月があなたと踊る夜 4
作:ASD





第四章




     1

 イーヴはその日、朝から気が重かった。前の晩の出来事を考えれば、父と顔を合わせるのは何となく気が進まなかった。
「……おはよう」
「ああ、おはよう、イーヴ」
 いつも通り、抑揚のない声で挨拶をかわす父。昨日、イーヴが地下室を見つけた事……ひょっとしたら、後をつけられたことに気付いているのかも知れないとイーヴは思っていたが、どうやら杞憂だった。
 父は、いつも通りの父だった。
 二人で、朝の礼拝を取り行う。日曜の礼拝のような大げさなものではなく、ごく簡素なものに過ぎなかったが。
 それでも、信心深い村の年寄りの何人かは、朝も早くから礼拝堂に集まってきていた。そんな年寄り達を前に、ウォーレン司祭は事務的に儀礼を済ませると、そそくさと引き下がっていった。
 居並ぶ年寄り達にせがまれて、その相手をするのはイーヴの仕事だった。以前のように、分厚い聖典を手にして、たどたどしい説教をするのだ。
「……大変よねえ。説教の内容とか、毎回考えているんでしょう?」
「いや、そんな事ないよ。第一節から順番にやっているだけだし」
 興味本位で尋ねてくるカリルに、イーヴはぞんざいに答えた。
 教会は、村が所有する建物だ。
 イーヴの父は、ただ司祭としてこの地に赴任しているに過ぎない。あの地下室の事、村の人たちは知っているのだろうか……?
 何も、父が必ずしもやましい事をしているとは限らないかも知れない。父があの地下室でやっている事は、村のためにやっている事なのかも知れない。そういえば、イーヴは昨日の晩、間違いなく父の姿を目にしたわけではない……あれは誰か他の村人だったのかも知れない……。
 いやしかし、地下から響いてきた声は間違い無く父のものだった。やはり父は、村人達の目を忍んで、こっそりと何かをやっているのだろうか。
 ……何を?
 あまり良いようには想像出来なかった。何か、父が後ろめたい事をしているのではないかという不安が、少年の心から消えようとしない。
「……イーヴ、どうしたの」
 カリルが、気遣いの言葉をかけてくる。父の事を考えているうちに、自然と沈んだ表情になってしまっていたようだ。
「ああ、ごめん……」
 イーヴは思い切って、カリルに地下室の存在を尋ねてみる事にした。
「地下室?」
「うん。教会の奥に、物置があるでしょう。その奥の方なんだけど……カリルは何か、聞いた事ない?」
「……そんなのが有るなんて、初耳」
 意外そうな顔をするカリルに、イーヴは昨日の晩の事を話して聞かせた。
 カリルはその話を聞くなり、こう言った。
「……何か、あやしいわね」
 腕を組んで、わざとらしく考え込む姿勢を見せる。それはいつもの悪癖だったが、今回ばかりはそれをたしなめるでもなく、少年は同意を示した。
「カリルも、そう思う?」
「イーヴもそう思っているの? 司祭さまが……秘密の何かをやっているって」
「……」
 イーヴは、明確に是正も否定もしなかった。
「ねえカリル、この事は誰にも言わないでいてくれる? 君のお父さんや村の人たちに……」
 どこか悲痛な面持ちのイーヴの訴えを、カリルは了承せざるを得なかった。
 老人達が、イーヴに祝福の印を求める。カリルはそんなイーヴから離れ、イーヴは列を為す老人達の前に立つ。
 ふと、カリルは目を止めた。
 たった今イーヴが印を切っている相手……あれは、ナッシュの祖母であるマーサだ。去年の冬に発作で倒れ、もう長くはないと言われていたのだが……。
 確か、イーヴ親子がこの村にやってきた時には彼女は息も絶え絶えだったはずだ。夏までは持たない、大人達は皆そう言っていた。
 けれど、そんなマーサ婆さんは今カリルの目の前で、元気に歩いている。自分の足でイーヴの前に立ち、膝を突いて、誰の手も借りずに再び立ち上がる。
 ……そんな事もあるものだ、とカリルは感心する。
 何せ、ここは神の家だ。それだけに、そういう不思議な事象に、神さまの存在をつい感じてしまう……そんなものが本当にいるのかどうか、カリルなんかに分かるはずも無かったのだが。
 マーサ婆さんが去っていき、次の老人の上でイーヴが印を切る。
 こうべを垂れる老人の頭上で、空中に聖文字を描き、その手のひらをそっと頭上にかざす。
 その瞬間、カリルは自分の目を疑った。
(……!)
 一瞬、本当に声を上げそうになった。イーヴの唱える聖句だけが響き渡る、静かな礼拝堂。何か口走っていれば、皆が彼女の方を振り向いていただろう。
 老人の頭上にかざされたイーヴの手のひらが、ぼんやりと白い輝きを放っていた。
(……どういう事?)
 カリルは慌てて目をこする。そしてもう一度、その目を凝らす。
 少年の手が、確かにぼんやりと光っていた。
 じっと注視していないと、気付かない程度のかすかな光だ。いつもはイーヴがそれを終わらせるのをいらいらしながら待っていたから、気付かなかった。今こうやって静かに監察していると……それは確かに、はっきりと確認出来た。
 年寄りがこうべを垂れて、イーヴが聖文字を切り、手をかざす。かざすたびに、その手がぼんやりと光を放つ。
 誰一人、それを特別な事だと思わないのだろうか……老人達は、何事も無かったかのように満足げに去っていく。
 カリル一人が、その光景に呆然としていた。
「……カリル、どうしたの?」
 老人達が皆帰ったあとで、イーヴが心配そうに告げる。
「イーヴ、手……」
「手? 手がどうしたの?」
 カリルはイーヴの手を指さしたつもりだったが、反対にその彼女の手を、イーヴの細い指先が掴んだ。
 突然の事に、カリルはびっくりした。
 イーヴはカリルの手をじっと見やりながら、とぼけた口調でこう言った。
「別に、何でもないみたいだけど? ……どうかしたの?」
「……ううん、別に」
 冗談でとぼけているようには見えなかった。ひょっとしたら、今起こった事をイーヴ自身は自覚していないのだろうか。
 カリルは言葉を濁して、その手を引っ込めた。
 ひとつだけ分かった事……イーヴの手は、意外に暖かかった。




     2

 それから数日後。
 その晩は、妙に風の強い夜だった。びゅうと吹きつける風の音が耳に付いて、なかなか寝付けない。
 そんな、夜の事だった。
(まただ……)
 闇の中、シーツにくるまったイーヴの耳に……風の音に混じって、確かにその足音は響いていた。
 足音が、イーヴの部屋をゆっくりと通り過ぎていく。奥へ、物置へ……そして地下室へ。
(父さん、一体何を……)
 忘れよう。何も聞かなかった事にしよう……今すぐ眠りに落ちて、夢だったのだと思うことにしよう……。
 そう強く思ってみたところで、不安に揺れる心が平穏を取り戻すことはなかった。
 思い切って、問い詰めてみようか。今この場ではっきりと問い詰めれば、父も変な言い逃れはしないかも知れない。……けれど、もし息子に到底言えるはずのない秘密を抱えているのだとしたら……そっとしておく方が、父のためかも知れない。
 どうすればいい。
 闇の中で、少年は自問した。
 そうこうしているうちに……今度は、物置の方から足音が響いてくる。
(……?)
 五分か、十分か……足音が奥へ消えていったのはそれくらい前のはずだった。この間はそれきり戻っては来なかったが、今夜は割とすぐに帰ってきたものだ。
(……)
 イーヴは足音に耳をすませる。足音は少年の部屋を通り過ぎて、そして……。
(……消えた?)
 不意に、足音がかき消えた。
 耳をすましても、それ以上何も聞こえてこない。……幻聴だったのだろうか?
 そう思っていると、今度はやけにはっきりと、再び足音が響いてきた。
 先程のものよりもしっかりと響く音。物置の方から響いてきて、そのままイーヴの部屋を通り過ぎて、そして……。
(部屋に戻らない?)
 しばし遅れて、扉の開く音が聞こえた。
 風が、廊下に流れ込んでくる。イーヴの部屋の戸を、がたりと揺らす。
 ばたん、という大きな音がしたかと思うと、やがて廊下は静まり返った。
(まさか)
 イーヴは、窓からそっと外を覗いた。小さなランプの明かりが、教会のすぐ近くで揺れている。その明かりが、小走りに離れていって……。
 闇の中の黒い人影に、イーヴは目をやった。闇の中、なかなか判別は出来ないが……その背格好は父ではないと、イーヴは否定し切る事が出来なかった。
 いても立ってもいられなかった。
(まさか)
 そんな不安が、胸を支配する。
 イーヴは寝間着姿のまま、父らしき人影を追って教会を出た。
 夜の村は、静寂に包まれていた。
 心持ち強い風が、イーヴを優しく包み込む。
 確か、大人達が持ち回りで、墓の見回りをしているはずだった。けれど、今この時間には誰の人影もない。今見回りに行っているところなのか、もう帰ってきたのか、それともまだ出発していないのか――。
 そもそも、父はどこへ行ったのだろうか。
 見回しても、そこに人影も明かりも見出すことは出来なかった。
 墓地の方だろうか……?
 イーヴの抱いている不安がもし的中していれば、父の姿はそこで見出せるはずだ。しかし、墓地までの道は少年の足には少し遠かった。
 それでもとぼとぼと歩き出したイーヴは、いつの間にか墓地へと通じる、森の一本道の入り口まで来ていた。
 道が、遥か遠くまで伸びている。
 森を貫くその道に、月明かりが差し込んでいる。ぼんやりとした光に浮かび上がるその道の途上にも、明かりも人影も見出す事は出来なかった。
 ただ風だけが、一人立ち尽くすイーヴにまとわり付いてくる。
 その時。
 不意に、後ろから物音が聞こえてきた。
 イーヴはその物音の方を振り返ってみる。足音が、徐々にこちらに向かって近づいてくる。
 馬だ。馬が、こちらに近づいて来ていた。
 蹄の音が、だんだんと大きくなってくる。ゆっくりと道を行くその馬上に、見知った人影があった。
「……おいおい、誰かと思ったぜ」
 気さくに声をかけてきたのは、ロシェ・グラウルだった。
「……脅かさないで下さいよ」
「驚いたのはこっちの方だ。何たってこんな時間に、こんな所につったってやがるんだ。……墓を荒らす怪物が、ついに姿を見せたのかと思ったぜ」
 ロシェは、冗談めかしてそう笑った。
「夜回りですか?」
「まあ、な。しかし、待っているのに連れが来ねえ。……村の若い連中と、一緒に見回りにいく事になっているはずなんだが」
 彼はそう言って、ぼやいてみせた。
「ぼうず、お前はこんな所で何やっているんだ?」
「え? 僕は……その……」
 イーヴは言い淀んだ。
 まっとうな大人であれば、子供がうろついているのを見て、さっさとうちに帰れと怒るのが常であろう。しかし、ロシェはそういう常識とは無縁の男だった。
「……眠れないのか」
「え……まあ」
 曖昧に相槌を打つと、不意にロシェは馬を下り、イーヴの細い身体を担ぎ上げた。
「うわ」
 イーヴを無理矢理馬に乗せると、自身も再び、ひらりと飛び乗る。
「仕方がねえ。俺ら二人だけで、見回りだ」
 そう言って、ロシェは馬を進ませた。
 馬と言っても農耕馬だから、人を乗せてそれほど速く走れるわけではない。それでも、がっしりとしたロシェと痩せ細ったイーヴ、目方の合計ではしっかり二人分の体重を支えて、馬は力強く森の道を駆けていった。
 実際、大人の足ならそう遠くはない道のりである。二人は風の吹きすさぶ森の道を抜けて、墓地へ向かっていった。
 途中、アーシアの薬屋を通り過ぎる。当たり前だが、薬屋は明かりひとつなく静まり返っていた。
 やがて、月明かりに照らされた墓石の群れが見えてくる。
「ほら、到着だ」
 ロシェは墓地の入り口で馬を止めた。
 見れば、寒々とした場所だった。
 開けた斜面沿いに、石の墓標がずらりと並ぶ。村で生まれ、村で死んでいった人々が眠る土地。
「どうだ、ぼうず。夜の墓場ってのは不気味だろう」
「やめてくださいよ」
 にやにやしながらそう言ったロシェを、イーヴがたしなめる。
「……怖いのかい?」
「ロシェさん、死者をあまり馬鹿にするもんじゃありませんよ」
 聖職者らしい面白みのない言葉を、イーヴは返した。
 少年は、墓石の群れを無言で見渡す。その背後に立ったロシェが、ぼやいて見せる。
「見回りって言ってもなあ……。いつ現れるか知れねえ墓荒らしだ。そう簡単に姿を現すかねえ」
 やれやれ、と呟くロシェ。だが、イーヴの思いは別の所にあった。
 ここまで来る道すがら、父とすれ違いはしなかった。
 時間的には、すでに父はたどり着いているかいないか、といった所だったろうか。道の途上にいなかったのなら、この墓地のどこかにいるのではないか……。
 そう思って、父の姿を求めていた。
 自然と、足が動き出す。緩やかな斜面を、ゆっくりと上りはじめる。
「おいおい、真面目に見回りをするつもりかよ」
 その言葉に耳も貸さずに、イーヴは居並ぶ墓石のひとつひとつ、その影にいちいち視線を走らせた。
 求める姿は、どこにも無かった。
「ねえ、ロシェさん」
「なんだ?」
「これまでの見回りで……何か不審な人影とかって、見かけましたか?」
「……いや」
 ロシェはそう言って首を振る。
「見回りって言ってもな。俺は村の連中の付き添いみたいもんだからな。本気でその墓荒らしを捕まえたいんなら、村人総出で一晩中見張っているか、山狩りでもやる覚悟でないとな。……もう一、二件ばかし荒らされりゃあ、連中も本腰あげるんだろうけどな」
 不謹慎な発言に聞こえるかも知れないが、実際の所それが真実なのかも知れない。彼と一緒に見回るはずの村人達の不在が、その事を示しているように思えた。
 その時だった。
 イーヴが不意に視線を走らせた先に……何やら、白い影が見えた。
「あっ」
 思わず声を上げるイーヴ。
 だが、次の瞬間にはイーヴの視界からそれは消えてしまっていた。
「……」
「どうした、ぼうず……何を見た?」
「あ、いや……見たっていうか、何ていうか」
 自信が無かった。
 目の錯覚かも知れないし、そうでないかも知れない……確信が持てなかった。あやふやな答えを返す代わりに、イーヴはその影の見えた方角へと、足を向ける。
「おい……! 一体どうしたってんだ!」
 苛立ちのままに声を上げるロシェ。それを無視して、イーヴは墓石の間をすり抜けていって……。
 そして。
「あ……」
 その場所で、イーヴは立ち止まった。
 無残にも倒された墓石。土は深くえぐられていて、そこに埋められていたものがその姿を露出させていた。
 棺は乱暴に叩き割られていて……その割れ目から引きずり出されるようにして、「それ」は外気にさらされていた。吹き付ける風が、猛烈な腐臭をイーヴ達に向かって運ぶ。
「……子供が見るもんじゃねえ」
 ロシェはそう言って、無残にも地面に投げ出されているその亡骸を凝視するイーヴを引き離した。
「しかし……こりゃひどいな」
 ロシェが、ぽつりと呟く。まるで腐肉を漁る獣の群れが通り過ぎていったかのように、遺体は無残にも引き裂かれていた。
「おい……大丈夫か?」
 ロシェが一応、少年に気遣いの言葉をかける。
「うん……大丈夫」
 イーヴは、少し沈みがちな声でそう答えた。
 そんな、少年の胸に去来していた思いとは。
(あの白い影……父さん……じゃない? 一体何者だったんだろう……?)
 沸き上がる、不安と疑惑。
 それに応えるかのように、風が二人の間を通り過ぎていった。




     3

 次の日曜の礼拝は、どこか沈んだ空気が支配していた。
 あの直後、ロシェは少年を教会に送り届け、遺体はロシェが一人で発見した事になっていた。ロシェと見回りをするはずだった若者達は、年寄り連中にこっぴどく叱られた。
 その翌晩から、見回りの人数が増えた。
 止められない墓荒らし。損壊される遺体。もう村の大人達も、その奇怪な事件への憤りや不満を、隠そうともしない。そんなぎすぎすした空気が、そのまま礼拝堂の中に持ち込まれていた。
 嫌な空気だった。
 具合が悪いと言って礼拝を休もうか。イーウはそうも考えたが、アーシアに会えるかも知れないと思って無理に出る事にした。
 あれから何度か軽い発作にも襲われている。薬だってそろそろ尽きかけているし、そういう意味でも彼女に会う必要はあった。
 夏の日差しは日増しに強くなっていっている。さすがに、イーヴも無理をするわけにはいかなかったのだ。
 しかし……その日の礼拝に、アーシアの姿はなかった。
「……残念だったわね」
 礼拝が終わった後、カリルはイーヴの沈んだ表情の意味を読み取って、そう声をかけてきた。
「うん……まあね。そろそろ、薬も欲しいし……」
 薬の事を持ち出すと、カリルは何故か目を伏せた。
「……どうしたの?」
「うん。……その事だけど」
 カリルは言いづらそうにしながらも、イーヴに話して聞かせた。
「ほら、例の墓荒らし……この間、ロシェが墓地で荒らされたお墓を見つけたじゃない」
「……うん」
「それで、ね。見回りの人を増やすことになって、うちのお父さんも出ているんだけど……月夜の晩に、あの人が墓地にいるところを見た人がいるの」
「……?」
「死んだ旦那さんのお墓の前に、黙ったままずっと立っていたって。……一人や二人じゃないらしいのよ、それを見かけたって人も」
「……だって、そんな」
「村の人は皆言っているわ。あの人は……魔女だって」
「魔女、って……」
 その言葉にイーヴが思い出したのは、カリルを一番最初にアーシアの元へ連れていった時の事だ。あの時のカリルの無責任な恐れを、村人達が等しく抱いているとでも言うのだろうか。
 そんなカリルの言葉に、イーヴは戸惑いを覚えざるを得なかった。魔女や異端審問なんて、数百年も前の話ではないか。そんな時代の無知な人々のように、村人達は不安を覚え、脅えている。
「だからなの。だから、アーシアは来ないのよ。きっと」
「……」
 イーヴはそれ以上、何も言えなかった。




 ロシェが教会にやってくるのは、いつも午後になってからだ。その日曜も、彼は午後になってから教会にやってきた。
「ロシェさん、どうしていつも礼拝に来ないんですか?」
「俺はな、神様が苦手なんだよ」
 イーヴの質問に、彼は声をあげて笑いながらそう答えた。
「それに、俺はいつも夜回りをしているからな。朝は苦手なのさ」
 一応彼は、墓荒らし退治の用心棒のような役割を負わされて雇われている身分である。最近は毎日のように夜の見回りに参加しているとの事だ。
 そんな彼は、まるで自分の家でくつろぐかのように、礼拝堂の長椅子にどかっと腰を下ろす。
 そんなロシェに、イーヴはおずおずと問いを放った。
「……ロシェさん」
「なんだ?」
「ロシェさんは、クラヴィスさんの戦友だったんですよね?」
「ん? ……ああ」
「クラヴィスさんは、軍に居た頃にアーシアさんと知りあったって聞きました。アーシアさんの事、ロシェさんは何かご存じですか?」
「いや? ……その話は間違いだろう。多分、奥辺境から戻ってからじゃないのかな……一緒に奥辺境に旅立った時は、奴はまだ独り身だったはずだし……大体、そんな頃合なら俺と面識があってもおかしくないだろう?」
 その言葉でイーヴが思い出したのは、墓地で対面した二人の交わした会話だった。
「……顔見知りじゃ、ないんですか?」
「俺が? あの姐さんと? ……まさか」
 そう言って、ロシェはわざとらしく大声で笑う。静かな礼拝堂に、笑い声だけが響いていく。
「遠征部隊って、実際のところ奥辺境には一体何をしに行ったんですか?」
「気になるか?」
「……ええ、まあ」
 イーヴがおずおずとそう返事すると、彼は歯切れの悪い言葉で回答した。
「一応、な。僧会の派遣で、魔物を退治しにいった事になっている」
「……?」
 その言葉に、イーヴは面食らった。
「魔物、ですか……?」
「おうよ」
「そんなものが、やっぱり奥辺境にはいるんですか。……いや、そもそも何でそんなものを、わざわざ退治なんて」
「さて」
 ロシェはそう言って首を振った。それ以上語りたがらないようだったので、イーヴもそれ以上は聞かなかった。
「……どう思いますか? そのクラヴィスさんの奥さんを、村の人たちは墓荒らしなんじゃないかって疑っています。彼女がただ、魔法使いだというだけで」
「……そうらしいな」
「王国軍の軍人だったロシェさんなら、魔法使いがそんなに恐ろしいものじゃないって、ご存じでしょう?」
「だがな、ぼうず。十年前王都で起こった内戦は、魔法使いが引き起こしたものだった。そいつを倒したのがクラヴィスなわけだが……。それにもし、今度の墓荒らしの一件が魔法使いの仕業なら、その魔法使いは確実に禁呪に手をつけてやがるだろうな」
「禁呪……ですか」
「そういう禁呪に手を染めている魔法使いってのも、皆無ってわけじゃない。村の連中がビビり過ぎだってのは分かるが……あながち、ありえない話じゃないだろう」
「無実なんですよ、彼女は」
「……やけに肩を持つな。おい」
 そういって、ロシェは笑った。
「……まあ、いいさ。俺はな、化け物がどうだって話はいまいち信用出来なくてな。おそらくは村の誰かじゃないかと思っている。……薬屋のおかみってのは的外れだとしても、村中がそんなふうに疑心暗鬼になってりゃ、そいつはいつか尻尾を出すに決まっている。俺は、それを待っているんだ。……アーシアの姐さんにぁ気の毒な話だがな」
 ロシェはそう言って、ニヤリと笑った。




     4

 日も傾きかけた頃に、イーヴは教会を出て薬屋へ向かった。
 森の一本道。強い日差しはイーヴを容赦なく照らし、彼は何度も木陰で休憩を挟まなくては行けなかった。そうまでしてたどり着いた薬屋なのに、扉は閉ざされていた。
「……」
 留守か、と一瞬考えたけれど……そっと押してみれば、扉は容易に開いた。ひょっとしたら中にいるかも知れない……そう思って、彼は足を踏み入れてみる。
「……アーシア?」
 返事はない。薄暗い店の中にゆっくりと足を踏み入れると、それを咎め立てするかのように、一寸遅れて誰何する声が返ってきた。
「……誰?」
 その声とともに、奥から現れる人影。
 青い瞳が、まっすぐに彼を見据えていた。まじまじと見入られて、イーヴは一瞬、言葉を失った。
「……アーシア」
 呆然と、その名前だけをやっとの思いで呟くイーヴ。その彼を、アーシアは厳しい表情で見返していた。
 と、思った瞬間に、彼女はその表情を崩す。
「イーヴ……あなただったのね」
 アーシアは安堵の笑みを浮かべ、ゆっくりと彼の元に進み出てきた。
「……お薬ね?」
「あ……うん」
 イーヴが短く返事する。アーシアはいつものように、奥の戸棚に向かった。
 棚の高い所に手を伸ばしているアーシアの背中に、イーヴは問いかける。
「……どうして、礼拝に来なかったの?」
 心配そうな声で問いかけるイーヴ。アーシアは少年を一瞬だけ、ちらりと振り返った。
「あなたは、どうしてここに来たの?」
「どうしてって……」
「村の人たちが、私の事を何て言っているのか、どこかで耳にしなかった?」
 あくまでも優しい口調で、アーシアは問う。
「僕は……」
 イーヴはうつむいたまま、何も言えなくなってしまった。村人の風評を、彼女はよく心得ていたのだ。
 そんな彼女に、どんな言葉をかければいいのかイーヴには分からなかった。アーシアは何も言わずにイーヴの前に戻ってきて、薬のビンを手渡す。
「はい、どうぞ。……お代はいいから」
「え? でも」
 イーヴはその薬の小ビンを手にしたまま、またしても何も言えなくなる。
 その、思い詰めたような表情を見かねて……アーシアは、勤めて明るい声で少年に告げた。
「お代はいらないかわりに……ちょっと、手伝ってくれない?」
「……え?」
 不意の言葉に、きょとんとするイーヴ。アーシアはにっこりと笑顔を投げかけると、そのまま店の戸口に向かう。慌てて後に続くイーヴ。
 店の建物をぐるりと回って、二人は裏手に抜けた。
「さ、こっち」
 背後に広がるのは、森の木々。ぽっかりと開けたその庭先をアーシアが指し示す。そこに、小さな畑があった。
「……これは?」
「あなたのお薬。薬草を取り寄せると高つくから、うちで育てられないかと思って」
 アーシアはそう言って、少女のように微笑んだ。
 それは本当にささやかな薬草畑だった。アーシアはその前に立って、一番手前の小さな葉を差し示す。それが、イーヴの薬になるのだと彼女は説明した。
 手伝えと言われたものの、結局イーヴはすることもなく、彼女の仕事をぼんやり眺めているだけだった。
 畑とは言っても、簡単な、花壇みたいなものである。少し水をやって、それだけで作業は終わった。
 午後の日差しが、二人の上に容赦無く照りつける。軒先の日陰に座り込んだイーヴに、アーシアは冷たいお茶をいれてくれた。
 ささやかな、お茶の時間だった。心地好い風が、二人の間を通り抜けていく。
「ねえ、アーシア」
 それまで黙り込んでいたイーヴが、不意に口を開いた。
「……なに?」
「こんな事、あなたに話してどうなるのか分からないけど……。誰かに言っておいた方がいいような気がして」
 沈痛な面持ちで口を開くイーヴ。アーシアはそんな彼を見やると、優しい笑顔を浮かべて、先を促した。
「……聞かせてくれる?」
 彼の口から語られたのは、父親の事だった。
 教会の地下室の事。毎晩のようにそこにこもりきりの父。そして、彼が夜に出歩いていったその晩に起きた、墓荒らし……。
「……アーシアはどう思う? 村の皆はあなたを疑っているみたいだけれど、本当は……」
「ねえ、イーヴ」
「……何?」
「もし、あなたのお父さんが悪い事をしていたとしても……。他の誰が何て言ってもいい、あなただけは、最後までお父さんを信じてあげなさい。村の人達が疑い始めれば、誰も味方はいなくなるんだから」
「……アーシア?」
 イーヴには、アーシアが何を言っているのか分からなかった。慌てて彼女の顔を覗き込む。その彼女は、イーヴから視線を逸らしたまま、彼の方を見ようともしなかった。
 憂いの表情のままうつむく彼女の横顔を、イーヴは不思議そうな表情のままじっと見やっていた。




     5

 父を信じろ、という彼女の言葉が、耳から離れなかった。
 けれど、どうして? ……村の人間たちは誰も父の事を疑ってなどいない。イーヴだけが、父の密やかな行動を知っているのだ。
 イーヴこそ、父を告発する役目を負わされてる人間ではなかっただろうか。
 父と顔を合わせるのは気が重い。
 そう考えると、村へ戻る足も重かった。
 森の中をまっすぐに伸びていく、一本道。イーヴはその先を見据える。このまままっすぐ行けば村だが、その場所からはまだ家々の影は見えない。
 ふと振り返る。今まで歩いてきた道。まっすぐ行けばアーシアの店があって、その先に墓地があって、その先は――。
 イーヴは視線を落とすと、道の脇に寄った。そのまま、側にあった木の根元に、腰を下ろす。
 座り込んだ瞬間、イーヴは息をついた。ふと気がついてみれば、かなり動悸が乱れている。息も荒い。
 身体の具合を推し量る余裕も無く、考え事に没頭していたんだろうか――そんな自分がおかしくて、イーヴは笑った。
 ふと、振り返ってみる。
 一本の道に切り取られた森。往来を行き来しているだけならばそれは景色に過ぎないが、その木々の間に一歩足を踏み入れたなら、そこには確かに「森」という別種の空間が広がっていた。
「……」
 木々の間から垣間見えるのは、暗い景色。
(なんだろう、この感覚……)
 胸騒ぎを覚えるのは、歩き詰めで息が上がっているせいばかりではなさそうだった。
 何か、その向こう側にある。
 ……何が?
(何も、あるわけ……)
 ……ない。そう言って否定していれば、それでよかったのかも知れない。
 だが、イーヴは立ち上がった。立ち上がって、感じた気配に向かって近づいていった。
 一歩、森へ足を踏み入れていく。
 平和な往来とは、まったく別種の世界がそこには広がっていた。まだ夕方と呼ぶにも早い時間帯だというのに、木々が日光を遮るその空間は、夜のように真っ暗だった。
 そんな中、イーヴは木々の間をゆっくりとすり抜けていった。うねうねと地面を這う、太い木の根につまづきそうになりながら、ゆっくりと。
 そんな異質な世界とは言え、村人たちはそんな世界に寄り添うように暮らしているのだ。大人たちも……そして子供たちでさえ、その異質な世界を異質ならざる身近な世界として生きている。
 ただ、異邦人たるイーヴだけが、一人、森の闇に戸惑いを覚えていた。
(……何だ?)
 歩きながら、胸騒ぎは頂点に達していく。
(何があるんだ……僕は、何にひかれて……)
 不意に――。
 イーヴは、その場で足を止めた。
 鬱蒼と茂る森の中で、そこだけが少し開けた空間になっていた。
 一本の巨木が、まっすぐに天に向かって伸びている。周囲の木が、それに追いつこうと懸命に枝葉を伸ばしているが、まるで大人と子供くらいに差があった。
 そんな巨木の足元が……赤く穢れていた。
「……」
 イーヴは、言葉を失った。その赤が、血の赤であることは瞬時に見て取れた。
 血の匂いが鼻腔をつく。反射的に目を背けようとするが……出来ない。
 そう、彼の感じた予感は、そんなものの存在を知らせているのではないのだ。
 それ以上の、何かが――。
「……そんな」
 イーヴは、ゆっくりと視線を上に上げていく。その血溜まりは、どこから来たのか……血の滴りが、どこから落ちてきたのか……少年の視線が、それを追いかける。
 その、巨木の枝に、何かがぶら下がっていた。
「……!」
 いや、ぶら下がっていたというのは適切ではない。それは、木の枝に引っ掛けられていたのだ。
 太い枝が、へし折られたかのように途中で途切れている。斜めに裂けて、鋭角を天に向かって突き出している。その枝に胸を貫かれて、一人の男がそこに引っ掛けられていた。
 そう、そこにあったのは人間の姿だった。いや……そう呼ぶのははばかられた。何故ならそれはもう物言わぬ存在に成り果てていたから。
 見覚えがある。あれは村の人だ……。
 イーヴは息を飲んだ。ただ胸を貫かれているばかりではない。両頬に、まるで刻印のような鋭い切り傷。胸の中央を木の枝に貫かれていたが、一番無残なのはその下……腹部がばっさりと切り裂かれている部分だろう。何かべろりとはみ出しているのを見て、イーヴは思わず顔を背けたくなった。
 ……なのに、何故。
 少年は、目を離すことも出来ずに、その無残な亡骸――生死をしかと確認したわけではなかったが、到底息があるようには見えなかった――を見入っていた。
 顔を覚えている程度で、名前も思い出せない。けれど、その人が数日前までは確かに生きていた事を、少年は知っていた。
 ――不意に。
 ミシリ、と音が響いたかと思うと、次の瞬間、その亡骸がぐらりと傾いた。
「!」
 枝が、重みに耐え切れずに折れる。
 死体が、そのまま重力に引かれ、落下を始める。
 その重い死体が地面にどさりと落ちてくるまでに、さほどの時間は要しなかった。
 その、ほんの僅かな時間――それをじっと見入る少年の目には、それはとても長い、長い時間のように思えた。