Because It Is There〜選定の恋文〜 6(下)
作:アザゼル






 「12月24日16時35分」

 センター街の一角。
 表通りから離れた、細い行き止まりの路地の中。
 そこで終業式を終えたばかりの麗花は、学生服の上からいつもの黒いダッフルコートを羽織った格好で一人佇んでいた。
 ――その表情は、何かに怯えるように暗く沈んでいる。
 原因は例の時間場所を明記した『運命を支配するメール』のことで、毎日一時間おきに届いていたそれが、昨夜の十二時を境にぷっつりと途絶えてしまったのだ。
 麗花にとってそれは、最大の罪を埋没させることと、最後の罪を犯すことの両方の手段を失ったことを意味していた。
「冗談じゃないわ。どうして今更なのよ……」
 ダークグリーンの携帯を今にも破壊しそうなほど強く握り締めて、麗花は憤りを口にする。そんな彼女の耳に、遠く離れた表通りから、吹き荒ぶ風に乗って人々の喧騒が届いた。
 ――クリスマスイヴを祝うカップルや家族の、楽しげな喧騒。
 それはさらに麗花の怒りに拍車をかけた。
「中途半端なままじゃ、私は何も終われないのよ!!」
「終わるのよ――」
 喧騒から逃れるように耳を塞ぎ激昂する麗花。
 その麗花の激昂に、恐ろしいほど冷え切った静かな声が被せられた。
「……え?」
 顔を声の方に反射的に向けた麗花が、呆気にとられた表情で声の主を見つめる。
 一体いつの間にそこに現れたのだろうか――
 麗花と同じ学生服に、大きなボストンバッグを肩にかけた眼鏡の少女――玲奈が、彼女の方をじっと見つめて佇んでいた。表情はやはり分厚い眼鏡に隠されて、窺い知ることはできない。
「玲奈? あなた、こんな所で何をしてるの?」
 いつもと違う玲奈の雰囲気に僅かに気圧されながら、麗花はそれでもあくまで高圧的な態度を崩さずに尋ねた。
 喧騒はもう麗花の耳には届かない。
 玲奈の出現と同時に、辺りは時が静止したような静けさに包まれている。
「何をしにきたの?」
 黙ったまま自分を見つめ続ける玲奈に、強迫概念のようなものを感じ、再度麗花が問いかけた。問いかけながら、彼女は無意識に一歩後ずさっている。
 その麗花をゆっくりと追いかけ、玲奈はやっと口を開いた。
「終わりを告げにきたんですよ――」
 言いながら、彼女は分厚い眼鏡のフレームに手をかけると、さっと眼鏡を外した。
 行き止まりに向けて後ずさっていた麗花の顔色が変わる。
「れい……な?」
 そこに現れたのは、まるで稀代の彫刻家が一生涯を費やして造り上げたような、見る者に畏怖すら与えるほど整った顔だ。あまりにも整い過ぎていて、その顔には人間である温かみがごっそりと欠如している。
「どうですか? 蔑んでいた者に、実は蔑まれていた事実を知った感想は?」
「……本当に、玲奈なの?」
 麗花の踵が、行き止まりの壁にぶつかる。
 逃げ場をなくしたその麗花を追い詰めるように、さらにゆっくりと歩を進めながら、玲奈は唇の端に小さな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「信じられないんですね。でも、真実はいつでも残酷なもの。実験が終わったモルモットには、それを知ることもなく消えてもらいますが」
 二人の距離は、もう一メートルもない。
 その至近距離で、玲奈はスカートのポケットからすっと鈍く輝く拳銃を取り出した。
「ひっ!」
 麗花が小さく悲鳴を洩らす。
 同時に玲奈の引き金を引く指が、微かに動いた。
 ――死は、まさに一瞬だ。
 高速で回転する弾が、麗花の柔らかい胸の肉を一瞬で食い破り、後ろの壁に極小の穴を穿つ。大きく見開かれた彼女の双眸は急速に色を褪せていき、開かれた口からは空気が抜けるような、どこか間抜けな音が洩れた。
 どさり、と魂の抜けた重い身体が、地面に崩れ落ちる。
「――こんな人間に、『ムーンプリンス』は、何を期待したの? エゴでエゴを潰し合うことしかできない人間に、他人の運命を委ねるなんて馬鹿げてるわ……」
 崩れ落ちた死骸を冷ややかに見下ろしながら、玲奈が独りごちる。彼女はしばらくそうやって死骸を見つめていたが、小さく一つため息を洩らすと、肩に下げていたボストンバッグを地面に下ろした。それから、片手で死骸を軽々と持ち上げると、地面の上に置いたボストンバッグの中に無造作に放り込む。
 それを肩に担ぎ直して、玲奈はまるで何事もなかったかのように、静かにその場を後にしたのだった。


 黒い水面は、黄泉に広がる大平原のように果てしなく、時折波が奏でる潮騒の音は、彼岸の向こうから轟く鎮魂歌を思わせる。
 都会の海は、そんな死の匂いに満ち満ちていた。
「……ゴミを処理するには、いい場所かもね」
 防波堤の上から黒い水平線を眺め、玲奈が皮肉がかった台詞を吐く。足元には大きなボストンバッグが置かれていて、彼女は腰を屈めるとジッパーを引き、中身を確認した。
 中には、まだ死が浅い麗花の死体が、膝を折って入っている。
「人柱――か」
 呟き、玲奈は死体を持ち上げると、そのまま海へと投げ落とした。
 死体が水面を叩く音がして、それは一瞬で黒い海の底へと沈んでいく。
 それを最後まで見届けずに玲奈は立ち上がると、防波堤を飛び降りて、街の方へと歩き始めた。彼女の視界の向こうには『ラプンツェルの塔』の姿が、まるで月にまで伸びる摩天楼のように街の灯りを受けて、おぼろげに浮かび上がっているのが映っている。
「――出てきなさいよ。ずっとつけてたんでしょ?」
 それを見上げながら、玲奈は誰もいないはずの場所で、誰かに向けて口を開いた。
 その呼びかけに姿を現したのは、白いパーカーが闇に映える優だ。彼は玲奈に気付かれたのを知ると、おずおずと彼女の方に近付いていく。
「ずっと見てたでしょ。私があの女を消すところから」
「……」
 近付きながら、無言で頷きを返す優。
「どうして逃げ出さなかったの?」
 その優に、玲奈はさらに質問を続けた。
 優は玲奈から僅かに距離をおいた所で立ち止まると、一瞬思慮に耽り、それから静かに口を開く。人を殺した者を前にしては、あまりにも静謐な声色――
「山内さんは、どうして麗花さんを殺したの? 彼女がしてきたことは、確かに間違っていたかもしれない。だが彼女は、ずっと一人で悩んできたんだ。彼女には、まだ生きて罪を償うことが必要だった……」
 優の回答は、玲奈にとっては冗談のようにしか聞こえなかった。彼女は問いかけの答えになっていないその答えに、一瞬呆然とした表情を浮かべ、続けて身体を折り曲げて笑い始める。
「あっはははは! 何? じゃあ、君は私があの女の暴走を止めるために、殺したと思ってるの?」
「……違うの?」
 優が真顔で尋ね返す。
「それはそれで、面白いシナリオだけど――」
 大きくつぶらな瞳に涙まで浮かべた玲奈は、不意にそこで言葉を切ると、真剣な表情に戻り口を開き直した。手はスカートのポケットにある拳銃に伸びている。
「――真実は違うわ。正直あの女がどういう考えで、どういう思いを抱いていたかなんて、私にとっても実験にとってもどうでもいいことだったのよ」
 冷然と言葉を紡ぎ終え、玲奈はすっと優に拳銃の銃身を差し向けた。
 海から流れてくる潮風が、二人の間の地面をすべるように撫でつけ、辺りに磯の香りを撒き散らしていく。
 優の双眸は、だが自分に向けられた拳銃には向いてはいなかった。彼の目はただ一心に、玲奈の顔に向けられている。
 静かな――夜の海よりも静寂な沈黙の中。
 震える優の声は、微かな怒気を含んでいた。
「……実験、て何だよ?」
 その優の意外なほど強い眼差しと問いかけに、玲奈の口元が小さくほころぶ。彼女は拳銃を持った手とは反対の手で、後ろ髪を一度掻き上げると、まるで覚えの悪い生徒に教える女教師のような口調で口を開いた。
「意外に肝が据わっているみたいね。いいわ。どうせ、ここに来なくても君は消去の対象だったしね。ほら……何て言ったっけ?」
 そこで一旦口を切り、額に手を添えると考え込む玲奈。だがすぐに思い出したらしく、再び言葉を続ける。
「そう、冥土の土産って奴よ。君に真実を教えてあげる」
 そう言うと、彼女はどう考えてもアレなことを真摯な表情で語り始めたのだった――


「――世界は、遠い遠い過去に一度、完全に滅びてしまった。どうして滅びてしまったかなんて聞かないでね。そんなことは私の記録にはないんだから。とにかく世界は滅びたの。最後に生き残った数人の人間たちは、だが未来を諦めなかった。ある女科学者の一人を最後の人間として冷凍睡眠にかけ、未来に託したの。その科学者の名を私は『ムーンプリンス』って呼んでるわ。彼女は再び人間の歴史を始めるために、永い眠りの後、ある実験を開始した。それがこの虚構の世界の始まり。この世界は現実世界に位相転換可能な、プログラムの世界なのよ。彼女には、新たな未来を始めるために優秀な精子が必要だった。それは単に優秀なだけの精子ではなく、無限の未来への可能性を秘めたものでなければならなかったの。でも――実験はことごとく失敗に終わった。どのような経緯を辿った世界であっても、未来に待ち受けていたのは等しい滅びだった。彼女はそこで、新たな実験を試みた。それがプログラムへの、人為的な意識操作よ。私を含めて、プログラムの中から彼女が発した独自の固定波形パターンを持つ信号を受信できた者のみがマザープログラムとなり、彼女の意思を虚構の世界へと伝える媒介となった。赤城玲花――彼女に『運命を支配するメール』を送り、それを観察することは、『ムーンプリンス』の数多の実験の中の一つだったってわけ――」
 言い終わり、玲奈が優の反応を窺うように小さく首を傾げた。
 自分を見据える双眸は、何かに魅入られたように一切の反射を拒絶し、深い灰色に澱んでいる。そのせいか玲奈が人間ではない、異質な化物のような存在に、優には感じられた。
「……狂ってる」
 しばし呆然としていた彼が、やっとの思いで紡いだ言葉はそれだけである。
 だが、玲奈は別段、怒りを表さなかった。ただ静かな微笑を浮かべるだけで、そこにはその反応を予想していた悟りのようなものすら窺える。
「さて、と……。冥土の土産はこれでおしまい。そろそろ時間だわ」
 言いながら、引き金にこめる指を僅かに強める玲奈。
「世界の外壁を知った君は、これで正真正銘、世界のバグへと成り変った。プログラムの末端が知るには、過ぎたる真実だったかしら?」
「何を言ってるのか……」
 優が未だ困惑した表情のまま、玲奈に近付こうとした瞬間。
 乾いた音と共に放たれた弾が、優の右頬を掠めて、猛スピードで彼の後ろの虚空へと掻き消えていった。
「動かないでよ。外れたじゃない」
 玲奈のどこか呑気な声が、優の耳に酷く遠くから聞こえる。
 掠めた頬は、冷たい外気の中、そこだけ熱を持ったようにリアルに痛みを訴えかけていた。
 目の前の玲奈が、もう一度引き金に指をかけるのが、優の視界の中でスローモーションのように映し出され、同時に彼の心の中に、死に対する絶対的恐怖が膨れ上がる。
 ――死にたくない。
「うわぁああああああ!!!!」
 思った瞬間、優は絶叫と共になりふり構わずその場から駆け出していた。後ろで二度銃声が轟いたが、彼は走る速度を緩めようとはしない。
 優が駆け出した先――
 そこには『ラプンツェルの塔』が、彼を待ち受けるように、悠然とそびえ立っていたのだった。


 「同日17時12分」

 優は必死に逃げていた。
 だが全速力で駆けているというのに、玲奈との距離は一向に離れず、時折隙を見て放たれる銃声に彼はその度、精神を削り取られていく。
 動悸は恐ろしいほど早くなり、足はすでに限界が近いほど張っていた。
 ――一体、何度目の路地を曲がった時のことだろう。
 突然広い場所に出た優の目の前に、巨大なアトラクションタワー『ラプンツェルの塔』が姿を現す。それはまるで、今まで彼のことを待ち構えていたみたいに、不可思議な安堵感を彼に呼びかけていた。
 一瞬追われていることを忘れ、呆けた表情で塔を見上げる優。
 その優の耳朶を、また後ろからの銃声が襲った。
 再び弾かれたように駆け出した優は、逃げ場のない『ラプンツェルの塔』の中へと、足を踏み入れ――
 運命の歯車が、ゆっくりと最後の回転を始める――


 玲奈は優が『ラプンツェルの塔』の中に入っていくのを見て、小さく笑みを零した。同時に手にした拳銃の弾倉を取り出すと、弾を込め直す。
「末端プログラムが、私から逃げれるわけないのよ」
 言って、瞳に剣呑な輝きを灯す玲奈。彼女は塔の中へと向かう優の背にもう一度発砲すると、少女とは思えない凄まじい速度で追跡を再開する。
 ――だが塔の入り口付近まで走ったところで、玲奈は不意に足を止めた。
 目の前には、ちょうど真ん中で断ち切られた有刺鉄線が、地面にだらしなく垂れ落ちている。
「あの子が切ったの? いえ……そんな時間はなかったはず」
 玲奈は垂れ落ちた鉄線を摘み上げ、独りごちた。
 切り口が鋭いことから、それが人の手によって成されたことは明白だが――優にそんな余裕がなかったことも間違いないはずだ。
 しばらく黙考していた玲奈は、だがすぐに思考を止めると塔へと急いだ。彼女にとっての最優先事項は優の抹殺で、そのためにはさしたる支障ではないと判断したのだ。
 ――そう、それは別に今はさしたる問題ではなかった。
 塔の正面玄関を抜け、巨大なホール状の空間に足を踏み入れる玲奈。
 中央にある吹き抜けから洩れる風が、ホール内で反響し不気味な唸りをあげている。
「あいつは!?」
 足を踏み入れた玲奈は、そのホールの中全体に素早く視線を馳せ、優の姿を探した。さっきのタイムロスを若干気にした彼女だったが、それはすぐに杞憂に終わる。
 優はちょうど中央の吹き抜けを走るエレベーターの前に、辿りついたところだったのだ。
 視界に映った優の姿に、玲奈はまた笑みを零した。彼は今明らかにエレベーターに乗り込もうとするところで、そうなれば彼女にはこの追跡劇を終わらせる策があったからだ。
 優が乗り込んで、エレベーターの扉が閉まるまでの僅かの時間――
 さすがにその僅かの時間に玲奈自身がエレベーターまで辿りつくのは不可能だったが、銃弾ならそれは可能である。銃弾をエレベーター内に着弾させて、その衝撃によりエレベーターを緊急停止させる――
「これで、終わりね」
 拳銃をエレベーターに向けて構えた玲奈が、確信の呟きを洩らした。
 だが、視界に映る優は、エレベーターのボタンに手をかけようとしたところで手を止めると、きびすを返し螺旋階段の方に駆け出していく。
「なぜ!?」
 叫んだ玲奈だったが、理由はすぐに分かった。
 エレベーターの階数表示が、すでに三階を示している。
 ――つまり、誰かが優よりも早く先にエレベーターを動かしていたのだ。彼は乗らなかったのではなく、乗れなかった、というわけである。
 大きく舌打ちした玲奈は、拳銃の狙いを螺旋階段の方に変え発砲したが、それは優の足元にある階段の床を虚しく抉っただけだった。
 玲奈の追跡は続く。


 優の足元で着弾した銃弾は、螺旋階段の床の一部に鋭い銃痕を刻んでいた。熱で溶けた床の表面から細い煙が昇り、硝煙の焦げ臭い匂いが彼の鼻腔を刺激する。
 ――死の恐怖が、またも一気に加速した。
 一瞬立ち止まってしまった優は、限界をとっくに超えた足に渇を入れ直し、さらに階段を駆け上がっていく。螺旋階段は塔の吹き抜けを巡るように上に続いていたが、まだ彼の位置からでは果ては見渡せなかった。
「麗花さん……」
 走りながら、優はすでにこの世を去った少女の名を唐突に呟く。
 『ラプンツェルの塔』はアトラクションタワーとして名を馳せただけあって、階段を上る優の目には、数多くのアトラクション施設が次々と飛び込んできていた。
 室内コースター、観覧車、ミラーハウス――
「――麗花さんは、あの日、僕に何を託していたんだろう?」
 それらを見据えながら、優は公園でキスを交わした日のことを思い返していた。
 麗花が一人思い悩んでいたのは間違いなく、それは優には計り知れないものであったが、彼女が彼に身を任せたあの瞬間――言葉にはしなかったが、彼女は何かを託したのだ。そしてそれだけは、優はなぜか確信を持っていた。
「でも、何を?」
 時折轟く銃声を背に、優は自分の手のひらを見つめながら自問する。その手は、あの日、麗花を抱きしめた手だ。
 だが開いたり握ったりを繰り返しても、答えはでなかった。
 尋ねようにも、麗花はこの世にはもういない――
 感傷が優の心を蝕み、彼は締め付けられるような息苦しさを感じていた。自分で思っていた以上の麗花の存在が、過ぎ去った時の彼方から彼の心を苦しめる。
「僕は、彼女のことが――」
 そこまで呟いた瞬間、目の前の床に数発の弾が続けて着弾した。同時に立ち昇る硝煙に目を細め、優は慌てて弾が放たれた方を振り返る。
 優のいる階段の一段下の向かい側。
 玲奈の姿はそこにあった。
 お互いの視線が交錯し、一瞬の間をおいて、玲奈の手が霞む。
「うわっ!」
 次の着弾も優の目の前だった。間髪おかずに放たれる銃弾は、ことごとく彼の行く手を阻むように前方に撃ち出される。その銃弾の嵐から逃れるように、彼は階段を駆け下りていき――下から上ってくる玲奈の姿を捉えると、今度は手近のアトラクション施設の中に逃げ込んでいった。
 鏡の迷宮――ミラーハウスへと。


 玲奈は今度こそ、優を仕留めたという手応えを感じていた。
 アトラクション施設であるミラーハウスに逃げ込んだ優には、もはやその施設内という狭い空間しか逃げ場はない。
「――手間をとらせてくれたわ、ほんと」
 ため息と共に呟きを吐露し、玲奈もミラーハウスの中へ入っていく。
 内部は全面鏡張りで、入った瞬間、玲奈は無数に映し出される自分の姿に僅かに動揺した。映し出された自分が、今の自分ではなく、遠い過去の――彼女にとっては思い出したくもない幼少の頃の自分の姿だったのだ。
 両親に捨てられ、泣いてばかりいた頃の自分。
 それらが一斉に、玲奈の方を虚ろな眼差しで見上げてくる。
「やめて!!」
 無意識に玲奈は、鏡に向けて発砲していた。放たれた銃弾は、彼女の周りを取り囲む鏡を一瞬で粉々にしていくが、それでもしばらく彼女は一心に引き金を引き続けた。
「見るな、見るな、見るな……。私はお前とは違う。私は選ばれたんだ……」
 呟きは呪詛のように繰り返され、やがて弾倉が空になると玲奈はやっと発砲を止めて、拳銃を持った腕を下に下ろした。
 ひび割れた鏡には、もう過去の自分は映っていない。
 玲奈は滝のように吹き出した汗を手で拭うと、ふらついた足取りで、さらに奥へと足を踏み入れていった。鏡の迷宮は見た目とは違い単純な造りで、彼女はどんどん先へと進んでいく。
「私は『ムーンプリンス』に選ばれた。私はもう、昔の私じゃない――」
 歩きながら玲奈は、自分に言い聞かせるようにさっきからずっと同じ独白を繰り返していた。それは静寂に包まれた迷宮に反響し、彼女の心を乱れさせた過去の記憶を、暗示にかけるように鎮めていく。
 ――その玲奈の目の前を、突如一つの影が横切っていった。
 慌てて追いかける玲奈。
 影はまだこちらに気付いていないのか、距離は一瞬で縮まっていく。
「――諦めなさい。世界のバグを生かしておくわけにはいかないのよ。あなたの死は、実験に関わった時点で決まってたの。さあ、観念して……」
 落ち着きを取り戻した玲奈が、口を開きながら、影の前にゆっくりと出ていった。
 だが、その台詞は最後まで紡がれない。
 目の前にいたのは優ではなく、玲奈が実験を終わりに向かわせるために噂を吹き込んだ少年――福山純だった。
 数刻の間、お互い呆気にとられた表情でその場に硬直していたが、玲奈はまた大きく舌打ちを残すと、純とは反対の方向に駆け出していく。
 ――この時になって初めて、玲奈はなぜか塔自体が優を守っているような、嫌な予感に気付き始めていたのだった。


 『ラプンツェルの塔』の屋上へと続く最後の階段。
 すぐ後ろからは端正な顔を夜叉のように歪めた玲奈が、鈍く輝く拳銃を手に追いかけてきている。
 ――だが、そんな状況だというのに、不思議に優は冷静な自分を取り戻しつつあった。              
 頭のどこかで、自分が助かるというヴィジョンがはっきりと形作られていく、奇妙な感覚。そしてそれは、屋上への扉を開け、広がった空間の先に一人の男を見付けた時、確固たるものへと進化する。
 男に向かって駆け出す優。
 拳銃を構え、引き金に手をかける玲奈。
 同時に起こる、『ラプンツェルの塔』の崩壊の序曲。
 全ては刹那の瞬間に集約され、優は差し出した自分の手が男に握り返されるのを確かめると、それを最後に意識を暗転させた。

「きっと祖父が、優を守ってくれたのよ――」

 闇よりも、なお暗い闇の中。
 麗花の声を聞いた優は、自然と涙を流した。
 同時に――
 彼は悟る。
 自分が彼女のことを、一目見た時から好きだったことを。


「……じょうぶ?」
 声は頭上からだった。
 だが、優にはまだそれが現実の声か、夢の中の声か分からなかった。
「大丈夫?」
 もう一度かけられた声はさっきよりも少し大きく、優はゆっくりと目を開ける。彼の視界に、ぼんやりと映し出されたのは、心配そうな少女の顔。
「れい……かさん?」
「遥よ。椎橋君」
 声は少し憮然とした口調で答えた。
 明瞭となった優の視界に映ったのは、確かに麗花ではなく、同じ学校の生徒――綾野遥である。彼は慌てて身を起こすと、緩慢な動作で立ち上がった。
「ご、ごめん」
「良かった。あんまり目を覚まさないから、死んでるのかと思っちゃったよ」
 謝る優に、遥はにっこりと笑みを返して言う。
「でも、どうして綾野さんが? それにここは?」
 その笑みに僅かに頬を染めながらも、優は辺りを見回して質問した。辺りはどうやらどこかの裏通りのようで、商売女やその筋の者。それに浮浪者たちがたむろしているのが見える。
「びっくりしたんだよ? だって『ラプンツェルの塔』を見に行ったら、ビルはすでに瓦礫の山になっちゃてるしさ。その瓦礫の中で椎橋君は倒れてるし。初めは警察を呼ぼうかと思ったんだけど、そんなことになったら面倒でしょ? だからここまで私が背負ってきたの。まあ、椎橋君は軽かったから、それほど重労働でもなかったけどね! ここはセンター街の裏通りで、もう少し歩いたら表通りに出られるわ――」
 遥は一気に質問に答えると、それきり黙り込んでしまった。何かを聞きたいのだが、それを言い出せずにいる――そんな顔だ。
 その雰囲気を察して、優も黙り込む。
 しばらくの間そうやってお互いを牽制し合っていたが、不意に同時に口を開いた。
「あの、赤城さんは?」
「麗花さんは、もういないんだ――」
 ――そして、再び訪れる沈黙。
 だが今度は先に遥が口を開いた。
「椎橋君は、赤城さんと付き合ってたの?」
「付き合ってはいなかった。でも、好きだったんだ。綾野さんには悪いけどね」
 だった、と過去形になっていることには、遥は触れなかった。ただ寂しそうな笑みを浮かべて、彼女は首を振ると、少し芝居がかった口調で説くように口を開く。
「人を好きになるのは、誰かに悪いとか、誰かに悪くないとかじゃないよ」
 その台詞は、彼女自身にも言い聞かせているように聞こえた。
 二人はそれからしばらくとりとめもない会話を交わした後、新学期にまた会おうね、と約束を交わしその場を別れる。
 遥は裏路地のさらに奥へと消え――
 優は表通りへと続く道を歩き始めた。
 重い足取りの優を、遠くから聞こえてくる人々の楽しげな喧騒が、容赦なく打ちのめす。それから逃れるように、彼は不意に天を仰ぎ見ると、小さな呟きを空へと投げかけた。
「もっと早くに、僕らが出会えていたら……」
 ――それは、運命に助けられた者が、運命を呪う皮肉な呟き。
 夜空は都会の空には珍しく、無数の星々が輝いていて、ぽっかりと空いた優の心の間隙を慰めているようだった。