって、それ故にやはり彼女には気付くことができない。
「どうして、私じゃないの? どうして、そんな何の取り柄もない女なの? どうして、私をもっと見てくれないの? どうして……」
 自問を繰り返し見据える麗花の眼差しの向こうで、その時、二人のシルエットが静かに重なる。
 愛しい人が他人と口づけを交わすその光景に、麗花は思わず顔を逸らした。
 近くの街灯に麗花の鞄の金具がぶつかり、小さな音を響かせる。
 抱擁は刹那の瞬間で、二人の身体はすぐにどちらからか引き離されたが、その原因が麗花にあることなど、彼女には思いもよらなかった。
 ――続けて、響き渡る佳織の怒声。
 まるでそれが巻き起こしたかのような一陣の強い風が辺りを吹き荒れる中――麗花は足を二人が向かう先とは逆の方に向けて、歩き始めていた。
 いつの間に取り出したのか、麗花の手には携帯が握られている。そのディスプレイはぼんやりと光を放ち、映し出された液晶には例の時間場所を記したメールが表示されていた。決定的な瞬間があるとすれば、まさに今、この瞬間のことを指すのだろう。
 だがそれは決して突然ではなく、あらゆるものの積み重ねの彼方に存在するものだ。
「……どうして、私の手に入らないものがあるの?」
 二人の姿が完全に見えなくなる場所まで歩いてきた麗花は、街灯の下で立ち止まると、ぽつりと呟きを洩らす。
 小さい時から、麗花にとって叶わない望みなどなかった。彼女が欲しいと願うものは、全て大企業の社長であった父が与えてきたし、思い通りにならないことも、彼女の目の届かない所で、父や母が身の回りを世話する者たちに言いつけ排除してきたのだから。
 だから、麗花には分からなかったのだ。
 人の心が、物理的な干渉で動かないということを。根底に流れる思いは、決して他人である自分の思い通りにはいかないということを。
「手に入らないのなら、私には……」
 次に洩れた呟きは、暗く陰惨な響きを内包していた。
 ――麗花は、例の普通に考えたらただの悪戯に過ぎないはずの作業を行うことを、決心したのだ。
 さっきまで強く吹き荒れていた風は、いつの間にか止んでいる。
 不気味に静まり返った通りを、麗花はまたゆっくりと歩き始めたのだった。


 「12月14日13時40分」

「――違うって言ってるでしょ! それくらい言われた通りに書きなさいよ!」
「は、はい。すいません、麗花さん……」
 麗花は長い黒髪を無造作に掻き上げながら、机の上で便箋にペンを走らせていた厚底眼鏡の少女――山内玲奈を罵倒した。
 今は五時間目の授業中で、自習のため、周囲は騒がしい喧騒に包まれている。そのせいか、麗花の罵倒の声も大して目立つことはない。
「もう一回初めから書き直しよ」
 鞄の中から新しい便箋を取り出し、麗花は玲奈の机の上にそれを叩き付けながら、厳しい口調で言った。
「はい……」
 机の上に置かれた便箋に、言われた通り玲奈はまたペンを走らせ始める。まるで奴隷か付き人のような扱いの彼女であるが、それがあまりにも日常的になりすぎて、周囲の者は誰も注意を払おうとはしない。
 しばらくペンを走らせた後、不意に玲奈は手を止めて麗花の方に顔を向けた。
「……でも、意外ですね。麗花さんがラブレターを書くなんて」
「うるさいわね。それに、これは……」
「これは?」
 聞き返した玲奈に、一瞬麗花は躊躇する。
「……実験なのよ、実験」
 だがすぐに口の端を歪め底意地の悪い笑みを浮かべると、麗花はきっぱりと意味不明なことを口走った。
 ――確かにこの時点では、麗花にとってこれはただの実験で、彼女自身も心底から信じていたわけではないのだろう。自分の気持ちを紛らわせたいだけの些細なことだったのかもしれないが、そもそもことのきっかけなど大概はそんなものだ。
「へえ……」
 だが麗花のその意味不明な言葉に、玲奈は分厚い眼鏡の奥で僅かに目を細めると、小さく頷きを返した。その様相からは、納得したようにも見受けられたが――或いは、もともと大して感心がなかったのかもしれない。
「……を思う少女より、と。書けましたよ、麗花さん」
 その証拠に、自分が疑問を問い、それが流されたことはまるで気にした様子もなく、玲奈はペンを置くと便箋を麗花に手渡した。
 満足げに受け取る麗花。
「ご苦労様」
 変わらず高圧的な口調でそう言うと、鞄の中から今度はピンクの封筒を取り出す。それに手渡された便箋を入れると、麗花はそのまま騒がしい教室を出ていった。


 下駄箱は授業中のためか、人の気配はなく、静まり返っている。
 今ここを訪れる者がいるとすれば、早退する者か、遅刻してきた者だが、五時間目も半ばに差しかかったこの時間に、それらが通る確率は低かった。
 だから、といった訳ではなく、麗花はいつも通りの堂々とした歩調で下駄箱のホール内に足を踏み入れていく。下調べをしていたのか、それとも既知のことだったのか、迷うことなく目的の下駄箱の前に辿り着いた彼女は、ネームプレートに「上杉泰氏」と書かれているのを確認し、素早くその下駄箱を開けた。
「……」
 だが封筒を中に置こうとしたところで、不意に躊躇したように手を止める。
 麗花の背筋に、刹那――得も言われぬ悪寒が駆け巡った。
 それは犯されざる罪に手を染めようとする、麗花の心の奥底が発した危険信号だったのかもしれない。だが、一度回り始めた歯車は、容易に止まることはなかった。
 手を止めた麗花に、同時に何者かの視線が突き刺さる。
「誰!?」
 視線の方に顔を向けた麗花は、同時に封筒を隠すように下駄箱の中に放り込んだ。
 緊張した麗花の眼差しの先――
 ホールの入り口辺りでぼんやりと立ち尽くしていたのは、一人の男子生徒だった。華奢な体つきで、幼い――まだ少年と少女の混在した――中性的な顔立ちのその少年は、麗花の方を不思議そうな面持ちで眺めている。
 ――椎橋優。
 麗花が少年のその名前を思い出すのには、しばらく時間を要した。
 思い出すと同時に、麗花の表情から緊張の色が消え、続いて何か企みを思いついた意地の悪そうな笑みが浮かび上がる。
「……あなた、見てたのね?」
 言いながら、優にゆっくりと歩み寄る麗花。
 その麗花の放つ雰囲気に飲まれたのか、優はその場を動けずに、ただ固まったように立ち尽くすことしかできない。
 二人の距離が、鼻が擦れ合いそうなほどまで近付く。
「あ……」
「見ていたのなら、あなたも共犯よ」
 何か言葉を紡ごうと開きかけた優の唇を指で押さえ付け、麗花は彼の耳朶を揺らすように小さく囁いた。静謐だが、有無を言わさない響き――
 優はなぜだか自分でも分からないのに、首を小さく縦に振る。
 ――そしてそれは、罪を共にする了承の頷きとなった。
「実験が成功すれば、だけどね」
 付け加えるように放たれた麗花の言葉は、或いはこの時点では彼女の願望でもあったのかもしれない。二つの――彼への愛しさと憎悪の狭間で葛藤する彼女自身は、まだどういう未来を望んでいるのか、自分でも理解していなかったのだ。
 だがそれらとは無縁の場所で、時は動き出す。
 もはや、何者にもその流動を止めることなど叶わずに……


 「同日20時45分」

 優は、今まで平凡に生きてきた。
 家庭に問題があるわけでもなく、生活に不自由を感じたこともない。成績はいつも平均を小さく上下するだけだったし、友人も多いとは言えないが、全くいないということもなかった。
 ――印象に残らない人間。
 優自身それを自覚して、その上で努めて演じてきたのだ。周囲に溶け込み、何一つ突出することのない人間を。
 今まではそれで上手くやってこれたし、これからもやっていくつもりだった――
「赤城麗花……」
 優は自宅の自分の部屋でアルバムを開きながら、小さく呟きを洩らした。
 アルバムは去年の文化祭の時の写真で、多くの人間が映り込んでいる中には、麗花の姿も映っている。その彼女を指でなぞりながら、優は今日のことを思い返していた。
 ――あの後、麗花は優の携帯の番号を聞き、自分からかかってきたら絶対に取って、指示の通りにして欲しいと言っていた。もちろん、何の現場を見たのかも分からない優がそれに従う理由はないのだが、なぜか彼はそれにもはっきりと頷きを返したのだ。
「どうしてだろ?」
 とりあえず、といった感じで優は疑問を声に出して口にしてみる。だが漠然とした疑問にすぐに答えなど出るはずもなく、しばらく黙考した後、彼はそのことについての思考を閉ざした。
 世には曖昧且つ、絶対なこともある――
 優はそのことを理解し、そのことに対してのみは素直に従うようにしてきたのだ。
 アルバムを閉じ、ベッドに身を投げ出した優は、部屋の天井を眺めながらぼんやりと麗花の姿を思い描いた。
 黒く長い髪と、整った顔立ち。そして何よりも麗花を麗花たらしめているのが、強い意志を感じさせる切れ長の瞳で、優が絶対を感じたとすれば、間違いなく彼女のその目の輝きだった。
 明確な麗花のヴィジョンを瞼の奥に描きながら、優が睡魔に意識を暗転させ始めた頃――唐突に床に投げ出したままの彼の携帯が、けたたましい電子音を鳴り響かせる。
 慌ててベッドから跳ね起き、携帯を拾い上げる優。
 そのまま相手が誰かを確認もせずに、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし?」
 ――麗花よ。今から八坂公園の公園案内板の前に行ってちょうだい。着いたら連絡するのよ――
 会話は一方的で、用件だけを告げるとすぐに切れた。
 携帯からは通話が切れた断線の音だけが虚しく流れている。
「……」
 その断線の音をしばらく呆然と聞いていた優は、小さく一度深呼吸をすると、立て掛けてあったパーカーを羽織り部屋を飛び出した。


「あの……これはどういうことですか?」
 ――何が? ――
 携帯から聞こえる麗花の声は、僅かに震えているようだった。
「死んでますよ……」
 だがそれよりも遥かに声を震わせて、優が答える。
 ――八坂公園の公園案内板の前。
 静かに地面に横たわる少年。
 上州高校の制服に身を包んだその少年は、倒れ伏したままぴくりとも動く気配を見せない。小さく開かれた口に、風に流されて入り込んだであろう土砂が積もっていて、少年の死を如実に物語っていた。
「……どういうことですか?」
 再度、疑問を口にする優。
 目の前の死体があまりにも現実からかけ離れていて、手にした携帯の向こうに麗花がいることだけが彼の唯一の救いだった。
 ――そう、死んでたの……――
 だが答えた麗花の声は、低く抑揚がない。
 携帯の向こうで何か考え込むような沈黙が続けて流れ、不安になった優が再び口を開きかけた頃、今度は麗花の笑い声が携帯から聞こえてきた。
 ――あははは。なら実験は成功ね。すごいじゃない。これで私は、運命を手に入れたことになるんだわ! ――
「……麗花さん?」
 突然の哄笑に、優が戸惑ったように声をかける。
 だが、返答はない。
 笑い声はしばらく続き、携帯から洩れた麗花の声が、静寂が鎮座する公園の中に虚しく響き渡った。
 ――……ふふ。あなたはその男の死体から、ピンクの封筒を回収するのよ――
 ひとしきり笑った後、麗花はそれだけを言い放つと、また一方的に電話を切る。
 またも取り残された優は、やはりしばらくの間呆然としていたが、麗花の最後の台詞を思い出すと、のそのそと緩慢な動きで動き始めた。
 僅かな街灯だけが、辺りの闇を薄っすらと中和する中――
 自分と同じ学校に通う少年の死体をまさぐりながら、優はなぜか、この常識を逸脱した行為に奇妙な現実感を覚え始めていたのだった。


 「12月16日10時40分」

 上州高校は室内プールを完備しているため、体育の授業では年中、水泳の時間が組み込まれていた。
 プールは学校の敷地から僅かに離れた場所に設置されていて、今そのプールから更衣室に向かう細い通路を、麗花と玲奈が水着の上からタオルを巻いただけの格好で歩いている。通路は女生徒専用のもので、彼女たちのその格好を冷やかすような男子の姿はない。
「この学校で唯一、この時間だけが楽しみだわ」
「水泳の時間が……ですか?」
 大袈裟に手を広げ喜びを表現する麗花に、玲奈が眼鏡のレンズに付いた水滴を拭きながら尋ねる。
「泳ぐことが好きなのよ。水泳の時間をずっとさぼり続けてるあなたには、分からないでしょうけどね」
「楽しいんですか?」
「楽しい――というより、心地いいのよ。水の中を漂う感覚が好きなの」
 答える麗花の長い黒髪から水が滴り落ちて、通路の床に小さな染みを作っていく。
 その床にできた染みをぼんやりと見据えながら、玲奈は分かったような分からないような曖昧な返事を返した。
「……へえ。水の中が好きだなんて、まるで胎児みたいですね」
「……」
 冗談のように言った玲奈のその言葉に、麗花はなぜか突然口を閉ざして足を止めた。
 だがすぐに顔を赤くすると、
「変なこと言わないで!」
 吐き捨てるように言い放ち、さっさと通路を早足で歩き始める。
 慌てて後を追いかける玲奈。
 再び並んで歩き始めた二人の視界に、その時――突然大柄な人影が飛び出してくるのが映った。人影が飛び出してきたのは、どうやら麗花たちが目指す更衣室の中からのようでである。
「……待ちなさい!」
 とっさに声を荒げた麗花の呼びかけに、人影が一瞬足を止めた。
 だがそれはほんの一瞬のことで、すぐに人影は、どたどたと重い足音をたてて走り去っていってしまう。
「何をしていたんでしょう、彼?」
「さあね」
 玲奈ののんびりとした口調に憮然と答えながら、更衣室の扉を開ける麗花。同時に彼女は自分のロッカーに駆け寄ると、中を見て大きく舌打ちを洩らした。
「やられたわ!」
「どうしたんですか?」
「……さっきの奴。私の下着を盗んでいったのよ」
 麗花のロッカーの中は、彼女が言う通り誰かに荒らされたのか、衣服がめちゃくちゃに散らかっている。
「ふざけた真似をしてくれるわね!」
 叫ぶと同時に、麗花は隣の――玲奈のロッカーを思いっきり拳で殴りつけた。
 鈍い音が更衣室の中に反響し、ロッカーが僅かにへこむ。
「……麗花……さん?」
 その激昂に萎縮したのか、おずおずといった感じで玲奈が声をかけたが、麗花は何かを考え込むようにしばらく荒らされたロッカーの中を歯噛みしながら睨むだけで、何も言葉を返さない。
 しばらく気まずい沈黙が流れ――
 麗花は不意に口の端を歪めると、口を開いた。
「あの後姿。小野寺よね、絶対」
 笑みは凄惨で凶悪な様相を醸し出している。
 明確な悪意を表したその表情は、だが次の瞬間にはまるで泡のように消え失せ、麗花は今度は無表情で玲奈の前に手を差し出した。
「え?」
 意図が分かりかね、玲奈が不思議そうに首を傾げる。
「あなたの下着よ。私に何も付けずに出ろと言うの?」
「で、でも……」
 その言葉にさすがに躊躇して、玲奈が非難の声を上げた。
 だがもちろんそんな抵抗が通じるはずもなく、麗花は無理やり玲奈を押しやると、ロッカーから彼女の下着を勝手に取り出してさっさと履き始める。
水着を脱ぎ、裸体になった麗花の四肢を見据え、玲奈は嘆息することしかできず立ち尽くしていた。


 「12月17日8時24分」

「待ちなさい!」
 声は校門から校舎の間を繋ぐ路に、鋭く響き渡った。
 登校途中の生徒たちが、その厳しく張り詰めた声に皆振り返っていく。中には何事かとわざわざ足を止める生徒もいて、一瞬で朝ののどかな登校風景は、騒然としたものとなった。
 声の主は、長い黒髪を風になびかせた麗花である。
「な、何の用?」
 呼び止められたのは、小太りの男子生徒――小野寺健太で、彼は目の前に腕を組んで立ち塞がる麗花に、明らかに動揺した様子で言葉を返す。
「ちょっと、いいかしら」
「え?」
 慌てる健太に、麗花は一方的に詰め寄ると素早く彼の鞄に手をかけた。
 ――瞬間、顔色を変える健太。
「やめろ!」
 同時に彼は怒声と共に鞄を引ったくると、麗花を思いっきり突き飛ばす。が、彼女の手はそれでもなかなか鞄からは離れず、それは二人の間で宙に舞い上がり、中身を外にぶちまけた。
 地面に散らばり落ちる、教科書やノートの数々。
 それらを慌てて拾い集めようとする健太の頭越しに、麗花は彼の鞄の奥に白い布製の何かがあるのを見つける。
「ちょっとそれ……」
「ごめん! 用事あるから!」
 言いかけた麗花の台詞を遮って、健太はすっと立ち上がると、拾い集めた物を乱暴に鞄の中に放り込み、校舎の中に駆け出していった。
 ――麗花は追いかけない。
 周囲に集まり始めていた生徒たちは、事件が終わったのを知ると、蜘蛛の子を散らすようにその場を去り始める。
 静寂を取り戻した校舎への路の上で。
 予鈴の鐘が鳴り響くのを聞きながら、麗花は嫌悪を露にした表情でぽつりと呟きを洩らした。
「……気持ち悪い」
 それは、運命を選定する魔女の宣告となり――


 「12月18日12時36分」

 自分たちの教室を出てすぐの廊下。
 まだ授業中なので生徒たちの姿はなく、閑散としたその通路の中で――
 麗花はさっきから熱心にメールを打っていて、その横で佇む玲奈は相変わらずぼんやりとどこを見るでもなく立ち尽くしていた。
「あなたは戻ってもいいわよ」
 メールを打ちながら、どうでも良さそうな口調で思い出したように麗花が口を開く。
 それに対し同じようにどうでも良さそうに相づちを返すと、玲奈は言われた通り、静かに教室の中へと戻っていった。
 一人になった麗花は、携帯を持った手をだらりと下げ、壁にもたれ掛かる。
「……あいつらは、今までのやり方じゃ手ぬるいわね」
 呟きながら、彼女の視線は天井を仰いでいた。
 まだ明かりの灯っていない蛍光灯と、老朽化のせいか僅かに黄色く変色した天井。その天井の隅には、蜘蛛が巣を張っていて、小さな羽虫がその糸に捕われている。
 そこに何を見出したのか――
 麗花は唇を小さく曲げ、端正なその顔に微笑を刻んだ。
「直接――私が導いてあげるわ」
 口をついて出た言葉は、喜びの色すら窺える。
 ――すでに彼女の意識は、この時には変貌を遂げていたのかもしれない。二人の人間の運命に手をかけた彼女は、もはや人間という枷から解き放たれ、それが或いは快楽にも近しい感情を隆起させていたのだろうか。
 授業終了を知らせる鐘の音が、学校中に響き渡った。
 同時に廊下の向こうから、麗花に近付いてくる人影が一つ。
「遅いじゃない。もう、来ないかと思ったわ」
「……臆病だからね。本当は来たくなかった」
 揶揄するように放った麗花の言葉に、近付いてきた人影――優が、肩をすくめて答える。幼い顔立ちの彼がするその大人びた仕草は、少々滑稽だったが、表情は真剣そのものだ。
「臆病だからこそ、来たんじゃないの?」
 麗花がそんな優をからかう。
「かもしれないね」
 だが優は怒るでもなく、あっさりとそれを認めると頷きを返した。
 むきになって言い返してくると思っていた麗花は、一瞬不思議そうな顔をして、それから不意に表情を和らげると、小さく笑みを洩らした。さっきまでの底知れぬ凄惨な笑みではなく、どこか人懐っこい笑み――
「あはは。あなた、意外に肝が据わってるみたいね」
「そうですか?」
 怪訝そうに聞き返す優に、麗花はさらに目を細める。それから背を向けると、廊下を歩き始め、彼について来るように促した。
「ここじゃ人目が多いわ。いらっしゃい。お茶くらい奢ってあげる」
 すたすたと歩き始めた麗花の背を、優はしばらく不思議そうに見送る。だが彼女の姿が廊下の曲がり角に消えたところで我に返ると、慌ててその後を追いかけた。
 

 テニスコートと校舎に挟まれた中庭にあるベンチに、二人は腰を下ろしていた。
 テニスコートでは、生徒たちがラケットを振るいながら、ボールを追いかけている。休み時間ということもあって、大半は学生服のままだ。
「……今まで、誰かと付き合ったことある?」
 自販機で買ったカルピスウォーターには一度も口をつけず、テニスコートをぼんやりと眺めていた麗花が不意に口を開いた。
 唐突な質問に、隣でコーヒーを飲んでいた優が思わず吹き出しそうになる。
「ごほっ、ごほ……。い、いえ。いないですよ」
「そう――」
 涙目になりながら答える優に、だが麗花は表情を変えずに気のない返事を返しただけだ。
 それきり黙り込んでしまう麗花。
 優も自分から話しかけることはせず、沈黙の中で、テニスコートからボールが地面を打つ音だけが二人の耳に届いてくる。
 ――その時、突然麗花のポケットから、陰惨で重厚な音楽が流れてきた。
 麗花が自分で携帯に登録した、メール受信音「死と乙女」だ。彼女はダークグリーンの携帯をポケットから取り出すと、優から見えない位置でメールの受信箱を操作する。

 「時間と場所」
 ……
 12月19日20時48分 センター街○○通り○○高速高架下
 ……
 ……

「……あいつらのテリトリーじゃない」
 携帯のディスプレイを眺めていた麗花が、嬉しそうに呟きを洩らした。同時に隣の優の方を振り返り、彼の頬に手を寄せると、口の端を大きく歪める。
「付き合ったこと、ないんだったわね?」
「は、はい」
 頬に添えられた麗花の手に、顔を赤らめながら頷く優。
 優にとってはまだ女性は彼岸の存在で、冷たい外気の中、麗花の手の温もりだけが妙に彼の心を昂ぶらせる。
「じゃあ、デートしましょう。明日、八時にセンター街の噴水前で待ってるわ」
「え?」
 だから優は初め、麗花が何を言っているのかすぐには飲み込めなかった。だが言葉を頭の中で反芻させ飲み込むと、さらに顔を赤くして口を開く。
「で、でも……!?」
 焦りまくる優の唇を指で塞ぎ、麗花はすっと立ち上がると、視線を後ろの校舎の一室に向けた。そこは化学実験室で、今はカーテンで閉ざされていたが、僅かにある隙間からぼんやりと中の様子が窺える。
 ――そこでは、一組の男女が身を寄せ合い口づけを交わしていた。
 麗花の視線を追い、それを見つけた優が思わず顔を逸らす。
「明日、待ってるわよ。おまけであれくらいのことはさせてあげるわ」
 俯いた優に、麗花はそれだけ告げると、さっさとその場を離れていってしまった。
 一人残された優は、空になったコーヒーの缶をしばらく無心に見つめていたが、不意に表情を緩めると、缶をゴミ箱に捨て同じようにその場を後にする。
 テニスコートからは、未だボールの跳ねる音が鳴り響き、それは風の音と混じって軽快な和音を奏でていたのだった――


 「12月19日20時42分」

 麗花がちらりと後ろを振り返ると、そこには同じクラスの美紀と遥の姿があった。彼女たちはちょうど裏路地の角を曲がってきたところで、麗花が見ていることには気付いていない。
「ちゃんと、付いて来ているようね」
「そうですね」
 視線を前に戻した麗花に、横を歩いていた優が頷いて見せる。
 二人は今、まるで恋人たちがそうするように腕を絡めて歩いていた。
 そのせいで、麗花の歳の割には大きい胸の感触が、黒いダッフルコート越しに優に伝わってくる。
「走るわよ――」
 柔らかい感触にどぎまぎしていた優は、小さな掛け声と共に走り始めた麗花に、一瞬引っ張られるようにして足をもつれさせた。
「何してるのよ!」
 慌てて体勢を整える優に、麗花が叱咤を飛ばす。
 再び走り始めた二人は、目の前の高速の高架の下を走り抜け、そのままのスピードで急いで細い脇道を曲がった。
 ――足を止め、息を整える二人。
「そろそろ、ね」
 まだ荒い息のまま、麗花は腕の時計に目を遣ると独りごちた。同時に優から手を離すと、それた脇道の角に身を寄せて高架の方に視線を馳せる。
 そこには二人を見失って、慌てて駆け寄ってくる美紀の姿があった。
 美紀が高架のちょうど真下を通り抜けようとする瞬間。
 ――八時四十八分。
 劣化した高架のコンクリートが、みしりと音をたてて美紀の頭上に落下していく。気付いた彼女が顔を上げた時には、彼女に残された時間など、無に等しかった――
 美紀が潰れた音は、コンクリート片がアスファルトを叩いた音に掻き消され、それが起こした振動が、脇道に立つ二人にも伝わる。
 惨事はまさに一瞬で、後に残ったのは沈痛な静寂だけだ。
「あはははっ! 行くわよ、優!」
 その静寂を引き裂くように突然高笑いをあげた麗花は、優の手を引くと、コンクリート片が落下した高架下へとゆっくり足を向けた。
 同時に通りの向こうからは、美紀を見失った遥が駆け寄ってきて――


 麗花と優は、高架から少し離れた小さな公園に来ていた。 
 周囲を団地に挟まれた公園だが、さすがにこの時間になると人の気配はない。
「……どう? 運命の結末を観戦した気分は?」
 街灯もなく、闇だけが支配するそこを歩きながら、麗花が口を開く。表情は闇に埋もれ窺えないが、口調から彼女が笑っていることだけは確かだ。
 そして、それは決して気持ちのいい笑顔ではない。
「どう? 人間がゴミに変わる瞬間は?」
 足を止め、再度尋ねる麗花。
 優はその瞬間を頭の中で思い返したのか、同じように足を止めて、低く呻き声を洩らした。同時に口に手を遣り、込み上げる嘔吐感を塞き止める。
「……間違ってる」
「そうね」
 絞り出すように放った優の言葉に、麗花はあっさりと同意を示す。やはり闇のせいで表情は窺えず、彼女がどういう思いを描いているのかは分からない。
 麗花は言葉を続けた。
「でも私は続けるわ。消せない罪を埋没させるには、これしかないもの。そして――最後には父の運命を裁断するの」
「え?」
 唐突で脈絡のない言葉に、優が麗花の方を振り返る。
 刹那――
 さっきまで雲に隠れていた月が一瞬顔を出し、麗花の顔を薄っすらと照らし出した。
「麗花……さん?」
 麗花の漆黒の双眸は、大きく揺らめいている。
「……父が嫌いなの。祖父が死んだ後、私の思い出の場所を閉ざした父が嫌い。母は逃げ出して正解だったわ。暴力でしか自分を維持できないつまらない男だったもの」
「何の、話ですか?」
 概要が掴めず、優が聞き返すが、麗花は首を振るだけでそれに対しては何も答えない。だが、それでも彼女の一方的な話は続いた。
「だから、頼りは彼だけだったのよ。本当に好きだったかは分からないわ。ただ……依り代が欲しかっただけなのかもしれない。それでも、私には必要だった……」
「……」
 優はもう口を挟むことを諦めている。
 公園に植えられた細い木々が、風にその身を揺れ動かす音だけが、公園内に虚しく響いていた。
「冗談だったのよ。あんなことで、死ぬなんて思わなかった。でも……それはきっと欺瞞なんだわ。都合のいい私の解釈――」
 次第に感情が昂ぶってきたのか、麗花の声はまるで心がばらばらな孤高の演奏者たちが奏でる不協和音のように、不明瞭に震えていく。
「母はいない。父は嫌い……。彼は私の気持ちを裏切った! あれは、私が自らの決意で下した決断の結果だったのよ!」
 さっき姿を現した月はまた雲に隠れ、闇が再び支配を始める中――
 麗花の絶叫が闇を切り裂いた。
 ――唐突に訪れる沈黙。
 風が止み、木々が揺れる音も止む。
 優が黙り込んでしまった麗花に手を伸ばそうとしたところで、ぽつりと彼女は小さな呟きを口にした。
「……だから、私は続けるの。気に入らなければ、消してあげるわ。そうしなければ、彼に申し訳がたたないじゃない」
 呟きながら、麗花は優が伸ばした手を強く掴む。そしてその手を引き寄せると、彼の唇に自らの唇を重ねた。
「ん!?」
 吸いつけるような長い口づけ。
 それは優を取り囲む世界を無音と永遠に浸し、彼自身を熱で痺れさせた。
 優の手が自然と意外なほど細い麗花の腰に回り、彼女は受け入れるように彼に身を任せて寄りかかる。
 重なり合うシルエット。
 少しの時をおいて静かに唇を離した麗花が、優に寂しそうな笑みを向けて囁いた。
「夜は嫌ね。人をお喋りにさせる。私が今言ったことは、忘れてちょうだい――」
 と。
 ――そして、再び二人のシルエットが交錯を繰り返した。


 「12月20日12時50分」

 昼休み――
 学校が一番、活気付く時。
 朝の眠たい授業を耐えた生徒たちの喧騒が、校舎中の至る所で絶えることを知らず鳴り響いている。それは教室同士を結ぶ通路にも言えることで、廊下は溢れ返るほどの生徒たちで埋め尽くされていた。
 談笑を交わす者。
 上履きで室内野球を始める者。
 食堂へと急ぐ者。
 それらの中を、麗花と優は購買部で買ったパンを手に、教室に向けて歩いていた。
「良かったですね、パン買えて。ここのクリームパン、すぐ売り切れるから」
「そうね。ラッキーだったわ」
 昨日の余韻か、答える麗花の声はいつもより柔らかい。
「だいたい、生徒の数に比べてパンの数が少な過ぎますよ。麗花さんも……」
 それに気を良くして、さらに言葉を続けた優だったが、途中で麗花の歩みが止まってしまったことに気付き、口を閉ざした。
 足を止めた麗花の視線は、真っ直ぐ目の前を見据えている。
 そこには多くの生徒たちに混じり、虚ろな目を漂わす遥の姿があった。周りを友人たちに囲まれ、無理やり浮かべたような笑みで会話を交わしていた彼女は、自分の方を居抜くようなその眼差しに不意に顔を上げる。
 ――瞬間、宙で交錯する遥と麗花の視線。
 遥は恐怖に目を見開き、麗花は嘲りの笑みを顔に刻んだ。
「嫌ぁっ!」
 廊下中に轟いたのは、遥の悲鳴だ。そのまま彼女は両手で頭を抱えると、その場に腰が抜けたようにうずくまる。
「どうしたの遥!?」
「大丈夫か?」
 友人たちが次々と、心配そうに床に伏した遥に駆け寄った。
 だが遥はその友人たちの手すらも振り払って、同じ悲鳴と嗚咽を繰り返す。
「……ラッキーな女ね」
 その様子をしばらく静観していた麗花は、ぽつりと呟きを洩らし、だがすぐに興味を失うと優を促して歩き始めた。
 前を歩く麗花の顔はどこまでも無表情で、彼女が何を考えているかは分からない。
 だが分からないからこそ、優は酷く気持ちを沈ませていた。
 ――お互いがお互いを知るには時間とタイミングが必要で、彼らにはそのどちらもが欠如していたのだ。噛み合いを外した歯車が二度と元には戻らないように、運命だけが残酷に加速していく――


 教室に戻ると、玲奈が弁当箱を机の上に出して待っていた。
 麗花と優はその机の上に買ってきたパンを置くと、自分の所から椅子だけ持って来て、腰を下ろす。
「あ、クリームパン買えたんですね」
「まあね」
 弁当箱の包みを解きながら口を開く玲奈に、麗花は適当に相づちを返すと、パンを取り出し黙々と一人先に食べ始めた。
 その麗花の雰囲気に押され、玲奈が優の方に物言いたげな視線を送る。
 だが、優もかぶりを振るだけで何も答えられない。
 ――気まずい雰囲気が続く無言の昼食の中で、隣の生徒たちの声だけが虚しく彼らの耳に届いてきた。
「――でも、本当かなあ? そんなことってあると思う?」
「さあな。でも、あいつの雰囲気は只者じゃなかったぜ!?」
「死を招くラブレター……。確かに信じられないけど、火のない所に煙は立たぬ、て言うしな。気を付けた方がいいかもしれない」
「あったまいいー!」
 談笑はさらに続いたが、その後の言葉は三人の頭の中には入ってこなかった。
 さっきまでの気まずい雰囲気が、今度は険悪な緊張感へと変貌を遂げる。
 もちろん、雰囲気を変えたのは麗花だ。彼女は吊り上がり気味の目を鋭く光らせて、最初に優の方を睨んだ。
「ぼ、僕じゃないですよ」
 慌てて胸の前で小さく手を上げ、否定する優。
 それを冷たく見据えながら、麗花は今度は玲奈の方を睨んで口を開いた。
「あなたは……言わないわよね?」
 口調は静かだが、そこには有無を言わせない迫力が内包されていて、玲奈は眼鏡がずれ落ちそうなほど何度も首を縦に振って頷く。
「そうよね――」
 そんな二人をもう一度凝視し、麗花は小さく嘆息した。
 ラブレターのことを知っているのは、目の前の二人しかいないはずだが、その二人だけが事件の真実を知っているのだ。疑われるのを分かってリスクを犯すほど、頭の悪い連中ではないだろう。なにせ――
「あなたたちも、私の運命からは逃れられないものね」
 言った麗花の眼差しは、背筋が凍るほど冷たく、暗に二人への脅迫を促していた。
 優と玲奈の首筋を、冷たい汗が流れ落ちる。
「まあ、いいわ。どうせ誰も私までは辿りつけないだろうし。それに……」
 そんな二人の心中を察してかどうか、麗花は不意に表情を和らげると、視線を隣で談笑していた生徒たちに動かした。
 そこには麗花たちと同じように、一つの机で三人の生徒が座り、昼食をとっている。
 ――相田みどりと、福山純。それに、西中友弘の三人だ。
 その内二人の姿に麗花は目を僅かに細めて、言葉を続けた。
「……それに自分たちの身に実際降りかかれば、噂のことなんて忘れてしまうはずよ」
「まさか……」
 優が麗花の言葉に、危惧を露わにする。
「あんな大したことない女が、両手に花、てのもむかつくしね」
 それを遮って、麗花はそう言うと、悪魔のような微笑みを浮かべたのだった。


 「12月21日7時45分」

 昨夜の大雨が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
 雲の間隙を縫って差し込む日の光が、ぬかるみの多いグラウンドに立つ三人に等しく降り注いでいる。
「どういうことよ!?」
 その朝の爽やかな静寂を、怒声で打ち破ったのは麗花だ。彼女は呼び出した優の胸倉をいきなり掴み上げると、彼を厳しく睨みつけて罵倒した。
「あなた、本当にあの女の下駄箱に入れたんでしょうね?」
「はい……」
 胸倉を掴まれたまま、力なく頷きを返す優。
「じゃあ、どうしてあの女は来なかったのよ!?」
 再度繰り返し詰問する麗花に、優は同じように力なくかぶりを振った。
 麗花の鋭い眼差しが、優の顔を穴が開くほど凝視する。
「仕方ありませんよ。噂をしていた本人たちなんですから、こういう事態は予測できたことですし……」
 その二人を宥めに入ったのは、さっきからずっと黙ったままの玲奈だった。彼女はゆっくりと二人に近付くと、優を掴んでいる麗花の手に自分の手を載せ、彼女にしては珍しくきっぱりと言葉を続ける。
「それに、ここで椎橋君を責めても、問題は解決しません」
「分かってるわよ!!」
 腕に載せられた玲奈の手を振り解き、麗花が苛立ちをぶちまけるように怒鳴った。彼女の顔色は怒りのためか、それとも焦りのためか、真っ赤に染まっている。
「……まずいわ。もしあの女が、あの場所でそれが起こったことを知ったら、噂が噂でなくなってしまう。そうなったら、連鎖的に私のところまで辿りつく者が現れるかもしれない……」
 肩を震わせ、ぼそぼそと独りごちる麗花は、しばらく俯いて黙考を続けた後、意を決したように顔を上げた。
 その瞳に宿るのは、陰惨な決意の輝きだ。
 爽やかな朝に似つかわしくない凄惨な笑みを浮かべた麗花は、誰に言うでもなく、だがはっきりとその決意を口にする。
「直接手を下すしかない、てわけね――」
 と。


 「同日15時20分」

 運命の女神――などというものがいるとすれば、それは今、確実に麗花の味方だった。
 いつもはべったり三人一緒にいるはずのみどりが、今麗花の目の前で一人下駄箱に向かって歩いてきている。おそらく他の二人は何か用事があって、彼女一人だけが先に帰ることになったのだろう。
「――絶好の機会ね」
 ぽつりと口の中だけで呟いて、麗花は先に下駄箱の入り口の方に回り込んだ。
 帰宅する生徒たちが、ホールの入り口で待つ麗花の横を何人も通り過ぎていく。
 そんな中――やっと目的のみどりが靴を履き替えて出てくるのが、麗花の視界に映った。同時に彼女は、みどりの元へと小走りで駆け寄っていく。
「な、何ですか?」
 いきなりほとんど面識のない麗花が、自分を目指して駆け寄ってきたのだ。面識はないが、ある意味校内で有名な彼女の突然の訪問に、みどりが驚くのも無理はない。
 だが麗花の表情が神妙なのに気付くと、みどりも表情を正し真剣に尋ね直した。
「何か、用ですか?」
「大変なの。あなたの友達の福山君が……」
「純がどうしたんですか!?」
 その名前の効果は絶大だった。
 みどりの表情が一瞬で青ざめ、目の前にいるのが麗花であることも忘れて、彼女に激しく詰め寄る。
 麗花は、ともすれば込み上げそうになる笑いを心の中で噛み殺しながら、詰め寄るみどりに努めて冷静に口を開いた。
「とにかく、西中君があなたを呼んできて欲しいって……」 
「分かりました。早く行きましょう!」
 すぐにでも駆け出そうとするみどりを落ち着かせ、麗花はゆっくりと正門とは反対の裏門がある方へと彼女を先導することに、成功したのだった。


 上州高校の裏手は、小さな山になっていて、そこに通じる裏門は普段は滅多に使われることはない。だからか、生徒たちの姿もなく、辺りは閑散としていた。
「……で、どこにいるんですか。純は!?」
 周囲にくまなく視線を馳せながら、みどりが前を歩く麗花に語気を荒げて問う。
「もう少し行った所よ」
 それに言葉短めに答えながら、麗花はちらっと腕時計に目を遣った。腕時計は金で縁取られたアナログ時計で、彼女が唯一母から買ってもらった代物だ。
「……もう少しね」
「何か言いました?」
 口の中だけで呟かれた麗花の言葉に、みどりが過敏に反応する。
「何でもないわ。こっちよ――」
 それに対しやはり言葉少なく答えると、麗花は歩く速度を若干早めて、裏山の方を目指した。
 疑念を挟むことなく、大人しくついて行くみどり。
 二人が裏門を抜け、小高い丘――と言った方がしっくりとくる、その裏山に辿りつくのには、数分とかからなかった。
 目の前に広がる割と急な傾斜の前で、やっと麗花が足を止める。
「ここ、ですか?」
 さすがに疑わしく思ったのか、みどりが懸念を含ませた口調で麗花に尋ねた。興奮しているせいか、冬の寒さの中で彼女の額からは汗がぽつぽつと吹き出している。
「あなたはここで待っていて。私が彼らを呼んでくるから」
「じゃあ、私も!」
「駄目よ。すぐに福山君を連れてくるから、あなたは絶対にここで待っていて」
 純のことだけで頭がいっぱいのみどりは、どう考えてもおかしいはずの麗花のその言葉に、不承不承頷きを返した。或いは――麗花の有無を言わせない強い口調と雰囲気に飲まれたのかもしれない。
 さらに山の方へと走っていく麗花の背を見送り、しばらくみどりはその場で立ち尽くしていた。吹き返しの冷たい風が、彼女の肩まで伸ばした黒髪を揺らし、吹き出した汗を冷ましていく。
 ――その時、傾斜の上から小さな物音がみどりの耳に届いた。
 静寂の中聞こえた微かな音に、反射的にみどりの視線がそちらの方に向けられる。そして、その瞬間が、彼女の運命の終焉となった――
 昨夜の大雨でぬかるんだ傾斜の土砂が、地滑りを起こし、まるで雪崩のようにみどりの身体を一瞬で飲み込んでいく。悲鳴すらも飲み込んだ大量の土砂は、裏門の近くまで数秒で到達し、ようやく動きを停止させた。
 表層の土砂が流され、焼け爛れた人間の皮膚を彷彿とさせる、赤い土が剥き出しとなった裏山の傾斜の上――
 長い黒髪をなびかせた麗花が、満足そうに眼下の光景に笑みを浮かべていた。
 ――だがそれはもはや戻ることのできない、心の闇の部分に自分を食らい尽くされた、憐れな人間の悲壮の笑みでしかなかった。