月があなたと踊る夜 3
作:ASD





第三章




    1

 クラヴィス少年が騎士を夢見てこの村を旅立って行ったのは、もう十数年も昔の事になる。
 立身出世を望めるだけの、確かな剣の腕前があったればこその決意だったのだが……父母を流行り病で亡くし、身を寄せる先が無くなった彼だからこそ、この村に寄せる未練は薄かったのかも知れない。
 あふれんばかりの希望を胸に旅立って行った少年の姿を、覚えている村人も少なくはない。……やがて帰還してきた彼の、その最期を知る者もまた、少なくは無かった。




 礼拝堂で子供達と悶着を起こした男は、その名前をロシェ・グラウルと名乗った。
 その夜。教会の食堂での夕食の席には、いつもは見られない顔がいくつか並んでいた。
 まずは、問題のロシェ・グラウル。行き倒れ同然で教会に現れた彼だったが、ウォーレン司祭の厚意で、ささやかな食事が彼にも振る舞われていた。
 そんな彼の様子を見にやってきたのは村長のウィーズレェフ氏。そして教会の住人であるウォーレン司祭にその息子イーヴ、そして騒動の当事者の一人である少女カリル――彼女が騒ぎを拡大していたわけだが――が、自宅での食事をさっさと済ませてふらりと遊びに来ていた。 
「……それで、ロシェ殿は一体どんな目的があって、こんな寂れた辺境を旅して歩いているというのですかな?」
 そうやって、問いを放ったのはウィーズレェフ氏。恰幅のいい体躯に白い豊かなあごひげが印象的な、いかにも村長らしい威厳を持った老人であった。彼もまた食事は自宅で済ませてきたので、黙々と食べるロシェに一方的に話しかける格好にならざるを得なかった。
 不愛想なわけではないロシェだったが、よほど食べる方が忙しいと見えて、返ってくる言葉は断片的だった。
「人を、探しているんだ」
「人?」
 村長が問い返す。
「ああ。俺が軍にいた頃の戦友でね」
「軍、というのは王国軍の事かね?」
「もちろん。まあ俺は、傭兵の身分だったけどな。……ともあれ、そいつとは奥辺境への遠征部隊にも一緒に参加した仲でね」
「奥辺境とは、また」
 村長はそう言って感心そうな表情を見せた。辺境はただの寂れた田舎に過ぎないが、奥辺境はまさに人の踏み入る事の許されない人外魔境であると言う。名前は似ていても、辺境の人々にとってもそれは遠い異国の秘境なのだった。
「まあ、俺も奴も一応は王国への帰還には成功したんだがね。やつとは奥辺境ではぐれちまって、俺が一足遅く王都に帰り着いてみりゃあ、奴ぁ俺に黙って故郷の村に帰っちまった後だっていうじゃねえか。その村がどこかっていうのも、軍の記録に残ってなくてね。俺ぁ奴にどうしても会いたくて、こうやって辺境の村を巡っているっていうわけなんだが」
「ふむ、なるほど……で、その男の名前は?」
「そいつはな」
 ロシェはそこで言葉を切ると、目の前にあるパンの最後のひと切れを口に放り込んだ。
 彼がその名を告げるのを、皆が固唾を呑んで待っている。待ちきれなくて督促の言葉を吐いたのは、例によってカリルだった。
「勿体つけてないで、さっさと話しなさいよ」
「まあまあ、慌てなさんなって……俺が探しているのはな、クラヴィスっていう男なんだが」
 彼を除く一同が、はっとして顔を見合わせた。
 驚く事情こそそれぞれだったが……驚くべき名前である、というのは共通の認識であった。
 村長自身、若かりし頃のそのクラヴィス少年を知る人間の一人である。新参者のウォーレン司祭も、村が輩出した偉人の名を知らないわけではない。
 そして子供達は、昼間にあのアーシアと共に墓参してきたばかりである。奇妙な符号を感じずにはいられなくて、子供達は顔を見合わせた。
 自分を囲む一同の様子がおかしい事に、ロシェもすぐに気付いた。
「……どうしたんだい、皆の衆?」
 誰がその事実を伝えたものかと人々は無言で顔を見合わせていたが、やはりここは代表と言うことで、村長がその事実を切り出した。
「ロシェ殿。クラヴィスは、五年前に死んだよ」
「何――?」
 ロシェは、言葉を失った。
「……やつが、死んだ?」
「お前さんの探しているクラヴィスというのは、世にいう勇者クラヴィーアスの事じゃろう? それなら、確かにこの村の出に間違いないよ。六年前に村に帰ってきて、それから一年もしないうちに病で死んでしまった。呆気ないものじゃった」
「……嘘だろう?」
 ロシェは呆然としながら、ぽつりと呟いた。
 そんな彼に、一同はかけるべき言葉を持たなかった。
「そんな馬鹿な。ヤツが死ぬはずなんて……! あんたら、俺を担いでいるのか? あの有名なクラヴィーアスを探しに来た身のほど知らずがまたやってきたぞって、俺をからかっているんだろう?」
 その言葉に、カリルが唇をとがらせて、反論する。
「そんな嘘ついてどうするのよ! クラヴィスさんはちゃんと死んでるわよ! お墓だってあるんだから!」
 ちゃんと死んでる、というのも言い回しとしてはどうかと思ったが、イーヴは敢えて指摘は避けた。
 カリルの騒がしい反論はともあれ、村長の沈んだ表情が、それは嘘ではないと物語っていた。
 ロシェは呆然としたまま、天を仰ぐばかりだった。




 彼はその夜、教会で一泊した。助けを求めて訪れるものを、神の家は拒みはしない――それが、建前というものだ。
 翌朝。
 イーヴとその父は、いつも通りの朝の勤めを果たしていた。いつも通り朝の早い老人達がそこに集まり、いつも通りイーヴがその相手をする。
 そんな年寄り連中が皆帰っていく頃に、ロシェがようやく礼拝堂の奥から姿を現した。
「……よう」
 ロシェは、寝起きのひどい表情のままイーヴに声をかけた。おはようとかこんにちはとか、具体的な挨拶の言葉を使いたがらない男である。
 朝の礼拝が終わってすぐ、ウォーレン司祭は墓荒らしの件で村長に会いに行くと言って教会を出ていった。よって、彼が出てきた時点で教会にはいなかった。
 礼拝堂に残されたのは、ロシェと、イーヴと……そして、カリルだった。
 イーヴが一仕事終えるのを後ろの席でじっと待っていた彼女は、現れたロシェにさっそく噛みつく。
「……もう少し、早く起きてきたらどうなの? 神の家にお世話になっているのに、神様にちょっとくらい感謝しなさいよ」
「俺を泊めてくれているのは司祭さまだろう。司祭さまやこの小僧に感謝しろってんならするがね」
「……いつまで村にいるつもりなの? 探してた人は見つかったんでしょう?」
「見つかった、って言ってもなあ……昨日の話じゃ確かにここで死んでいるのが、俺の探しているクラヴィスに間違いなさそうだが」
「まだ、何かあるの?」
「墓があるんだろう? 墓参もしたいし、それに未亡人ってのが村にいるんだってんなら、会って話のひとつも聞きたいところだがね」
「聞いてどうするのよ」
「友達だぞ。悪いか?」
 ……結局、ロシェに押し切られる形で、子供達は彼をクラヴィスの墓に案内する事になった。
 一方で、未亡人――アーシアとの対面はというと……。
「……イーヴ、どう思う?」
「……アーシアが、あまり良い顔しないと思う」
 という子供達のやり取りの結果、ひとまず後回しという事になった。
 カリル一人でロシェを案内する気は更々無かったが、イーヴを一人で付き合わせて、墓地まで歩かせるのは忍びない。カリルは父親の目を盗んで、馬車を一台借り出してきた。
「……それで」
 馬車が、森の一本道を進んでいく。その隣を行くロシェが、少し息を切らしながら歩いていた。
「何で馬車があるのに、俺は歩きなんだ?」
「つべこべ言わないの。歩くのは慣れているでしょ?」
 そう……馬車を駆るのはカリル、その荷台に申し訳無さそうにちょこんと座っているのがイーヴ、のんびりと走っている馬車の隣を、ロシェが少し早足で追従していく。
「冗談じゃないわよ。あなたの体重でこの荷車を壊しちゃったら、父さんに怒られるのは私なんだから!」
 荷馬車の車輪ががらがらと音を立てている中での会話だ。カリルの声も、自然と叫ぶような声量になるのは仕方ない。
「くそう……覚えてろよ」
 本気ではないにせよ、ロシェは子供相手に実に大人げない呪詛の言葉を吐いた。それを横目で見ながら、カリルはフフンと鼻で笑う。
 それに不安を覚えたのが、イーヴだった。
「……あの、カリル?」
「イーヴ、掴まってなさい」
 次の瞬間、カリルは手綱を軽く振るった。それに合わせて馬は急にその歩足を早め、馬車は急加速する。全力疾走ではなかったが、早歩きのロシェは徐々に馬車から引き離されていった。
「おいおい……冗談じゃないぜ」
 ぼやきながら、ロシェは駆け足になる。慌てる彼の表情を振り返りながらも、カリルは馬車の速度を緩めようとはしなかった。
 ……それは、墓地が見えてくるまでの、ちょっとした寸劇だった。




 午前中の墓地に、人の姿はなかった。
 森が開けた空き地。丘の斜面に沿って並ぶ、墓石の群れ。
 カリルは馬を入り口につなぐと、先頭に立って歩き出した。
「こっちよ」
 それにイーヴが続いて、最後に息を切らせているロシェが続く。さすがに子供のやる事におおっぴらに不満を言うわけにはいかないが、ぶつぶつと文句だけは際限なくこぼれ出てきた。
「……おいおい、だいぶ上るのか?」
「こんな緩やかな斜面で文句を言わないの」
「ここまで駆け足で来てなきゃ、何も言わないんだがなあ」
 そのぼやきを無視して、カリルは昨日の墓石をまっすぐに目指した。
 一度だけ訪れたその墓だったが、迷わずにたどり着く事が出来た。墓石を囲む白い花――周囲を覆うしろつめくさの緑が、目に鮮やかに映る。
「……あれよ」
 カリルが指差した。
 さすがにカリルの早足なペースに合わせると、短い距離でも斜面の道はイーヴにも負担だったようだ。ロシェと一緒に、少しばかり息を切らせている。
「……大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「何でえ。俺は気遣ってくれないのかよ」
 ロシェのぼやきを軽く無視して、カリルは墓石の前に立った。
 少女はそれを、無言で差し示した。ロシェは息を整えると、無言のままそのちっぽけな墓石を見下ろした。
「……人々の思い出とともにこの地に眠る、か。……こんなちっぽけな墓に収まっているような奴じゃ無かったはずなのにな」
「クラヴィスさんって、そんなにすごい人だったんだ」
 イーヴが整わぬ呼吸のままに、問いを放つ。
「おいおい、ここはクラヴィスの故郷じゃないのか? ……やれやれ、辺境の田舎にゃヤツの偉業はちっとも伝わっちゃいないってのかよ」
 田舎、という言葉にむっとしたのがカリルであるが、取り敢えずこの場はぐっと堪えた。
「イーヴは、春までは王都にいたのよね?」
「……ええと」
 返答に困っているイーヴの隣で、ロシェが真面目くさった表情で腕を組んで考え込む。
「ふむ。……もう、昔の話って事になるのかな」
 そうぽつりと呟いたまま、彼は黙り込んでしまった。
 そんなロシェを、子供達は黙って見守っている……というか、かけるべき言葉をイーヴもカリルも持ち合わせてはいなかった。いつまで経ってもロシェが墓石から離れようとしないので、子供達は彼を置いてそっとその場から離れる。
 その時。
「ね、イーヴ。あれ見て」
 カリルは斜面の下に人影を見出し、イーヴの袖を引いて促した。少女が指差した先を、イーヴはじっと見やった。
「……アーシア?」
 そう……確かに、そこには見知った白い影が立っていた。二人は思わず、顔を見合わせる。
「どうして? 昨日も来てたじゃない」
「……さあ」
 そんな事を言い交わしている間にも、アーシアはゆっくりと斜面を上っていく。そう、三人がいる墓石の前に。
 やがて彼女の青い瞳が、子供達の姿を捉えた。
 イーヴは手を振ろうとしたが、立ち止まったアーシアがどこか厳しい表情をしているのを見て、挙げかけた手を引っ込めた。
「……おい、あれは誰だ?」
 不意の背後からの声に、イーヴはびくりとした。振り返れば、そこには墓石の前から動こうとしなかったはずのロシェの姿があった。
「あなたの、お友達の」
「ああ……あれが、クラヴィスの嫁さんか?」
「……アーシアさんだよ」
 そのアーシアは、厳しい表情を崩さないままに、ゆっくりと一行の元に近づいてくる。やがてクラヴィスの墓石を目前に、彼女は一行の前で立ち止まった。
「……おはよう、イーヴ、カリル」
「おはよう、アーシア」
 二人がおずおずと挨拶を返す。当のアーシアは、二人など見てはいない。その青い瞳が、亡き夫の墓の前に立つ大男を、毅然と睨みつけていた。
「……あなたは?」
 非難がましい目で男を睨みつけるアーシア。その視線に射止められて、ロシェは不満を示すでもなく、萎縮するでもなく……逆に、にやけた笑みを示した。
「ロシェ・グラウル……おいおい、そんな怖い目で見ないでくれよ」
 くだけた態度を示すロシェだったが、アーシアは厳しい拒絶の姿勢を崩そうとしなかった。
 イーヴは、事の成り行きをはらはらしながら見守っていた。
 アーシアはそんな彼を敢えて無視するかのように、無言のままに進み出た。ロシェには目もくれずに、一行の脇をすり抜けていく。
 彼女は背を向けたまま、亡き夫の墓石に対面していた。
 そんな彼女を振り返りつつ、ロシェはやれやれと言った表情を見せていた。
 アーシアはと言えば、携えてきた白い花を、墓石の前に捧げる。無言で祈るアーシアの姿を、その場にいる三人ともが何も言えぬまま見守っていた。
 やがて彼女は唐突に立ち上がると、来た時と同じように、立ち尽くす一行の側を擦り抜けていこうとした。
 その足が、ロシェの前でぴたりと止まる。
 そんな彼女の口から、言葉が放たれた。
「クラヴィスの所には、二度と姿を見せないで」
 拒絶の言葉だった。
 ロシェは、途方に暮れた表情のまま、疲れた声で問い返す。
「……それは、俺に言っているんだよな?」
「そうよ。……イーヴ、カリル、行きましょう」
 そう言って、足早に歩き始める。
「ちょ、ちょっと……」
 促されて、子供達は仕方なく歩き始める。イーヴは一応ロシェに謝罪の言葉を残して、カリルでさえちらりと気の毒そうな視線を投げかけて、アーシアの後に続いていく。
 ロシェ・グラウルは……立ち去る三人の姿を、斜面の上からいつまでも見下ろしていた。
「……なるほどな。そういう事なのか、クラヴィスよ」
 ぽつりと呟いたその言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。




     2

 置き去りにされたロシェだったが……どこで何をしていたのか、午後には教会に戻って来ていた。
「……やれやれ、参ったな」
 そう言ってため息をつくロシェに、イーヴが恐縮そうな表情を見せる。
「すいませんでした。置き去りにしちゃって」
「まあ……あの姐さんの気迫にゃ、逆らえねえよなあ」
 そう言って、ロシェは取り敢えずイーヴの前では機嫌のいい所を見せていた。そんな彼はもう一晩、この村に泊まっていくつもりらしい。
「……それで、これからどうするんです?」
「さあ、な。明日になってから、じっくりと考えるさ」
 そう言って、彼は食事も早々にあてがわれた客室に引き返していった。
 そんな日の、夜の事である。
 夜も更けたという頃合に、村の男たちが教会にぞろぞろと集まって来ていた。どうやら、墓荒らしの件での会合であるらしい。
 何が話し合われるのかイーヴも興味がなかったわけではないが、父に言っても同席が許される事はないだろう。だから、大人しく眠る事にした。
 だが、少年がベッドに潜り込んですぐに、部屋の前を通り過ぎていく足音が響いてきた。
「……?」
 父だろうか? 彼の自室は礼拝堂のすぐ隣なので、そこへ行くのにイーヴの部屋を通り過ぎる必要はない。そこを通り過ぎた先に用があるというのならば、それはイーヴの部屋か、奥の物置か、その隣の客間ということになる。
 案の定、足音は客間に向かった。
 何やら話す声が聞こえたかと思うと、そのまま二人分の足音が礼拝堂の方に戻っていく。ブツブツと文句をいう声は、間違いなくロシェだった。
 どういう事だろう?
 少年は疑問に思い、そのまま起き出してそっと礼拝堂に向かった。閉ざされた扉の前に腰を下ろし、漏れ聞こえて来る声に耳を澄ます。
「……一体、何だって言うんだい?」
 耳に飛び込んできたのは、ロシェの声だった。
 村人一同の前に引っ張り出された彼は、いかにもばつが悪そうだった。
 そのロシェに向かって、父の――ウォーレン司祭の声が飛ぶ。
「すまないね。休んでいる所を」
「いや、いいさ。無理に居座っているようなものだからな。……それで?」
「二、三、君に聞きたい事があるんだ。差し支えなければ、ぜひこの場で答えてもらいたい」
 ロシェは無言だった。どうにもこうにも、雰囲気が良くない。まるで尋問のようだった。
 構わずに、司祭は後を続ける。
「……ロシェ。君が最初にこの村に来た時に、子供達と色々と悶着を起こしていたね」
「聖水を勝手に飲んじまった件は謝るがね……あの銀杯は、別に盗もうとしてたわけじゃないぞ。それが誤解だって事は……」
「もちろん、あれはカリルの早とちりだったわけだが……まあ落ち着きたまえ」
 落ち着けと言われても、ロシェは不機嫌そうな表情を崩そうとはしなかった。
 司祭は続ける。
「君は昨日の晩、私と村長の前でこう言った。君は、クラヴィスを探しにこの村にやってきたと」
「……その通りだ。墓にも行ってきたさ。そいつに、嘘偽りはねえよ?」
「クラヴィス氏とは一緒に、奥辺境へも出向いたそうだな」
「……それがどうした」
「私は行ったことはないが……奥辺境というのは、とても危険な所らしいね?」
 ロシェは黙り込んだ。司祭の質問の意図を図りかねて、どう答えたものかと考え込んでいたのだ。
「そこはまさに人外の秘境。危険な生き物も多いと聞く。その地から帰還を果たしたのだ。クラヴィス氏に匹敵するほど、君も相当に剣に自身があることだろう」
「……司祭さんよ。それが一体、何だってんだ」
「まあ、慌てないで」
 ウォーレン司祭は、そう言ってにやにやと笑うだけだった。
 一拍置いてから、彼は再び切り出した。
「子供達と、墓地へ行ってきたそうだね?」
「ああ」
「その時、子供達は何か言ってなかったかね?」
「何か……?」
 その言葉に、ロシェは考え込む姿勢になった。
「何かって、何だ……ああ、そう言えば、あのカリルって子がヘンな事を行っていたな。墓を荒らす怪物がいるとかなんとか……」
 その言葉に、村人の間から嘆きの声が漏れ聞こえてきた。
「まったく、カリルのやつ余計な事を……」
「そもそも、誰だ。子供らにそんな無責任な話を吹き込んだのは……」
 ざわざわと騒がしくなる場内。司祭の隣で神妙な顔をしている村長が、軽く手を挙げて静粛を促した。
 静まりを取り戻す礼拝堂。そんな中、ロシェは不機嫌そうな表情を隠そうともせずに、苛立たしそうに問い返す。
「そいつが、どうかしたってのか?」
 そんな彼の苛立ちをよそに、ウォーレン司祭は続けた。
「まあ、子供達の話だ。あくまでも無責任な噂に過ぎないがね。……しかし残念ながら、何者かが墓を荒らしているというのは確かに事実だったりするのだが」
 司祭の言葉を、ロシェは黙って聞いていた。
 周囲の村人の様子を窺い、自分が何を問われているのか……それを考える。
「……俺を疑っているのか?」
「まさか」
 司祭は、声を上げて笑った。
「もちろん、君だと言う可能性もあるかも知れないがね。村にそんな酔狂な事をする人間がいるのかも知れないし、あるいは子供達の噂通りに、人外の化け物が夜な夜な墓地を徘徊しているのかも知れない。ここにいる人間全員が――君や私も含めて、容疑者であるとも言える」
「……つまり、どういう事だ?」
 話が見えずに、いらだたしく先を促すロシェ。司祭が、そんな彼をしかと見据えながら言った。
「君に、その化け物を仕止めて欲しい」
「……何だって?」
 ロシェは声を裏返らせて問い返した。
 そんな彼を、ウォーレン司祭は静かに見返すばかりだった。ロシェは慌てて村人を見回すが……どうやら嘘でも冗談でもないらしい。
 そのロシェに、司祭が確かな口調で告げた。
「墓荒らしの正体が誰であっても……あるいは何物であったとしても、これ以上そのような事を続けさせるわけには行かない。一刻も早く、捕まえるなり追い出すなりして、二度とこのような事が起こらぬようにせねばならない」
「で、俺にそれをやれと?」
「いかにも」
「冗談じゃねえ……なんの見返りがあって、そんな事」
 ロシェは憤慨して見せた。
 司祭が、ちらと村長を見やる。村長は、ため息をついて肩をすくめた。村人達はロシェの憤慨を見て、ひそひそと言葉を交わす。
 司祭が……憤慨するロシェを見やって、にやりとほくそ笑んだ。
「……なんだ、その顔は」
「やはり、理由は知りたいかね」
「当たり前だ。……いいや、どんな理由があるにせよ、俺がそんな仕事を果たさねばならねえ義理が、一体どこにある?」
「ロシェ。私は一応、この村の教会を預かる身分だ」
「……?」
「近隣の村々には、私と同じような司祭がいて……月に一度、会合を開いているんだが。……そこで、面白い話を聞いた」
「……?」
「とある村に現れた、押し込み強盗の話だ」
「……何だってんだ」
「その男、パンひと切れを盗み出して……たったそれだけの事で、村の男およそ三十人あまりと、大捕り物を行ったらしい。村人の方に軽傷者多数。結果、まんまと逃げられたそうだが」
「……」
「その話に、聞き覚えは? ……まさかとは思うけれど、君の事じゃあないだろうね?」
「何を証拠に、そんな事を」
 声を荒げる彼に、司祭は一枚の紙片を突きつけた。
「その村が発行した、手配書だ」
 そこにある人相書き――短く切り揃えた髪、不精ひげ――長身でがっしりした大男――。
 ロシェの姿が、そこに描かれていた。
「身体的特徴は、確かに一致すると思うが」
「……」
 ロシェは言葉を失った。
「その犯人が、徒歩で森を逃げたとして……まああちこちさまよい歩いても、距離的にこの村に現れる頃合ではないかという推論もないわけじゃない。……それがさほど見当違いだとも思わないが――それとも、ろくに旅人の寄りつかぬこの辺境を、君とそっくり同じ顔をした男が二人も三人もうろついているのかな?」
「俺は」
 ロシェは、司祭を睨みつける。
「この村じゃ、別に何も盗んじゃいねえ。あのパンだって、代金を払えと言われりゃ、払ったさ。無用に打ちかかってくる向こうだって悪い」
「盗んだのは、本当にパンだけか?」
「……」
「本当に、代金の当てはあったのかね」
「……失礼な事をいうな」
「問題を起こしたのは、その村だけか?」
「……」
 司祭の言葉に、ロシェはすっかり黙り込んでしまった。
 黙っている間に、司祭が話を続ける。
「……あいにく、ここいらの辺境の村々には、王国の警察力が充分に行き届いているとは言い難い。それゆえに、ある程度の村々の治安は、村の自治に委ねられている事でもある」
「……つまり、どういう意味だよ」
「我々は、近隣の村々で盗みを働いた男の身柄を拘束している。軍の駐留部隊に引き渡してもいいし、さっきの話にあった村に引き渡してもいいんだよ?」
 にやにやと笑いながら、司祭はロシェを見やる。それに対して、ロシェはにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「……さて。それは構わねえが、ここにいる全員で、俺を取り押えられるとでもいうのかい?」
 そう言って、ロシェはじろりと村人を睨みつけた。そんな視線に、村人達の間に少しだけ動揺が走る。
 不意に、ロシェは村人の輪に、踊りかかるような姿勢を取った。ちょっとしたフェイントだったが、効果は絶大だった。
 びっくりして、慌てて後ずさる村人達。
 ロシェの周囲はまるで波が退いたようにぽっかりと空白が空いた。ただウォーレン司祭だけが、彼を見て静かに笑っている。
 司祭は一歩前に踏み出すと、聖句を唱え、右手を高々と掲げた。
「…………」
 常人に聞き取ることの出来ない言葉で、司祭は何かを唱えた。
「へっ、それがどうしたってんだ!」
 ロシェは怯む様子も見せずに、今度は本当に村人の輪に飛び込んでいった。
 目指したのは、外へ通じる扉。後ずさる村人を後目に、ロシェは猛然と駆け出した。
 そんな彼に向かって、司祭は手をかざす。
「はうっ!」
 短い悲鳴とともに、ロシェは不意に足をもつれさせて、その場に倒れ込んだ。
 どさり、と倒れ込んだかと思うと、そのまま床の上をごろごろと転がり始める。
「ぐおっ……!」
 苦しそうな呻き声をあげながら、彼はその表情を苦悶に歪めていた。胸を押え、苦しそうに床を這い回る。
「……何をしやがった!」
「罪のある人間は、神の前からは逃れられぬ、ということかな……大人しくすると約束するのなら、解放する」
「わかった! わかったよ!」
 次の瞬間、ロシェは苦しみから解放され、ぐったりと床の上に倒れ伏した。辛そうにぜえぜえと息をしながら、恨めしそうにウォーレン司祭を見やった。
「司祭さんよ……それが神の技か? 俺ぁ神様に、締め殺されるかと思ったぜ」
 そのぼやきに、ウォーレン司祭は何も言わずに静かに笑みを返しただけだった。
「もし協力してくれるというのであれば、些細な罪は神が許してくれるだろう。先々の道中で盗みを働かずに済むよう、多少の路銀も用立てようじゃないか」
「多少、ね。あんまり期待はしないぜ?」
「当たり前だが、この村に逗留している間は食事の心配はしなくてもいい。パンを盗む必要もないというわけだ。……それと、村長の家に空き部屋があるそうなので、うちの簡素な客間よりはぐっすり眠れるはずだ」
「そいつは有り難いな」
「さて、どうする……?」
 司祭が、ロシェに問う。
 ロシェはしばし考え込むような姿勢を見せたが、やがて口を開いた。
「……その前に、ひとつ聞いておきたいんだが」
「何だ?」
「墓荒らしの正体だ。目星くらいはついているんだろうな? ……もっとも、本当に化け物だって事が分かってて俺にこの話を持ちかけているんだったら、何がどうあっても問答無用で逃げさせてもらうけどな」
「さて」
 その問いかけに、村人達は渋い顔になった。
 そんな人々の視線を受けて、村長が途方にくれながら釈明の言葉を吐く。
「勝手な憶測であれこれ隣人を疑うような事は、避けたいところではあるが」
 正論と言えば正論だが、結論ではなかった。その後ろで村の男たちが、勝手にあれこれとものを言い始める。
「実際、どうなんだろうな。……まさか村の人間という事はないと思うが」
「いや、分からんぞ、意外な人間が犯人かも知れない」
「だったら、俺やお前が犯人って事か」
「いや、そうは言わねえが」
「村のもんだったら、あんまり付き合いのないやつが怪しくはないか?」
「誰の事を言っているんだ」
「例えばよう……あの、薬屋のおかみなんかどうだ。魔法使いだっていうじゃねえか」
 誰のセリフであったのか……裏で声だけ聞いているイーヴは、その言葉にはっと顔を上げた。
 口々に勝手な事を言っていた男達だったが、彼らにも思う所はあったのだろうか。不意に周囲の声が止んで、その男の声だけが響く。
「そもそも、あのおかみは村の人間じゃねえ。……クラヴィスが、よそから連れてきた嫁じゃねえか。旦那が死んだあとも、村に居座っている理由って何なんだ?」
「薬屋は、村外れだ。墓地にも近いし、不思議はないかもな……」
「遺体はあちこち切り刻まれたりもしている……部分ごとに色々持ち返っては、何か薬にしているのかも知れんぞ」
「……俺達、知らないうちに飲んでいるのかもな」
「馬鹿は風邪を引かぬというぞ。お前がいつ、薬なんぞの世話になるんだ」
「ぬかせ。俺だって風邪くらいは引く」
「ともかく、あのおかみが得体の知れない人間ってのは確かだろう。誰か、あの女がどこのどんな所で生まれたのか、知っているか?」
「いや、聞いたこともねえ」
「怪しいな……」
「これからは気をつけた方がいいかもな。薬も、買わない方がいいかも知れん」
 聞いていられなかった。
 イーヴはそれ以上の立ち聞きは止めて、部屋に戻ろうとした。しかし、立ち上がろうとした拍子に、思わず戸を押してしまった。
「あ……」
 一同の目が、不意に押し開かれた扉の向こう側に集まる。
 そこに、少年の姿があった。
 誰も、何も言えなかった。まだ越してきて三ヶ月とは言え、皆イーヴの身体が弱く、薬屋に村で一番世話になっているという事を知っていた。
「みんな」
 静寂を破って、ウォーレン司祭が呼びかける。
「……やくたいもない噂話など、それくらいにしておいてくれ。口さがなく人を貶めろなどと、神は説いてはいないぞ」
 その口調は柔らかいものだったが、人々を諌めるにはその言葉で充分だった。何か言い返そうというものは、誰もいなかった。
 無言のまま、うつむく男達。
 イーヴは何も言えないまま、村人たちをぼんやりと見回した。皆がばつ悪そうにしている中、ただ一人ロシェだけが、しれっとした顔をしている。
 そのロシェと、不意に目が合ってしまった。
 ロシェは少年を見やると、何故かにやりと笑った。
 そして、沈痛な雰囲気を破るかのように、変に陽気な声で叫んだ。
「……分かったぜ、司祭さん、村長さん」
 不意の言葉に、その場の一同の注目が、彼に集まった。
「あんたらの言う通りに、力を貸してやろうじゃないか。ただし、結局何でも有りませんでした、っていう話になったとしても、先の条件は忘れないでいてくれよ」
「……分かった」
 短く答えたのは、村長だった。
 そのやり取りを聞いて、イーヴは少しだけ腑に落ちないものを覚えていた。アーシアへの誹謗に憤りを覚えていた彼だったが、その前の話も彼は全部聞いていたのだ。さっきのにやにやとした笑いと言い、何か引っ掛かる……。
 けれど、他の村人達は別段、そこに疑問を挟もうともしなかった。
 何にしても、子供のイーヴの出る幕ではない。場の注目が少年から逸れたその機会に、彼は今度こそ、自室に引き下がった。




     3

 やがて、村人達は会合を終え、教会を後にしていった。
 イーヴは一人自室に引き下がり、ベッドに身を横たえて、眠りに落ちていこうとそっと目を閉じる。
 けれど彼の意識は、そこに沈み込んでいく事を拒んでいた。
 辺境の夏の夜は涼しく、さほど寝苦しくはない。けれどイーヴは何とはなしに、不快感を覚えていた。
 耳の奥で、先程の村人達の言葉が繰り返されていた。
(あやしいのは、薬屋のおかみだ)
(知らないところで、何をしているのか分かったもんじゃない)
(死人からつくった薬を、俺達に飲ませているんだ)
 違う。アーシアはそんな事しない。するわけがない――。
 耳に響くのは、人々の中傷の声。その無神経な言葉の数々が、少年の心を苛む。
 不意に飛び起きて、叫び出したい衝動に駆られる。シーツをはねのけて、少年は上体を起こした。
 ぜえぜえと肩で息をする。胸が苦しい。締めつけられるような……。
 胸をかきむしって、堪えようとする。息苦しさに二度、三度と深呼吸を繰り返す。けれど息を吸い込むたびに、刺すような痛みが少年の胸を貫いた。
 気のせいではない息苦しさに、少年は喘いだ。
 本物の痛み――焼けるような痛みが、少年を襲っていた。
 発作だ。
 頼みもしないのに、心臓の脈動が強く速くなっていく。呼吸が徐々に浅く短くなっていく――。
 酸素が肺に行き渡っていない。息苦しさに、少年は身悶えた。イーヴは歯を食い縛って、苦しさに耐えていた。
 別に、初めてではない。過去に幾度となく味わってきた苦しみ、そして痛み。けれど決して、そんなものに身体が慣れるはずはなかった。それはいつだって、耐え難い苦痛。
 イーヴは薬を求めて、戸棚に手を伸ばした。アーシアから買い求めた、あの薬。
 すぐ近くに手を伸ばす、たったそれだけの事が果てしない重労働のように思えた。……いや、それは確かに苦痛に満ちた労働だった。じっとしていても苦痛、動けば更に苦痛……。
 震える手で、薬の小ビンを掴む。ふたを開け、錠剤を手のひらにこぼす。二、三粒、震える指の隙間からこぼれ落ちていく。
 口に含むと、何とも言えない苦みが口の中に広がっていく。その苦みを、寝台の脇に置いた、水差しの水で流し込んだ。
 全身に、何かがじんわりと行き渡っていく。
 そのまま……イーヴはばったりと、シーツの上に倒れ込んだ。
 もはや少年になすすべは無かった。その身体を苦痛に預け、薬が効き始めるのをひたすら待つだけだった。それまでの間、少年の身体は成すがままに痛めつけられる事になる。
 そこで薬がちゃんと効くのか、あるいは効かないのか……それは分からない。イーヴはいつもその一瞬、ただ祈るばかりだった。
 何に対して? 何を祈る?
 ――不思議と、死への恐怖は薄かった。いや、まったく無いわけではない。けれど、もはや感覚が麻痺しているのかも知れない。いつ死ぬのか、いつ自分がこの世から消えて無くなるのか……。そんな不安の中、思うようにならない身体で、十数年間も生きてきたのだ。今さらこの心臓が止まるかも知れないと絶望に酔ったところで、何になる……。
 …………。
 ……。
 イーヴは、不意に目を開けた。
 真っ暗な天井が、ぼんやりと彼の視界に映っていた。
 まるっきり、夢の中の景色のようだった。目を開けて、目を閉じて、また見開いて……夜の闇の中に浮かび上がる景色は、まるっきり現実らしい手触りが欠落しているように感じられた。
 ……そんな、錯覚を覚える。
 実際の所は、目の前に広がる景色は確かに本物の……現実の存在だった。
 先程の痛み、苦しみがまるで嘘のようだった。
 それだけの苦痛が通り過ぎていったあと、確かにイーヴはそこに帰ってくる事が出来た。
 そう、帰って来たんだ……。
 イーヴは上体を起こし、明かりのない部屋を見回し……そして、安堵のため息をついた。
 闇に浮かび上がる景色は、確かに現実のものだった。今はそう認識出来ていた。
 けれど、ひとたび発作を起こせば彼の意識はそんな現実を離れていく。
 現実を離れ、今彼が存在しているこちら側から、未だ見たことの無い彼方へと、彼の意識は旅立っていく。
 そして彼はいつも、こちら側とあちら側の境界線上を、ぼんやりとさまよっているのだ。
 帰って来られない事を、いつも覚悟しているはずなのに。
 取り敢えず今日は、またこちら側へと帰ってくることが出来た――それだけのことだった。
 気が付けば、寝間着は汗でぐっしょりと濡れていた。発作で暴れ回ったせいだろう、シーツもしわくちゃになっている。
 視線を落とせば、薄く差し込む月明かりに照らし出されて、小ビンが床を転がっているのが確認出来た。
 イーヴは寝台からゆっくりと起き上がると、その小ビンをそっと拾い上げた。
 そのビンの手触りを確認しながら……ふと、イーヴは思った。
(僕は……長くないんだろうか)
 自分の死について考えるという事に、イーヴは特に違和感を感じた事はなかった。
 発作の感覚が短くなっているような気がする。痛みが、苦しみが、発作のたびに強くなっているような気もする……ひょっとしたら、いずれ。
 彼は、その考えを特に否定も是正もせずに、ビンを戸棚に戻した。
 その時だった。
「……?」
 不意に耳に響いた物音に、少年は顔を上げた。
 部屋の戸口の向こう側から響いてくる音……それは、足音だった。
(父さんかな……?)
 自分ではそんなつもりはなかったのだが、発作を起こしてやかましくうめき声でも上げていたのかも知れない。父が今頃になって目を覚ましたのだろうか。
 勝手に発作を起こし、勝手に収まったのだから、今更父が駆けつけて来た所で別に意味はない。目の前でおろおろとされるのも困るので、イーヴは息をひそめて、それをやり過ごそうとした。
(……)
 ひどくゆっくりなその足音は、彼の部屋の前で止まると思いきや……そのまま、その場を通り過ぎていった。
(へんだな……)
 父は……足音の主が父だとして、彼はどこへ行こうというのだろうか。
 足音が部屋の前を通り過ぎていく。その先にあるのは客間と物置だけ。こんな夜中に何の用事が?
 ……発作に苛まれていたせいもあったが、夜中だというのに少年の目は冴えていた。足音など気付かないふりをして眠ってしまえるほど、睡魔は強い主張をしなかった。
 沸き上がる好奇心のままに、少年はそっと忍び足で部屋の戸口に歩み寄り、耳を澄ませた。
 ぎぎ……と、戸の軋む音が響いてくる。おそらくは物置の扉だ。
 足音が、その向こうへと消えていく。
 そして、それからしばらくして響いてくる、何かを叩くような音。
(……行ってみよう)
 イーヴは意を決して、自室を出た。
 そっと扉を押し開けて、隙間から廊下の様子を窺い見る。奥に視線をやると、物置の扉が確かに開け放たれていた。
(……どうする)
 自問自答し……思い切って、イーヴは自室からそっと足を踏み出した。
 ゆっくりと、物置へと近づいていく。
 その物置は、司祭やイーヴの部屋に比べれば、だいぶ広い部屋だったが……戸口にイーヴが立てば、おそらく父の目にその人影は映るだろう。
 それを覚悟して恐る恐る戸口に立つが……何の反応も無い。
 それどころか、イーヴはその場を覗き込んで、驚愕のあまり目を見張ってしまった。
 部屋の奥……片隅に、ぼんやりと揺れる明かりがあった。
 単に明かり、と言っていいものかどうか……そこに例えばろうそくなどの光源がある、というのではない。床にぽっかりと開いた割と大きな穴から、青白い光が漏れていたのだ。
(あれは、一体……?)
 イーヴは不審に思いながらもゆっくりと歩み寄っていく。恐る恐る近づいて、その光を放つ穴を見下ろした。
 そこに何があるのかを、少年は見出した。ぽっかりと口を開けた床から、下へと伸びる階段があったのだ。
 光は、その下からぼんやりとイーヴを照らし出していた。
(……父さん、この下へ)
 イーヴは恐る恐る、その階段を覗き込む。
 物置の床は板張りだったが、地下へと伸びていくその階段、その通路の壁は石積みのものだった。
 その壁を照らす明かりは、遥か下の方からぼんやりと届いている。階段自体も随分と下まで伸びていっていた。
(寒い……何なんだ、これ)
 地下から沸き上がってくる冷気が、イーヴの身体を包み込む。
 その時、遠くからぼんやりと、声が小さく響いてきた。
(大丈夫だったかね……)
 地下から聞こえてくるのは、父の声だった。地の底から響いてくる不気味なその声に、イーヴは不思議な戦慄を覚えた。
(気付かれはしなかったようだな……余所者を泊めると、気が気ではないな、まったく)
 父はそう言って、安堵の声を漏らした。
 彼は一体、何を口走っているのだろう? まるで何かに語りかけるような、優しげな声。
 ……それ以上、聞いてはいけない。
 何かが、少年にそう告げていた。イーヴはおずおずと後ずさると、父が引き返してくる前にその場から退散し、自室へと引き返した。
 何も見なかった事にしよう……そう決めて、ベッドの中で目を閉じる。
 けれど、高鳴る胸が、眠りに引き込まれるのを拒んでいた。
 少年にとって、それはとても長い、長い夜だった。