月があなたと踊る夜 1
作:ASD





プロローグ


 その若き勇者は、名をクラヴィーアスと称した。
 王国を陥れようとしていた悪しき魔法使いの、その裏切りと陰謀を暴き立てたクラヴィーアス。彼の活躍により、かの国は未曾有の危機を回避する事が出来たのである。
 比類なき剣士にして魔法使い――若くして勇者と呼ばれた彼に、王国は千金の恩賞を積んだが、彼はその全てを辞退すると、わずかな仲間と共に奥辺境の果てへと冒険の旅に出ていった。
 それきり、彼の行方は定かではない。
 人の噂は口々に言う。彼はその奥辺境で果てたのだとも、更なる冒険を求めて草原へ、あるいは砂漠へと旅立って行ったのだとも……あるいは故郷の村へとひっそりと帰還を果たし、そこで慎ましい余生を送ったのだとも。
 ……とは言え、それらも皆噂話に過ぎない。勇者と称えられた若者の名も、いずれ時を経るごとに、人々の記憶からは薄れていった。




第一章




     1

 いつの間にか、雪が降り始めていた。
 少年は、窓の外に視線をやる。白い粉雪が、ふわふわと風に揺られていた。
 急に、強い風が吹き付けて――その白いつぶてはみるみるうちに、少年の視界を過ぎ去っていく。
 彼はそんな白い軌跡を、いつまでもじっと眺めていた。
「……見てよ母さん。雪だよ」
 景色はいつしか、白の中に埋没していこうとしている。窓に映る建物の屋根が、どれもうっすらと白く染まりつつあった。
 寝台に横たわったままの母親は、少年の言葉に何の反応も示す事は無かった。
 少年自身、答えがあることは期待していなかった。視線を落とせば、そこにはただ静かに目を閉じたまま、安らかな寝顔を浮かべている母がいる。
 まだ若く、美しい母。その真っ白な顔を、少年はじっと見つめる。
 おそらくそうやって眺めていられるのも、これで最後だろう。
 少年はそっと手を伸ばし、母の白い頬をおずおずと撫ぜた。
 まるで氷のように、冷たかった。
「母さん……」
 問いかけても、そこに返事は無かった。
 ものを言うこともなく、目を見開く事もなく……二度と目覚めることのない母の傍らに、少年はいつまでも、いつまでも立ち尽くしていた。




 まどろみの中で、少年はそんな幻を見ていた。
 目を閉じれば、ほんの一秒前の出来事のように、ありありと思い浮かべる事が出来る。
 けれど実際には、あの冷たい朝からすでに半年以上の月日が経過していた。
 季節は巡り、その辺境の村には遅い夏が訪れようとしている。そう……季節ばかりか、あの石造りの灰色の街並みも、今は遠い。
「イーヴ……?」
 まどろみを破って、彼の名を呼ぶ声が聞こえる。
 薄目を開けると、陽射しが目に突き刺さるかのような勢いで飛び込んでくる。辺境の夏は短いとは言え、普段あまり外を出歩く事のない少年の身体には、その陽射しは少々刺激が強すぎたかもしれない。
 少年――イーヴは木陰に寄りかかったまま、もう一度目を閉じた。
「イーヴったら……そろそろ行くわよ?」
 少女の声が飛び込んでくる。もう一度目を開けると、小柄な人影が目の前に立って、じっと彼を見下ろしていた。
「カリル……?」
 見慣れた赤毛の少女の姿が、そこにはあった。
 春先に十四になったばかりの彼女は、イーヴよりも一月ばかり生まれは遅い。なのに、彼女の態度はまるで少年の方が弟であるかのような扱い方だった。彼女は肩で切り揃えた少し癖のある赤毛を揺らしながら、少年の顔を遠慮なしに覗き込んでくる。
 まじまじと見入る視線から、少年は気恥ずかしそうに目を逸らした。
 そんな彼女の細い肩の向こう側に、夏の陽射しが力強く照り付けていた。
 その太陽を恨めしそうに見やって、少年はもう一度、目を閉じる。
「ごめん、カリル……もう少し」
 急かしても、彼は立ち上がろうとはしなかった。
 力無く呟いた少年を見下ろしながら、カリルはため息を漏らした。
「……仕方ないか」
 カリルは諦めて、イーヴから視線を逸らす。
 彼女は何気なしに、道の彼方をじっと見据える。
 森の中を、まっすぐに伸びていく一本道。辺境の森林地帯の真ん中にある寂れた村と、街道を結ぶたった一本の道。
 とは言え、二人は別に街道を目指そうというのではない。目的地はもっと近くだ。
 さほどの距離ではなかったが、病弱な少年の体力を考えれば、もう少し休息の時間は必要なのかも知れなかった。
「……仕方ないなあ」
 もう一度同じセリフを呟いて、少女はイーヴのすぐ隣に乱暴に座り込んだ。あまりおしとやかとは言えないその動作を気に留めているのかいないのか、少年はそんな彼女をちらりと見やる。そんな視線など、カリルは気にとめもしなかった。
 カリルは木陰の上、木々の枝葉を見上げて、差し込む木漏れ日を見やる。
 視界が、きらきらと輝いていた。
「……」
 彼女は何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。ふと隣を見やれば、いつの間にかイーヴは安らかな寝息を立て始めていた。
 カリルはそんな少年をじっと見やる。そっと手を伸ばして、汗で乱れた彼の前髪をそっと撫でつけた。
 まっすぐな黒髪が、少しだけ羨ましかった。
 カリルは静かにため息をつくと、そのままもう一度空を見上げた。




     2

 日曜日は、あさってのはずだった。
 そのはずだ、とカリルは思わず自分に言い聞かせる。教会では、何故か村の年寄りたちが数名寄り集まっていて、神妙な素振りで説教に耳を傾けていた。
「……ですから、そこで神はレノを呼び止め、彼に問いかけたのです。お前は誰の許しを得て、その土地に足を踏み入れたのか、と」
 カリルは思わず、説教台を見やる。春に村に赴任してきたばかりの若い司祭の姿はそこにはない。代わりにそこにいたのは、カリルのよく知る少年の姿だった。
「……イーヴ?」
 カリルは思わず、眉をひそめた。
 とは言え、それがそんなに不思議な光景かというと、そうでも無かった。
 何せこの春に十四になったばかりの少年は、王都では神学校に身を置いていたという。重そうな聖典を抱えて、たどたどしい口調で語りかけるその姿は、それなりにさまになっていない事もなかった。
 彼女は一番後ろの隅の席にそっと腰を下ろし、終了を待つ事にした。
 礼拝堂にはさほど人の姿は無い。最前列に五、六名ほど固まって座っているのは、どれもカリルの見知った村の年寄り達。そんな老人たちに向けて、少年はたどたどしい声で説教を続けていた。か細い声が、礼拝堂の高い天井に響き渡る。
 カリルは思わず、あくびを噛み殺していた。
「……暗がりから聞こえてきたその声が、よもや神の声だなどとはレノは微塵も想像していなかったので、平伏する事も、恐れる事もなしに、立ち上がって拳を振り上げ……」
 二つだけ、確かに言える事があった。
 彼女はイーヴの説教を全く聞いていなかったという事と、説教を聞いている老人たちはそんな彼女など気付いてもいないか、もしくは完全に無視している、という事。
「……ですから、ここでレノは、自らの無知は罪ではない、という自己弁護を繰り広げたわけです。しかし、そこが禁じられた土地である事は、彼の周囲の人間もよく知る所で、レノはそんな人々が彼を諌める言葉に、少しも耳を傾けなかったわけですね。神が彼をお叱りになったのは、立ち入りを禁じた土地への侵入を非難したのではなく、そうやって人々の忠告に耳を貸さなかった、その狭量を神はお嘆きになられて……」
 長い長い説教が終わり、イーヴは老人たちにせがまれるままに、一人一人に祝福の印を切る。人数分同じ動作を繰り返すと、そこで少年はようやくお役御免となった。
 ぞろぞろと礼拝堂を出ていく老人達。さすがのカリルも、年寄り相手に不満を漏らす事はなく、にこやかに挨拶を交わした。
 だがそれも、最後の一人が礼拝堂を出ていくまでの事である。誰もいなくなったのを見計らったように、カリルは目を三角にして不平の言葉を漏らした。
「ちょっと、イーヴ!」
「……分かってるよ。ちょっと、待ってて」
 気の毒にも責め立てられたイーヴは、聖典と礼服を片付けに、そそくさと奥の部屋に戻る。
 その間、ほんの数分。イーヴが着替えて出て来た頃には、カリルの不機嫌は頂点に達していた。
「……遅い! 昼前にここを出るって言ってたじゃないの。今からだったら、帰りはすっかり夕方になっちゃうじゃない」
 ぶつぶつと文句を言う少女。それを聞いているでもなく聞き流し、イーヴはおもむろに念を押すように問いかけた。
「ところでさ」
「……何?」
「……本当に、行くつもりなの? やめるなら今のうちだけど」
「う……」
 そう尋ねた瞬間に、彼女はそれまでの悪態を瞬時に引っ込めた。
 身を固くして、何かを訴えるようにイーヴの顔をじっと見つめる。が、少年はいつも通りのぼんやりとした表情を返しただけだった。
 カリルはしばらく思案した後に、たった一度だけ、深く肯いた。




 内の森には、魔女が住んでいる。
 村の子供たちの間で、まことしやかに囁かれている噂。
 いつだって、子供の噂というのは大げさで、無責任なものだ。けれど子供たちにしてみれば、それはとても楽しいお遊びであると同時に、とても真剣な、真面目なことなのだ。
 村は、森に囲まれていた。
 広大な森林地帯の事であるから、どこからどこまでが森という事はない。木々の連なりが続く限り、どこまでもどこまでも、森は続いていた。
 その森の中を、街道に向かって一本の道が伸びている。
 その道の途上に村の墓地があって――その墓地の辺りまでの森を内の森、その向こう側を外の森、というふうに村人達は呼んで区別していた。とは言え、さほど厳密な区別というわけでもなかったが……。
 ともあれ。
 内の森には、魔女が住んでいる。
 その魔女は、普段は人間と同じ顔をしている。
 一見、人間の住むような家に住んでいて、日曜の礼拝にも素知らぬ顔でやってくる。けれど、誰も見ていないところでは――月夜の晩に出歩いたり、薄暗い森の中をさまよい歩いたり、あやしげな薬を沢山作ったり……その他何をしているのか、想像すらつかない。
 大人達もそこに住んでいる魔女の存在を知っているが、騒ぎ立てて魔女に睨まれたくないのと、無用に子供たちを怖がらせたくないのとで、黙っているのだ――。
「そんな話、誰に聞いたの?」
 自慢らしげに話して聞かせるカリルに、イーヴは不審の目を投げかけた。
 少年は父親と共に、春先にこの村に引っ越してきたばかりである。冬に八十六歳という高齢で亡くなった老司祭の代わりに、王都からやってきた新任の司祭。三十半ばという若い司祭の連れてきた一人息子、それがイーヴだった。
 父と子、家族と言えば、ただ二人だけだった。
 二人は前任の司祭と同じく、教会を住居としていた。病気がちであまり身体の丈夫ではない少年は普段はあまり出歩くことも無かったが、その少年に何かと要らぬ面倒を見ていたのが、カリルだった。
 熱弁をふるっていたカリルだったが、イーヴの冷静な声はそれに思いっきり水を差していた。カリルは不満げに、彼の質問に答える。
「誰って――ナッシュがそう言ってたんだけれども」
「ナッシュが、ねえ」
 村の少年の名前を聞いて、イーヴはため息をついた。
「……何、その反応は。私の言うこと、信じていないの?」
 ふくれっ面でそう不満を漏らすカリルに、イーヴは諭すような口調で言った。
「カリルが言っている魔女って……アーシアの事じゃないの?」
「へ……?」
 イーヴの口からするりと出てきた名前に、カリルは呆気に取られた。
「どうして知っているの?」
「村外れの薬屋さんでしょう? あの人が元は魔法使いだっていう話なら、父さんから聞いているよ」
「……なーんだ、知ってたのか」
「そりゃ、知ってるよ。……君が言う通り、日曜の礼拝にもたまに来ているし」
 イーヴの言葉を右から左に聞き流しながら、彼女は落胆の表情を隠さなかった。
「あーあ。取っておきの話だったのに……」
「取っておき、ねえ」
「だって、魔女なのよ? 魔法使いなのよ? イーヴは怖くないの?」
「いや、別に――」
 詰め寄られて、イーヴは苦笑せざるを得なかった。
 そもそも王都で生まれ育った少年にしてみれば、魔法使いなどというものは珍しくもなんともない。かつて大学で神学の教鞭を取っていた父の知り合いにも、何人かいたくらいだったし。
 けれど……やはりここは辺境なのだろう。そういう偏見が、いまだ根強く残っているのかも知れない――少年はそう思って、ため息をついた。
「なんならさ、カリル」
「……何?」
「その、君の言う『魔女』に、今度会いに行ってみようか?」
 少年の何気ない言葉に、今度はカリルの方が呆然とする番だった。




     3

 イーヴの提案は突拍子もない事のように思えたが、話を聞いてみればごく当たり前のことだった。
 少年は身体が弱い。
 だから、薬が必要である。それを、買いに行く。
 たったそれだけの話だった。
 考えてみれば、風邪もろくに引かないカリルである。薬なんてものに縁がない以上、薬屋には縁がない。つまりは、その『魔女』とも縁がなかった……いや、縁がなかったらからこそ『魔女』などという噂を簡単に真に受けて吹聴していたのかも知れなかったけれども。
 二人は教会で待ち合わせて――一足先に老人達が教会にどかどかと押しかけて来るという一幕こそあったものの、昼過ぎには無事に薬屋に向かって出発した。
 森を抜ける一本道。その道沿いに、薬屋はあった。
「……そうよね、薬屋さんだものね」
 何せ、噂の魔女である。会って話でもしようものなら、いつもホラ話ばかり吹聴しているナッシュを仰天させる事も出来る……そんなこんなで気安くイーヴに同行してみたものの、いざ涼しげな顔の彼と共にその魔女の元へ向かっているのだと思うと、カリルとしてはどうしても胸騒ぎを覚えずにはいられない。ただの薬屋さん、ただの薬屋さん、何でもない、何でもない、何でもない――。
 カリルは心の中でそんな言葉を繰り返し言い聞かせながら、自分を納得させようとしていた。




 薬屋の建物は、森の中にひっそりと佇んでいた。
 村から墓地へと続く一本道の途中。その道から少し奥まった所にある、本当に小さな、小じんまりとした建物。そこが薬屋だった。
 身体の弱いイーヴのために小休止を挟みつつ、二人はようやくその薬屋の前にたどり着いた。
 店の扉は、訪れた二人をまるで招き入れるかのように開け放たれていた。それをぼんやりと見やりながら、カリルは立ちすくんでいた。
「……どうしたのさ?」
 心配げに、イーヴが問う。どれほどそうやって立ち尽くしていたのだろうか――。
「……何でもない」
「来たいって言ったのは、カリルなんだからね?」
「分かってるわよ」
 少年には気丈を装って、ぞんざいな返事を返す。けれどそこから一歩足を踏み出すのには、何かもう一踏ん切りが必要だった。
 深呼吸し、開け放たれた戸口を見据える。
「……ひょっとして、怖くなった?」
「まさか」
 言葉だけは、その指摘を否定する。
「そんなんじゃ、ないわよ」
「本当に?」
「本当よ。……魔法使いなんて、怖くない」
 その言葉は、イーヴに向かっての弁解というよりは、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
 もう一度だけ深呼吸をする。カリルは意を決して、勢いよく最初の一歩を踏み出した。
 隣に立つイーヴがそれを見ながらくすくすと笑っていたけれど、言い返すだけの余裕がカリルには無かった。
 ずかずかと歩を進めると、イーヴをあっという間に置き去りにしてしまった。自然と、彼女が先頭に立って店に足を踏み入れる形になってしまった。失敗した。
「……こんにちはー」
 カリルは恐る恐る、声をかけた。
 声をかけたきり、入り口で立ち止まる。
 返事は、無かった。
 そのまま彼女は入口を塞ぐようにして、その場に立ち尽くしてしまった。真後ろに立ったイーヴが、無言で彼女を見やる。急かすわけでも無かったが、その無言が、ある種のプレッシャーになっている事は否定出来ない。
 カリルはその無言に促されるままに、店内を覗き込む。見れば、店内は薄暗く、人の気配はまるでなかった。
「……誰かいませんかーっ!」
 カリルは思い切って声を張り上げるが……それでもやはり、返事は無かった。
「ふう……」
 誰もいないと知って、カリルは少しだけ安堵の気持ちを覚えた。まるで緊張の糸がほぐれたかのように、彼女は大きくため息をつく。
「……誰も、いないみたいね?」
「森へ行ったのかも」
「森へ? ……何しに?」
 カリルはどきりとして問い返す。魔女は薄暗い森をさまよい歩いて――。
「薬草でも採りに行ったんじゃないのかな」
 そんな不安をよそに、少年はさらりとした口調でそう説明する。
 何にせよ、引き返すならば今のうちだ。そう思ったカリルだったが……イーヴを前に、それを提案することは結局出来ずじまいだった。
「……少し、待ってみようよ」
「あ……うん、そうね」
 そう言われてみたところで、やはり落ち着かない。イーヴはと言えば、その辺に置いてあった椅子に腰を下ろして、すっかりくつろいでいる。
 カリルは二、三度深呼吸をして、あらためて店内をぐるりと見渡した。
 よくよく観察していれば、色々と興味というか、疑問のひとつふたつも湧いてくる。薬屋だって一応客商売だろうに、どうして店内はこんなに真っ暗なのだろう。ご丁寧に、カーテンもすっかり締め切ってあるし……。
 その割には、入り口の扉が開いていたのは無用心と言えただろう。乗り込んできたのが泥棒か何かだったら、この店はどうするつもりなのだろうか。
「……どうして、こんなに真っ暗なのかしらね」
「日光が当たると、あまり薬によくないからじゃないのかな」
「それじゃ、扉が開いていたのは?」
「今日は暑いから。熱がこもると、やっぱり薬によくないんじゃないかと思うよ」
 イーヴの返答にはこれといって面白味は無かった。
「……不用心なのね、魔法使いって」
 ま、不用心と言ったところで、無用に不気味がられているこの薬屋に好き好んで近寄る愚か者も、村人の中にはいないだろう。
 おそらくは、そのはずだった。あくまでも「はず」だったが。
 それにここの薬は、森から採ってきた薬草が原料になっている。盗むと言っても、さほど高価なものは無いはずだと、イーヴが講釈した。その説明に、カリルは安心したような、落胆したような、複雑な表情をみせた。
「……なあんだ」
「なんだと思ったのさ」
「だって。アーシアは魔法使いだっていうから、もっと変わった事をしているのかと思って。野ネズミとか、蛙やとかげ、変な虫とか……野ウサギの生き血を絞ったり、獣の生皮を剥いで煮詰めたり……」
「カリル、それじゃ魔法使いじゃなくて本当に『魔女』だよ」
 イーヴはそう言って、声を上げて笑った。
「……違うの?」
「違うよ。……魔女はただのお伽話じゃないの」
「だって……」
 そう言って、カリルは唇を尖らせた。イーヴに言いくるめられたのが悔しいようだった。
「イーヴは、怖くないの?」
「……何が?」
「魔法使いよ」
「……カリルは、怖いのかい?」
「……だって、何されるか分かんないのよ? 生き血を抜かれたり、呪いをかけられたり……」
「だから、魔女じゃないってば」
「ホントに、大丈夫なの?」
「大丈夫だって。……カリルが、アーシアの悪口を言わなければ、ね」
 最後の一言に、カリルはどきっとした。
 それが冗談だというのは、少年の笑い声を聞けばすぐに分かったのだけれども……普段は冗談のひとつも言わないイーヴだけに、これは本当に笑えなかった。
 カリルはむっとした表情のまま、少年から視線を背けた。
 実際イーヴの場合、父の知り合いにも魔法使いは何人もいたし……そんな中には、イーヴには魔法使いの素質があるからと言って、弟子入りを熱心に薦めた老魔法使いもいたくらいなのだ。少年の父は息子を自分と同じ聖職者の道に進ませたかったので、それは丁重に断ったのだが……。
 そんなであるから、魔法使いの事を、怖いとか恐ろしいとか思った事は、一度もなかった。
 二人はそのまま、無人の店内でぼんやりと店主の帰りを待っていた。
 やはり落ち着きの無いのはカリルで、そのうちに店の中をうろうろと歩き回り始めた。棚の中のあやしげな薬を指差し、世話しなくイーヴに向かって、これは何、あれは何と質問を繰り返した。
 だが、それにも疲れたのか、いつしか彼女は玄関先の短い階段に座り込んで、頬杖をついていた。
「……遅いわねえ」
 物憂げに呟いたまま、カリルはそれ以上何も言わなかった。最初来た時の緊張は、どこかに置き忘れてしまったようだ。待ちぼうけの不満を、素直に並び立てる。
「せっかくイーヴが苦労してここまで歩いてきたのにね」
「……そう言わないでさ。せっかくだから、もう少し待ってみようよ」
「でも」
「何なら、先に帰ってもいいんだよ? どうせ僕の用事だし」
「……」
 イーヴにそう言われて、カリルは黙り込んだ。
 二人の上に、沈黙が訪れた。
 落ち着きのないカリルだから、そういう中でもあれこれと言葉を探し続ける。けれどイーヴはと言えば、そんな沈黙に何も気まずさを覚えないのか、さっきから一言も言葉を発しない。
 やれやれ、とため息をつく。
 そして、顔を上げる。
「あ……」
 そこでカリルは思わず、小さく声を上げてしまった。
 目の前に、人影を見出したのだ。
「……」
 カリルは言葉を失った。
 午後の柔らかい陽光の下に、彼女の立ち姿がぼんやりと浮かび上がっていた。
 まるで、夢でも見ているような錯覚を覚えた。そのくらい、彼女の存在は不確かで、淡い幻のようなものに思えた。
 けれど、彼女は確かにそこに存在していた。
 内の森の魔女――薬屋の女主人である、アーシアの姿がそこにあった。
 その姿だけ見れば、それは『魔女』という言葉の持つイメージからは、到底かけ離れたものだった。陽光の下で淡く輝く白い肌。肩にかかる、豊かな栗色の髪。カリルをじっと見つめる、淡いブルーの瞳。
 二十歳になるやならずという感じの、若い女性だった。白い簡素なワンピースに身を包む、その姿がどことなくかげろうのように揺らめいて見えた。
 その彼女が、ゆっくりとカリルに向かって歩いてくる。どうして? 何故自分に向かって? 当たり前だ。ここは、彼女の家屋敷ではなかったか。
「こんにちは」
 彼女が、優しげな微笑みとともに挨拶の言葉を投げかけてきた。
 カリルは呆然としたまま、震える声で応える。
「えっと……こんにちは」
 少し緊張しながら、少女はやっとの思いでそれだけを口にした。
 淡いブルーの瞳が、まっすぐにカリルを見据えていた。
 初めて見る顔ではない。さすがに何だかんだと言っても、同じ村の人間であることには違いはなくて、日曜の礼拝などで時折見かける顔が、そこにはあった。
 言葉を詰まらせるカリルだったが、アーシアの目はすでに彼女の来訪の理由を捉えていた。その視線の先を、カリルもつられて見やる。
 椅子に腰かけたまま、イーヴはうつらうつらと眠っていた。
「……イーヴったら」
 その姿を見やるなり、カリルはぼやいた。身体が弱いからと言って、いくらなんでもあちこちで簡単に居眠りするのはちょっとどうかと思う。
 慌てて起こそうとしたカリルだったが、アーシアがそれを制止した。
「……疲れているんでしょう? ここまで歩いてきたんだものね」
 アーシアは笑顔のまま、おっとりした口調でそう言った。
 そのまま彼女は、静かな足取りで店内に足を踏み入れた。カリルもその後に、おずおずと続く。
 手にしていた籠の中には、薬草だろうか、色々な葉っぱや木の実のようなものがいっぱいに溢れていた。
「ひょっとして、随分待った?」
「あ、いえ……」
 アーシアの言葉に、カリルはおずおずと返答する。その青い瞳に見つめられると、忘れていた不安がカリルの中に甦ってくる。
 目の前にいるのは、魔法使いなのだ。
 胸が高鳴ってくる。無意識のうちに、一歩、二歩と後ずさりをはじめる。ちらとイーヴを見やるが、うつらうつらと眠ったまま目を覚まそうとしなかった。
 それを見て、アーシアがくすりと笑った。
「……多分、いつもの薬ね」
 そう呟くと、彼女はまっすぐに奥の戸棚に向かう。一番上の棚にあるその小箱は、アーシアが背伸びして手を伸ばしても、ようやく指先が触れるか触れないかくらいの位置にあった。
 そもそもどうやって置いたのだろうとカリルが疑問に思っていると――箱の方で、すっと彼女に向かって動いた。
「……!」
 カリルは一瞬、はっとした。
 気がついてみれば、小箱は何事も無かったかのようにアーシアの手に収まっている。その中から彼女が取り出したのは、琥珀色の錠剤の入った小ビンだった。
 イーヴはと言えば、椅子に座ったまま、いまだに居眠りをしていた。
 カリルはイーヴを起こそうと一歩踏み出したが、それよりも先にアーシアが動いていた。
 足音ひとつ立てない、優雅な身のこなし。
 彼女は悪戯っぽい笑みを、カリルに向かってちらりと投げかけた。
「アーシア……?」
「シッ、静かに」
 人差し指を唇に当てたアーシアは、まるで子供みたいな無邪気な笑みをカリルに向けた。そのままイーヴにまっすぐに相対して、そっと右手を近づける。
 手のひらをかざすようにして、そっと……ゆっくりとイーヴに近づけていく。
 彼女が何をするつもりなのか……カリルには見当もつかなかった。彼女は黙って、それを見ているより他に無かった。
 彼女の白く細い指先が、かすかにイーヴの頬に触れる……いや、触れるか触れないかの距離にまで近づく。
 ふいに、イーヴの肩がびくりと動いた。
「……!」
 少年は、椅子からずり落ちそうになっていた。目をしばたたいて、自分の目の前にいる女性をまじまじと見やった。
「……アーシア?」
「おはよう、イーヴ」
 アーシアはそういうと、イーヴに向かってにっこりと笑顔を投げかけた。イーヴは突然の事に、完全に言葉を失っていた。
 カリルはと言えば――一瞬、何が起こったのか分からずにきょとんとしてしまった。何が何やらさっぱりだったが、呆然としている少年の姿を見ていると、くすくすと笑みがこみ上げてくる。
 カリルはアーシアの隣に立って、イーヴを見やった。
「おはよう、イーヴ。よく眠れた?」
「あ……うん」
 やっとそれだけ返事した少年を見て、カリルはまた、くすくすと笑った。















あとがき

 どうも、ASDです。久々に発表する連載……というか、長編です。
 そもそもこの話、この「やぱ富士」の企画短編「夜」向けの短編として書かれた作品でありました。それなのに、書いているうちに見る見るうちに増えていって……というシロモノなのでした(笑)
 無事完成するかどうか、ASDにも分かりませんが……(笑) ともあれ、長丁場になるのだけは確実ですので、気長にお付き合いいただければなあ、と思います。

2001.7.21