月があなたと踊る夜 2
作:ASD





第二章




     1

 怖くなかったか、と言えば嘘になる。
 不安は無かったかといえば、嘘になる。
 けれど、カリルと『魔女』との対面には、特にこれといった事件は起きなかった。というか――それは幾分か、退屈な出来事だったのかも知れない。
 ひとつ特別な事と言えば、イーヴの払った薬の代金が、ちょっとびっくりするような金額だった事だろうか。
 驚くカリルに、アーシアが理由を話して聞かせる。イーヴの薬には森では採れない珍しい薬草が必要で、それは王都の行商人からわざわざ取り寄せているのだという。だから、その代金はその薬草の代金なのだ、と。
 それから――村から歩き詰めだった二人に、アーシアは気を効かせて冷たく冷やしたお茶を用意してくれた。そのお茶の入ったグラスのあまりの冷たさに、カリルはびっくりした。
「……な、何これ」
 しかもよく見れば、中に何やらよく分からないかたまりが浮かんでいる。グラスの壁面にぶつかって、それはカラカラと涼しげな音を立てていた。
 不審そうにそれを見やるカリルに、イーヴが事も無げに耳打ちした。
「カリル。それは、氷だよ」
 氷。……勿論、カリルだって氷を見たことが無いわけではない。ここは辺境の森林地帯であって、遠い砂漠ではないのだから。
 それにしても、今は夏である。
「氷って……こんな時期に? どうやって?」
「だって」
 そこで言葉を切って、イーヴはアーシアを見やる。アーシアはまるで敵意の無さそうな顔でにこにこと笑いながら、戸惑う少女に向かって告げる。
「だって、私は『魔女』なんでしょう? 魔女だったら、そのくらいのこと」
 そう言ってアーシアはくすくすと笑った。意地の悪いところは微塵も無い、素直な笑顔。
 その話に、イーヴは苦笑して見せただけだった。子供たちの噂話、アーシアも知らないわけではなかったらしい。
 その理由を聞いて、カリルは少し呆れてしまった。
「あのね。『魔女』に会いに来たのは、あなただけじゃないのよ?」
「……それって」
「前に、他の子供達が店に来てたの。店の前に来ただけで、私を見て逃げていっただけなのだけれども」
「それって……」
「ちょっと太めの、男の子だったかしら」
 ナッシュだ。カリルはピンと来た。
「……先を越されてたか」
 そう言って、少女は落胆の表情を見せる。そんな彼女に、アーシアは優しそうな笑顔を見せた。
「そんなこと無いわよ。気を落とさないで」
「……どうして」
「だって、あなたは『魔女』と一緒にお茶を飲んだんだから。それは自慢にならない?」
 アーシアはそう言って、フフフッと声をあげて笑った。その笑顔は『魔女』という言葉の持つ禍々しいイメージとはかけ離れたけれど……悪戯っぽいその笑い声が、カリルの耳に残った。
 それだけ、だった。
 後は、アーシアとイーヴが世間話を交わしていただけ。村の様子だとか、教会での暮らしぶりだとか……そんな他愛の無いことを、イーヴは熱心に話していた。
 カリルは、それをつまらなそうに見ているだけだった。
 どうしてつまらないんだろう――その理由は、考えなくてもすぐに分かった。
 さっきから、少年が一度もカリルの方を見ていなかった。彼はずっと、アーシアを見ていたのだ。
 その意味をどう捉えたものなのか――あまり深く考えたくなくて、カリルはぷいと横を向いてしまった。




     2

 その翌日の夕方。
 イーヴはほうきを片手に、礼拝堂の掃除にいそしんでいた。明日は日曜日――週に一度の、礼拝の日だ。
 父の手伝い、というよりは司祭見習いとしての仕事、と言った方がいいのかも知れない。当の司祭本人はと言えば、自室にこもって、聖典と首っ引きで明日の説教の文句を準備をしているはずだった。
 父は気難しい。
 そもそもは、こんな辺境の村に一介の司祭としてやって来るような人物ではないのだ。王都の大学では神学の教鞭を取っていた。聖職者であると同時に、若くして名の知られた神学者でもあった。
 変化が訪れたのは、半年前の事だ。
 そう、半年前。
 イーヴは目を閉じる。
 目を閉じれば、いつだって思い出せる。
 そう、それは冬、小雪の舞う冷たい朝――。
 母の死は、その息子よりもむしろ残された夫の方に深い衝撃を与えた。病弱な母親。一生のおおよそを寝たきりで過ごしていたような、身体の弱い女性だった。
 長くは生きられない――幾度となく医者にそんな言葉を投げかけられていた。成人になることすら危ぶまれていたし、結婚した後も子供は生めないだろうと言われた。
 それでも、出産にも耐えてみせたのだ。イーヴを産んで――それは彼女と同様に病弱な子供だったけれども――その後も、少年の成長を少なくとも十三年は見守ってみせた。
 その母が、死んだ。
 イーヴにして見れば……それは深い衝撃であったと同時に、安堵の気持ちもあったのだ。
 晩年、母は病に蝕まれ、苦しんでいた。
 死は哀しい。けれども、もう彼女が苦しむ事はない。発作を起こして苦しむことも、夜中に辛そうなうめき声をあげ続ける事も、もはや無い。
 だから、少年は母の死を悼みこそすれ、それを必要以上に嘆き哀しむことはなかった。
 少年がそんな哀しみに耐えた分だけ、父の嘆きは余計に深かったのかも知れない。
 ともあれ、父の受けた衝撃は大きかった。病弱な妻の死は予測された死ではあったが――それが、愛する妻を失った夫の嘆きを埋める事はない。
 哀しみ嘆くままに、父は絶望の中に沈み込んでいった。
 しばらくは、イーヴは父に言葉ひとつかけられなかった。大学にも出向かなくなり、家に閉じこもったまま――。
 辺境に移る、という話を唐突に切り出された時も、少年は何故そんな事に、といぶかしみはしなかった。母の想い出が色濃く残るこの王都に、父は居たくないのだろう――それは簡単に察しがついた。
 だから、この辺境の村にも黙ってついて来たのだった。
 けれど正直言って、わがままを言って王都に残っても良かったのかも知れない……そうも思わないわけではなかった。
 少年は、母に似て病弱だった。
 似ているのは、身体の弱さばかりではないだろう。亡き妻に面影のよく似たおのが息子を、司祭は直視しようとはしない。
 イーヴ自身、父に避けられているという自覚はあった。
 それだけに、イーヴも息子ではなく、司祭の助手に徹する事で、それを忘れたかったのかも知れない。
 そう思って、黙々とほうきを動かした。掃除を手伝わないからと言って、父を責める気には到底なれなかった。




 そうやって黙々と床を掃いていると――。
 不意に、礼拝堂の重い扉が押し開かれ、何者かが転がり込むように駆け込んできた。
「しっ、司祭さまーッ!」
 声が、礼拝堂の高い天井に陰々と響いていく。イーヴはほうきを持つ手を止めて、突然の来訪者を見やった。
 見知ったひょろ長い顔。村の人間だ。
「……カニンダさん?」
「ああ、イーヴ! 司祭さまは今、いねえのかい?」
「……ええと、お急ぎですか?」
 一人で自室に篭っている父の邪魔は、あまりしたくなかった。今日みたいに説教の文句を練っているのでなければ、難しい書物に目を落としていたり、難しい書き物に集中しているのが大半である。不興を買うのは、イーヴでも避けたかった。
「いや、まあ……急ぎと言えば急ぎなんだけどもよう……」
 妙に歯切れの悪い言葉。イーヴでなくとも、事情をいぶかしんだ事だろう。どうしたものかと思っていると……丁度折よく、父が奥から姿を現した。
 すらりと背の高い、細身の紳士がそこに立っていた。三十も半ば、こんな辺鄙な村の司祭をやっているにしては随分と若い。
 ウォーレン・ウィルフリード。それが司祭の名だった。
「一体、何事かね」
 落ち着いた、それでいてよく通る声だった。
「ああ、司祭さま」
 カニンダ氏は慌てて、司祭の元に駆け寄っていく。足跡の形の泥が床にくっきりと残されたのを見やって、イーヴはため息をついた。
「……やれやれ」
 視線を戻せば、彼は父に何事かを耳打ちしていた。ちらちらとイーヴの様子を窺っているのは、子供に聞かせる話ではない、という事だろうか。
 ウォーレン司祭は深々とため息をつくと、渋々ながらに肯いた。
「……分かった。仕方がないな」
「すんません、お忙しいところ」
 村人が謝罪の言葉を吐いたかと思うと、二人はそのまま連れ立って礼拝堂を出ていった。
「すまない、イーヴ。私はちょっと出かけてくるよ」
「え……」
「遅くなるかも知れない。夕食に私を待つ必要はない」
 そのまま二人は、慌しくその場を後にする。やがてイーヴは、静けさを取り戻した礼拝堂に、一人立ち尽くしていた。
 残されたのは、泥の足跡だけ。
 ふと見やると、開け放たれた戸口のところに、見慣れた赤毛の少女の姿があった。
「あれ、カリル?」
「……司祭さまは?」
「今しがた、出かけていったよ。一体どこへ何しに行ったんだろうね」
「随分、慌てていたわよね……」
 カリルはそう呟くと、勿体をつけて何かを考え込むようなポーズをとった。
「なんだ、見てたんだ」
「見てたわよー。クレンダさんが、大慌てて司祭さまを連れ出して……そのまま馬車で走っていったの。これは絶対、何かあるわね」
「何かって……?」
 また始まった、とイーヴは少し呆れた。ともあれ……。
 イーヴ自身も、何事があったのかと思案してみる。急用のようだったが、一体何だったのだろうか。病人や怪我人にしては、クレンダ氏の様子はちょっと変だった。一体なんだろう……考えてもまるで分からない。
 そうやって首を捻っているイーヴを、カリルは何の遠慮もなしにじいっと見入っていた。
「な、何?」
 その視線に気付いて、イーヴはどぎまぎする。
「……その様子じゃ、イーヴは何も聞いていないみたいね、司祭さまからは」
「何の事?」
「っていうか、ひょっとして何の事だか、全然気付いてなかったりして」
「……一体、何の話?」
 問いかけるイーヴを、カリルはにやにやしながら黙って見やる。たっぷりと空白を置いて、彼女は口を開いた。
「墓荒らし」
 勿体をつけたわりには、ぽつり、と実に何でもないかのような口調だった。
 呆気に取られているイーヴに向かって、彼女はもう一度念を押すように同じ言葉をはっきりと告げる。
「墓荒らし、よ」
「墓荒らし、って……」
「文字通り、何者かが墓地を荒らしているのよ!」
 そう言って、彼女は得意げにニヤリと笑ってみせた。物騒な事を言っているわりに、その口調は実に愉しそうだ。
 ほら、始まった……イーヴは思わず頭を抱えそうになったが、今回はちょっと違うような気がする。
 アーシアが魔女、と言う無責任な噂と違って、それは現実問題としてありえない話ではない。魔女はこの世にいないが、墓地はその気になれば実際に荒らせるのだから――それだけに、カリルのその言葉は無視出来なかった。
「何なのさ、その墓荒らしって……」
 そんなイーヴに向かって、カリルはいかにも勿体ぶった調子で講釈を始める。
「まさに文字通りよ。村の墓地を、何者かが荒らしているのよ。そいつは夜な夜な現れては、墓を掘り返して……下に埋まっている死体を、引きずり出してしまうんですって。死体は何かで切り刻んだみたいにばらばらにされていたり、あるいは力任せに手足を引きちぎられていたり……腹を食い破るか切り裂くかして、内蔵もめちゃくちゃにされているって。持ち出されて、消えた死体もあるとかないとか……」
「……」
「何か得体の知れない化け物が、村の近辺をうろついているのよ。墓を荒らして死体を食べて……」
「ちょ、ちょっと待って」
 調子に乗って来た所で、イーヴは彼女を制止する。さすがにここまで来ると、話は飛躍し過ぎるというものだ。
 カリルは少し不満気げな顔を見せる。
「何よ、これからいい所なのに……」
「その話、誰から聞いたの。またナッシュ?」
「……うん、まあ、ナッシュの馬鹿も色々偉そうに言いふらしていたけれど……」
「そう言うの、真に受けているわけ。カリルは」
 少年の口調は、少しばかり彼女を責めているようにも聞き取れた。
 ふと気がつけば、そこは神の家だし、イーヴは聖職者の卵みたいなものだ。ちょっと口が過ぎたかと、さすがのカリルも後悔した。
「で、でもさ。クレンダさんがあんなに大慌てで出ていったんだから、何かあるのは、事実なんじゃない……?」
「それが、墓荒らしだっていうわけ」
 イーヴは、どこか冷ややかな口調でそう言い返した。
「いいよ……カリルがそう言うんなら、今度父さんに聞いてみるよ。それが嘘か本当かはっきりするまで、それ以上そんな無責任な事をあちこちで言いふらしちゃダメだよ?」
 少年にぴしゃりと言われて、カリルはしょんぼりと首をすくめた。




     3

 カリルにしてみれば、災難だったのはその後礼拝堂の掃除を手伝わされた事かも知れなかった。
 夜遅くなったとはいえ父も無事に戻ってきて、翌日の日曜日の朝、礼拝は滞りなく行われた。
 イーヴが父とともにこの村にやって来て、はや数ヶ月。新しい司祭の評判はさほど悪くはないと見えて、その朝も結構な数の村人が礼拝堂に集まって来ていた。
 とは言え、当の司祭自身はあまり村に馴染んでいるとは言い難かったかもしれない。自室にこもって古い書物に埋もれ、日頃あまり教会の外には出ようとしない父である。さほど姿を見せぬ彼に変わって、時には神の家を尋ねる村人達の相手を、イーヴがすることもある。年端の行かぬ少年の説教でも彼らは文句は言わなかったが……。
 ともあれ……その日曜の礼拝で、村人相手に朗々と説教の言葉を吐いているのは紛れもなくイーヴの父、ウォーレン司祭その人だった。村人達はその文句に聞き入っており、無駄な雑談を交わすものはいない。……年端も行かぬ幼い子供達は、その限りではなかったが。
 そんな群集の、そのずっと後方に、イーヴはアーシアの姿を見出した。
 普段村人達との交流の少ないアーシアだったが、礼拝には割とまめに顔を出していた。
 たまたま席が隣同士になった村人達の、その遠慮がちな応対に苦笑してみせるアーシアを、イーヴは祭壇の脇からぼんやりと眺めていた。
 やがて説教が終わると、人々は賛美歌を歌い、祈りを唱和する。そのうちにその日の段取りは滞りなく終了し、席を立った人々はぞろぞろと出口に向かっていく。
「イーヴ!」
 その人々の流れと喧騒をぼんやりと眺めていた彼の耳元で、その声がけたたましく鳴り響いた。
「うわっ」
「うわ、じゃないでしょうが」
 イーヴのその反応に、声をかけた赤毛の少女は憤慨の意志を示した。
「何よ、人がせっかく声をかけてあげているのに」
「……カリル、脅かさないでよ」
「脅かしてないわよ」
 カリルを横目に礼拝堂を見渡せば、残っている村人は随分とまばらになっていた。家族で歓談しながら出口へ向かっていくものもいれば、説教が終わって片付けに入っているイーヴの父を呼び止めて、何事か質問したり、世間話をしたりと声をかけている者もいる。
 ふと片隅に目をやれば、アーシアは村人に囲まれ、何事かを話しかけられていた。薬が欲しい、とかいう話をしているようで、村人達は用件だけ告げるとそそくさと彼女から離れていく。アーシアは愛想よく微笑んではいるが、その横顔は少しだけ寂しそうにも見えた。
「なに見とれているのよ」
「別に、見とれてないよ」
 そうは言いながらも、その視線がアーシアを追っていたのは事実だった。否定しながらも、泳いだ視線はいずれ彼女の元に止まる。
 そうやってちらちらと彼女の様子を窺っているのが、カリルは少し気に入らなかった。少女はイーヴに、とっておきの話題をぶつける。
「そう言えば、昨日の事なんだけれど」
「何……?」
「あれって、やっぱり墓荒らしだったみたい」
 そう言ってカリルはにやりと――にこりではなく、あくまでもにやりと――笑う。イーヴはあからさまに、気分を害された、とでも言わんばかりの表情を作ってみせた。
「……どうしてそういう話になるのさ」
「うちの父さんが話しているのを、聞いちゃったの。……イーヴは、司祭さまに訊いてみた?」
「いや、まだ何も」
 そういいながら、イーヴは今度は父を見やる。村の男達に囲まれて、何やら難しい顔をしてひそひそと話し合っている。色々と相談事を持ち込まれるのも司祭の仕事のようなものだが、神に許しを乞えるだろうか、などと話しているようにはちょっと見えなかった。
 もし墓荒らしなどという呪われた所行が実際に行われているとして――何者の仕業なのか、という不安もあるが、現実的な問題として再度の埋葬は明らかに司祭の仕事だ。父が何も知らないはずはない。
 ……その父から目を逸らすと、いつのまにか礼拝堂からアーシアの姿が消えていた。
 あからさまに落胆の表情を示すイーヴを、カリルが思いっきり小突いた。




     4

 墓荒らしの事など、大人達が子供に吹聴することはない。けれど、イーヴが尋ねてみれば父は素直に認めた。
「どこでそんな話を聞いたんだね」
 司祭の口調は、別に少年を問い詰めるようなものではなかったので、イーヴは一応安堵した。と言うより、半ば呆れるような口調のようにも思えたが。
「皆、勝手に噂しているみたいだよ。怪物が死体を食い荒らしているとか、そういう話」
「ふむ……」
 父は困った顔をして、憂いの表情を見せた。
「確かに、それは少しひどいな」
「何で内緒になっているの?」
「何者の仕業か知れたものではないのに、あまり無責任な噂が横行するのは好ましくない」
「でも、もう横行しているよ」
「そうだな……それについては、私から村の皆に伝えておく事にしよう」
「遺体を埋葬するんでしょう? ……僕、手伝わなくてもいい?」
「村の皆が手伝ってくれているから、それは心配いらない。それよりもイーヴ、すまないが礼拝堂の片付けを頼めるかな?」
 父はそう言い残して、午後から村人達と出かけていった。置き去りにされたイーヴは言いつけ通り、一人で礼拝の祭壇を片付ける事にした。
 そんなイーヴ一人きりの礼拝堂を、いったんは家に戻ったはずのカリルがもう一度尋ねて来た。
「……ね、うちの父さんだけど。やっぱり、墓地の方に出かけていったみたい」
「知っているよ」
 イーヴがあまりに素っ気なく答えたので、カリルは少し面食らったような表情になった。
「……どうして?」
「さっき、父さんに聞いたんだ。墓が荒らされたから、午後から埋葬だって」
 そんな少年の言葉に……何故かカリルは目を輝かせた。そんな彼女の表情に、イーヴは嫌な予感を覚える。
「……何。何なのさ」
「イーヴ。その情報は、貴重よ」
「?」
「だって、考えてもみてよ。それって、ナッシュの馬鹿が吹聴しているほら話なんかより、百万倍も信用できる情報なのよ?」
「あ、あの……カリル?」
「行きましょう」
 彼女はそう言って、イーヴを真正面から見据えた。まっすぐに見入られて、嫌と言うのは少し難しかった。




 今日は空も幾分曇っていて、割合に風も涼しい。
 となれば、天候は断りの材料にはならない。イーヴは渋々ながらに、カリルに連れられていく事になった。
 墓地は、アーシアの薬屋から少し行った先にある。さして遠くもない道のりではあったけれど、身体の弱いイーヴにはひと苦労なのはどうにもならない。カリルに急かされながらも、休み休み、のんびりとした行程で二人はようやく目的地にたどり着いた。
「ほら、イーヴ。見て」
 そこには、確かに大人達が墓地に大勢集まっていた。入り口からこっそりと集団を窺う子供達。一応、気付かれないように注意を払う。
 墓石の影に隠れるようにして、カリルは目を輝かせながら葬列を見入っている。イーヴもまた、息を整えながら一緒にそれを見ていた。
 見れば司祭が、朗々と聖句を読み上げているのが聞こえてくる。
「ね、イーヴは知っている? あの遺体、本当に身体が切り刻まれているの?」
「知らないよ。遺体の状態なんて、神に仕える身に何の関係があるのさ」
「無いことないでしょう。悲惨な死に方をした人は、それなりに手厚く葬ってあげなくちゃ」
「でも、荒されているのはもう死んでる人達だよ?」
「……それもそうね。その場合、どうなのかしら?」
 そんな不謹慎な話とは裏腹に、埋葬は厳粛に進められていた。イーヴはそれを見やりながら、カリルを横目で睨みつける。
「そもそもそんな話、墓地で話す事じゃないと思うけれど」
 イーヴの小言に、カリルは不満そうな表情を示しながらもそのまま黙り込んでしまった。
 イーヴも黙って、葬列を見やる。聞こえてくる聖句は、普段と同じようにさほど抑揚のない、物静かな口調だった。
「司祭さまって、なんかいつも元気なさそうね」
 カリルまでもが、そんな事を言う。
「……あれ?」
 不意に、カリルが声を上げた。
「どうしたの?」
「イーヴ。ほら、あっち」
 カリルは不意に、葬列とは全然別の方向を指差した。イーヴが慌てて視線を走らせると、目に飛び込んで来たのは……アーシアの姿だった。
「……アーシア? なんで、ここに」
 たった今墓地に入ってきた彼女は、葬列の村人達にちらりと目を向けると、さしたる興味も示さずに、別の方角に向かって歩いていった。
 墓地の向こう側に伸びるなだらかな斜面を、彼女はゆっくりと登っていく。
「イーヴ……行ってみましょうよ」
「え、だって……」
「会いたいんでしょう?」
 カリルはそう言ってにやにやと笑みを浮かべる。次の瞬間には、彼女はイーヴの手を引いていた。
「わっ、ちょっと」
 その抗議は聞き入れられる事無く、イーヴは無理矢理に引っ張り出されてしまった。
 駆けていくカリルの足は、意外に早い。ゆっくりと斜面を歩くアーシアの白い影に、二人はあっという間に追い付いた。
 カリルが、馬鹿みたいに陽気な声で挨拶をする。
「こんにちは!」
 さすがに、その大声に振り返らないものはいないだろう。葬列に聞こえる、とイーヴが苦情を訴えるが、それを聞き入れるカリルではない。
 アーシアはその場で足を止め、二人を見やった。
 考えてみれば、この間までは彼女の事を魔女だと怖がっていたはずのカリルである。それが今日は自分からイーヴの手を引っ張ってきたというのも何だかおかしい。
 無理矢理に引っ張り出されたイーヴを見やって、アーシアは小さく苦笑した。
「こんにちは。カリル、イーヴ。……二人とも、こんな所で何をしているの?」
 アーシアの目が、まっすぐにイーヴを見やる。イーヴは返答にとまどい、言葉を詰まらせてしまった。
「えーと、その……」
 アーシアは穏やかな表情を崩さぬまま、遠くの葬列をちらと見やる。
「墓荒らしね?」
「うん」
「……嫌なものね」
 アーシアは、ぽつりとそう言った。それに続けるように、ぴしゃりと言う。
「あなたたちも。あんなものを見に来ちゃ駄目じゃない」
 何も言わなくても、子供達の行動などお見通しというわけだろうか。諭すような口調のアーシアにじっと見入られて、イーヴはすっかり萎縮してしまった。
「だって、カリルが……」
「イーヴッ」
 自分のせいにするなとばかりに、カリルの非難がましい声が飛ぶ。脇腹を小突かれて、イーヴは苦笑しながら身をよじらせた。そんな二人を見て、アーシアは笑った。
「……カリル、イーヴは身体が弱いんだから、あまり無茶を言っちゃ駄目よ」
「はーい。……アーシアって、イーヴのお母さんみたいな事言うのね」
 唇をつんと尖らせながら、少女がぼやいて見せる。その言葉に、イーヴは耳まで真っ赤になってしまった。
 ふとアーシアを見やれば、彼女もまた、照れ笑いを浮かべていた。
 そのまま、アーシアは再び歩き始める。その後を、子供達が続いていく。葬列を遥か下方に見下ろすその位置で、彼女はとある墓石の前にして立ち止まった。
 他に居並ぶ墓石と何ら変わる事のない、何の変哲も無いそっけない墓石。
 アーシアはその墓石を、ただ黙って見下ろすだけだった。
 その墓碑名を、イーヴは見やった。
「クラヴィス……って、これ……」
「そう、私の夫の墓よ」
 アーシアはそう語って、かすかに照れたように笑みを浮かべた。その口調が、どこか嬉しそうで、どこか寂しそうで……アーシアは墓石を見入ったまま、後を続けた。
「近いから、薬草を取りに出たついでに、ついつい足を運んじゃうのよね」
 そうは言うものの……その日の彼女は、薬草も持っていなければそれを入れるかごも携帯してはいない。彼女の言うように、確かに薬屋と墓地はすぐ近くにある。今日は最初から、墓参が目的だったのだろう。
「……アーシアの旦那さまって、どんな人だったの?」
 カリルが、何気なく尋ねる。
 墓の主が亡くなったのは五年前。その人物が村に舞い戻ってきたのはその一年前。カリルもまったく知らない人ではなかったが、村外れに居を構え、ほとんど顔を見せないその人物の印象はとても希薄だった。
 少女の無邪気な質問に、アーシアは笑った。
「そうね……とても、素敵な人だった」
「……」
「そう、とてもいい人……ハンサムで、カッコよくって」
「剣士だったんでしょう? 強かったの?」
「ええ、とても。王国軍で、右に出るもののない剣の名手だったって」
「……本当?」
「あら、疑うの?」
 二人は、はしゃぎながら言葉を交わしていた。
「……でもね。やっぱり、病気には勝てなかった」
「……」
 アーシアは、どこか哀しそうな表情で、墓石を見やった。その寂しそうな横顔を、イーヴはただ黙って見つめていた。
 墓石の周囲には、小さな白い花がいくつも揺れていた。その周りを、三つ葉のしろつめくさがびっしりと埋め尽くしていた。
 カリルはしゃがみ込んで、何気なしにその葉を摘み取る。
 アーシアも一緒にしゃがみ込み、その白い指先を群生する一面の緑色に差し伸べた。
 沈黙が、一行の上に訪れた。
 丘の下から緩やかに吹きつける風が、三人を包み込む。向こうからは、司祭の声が朗々と響いてくる。
 何気なしに、アーシアは足元の葉を摘み取って、空に向かってかざした。
「あ、アーシア!」
「なに、カリル?」
「それ、四つ葉!」
 カリルが羨ましそうに声を上げる。三つ葉のはずのしろつめくさなのに、彼女の手の中にあるのは確かに四つ葉だった。




     5

 大人達が墓地から引き返してくる前に、イーヴとカリルの二人は一足先に教会に帰ってきた。
 片付けを途中で放り出してきたので、父が帰るまでに済ませないといけない。そう思って、イーヴは慌てて祭壇の元に駆け寄った。
 説教台の上には、父の愛用の分厚い聖典がある。祭壇の上には、聖水を満たした銀杯が――ない。
 イーヴは、愕然とした。
「……どうしよう、カリル」
「どうしようって、そんな」
 二人は顔を見合わせる。銀杯がそこに無くて、司祭がまだ墓地にいるのならば……それはつまり、他の誰かが持ち出したということになる。
 他の、誰か。
「……泥棒ね」
 カリルはそういって、目を光らせた。
 また始まった、とイーヴは思ったが、それを非難している場合ではない。何より、嘘や冗談ではなく銀杯は確かに消え失せているのだ。
「……とにかく、誰か村の人を呼んでこようよ」
「何言ってるのよ! そんなこと出来るわけないじゃないの!」
 教会の備品はつまり村の共有財産である。管理責任を問われて……と難しい事を言わなくても、イーヴもカリルも、二人とも大目玉を食らうのだけは確実で、出来ればそれは避けたい。
 カリルが、推理まがいに論を重ねる。
「犯行は私達が行って帰ってくるまでの間。よそ者なら墓地からの一本道を通らずに行き来出来るはずがないし、村に残っている人は限られているから――」
「……ちょっと、待って」
 イーヴが、不意に彼女を制止した。
 その少年の視線が、礼拝堂に居並ぶ長椅子の方に注がれている。ゆっくりとそっちへ歩み寄っていくイーヴの後を、カリルもそっと続いていく。
 ひとつひとつ、長椅子の間を見て回るイーヴ。そして……。
 そこに、その人影はあった。
「……イーヴ、これって」
 二人は唖然とした。二人のまったく見知らぬ大男の姿が、そこにはあった。
 大きな体躯のその男は、長椅子と長椅子の間の隙間に、狭苦しそうに身を押し込めていた。大の大人が横になるのが不可能なスペースではなかったが、男の身体のサイズすれば、見るからに窮屈そうだ。
 それでも、男は狭いとか苦しいとかいう不平を、ひとつも漏らさなかった。何故なら……その男は、眠っていたからだ。
「寝ているの? ……それとも、死んでいる?」
「……とにかく、見てみようよ」
 三十になるやならずか、という男だった。青年という程若々しくはなかったが、中年というと多分気を悪くするだろう。
 日に焼けた、浅黒い肌が印象的だった。黒髪は短く切り揃えられていたが、あごには不精ヒゲがびっしりと生えている。身にまとっている衣服は砂ぼこりにまみれてぼろぼろだった。
 彼の荷物なのだろう、さほど小さくはないのにその巨躯と比較して小振りに見える、ずた袋のような背負い袋を枕に、男は呑気に眠っていた。
 その太い腕の中に、銀の杯が抱かれていた。
「……これって、どういう事だと思う? カリル」
「泥棒よ。そうに決まっている」
 カリルは男にやたら非難がましい目を向けた。泥棒ならどうしてこんなところで呑気に寝ているのかという疑惑はあったのだが……。
 何故こんな場所に身を押し込めているのかは想像がつく。おそらく、長椅子で眠っていたところずり落ちてしまったのだろう。泥のように眠る彼は、ぱっと見た目、まるで死んでいるようにも見えた。
 カリルに急っ突かれて、イーヴは男に接近する。見れば、荷物の袋からは何やら細長い、棒のようなものが覗いている――いや、棒にしてはちょっとおかしい。それは板のように平べったくて、細長くて、先へ行くほど尖っていて、その反対側には握るのに都合のいいように革が巻いてあって――。
 剣だ。それもかなり大きい。
 護身用、というにはちょっと物騒な得物だった。ともあれ、眠っている今が、銀の杯を取り返す絶好の機会と言えただろう。
 ふと見やれば、カリルはいつの間にかぐるりと向こう側に回り込んで、反対側から男に接近してきている。爪先の側からイーヴが、頭の方からカリルが。二人に囲まれて、そんな事など気にもかけずに男は眠り続けていた。
 カリルが、無言で合図を送る。イーヴは渋々、男に接近した。
 長椅子の上に膝を乗せ、そのまま膝を擦り合わせて前進する。椅子の背もたれに手をついて、身体を伸ばして銀杯に指先を伸ばす――。
 不意に。
 男の手が動いた。
「うわっ」
 その手に、イーヴは手首をがっちりと掴まれてしまった。少年はびっくりして後ずさろうとするが、手首を痛いほどの力で握られていてはどうにもならない。
「何しやがるんだ、小僧。このぬすっとめ」
 ぬすっとはどっちだ、とイーヴは思ったが、突然の事に言葉を失っていた。
 男は素早く上体を起こす。椅子と椅子の隙間に身体がはまっていたので、素早く、というには少々もたついていたが、子供達を圧倒するには充分な身のこなしだった。
「……返せ! その杯を返してよ!」
 イーヴは腕をねじ上げられながら、精一杯の抗弁を試みた。
「返せだと? それじゃまるで、俺の方が泥棒みたいじゃねえか」
「それじゃ、その手にあるのは何なのさ! その杯は、教会のものだぞ!」
「あ……?」
 その時になって初めて、男はイーヴを掴んだ手とは反対の手に握られているものに視線を落した。
「ああ、こいつか……」
 そういうと、男はイーヴをねじ上げる力を緩める。
「ぼうずは、村の人間か?」
「……そうだけど?」
「そうか……へへ、悪かったな。喉が渇いていただけなんだが……」
「その中に入っていたのって、聖水なんだけれど……」
 聖水とは言っても清めの儀礼を経ているというだけで中身は普通の水なのだが、気軽に飲んでいい種類のものではない。
 だが、男はそんな事を気にかけるような種類の人間には見えなかった。彼は笑いながら、イーヴを解放する。
 イーヴは捕まれていた手をさすりつつ、男を睨みつけながら後ずさった。
「そう怖い顔しなさんなって。疲れてたんで、そのまま寝ちまっただけだ。ほら」
 そう言って男は杯を差し出す。イーヴはそれを、おずおずと受け取った。
 そのイーヴの目が、驚愕に見開かれた。
 少年の視線は男の背後に注がれていた。何事かと男が振り返ると――そこに、カリルが立っていた。
 その手には、大振りの剣が握られていた。
「イーヴから離れなさいっ」
「ちょ、ちょっと待て、嬢ちゃん!?」
 そう、男がイーヴにかまけている間に、カリルが彼の剣を抜き放ったのだった。
 抜いてみれば、その刀身はカリルの身長に少し足りないくらいの長さがあった。その重たい金属の棒切れを、カリルは男に向かってまっすぐに突き付けた。
 ……つもりだった。両腕は剣の重量を支え切れずに、切っ先はすぐに真下に垂れ下がっていく。男は身の危険を覚えて、反射的に立ち上がって後ろに引いた。寝起きの割には素早い反応だった。
 すとん、と落ちた切っ先が、さっきまで男のいた辺りを穿つ。ぼんやりしていたら、爪先くらいは怪我していたかも知れない。
「ちょ、ちょっと、カリル!」
「おい、危ねえじゃねえか!」
 二人は、血相を変えて後ずさりを始める。イーヴはさっきまで警戒していた男の背中に、避難するように回り込んだ。
 制止の声も聞かずに、カリルは渾身の力を込めて剣を振り上げた。
「うわっ、危ねえ!」
 男はそう言って派手に後ずさった。その拍子に、椅子の足に爪先を引っかけてしまい、そのまま後向きに転んでしまった。転倒する男の巻き添えにならぬように、イーヴは慌てて後ろに下がる。
 カリルはと言えば、振り上げた剣の重量につられて、後ろに大きくつんのめった。
「カリルッ!」
 イーヴが思わず、声を上げる。
 カリルはそのままよろよろと後ずさり、切っ先はそのまま背後の壁に深々とつき刺さった。
 それがつっかえ棒のようになって、カリルは転倒を免れた。
 イーヴはそれを見て、安堵のため息をついた。
 その時――礼拝堂の戸口に、人影が見えた。
「……何の騒ぎかね?」
 ウォーレン司祭が、冷ややかなその表情に微かな困惑といくばくかの嘆息を浮かべながら、一同を見ていた。
 イーヴはそんな父を前に、苦笑するより他になかった。