生ぬるい夢
作:さくら





1)夢のおわり

 ああ、またあの夢の中だ。中学二年生の私は、テニスウェアのまま、自転車をこいでいる。学校の裏の坂道を上ると、野球場がある。准の試合は、もう始まってしまっただろうか。乱暴に自転車を停めて、フェンスに駆け寄る。白いユニフォームに、水色の帽子。准の投げる球は、どこまでもとんでゆく。心が、安心する速度で。試合は、二回表。相手が少しリードしている。試合に出ているのは三年生ばかりで、私は元きた道を、ゆっくりとひきかえす。一日に一回、准の姿が見られれば、それでいい。
「昨日、観に来てくれたね。」
「負けてたから、すぐ帰った。」
「俺、代打で打って、逆転したとこ、見てないの?」
 これが、最初で最後に見た准の試合。
 そういえば、准は、マラソンも速い。マラソン大会をさぼって見学している私が、冗談で「私の分まで走ってきて。」と言うと、一番にゴールして、放課後、記念のメダルを私にくれる。毎晩トレーニングをかかさない。雨の日以外の午後九時、私の家の前の道路には、規則正しい足音が響く。
 准は小柄だ。冬になれば私よりも色白だし、とにかく顔がきれいだ。見る人を吸いこみそうな大きな眼。はっきりした二重瞼。笑うと涙ぶくろがゆるく盛り上がるところと、真っ白のきれいな前歯は、見るたびにほれぼれする。鼻も高いし、厚めの唇には、ほとんど釘付けにされてしまう。他の県に試合に行けばたちまちファンクラブができるのに、全く関係ない他人事みたいに思っていて、私だけを好きでいてくれる。「かっこいいね。」なんてたまに言うと、途方にくれたように困り果てた顔をして、照れてしまう。准は、私のもの。准は、私だけの特別な男の子。

 動物の匂いがする。頭の上のゲージで、ハムスターがまわっている。
 ああそうだ。夢を見ていたんだ。遮光カーテンの陰で天気がわからない部屋の、床に敷いた一枚の布団に双子のようにねむっている私と恋人。あれっ?准は、今どこにいるんだろう。あれから私たちは、どうしたんだろう。どうして准が、ここにいないんだろう。
 寝返りをうって時計を見る。まだ一時間は眠れる。私がもぞもぞしているせいで、隣で寝ている恋人はこっちに寝返りをうつと、私に布団をしっかりかけ直し、腕にからまりついてきた。それでもすぐに、寝息がきこえてくる。寝相が悪いうえに、怖い夢ばかりみてしまう私と寝ているうちに彼にできた新しい無意識の習慣だ。
 准とは、好きだった八年の間に二回つきあって、二回目は遊ばれて捨てられた。それももう四年近く昔のことで、私は今、横で眠っているツトムと暮らしている。
 ここはツトムの部屋。野球もマラソンもできない、優しいツトムがいて、パソコンや空気清浄機や、ジーンズのポケットの中に入っている携帯電話が息を潜めている。
 もう眠れそうもない。早起きして、たまには朝食でも作ろうか。優しいツトムは、おいしいと感激して、キスして抱きしめてくれるだろう。ツトムはきっと、これから一生をかけて、私の失ったものを拾い集めてくれる。ツトムは、私にとても甘い。

 やっと頭が覚醒してきた。私は、ツトムを愛している。


 小学生の頃から准のことが好きだった。中学を卒業する時に別れたけど、時々電話をしたり町で見かけたりした。やっぱり准が好きで、逢うたびにかっこよくて、十八歳でもう一度つきあうことになったときは、夢のようだった。
 桜が終わる季節に、電話口で思わせぶりなことをさんざん言った後に、諦めようとした私に、准がこう言った。
「この世の中に、絶対なんて、ないよ。」
 誰がきいても、私の暗号のような長電話の内容は全部、愛の告白にしかきこえなかったと思う。
「当てようか。俺が好きなんだよね。そうでしょ?」
 私はうん、と返事をして、また准のものになったことを喜んだ。
 准は就職して、遠い所の寮に住んでいた。私たちは数ヶ月を電話と手紙で共有した。
 お盆休みに、准は車で私をさらった。どこにでも行ける気がした。
 夕方の田舎道を走り、たどりついたのは、あの時の野球場だった。准は、饒舌になっていた。女の口説き方や、言うと喜ばせることができるセリフを知っていた。少し違和感があったけど、野球の話になると言葉がキラキラして、やっぱり人の本質はそう簡単に変わらないんだと思った。
「つまんない?」
 准がきいた。私は、基本的に話題を持っていなくて、自然に聞き役になることが多い。昔の二人なら、きっと沈黙になっていただろう。ううん、と首を振ろうとした時、准の唇が私に触れた。
「暇そうだったから。」
 准が笑った。こんなに長い間好きだったのに、准との初めてのキスだった。何度も空想の中で重ねた唇が、現実の感触になった。硬くてがっかりした。
 ファーストキスよりも大切な気がした。その日は、何も喋れなくなって、もう一度短いキスをして家に帰った。
 そういうデートを数回繰り返したある日、野球場が真っ暗になるまで駐車場にいた。エアコンがかなりきいていて、私は腕をさすった。
「寒い?」
「うん。」
「言ってよー。」
 准は、エアコンのスイッチを切らなかった。「言ってよー。」が、甘い声だった。次にどうなるかは、わかっていた。夏なのに、車の窓がくもっていた。昔やった理科の実験を思い出した。食塩を入れた氷水。試験管。温度計。先生の声。薬品の匂い。隣の机で実験している准に神経を集中させていたのは、中学生の私。今この車内の温度と湿度をおかしくしているのは、私の心と体だ。
 私が処女を捨てた日から、准は電話に出なくなった。一度だけつながって、会いたいと言ったら、車がないと言われた。
 終わったんだ。あの時と同じ距離を、もう准は走ってきてはくれない。
 夏と一緒に恋が終わった。准の夢をたくさんみた。幼くてつたない、昔の思い出ばかりがよみがえった。
 小学六年の春、家族でお花見をした。近所の神社は、薄いピンクに埋め尽くされて霞んでいた。まだ宴会には早い時間で、花見客はほとんどいなかった。おびただしい花びらにかこまれているのに、こんなに静かな空間。桜は、その生命を主張しない。人間のようなエゴイズムの塊が、どんなに心をつくしても、あれほどほのかに染まることはできないだろう。
 あの時、あの空間に、奇跡のように見つけてしまったのだ。夕暮れの中を、私たちと似たような家族連れが歩いていた。遠くからでも間違うはずがない。准の家族だった。
 その時から、私の一番好きな花は、桜になった。


2)夜明けまで

 その年の11月に、ツトムと知り合った。ツトムも振られたばかりで、心に傷を持つ者同士すぐになかよくなった。とても寒い日で、私はコートのポケットに手を入れていた。
「寒い?はい。」
 ツトムが立ち止まり、左手をさしだした。黙って右手をからませた。この人は、どうしてこういうことを簡単にしてしまえるのだろう。准とは、一度も手をつながなかった。
「なんだ。あったかいじゃん。」
 ツトムの手はちょうどいい大きさで、気持ちよく収まる感じがした。二人でだらだら歩いて、ラーメンを食べてカラオケに行った。個室に入って、ツトムの顔をよく見た。6つ年上。大人の顔。ほどよく色が抜けたふわふわの髪の毛は一目で気に入った。彫りの深い顔立ちは、西洋の血が混じっているようにも見えた。きちんと声変わりがおわっているセクシーな声と、濃くはないけど毎日剃っているようなヒゲそりあとと、ブランドものの財布が大人だと思った。私の周りにはいなかったタイプだ。こんな友達を持つのも悪くないと思った。
 少しいいな、と思ったけど、恋じゃなかった。ツトムは、私の手に恋をしてしまった。やわらかくて、あたたかいものが恋しかったのだ。
「チルちゃん、もしよかったら、俺とつきあわない?」
 かなり驚いたけど、すぐに「いいよ。」と答えた。なんとなく、よかったから。ツトムは初めて会った時から、優しさと几帳面さをにじませていた。
「はぁー、緊張した。」
 そう言って、顔を近づけてきた。反射的によけようと首を後ろに引いたけど、ツトムの唇はためらいなく重なった。嘘つきだ。緊張なんて、大嘘だ。だけど、どうでもよかった。ツトムの唇は私のためにあるようにぴったりだったし、やわらかかった。
 私たちは、時間がくるまで大人のキスをした。カラオケボックスを出て、それぞれの家に帰った。
 次に会う約束は「また会おうね。」だけだった。連絡が来なくても、まだ悲しんだり傷ついたりしない関係だった。

 12月になってすぐに、ツトムが会いに来てくれた。毎日メールはしていたけど、この前会った時は、ほとんどずっと眼を閉じていたから、駅で待っている間に、顔がわからなくて、見つけられなかったらどうしようと不安だった。ツトムは改札を出ると、まっすぐに私の元へ吸い寄せられてきた。
 テレビを見て、順番にお風呂に入って、狭いシングルベッドに横になった。ツトムは、とても丁寧だった。准に捨てられた私は、自暴自棄になっていて、どうでもいいと思っていたのに、壊れ物をそっと守るようにされると、今ここに二人でいることがたまらなく愛しく感じられた。
 私は、初めて眠れない夜を明かした。ツトムの寝顔はきれいだった。右の目じりの延長線上に、小さなホクロが三つ並んでいるのを見つけた。私だけの小さな秘密にしようと思って、青い光が部屋にさしこんでくるまで、ずっと見ていた。
 翌朝、私たちはチョコレートをかじった。ツトムはお昼前に帰った。ちゃんと次に会う約束を置いていってくれた。


3)破壊者・1

 年末になると、私たちは毎日会うようになって、私はほとんど毎晩ツトムの部屋で眠るようになった。新婚のまねごとみたいな二人の時間をぶちこわされるまでの私たちは、幸せで孤独な膜につつまれているように、ぴったりとよりそっていた。

 けたたましくチャイムが鳴った。ツトムはシャワーを浴びていた。私がドアをあけると、薄汚い男がずかずかと入ってきた。
「あ、ツトムの彼女?びっくりした。」
 怖いと思った。汚い金髪を真ん中から分けて、左耳に一つだけピアスをつけていた。黒い服に、安っぽいジーンズ。眉毛は無い。眼はよどんでいるくせに狐のように鋭くて、口はだらしなく赤かった。ツトムはタバコが嫌いで、部屋には禁煙のステッカーまで貼ってあるのに、男はタバコに火をつけた。噛んでボロボロになっている爪を見て、吐きそうになった。
「あ、来てたの。」
 そう言って、ツトムはプラスチックのひきだしから灰皿を出した。私は軽い衝撃を受けた。洗いたての髪の毛に、においがついちゃうよ?壁が汚れちゃうよ?
 恐ろしさと緊張で、私は押し黙っていた。ツトムは男のことを「石川くん。高校の同級生なんだ。」と、紹介した。ツトムは石川のためにカップラーメンのお湯を沸かしたり、毛布を出したり、言われるままに動いた。その夜、六畳一間のアパートには石川のいびきと寝言が響き、彼が使った毛布には、茶色いよだれのしみが付いた。

 ツトムの口から石川の名前を聞かない日がなくなった。「ここは石川君の行きつけの店。ここは石川君と行った場所。石川君がこう言った。あんなことをした。」
 石川はギャンブルで生活をしていた。いつも携帯を気にしていた。大勢の友達がいることをしきりにアピールしたがった。女をだますことを生き甲斐にしていた。ツトムは、そんな彼を「ワイルドでかっこいい」と言った。ひっそり真面目に生きてきたツトムには、奔放な石川がうらやましかったんだ。ツトムには何もないから、悪に依存する。同い年なのに上下関係があって、こびへつらっているように見えた。必死にしがみついている、弱いツトム。私の中に、小さな不安が芽を出した。恐怖や失望を餌にして、芽はどんどんふくらんで、私をすっかり取り込んでしまうまでの時間は、あっという間だった。この人は危ない。ツトムが危ない。怖い。

 ツトムが、石川たちとスキーに行くと言いだした。私は久しぶりに自分のアパートに帰った。夜に一度だけ電話がかかってきただけで、あとはメール一通も来なかった。長電話や頻繁なメールのやりとりは好きじゃないけど、この日は特別だった。とにかく情報がほしかった。山の中で電波が悪いなんて、本当なのだろうか。音信不通の恐怖と不安で、寒い部屋の中で一晩中泣いていた。明日の夜には帰って来る。そんなかすかな未来も想像できなくなっていた。冷たい雨の夜だった。
 布団にしがみついて、一体どれだけの時間携帯を握り締めていただろう。待ちわびた着信は、残酷な現実を突きつけただけだった。
「石川君が急に風俗に行きたいって言いだして、みんな店に入っちゃったんだけど、俺今コンビニであと40分時間潰さなくちゃいけないんだ。俺が外で待ってるって言ったら、ノリ悪いって、しらけさせちゃったよ。その後ラーメン屋に行くし、帰りかなり遅くなるけど、今日どうする?」
 昨日の電話からもう30時間は経っていた。体全体が心臓になった。
「終電でそっちに行って、駅前のコンビニで待ってる。」
 電話を切って、急いで仕度をした。雨が止まない。とにかく寒い。気温のせいなのか、恐怖のせいなのか解らない震えが止まらなかった。電車は遅々として進まない。コンビニに着いて雑誌をめくっても何も見ていない。時間が亀になってしまった。とにかく待つしかなかった。あの時、どうしてツトムから逃げようと思わなかったのだろう。面倒な恋愛は、もうしたくなかったのに。一秒でも早く帰ってきてほしかった。

 午前二時を過ぎたころ、ツトムから着信があった。コンビニを飛び出した。一台の車がハザードランプを点滅させている。ツトムが降りてきた。
「チル、アリさんとヒロに挨拶して。」
 感電したような頭のアリと、小柄でつぶれたトマトみたいな顔のヒロが、だらしない薄笑いを浮かべてのっそりと車から出てきた。
「どうもー、こんばんわぁ。遅くまでツトム借りちゃってごめんね。」
 私は黙って立ち尽くしていた。ツトムがお礼を言って、アリのおろした荷物を受け取った。二人が車に乗り込むと、助手席の窓が開いて、石川が手を振った。吸いかけのタバコを路上に投げ捨てたのと同時に、発進した。アリは短くクラクションを鳴らし、後部座席の窓から顔を出したヒロが笑いながら手を振っていた。雨でぬれたアスファルトは、貼りついた重たいタイヤを無理やりはがすような粘着質な音をたてた。車が見えなくなると、ツトムはアリにメールを打った。
「今日はありがとうございました。チルが黙っていてすみません。緊張していたようです。」
 声に出しながら打っていた。緊張なんかじゃない。あの人たちには、それぞれ待つ人がいるのに、あんなふうに笑って隠し事をするのかと思ったら、挨拶なんかしたくなかった。
 ツトムは、どうしてこんな人たちといて平気なんだろう。

 ベッドに入って電気を消しても眠くなかった。
「ツトムも行ったことある?」
「あるよ。」
「今はもう行かないの?」
「行かないよ。」
 涙が出たけど、ツトムが疲れて眠そうだったから、気付かれないように布団にもぐった。どうしてなのか分からない涙だった。かわいそうだと思った。もっと早く生まれて、もっと前に出会ってつきあいたかった。ツトムを守らなくちゃいけない。足りない心を埋めるのはツトム自身だけど、いろんなことに気付かせて、あらゆる外敵から守ってあげられるのは、私しかいないと思った。


4)ぷっちゃり

 日曜日の夕方、ツトムと近くの河原に行った。コンクリートの土手に座って、枯れた草とその先にある濁った川を見ていた。
「子供の頃、よく自転車で遊びに来たんだよ。」
 私は黙ってきいていた。ツトムはいつもよりよくしゃべった。家族のこと、初恋のこと、そして私たちの出会いのこと。
「チルの手をにぎったとき、運命だと思ったんだ。なんか、あったかくて、ぷちゃっとしてて。」
「ぽっちゃりじゃなく?」
「うん。ぷっちゃり。キスしたら、唇もぷちゃっとしてて、絶対この子だと思った。」
 絶対という言葉に、敏感に反応した。去年の桜が散る時期に、私を恋から抜け出せなくした准の声を思い出した。
「絶対は、ないよ。」
「へっ?」
「……この世の中に、絶対はないよ。」
 ツトムは気にする様子もなく、また楽しそうに話したり、はなうたをうたったりした。二人でいる時のツトムがたまらなく愛しいと思った。
「寒くない?大丈夫?」
「帰ろっか。」
 私たちは、手をつないでツトムのアパートに向かった。
「新しいパソコンほしいなぁ。」
「買えばいいじゃない。ツトムいっぱい貯金あるんだし。」
「キミとの結婚資金なの。節約してるんだからね。」
 冗談でも本気でもない、軽い幸福に浸った。

 毎週水曜日は寝不足で吐き気がした。
「私、火曜日は自分のアパートに帰ることにするよ。やっぱり、あのいびきを一晩中聞いてちゃ眠れないもん。」
 火曜日の夜は、石川が必ず来た。臭い煙を吐き散らかして、食べ物をこぼして、散々ツトムをこきつかって、耳障りないびきをかいて熟睡して、翌朝パチンコに出かけるのだ。
 女の子がいる部屋に遠慮なく居座る神経も理解できなかったけど、私は石川がコンタクトレンズをはずしたり、歯を磨いたりしているところを一度も見たことがなかった。
 ツトムが用意する石川用の毛布には、茶色いよだれのしみがたくさんついた。
「チル、今のとこ引き払ってここに住むっていってたじゃん。」
「どうしてあの人が毎週泊まんの?ツトムはおかしいと思わないの?」
「チルだって泊まってるじゃない。」
「とにかく、火曜日の夜は帰る。」

 火曜日の夜は、メールが来なくなった。


5)恐怖症

 アリが死んだ。ツトムからのメールで知った。やくざに爪を剥がされて、ショック死したらしい。
 アリは、昼間はチラシ配りのバイトをして、夜は雇われ運転手をしていたらしい。ツトムは詳しいことを教えてくれなかったけど、アリは石川たちの行きつけのクラブの偉い人を送迎していたらしい。アリは何らかのトラブルを起こして、顔がわからなくなるまで殴られて、一枚ずつ爪をはがされて、気を失ったまま地獄に落ちた。葬式には彼女だという女が二人来て、つかみ合いのけんかをしたらしい。年老いたアリの母親と、お腹の大きい女性が、その光景を見ながら寄り添って泣いていたらしい。
 大げさな事件になることもなく、日々は冷酷にアリを置き去りにしていった。
 しばらくたったある晩、フラッと石川がツトムのアパートに来た。私は席を外すタイミングを逃して、部屋の隅で雑誌を読むふりをしていた。
「Aっていたじゃん。あいつ、アリさんのことでつかまっちったらしいぜ。」
「あの大柄で金髪ボーズだった人?」
「そうそうそう。あいつ組の下っぱみたいなこと言ってて。ぜってーあいつやってないのは確実だけど、やっぱ上にはさからえねーみたいで。なんか捕まってムショ入ったみてー。」
 そう言うと、石川は携帯電話で三人に立て続けに今と同じ内容を話し、二人にメールを送った。
 ツトムも含めて、数人がそのクラブに最近まで出入りしていたことがわかった。
「ツトム、俺らは大丈夫だと思うけど、やっぱこれは捨てとこうぜ。」
 石川がテーブルの引き出しを開けた。ビニールの小さい袋に、乾燥した茶色いものが入っていた。
「それ、何?」
 私がきくと、石川が自慢げに答えた。
「あ、チルちゃんまだやってないの?これ食うとー、なんか机の上のこーゆーコップとか菓子とかが街に見えて。ツトムなんか、ずっと笑ってて、戻るとき泣いてたんだぜ。マヨネーズ付けて。おーツトム、これもったいねーから夜チルちゃんとくっちったら?」
「買ったの?」
「渋谷とか行けば普通に売ってっけど、これはAにもらった。」
 石川の携帯がけたたましく鳴った。
「おう、Aっていたじゃん。あいつ、つかまっちったらしいぜ。……うん、うん。んじゃ、今から行くわ。」
 さっきと同じ話を繰り返しながら、石川は私たちに短く手を振って出て行った。立ち上がった時に撒き散らかしたタバコの灰が床に落ちた。急に部屋がしんとした。
 袋の中身は干からびたキノコだった。黄色い粉が袋に付着していた。いつか夕方のニュースで見たような気がした。幻覚作用があるキノコ。やめられなくなる人もいるし、暴力的になって突然暴れだすこともある。麻薬と成分は同じだけど、観賞用キノコという薄汚い言い訳を使えば規制されないこともある。
「ツトム、それ捨てよう。」
「でも石川君が……」
「いいから、捨てよう。」
 私の顔からは、表情が消えていたと思う。ツトムは、黙って小さな袋をゴミ箱に捨てた。

 その夜は一睡もできなかった。頭痛がひどかった。起きるのが辛そうな私に、ツトムは優しかった。
「俺は仕事行くけど、いつまでも寝てていいからね。起きたらこれ食べて。鎮痛剤と水置いとくけど、胃が悪くなるから、物を食べてからだよ。なんかあったらメールしてね。」
 ツトムのいないツトムの部屋で、私だけが浮いていた。ハムスターが我が物顔でガラガラ回っている。眠れそうもないし、食欲もなかった。テーブルの上にはさっきツトムが用意していってくれたものが並んでいた。テーブルの引き出しに目がとまった。昨日の袋は、他のゴミと一緒に処理場で燃やされるんだろう。
 私は今まで人の持ち物に興味を持ったことはなかった。その日はなんとなく引き出しが気になった。ツトムは夜まで帰って来ない。私は冷たい床におりて、テーブルに近づいた。銀色の取っ手を手前に引いた。
 中には黒い手帳が入っていた。几帳面なツトムの筆跡で、女の子の名前がびっしり記されていた。年齢や住んでいる場所、携帯の番号、夜遊びができるかなどが書かれていて、丁寧に整理番号まで書かれていた。女の子の名前は234人分あった。ページの最後に合コンの極意というメモと、石川を含むメンバーの名前を見つけた。合コンの日付けは火曜日。机の奥からは、カラオケのスタンプカードやクラブのドリンクチケットも出てきた。最後に、黄色いカードを手に取った。
「新しいパソコン見つかるといいね。また来てね。  リナ」
 風俗のカードだった。ツトムは、結婚資金を貯めるために節約していると言った。甘い未来に酔いしれた罰があたったんだろうか。
「うそつきーーーー」
 六畳一間に、私の奇声が広がった。頭が脈を打っていて、締めつけられたように痛かった。手が冷たく強張って、言うことをきかない。
 持てるだけの荷物を持って、部屋を出た。やっぱりここには住めない。涙がまぶたの内側いっぱいに充満していた。電車の中では泣けない。押し込められた涙が喉の奥に詰まって痛かった。テーブルの引き出しを閉めた記憶がなかった。中身を見られたことを知ったツトムは、どうするんだろう。
 電車の中刷りには、グラビア女優の笑顔が張り付いていた。男性の購買意欲をかきたてるコピーが躍っていた。私には関係ないと思っていた世界が、急に恐ろしくなった。生傷をえぐられらほうがましだと思った。町中が私を傷つけようとしていた。テレビも雑誌も、電信柱に貼ってあるチラシさえ、見られなくなった。全ての情報が恐ろしくてたまらなかった。
 部屋にたどりついてからは、本当に声がなくなるまで泣き叫んだ。


6)破壊者・2

 その日の夜、半泣きのツトムが私のアパートに駆け込んできた。
「俺じゃない。ごめん。」
 ツトムはキュウカンチョウのように繰り返した。
「本当に、俺じゃない。ごめん。ごめん。」
 あんなに悲しそうな表情を初めて見た。悲痛だった。泣くのは私だ。それなのに、ツトムが可愛そうでしかたなかった。もし、ツトムを悲しませているものがツトム自身でなければ、私はその原因を突き止めて、加害者を惨殺しているだろう。
「私じゃ足りなかった?」
「違う。」
「私はいったい何なの!」
 一切の思考が停止して、私はツトムに殴りかかった。涙とはなみずで、顔に髪の毛がはりついた。それ以上の言葉は、狂ったサルの叫び声のような奇声にしかならなかった。
 ツトムは、じっとしていた。殴られても抵抗しなかった。強い口調で俺じゃないと言って、私の拳に抗って殴りかえしてほしかった。

 翌日から、ツトムは有給をとった。真面目に働いていたから、春までに消化しなければならない休みがあったのを、全てとった。私たちは一週間、部屋に引きこもった。私はずっと泣いていた。口がきけなくなった。夜はよりそって眠り、夢の中でも涙を流した。目の前の現実が本当なのかわからなくなっていた。悪夢の中にいる錯覚を何度も起こした。
 本当は、食料を買いに外に出たりしていたんだろう。でも私の中からは、それらの記憶が抜けている。食欲はなく、最低限の栄養を摂るために口に入れたものは、どれも味がしなかった。時々胃が空腹をおぼえても、喉が飲み下すことを拒んだ。

 ボロボロの一週間が過ぎると、ツトムは仕事に復帰した。前より頻繁にメールや電話をくれたけど、火曜日の夜はまだ石川が来ていたようで、連絡がなかった。
 私の体は、だんだん壊れていった。一日中緊張しているような腹痛と吐き気を我慢していた。夜は一睡もできなくなってから四日が過ぎた。電気を消すと動悸がして、手が震えて冷たく強張った。相変わらず食欲もなかったし、いつも耳鳴りがしていた。一度内科に行って胃腸の検査をしたかったけど、保険証をツトムのアパートに置いてきてしまった。私はツトムに電話をかけて、翌日部屋に行くことを告げた。
 久しぶりに入ったツトムの部屋は、どこも変わっていなかった。あの引き出しに目が留まった。ツトムが席を外した隙に、また開けてしまった。あの手帳とカードは、もう入っていなかった。この前は気付かなかったけど、写真とネガが入っている袋を見つけた。中には石川やアリやヒロが写っていた。会ったことはないけど、Aという人に間違いない男の写真もあった。ツトムの写真がほとんどないのは、いつも人の撮影をさせられていたからだろう。私が出会う前の写真もたくさんあった。どこかに大勢で旅行に行った時の一枚の中に、電車の座席で知らない女の子とツトムが寄り添って寝ているところを見つけた。私だけのものだったはずの無防備な寝顔が写っていた。私は、保険証と一緒に、写真とネガもカバンに入れた。
 その日から、私はツトムの持ち物が気になってしかたなくなり、押入れや携帯を盗み見ては後悔し、気に入らないものがあると、ツトムにあたったり壊したりして、暴れ狂った。

 内科医は、私に風邪薬と整腸剤を処方した。泣き叫んで枯れた喉は赤く腫れていたし、胃腸の痛みは風邪による胃腸炎だと診断された。薬を飲みきっても症状は治まらなかった。その後しばらく通院したけど、良くなる気がしなくて、行くのをやめた。
 毎日パジャマでだらだらしていた。部屋には綿ぼこりが積もった。異常に寒い日が続いて、もう春なのに桜が咲く気配もない。最後に通院してから二週間、一度も外に出ていなかった。
 いつから溜めていたのか憶えていない生ごみを捨てに行くために、久しぶりに洋服にきがえようと、クローゼットからブジャーとジーンズを出した。衣服を身に着けて、びっくりした。ブラジャーのサイズが合わなくなっていた。胸と生地の間には、拳が入るほどの隙間があいていたし、鎖骨の真下の皮膚にはくっきりとアバラが浮き出ていた。太っているのを気にしていた下半身も、私のものじゃなくなっていた。ジーンズはウエストがゆるすぎて履けなかった。お腹もお尻も脚も、脂肪と筋肉がごっそり落ちていた。なんだかおかしくなった。急に気分がハイになった直後、ものすごい殺意がふつふつとわきあがった。カバンの中身を床にぶちまけて、写真とネガをかき集めた。写っていた全員の顔を黒い油性マジックで塗りつぶし、一人ひとりに憎悪の言葉をぶつけた。カッターで顔と心臓のあたりをザクザク切り裂いた。私は自分の狂気に酔っていた。そうしなければ私という存在そのものが破滅しただろう。アルミ缶に呪いの断片を入れて、ベランダで火をつけた。青やオレンジ色の炎と共に、真っ黒い煙が異臭を放ちながら立ち昇った。
 火葬された死体は、一筋の白い煙になって空に立ち昇る。目の前の煙は不規則に広がり、私の心にしみこんだ。確実に物を見る観点や思考が曇り、それまでとは性質の違うものに変わった。私は火葬という儀式の中から生れ変わり、どんなに辛くても生きていくための、ある命題を刻んだ。間違いを犯すことはわかっていたけど、良いか悪いかという問題は関係なかった。まだ灰のあちこちが赤くくすぶっていたが、アルミ缶に蓋をして、缶ごとビニール袋に入れた。熱を帯びた棺おけは、埋葬されることはない。安らかな眠りも再生も許さない。


7)再生

 アパートでの奇声や煙の件が管理人から実家に報告された。母親が飛んできた。私は飢餓児童のように痩せて、正座したまま前に倒れたような奇妙な格好で泣いていた。もう何日物を食べていないのかも思い出せなかったし、写真を弔った日に外に出るのをやめてからは、水道水を飲んでいた。厳格で真面目な母は、私を実家に連れ戻したがったけど、栄養状態が良くなるまで、私は海の近くの保養施設に入所することになった。一ヶ月で10キロ痩せて、脱水症状と貧血になっていた。点滴でどうにか命はつないだけど、胃腸の痛みの原因がわからなかった。
 保養施設は清潔で、静かだった。温熱療法が盛んで、広くはないけどあかるくて感じのいい温泉もあった。私は、誰もいない朝風呂が好きだった。いつものように体を洗おうとした自分が鏡に映った時、激しい動悸と吐き気が襲ってきた。目の前に白い星がちらついて、視界が黒く狭くなった。体中が熱いのに冷たい汗が噴き出して、自分がどこに立っているのかもわからなくなった。しばらくタイルにへたりこんだ。息を整えて鏡を見た。私という塊が、ひどく汚いものに思えた。湯船には入らずに、皮膚が真っ赤になるまで全身を洗ったけど、目に見えない汚れが体中に付着している気がした。昼夜を問わずに発作に襲われて、その度に体や手を洗った。
「腹痛が治らないんです。何か、病気にかかっているんでしょうか?」
 保養所の医師に尋ねた。
「一度、産婦人科の検査も受けてみましょうか。」
 医師の顔は穏やかだった。翌日、私は自分が生まれた産婦人科に行った。問診の後、検査が始まった。
「下着を取ってこちらの椅子にお座りください。スカートははいたままでいいですよ。」
 看護師の指示通り、診察室の奥の緑色のカーテンの中で、私は冷たい椅子に座った。看護師が腰から下にバスタオルをかけてくれた。
「ここに足をかけてお待ちください。」
 まるでドラマみたいだ。いつか遠い将来、妊婦として座るはずだった奇妙な椅子の上の私。お腹の中は空っぽなのに。
 足をのせると、椅子は左側に回った。背もたれが倒されて、お尻の下の部分が直角に落ちた。下半身はカーテンの向こう。私は緑のカーテンごしにさっきの看護師と、私を取り上げた医師の影をぼんやり見ていた。金属が触れ合う音がした。
「痛くないからね。力を抜いて、検査始めますね。」
 冷たい器具が割り込んできた。グッという抵抗感が気持ち悪かったけど、なぜか冷静な気分だった。何本かの検査用の綿棒で粘膜を採取されると、椅子は元の位置に戻り、下着を着け診察室で血液を採った。結果は一週間後に出た。
「お腹の検査は全て陰性ですが、血液で陽性反応が出ました。菌が血液に入って抗体ができています。飲み薬を一週間服用して、来週もう一度検査をしましょう。」
 医師は詳しく説明してくれた。そして、ツトムにも検査を勧めたほうがいいと言った。
「ただ、抗体ができるまでには、時間がかかるんです。」
 医師の言葉がひっかかった。ツトムとは会えないから、手紙で報告した。ツトムはすぐに検査をして、全てが陰性だったという手紙が届いた。
 人に言ったら人格を疑われるような醜い妄想をして、ツトムにひどい手紙をたくさん書いた。ツトムはひどく傷つきながら私の怒りを受け止めるしかなかった。何度かこんなことを繰り返した後、届く手紙を見ては泣き、情緒不安定になる私に耐えられなくなった母は、ツトムとの通信を禁じた。
 産婦人科の待合室は、女の人生の縮図だと思うことがある。大きなお腹を抱えた妊婦の隣に、流産して泣いている女性と黙って見守る夫らしき男性が座っていることもある。新生児室から聞こえる泣き声に、ガラス越しに目を細める更年期障害のおばさんもいた。一つずつ積み上げた生活の中で多くの人が通過する歴史。そこにいる全員が神々しく尊いものに見えた。私はあの人たちの目に、どう映っていたんだろう。その後、私の体は一ヶ月の通院で良くなったけど、一度できた抗体は一生身体に残ることを知った。血液の中の毒は消せない烙印となって私を苦しめた。


8)自殺願望の鳥

 セキレイという鳥がいる。モノトーンのすっきりしていて小さい鳥だ。セキレイはよく住宅地の道路で見かける。車が近づくと、黒い足でなめらかに走ってぶつかる寸前に飛び立つ。
「自殺願望の鳥」という表現がぴったりくる。スリルを味わって楽しむ、破滅型の鳥だ。絶対に轢かれない自身があるんだろう。私は、道路に飛び出すことも空に飛び立つこともできない。私を動かすのはツトムだけで、それ以外の神経は鉛のように麻痺してしまった。
 相変わらず腹痛が続いていた。体に異常はない。保養所の医師の紹介で、心療内科に通うようになった。待合室はいつも混んでいた。医師は始めは熱心に話をきいてくれたけど、一進一退する私の心を面倒に思うようになっていった。腹痛の原因は、精神的なもので、毎日の緊張状態が原因だった。動悸や震えはパニック障害、他に不眠と軽い鬱。次々に私をくくる病名と薬に、なぜか安心した。母に内緒でツトムに電話したら、必死になって新しい心療科を探してくれた。

「大丈夫ですよ。治りますからね。お薬も今飲んでいるのでいいんですよ。」
 メガネをかけて、髪の毛をきっちり7:3に分けた医師は、おっとりした口調でそう言った。どんなに混んでいてもきちんと話を聞いてくれたし、ユーモアのセンスもあった。病状が良くなると、すばらしいと言って、にっこり微笑んでくれた。私はほめられた小さな子供の気持ちになった。ひどく落ち込んだ時には、とっておきのおまじないをかけてくれた。
「人生は一度しかないんです。私みたいにのらりくらり生きるのが一番楽しくて楽なんです。」
 のらりくらりは、私のおまじないになった。いつのまにか、腹痛は消えていた。頭の中で医師の言葉を反芻しながら歩く帰り道は心強く温かい気持ちになった。ふと空を見ると、「自殺願望の鳥」が道路沿いの木にとまっていた。葉っぱが濃い緑色で、赤い小さな実がなっていた。桜の木だった。そういえば、桜の時期を逃してしまっていた。来年はツトムと一緒に満開の桜を見たい。いつか、私だけのツトムになってほしいと、強く願った。
「だいぶ夏らしくなってきましたよね。海水浴は好きですか?」
 院内は冷房がきいていて寒いけど、窓の外は強い陽射しに満ちていた。医師は、水色のさっぱりしたシャツに白衣を着ていた。まだ初夏だというのに、医師はだいぶ日焼けしていた。
「私は遠泳が好きでね、小さな大会に出るんですよ。だから、来週の外来をお休みにして、ちょっと練習に行くんです。」
「私はほとんど泳げないんですけど、水に入ったり海を見たりするのは好きです。」

 夏の色は日ごとにくっきりしていく。私の精神は何とか持ちなおして、ツトムとの面会が許された。もちろん母には内緒だった。私には、必要以上に彼女に心配をかけたり悲しませる権利はない。ツトムは、笠原という友達を連れてきた。ずんぐりした体型で、短く刈り上げた髪の毛が汗にぬれていた。
「チルちゃん、こんにちは。ツトムによく話きいてたよ。」
 下がった眉毛と横に大きくのびる口が印象的だった。彼はツトムの幼なじみで、昔話をたくさんきかせてくれた。飲み物を片時も放さなかった。ペットボトルが空になると、足元に落ちている誰かが捨てたゴミもさっと拾って、販売機に向かった。いい人かもしれないと思った。細やかな神経をしている人には、好感が持てる。ツトムの口数は少なかった。私の手をずっと
 優しくにぎっていた。帰り際に、ツトムの目を盗んで、笠原にきいてみた。
「石川は好き?」
 笠原の眉毛がさっきよりも垂れ下がった。そして、真面目な顔で短く首を横に振った。
「今のツトムなら大丈夫。」
 笠原がそう言い残して、二人は帰って行った。
 翌日、笠原が一人で面会に来た。色とりどりの果物が入ったゼリーを看護師に手際良く渡す彼は、穏やかで目立たない感じの好青年でしかなかった。外は陽射しが強くて蒸し暑かったらしく、笠原のポロシャツには体を伝う汗の線がくっきりとにじんでいた。ハンドタオルでしきりに首筋をぬぐう姿を見て、中庭ではなく病室に戻ろうと決めた。
 病室に入った笠原は室内をすばやく一瞥すると、かぶっていたサンバイザーをはずした。
「どうぞ。」
 私は椅子を一脚出して、自分はベッドにあがった。ゆっくりと笠原が座った。エアコンを強めにしたのに笠原の汗はなかなか引かなかった。かなり強いアルコールのにおいがした。笠原は車で来たはずだけど、酒気を帯びていた。昨日より饒舌な当たり障りない会話の後、笠原の眉毛が下がった。
「俺、彼女がなかなかできなくて、ツトムがうらやましいよ。」
 笠原がじっと私を見た。膝の上で組んでいた両手をゆっくりほどくと、ゆっくり前に突き出した。笠原は私を凝視していたのに、一度も目を合わせなかった。視線の先と彼の両手の接点は、私の首筋だった。視界が真っ赤になった。唇が痺れた。少しずつ力のこもる笠原の手が震えだした。何か言われているのはわっかたけど、耳の中もパンパンに腫れてしまったようになって、言葉がくぐもって、よく聞き取れなかった。「女なんて、男のゴミ箱だ……」繰り返しそんな言葉をつぶやいていた。目玉が飛び出すような気がして、静かに目を細めた。
 殺されるとは思わなかった。笠原は、少し緊張した顔でサンバイザーをかぶって病室を出た。
 何日かたつと、笠原がまた一人で保養所に来た。私の首には赤黒い小さな斑点が無数に浮き出ていた。蒸し暑かったけど、私が中庭に出ようと言うと、彼は黙ってついてきた。
「睡眠薬、わけてもらえないかな。最近悩み事が多くて、本当に寝れないんだ。」
 笠原は、寂しそうな表情だった。両手で持っているコーヒーの缶は汗をかいていた。
「毎日決められた量しか薬は出ないし、やっぱり人にはあげられないよ。ごめんね。悩みだったら私もきくし、ツトムも…」
「あ、じゃあいいや。ちょっとごめんね。」
 笠原は立ち上がると、メールを打ち始めた。しばらくすると着信があった。横目で表示をみると、石川からだった。私が気付いているとは知らずに、笠原はニコニコしながら
「仕事の呼び出しだ。」
 と言って、二三歩あるき出した。大きくて耳障りな石川の声はしっかり洩れている。私は缶コーヒーを飲むふりをしながら、耳に神経を集中させた。笠原は、会話が終わると私の座っているベンチに戻ってきた。また来るね、とか早く良くなるといいね、などの別れの社交辞令をならべて、ごく自然な動作で空き缶をベンチの下に転がした。足元には吸殻が一本落ちていて、銘柄で笠原が捨てたものだとわかった。外国の茶色のタバコを吸っている人なんて、めったにいない。ああ、やっぱり。私は思った。また騙されたんだ。石川は笠原に睡眠薬を頼んでいた。さっきの電話ではっきりきこえた。育ちのいいふりを装っていた笠原のメッキは剥がれて、どす黒いシミが私の心に刻まれた。私が私でいられるために飲んでいる薬を、あの時のキノコみたいに使おうとしていたんだ。笠原の受話器からきこえた石川の言葉を消したくて、耳になにか刺してしまいたいという思いが一瞬頭に浮かんだけど、何の意味もないから思いとどまった。
「チルちゃん、狂っちったんだろ。俺、警戒されてっからさあ、笠ちゃんちょっと言ってもらってきてよ。粉にしてから吸ったダチいて、そいつすっげーおもしろくてー。俺と笠ちゃんとアリさんとヒロでやろうぜ。あーもちろんツトムは今回は抜きってことで。あいつ最近ノリわりーし、めんどくせー。」
 きっと薬を持っていけなかった笠原は無能なデブ扱いをされて、汗をかきながら醜い弁解をしただろう。そして私は、ただの気違いからやっかいな使えない気違いになった。

 雨の日、ツトムが来てくれた。私はすでに震えていて、蒸し暑いはずなのに手足が冷たくなっていた。
「もう、あの人たちといちゃだめだよ。私、ずっと我慢してたけど、石川が嫌いだよ。次に会ったら、本当に殺しちゃうかもしれないよ。」
「わかってたよ。チルが石川君を嫌いなことは。」
「ツトムは几帳面でいい人なのに、あいつがいると麻痺しちゃうんだよ。なにが正しくて、なにが間違ってるか。だいたい同い年で、どうして上下関係があるの?あんなやつのいいなりでいいの?」
「それは違うよ。石川君は俺を変えてくれたんだよ。昔のダサい俺のままだったら、チルはつきあってくれなかったよ。」
「外側を磨く前に、中身をどうにかしてよ。ツトムは優しいけど、優しいだけじゃん。弱いんだよ。空っぽで。不安じゃないの?このままでいいわけないよ。心だけでも見つけて好きになってたよ。」
 私の声は悲鳴に変わって、呼吸がうまくできなくなってきた。ツトムに抱き寄せられた。全身がひどく震えていたのに、抱きしめられるまで気がつかなかった。涙だけが温度を持っていた。ティッシュを渡されたけど、握り締めていたら、箱から新しく引き抜いて涙と鼻水を拭いてくれた。いつまでも涙はとまらなかった。目も鼻も充血して腫れているのがわかった。きっととても醜い顔をしていた。ツトムは根気よく私の顔を拭き、箱の中のティッシュがなくなると、自分のポケットからまた出してぬぐってくれた。顔やおでこや首筋に張り付く髪の毛も、その都度指で耳にかけたりはらいのけてくれた。忙しく動きながらも、左腕はずっと私を抱きとめていてくれた。冷たかった身体は、ツトムと接している部分だけが温かくなって、かすかに湿っていた。
 本当に長い時間そうしていた。泣き止みそうになってはまたこみ上げる涙。ツトムは私の中でうねる感情の波に飲み込まれないように、じっとしていた。
 私の目が、かろうじて開けていられるくらいに腫れあがった頃、やっと呼吸が落ち着き、顔を上げられた。私は小さな声で言った。
「しばらく来ないで。手紙も電話もいらないから。」
 ツトムは何とかすると言って、雨の中を帰っていった。病室を出る前に、ポケットティッシュを全部置いていってくれた。いったい何をどうするつもりなんだろうと思いながら、ツトムの後姿を見ていた。


9)デイ・ドリーム

 夏はあまり暑くなかった。これはあくまでも私の体感温度の話で、陽射しは強いしコンクリートには陽炎が立ち昇っていた。脂肪10キロ分の熱がこもらないんだから、去年と同じ暑さなら、汗もほとんどかかない。私は毎日をぼんやりと過ごした。一日という時間が果てしなく続いて、このまま今日が終わらないんじゃないかと思うほどだった。時々ふとした外からの刺激で心の中の不安が爆発してしまったけど、薬で落ち着けば、発作が起きることもなくなった。

 朝方、准の夢をみた。久しぶりだったから、夢の中だと気付くこともなかった。そこは中学校だった。まだ朝早くてしんとした教室に入った。床板が軋んだ。ホコリと石油がまざったようなにおいがした。自分の席にカバンを置いたとき、准が走って教室に入ってきた。
「窓あけろ。」
 突然言われて、私がぐずぐずしていたら、准が勢いよく窓をあけた。
「朝焼け。」
 准が、私のほうをふりかえって笑った。目の下の皮膚がかすかに盛り上がって、白い歯がのぞいた。私は准の隣に駆け寄って、窓の外を眺めた。
「もっとすごいの見る?」
 准は、一つ後ろの窓をあける。とてつもなく冷たい空気が流れ込んだ。大気は真っ白に光っていて、まばゆいかけらが降り注いでいた。
「ダイヤモンドダスト。」
 そう言ったかと思うと、今度は三番目の窓をあけた。外には満開の桜の大木があった。私の心の澱を払ってくれるように、優しくやさしく散っていた。
 ひとひら、またひとひら、音もなく散り積もる花びらを見ながら、私は言った。
「次のドアはまだあけないで。もう少し見てる。」
 隣にいる少年に違和感をおぼえた。名前、なんだっけ。この人じゃない気がした。何が引っかかっているんだろう。思い出さなくちゃ。

 目が覚めて、ツトムのことを思い出した。そうだった。私が好きなのはツトムで、一緒に桜を見たいのはもう准じゃなかった。夢の中の幸せな気分は、心にとどまった。つかの間の休息をもらったその日はすっきりと目覚め、朝日の反射する海まで散歩をした。砂や空気にも塩分はたっぷり含まれていて、しばらく歩いた私の髪の毛はベタベタになっていた。朝の海にもけっこう人がいた。地元のサーファーが海に入って練習していた。流木にこしかけて波と人をぼんやり眺めた。木綿の白いワンピースのふちに着いた砂を払って、髪の毛を気にするふりをした。別にだれも気にしないのに、どうしてかっこつけたり意識したり、そういうことを無意識でやってしまうのだろう。少し前までは、しょっちゅう携帯を取り出して着信を確かめたり時間を見たり、途中まで打ったメールを何度も消したりしていた。だれでもやってることだけど、誰のためでもない無意味な行動を繰り返して、社会から仲間はずれにされまいと必死になっているんだ。潮風にもまれた私は、なんだかそういうことがばからしく感じられて、髪の毛を風になびかせた。こっちのほうが本当は自然なんだとぼんやり考えていた。
「あのー、今日からバイトの子ですか?」
 後ろから声が降ってきて、驚いて振り向き、上を見上げた。変なTシャツにハーフパンツの男が私を見下ろしていた。
「違いますけど。」
 よそ行きの声が出た自分にうんざりした。
「ごーめんっ。今、びくってなったでしょ。」
「びっくりしました。」
 20代後半から30代のはじめぐらいだろうか。よく日に焼けていて、歯がくっきり白く見えた。かすかにタバコのにおいをまとっていた。
「俺、海のおにいさん。そこで働いてるんだけど、今日からバイトの子と待ち合わせしてたんだ。ここで。」
 彼は「ここ」と言ったとき、両手の人差し指で私の座っている流木を指した。それ以上会話がなくて、なんとなく黙ってしまうと、また後ろから人が来た。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします。」
 さわやかな青年が立っていた。私と海のおにいさんは顔を見合わせた。
「ごめん。男だった。」
 海のおにいさんが目で笑った。目の下がかすかに盛り上がった。
「夏のあいだはここで働いてるから、よかったらお店に来てください。」
 そう言いのこして軽くお辞儀をして、バイトの青年と歩いていってしまった。また会うかもしれないし、もう会わないかもしれない。名前を知らないバイトのおにいさんは、顔の造りから声まで、准によく似ていた。早朝に見た夢を思い出した。海のずっと向こうを見た。空は白っぽい青だったけど、かすかに黄色とピンクが含まれていないか、もう一度目をこらしてみた。
 早朝の浜辺に行くことが習慣になった。私は流木に腰掛けて、海のおにいさんを待った。彼はたいてい背後から声をかけてくる。その日も「お待たせ。」と言って、後ろから歩いてきた。
「おにいさんの名前、なんていうの?海のおにいさんは、呼びにくいよ。」
「俺?徳永です。」
 とくなが…。歌手みたいな名前だ。徳永さんは、名乗るときに軽く頭を下げた。今日の笑顔も准にそっくりだと思いながら、忘れないように五感を尖らせた。忘れたくないのは、彼の名前だけじゃないのかもしれなかった。
「名前、きいてもいいのかな?」
 徳永さんは、強い視線でまっすぐにものを見る人だった。体ごとこっちをむいて、穏やかだけどはっきりと発音してしゃべった。
 そんな徳永さんの声や動作の一つずつが私の心をふるわせた。
「チル。」
 私が短く答えると、徳永さんは、一瞬寂しそうな顔になった。彼に関する全てを見逃さない自身はあったけど、この時だけはそういう表情をした理由が見つけられなかった。その後は何もかもいつも通りに会話と時間を積み重ねた。
「そろそろ行かなくちゃ。」
 もうすぐ保養所の朝食の時間だった。立ち上がってスカートのしわを直した。
「チルちゃん、誰に名前つけてもらったの?」
「両親に。」
「大切にしたほうがいいぞ。」
 私たちは曖昧に微笑みを交わして、それぞれの方向に歩き出した。振り返ると、徳永さんは海の家に向かって真っ直ぐに歩いていた。


10)空の中

 夏の空に灰色の雲がたちこめて、弱い雨が降っていた。私と徳永さんは、毎日会って、いろんな話をした。いつも聞き役の私が、心の堰がきれたようにしゃべって、徳永さんがじっと聞いてくれることもあった。気分が揺れていたり落ち込んでいる日でも会うことをやめなかったし、どんな個人的で醜い妄想を話しても、徳永さんは迷惑なそぶりを決して見せなかった。ツトムのことや、その友人のこともたくさん話した。
「徳永さんも、そう思ったことある?女はゴミ箱だって。」
 私の質問に、徳永さんは丁寧にこう答えた。
「それなら、男はゴミだよな。そこらへんに撒き散らかした汚いものを、女の人は拾ってやってることになるんじゃない?ゴミ箱なんて、考えたこともなかったけど、あえて言うならそういうふうに考えるな。ただ、個人的な意見として言わせてもらえば、その男はゴミ以下。」
 優しい口調だったけど、真っ直ぐな視線はいつもより強く私の目に刺さった。
「友達を利用したり騙し合いみたいになるんだったら、縁を切っちゃったほうがいいと思う。あとはツトム君次第。彼の強さを信じてみるだけ。」
 雨に濡れないように、海の家の軒下に入った。湿った木材とビニールの匂いがした。雨の日は目も鼻も感覚が鋭くなるのはなぜだろう。私たちは、いつもの流木を眺められる位置に立って、壁に背中をつけて並んでいた。
「ツトムくんは、優しいんだね。普通、根本が悪い奴ならとっくにチルちゃん、捨てられてるよ。自分の悪い部分なんか忘れてるっていうか、悪いことしたって思ってないんだから、苦しんでるチルちゃんは、ただのワガママな女の子になっちゃうんだよな。うん。ツトムくんは、必ずいい青年に成長するよ。」
 徳永さんの言葉は、私の心にすんなりと滲みた。
「ツトム、いつもハンカチとティッシュもってるの。私、そんな男の人初めてだった。」
 ツトムの几帳面さや二人でいるときの柔らかい声を思い出した。私が獣のように暴れ狂っても、静かに傷つきながら、じっと耐えて抱きしめてくれた。
「私、やっぱりツトムじゃないとだめだ。」
 徳永さんは、真っ直ぐ海のほうを見ていた。強い眼差し。この人はどうして私のことをこんなにわかっているんだろう。なんだか横にいることに違和感を感じた。
「ごめんね。暗い話ばっかりして。」
「チルちゃん、自分の心に気を遣う必要は、ないんだよ。」
 雨はどんどん強くなっていった。私たちは、早朝の薄暗い海の家の軒下に二人きりだった。雨の音がうるさい。もっとよく聞かなくちゃいけないのに、雨音が邪魔をした。時間がすごい速さで回っているような気がした。もう会えないと、直感でわかった。
「ごめんね。」
 私の声が、ぽつんと宙に浮いて、置き去りにされた。

 翌日、海の家に徳永さんはいなかった。最初の日にいたバイトの男の人が、テーブルを拭いていた。
「すみません、徳永さん、もういらっしゃらないんですか?」
「徳永さんですか?ちょっときいたことないです。」
「バイトの初日に待ち合わせしてましたよね?」
「いや、僕は店の前に立ってた店長としか会っていませんから。」
 徳永さんは、確かにいた。実体をもっていなかっただけだ。人は、苦痛に耐えられなくなりそうになると、壊れてしまう前に別の人格を作りだすことがある。それに似たものだったのだ。だって、徳永さんはいつも私を助けてくれて、確かに存在したけど、一度も触れ合わなかったし、海の家で働いたり他の人と一緒にいるところを見たことがなかった。それに、私自身の心が、徳永さんがいたことを否定していた。私は、自分で作り出したシェルターにまで気を遣ってしまったのだ。存在価値がなくなった徳永さんは、雨と一緒に流れて、消えてしまったんだ。
 心療内科の医師に話すと、いつもと少しもかわらない穏やかなテンポでこう言った。
「今日は、とてもいい天気ですよね。こう考えてみてはどうでしょう。徳永さんは、空の中に還ったんです。あなたを守るために心の中に降ってきて、今日の空に還っていくんです。」
 徳永さんは、空に溶けた。私は彼を追い越して、前に進まなくちゃいけない。夏の空は力強くて、清々しかった。


11)訣別

 秋と冬が過ぎた。私の保養所生活も、ずいぶん長くなった。春の日差しが薄いカーテン越しに部屋の中を淡く照らしていた。春はどうしてこんなに眠いんだろう。時々准の夢を見た。ツトムの悪夢で飛び起きることもあった。私の朝の散歩はあの日以来続かなかった。まどろみが薄いピンク色になった。桜の夢だ。私の手をにぎっているのがツトムだってことはすぐにわかった。こんなにしっくりくる手を持っているのはツトムしかいない。どこまでも続く花の洪水。穏やかな夢だった。浅い眠りから覚めると、本当にツトムがいて、私の手を握っていた。
「ぷっちゃりしてない。皮しかない。」
「誰のせいよ。」
 私の手の甲の皮をひっぱっているツトム。二人の間にからまっていた憎しみの糸は切れていた。
「おねぼうさん、目が腫れてるよ。」
 ツトムの慈しむような甘い声。これが私だけのツトムだ。私は両腕を上げてツトムの首にからまって、顔を引き寄せた。ツトムの唇は温かくて柔らかかった。
「桜祭りに行きませんか?」
 ツトムが静かな口調で言った。
「俺、あの人たちとお別れしたんだ。やっぱり間違ってたし、俺に止める力はなかったから、これしか方法はなっかったんだ。それから、チルの実家にもお邪魔して、ご両親とも話してきた。君のお母さんにずいぶんひどいこといわれたけど、何度も行ったらやっとゆるしてもらえたよ。全部きれいになったら娘を迎えに行って下さい、って。こんなに遅くなっちゃったけど、チルが一番好きな季節に間に合ってよかった。」
「行こうか。」
 私は、さっきの夢の中にいるような幸福な気分になった。ツトムの顔が歪んだ。目にいっぱい涙をためていた。
「泣かないでよぉ。」
 ツトムの柔らかい髪の毛をわしわしかき混ぜて笑った。やっと終わるんだ。あとやるべきことはたった一つ。
「笠原君は何度も来てくれたから、お礼がしたいな。会えないかな。」
 ツトムは涙目のまま嬉しそうに携帯電話を掴むと部屋を出た。ツトムはまだ笠原に裏切られていることに気付いていなかった。私たちの安全な未来のためなら、嘘をつくことなんか平気だ。笠原は一時間で部屋に来た。大げさな花束を持っていた。ツトムには買い物を頼んで席を外してもらった。 笠原に、カプセルを四錠渡した。
「これ、私が飲んでた薬。そんなに強いのじゃないけど、よく眠れると思うよ。あまったやつだから、袋もなくてごめんね。消費期限昨日までなんだけど、悪くなるってことはないよね。ただ、古いと効果がなくなるって先生が言ってたの聞いたことあるから、できれば今夜飲んだほうがいいと思う。何度も来てくれてありがとね。」
 嘘が次々と滑り出した。お人よしを装っている人間は、自分が信頼されていると思っている時ほど無防備になる。騙しているのが自分だと勘違いしている笠原は、興奮してうっすら額に汗をにじませた。二錠は確実に笠原と石川が飲む。あとの二錠は、賭けだった。彼等が深い眠りにつくことを一心に祈った。
「さよなら。良い夢をね。」
 笠原と、最後の会話を交わした。


12)夢のはじまり

 目覚ましのアラームが鳴る。ツトムはまだ布団にしがみついている。
「おはよう。でかけるよ。」
 私はできたての朝食をテーブルに運んで、遮光カーテンを開ける。ツトムをむりやり起こして、朝ごはんを食べると、手をつないで外に出た。
「桜、満開かな。」
 嬉しくて声が弾んだ。電車に乗って、私の実家の最寄り駅まで行くと、父の車が待っていた。ツトムは緊張している。家で一休みした後、私たちは歩いて神社に向かう。ずっと昔に両親に連れられて行った、見事に桜にうめつくされる神社。屋台がならび、どこからか演歌や流行の曲が雑に流れてくる。
「あ、准だ。」
 准とばったり会ってしまった。捨てられて以来の再会は、かなりきまりが悪い。ツトムは礼儀正しくこう言った。
「チルがお世話になりました。体を大切に。」
 黙ってこちらを見ている准は、たしかにきれいな顔のままだったけど、服装や雰囲気は先週不幸にも「食中毒で」この世を去った気の毒な四人の若者に似ている気がした。もう未練も後悔もない。私の血液を毒で染めたのも、きっと准だろう。ツトムはそういう意味を込めて「体を…」なんていう挨拶をしたに違いない。もう准の夢を見ることもないだろう。
 准が立ち去ると、私たちは何事もなかったように桜を眺め、屋台で食べ物を買ったり、ジュースを飲んだりした。ツトムが私を疑うことはない。私は二人の将来を守るために、一生嘘をつき通す。
「チル、あのね」
 なにか言いかけたツトムを真っ直ぐに見て、私はこう言った。
「気が変わったの。やっぱり今日からちゃんとした名前で呼んで。」
「いいけど、嫌いなんじゃなかったの?」
「気がかわったんだってば。」
「そっか、わかったよ。咲季。…なんか恥ずかしい。」
 ツトムがなぜか真っ赤になった。私たちは手をつないで歩き出す。桜の季節に生まれた私は、今日新しいつぼみを心に宿した。目の前にあるのは、きっと幸せだけだ。散っても散っても、次の季節には必ず芽吹く桜に、強い生命力を感じた。