月があなたと踊る夜 5
作:ASD





第五章




    1

 夜中に降り始めた雨は、朝になってもやむ事はなかった。
 死者を悼む哀しみの雨……人々がそんな風に感じていられたのはまだ暗いうちの話である。夜が明けるに連れ雨足は強くなり、朝になって葬儀が始まる頃には、かなりの勢いで地面を叩いていた。
 ウォーレン司祭一家がこの村に越して来てから、初めての葬儀であった。
 天寿をまっとうした年寄りの葬儀であるなら、もう少し雰囲気も和みもするのだろう。しかし、死んだ男のその最期は到底普通と言えるものではなかっただけに、重苦しい、息苦しい空気が人々の間には横たわっていた。
 森で発見された、惨殺死体。
 陰惨な事件だった。そう、事件……何かの事故だなどと考えているものは誰もいない。その事件を、不可解な墓荒らしと関連付けて考える者も少なくはなかった。
 というより、誰しもがその二つの怪異を結び付けずにはいられなかっただろう。おおっぴらに口にするものこそいなかったが、二つの事件が共通の犯人の仕業である事は、薄々誰もが実感していた。
 そんな風に人々が見守る中、葬儀は淡々と進んでいく。
 礼拝堂。ウォーレン司祭が祈りの文句を朗々と唱えている中、それを見守る人々の間には不信と憤り、不安と恐れが渦巻いていた。
 イーヴは幾分緊張したような面持ちで、司祭の傍らに付き従っていた。人々の遠慮の無い好奇の目が、少年の上にも向けられていた。
 墓場での一件はロシェがうまくごまかしてくれた。しかし今回は紛れもなく、イーヴ自身が第一発見者である。あの惨状を目の当たりにしながらも、懸命に父の手伝いをする少年の姿は健気の一言だった。
 司祭の祈りの言葉が止む。あとは亡骸を墓地へと運び、埋葬するだけだ。叩きつけるような雨も、この時ばかりはその勢いを緩めた。
 雨の中、人々の列がゆっくりと礼拝堂を出ていく。
 目指す先は、森……村の墓地。男たちが棺を担ぎ上げ、残された家族がすぐ後ろをついていく。妻と幼い子供達、そして年老いた母親。
 その後ろを、村人達がぞろぞろと続いていく。
 雨の中、沿道を見やれば子供達が、遠巻きに葬列を見守っていた。何せ、死に方が死に方なだけに、彼らの好奇心をも引きつけてやまない出来事ではあった。
 そんな中に、カリルの姿もあった。
 あの日……死体が発見された日、震えながら礼拝堂にたどり着いたイーヴと最初に顔を合わせたのはカリルだった。
 少年の青白い顔を、少女は今でも覚えていた。
 司祭の手伝いなんかせずに休みなさい……そう言ったカリルの言葉を、イーヴは聞き入れなかった。葬儀の邪魔だと大人達にその場を追い出されたカリルは、イーヴが心配で、礼拝堂の外で彼を待っていたのだ。
 そのイーヴはと言えば、礼拝堂の大扉の脇に立って、順番に出ていく村人達の列を見守っていた。若干小降りになってきたとは言え、雨は遠慮なしに少年の上にも降り注ぐ。夏だと言うのに、雨の粒はとても冷たかった。
 雨に打たれながらも、粛々と進む葬儀の列。……不意に、その列が途切れた。
 棺の後ろを行く、年老いた母親が不意に泣き崩れる。雨の降りしきる中、泥水の中に膝を突いて、まるで悲鳴のような嗚咽を漏らす。家族やその後ろに居並ぶ村人達は、そんな老婆の姿を目の当たりにしながらもおろおろと見守るより他になかった。
 そんな中、葬列を見守って礼拝堂の入り口に立っていたイーヴが、老婆に駆け寄っていく。
 そう言えば、あの老婆も毎日のように朝の礼拝に訪れていた一人だ……不意にカリルは、そんな事を思い出していた。
 毎日顔を合わせ、説教を聞いている老婆。イーヴは泣き崩れる彼女の側にしゃがみこんで、なだめるように言葉をかける。
 カリルの立つ場所からは、そこで交わされている会話の内容はまるで分からない。ただ……ただひとつ彼女の目に見えたのは、老婆の肩に回されたイーヴの手が、以前見たようにぼんやりと不思議な光を放っていたという事だけ。
 あ、と軽く声を上げはしたが、二度目とあってさほど大きな驚きはなかった。
 前と一緒だ。そんな不思議な光景を目の当たりにして、周囲の人々は誰一人、驚きの表情を見せない。
 それは、カリルにしか見えていないのだろうか。
 雨の中、彼女は自分の目がどうかしたのかと思い、ごしごしと強くこすってみる。でも、結果は一緒だった。
 イーヴの手の中で、ぼんやりと……優しく、柔らかく輝く白い光。
 やがて、後ろの村人たちがわんさと駆け寄って、老婆を助け起こす。彼らに支えられて、母親はもう一度歩き出した。
 そして葬列は、何事もなかったかのように再び歩き出す。
 けれど、イーヴだけがその場所から進もうとしない。列をぼんやりと見やりながら、一歩二歩と後ずさって……。彼らを見送るかのように、その位置で立ち止まる。
 そのイーヴの身体が。不意にぐらりと傾いた。
 その瞬間に、カリルは雨の中を駆け出していた。水溜まりを踏みながら、水しぶきをかき分けるようにして少年の元に駆け寄る。
「イーヴッ!」
 イーヴはふらつく足で葬列の流れを逆行していき、礼拝堂の戸口にたどり着くとその壁に持たれかかった。
 足元のおぼつかない彼の腕を、駆け寄ってきたカリルが掴んだ。
 カリルは少年を助け起こし、額に手をやる。
 ものすごい熱だった。
「……カリル」
「イーヴ、しっかりして!」
 耳元で、叫ぶように言う。
 そんな二人を置き去りにするかのように進んでいく人々の列。無情に流れていく人々の群れを、カリルは恨めしそうに見やる。イーヴを風雨に晒したくはなかった。礼拝堂に連れ込みたいのに、戸口をくぐって出てくる人波がそれを遮っていた。
 不意に……その列が、再び足を止めた。
「……?」
 列の前方で、人々がざわざわと騒ぎ始める。
 いつの間にか、雨は本当に小雨になっていた。そんな中、雨に濡れて冷えた少年の肩を抱えたまま、カリルは前方を見やる。
 見出した人影に、少女は驚嘆の声を上げた。
 そこにいたのは、なんとアーシアだった。
「……一体、どうして」
 カリルが疑問に思ったのも無理はないだろう。
 人々の間に、猜疑心が横たわっている。
 村の墓地を荒らす、不可解な事件。
 そんな中起こった、村人の変死。
 その正体、その言動……さまざまに、口さがない事を言われ続ける魔法使いの姿が、そこにあった。
 人々の、疑惑と侮蔑の眼差しが、そこにはあった。
 誰も、何も言おうとはしない。けれど、彼女をまるで射るように睨みつける、人々の不信がそこに横たわっていた。
 葬列は、もはや列をなしてはいない。それは群集となって、一人の若い女性を取り囲む。
 アーシアは、黒い服に身を包んでいた。通りすがりではない……葬儀に参列するつもりだったのだろう。
 群集の中から、やがて声が上がる。
「何しに来やがった!」
 不躾な声に、アーシアはその表情を曇らせた。それでも人々に向かって、毅然と答えて見せた。
「……私だって、一応はこの村に身を寄せている身……葬儀に顔を出しちゃ、いけないかしら?」
「ぬけぬけと……殺したのはお前だろう、魔女め!」
 群集から、罵倒の声が飛ぶ。その声に同調するように、次々と飛んでくる、野次る声。
「そうだそうだ!」
「お前が殺したんだ!」
「魔女め! この村から出ていけ!」
「そうだ! あやしげな魔法使いなど、この村には必要ない!」
「魔女め!」
「墓荒らしめ!」
「人殺しめ!」
「……そうだ! 人殺しなど村には要らぬわ!」
「そうだそうだ!」
 人々のなじる声に、アーシアは言葉を失って立ち尽くしていた。
 そんな彼女を、群集の後ろからじっと見つめる目があった。……イーヴだ。
 ふらり、と立ち上がった少年を、カリルは慌てて制止した。
「……行かなくっちゃ」
「ちょっと、待ちなさい!」
 制止の手を振り切って、少年はよろよろと歩き始める。つたない足取りで、群集に向かって走り出す。
 アーシアを罵倒する人々は、もはや今が厳粛な葬儀の時であることを忘れていた。道端の石やらぬかるんだ地面の泥などをすくっては、彼女に向かって投げつける。アーシアは無言のまま、ただそれに耐えるだけだった。
 少年が、そんな彼女の前に進み出てきた。
 間に割って入った少年の身体に、誰かの投げた泥が直撃する。一発、二発……。
 飛んできた石を避けようと身をすくめたところに、もうひとつ泥のかたまりが飛んできて、さすがのイーヴもまともに立ってはいられなくなった。そのままバランスを崩して、少年はその場に転倒する。
 それを見やって、そこで初めて人々の手が止まった。
 口汚い罵倒の声を張り上げていた村人達も、それを見やって黙り込んでしまった。静寂が辺りを包む中、イーヴは身体についた泥を払いながらゆっくりと立ち上がる。
「……」
 無言で少年を見守る群衆。イーヴは、そんな群衆をはたと睨み据えると、その細い身体から大声を張り上げた。
「みんな、どうかしているよ!」
「……」
 少年の気迫に誰も何も言えなかった。
「アーシアが人殺し? 墓荒らし? どこにそんな証拠があるんだ! ……どこにも証拠なんてない。あやふやな憶測でものを言っているだけじゃないか! ……みんな、墓荒らしも殺人も、本当はどうだっていいんだろう? 不可解な事件の苛立ちを、誰かにぶつけたいだけ、ただそれだけなんだろう!」
「……」
「……それで気が済むんだったら、いくらでも石でも泥でも投げ付ければいい。いくらでも口汚く罵ればいいさ。僕がいくらでも聞いてやるよ! ……さあ!」
 何かを受け止めるように、両手を大きく開いて少年は雨の中を立ち尽くしていた。
 そんな少年を目の当たりにして、村人達は誰も何も言い返せなかった。
 イーヴは無言のまま、何も言い返さない村人達を睨み据えていた。
 群衆が、そんな少年を見返している。
 何も言えずに恥ずかしそうにうつむくだけの者も、確かに何人かはいた。けれどある者は何か言いたげに、不満げな表情で少年を睨み返していたし、またある者たちは少年に聞こえないようにひそひそと何かを囁き合っていた。燃えるような目で群衆の前に立つ少年を、まるで推し量るような目で見るものもいた。
 その少年の身体が、不意にふらりと傾いた。
 がくりと膝をつく。そのまま崩れ落ちようとする彼を、その背後にいるアーシアが慌てて抱き起こそうとする。
 伸ばした手がイーヴに触れた瞬間、彼女はイーヴにだけ聞こえるような小さな声を漏らした。
「痛っ」
 前のめりに倒れそうになった少年を、アーシアが支える。膝をついて、そのまま尻もちをつくような姿勢でその場に座り込んだイーヴ。
 そんなイーヴは、自分を支えてくれたアーシアの姿を見やる。その指先が、まるで火傷のように赤く腫れているのをイーヴは見逃さなかった。
 血の染みだした指先を、彼女はそっと口元にやって、傷口をなめる。
 ちらりと、その視線がイーヴを捉え……二人の目が合った。
 やがて、カリルが少年の元に駆け寄って来る。
 水溜りの上に座り込むイーヴを、カリルが抱き止めた。
 アーシアは少年の身をカリルの手に委ねると、そのままゆっくりと、彼らから離れて後ずさっていく。
 見守る人々の口からも、声が漏れる。けれど彼女はそんな人々には目もくれずに、くるりと背を向けて森の方へと歩み去っていった。
「……やっぱり、ここに来たのが間違いだった」
 誰に言うでもなく、寂しそうにつぶやいたその言葉に、カリルはアーシアを見やった。哀しそうな横顔が、少女の目にいつまでも焼き付いて離れなかった。
 そしてそれは、少女の腕に抱き止められた、少年の目にも。




     2

 結局その後、騒ぎの末に葬儀は再開された。当然のようにそこから先はイーヴ抜きで進められ、亡骸は真新しい墓に収められる事となった。これが荒らされたら大変だ、と村人達が口々に言い合ったのは、冗談にもなってはいなかった。
 イーヴはと言えば、あれからすぐに風邪をひいて寝込んでしまった。やはり、あの雨に打たれたのがいけなかったらしい。
 カリルは毎日のように教会に通い詰め、そんな少年に何かと世話を焼いていた。
 彼女の話に寄れば、アーシアはまだ村外れの薬屋にいるらしい。
 村人と彼女の縁はあれ以来ますます疎遠になっていて、彼女は村の方には全然顔を見せてもいなければ、誰も薬を買いに行くものもいなくなってしまったという。
「……もういい加減、村を出て行ってもおかしくないかもね」
 カリルがふと漏らしたその言葉が、イーヴの心に引っ掛かった。




 風邪で体調を崩しているせいだろうか、あれから何度か、発作がイーヴを見舞っていた。
 いずれも、夜や朝方といった、カリルがいない時間帯だった。イーヴはその事をカリルには一言も告げなかったが、日増しに減っていく薬を見れば、彼女にも何が起こっているのかは容易に察知できただろう。
 具合が優れずにほとんど部屋にこもりきりのイーヴを、父は心配して色々と言葉をかけてくる。父親らしい言葉とは裏腹に、彼の脳裏を過ぎるのはあの地下に潜んでいる、父の秘密だった。
 その父の地下室通いは、なおも続いていた。
 葬儀の日以来、雨は降っていなかった。夏本来の日差しと暑さが戻ってきて、イーヴは胸の苦しさと相まって寝苦しい夜をすごしていた。
 その耳に響いてくる、あの足音……。
 今日もなのか。
 イーヴはやりきれない思いでその足音をやり過ごす。
 父は一体、あの地下で何をしている? あの地下には、一体何がある? 何をしに、わざわざ夜中に出かける? 出かけたその晩に見つかった、荒らされた墓。そこに、何らかの関連はあるのか……。
 疑惑……少年はその胸の内を、おのが父に対する猜疑心でいっぱいに満たしていた。
 間断なく、その心に去来する不安。この村を舞台に、何かよくない事が起きている……そう、彼のすぐ側で。それを止められるものならば、止めなくてはならない……。
 そう、それはひょっとしたら、イーヴだけにしか止められない事なのかも知れないのだ。
(やめてくれ)
 少年は首を振る。
(父さんは何もしちゃいない。何も心配する事なんて……不安に思う事なんてないんだ! 何も、何も、何も……!)
 その否定に、根拠はなかった。本心では、彼は父のよこしまな行いを確信していた。
(あなたのお父さんを、信じなさい)
(あなたの信頼を失ったら、あなたのお父さんには誰も味方がいなくなる)
 アーシアの言葉が、耳の奥に甦る。
 彼女はひょっとしたら、父が何を行っているのか、それを知っていたのかも知れない。夜の墓地で彼女を見たという者もいるが……彼女はそこで、夜に出歩く父の姿を目撃し、その行いを知ったのかも……。
 それでもなお、父を信じろとはどういう意味なのだろうか。
 イーヴが父を告発しなければ、罪のすべては無実のアーシアが背負う事になるのだ。
(まさか……それを望んでいるとでもいうの?)
 何故。
 何故、何故、何故。
 疑問が、心の中に渦を巻いて……。
 ……。
 動悸が激しくなっていく。呼吸が短く、荒くなっていく。胸が苦しい……。 
 胸が、焼けるように熱い……。
(まただ……こんな時に)
 胸を締めつけられる、不快な圧迫感。これから自分の身に何が起きるのか、その感覚が全てを知らせていた。
 苦しい。胸が熱い。息が出来ない……イーヴは小さくうめき声をあげつつも、その苦しみに耐える。
 キリキリと、胸の奥で何かが軋みをあげていた。心臓が、不気味なくらいに強く脈打っているのが分かる。少年の青白い額を、玉のような大粒の汗が流れ落ちていく。水滴が頬を伝い落ちていく、その不快感。
「グッ……」
 押し隠し切れない嗚咽が、彼の口から漏れた。少年は折れそうに細い身体を大きくよじらせて、激しく咳込む。苦しそうな息の音が、真っ暗な部屋の中に響き渡った。
「……!」
 苦しみがなおも続く中、少年は口元を押えていた手のひらを見やる。指が、赤黒い何かで濡れていた。
 少年は、吐血していた。
 再び何かがこみ上げてきて、彼は再度激しく咳き込む。口腔から漏れた生暖かい、赤い液体。口元をおおった少年の、その白い手のひらから漏れたその液体が、シーツの上にしみをつくった。
 苦しみの中、少年は立ち上がる。口の中に、血の味が広がっていく。いつものように戸棚にある薬のビンに手を伸ばして、そしていつも通りに、薬を飲み下す。
 薬は、血の味がした。
 汗まみれの身体を、寝台の上に投げ出す。咳は取り敢えず止んだが、胸の圧迫感がなかなか引かない。
 これで最後なのかな……。
 少年は熱に浮かされた頭で、ぼんやりそんな事を考えていた。頭の中に浮かんできたのは、一人の女性の笑顔。
(アーシア……僕、このまま……)
 その顔が、カリルの顔に変わって、そして見知らぬ女性の顔に変わる。イーヴは最初、それが誰なのか分からなかった。
(誰……母さん……?)
 それが母の顔だと言うことに気付くのに、少し時間がかかった。かと思えば、気付いた瞬間にその像がぼやけていって……その面影を、再度脳裏に描くことは出来なかった。
(母さんの顔……すっかり忘れているな……)
 それを、哀しいとは思わなかった。どうせもうすぐ、彼女には会えるはずだ。
 ……。
 そのまま彼の意識が闇の中へと吸い込まれていくのに、さほどの時間は必要とはしなかった。
 朦朧とする意識の中……いつ聞いたのかは分からなかったが、確かにそれを、少年は聞いていた。
 あの、足音。
(父さん……)
 足音が、部屋の外を通り過ぎていく。ゆっくりと……そう、ゆっくりと。少年の意識の輝きが消えようとしているのを冷徹に無視するかのように、地下室から戻ってきた足音は、部屋の前を通り過ぎていった。
 声は出ないかも知れない。けれど少年は、その足音の主を――自分の父親を、呼び止めてみようともしなかった。今死に行くかも知れない自分を、助けて欲しいとも看取って欲しいとも思わなかった。
 やがて、その足音はずっと遠くへ。
 そう、あの晩と同じだった。
(……そう、同じだ)
 扉が押し開かれる音。父……おそらくは彼の父であろう足音が、またしても外へと出ていった。
(どこへ行くんだ、父さん……僕を置いて)
 少年は、震えていた。
 寝台の上で、血に汚れたシーツの上に身を投げ出して……少年は震えていた。
 いつの間にか、苦しみは引いていた。その晩、またしても彼はこちら側へ戻って来るのに成功したのだ。
 行くか、戻るか……その晩の少年には、迷いがあったように思う。それでも向こう側へ到達すること無く、少年の意識はこちら側に止まっていた。
 いつの間にか、彼は泣いていた。
(何故だ……なぜ僕は泣いているんだ……)
 そっと目を閉じる。開けた目の闇に決別し、閉じ目の闇へとその意識は沈んでいこうとする。
 その耳で、彼は足音を聞いていた。
(……?)
 ぼんやりとする意識の中、時間の感覚はおかしくなっていたとは言え……父が帰ってくるのにはまだ時間があるように思えた。
 ならば、誰だろう?
 足音は小さく、どこか遠慮がちで……父のものとは違うように聞こえた。
 そう思った次の瞬間、扉の向こうから声が響いた。
「……イーヴ? いるの?」
「……カリル?」
 少年はか細い声を何とか上げて、扉の向こうに問いかける。
「イーヴ、いるのね?」
 その声と同時に部屋の扉が開いた。その向こう側に、カリルの姿があった。
「イーヴ。大丈夫?」
「うん……大丈夫だよ」
 汗まみれで、ぐったりと横たわったまま……少年は安堵しながらそう答えた。窓から差し込んでくる月明かりで少年の存在を見出すことは出来ても、その青白い表情までは見えはしないだろう。
「本当に大丈夫? さっき、司祭さまがどこかへ出かけていくのが見えたけど……あなたの具合が、急に悪くなったのかと思って」
 出歩いたところで、医者を呼びに行くわけにもいかない。医術の心得が多少ある人間と言えば、魔法使いであるアーシアと、当の司祭自身ぐらいしかいないのだから。
「……カリルは、何でこんな夜に出歩いているのさ」
 イーヴが、もっともな問いを放った。いつも彼の元を訪ねて来る少女だが、時間が時間だ。
 カリルは、少し照れたように俯きながら、いいわけのように言う。
「何だか、村中騒がしくて。父さんも出かけちゃったし」
「墓荒らしが出たの?」
「ううん。今夜は村人総出で、不審者がいないか見回りをするって。ロシェが張り切ってた」
「……父さん、大丈夫かな」
 イーヴは何気なく呟く。その言葉の意味を図りかねてきょとんとしているカリルを横目に、イーヴはその上体を起こした。
「……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。……何ともないって」
 そう言い切ったイーヴだったが……自分の姿を確認して、とてもそんな事を言える状況ではない事を知った。
 寝間着は汗でぐっしょりと濡れているし、口元、指先、そしてシーツ……吐血した血の痕跡が、その場にありありと残っていた。暗くてよくは見えないはずだったが……側に寄ってきたカリルもようやくそれに気付いたみたいで、はっとした表情をつくった。
「本当に……本当に大丈夫なの?」
 同じセリフを繰り返すカリルだが、今度はその声が震えていた。
「大丈夫だって。……いつもの事だから、平気だよ」
 平気ではない……それは分かっていたけれど、イーヴはどこか醒めた目で、今の状況を見ていた。
 最後だ、と確信したはずのその覚悟が、空振りに終わってしまったせいだったのかも知れない。
「ねえ、カリル。僕はちょっとぼんやりしていたから分からないんだけど、父さんが出ていったのはついさっきなの?」
「……ええ。本当は、窓からでもこっそり来るつもりだったんだけど」
「それじゃ、父さんは当分帰っては来ないな……」
 イーヴは独り言のように呟くと、不意に立ち上がった。
「イーヴ! 駄目よ、無理しちゃ」
「無理なんかしないよ」
 短く、吐き捨てるような口調で断言するが、その足取りはふらついていた。制止しようとするカリルの手をすり抜けて、イーヴは戸口に向かう。
「どこへ行くの」
「……よかったら、ついて来てくれる?」
 力のない声で、イーヴは少女を促した。
 カリルはやむを得ず、その後に続く。少年が足を運んだのは、廊下の奥の突き当たり……例の物置だった。
「カリル。悪いけど、灯りを持って来てくれないかな。父さんがランプを持っていったはずだから……礼拝堂へ行けば、燭台があるはずだよ」
 カリルは慌てて廊下を反対に駆けて行く。イーヴを一人きりにしておくのが嫌だったので、少女は大慌てで戻ってきた。蝋燭の頼りない明かりをもとに、二人は暗い物置の中を進んでいく。
 やがてイーヴは、何もない床の上で立ち止まった。
「……ここだ」
 カリルは最初何故こんな所で立ち止まるのか分からなかったけれど、かがみ込んだイーヴが床のはめ板の隙間を探って、指を引っ掛ける。
「ねえ、イーヴ、これって……」
「この間話しただろう? ここが地下室だよ」
「! ……ど、どうするの?」
「父さんはしばらく帰って来ない。その間に、ここに何があるのかを突き止めるんだ。僕と、君とで」
「あなたと……私で?」
「手伝って」
 イーヴはそう言うと、床板を力任せに持ち上げた。今にも倒れてしまいそうなイーヴに、それを持ち上げるだけの余力は無かったけれども……。カリルが手を貸して、二人で何とかその戸板を跳ね上げる事が出来た。
 その向こう側に、下へと続いていく階段が顔を覗かせていた。
 カリルは、その階段の先を不思議そうな顔をして見やっていた。不思議なのは、その階段のずっと下の方がぼんやりと淡い光を放っている事だ。
 誰かいるのかと思ったが、そんな気配はない。誰かが照らしているのでなければ、一体何が光を放っているというのだろう。
「イーヴ、どうするの?」
「決まっている。下りるんだよ」
 少年はそれだけ言うと、何のためらいも見せずに石段に足をかけた。一段ずつ、その足取りは慎重だったが、その一歩一歩に迷いは見えなかった。カリルもやむなく、その後に続く。
 下りていくにつれ、淡い光の正体が明らかになっていった。通路の外壁の石が、どういう原理かは知らないがぼんやりと輝きを放っていたのだ。
 その幻想的な青白い光に、カリルはぼんやりと見入ってしまっていた。得体の知れないものを前にした不安と、その得体の知れなさゆえにそれを美しいと感じる心とが、彼女の心の中でないまぜになっていた。
 前を行くイーヴも不思議そうな顔をしてその場を見渡したが、彼の興味はやはりその階段の先にあるようだった。長い長い階段を、二人は慎重に下りていく。
 正直に言えば、カリルは逃げ出したかった。
 今日のイーヴは、どこか変だ。いつもは彼女に振り回されるがままなのに……今の彼には逆に彼女を圧倒する、何の迷いのない強い意志の力が見受けられた。彼女は何も言えずに、ただあとを付いていくしかなかった。




     3

(イーヴ……どうしてしまったの)
 カリルは心配そうに、傍らの少年を見やる。
 通路は、下へいけば行くほどどんどん寒くなっていく。夏近くだというのに、吐く息が白い。
 自分はともかく、前を行くイーヴにはこの寒さはかなり堪えているはずだ。寝汗でぐっしょりと濡れているそのか細い身体を、冷気が容赦なく包み込む。少年の身体がかすかに震えているのが見て取れた。
 それでもイーヴは何も言わず、黙々と先を急ぐだけだった。
 やがて……。
 不意に、視界が開けてきた。狭い階段をずっと下っていくと、その先に突然、天井の高い広々とした部屋があった。
「うわあ……」
 カリルは、その広さにまず目を奪われた。地下のはずなのに、この天井の高さは何なのだろうか。階段はかなり下まで続いていたから、これだけの高さがあっても不思議ではなかったが……。
 もうひとつ不可思議だったのは、その部屋の壁といい天井といい、先ほどの青く光る石がびっしりと敷き詰められているという事だった。おかげで、照明がなくともこの部屋は充分に明るかった。手元の燭台の明かりは、その場ではあまり意味がなかった。
 だが……そんなものよりも、もっと目を引くものがその地下室にはあったのだ。
「イーヴ……あれって……」
 カリルは思わず、イーヴにしがみついてしまっていた。
 イーヴは何も答えない。目の前にある「それ」を、ただ黙って見つめていた。
 そこには、まるで祭壇にも似た大きな石づくりの台があった。
 その上に、まるで棺のような、長細い形をした四角い箱が安置してある。
 棺、だった。
 まるで部屋中の冷気がその一点に集まって来ているかのように、そこだけが異様に寒かった。いや、逆にその棺が冷気を放っているのかも知れない。
「どうなっているの……?」
「父さんが、何かしてあるんだと思う」
「何か、って……」
「魔導の術か何か……」
 魔導、という少年の言葉に、カリルは不安をかき立てられずにはいられなかった。
 見れば、その棺には蓋がなかった。近づいて目を凝らせば、その冷気のさなかに確かに横たわっている人影が見て取れた。
「……!」
 カリルとイーヴは、恐る恐る棺に接近して、その人影を覗き込む。
 その人物の顔を見やって、カリルは思わず声を上げてしまった。
「ねえ、イーヴ。この人って……この人って、まさか……」
 そう言いかけたカリルの言葉を遮るかのように、イーヴがぼそりと呟いた。
「母さん……」
 その呟きに、カリルは息を飲んだ。
 イーヴはゆっくりとカリルの元を離れ、棺の前に立った。
 確かに、それは記憶の中にある母と、そっくり同じ亡骸だった。
 半年前に死んだはずの母。棺を満たしている冷気のおかげか、亡骸は死んだ時のままの美しい姿を保っていた。腐敗などの損傷は、ひとつも見出せなかった。
 まるで、ただ眠っているだけのようにも見えた。
「母さん、どうしてこんな所にいるんだ……」
 イーヴはそんな母に、そっと手を伸ばす。触れた指先には、確かに冷たい感触が伝わってきた。
 少年の時間が、一気にあの冷たい冬の朝に引き戻された。
「母さん……」
 そう呟くイーヴの背中を、カリルはただ呆然と見ているより他になかった。
 どれだけの時間、イーヴは棺に横たわる彼女を見入っていたのだろう。そしてどれだけの時間、カリルはそんなイーヴの背中を見入っていたのだろう。
 イーヴは母の傍らに立って、一言もものを言わずにじっとしている。そんなイーヴを、やはりただ黙って見つめているだけのカリル。
 だが、そのイーヴが不意に顔を上げ、振り返った。
「ねえ、カリル……何でこんなところに、母さんの遺体があるんだと思う?」
「遺体……死んでいるの?」
「……だって、母さんはもう死んているはずだよ」
 カリルのとぼけた疑問に、イーヴは変に冷静に答える。
「どうしてって……そんな事」
 私に聞かれても、分からない……カリルがそう答えるより早く、イーヴは動いていた。相変わらず頼りない足取りだったが……その視線は何かを求めるように、鋭く左右を見回す。
 天井の高さに驚かされたが、冷静になって見回していればその地下室はそれほどだだっ広いわけではなかった。広さは礼拝堂の半分くらいで――それでも地下室としてはだいぶ広いのだが――その中央に、例の棺が安置されている。そこから右へ視線をやると……そこだけ、壁の明かりが弱くなっているのか、妙に薄暗く見えた。
 イーヴは、そちらに足を運ぶ。
 明かりが弱いのは、そこに棚やら机やらが持ち込まれていて、外壁を覆い隠しているせいだ。その棚には、何やらあやしげな小ビンやら壷やらが、ずらりと居並んでいる。
 カリルは何故か、アーシアの薬屋を思い出していた。
 けれど、そんなものよりもずっとこちらの方が、怪しく、不穏な雰囲気を漂わせている。近づいては行けない、そんな不安な感情が、カリルの心を揺さぶった。
 けれど、イーヴにためらいはない。
「イーヴ……」
 返事はない。少年は戸棚に歩み寄って、少々大振りなビンに見入っていた。不気味な色をした薬品に浸されて、赤黒い、気味の悪い塊がゆらゆらと揺れていた。
「イーヴ、それ、一体何なの……?」
「分からないけど……生き物の、内蔵かも知れない」
「……!」
 カリルは後ずさる。
「い、生き物って……まさか……」
「変な色をしているよ。まるで、腐っているみたいだ……」
「腐っているって……」
 それは、荒らされた遺体から奪われたという、内臓なのではないか。
 カリルはそんな恐ろしい疑問を、口にすることさえ出来なかった。それを認める事を、彼女の何かが拒絶していた。願わくば、何か人間以外の獣のものであって欲しい……。
 イーヴも何も言いはしない。彼はきっと……それが何なのかを確信しているからこそ、何も言わないのかも知れない。彼はそのビンの前から離れると、棚にあるもののひとつひとつをじっくりと、検分するように眺め回した。
 そして……その棚の隣にある書き物机。似たような机は上の父の部屋にもあるが、その上に広げられているのは、イーヴが見たことも無いような古びた書物だった。
 すっかり変色し、紙面に並ぶ文字も、かすれ、色褪せて判読出来なくなっている。そのうっすらとした文字を、イーヴは目で追った。それはイーヴにも分からない文字だったが……。
「カリル、これだ……父はここで、何かをやろうとしていた」
「……何かって?」
「分からない。これはひょっとしたら……」
 その時だった。
 不意に、彼らの耳にその音が聞こえてきた。
 足音。
「……イーヴ?」
「……」
 二人は息を潜めて、響いてくるその音を聞いた。
 誰かが、この地下室へ通じる階段を足早に下りて来ていた。
 二人は顔を見合わせる。
「ど、どうしよう……、イーヴ?」
「とにかく、どこかへ身を隠すんだ」
 とは言え、どこへ……? 彼らが下りてきた階段の他に、地下室には他に出入口はありはしない。身を隠すような遮蔽物も無いというのに……。
 いや、ひとつだけあった。イーヴはカリルの手を引いて、部屋の中央に安置された棺の、その足元の台の物影に彼女を導いた。
「ここにいるんだ」
「駄目よ、二人も隠れられない……」
「下りて来るのは僕の父さんだ。僕が注意を引きつけておくから、隙を見て上に逃げて……誰か、大人を呼んでくるんだよ。……いいね?」
 カリルは呆然としたまま返事を返す事も出来なかった。
 そして……。
 足音が、一番下まで下りてくる。出入り口から、細身のシルエットが浮かび上がる。カリルは息を潜めて、台の影からそれを見ていた。
「父さん」
 イーヴは、まっすぐに父を見据えていた。
 父はと言えば、予測だにしなかった人影をその場所に見出して、愕然としていた。
 ただ呆然としたまま、おのが息子を見やる事しか出来ない父親。
 その表情に浮かぶ戸惑いの色……そうなのだ、同じ屋根の下にすむ親子同士、秘密をいつまでも隠し切れるものでもない。
 それより、イーヴの方も呆気に取られるような姿格好ではある。寝間着に点々と付着している血の染み……。この照明の下では、あからさまに目に付いてしまってしょうがない代物だった。
「イーヴ、その血はどうした」
「咳をして、血を吐いた。それだけ」
「……」
「それよりも、父さん。……これは、一体何なの?」
 イーヴはそう言って……父を見据えたまま、後ろの棺を指さした。
「何で母さんがこんなところにいるんだよ。父さんは、ここで何をしているのさ……夜中に出歩いたりなんかして」
「……イーヴ、お前はどこまで知ってしまったんだ」
「村の墓地を荒らしていたのは、父さんだね?」
 それは、息子による告発だった。
 父は……ウォーレン司祭は、無言のまままっすぐにイーヴを見据えた。その目が、動揺して揺れ動いている。一番知られたくない人間に、一番知られたくないことを知られた、その衝撃。
 だが、動揺はそこまでだった。父は一度だけ深く深呼吸をすると、ゆっくりと肯いた。
「……確かに、私のやった事だ」
 その言葉は、少年の上に深い衝撃をもたらした。
 予測が、当たっていた。それだけの事なのに、いざ面と向かってそれを告げられるのは、やはり堪えた。
 少年が、震える声で問い返す。
「何のために、そんな事をしたの?」
「……」
 問い詰められて、司祭は言葉を失った。
 目を逸らし、深呼吸をして、静かに語り始める。
「イーヴ。私はひとつ、お前に嘘をついた」
「……?」
「私が王都を出て、この村にやってきたこと……お前は、その理由をなんだと思った?」
「……あの街には、母さんの想い出がある。父さんは、それを忘れてしまいたいのかと思った」
 少年の言葉に、父は目を閉じる。
「……確かに、それもいいと思った。だが、事実は違う。私は自分の意志でこの辺境に赴任してきたわけではない。私は王都でその立場を追われ、居場所を失ってしまったのだ」
「……」
「つまり、私はここに逃げて来たんだよ。お前と、お前の母さんと……三人で」
「父さん……母さんはもう死んだよ。一体何をしようっていうのさ」
「死んじゃいない!」
 不意に父が、声を荒げた。
「死んじゃいない! お前の母さんは死んではいないんだ。私が……私がこの手で……」
「……」
「私の行いは、今の僧会の教えの元では決して許されない行為なのだよ。ただでさえ、僧職にある私が魔導に手を染める事を快く思わないものも多いというのに……」
「……魔導で、母さんを」
「その通りだ、イーヴ。そのわざは、禁じられた、呪われたわざだ……その事は、この私だって充分に承知しているつもりだ。だが……それしか方法がないのだ」
「……」
「イーヴ、お前は知っているか。この世界のどこかに、人の血をすすり肉を食らって糧とする、人と同じ姿をした人ならざる闇の世界の住人がいるという。永遠の命を持つその生き物の心臓は、永遠に鼓動を打つと言われ……赤い血の流れる生き物の心臓をえぐり、かわりにその心臓を埋めれば……その呪われた生き物のごとく永遠に生き長らえる事が出来るという」
「……」
「そんなものがこの世に本当に存在したならと、どんなに願った事か。イーヴ。それさえこの手にあれば……そのあやかしの生き物の心臓さえあれば、後ろにいるお前の母は簡単に蘇ったというのに」
「……父さん」
「だが、残念ながら……そのような生き物も、その心臓も、私の手元にはない。だが……それでも私は、彼女の復活を願った」
「そのためなの? そのために、こんな恐ろしい事を」
「禁書に書かれた方法に従って、いくつかの薬を作り出す必要があった。材料は、人間のものでなければならないものばかりだった……誰か適当な死人でもいればよかったのに、この村に赴任してから私の手で埋葬すべき死人はいなかった。だったら、すでに埋められているものを掘り起こすしかないだろう?」
「……」
「化け物か狂信者のしわざに見せるために……死者には気の毒だったが、わざと乱暴に扱わせてもらった」
「それを、自分の手で埋葬し直していたってわけだ」
「ああ、その通りだ。けれど、それももう終った」
「……」
「必要なものは、ほぼ全部揃った。お前の母は……」
「そんなの……蘇ったって、母さんなんかじゃない」
 イーヴは、震える声で父に訴えた。
「……」
 父はただ彼を見下ろして、ため息をつくばかりだった。
「やはり、お前にも理解しては貰えなかったか」
「分かるもんか。人殺しまで……」
「あれは、仕方なかったんだよ。私の力でどうなる事でもなかった。……もう、死体など切り刻む事に何の意味もないんだよ。お前の母は、生きた人間の新鮮な血肉を必要としているのだ」
 聞きたくなかった。イーヴは、反射的に耳を塞ぎたい思いに駆られていた。
「そんな事をして……誰も気付かないとでも思ったの」
「……何、難しい話じゃあない。死人を脅かすあやかしの存在に、村人は脅えている。そのあやかしに、生きた人間がついに犠牲になる……それだけの話ではないか」
「……」
「幸い、村人は勝手に、彼らの敵に目星をつけている。彼女には気の毒だと思うがね」
「……」
 イーヴは、言葉を失った。
 情けなかった。父は、愛する母のために……そう、その思いゆえに、司祭としての勤めを忘れ狂信者のような歪んだ行いに出たばかりか、人々の誤解から一人の人間が狩りたてられようとしているのを、黙認するつもりなのだ。
「化け物は、彼女じゃない……」
「……?
「父さんこそ、化け物だ。人間以下の存在だ」
「……!」
 その言葉に、さすがのウォーレン司祭も愕然とさせられた。おのが息子の口から投げかけられる、蔑みの言葉。
 それでもウォーレン司祭は、おのが息子を冷ややかに見やるだけだった。
「まあ、いいさ。……しかし、これだけの事を知られてしまっては、むざと帰すわけには行かなくなったな」
「僕まで殺すの? ……面白い、殺せばいいよ。どうせ僕の身体は、出来損ないだもの」
 自嘲気味に呟くイーヴ。だが、父はそんなイーヴを冷ややかに笑うだけだった。
「お前は別に構わない。問題なのは……」
「……?」
 不意に、父はイーヴに向かってつかつかと歩み寄ってくる。何事かと思ってイーヴは後ずさろうとするが……その父の視線の先を見やって、その狙いがどこにあるのかを知った。
「カリル、逃げろ!」
 イーヴは反射的に父に飛びつく。それも予測の範囲内だったのだろう、司祭は軽く腕を振るって、息子を突き飛ばそうとした。だがイーヴもなかなかにしぶとく、その腕にしがみついて離れようとしなかった。
「放せ、イーヴ!」
「放すもんか!」
 その機会を、カリルは逃さなかった。棺の後ろから突然飛び出したカリルは、親子がもみ合っているのを後目に、一目散に階段を目指した。
「走れ! カリル!」
 イーヴは父にしがみついたまま、無意識のうちに叫んでいた。
「邪魔だ! どけ!」
 司祭は……もはや彼は、司祭でも人の子の父親でも何でもなかった。おのが息子を邪険そうに突き飛ばしてしまうと、逃げた少女を追って階段へ向かっていく。
 イーヴはその身を冷たい床に投げ出され、走っていく二人を見送る事しか出来なかった。
「くそ……」
 その時になって初めて、少年は先程の発作がどれだけ自分の身体を痛めつけていたのかを知った。ただ立ち上がる、それだけの事がままならない……足元がふらついて、彼はだらしなく再度床に転がった。
「カリル……父さん……」
 それでも……歯を食い縛り、残された気力でもって何とか立ち上がる。母の亡骸を残して、イーヴもまた、長い長い階段を上っていった。
「カリル……無事でいて……」
 その祈りが、無駄にならないで欲しい……少年は、強く心に願った。