BYE BYE BLACKBIRD
作:アザゼル





 プロローグ(少し先の後悔)

 その暴走トラックはまるで野生動物のような雄たけびを上げて僕の目の前に突っ込んできた。それはけして止めることの叶わぬ未来。僕はこの結末を望んでいた。だが……僕は後悔する。こんな形で僕の犯した罪を終わらせるのに後悔しているんじゃない。何か知れないが大切な何かが失われることに僕は後悔しているのだ。だが、それが何かは今の僕には分からない。それが分かるのはほんの少し先にいる僕自身でしかないのだろう。
 トラックはすでに僕の鼻先にまで差し迫っている。その時僕の視界を覆ったのは……


 シーン0(奇跡の定義)

「この世で絶対なものって何だと思う?」
「えらく唐突ですね。そうだな、例えば生命における死という概念とかはやっぱり絶対なんじゃないですかね」
「ふむ。確かにそれはもっともだが……もう少し広義な点から言うと、それは結局のところ運命というようなものに他ならない」
「宇宙律、ですか? パズルのピースの欠片はそれぞれにはじめから収まる場所が決まっている……確かそんな理論でしたよね」
「そう。何もかもが起こる前から結果が出ているという奴だ。だがな、俺はずっと前からその事に疑問を持っている」
「時の神クロノス様の言葉じゃありませんね。それであの『タイム・ リセット』ですか? あのシステム、反対している者も多いようですよ。とくにディース様とかが」
「あのバカ息子か。まぁいいさ。俺はこのシステムを変えるつもりはないよ。何せどこにも救いのないような世界だ。一つくらい救われる事があったっていいだろ? それに……奇跡っていうのは俺なんかが手を下すまでもなく、起こるべくして起こるものだと俺は信じているんでな」
 男はそういうと細長いチョコレートの香りのする煙草を一度口に含んでゆっくりとふかしこんだ。どこかの寂れた居酒屋の、ただの酔っ払い達の話である。


 シーン1(死神と名乗る少女)

 大都市の繁華街、午前5時ともなると普段の騒がしい喧騒も聞こえなくなり人通りもまばらになってくる。昨日飲み過ぎたサラリーマンとか仕事帰りのホステスとかがたまに道を歩いているくらいで驚くほど静かだ。いつもはうるさいだけの街だがこの時間は何だか荘厳な雰囲気すら漂っていて僕は好きだった。ただ単に人が多いのが好きじゃないってこともあるだろうけど…… 
「ありがとーございましたー」
 店員のやる気のない声を聞きながら僕がコンビニを出たところでそいつはいきなり僕の目の前に現れた。目の前に現れた、という表現がベストだろう。何せさっきまでその空間には誰もいなかったのだから。
 その女は見るからに変な奴だった。もう11月だというのに肩の開いた薄いピンクの服を身にまとって、ファンデーションも塗っていないのに真っ白なその顔の大きな目の下には、少し前に女子高生に流行った星型のシールだかなんだかが付いている。そして何よりも変なのがその女の手に持っているものだった。大きな黒い鎌、それ意外に説明のしようがない。女はつかつかと僕に近付いて来ると、にこっと微笑んで言った。
「あなた、死ぬよ」
「はぁ?」
 いきなり訳の分からないことを宣告されて面食らっている僕をほっといて、その女はピンクの服のポケットから手帳を取り出し勝手に喋り始める。
「えっと……矢崎望20歳。11月15日午後4時52分、つまり今から107時間と42分後に死亡を予定。それまでこの私死神ライラが、あなたが運命のたがから外れないように管理させてもらうってことになってるの。よろしくね」
 一方的に女はそう言い放つと、僕の腕に抱きついてきた。女の柔らかい肌の感触が薄い服越しに伝わってくる……じゃなくて。
「ちょ、ちょっと待った。君はどうして僕の名前を知ってるの?」
「だって死神だもん」
 女は何を分かりきったことを、て顔で僕の方を見つめる。
「し、死神って……本気で言ってるの?」
「こんなおっきな鎌持ってて、他に何に見える」
「じゃあ、その鎌で僕の首を刈るの?」
 僕が手のひらで自分の首をはねる真似をすると、女はおかしそうに笑った。
「まっさかー。これは飾りよ、か・ざ・り。やっぱイメージて大切だと思うのよね、私は」
 女はそう言うと、手に持っていた黒い鎌を空に向かって放り投げた。それはくるくると空中で回転し、みるみるうちに縮んでいく。そして手に収まる程の大きさの何かに変化すると、すとんと女の手の中に落ちてきた。少し気になって覗き見ると、それは古ぼけた懐中時計みたいだった。
「さてと……自分が死ぬのが分かったのはショックかもしれないけど、事態をきちんと受け止めてさ……死ぬまでに残された時間を楽しみましょ、二人で」
「本当……なんだね。僕が死ぬっていうのは」
「残念ながら」
 女が神妙な面持ちで言うのを聞いて、正直僕は喜んだ。別に自殺願望がある訳ではない。ただ、開放されるのが素直に嬉しいのだ……過去の冷たい呪縛から。 
「……あまり悲しそうじゃないんだね。私は今回が初仕事なんだけど、そんなものなの?もっとあがいたりするもんだと思ってたんだけどな」
「本望だからね」
 不思議そうな顔で尋ねる女に、僕はさして抑揚のない声で答えた。
「本望? 死ぬことが?」
 女が聞き返す。だが僕はそれには答えずに、サラリーマンやOLで騒がしくなり始めた繁華街の通りを自分のアパートに向かって歩き始めた。女はほんの少し考え込んだ後、慌てて僕の後を追いかけて来る。
「で、でもさ。何か無いの? 死ぬ前にこれだけは食べておきたいとか、これだけはやっておきたいとかさ、そういうのは。こんな可愛い死神が一緒に楽しもって言ってんだからさ。何かあるでしょ?」
「無いね」
 またもあっさりと僕は言い放つ。女には悪いけど、本当に何も無いのだ。そりゃ、僕にもしたいことはある。でも僕がそんな風に思うこと自体が、僕には許されないのだ。
 通りに人が増える毎に人の匂いが濃くなってきて、僕はだんだんと気持ちが悪くなってきた。腕のクウォーツの時計を見ると針はもうすぐ6時を指すところで、いつもならもうアパートですることもなく眠っているころだな、とかぼんやりと考えていると、女が突然僕の目の前に回り込んで来て言った。
「分かったわ。あなたには本当にしたいことが無いのね。でも……これだけは言っとくわ。死神ライラはあなたが楽しむためなら何だってする。あなたが望めばこの身体だって好きにしていいのよ。それだけは覚えといてね」
「どうしてそこまで……」
 僕が半ば呆れながらそう言うと、女は真摯な瞳で僕を見つめながらきっぱりと言いきった。
「だって、それが死神の使命だもの」
 その女の深い漆黒の瞳に僕はなぜか既視感の様なものを感じる。だが、それが何を意味するのか、この時の僕には知る由もなかったのだった――
 

 シーン2(冷たく暗い過去)

 どうして私は死神になったんだろう――そんなことを考える暇も無く私は死神になって地上世界にいた。死者の中で志願者から選抜されるらしいから、きっとこの体を貰う前の私には何か理由があったんだろうが、今の私には分からない。今の私の役目は矢崎望の魂をきちんと予定通りの時間に天へと還すこと。上の話によると彼の魂はかなり不安定な状態で、私のような者がきちんと管理しないと予定が狂うらしい。
 それにしても・……あの矢崎望という男。彼はなぜあんなに世を捨てたような振る舞いをするのだろうか。昨日あの後彼のアパートへ一緒に帰ったのだが、彼は結局私には一度も触れないまま寝てしまった。別に彼に抱かれたいとかそういう感情はもちろん人間じゃない私にはないのだが――確かに彼は端整な顔立ちをしていたし、華奢で細身の体は私の好みではあったが、それはここでは関係ない――その後も楽しませようとする私の誘いを彼はことごとく拒否した。何が彼をそうさせているのか私は考えを巡らせていたが、当の本人が何も言ってくれないので私にはまるで見当もつかない。
「考えごとかい? ライラちゃん」
 突然上から声がして私はびくっとして声の方に顔を向けた。そこには矢崎望の働くキャッチバーの店長である横田隆二の姿があった。不精ひげで髪もだらしなく伸ばしていたが、綺麗な顔立ちをしていて、そのミスマッチが独特の雰囲気をかもし出している人だった。矢崎望に付いてバイト先まで来たのだが何もすることがない私に、客がいっぱいになるまでカウンターで座っていていいよ、と勧めてくれたのが彼だった。まだ早い時間なので客は一人もいない。
「ちょっちね」
 私が苦笑いしながらそう言うと、横田さんは軽く微笑んだ。そして胸ポケットからJOKERと銘打たれた煙草を取り出し慣れた手つきで紙マッチで火をつけると私に「何か飲むかい?」と優しく尋ねる。
「じゃぁ、ミルクをお願いします。ありますか?」
「もちろん。アイスとホットどっちがいい?」
「ホットで」
 白いカップに入った熱々のホットミルクが私の前に出される。私はそれをちょびっと舐めるように口に含んだ。独特のとろっとした感触が喉を通過し終えるのを待って私は横田さんに尋ねる。
「あの……矢崎君のことなんですけど……」
「何だい? 僕に分かることで良ければ答えてあげるよ。幸い彼は今買い出しに行っていないからね」
 横田さんはそう言って片目をぱちんとつむってみせた。気取ったところのないその仕草はとても自然な感じでかっこいい。
「……その、彼って昔からあんな感じなんですか?」
「あんな感じとは?」
「なんて言うか、まるで世捨て人みたいな感じで。生きることに興味が無い、みたいな」
 私がそう言うと、横田さんはチョコレートの匂いのするその煙草を一度ふかしこんでからカウンターの上の灰皿でもみ消した。そして一息つくと私のほうに向き直り、少し厳かな感じで口を開く。
「それに答える前に一つ聞いておきたいことがある。君が矢崎君がどうしてあんな風なのか知りたいのは彼が心配だからかい? それとも興味本位でなのかな?」
 横田さんに聞かれて、私は少し考え込んだ後答えた。
「……半々、ですね。彼が心配ってのもありますけど、それが好奇心かって聞かれたら否定は出来ません」
「ははは。ライラちゃんは正直だね。いいよ、彼が何であんな風になったのか話してあげよう。でも少し長くなるよ。それにとても悲しい話だ。時間はあるかな?」
「ええ。どうせ私はずっと暇ですから。矢崎君は相手にしてくれないし」
 私が半分ぼやくように言うと、横田さんはまた軽く微笑んだ。


 横田隆二の話「矢崎望の過去」

 そうだな、どこから話せばいいかな。彼、矢崎望君はあまり家庭に恵まれない子でね。まぁよくある話だけど彼の両親は彼が14歳の頃離婚したんだ。どっちも愛人を何年も前からつくっていたし、お互い仕事を持っていたんでそういうことで揉めたりはしなかったみたいだけど、彼はどちらの親からもお荷物扱いされて結局母方の叔母に預けられることになった。でもね、その叔母もあまり矢崎君は歓迎しなかったみたいなんだ。で、彼は高校を中退してその家を出た。多分耐えられなかったんだろうね。その叔母の家にも子供はいたみたいだからさ。分かるだろ? どんなに頑張っても所詮は他人。血はつながっているかもしれないけどそんなことは関係ない。同じ家族の一員になるなんて不可能だ。ふりは出来るかもしれないけどね。でも、そんな器用なことが出来る子じゃなかったんだな、彼は。それで彼は家を出て、ある居酒屋で住み込みで働き始めた。生きていくには、それだけのお金が必要だからね。そこは小さな居酒屋で店長夫妻とその娘、それに矢崎君。それだけで十分経営が成り立つような所だった。店長もその妻も矢崎君の身の上を知っていたから彼を本当の息子のように可愛がってくれて、彼もそれに応えるために一生懸命働いた。そのうちに彼は、その居酒屋の娘と恋仲の関係になっていったんだ。もちろん、店長夫妻公認でね。しばらくは幸せな日々が続いた。でもね、幸せっていうのは往々にして長くは続かないものなんだ。ある日彼がお金を貯めて買ったバイクで彼女とツーリングに出かけた時にその悲劇は起こった。山道の曲がり角、原因はブレーキホースの整備不良。ガードレールに突っ込んでそのまま5メートル先のがけ下に転落。彼は奇跡的に助かったけど、彼女は即死だったらしい。そしてその後が大変だった。彼女の両親、つまりその居酒屋の店長夫妻はまるで人が変わったように彼を責めたんだ。まぁ、大事な一人娘が死んで、原因が彼なんだから仕方がないといえば仕方がないんだけどね。法的な罰はもちろん彼は受けなかったが、当然彼はその居酒屋には居られなくなった。それ以来だね。彼があんな風になってしまったのは。彼は一生償うことの叶わぬ罪をその身に背負ってしまったんだ。その若さで……ね。


 横田さんは話し終えると、また煙草を取り出して口にくわえた。
「そんなことがあったんですか……」
 私が思わず洩らしたその呟きが、横田さんのタバコのチョコレートの香りと合わさって狭い店内の虚空に溶けていく。
「でも……矢崎君はどうしてこの店で働くようになったんですか?」
「拾ったんだよ、この街でね。コカインとかのやり過ぎで鼻と目を真っ赤にして、雨に打たれているところにちょうど通りかかったもんでさ。それ以来この店で働いてもらっている。さっきの話もその時に聞いたんだ」
 私はすっかりぬるくなったホットミルクを流し込みながらぼんやりと矢崎望のことを考えていた。彼は後4日で死んでしまう。それは誰にも止めようのない未来だ。でも、でもこのまま彼が死んでしまったら彼は一体何のために生まれて来たことになるのだろうか? 彼にとって生きるというのは苦行でしかなかったのではないのだろうか? それとも現実っていうのはやっぱりそういうものでしかないのだろうか? 横田さんはいつのまにかカウンターから消えていて、店の奥で開店の準備にかかっていた。矢崎望はまだ買い出しから帰って来ない。私は何となくやるせない気持ちになりながら、誰に言うでもなくぽつりと小さく呟いた。その言葉はやっぱり誰に聞かれることもなく、まだ薄暗い店の中に掻き消えていく。
「それじゃあ……本当に何も救われないじゃないの……」
 私の胸にぶら下げた懐中時計はちょうど6時を指したところだった。矢崎望が死ぬ運命の日まで後94時間と42分――


 シーン3(あなたの微笑みの影に)

「もー。ちょっとくらい、楽しそうにしなさいよね。こんな可愛い子が隣にいるっていうのに」
 今日は矢崎望の仕事が休みってことで、私はアパートから出ようとしない彼を無理矢理外に連れ出して、街にショッピングに来ていた。別に私は死神なんだから欲しい物なんて何も無いのだが、放っとけば一日中部屋でぼんやりとしている彼を管理するなんて退屈だし、それに彼に何か楽しい思い出を残してもらいたいという気持ちもあったからだ。
「もう帰ろうよ。僕、人が多いのって苦手なんだ」
 だが、そんな私の気持ちを彼は微塵も気にかけていない。私は半ば強引に彼の腕を引っ張るとデパートの中に連れ込んだ。そこの3階は全部ショッピングモールみたいになっている。どの店も原色にきらきらと飾られていて、私も生きている頃はこんな所でデートとかしたのかなと、ふとそんな考えが頭をよぎった。
「ここ見ていこーよ、あ……」
「どうしたの?」 
 私はそのショッピングモールの中の男性専門の洋服店の前で彼に声をかけながら、そう言えばあなたなんて他人行儀な言い方もおかしいかなと思って、言い直す。
「ここなら何か、望に似合うものがあるかもしれないからね」
 私はそう言い直してから、何だか妙にその呼び方にしっくりくるのを感じていた。私たち二人が店に入ると、金髪の女性店員がカウンターの中から覇気のない声で出迎える。
「そう言えば……こんな所に来るなんて久し振りだな」
 望が店内に飾られている冬物のコートに軽く手を触れながら、何か――たぶん昔の彼女と来た時のことなんか――を思い出しながらぽつりと呟いた。その横顔は微かに怒っているようにも見える。何に怒っているのかは分からない。あるいは自分自身に、とか。
「ねぇ、これなんか望に似合うんじゃない?」
「え……何?」
 ぼんやりとしたままの望に、私は店に入った時から目をひいていた白いダッフルコートを手渡した。それは真っ白なウールの布地に黒いボタンのついたシンプルなやつで、私は何となく望がこれを着たら似合うだろうなと思っていた物だ。
「……これが、どうかしたの?」
 望は渡されたその白いコートを手に持って、私の方を不思議そうにまじまじと見つめて言う。
「何言ってるのよ。試着よ、試着。着てみないと似合うかどうか分からないでしょ?」
「へ? 僕が着るの、これ?」
「当ったり前でしょ。他に誰が着るのよ。すいませーん、これ試着させてもらいますねー」
 私は金髪の女性店員に声をかけると、そのまま望の背中を押して試着室に押し込んだ。店員はあまりやる気のないバイトなのか、私たちの方を軽く一度見ただけですぐにさっきまで読んでいた雑誌に目を落とす。
「着替えたら言ってねー」
「はいはい。強引なんだから……」
 望は観念したのか試着室の中から私にそう言うと、ごそごそと着替え始めた。着替えるといっても上からコートを羽織るだけなのですぐに望は試着室から出てくる。
「わー。かわいいじゃない」
 試着室から出てきた望に私は正直な感想を述べた。
「……それって、ほめてるの?」
「当ったり前じゃない」
 実際その白いコートは、華奢で、幼いが端整な顔立ちの望が着るとまるで天使みたいだった。
「……まるで、天使みたいだよ」
「あはは。何なのそれ?」
 私がそう言うと、望は少しおかしそうに微笑んだ。望が笑うところを見るのは初めてで、私はその望の笑顔に思わず心臓がわし掴みにされたみたいにどきどきする。顔が熱を持って赤くなっていくのが自分でも分かった。何だろう、この気持ちは? 何だろう、この胸の痛みは?
 結局、望はそのコートを買って、私たちは店を出た。でも私はまだ望の笑顔を見た時の自分の気持ちの正体が何なのか、見当も付いていなかった…… 


 店を出た後、私たちはデパートの屋上に来ていた。そこは昔は、デパートの屋上にありがちな子供の遊ぶ小さな遊園地だったらしくて、百円で動く小さな乗り物や一周するのに3分とかからない汽車の乗り物の残骸が、長い間使われなくてほこりを被って放置されていた。誰からも忘れ去られて使われなくなったそれらは、みな一様にどこか寂しそうである。
「ねぇ、僕がこの世界から消えたら、誰が僕のことを覚えていてくれるかな?」
 望は錆びて塗装の剥げたフェンスにもたれかかりながら、私にではなく自分にでもない、誰かに囁くように言った。私はそれには答えない。メランコリーな回答しか思い浮かばなかったからだ。
「よっと……」
 だが望は、私が答えなかったことに気にした様子もなく、そのフェンスを軽く乗り越えると両手でバランスを取りながらその不安定な場所を歩き始めた。しばらく歩いたところで望は私の方を振り返ると、少しいたずらっぽい顔で今度は私に向かって言う。
「もしさ、今ここで僕が飛び降りたら……運命は変わったことになるのかな?」
「それはないわね」
 私はきっぱりと言い放った。
「どうして?」
「運命っていうのは、大まかなところであらかじめ決まっているからよ。確かに人が生きていくのは、その人のぞれぞれの意思によるものだけど、全体として見るとそれはやっぱり初めから決まっているのよ。正しいかどうかは別として、ね」
 私のその言葉に望は視線を落とすと、大きなため息を一つ吐いた。
「……正解。その通り。僕はここで自ら自分の命を絶つことは出来ないんだ」
 望はそう言うと私から背を向けて空を仰ぐ。どんな表情をしているのかは、こちらからは見えない。もしかしたら泣いているのかも……
「横田さんに聞いたと思うけど、僕には一人の彼女がいた。約束したんだ。それは彼女と付き合ってまだ間もない頃の、ベッドの中で交わしたたわいのない約束だけど、僕と彼女に残っている最後の約束。どっちが先に死んでも残された方はけして自ら命を絶たない。だから……」
「望……」
「本当にそんな約束、守ることになるとは思わなかった。でも、後少しで僕は死ぬ。それが運命なんでしょ?」
 そう、それはけして逃れることの出来ない未来。でも……でも、本当にそれでいいのだろうか? 私は考える。望はまだ空を仰いだままだ。下から吹き上げる風が、望の艶やかな黒髪を揺らした。私の胸の懐中時計の針を刻む音が、静かに規則正しく世界に鳴り響く。そして……気が付けば私は叫んでいた。
「私に……私に出来ることがあったら何でも言って! 私はこのまま、何も楽しいことがなくて望むが死んでいくのは間違っていると思う。だから、私に出来ることがあれば……!」
「やめろっ!」
 だが、私のその叫びは望の怒声に掻き消される。
「……駄目なんだよ本当に。僕には生きていることを楽しむ権利なんてないんだから」
「でも……!」
 望はそこでやっと私の方を振り返ると、虚ろな眼差しを私に向けたまま、一言一言噛み締めるように言葉を紡ぎ始めた。
「……彼女には夢があった。それを叶えるだけの力もあった。あの時僕がもう少しバイクの整備を念入りに行なっていれば、あの時僕が彼女を誘わなければ、僕なんかと付き合わなければ……今でも彼女は、その夢に向かって走っていたんだ。あの時死ななければならなかったのは、僕だったのに……」
 その言葉はまるで意志を持っているかのように、望の身体を縛っている風に見えた。多分、その彼女が死んでから、何度も何度も今の言葉を自分の中で反芻させてきたのだろう。私は、そんな痛々しい望にかけてあげる言葉も見つからず、ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
 懐中時計は、午後6時半を指し示している。運命の日まで後70時間と22分――その日まで私は彼に……何をしてあげられるだろうか? 


 シーン4(弦楽器と独白)

 僕はその日は珍しく朝早く目覚めた。僕のアパートは狭かったが日当たりだけはよく、朝の日の光が窓から差し込んで僕は目を細める。僕の隣には死神のライラが薄い布団にくるまって眠っていた。2日前に突然僕の前に現れた彼女は自分を死神と名乗り、僕に死を宣告した後そのまま僕のアパートに住みついている。普通はそんな馬鹿な話は信じないのだろうが、僕は彼女は何となく本物だと確信していた。理由は無い。僕がそう感じるだけだ。あるいはそこには僕の希望的観測も含まれているのかもしれないが……
 僕は彼女を起こさないように、そっと布団を出ると隣の部屋に移った。そして彼女がちゃんと眠っているのを確認してから扉を閉めると、押入れから古ぼけた小さなバイオリンを取り出す。それは僕が本当の両親に買ってもらった唯一の物で、何かあると僕はたまにそれを弾いて心を落ち着けていた。
 そう言えば、彼女にもよく弾いて聴かせていたっけ。彼女はピアニストになるのが夢で、僕と一緒に彼女がピアノを弾くと、音は幾重にも深くなって濃厚で綺麗なものになったものだった。僕は彼女のピアノの音が好きだった。優しくて包み込まれるようで。その流れの中でバイオリンを弾くととても気持ちがよくて、首が痛くなるまで演奏にふけった。でも、そんな彼女はもういない。彼女は僕と出会ってしまったせいでその短い生涯を閉じることになった。いくら後悔しても、どうにもならない後悔。僕は死ぬまでその罪を背負って生きていかなければならなかった。止まってしまった時の中で生きていくのは辛くて、何度も死のうと思ったけど、彼女との約束でそれは出来なかった。
 僕はそこで片目を開けて弦を押さえる位置を確認した。太陽の位置が変わったのか日の光はさっきよりは眩しくない。僕は眠っているライラのいる部屋の扉を見つめながら、またバイオリンを弾き始めた。
 昨日ライラは僕に言ってくれた。「私に出来ることがあったら、何でも言って欲しい」 と。僕だって本当は死ぬのは怖い。多分死ぬことが怖くない、なんて人間はいないと思う。でも、僕はそれ以上にこの先ずっと生きていくことの方が怖いのだ。彼女の言葉は温かくてとても真摯だけれど、僕には彼女の思いに答える資格なんて無い。僕が消え、誰の記憶にも残らず忘れ去られて、僕の思考そのものがこの世界から消えて無くなれば…… そうすれば僕が犯した罪を僕が感じることも無くなる。それはただの逃避かもしれないが、それが僕の運命なら仕方がない。
 僕は演奏を終えると、バイオリンをテーブルの上に置いた。それと同時に、扉が開いてライラが軽く拍手しながら部屋に現れる。
「上手じゃない。そんなこと出来たんだ、望」
「起きてたんだ。でも、自己流だからね。褒められるほどのものじゃないよ」
「今のはなんて曲なの?」
「I’LL REMEMBER APRIL。花咲く四月の思い出、ていう曲。コーヒー飲む? あ、ライラはミルクの方が良かったっけ?」
 僕がそう言うとライラは軽く頷いた。自分のコーヒーを入れて、ミルクを電子レンジで温めていると背中越しにライラが話しかけてくる。
「ねぇ、昨日さ。彼女には夢があったって言ってたじゃない。望には夢はないの?」
「あったよ。つまらない夢だけどね」
 温まって表面に膜の張ったミルクを慎重に電子レンジから取り出しながら、僕は言った。嘘ではない。確かに僕にも夢はあった。
「それならさ……」
「それならあなたにも生きる権利がある、なんてつまらないこと言わないでよ。それは結果論でしかないし、そう言うことじゃないのは分かってるでしょ。はい」
 何か言いかけたライラの言葉を遮って、僕は彼女の前にミルクを置く。ライラは何か言いたそうに僕の方を一度見てから、その置かれたミルクを一口口に含んだ。僕も椅子には座らずにコーヒーを一口すする。砂糖もミルクも入れていないそれは少し苦くて、まだ目覚めていない頭をほんの少しすっきりさせた。
「今日もさ、仕事休まない? 私、一度渋谷ってとこ行ってみたかったのよね」
「だめ。今日は人が少ないから、僕が休んだらボーイが横田さん一人になってしまうもの」  
「えー」
 ライラは口を尖らせると顔を僅かに傾けて、少しすねた表情をしてみせる。僕はそのライラの仕草に思わず手に持っていたカップを落としそうになった。それは僕の彼女が生前よくしていた仕草と、あまりにも酷似していたからだ。
「どうしたの?」
「え……ううん。何でもないよ」
 そう言えば、会った時から感じていたことなんだがライラはどこか昔の彼女と似ているところがあった。別に顔が似ているとか、そう言うんじゃなくて。雰囲気とかそういうのが。今までは気付かなかったんじゃない。多分僕が無意識に気付こうとしなかったんだ。そう思ってもう一度ライラの顔を見ると、僕は不思議なくらいどきどきしている自分に気付いた。この感じ、この気持ちは……僕は湧き上がってきたその思いを断ち切るように首を振った。そう……そんなことは、あってはいけない。
「ねぇ、他に何か弾けないの? 私明るい曲が聴きたいな」
「うん、じゃあ……」
 僕はそう言うとバイオリンを手に取って、昔よく弾いた曲を弾き始めた。それはあらゆる不幸をトランクに詰め込んで、それにさよならすると言う未来を歌う曲で僕も彼女も好きだった曲の一つだ。「黒い鳥よ、さようなら」
 バイオリンの旋律がアパートの部屋の中に響き渡る。僕はその中であってはならない気持ちを、揺らし続けていた――


 シーン5(タイム・リセット)

 胸の懐中時計を見つめる。時間は8時20分を少し回ったところだ。望が死ぬまで、もう20時間32分しかない。私に何が出来るだろう。私は死神である前に一人の思考を持った存在として、望のことが好きになっていた。あの時彼の笑顔を見た時から……いや、本当は初めから、一目見た時から彼に惹かれていたのかもしれない。
 私は望のいないアパートの部屋で一人考えていた。その部屋で一人でいると、昨日望が弾いてくれたあの曲が頭に蘇ってくる。彼には結局あの曲とは違い、不幸を何もかも詰め込んだ後向かう先には……死しか待っていない。どうにかして望を未来に進ませることは出来ないだろうか? 私はそう考えた後、死神失格だなと自嘲した。でもそれでも構わない。例えこの身が滅びようとも……そう思った時、私は胸の懐中時計を思わず手に取って眺めた。確かこれは死神として地上に降りる時に誰かにもらった物で、何か特別な力があったはず……


「最後にこれを君に渡しておこう」
「これは?」
「『タイム・リセット』 それには時間を1分だけ自在に操る力がある。まぁ、使うことは無いかもしれないが持っていてくれたまえ」   
「はい」
「それから注意事項を一つ。もしそのタイム・リセットを使ってしまった場合、君の魂そのものがこの世界から消滅してしまうことになる。分かっていると思うが、例え死神であろうと魂の消滅は全ての摂理の環から外れることを意味する。つまり君の魂は何も無い虚無の空間で永久にさ迷い続けることになる、ということだ。それは忘れないで欲しい」
 

 そうだ。この懐中時計はその時渡された物だ。これを使えば望を救うことが出来る。でもそうすれば私の魂は……いや、私の魂はどうでもいい。ただこのタイム・リセットは現実世界にしか効果をもたらさない。つまり結局は彼の生きようとする願いがなければ、私にはどうしようもないのだ。


「本望だからね」


 望の言葉が頭をかすめる。そう、彼にはその生きようとする思い自体が無い。むしろ死にたがっているふしすらある。そうなればこのタイム・リセットは意味が無い。彼を救うには私が……
 そこまで考えて、私は軽く苦笑すると瞳を閉じた――


 シーン6(運命の時)

 僕はその日もいつもと同じようにアパートを出ると、駅前のスーパーで横田さんに頼まれたスライスチーズとサラミを買って店に向かって歩いていた。ライラはもう運命が変わることは無いといって昼過ぎ頃にアパートから出ていってしまった。正直少し拍子抜けした気分だったが、仕方がない。それにあれ以上彼女の側にいると僕の決心も揺らいでしまいそうだったし。
 僕はふと何気なく空を見上げた。11月の空は少し灰色がかっていて、どこか冷たい感じがする。街を行く人々もどこかぼやけたように僕の瞳に映った。もしかしたら、ぼやけて見えているのは僕自身かもしれない。もう少ししたら僕と僕を取り囲む世界は終焉を迎える。だが不思議に僕の心は落ち着いていた。開放されるから? 多分違うと思う。本当のところ、もう僕は疲れてしまったのだ。色々考えて自分に制限を設けて生きていくのが。
「――――!」
 その時僕の目の前に何かが差し迫って来ていた。それはまるで野生動物が雄たけびを上げるようなうねりをあげて、僕に向かって突っ込んでくる。一台の暴走トラック。そうか……これが僕に死を運ぶ本当の死神だったてわけだ。
 僕は何もかもを諦めてその場に立ち尽くした。そしてゆっくりと目を閉じる。だが、僕に訪れるはずの衝撃は僕の目の前で起こった。僕が目を開けると視界には宙を舞うライラの姿が、まるでスローモーションを見ているかのようにゆっくりと映る。
「ライラ――――――!!!!」
 僕は無我夢中で叫ぶと地面に落ちたライラの元へ走った。そして、その腕にライラを抱く。ライラは血は全く流れていなかったが、顔面蒼白で今にも生き絶えそうな様子で、苦しそうに喘いでいた。
「ライラ! ライラしっかりして!! どうしてこんなことを……」
「……の……ぞむ。私は……大丈夫。死神だから……ね。ただ、消えるだけ。私ね、間違ってると……思ったの。今ここで望は、死んじゃいけないんだって…… だめだと思ってたけど、どうしてかな…… 私、望のこと好きになってたみたい」
 ライラはそう言いながら僕の頬にそっと手を寄せる。その手は、驚くほど……冷たい。
「ライラ……僕も……」
「消える前にもう一度……望のバイオリン、聴きたかったな……」
 ライラはそういうとすっと目を閉じた。そのままだんだんとまるで虚空に掻き消えるみたいに存在が無くなっていく。そしてライラは僕の腕の中で光の粒子となって消えていってしまった。空に昇ったライラが最後に僕に囁く。
 ――もう、後悔しないでね――と
 僕は気が付くと、空に向かって泣きながら叫んでいた。
「ライラ――――!!!!」


 ――――ハレルヤ


 僕が絶叫した瞬間、僕を包む世界が眩いばかりの光に包まれた。その光の中、僕の目の前に一人の男が現れる。逆光で顔がよく見えないその男は、僕に語りかけてきた。
「さぁ、行くんだ。もう後悔したくないんだろ? 君は、君自身が救うんだ。そうすればライラは消滅したことにはならない。さぁ、1分前の世界に……」
 男がそう言うのと、僕が光の奔流に飲まれるのはほとんど同時だった。
 全ての空間が逆流していき、僕はその瞬間の僕自身と対峙する。そう、僕は助けなければならない。もう、これ以上目の前で大事な人を失いたくないから……後悔、したくないから……


 男は細長い煙草をくわえながら、道路に落ちていた懐中時計を拾い上げた。そして微かに微笑むと、誰にともなしに小さく呟く。
「何もかもが上手くいかない世界だからこそ、何もかもが上手くいくことがあったっていいだろ。そのための奇跡、ってわけだ」
 男はそう言うと、自分の紺のスーツのポケットにその懐中時計をしまった。


 エピローグ(黒い鳥よ、さようなら)

 場末の小さなバー「紙の月」そこは最近話題の店だった。用意されているカクテルもスコッチも大した物は置いていなかったが、そこで演奏されるバイオリンは聴く者を優しい気分にしてくれるというのだ。別に凄腕であるとか、震えるような演奏というわけではないのだが、どうもその旋律を聴くと癒されるらしい。だから仕事に疲れたサラリーマンとかOL、それに業界の人とかもよく足を運んでいるようだった。
「今日は、僕の一番好きで大切な曲。BYE BYE BLACKBIRDを演奏さしてもらいます」
 店の中にいる人たちから小さな声援が起こる。青年はそれに軽く会釈すると、手に持った少し小さめのバイオリンを弾き始めた。その旋律に乗せて女性ボーカルの声が店の中に静かに響き渡る。


 心配事はもう忘れてしまった
 小さな箱にいれて 鍵をかけて
 海の底に 捨ててしまったから
 だからもうここにいる理由はないの
 陽気に笑い 歌い踊りながら
 扉を開けて ここから出て行きましょう
 さよならブラックバード
 それはとても甘い夢
 私を蝕んで 離さなかった
 どうしようもないほどに
 何度も 何度も 悔やみつづけて
 泣いた日もあった
 それは時々 本当は毎日
 ねえ歌をうたって
 私のために
 あなたを忘れるために
 あなたを忘れないために――
 そして最後に 振り返らずに出て行くの
 さよならブラックバード
 もう一度だけ
 さよなら
 さよなら……


 曲が終わると、一斉に拍手が巻き起こった。そしてそれを店の扉のところから眺めていた女性も、小さく拍手する。その女性は客に微笑みながら挨拶する青年を優しく見つめると、そっとその店を後にした。一言「大好きだったよ」と、言い残して――















あとがき

 「CLOSED・WORLD」と同じ時期、平行して書いていた短編。今読み返すとどうしようもなく文章がへなへなですが、私の中では一番印象に残っている作品です。
 もし読んでいただいて、切なさが僅かにでも伝われば……と考えて出しました。
 どうしようもなく暇な時に読んでいただければ幸いです(笑