CLOSED・WORLD ――イマンスィペイト―― 1
作:アザゼル





 プロローグ
 2128年 8月10日 
 その日は家族でピクニックに来ていた。眩しく降り注ぐ太陽の光とどこまでも青い空、蒸せ返るような緑の匂いと決して鳴き止むことのない蝉の鳴き声――
 そんな中、霧島京谷は森の中で昆虫採集にいそしんでいた。彼の手が今まさに大きなカブト虫に届こうとしたその時、森の向こうから兄である霧島裕樹の声が聞こえてくる。
「おーい。京谷、こっちに来てみろー」
 その声に京谷が振り向いた瞬間に、カブト虫は彼の手の届かない場所まで逃げて行った。彼はそれを見て軽く舌打ちをすると、登っていた木から飛び降り、兄の声がした方に駆けて行く。
 裕樹は湖畔の枯れて折れてしまった木の上に座りながら、一人湖を眺めていた。京谷が来たのに気付くと、彼はゆっくりと弟の方を振り返り手招きする。
 京谷は近付きながら、何となく湖の方に目をやった。湖は人が捨てたゴミが沢山浮いていて、お世辞にも綺麗な湖とは言えない。
「何だよ兄貴。せっかくもうちょっとで、カブト虫が取れそうだったのにさ」
「はは、それは悪いことをしたな。いや、これをお前に見せかかったからな」
「何さ」
 全く悪びれた様子のない兄に、京谷は少しふくれながら尋ねた。
 だが裕樹はやはりそんなことはまるで気にした風でもなく、ただ京谷に湖を見てみろと促す。
 京谷は兄に言われた通りに湖を覗きこんだが、そこには濁った湖がただ果てしなく広がっているだけだった。
「この汚い湖が、どうかしたの?」
 相変わらずの仏頂面で聞く弟に裕樹は軽く肩をすかすと、すっと手のひらを湖に向けてかざした。それから弟の方を振り返り尋ねる。
「お前は、本当にこの湖が汚いと思うのか?」
「え? だってゴミとか浮いてるし、それに水もこんなに濁ってるしさ……」
 兄の真摯な瞳に少し気圧されながらも、京谷はそう答えた。
 裕樹はそんな弟を見て、ふっと不敵に笑みを浮かべるとかざしていた手のひらを軽く湖の水面に近付ける。
 兄の手が微かに震えているのが京谷の目に映った。
 その時信じられない光景が京谷の目の前で起こった。今まで濁っていた湖の水が、兄が手をかざした辺りから、まるで広がる波紋のように透明に澄んでいく。
「…… これは?」
 京谷が兄とその透き通った湖を見比べながら、驚いた声を上げた。
 裕樹はだが、今度は弟の方は振りかえらずに、その湖とさらに先に広がる世界に向けて囁くように言葉を投げかける。
「…… 京谷。世界はこんなにも綺麗なんだよ。僕はこの美しい世界を何よりも愛しく思っている。でもね、だからこそ…… だからこそ、憎いんだ。この世界を汚す者が、何よりも誰よりも。だから……」
 その時の兄の横顔は、京谷の目にとても寂しく映った。
 澄んだ湖の湖面に太陽の光が反射してきらきらと輝いている。遠くの方から蝉の鳴き声が、虚しく響き渡っていた――



 2135年 12月8日 23:45
 CASE1 
――霧島京谷――
「今の人影は……」
 俺――霧島京谷――は第4管理タワーの屋上、バベルの塔の中央管理システム「シャマイン」からの受信アンテナのあるその場所に一瞬見えた人影に、思わず言葉を洩らした。
(そんな、あの人は5年前に姿を消したはずだ。こんな所にいるはずが無い)
「何やってんだ京谷。さっさと仕事を始めるぞ。警備兵が手薄になっている時間は今しかないんだ。俺たちには余り時間が無いんだからな」
 俺がタワーの前でぼんやりとしているところに、後ろからついて来た、短髪黒髪の眼鏡の男――長門祥司――が俺を急かした。
「そうよ、私たちには時間が無いの!」
 さらにその後ろからついて来る、背の低い細身の黒髪の少女――夕凪香澄――が、俺の頭にマグナムの照準を合わせて撃つ振りをすると、同じように急かす。
「分かってるって。冗談でもそう言うことするなよな、香澄」
 俺は彼女のマグナムの銃口を手でそらすと、先ほど見た人影の姿を頭から振り払った。
(そうだ、俺たちには時間が無い)
 俺たち3人は第4管理タワーの前まで来ると、入り口の警備兵が巡回のためにその場から立ち去るのを、フェンスの影に隠れて確認する。
(今だ)
 俺の静かに発した言葉を合図に、3人はタワーの入り口まで素早く駆け寄った。
 長門がその鉄製の扉の電子ロックを、すぐさま自分の能力で破壊する。彼の能力とは彼が政府の提唱した優生政策でJ・DNA組み替え実験の末、手に入れた力のことだ。彼の体の表面を包む特有の膨大な静電気を、空気中の電子と結合誘爆させて瞬間的に雷を生み出す。
「行くぞ!」
 長門のその言葉を皮切りに、俺たちはタワーの内部に侵入した。建物の中はほとんど暗闇に包まれていて、数メートル先も見えない。だがあらかじめ内部の見取り図の情報を入手していた俺たちは、さほど迷うこともなく地下への階段を発見した。
 階段を音をたてずに降りると、暗い通路の向こうに微かに扉が見える。だがその手前には防弾ガラスのPカード認知システム付きの扉が、行く手を阻んでいた。扉には大きく「KEEP OUT」と書かれている。
「…… やっぱり3度目ともなると、さすがにこれくらいの対処はしてくるか」
 香澄がそのPカードシステムの端末を指で撫でながら、他人事のようにぼやいた。ちなみにPカードとは個人情報から免許、キャッシュに至るまでの全てを統括したカードで、国民一人につき必ず一枚発行されるというものだ。このカードで人々は全てを管理されている。
「こいつは俺でも壊せないぞ。下手に壊すと警報装置が発動するだろうしな」
 長門は香澄を端末からどけると、俺の方を振り返って言った。
 俺はしばらく考えた後、黒いジャケットのポケットから1枚のPカードを取り出す。そしてそれを端末の挿入口にすっと差し込んだ。
「お、おい!」
 長門が慌てて差し込んだPカードと俺を見比べて、何か言いたそうに目で訴える。
 端末の機械の、俺の差し込んだPカードを認識しているローディングの音だけが、静かな通路内に響いた。
「ニンシキカンリョウ。ダイ4タワータントウ、ハグロキョウスケト、ニンシキ」
 端末は機械音声でそう告げると、防弾ガラスの扉がゆっくりと開く。
「な、なぜ? そのPカードは……」
「悪い。アジトを出る時に那智さんにこれ、預かっていたんだ」
 俺は全く悪びれた風もなく、唖然とする長門にそう言うと、開いた扉を通り抜けた。その後を香澄と、釈然としない顔の長門がついて来る。
「あのなぁ…… そういうことは前もって僕たちに、言っとくものじゃないのか?」
「だから悪いって言ってるだろ。それよりも今は管理システムを壊す方が、先だぜ」
 俺は長門の言葉を軽く流しながら、目的である管理室へと足を早めた。その俺の隣に香澄が追いついてきて、軽く俺の横腹をつつく。
「私も長門が正しいと思うな。京谷は後で長門に謝っときなよ」
「はいはい……」
 管理室には鍵はかかっておらず、俺たちは中に入るといつものように、管理システムであるメインコンピューターを探した。
 複数の機械が狭い室内に所狭しと並んでいる。それらを軽く見回しながら、長門は中央のコンピューターの前で立ち止まった。
「こいつ、だな」
 そう言うと長門は先程使った能力で一瞬にそれを破壊した。小さな爆発音が狭い室内に微かに響き渡る。
 俺と長門はその壊れたコンピューターを確認すると、夕凪の方を振り返って親指を突き立てた。
 香澄もそれに答えて笑顔で親指を突き立てる。
「任務、完了だね」
 香澄の言葉に、俺も長門も思わず口元が緩んだ。
 その次の瞬間、管理室の扉がゆっくりと開く音が部屋に響き渡る。俺も長門も香澄も、その音でさっと身体に緊張を走らせると、扉に向かって各々身構えた。
(そんな…… この時間は那智さんの話じゃ、タワーには外にいた警備兵以外には誰もいないずなのに。警備兵が、電子ロックが破壊されてるのに気が付いたのか?)
「あのぅ……」
 だが、その部屋に入ってきたのは俺の予想に反して一人の少女だった。年は俺たちと同じくらいで16、7くらいだろうか。黒い艶やかな髪と、雪のように白い肌。大きな漆黒の瞳の下の涙ぼくろが印象的な少女で、俺はその少女にしばらくの間見とれてしまっていた。
「動かないで!」
 香澄がマグナムをその少女に向かって構えると、警告の言葉を発する。
 長門も拳を握り締めると、少女を厳しい顔つきで睨んだ。
 だが少女は二人のその様子にさして動じた風でもなく、ただ俺の方をじっと見つめているだけだ。
「…… 一体、何の用だ。君はここの人なのか?」
「私は……」
 何か言いかけて俺に近付こうとした少女に、香澄がマグナムのトリガーを引こうとする。
 俺はそれを片手で制した。
「私は、失敗作なの。それで副作用の研究とかで、ここに入れられているのよ……」
 少女はそう言うと、そっと目を逸らして瞳を落とした。
「失敗作? じゃあ、あんたも優生政策のJ・DNA組み替え実験の被験者なのか?」
 少女の言葉に長門が少し驚いたように声を上げる。
 J・DNA組み替え実験―― 2098年に元自衛隊組織である極東保安隊が実施した実験。14、5才の少年少女を対象とし、今までガラクタと思われていた人間の約97%に値するジャンクDNAに、ベクター注射を注入し異能力を人為的に植え付けようとした軍備発展のための実験だったが、成功体はごく僅かしか出来なく実験に携わった子供たちの大部分が副作用、能力の暴走により消去された。それにより世論は極東保安隊を糾弾したが、すぐに武力制圧され今でもこの実験は行なわれている。
「…… 君も、か」
 俺は脳裏によぎったあの時の光景に、一瞬顔をしかめると呟きを洩らした。
 少女のその小さな肩は微かに震えている。俺はその肩を抱きしめてあげたい衝動に駆られながら、それを堪えると少女に向かって手を差し伸べて言った。
「君も来いよ。俺たちの、解放軍へ――」
「な、何言ってるのよ、京谷!?」
 香澄が俺に向かって慌てて声を荒げる。
 だがその香澄を、今度は長門が制した。長門もおそらく思い出しているのだろう、あの悲劇を。眼鏡の奥の表情が微かに曇っている。
 香澄はそんな俺たちを見比べると、少し寂しそうに嘆息した。
 少女はゆっくりと俺の差し出した手に近付くと、そっとその柔らかい小さな手で俺の手を握り返す。
「私は、榛名夢瑠。よろしく……」
 その少女――榛名――の声は消え入りそうなほどか細く…… だが、だからこそ俺は胸の内で自分に誓ったのだった。
(絶対、俺がこの子を守ってやる)
 と――



 12月9日 12:30
 極東保安隊第六拾七回軍法会議――
「…… これで今年に入って3度目だよ。管理システムの復旧もただではないのだよ、古鷹君。特務の連中は何をしているのだ?」
「はっ…… 申し訳ございません、扶桑参謀総長。どうも解放軍の中に腕のたつ諜報員がいるらしく、裏をかかれまして……」
「言い訳は聞き飽きたんじゃ。早急にどうにかしてもらわんと、貴様らの存在する意味が無い」
「そうだ。立体都市東京の最下層の民衆支配担当は、お前たちの責務なのだからな」
「はっ、心得ております……」
「シャマインのバックアップシステムの確立と、適正因子を持つトランスジェニッククローンの開発はどうなっておる?」
「そ、それら両件も、近々には完成する見込みでして……」
「じゃから、見込みなどというあやふやな答えは期待していない、と言ってるじゃろうが。我々が期待しているのは、はっきりとした結果じゃ」
「まぁ、良い。それくらいにしておいてやれ、山城陸軍軍令部総長」
「…… わしはどうも特務の連中が信用にならんのじゃよ。あやかしの術などという訳の分からないものはな。ふん、その首を落とされたくなかったら結果を出すんじゃな、結果を。古鷹特務軍令部総長殿」
「…… はい」
 そこで4つのパソコン上のモニターが、次々に回線を切られて消えていく。
 古鷹はその何も映さなくなったモニターをしばらく眺めた後、小さく舌打ちしたのだった。