CLOSED・WORLD ――イマンスィペイト―― 4
作:アザゼル





 2135年 12月13日 13:00
 CASE4
――長門祥司――
 Pカードシステム。今の日本を象徴する個人完全管理のための変動型認識カード。貨幣制度が廃止されたこの日本では、それぞれの区画に配給される資源の全てはこのPカードを通してしか手に入れることは出来ない。それゆえに、高価な品物などは最下層に住まう者が手に入れることは難しいのだ。
 Pカードが開発された当初は偽造Pカードなどが一時期出回ったが、DNA・FPによる複雑な塩基配列記号の全面網羅によって偽造すること自体が不可能に近くなった。これにより管理はますます強固なものになり、民衆はどこにいても、いつ何をしても、それら全てを監視されている状況に陥ることとなる――



 公演堂の中は意外に広く、今その中は集まった人で冬なのに少し蒸し暑いくらいだった。
 壇上では一人の男が熱弁を振るっている。その男の隣にはおそらくSPであろう極東保安隊の、額に聖印のある女が無表情で立っていた。
「…… 私がこの区の区長に選ばれました暁には、Pカードの更新システムの改正と資源の優先的補充を推し進め、現在の資源の権力者独占状態の改善を公約いたします。さらには……」
 男――極東保安隊海軍軍令部参佐、高尾義武の熱弁はまだまだ続く。
 僕――長門祥司――はそれを冷たい眼差しで見つめながら、公演堂の後ろの薄汚れた壁にもたれ掛かっていた。
 横には同じ解放軍の仲間であり人工能力者である、霧島京谷がつまらなそうな顔で僕と同じように壁にもたれている。
「何だろうね、この欺瞞に満ちた演説は。ここにいる人間も全て息のかかった者たちばかりだし。本当にそれのせいで困っている人間なんか、ここには誰もいないというのに……」
「…… 長門……」
 僕の洩らした愚痴に、京谷がこっちを向いて心配そうに僕の名を呟くように言った。
 京谷はそういう風にしていつも他人のことを親身になって心配する癖がある。だが概ねそういう人間に限って、一番大切なことには見逃していることが多い。彼はそして、そういうタイプの人間だった。夕凪の気持ちを誰よりも分かっていないのが、その証拠だろう。(まぁ、僕には人のことを心配する余裕なんてありはしないのだが……)
 その時壇上の高尾義武の言葉に、聴衆がひときわ大きな歓声を上げた。
 そのあまりにも造られた汚い歓声に、僕は思わず反吐が出そうになる。
「…… 悪い京谷。少し外の風にあたってきていいか?」
 僕のその言葉に京谷は一瞬また心配そうな顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻ると軽くうなずいて言った。
「あぁ。いいぜ。こっちは俺が見とくから、心配は要らない」
「悪いな」
 僕はそう言うと、まだまだ続きそうな演説を背に受け公演堂を後にする。
 外に出ると暖房器具の効きの良かった中とは違い、やはり肌寒い。
 僕は公演堂の近くの並木の一つにもたれ掛かると、灰色のどこか寂しげな空を虚ろな瞳で仰いだ。空の色はこれからの僕たちの行く末を暗に示しているようで、なぜか鬱な気分を僕の心の中で増長させる。
(僕らの作戦が成功したとして、その後に待っているのは本当に――)



 2133年 4月20日
 その部屋は病院とは思えないほど不衛生で、こんな所にいればそれこそ逆に身体をより悪くするのではないかと思われるような所だった。薄暗い灯りに、ひびのはいった壁、備え付けの鏡は全てとうの昔に誰かに割られてしまっていてぼろぼろだ。だが、こんな病院ですら最下層ではまだマシな方で、本当に病院と呼ばれるようなところは第2層にしか存在しない。
 そして、僕の妹――長門木蓮――は、そんな病院とも言えないその場所に、小さい頃からずっと入院していた。妹の病気はADA欠損症という難病で、免疫不全を引き起こしちょっとの感染症でも大病につながる遺伝性の病だった。遺伝子技術の発達した現在なら直せない病ではないが、そのためには莫大な費用の手術代が必要になる。だが、それだけなら僕でも何とかすることは出来た。問題は手術に使用する様々な薬品類を手に入れることが出来ないことだった。それどころか最下層に住む者のPカードでは、妹の発症を遅らせる抗体すら手に入れることが出来ない。
 僕はその日、久しぶりに木蓮の病室に来ていた。両親を早くに亡くした木蓮には他に見舞う者も無く僕がいつも来ていたのだが、最近はあの実験のことや他のことがあって来れないでいたのだ。
 病室に入ると黄色く薄汚れたシーツにくるまって眠っていた木蓮が、僕の気配を感じたのかゆっくりと起き上がる。その顔色は、明らかにこの前見たときよりも悪かった。
「無理をしなくていいぞ木蓮。まだ風邪が完璧に治っていないのだろう?」
「ううん…… 平気。それよりもお兄ちゃん…… 昨日、極東保安隊の人が私のところに来て、お兄ちゃんがここに来ていないかしつこく聞いてきたんだけど…… 何かあったの?」
 木蓮は僕の顔を見て心底心配そうにそう尋ねた後、軽く2、3度咳き込んだ。
 僕はそんな木蓮の背中を何度かさすってあげながら、落ち着いて優しい声で答えてあげる。
「いや、何も無いよ。木蓮が心配するようなことは何も無い。ほら、また風邪がぶり返すと良くないから、もう少し寝てな……」
「…… うん」
 僕がそう言うと、木蓮は素直にうなずいてもう一度シーツにくるまって横になった。だが、顔だけはじっと僕の方を見つめたままだ。その、長い間の病のせいで微かに濡れた瞳は、何かを言いたそうに僕の顔をじっと捕えて離さない。
「…… お兄ちゃん……」
 木蓮が僕を見つめたまま、その小さな口を開く。
 僕がどうしたという風に首を傾げると、木蓮は小さな唇を精一杯広げて僕に言った。
「私はね、お兄ちゃん。私のせいでお兄ちゃんが無茶をするのは嫌なの。私は私がどんな風になっても、その時傍にお兄ちゃんが居てくれさえすればそれでいい。だからね、お兄ちゃん…… 絶対に無茶なことはしないでね」
 木蓮はそう言うと、僕の返事を待たずに背を向けてしまう。
 僕はそんな木蓮を見つめ、その後病室の壊れたガラス窓の向こうをぼんやりと眺めた。
 外の誰の手入れもしていない伸び放題の病院の木々が、春の風に吹かれて静かに揺れている。
 木蓮は頭のいい子だ。きっと僕のこれからしようとしていることを、それとなしに感付いているのだろう。
(それでも…… だからこそ僕は……)
 僕はかけている眼鏡の縁を軽く直すと、もう一度木蓮の姿を見つめ拳を握り締めたのだった。



 ――ニンシキカンリョウ。コノコードデノ、ベクターADAシキュウハトウロクサレテオリマセン――
「……」
 僕は端末から出てきたカードを手に取らずに、ただじっと眺めている。
 端末が取り忘れの警告音を発し、ランプが赤色に点滅を始めた。
「…… やはり今のシステムじゃ、木蓮の病気は治すのは無理か……」
 僕はそう呟くと、カードを乱暴に引き抜く。
 ランプが緑色に変わり、警告音が止んだ。
(解放軍、か……)
「民衆の自由なんて僕には興味は無いが、木蓮のためにそれが必要であるのなら……」
 僕はPカードを手にしていない、聖印のある方で拳をきつく握り締める。そこには一つの決意がこめられていた。
 そして―― 僕はもう一度、手に持ったPカードを見つめ直す。何の表示も無いシルバーのそのカードは、どこか冷え冷えとした印象を僕に与えたのだった――



 2135年 12月13日 15:44 
 寒々とした灰色の空。僕は手に持っていたPカードをポケットに入れる。
 その時、公演堂の中から京谷が出てきた。なぜかあまり顔色が優れない。
「よっ、もう大丈夫か」
 言ってる本人が一番大丈夫そうじゃない顔で、京谷が聞いてきた。
「あぁ。それより京谷の方が参ってるみたいだな。どうしたんだ?」
「いや…… あまり長い話はちょっと苦手で……」
 言って、京谷は少し照れたように笑う。だがすぐに真剣な表情になると、公演堂の方を親指で指し示して言った。
「ま、世間話はこれくらいにして…… 終わったみたいだぜ、あっちの方は」
「分かった」
 僕も同じように真剣な表情になると、軽くうなずく。
 僕と京谷は公演堂の裏手にある、来客用の駐車場に忍び込んだ。そこには最下層ではまず目にかかることの無い原動機型自動車が数台止まっていた。どの自動車にも極東保安隊のマークが付いている。
「この辺にいれば、奴が出てくればすぐに分かるな」
 京谷がその中の一台の影に隠れると、僕に言った。
 僕はその言葉にうなずくと、隣の自動車の陰に同じように隠れる。
 その時公演堂の裏口からさっき壇上で演説していた極東保安隊の海軍軍令部参佐、高尾義武が出てきた。横には一緒に壇上にいた額に聖印の女がぴったりと付いて来ている。
「長門。俺があの女の足を止めとくから、お前は……」
「分かった。気を付けろよ、あの女も能力者だからな」
 小さな声で僕たちは打ち合わせを交わすと、自動車の裏から飛び出した。
 京谷が突然のことで少々面食らっている女に向かって拳を突き出す。見慣れた巨大な火炎が女を襲った。
「な、何だ貴様らは!?」
 高尾義武が明らかに狼狽した声で叫ぶ。
 その時にはすでに僕は高尾の目の前まで来ていた。高尾の身体に僕の手のひらが伸びる。僕の手のひらからは微かに電気がはしっているのが確認できた。
「無駄よ」
「!?」
 だが高尾の身体に届こうとした直前で、僕の手はさっき京谷の火炎でやられたと思った女に防がれる。
(そんな? どうやってあの状態から炎を防いだんだ!?) 
 僕は女に掴まれた手を振り解くと、僅かに女と間合いを取り対峙した。知らない能力を相手に戦うのに、うかつに手を出すわけにはいかない。だが……
 目の端で京谷が女の後ろから迫るのを確認して、僕は女に手を伸ばした。
 さらに女の後ろでまた、今度は小さな火炎がいくつも出現する。
(これなら…… 逃げられまい)
「だから、無駄だっていうのよ。この前は変な奴に邪魔されたけど、今度はそうはいかないわよ」
「?」 
 僕と京谷の攻撃が女に触れる瞬間、女は余裕の笑みを浮かべ意味不明の言葉を残すと、その場からまるで霞のように掻き消えた。
「なっ!」
 その次の瞬間、女は僕の後ろに出現する。
「残念ね」
 反応の遅れた僕に女の鋭い蹴りが襲った。背中に鈍い衝撃が走る。僕はそれを何とか堪えると、女に向かって再度手を伸ばした。
 しかし、それはまたもあっさりとかわされる。女の姿はさっきと同じようにまた後ろに現れた。
 だが、今度そうくることはすでに僕も予想済みだ。
 女の蹴りを僕は両手で防ぐ。そして、その足にありったけの体内静電気を送り込んだ。
 女の体内に内在する電子と僕の送り込んだ体内静電気が結合誘爆を起こし、女の体の中に雷が発生する。
「がっ!」
 女の体が大きく震えた。
(これでしばらくは動けないな)
 僕は女が動けないのを確認すると、高尾の姿を探す。
 高尾は予定とは逆になっていたが、京谷が倒していた。息はあるみたいだが気を失っているのか、動く気配は無い。
 地面に倒れ伏す高尾の横で、京谷が僕の方に親指を立てて合図を送る。
 僕たちはそれを合図に、その駐車場から急いで脱出した。京谷の手には高尾のPカードがしっかりと握られている。
(第2ゲートへの鍵は手に入った。いよいよだな……)
 僕はくすんだ色に輝きを失った街を走りながら、遠くに微かに見える第3層バベルの塔を一瞬だけ見上げたのだった。



 12月13日 17:50
 僕が病室に入ると木蓮は、心なしかいつもよりも鈍い動作でベッドから身を起こした。前に来た時よりも顔色がまた悪くなっている。
「…… お、兄ちゃん……」
 小さく囁くように喋る木蓮は、少しやつれたようにも見えた。おそらく何かの病気に感染しているのだろう。免疫力の無い木蓮は、年中何かの感染症に冒されていた。
「木蓮……」
「何?」
 木蓮は僕の呼びかけに、小さく首をかしげる仕草をすると力無く微笑みながら聞き返す。
 僕はそんな木蓮が可愛そうで愛しくて、その細い身体を思わず抱きしめた。
「…… い、痛いよ…… お兄ちゃん」
 木蓮が微かに声を洩らす。
 僕はそれでもしばらく抱きしめ続けた後、やっと木蓮の身体を離した。
「どうしたのお兄ちゃん? 今日は何か変だよ」
「そうかな…… そうでもないよ」
 僕はそう言うと、木蓮の頭を軽く撫でてあげる。
 木蓮は、その涙で濡れた目をちょっとしかめた。その顔を見て僕は思う。
(やはり木蓮は、太陽の下で生きるのが相応しい)
「…… 木蓮。次、僕が帰ってくる時…… その時は必ず…… 木蓮の病気を治してあげるからね――」
 僕はポケットに入れているPカードを手で探りながらそう言った。
 その僕を木蓮がうれしいような悲しいような、なんともいえない表情で見上げる。そして、青い顔色の中で異様に紅いその唇を小さく動かして言った。
「絶対に…… 無茶だけはしないでよ」
 と――
 僕はそれに笑って答えると、最後に木蓮の頬に軽く口づけて部屋を出ていく。木蓮の頬は驚くほど冷たかった。
 僕は木蓮の病室を出ると、宙にかざした自分の手のひらをじっと見つめ、それを強く握り締めた――



 12月14日 12:30
 極東保安隊第七拾回軍法会議――
「どういうことなんだ、古鷹殿。私のところの参佐、高尾義武が第11区画で昨日から消息不明なのだがな。確か彼には、君のところの人間が付いていたんじゃなかったのか」
「金剛君。陰謀じゃよ、陰謀。間違いない。こやつはそうやってわしらのところの人間を消していき、自分ところの権力地盤を固めていくつもりなんじゃ」
「山城陸軍軍令部総長。言葉が過ぎるぞ。ここがどこの席かわきまえたまえ」
「…… はい」
「それに、古鷹君も失態ばかりというわけでもあるまい。シャマインの管理システム、それのバックアップを立ち上げることに成功したのだからな」
「しかし…… トランスジェニッククローンの方はどうなっているのですか。最近、研究所の方からの報告が途絶えているみたいですが」
「そ、そうじゃ。足柄君の言う通り、聞いておらんぞ。どうなっているんじゃ!?」
「…… 大丈夫です。昨日の実験で完成したトランスジェニッククローンへのベクター注射による特殊遺伝子の侵食率は、従来に比べ29%上がっております。この数値なら問題無いでしょう。すぐに実践段階に踏み込めます」
「うむ。それはいい報告だ。そろそろあの目障りな解放軍にも消えてもらわねばならんからな。古鷹君、頼んだぞ」
「はい。次もいい報告を聞かせれるよう、健闘いたします」
 そこで回線が切れた。モニターから次々と映像が消えていく。
 古鷹はそれをしばらく眺めると、口元に薄い笑みを浮かべたのだった――