蝶子
作:玉蟲





 まあ、遠いとこからお越しくださいまして……、どうぞお座り下さい。
 いえいえ、気にせんといておくれやす。引き取って欲しい言うたんはこちらやさかい。
 ……ほんまに、ええ人形ですやろ。お顔が少し寂しそうやけど。
 ところでこの人形のこと、何か知ったはります?
 ……そう、泣く人形言うてね。確かに泣きそうな顔してはるけど、うちは人形が泣いてんのは一度も見たことないんよ。だからどうか大切に……ええ、確かに未練はあります。なんせ小さい頃から家におりましてな、なんや家族なような気ぃしますねや。
 ……蝶子を――お人形さんの名前なんやけどね――この人形を作らはった方は、うちも存知ません。人形師として高名な方の作品というわけでもなさそうやし、銘もあらしまへん。ただ白い椿の髪飾りがあったらしいて聞いてたんやけど、無くしてもうて……堪忍しとくれやす。
 ……この人形、実際におった蝶子太夫いう芸妓の姿を模した人形なんどす。芸妓、言いましたら聞こえはよろしおすけど――所謂遊女ですわ。
 色々あって今はうちの手元にありますけど、もとはと言えば蝶子はんがおった店の方のもんでしてね。……すみませんねぇ。年取ると話長なってしもて。これも何かの縁やし、婆の昔話や思うてお付き合い下さいますやろか。
 ……先に蝶子太夫言いましたけど、ほんまはそない格式の高い遊女ちゃいますねや。見世、言うて表で直に顔見せて客取らはる芸妓さんでね……

 *

 朱い格子に籠められた女たちが揺らす白い腕は、それだけで何処か艶めかしく別の生き物に見えた。
 甘く柔らかい、艶やかな女の声と、男たちの喧噪の声。ぼんやりとした橙色の灯りがその場所を幻想的に彩っていた。
 彼はそこをふらりと歩きながら視線をさまよわす。すれ違った男は慣れた者の足取りではないな、と思いながら足早に懇意にしている女の元へと向かう。
 事実、彼はこの場所――所謂花街には来たことがなかった。今日、此処へ紛れ込んだのも偶然とも言えた。人の流れに逆らうように、または逃げるように歩いていたら辿り着いたのが此処だった。
 多くの女達が客取りに精を出し、前を通る男という男に旦那さん、寄って下さいな、などと声を掛けていた。それを横目に見ながらあてもなく歩く。
 高く結った髪にいくつもの金の簪、揺れる花房。女が身動きする度、ちりちりと涼やかな音色と金の光が散る。艶やかな着物は紫や紅、桃に青と花が咲き誇るような美しさだ。着物の意匠とも相まって、目映いばかりだった。
 その笑みを浮かべる女達のなかで唯一人、客取りもせずじっと座っている女がいた。
 それどころか通りを一瞥もせず、あらぬ方向を凝視していた。
 男は不思議に思いながら、その女の前に立ってみた。特に理由は無かった。ただ、その女の横顔は喧噪の中で平然としているようで、実に淋しげに見えたのだ。
 朱の格子の中に、女が一人。打ち掛けは紺青の地に李の花群、その中を蝶が優雅に舞っていた。他の女が島田に結っている中で、一人長い黒髪を背に流していた。簪の類は一切なかったが、それでなくても女の髪は絹の如くで、緑の綾を成していた。
「お前、名前は何という?」
 男が声を掛けると、女は男を見上げた。しかし、すぐに視線を外した。
「残念やけど、うちは単なる店番ですのや。他を当たって下さいな」
 口調は丁寧だったが、素っ気ない物言いで、短気な客ならそれだけで怒り出してしまうかもしれない。しかし、男は少し笑っただけだ。
「別に買おうと思ったわけではない。何をしているのかと思っただけだ」
「此の場所で女を買わずに、何しはるん? うちの事など構いますな」
「さぁ。此処へは迷い込んできただけなのでね。でもまぁ、貴女を見かけただけでも良しとしようかな」
 笑って告げた男の言葉に、女はにこりと微笑んだ。思わず息を呑むほどの、美しい笑みだった。
「お口がお上手やね。でも、それで女が皆、喜ぶと思うてはるんやったら大きな間違いどすえ」
 その美しい顔立ちで、微笑まれるだけで大抵の男は迫力負けしてしまいそうな上に、彼女の吐いた台詞と言えば、恐ろしく皮肉に満ちていた。見世で客を取るような遊女には持ち得ない気位の高さだ。
 しかし、男はたじろぐどころか、不思議そうな顔をした。
「無理に笑う事なかろうに。芸妓というのも因果な商売だな」
「……」
 言われて、女は笑みを消した。そのような事を言われたのは初めてだった。その様子を見て、男が満足そうに笑んだ。
「お前と私は似ている。……また来る」
 男が言い捨てて、その場を去ろうとした背に、女は声を掛けた。
「蝶子」
「?」
「うちの名前」
 渋々、という風に名乗った女に、男は相好を崩した。
「覚えておこう」



 また来る、という言葉通り、男は二日と日を空けず蝶子の元へと通った。
 とは言え、普通に『通う』のとは少し違っていた。花代を払うどころか店にさえ上がらず、ただ蝶子と立ち話して帰るという、その繰り返しだ。
 男は清介、という名前を名乗ったが、本名かどうかは怪しかった。そもそもこの場所では身代を知られぬために偽名を名乗る。例え知った者がいたとしても、此処では見知らぬ振りを装うが花街の掟であり、粋なのだ。
 清介は端から見ても、育ちが良さそうな顔立ちをしていた。その口ぶりも身なりも物腰も、商売を当てて儲けた、所謂成金の匂いは全くしなかった。間違いなく由緒正しい家柄の息子か、商人だとしても何代と続いている大店の息子だろうと蝶子は推測していた。
 対して、蝶子はそういう裕福な暮らしとは無縁だった。厄介になったことは何度かあるが、あちこちを転々としていて、今はこの店に落ち着いている。裕福な暮らしを経験したわけではないが、どの様なものであるかくらいは知っている。そんな男が自分と似ている、とはどういう事だろうと首を傾げたものだ。
 話す内容と言えば、他愛のないことばかりだ。故郷の風景、好きな歌、生い立ち――普通の客相手であれば決して話さなかったであろうことまで、蝶子は話したような気がする。とは言え、蝶子は自分で言うように単なる『店番』にしか過ぎなかったので、実際に客取りをしたことは無かったのだが。
 二人は飽くことなく、朝まで様々な話をした。それでも、清介が何者なのかはよく解らなかった。良家の子息であることは間違いない。それは見た目だけでも分かる。故に、詳しい事を話せなかったのかもしれなかったが、蝶子と『似ている』というのは言葉の端々や、語る内容からも感じ取る事は出来た。
 彼も、囚われているのだ。多くのしがらみに。
 蝶子が朱の格子を抜け出すことが出来ないように、清介も何かしらの格子に籠められて出られない。
 二人が急速に距離を縮めていったのは、恋情でもなんでもなく、孤独故の連帯感を求めていたのだ。
 きっと、知らなければ気づかなかった。けれど、知ってしまった今、もう孤独を知りたくないと強く思ってしまう。
 蝶子も清介も口にはしなかったが、互いが互いに孤独を埋める為に側に寄り添っていたに過ぎない。その事に気づいて居ながらも、離れられなかった。自分の孤独を癒す為だけの存在だと思うことは、相手に失礼だと思っていながらも、手放すことが出来なかった。そんなことを考えることすら、恐かったのだ。
 まるで、薄氷を踏むような関係だった。いつ沈むとも知れない儚い絆でしかなかった。それでも良いと、蝶子は思っていた。
 今日も今日とて多くの話を交わして、別れる。次があることを願いながら。
 清介の背が小さくなって消えるまで、蝶子は見送る。振り向いてくれることを少しだけ期待していたが、それに応えてくれたことは一度もない。
「蝶子姐さん」
 憂いの濃い蝶子の顔を見て、禿の妙が声をかけてきた。禿とは遊女達の世話をする童女たちのことだ。遊女の着替えやお供などをし、それ以外の時間は稽古事に費やしている、将来店の看板となるであろう少女たちだ。蝶子は遊女の中では浮いた存在で、故に彼女の世話をする禿は居ない。だがこの妙だけは蝶子にあれこれと気を遣ってくれる。蝶子はそんな妙に笑顔を見せた。作り物の、完璧な笑みではなく、口の端を少しだけ上げた小さな笑みだ。
 妙が初めてこの笑顔を見た時は、あまり歓迎されてないと感じたものだが、今はこの笑みこそが本当の蝶子の顔なのだと心得ている。
「清介様は帰りはったんどすか?」
 舌足らずな口調で、丁寧な言葉を使う妙が可愛らしかった。
「そうよ」
「今日もお話だけですのん?」
 不思議そうに聞かれて、蝶子は苦笑した。この小さな少女には、蝶子の複雑な想いは分からないかもしれない。ともすれは、蝶子自身、自分の事が分からないくらいなのだ。
「今日もお話だけや。ずぅーっとお話だけ。それで良えの」
 言うと、妙は何か言いたげに蝶子を見たが、蝶子はこの話はもうお仕舞い、というように笑った。



「蝶子にあげよう」
 と言って、清介は懐から何かの包みを取り出した。余りに唐突で、蝶子は驚いて清介を見る。
「なんで?」
 話をするだけの関係が続いて、ふた月程経った頃の事だ。
 普通なら、通う女に飾りの一つや二つ、くれてやるのも珍しくない。だが、特殊な間柄の二人の間では、そんな事すら奇異に思えた。それと同時に、不安が過ぎった。嬉しいと感じでもおかしくないのに、どうしても思えなかった。
 問う蝶子の手に、無言で包みを握らせる。開けてみて、と催促する清介を見、包みを見、そっと中身を確認する。
 それは髪飾りだった。白い椿の意匠の螺鈿細工だ。大振りの髪飾りだが、それを手にとって映り具合を見て、清介は満足そうに笑った。
「うん。よく似合う」
「どないしはったん……? いきなり、こんなもの……」
「嬉しくない?」
「……そうやなくて」
 にこにこと笑って返してきた清介に、蝶子は否定する。確かに嬉しいのだ。この男が自分の為に何かをしてくれることは、あり得ないことだとも思っていたから尚更だ。
 だが、不意に思いついた考えは、どうして出てきたのか蝶子にはよく分からなかった。強いて言うなら女の勘、だろうか。
「もう、会わへん言うことやね」
 それこそ、唐突な言葉だったが、清介は慌てず、それどころか黙って目を伏せた。
「……蝶子」
「無理せんかてええ。分かっとった事や」
 蝶子は言った。分かっていた。誰に言われるまでもなく、蝶子は知っていた。
 この男が去ってしまうことなど、蝶子には初めから分かっていたのだ。その上で、この男には忘れて貰いたくなかった。誰しもが忘れていくなかで、この男だけでも。
「忘れないでくれ」
 清介がそう言って、蝶子はぱっと顔を上げた。
 忘れて欲しくないと思っていたのは、蝶子の方だ。その台詞がこの男の口から零れるとは思いもしなかった。
「たとえ誰しもが私の事を忘れても、蝶子だけには覚えて貰いたくて」
 それで贈り物をする気になったのだと、清介は言う。
 蝶子は呆然と髪飾りを眺め、清介を見上げる。
「……うちは忘れへんかて、清介はんは忘れはるやろ」
  蝶子はいつも独りだ。忘れられ、過去のものになる。たとえ忘れないと誓っても、それが果たされない事を知っている。知っているだけに蝶子は何も言えない。
 忘れないでと言う事は簡単だが、無理だと解りきっているのにそれを言うのは、彼女にとっては自らの首を絞めるに等しい。
 だからせめて、この絆が終わるのを『いつか』の事にしておきたくて、黙っていた。それなのに、無情にも終わりを突きつけるこの男が憎らしかった。
「こんなん……要らん」
「蝶子」
「要らんわ。持ってたかて、何にもならん」
 思い出のよすがにはなるかもしれない。けれど、辛いだけの思いを抱いていくことはもう嫌だった。幾度とない別れを経験してきた蝶子は、別れの寂しさを感じること自体が恐怖だったのだ。
 頭では逃げだと分かっている。別れの辛さがありながら人を求める、自分自身の愚かさにも腹が立つ。そのくせ、離れて欲しくなくて泣きたい。
 この気持ちをどう表したらいいのか分からなくて、だから髪飾りを突き返すしか出来なかった。
 しかし、清介は受け取らず、蝶子の手のひらの中に押しつけて、握り込ませる。その蝶子の手に、自分の手を重ねた。
 感じるはずのない、仄かな体温が伝わって、蝶子は悟る。
「最初で最後の我が儘だ。せめて、私の姿が消えるまでは持っていてくれないか」
 その後は、捨ててしまっても構わないと言外に言い切った。その切実そうな顔を直視出来ず、蝶子は目を伏せた。
「……ずるいお人や」
「そうかな?」
「……うちも一つ我が儘言うてええ?」
 自分の手に重ねられた清介の手を見ながら、ぽつりと呟いた。どうぞと促されて、口を開いた。
「いつになってもええ、うちを迎えに来て」
 叶えられるとは思ってなかった。ただ、軽く仕返しをしてみたかっただけだ。
 だが、清介は何の気負いもなくあっさり頷いた。
「約束しよう」



 ――清介の訃報を聞いたのは、翌日だった。
 この時、初めて清介の姓が坂上であること、父親は坂上徳治伯爵という立派な身代であることを知った。清介はもともとあまり壮健な質ではなかったらしい。入退院を繰り返しながらも父伯爵の跡継として、それなりに期待されていたのだが、ある時発作で意識を失い、以来病院で寝たきりの、所謂植物状態になっていた。
 その期間は凡そ二ヶ月程度。医者たちは治療に手を尽くしたものの、そのまま速やかに息を引き取ったという。
 その情報を聞いた妙は、驚いた。それは本当なのかと問い返し、特徴などを聞いてみたが、やはり妙の知る清介であるとしか言いようがなかった。寝たきりの人間が、蝶子に会えるはずもないのに、と思いながらも急いで蝶子に知らせに走った。
「……」
 いつものように見世に鎮座している蝶子の背に声を掛けようとして、出来なかった。
 蝶子が泣いていた。
 笑顔も滅多に見せないが、涙はそれ以上に見た事がなかった。妙はこの時初めて、蝶子が泣いているのを見たのだ。
 実際、蝶子自身、泣く事は嫌いだった。特に、自分を哀れんで泣くなど自らの矜持が許さなかった。それなのに涙は止まらない。
 今更ながら、清介との時間が、如何に自分の中で大きな位置を占めていたのかに気づいてしまった。きっと、気づいていなければ、身を切られるようなこんな想いをしなかったはずだ。でも、出会えてなければ、ずっと独りだったことに気づかなかったままで、人を求める切なさや甘さを知る事も無かった。別れの辛さばかりに気を取られて、相手の心に真っ直ぐに向き合えなかったことが心残りだった。
 いっそのこと、と蝶子は思う。
 いっそのこと、彼と同じ場所へ行けたら。
 不意に、清介の声が蘇る。迎えになど、来られない癖に。愚かな願いをかけた自分もそうだが、あっさりと頷いてしまうあの男も愚かだ。――故に、少しだけ笑ってしまった。ほんの僅か、期待を抱いてしまった。あのような別れなら悪くないかもしれない。
 妙は静かに涙を流す蝶子の姿を、息を詰めて見守った。
 元々たおやかで、儚げな印象の強い女性だったが、今はもう消えて無くなってしまいそうなほどだった。救いを差し伸べたいのだが、どうしても一歩を踏み出せなかった。踏み込んだ途端、本物の蝶のように、何処かへ行ってしまうような気がしたのだ。
 すると、後ろから声を掛けられた。
「妙、何してんの?」
 振り返るとそこには、この店を切り盛りする女主人が立っていて、妙は慌てて礼を取る。
「えっと、今蝶子姐さんにお話しよう思うて……」
 妙がそう言うと、女主人は不審そうに眉を顰めた。首を傾げて部屋の奥を覗き、あらと声を上げた。
「これ、無くした思うとった人形やないの」
「えっ?」
 人形なんかありません、と言おうとして妙が視線を戻すと、そこに蝶子の姿はなく、一体の人形が転がっていた。
 長い黒髪を流した、青い着物の人形だ。妙が呆気にとられていると、女主人はその人形を拾い上げる。
「どこいったかと思うてたんよ。妙、あんた隠しとったんちゃうやろね?」
 妙は慌てて否定する。女主人は全く、と呟いて人形に傷がないかを検分し、それから少し顔を顰めた。
「嫌やわ、この人形……泣いてる」
 女の言葉通り、その人形には一筋、涙のようなものが光っていて、妙は確信した。
 この人形こそが、蝶子なのだと。今まで人だと思っていたあの芸妓は、幻だったのだと。
 ――妙はその後成長し、太夫として名を馳せた。
 二十歳を迎えてしばらくしてから身請けの話が持ち上がった時に、着物や装飾品は置いても構わない、代わりにあの人形を貰い受けたいといって蝶子を引き取った。涙を流す人形など、気味が悪いと思われていたのだろう、あっさりと承諾を得た。
 無論、蝶子は知らなかっただろうが、妙はあの時こっそりと清介との会話の一部始終を聞いていた。迎えが来たら必ず引き渡してあげようと思ったのだ。無論、人ならざるもの同士の約束であって、妙自身があれこれと手を尽くしてはやれないが、人形の手入れや場所くらいなら確保できようし、妙の知らぬ所で迎えが来た時には、気にせず出て行っても構わないという気持ちで接していた。
 蝶子と関わったのは、ほんの一年に過ぎなかったが、妙にとっては凄く印象的な女性だったのだ。憧れていたといっても良い。
 憂いの濃い横顔、凛とした姿。涼しげな微笑みと眼差し――人形とは思えない程の、胸に迫る泣き顔が忘れられなかった。
 蝶子を見ると、まるで昨日の事のように思い出すんよ、と妙は晩年になって懐かしそうな、それでいて少し淋しそうな目で語ったと言う。

 *

 ……不思議な話でっしゃろ。うちも初めて聞いた時は、信じられへんかったわ。
 でもな、この話を聞いてからしばらくしてからのことやねんけど、祖母の部屋に見た事あらへん綺麗な女の人が、窓の外見て泣いてはったことがあったんよ。
 青地に白い花と蝶の模様の入ったお着物着て、涙流してはる姿は、子供心にも何やら切のうなりましてな。今でもその姿、忘れられまへん。
 ほんまに綺麗な横顔で、一筋の涙が飾りみたいやったわ……うちの祖母の葬式の日どしたからな、もしかしたら祖母の死を悼んでくれはったんかもしれへんねぇ……。
 それからも何度かお見かけしたことあったんやけど、いっつも泣いてはってね……あの時はよう分からんかったけど、今思うたら、好いた人にもう会われへん、孤独な女の顔どしたんやなぁ……。
 うちも戦争で夫を亡くしましてな、何や今頃になって蝶子の気持ちがよう解ります。
 ……長い話に、付き合うてもろて、ほんまにおおきに。最後にお宅に話して、なんや胸のつかえが取れたような気がしますわ。くれぐれも、蝶子をよろしゅうお頼申します。

 *

 人形を手放した老婦人は、丁寧に頭を下げて男を見送った。もう、あの人形を見る事はないだろうと思うと淋しい気がしたが、妙に晴れやかな気分だった。男が親身になって話を聞いてくれたからだろうか。まだ若い、青年とも呼べる年頃の男だったが、落ち着いた物腰で、蝶子を見ると柔らかな微笑みを浮かべていた。
 その背が小さくなるまで見送って、家の中へ戻ろうとしたところで、男が懐から何かを取り出したのが見えた。何故か目を離せず、その様子を見守っていると、抱きかかえた人形の髪に、その何かを飾る。――そう、髪飾りだ。愛おしそうに顔を撫で、蝶子の髪に飾ったのだ。
 すると、不意に女が姿を現した。遥か遠い子供の頃、確かに見た事のある、青い着物の美しい女が涙を流しながら男に抱きついた。男も、泣きそうな顔で笑って女に抱擁を返す。
 その光景は老婦人の目にしか見えなかったようで、一瞬でかき消えてしまった。彼女はその白昼夢のような再会の全てを見届けて、微笑んだ。
 そうしてもう一度、姿の見えなくなった男に対してゆっくりと一礼した。















あとがき

 人形というお題を聞いて、最初は身代わりという比喩で使おうと考えていました。
 が、どうしても上手く行かず、二転三転してこの話に。前回の「百年〜」に引き続き、何やら大人しめな話になってしまいました。
 和風ファンタジーと言えば聞こえはいいのですが、時代考証もへったくれもないので、実に時代が曖昧です。遊郭の仕組みについては江戸時代頃を参考に適当にこさえたという感じです。
 関西弁を使おうと思ったのは、単純に私が関西生まれだからなのですが……京都弁は適当に誤魔化した感があります。
 話の整合性よりも、雰囲気勝負の話だと思っています。少しでも古い日本の香りや切なさなんかを感じて頂ければ幸いです。