月があなたと踊る夜 6
作:ASD





第六章(前編)




     1

 地下室の階段はとても長く、疲れ切ったイーヴの身体には随分と堪えた。だが、そんな所でへばっている場合ではない……カリルに危機が迫っているのだ。
 上に戻ってみれば、外に通じる扉が、大きく開け放たれたままになっていた。となれば、二人は教会の外へ行ったのだろう。逃げるカリルにしろ追う父にしろ、そこを閉めている余裕など無かったはずだ。
 開け放たれた扉を潜って、イーヴは月明かりの下によたよたと歩み出てきた。
 見上げれば、月が煌々と照っていた。
 夜空は晴れ渡り、虚空に浮かぶ月が、地上のすべてを静かに照らしている。闇をほのかに照らし出し、光届かぬ闇をいっそうに際立たせている。
 浮かび上がる光と、黒くうずくまる闇とに、分断された世界。
 薄暗い風景を見渡しても、二人の姿は見えなかった。
 どこへ行ったのだろうか。村の方に駆けて行けば、誰か大人達がいるはずで……年端も行かぬ少女を司祭ともあろう者が血相を変えて追い回していれば、見咎めぬ者はいないだろう。
 だが……村はなぜか、しんと静まり返っていた。教会で起きた事件の事など、まるで知らぬ、とでも言うかのように。
(おかしい……)
 命を狙われているのだ。片っ端から戸口を叩いて回れば、誰彼か顔を出すはずだ。イーヴがへばっている間に、二人はずっと以前に教会の外に出ているはずで、今頃大騒ぎになっていてもよさそうなのに……。
 違う。カリルはきっと、森へ逃げたんだ。
 森へ行けば、墓地の見回りをしている大人達がいるはずだ。だが、それを頼っていったと言うよりは、そちらへ追い込まれた、と見るべきか……。少女が誰かに助けを求めるより早く、森の中で人知れず決着をつけよう……追っ手はそのように考えたのかも知れない。
 ……そう、そんな凶行に及ぼうとしているのが自分の父だという事に、少年は言い表すことの出来ない複雑な心境に至らざるを得なかった。
(カリル、死ぬな……)
 けれど、森に迂闊に足を踏み入れるのはどうだろう。この闇の中、イーヴまで迷ってしまっては元も子もない。 誰かに、助けを求めるか?
 ……誰に? この村に、あの父の他にイーヴが頼れる大人など、誰も居はしなかった。カリルが危ないと知れば、力にはなってはくれるだろうが……自分の父が墓荒らしなどと言った所で、誰が信じてくれるのだろう。
 目指す所は、ひとつしかなかった。
(アーシア……)
 不意に浮かんだ、その顔。魔法使いである彼女ならば。
 その思いひとつを胸に、彼は森の一本道へと向かっていった。
 そこまでの道のりは、今現在のイーヴにとって平坦なものとは言えなかった。……その事実は、彼自身が一番よく分かっていた事だろう。息を切らし、苦しむ胸を押えながら……彼はおのれの身を引きずるようにして、村外れの薬屋にようやくたどり着いた。
「アーシア!」
 胸が苦しい……発作かと一瞬思うが、違っているようだ。無理に歩き詰めてきたおかげで心臓が抗議のうめきをあげているようだった。
「アーシア! いないの?」
 閉ざされた扉を何度も何度も叩く。けれど、答えはない。
 目を覚ましてくれ……そう思ってもう一度ドアを叩くと、不意に……すうっとその扉が開いた。
「……アーシア?」
 一瞬の戸惑い。けれど、今は事情が事情だ。
 イーヴは思い切って店の中に踏み込み、大声でその名前を呼んだ。か細いイーヴの身体から搾り出される声はさほどの音量では無かったにせよ、気付かない事はあるまい。
 けれど、そこには誰の返事もなかった。
「まさか……」
 イーヴの心中に、カリルが話していた噂話が甦った。
(夜中に、墓地にいるのを見た人がいるって……)
 まさか。その予感を胸に、イーヴは店を飛び出していく。
 体力が限界を迎えているのがよく分かる。けれど……もう少し、もう少しだけ動いてくれ……そう願いながら、イーヴは墓地への道を急いだ。




 少女は、森の中を走っていた。
 教会の脇の林を抜け、少しばかり行けばそこはもう鬱蒼と木々の生い茂る森の中だった。
 幼い頃から、男の子らに混じって毎日のように駆けずり回ってきた森だ。勝手知ったる森の中だからこそ、自分に分がある……そう思いたかった。
 最初は、イーヴに言われた通り村で誰か大人の助けを呼ぶつもりだったのだ。しかし、司祭がそれを許さなかった。彼女を森へ追い込んで、人知れず殺してしまうつもりなのだろうか……何だかんだと言っても、長身の彼の歩幅は、追跡に有利に働いていた。
 そしてその手には……いつの間に握られていたのだろう、割と大振りのナイフが握られていた。あの凶刃で、彼は遺体を傷つけたのだろうか。……ひょっとしたら、イーヴが見つけたと言う死体も。
 そしてその次が、自分だ。
 そんな嫌な予感が、少女の胸を不安でいっぱいに満たしていた。
 慣れた道とは言え、木の根のうねりは足元をすくい、散らばっている木の葉や木の実など、気をつけなければ簡単に足を滑らせそうな場所がいくつも彼女を待ち構えていた。慎重に行けば司祭に追いつかれるが、慌てて転んだりすれば目も当てられない。
 それでも懸命に走り続けるが……司祭を振り切ることは難しかった。
「あまり、手を焼かせるものじゃない」
 司祭が、抑揚のない声で制止の言葉を吐いた。無論、それで立ち止まるカリルではない。
(絶対に……絶対に、捕まってたまるもんですか……)
 森の中には、墓荒らしを捕らえようと村の男たちが見回りをしているはずだった。その誰かと行き合って、今のこの状況を見れば、すべてが分かってもらえるはずだった。
(走れ! ……カリル、走れ……!)
 イーヴの叫び声が、彼女の頭の中で繰り返しこだましていた。
(イーヴ……)
 ふと、残してきた少年に思いを馳せる。司祭が追ってきたということは、少年を振り切って来たということだ。まさか自分の息子を殺したりはしないだろうが……あの冷たい地下室に置き去りにされて、身体の弱い少年は無事なのだろうか?
 そう思った瞬間に、首を振って思考を締め出す。今まさに自分が死の危機に瀕しているというのに、どうして他人の心配などしていられるのだろうか……。
 まあ、いい。このまま走って……おそらく、墓地に抜けさえすれば誰かがいるはずだ。
 捕まるわけにはいかない、不気味な鬼ごっこを、少女はただひたすらに続けるより他になかった。




     2

 なだらかな丘の斜面に居並ぶ墓石たち。それらが見えてきた辺りで、イーヴはついに力尽きて倒れてしまった。
 こんな所で、膝をつくわけにはいかない。
 そう思って、立ち上がろうとする。けれど、力が入らない。
 もう、駄目なのか……。
 これまで、何度となくそう思った。苦しい発作にも何度も何度も襲われ、そのたびに生と死、その境界をさまよって来たのだ。その苦しみに比べれば……。
 今のイーヴは心地よい疲労の中、とても安らかな気持ちでその場所に横たわっていた。
(僕が……僕が死んだら)
 ぼんやりとする意識が、よく分からない事を考え始める。
(僕が死んだら、父さんはどうするんだろうな……また死体を掘り起こして、カリルみたいな女の子を殺して……呪われた術で、生き返らせてくれるのかな……)
(そんな風に生き返っても、あんまり嬉しくないや……それに)
(それに、僕はここで死ぬわけにはいかない……カリルが……まだ殺されたと決まったわけじゃないんだ。二人を……父さんとカリルを、探さないと……)
 ふらり、と……。
 少年は、立ち上がった。
 自分でも、何故立ち上がれたのか分からない。ほとんど気力だけで立っていたのではないだろうか……。
 一歩、二歩と足を動かしていく。墓地がだんだん近づいてくる。
 カリルは……こんなところまで、逃げて来れたのかな……。
 イーヴは、墓地の入り口に立っていた。
 その場に膝をついて、座り込むようにしてその場に崩れ落ちる。
 月が、居並ぶ墓石を照らし出していた。ぴかぴかに磨き上げられ、その明かりを反射している真新しい墓石……絡まるツタの緑色が、月明かりに映える古い墓石……。
 そこは、死者の眠る土地。
(そう、僕も……同じようなものだ……)
 ふと……。
 見上げれば、月の下に……彼女が立っていた。
 その場所に、その墓石はひっそりと立っている。しろつめくさでいっぱいに覆われたその場所に立って、彼女は優しい笑みを浮かべて……思い出の中の最愛の人と、楽しく語り合うのだ。
 だから、彼女の顔に哀しみは似合わなかった。死してなお、彼女はいつも最愛の人と共にあり、その眠る土地をただ守り続けて……。
 彼女は立ち上がって、墓石から視線を上げて、天空に輝く銀色の月を見上げる。その白く細い、たおやかな指先が、差し込む月の光を絡め取るようにして虚空を泳ぐ。
 その口から、かすかに唄声が漏れてきた。
 囁くようなその唄声が、イーヴの耳にも辛うじて聞こえて来ていた。
 何と唄っているのかは聞き取れない。ひょっとしたらそれは彼の知らない異国の言葉だったのかも知れない。その旋律も、王都で長く暮らしていたイーヴにも耳馴染みのないものだった。
 不意に……。
 遠くで、何かを切り裂くような……そんな音が響いた。
 朦朧とする意識の中、その音が何なのかを判断するだけの分別は、イーヴには残されてはいなかった。何か、布を裂くような音? ……いや、違う。
 あれは、人の悲鳴だ。
(カリル)
 少年の目に、再び意識の火がともる。
 前方を見やれば、墓地の片隅に、確かにその女性はいた。……アーシアの姿が、そこに確かに存在していた。彼女もまた、その悲鳴に気付いたようで……唄はいつの間にか止まっていた。
 イーヴは……いつの間にか立ち上がったイーヴは、そのままふらふらと歩き出す。木々の間に分け入って、森に足を踏み入れていく。
 悲鳴はそんなに遠くはない。たった一度の悲鳴だったけど……少年はその方角までもを、何故か確信していた。
 彼の元に、何かが近づいてくる足音が聞こえた。
 イーヴは立ち止まって、その近づいてくるものの正体を見極めようとした。彼の目が見据えた向こう側を、小さい影が走り過ぎていく。
(カリル……!)
 少年はその一瞬、走る少女の姿を目の当たりにしていた。木々の向こう側を、白い影が通り抜けていって……。
 そして。
 その後ろを、もう少し大きな影が続いていく。
 その影こそ、少女を狩り立てている追っ手の影だった。
(父さん……)
 少年は、痛む身体を引きずって、少しでも二人に近づこうとする。走る二人にはとても追いつけないのでは、と思った、その瞬間。
 どさり、と物音がした。何かが草の上に投げ出されたような鈍い音。
 小さな悲鳴。
 イーヴは、はやる気持ちに急かされるままに、木々の間を縫うように進んで、その物音の方に近づいていった。
 森は、静まり返っていた。
 イーヴと、カリルと、それを追うもの。
 その三者以外、うごめく影などただのひとつもありはしないように思えた。森に住まう虫や獣たちの影も、不思議な事に少しも感じ取れなかった。……そもそも、墓荒らしを見回っているはずの大人達はどこにいると言うのだろう? 徒労を費やすのに嫌気が差して、もう皆家に帰ってしまったのだろうか……。
 頼れるものは、どこにもいなかった。もはや自分の身体もろくに動かせないイーヴに、カリルを救うすべがあるとも思えなかったが……彼以外に、誰が少女を守るというのか。
 やがて……イーヴの目に映し出されたのは、ある意味悪夢のような光景だった。
 その目に飛び込んできたのは……一本のナイフ。
 それは、父であるはずの男の手にしっかりと握られていた。その切っ先が狙う先に、少女の姿が垣間見えていた。地面に倒れたまま、恐る恐る司祭を見上げる彼女の左の肩口が、赤く濡れていた。
 嘘だ、と否定したかった。
 傷ついた彼女の目の前に立っているのは、疑う余地もなく血を分けた彼自身の父親なのだ。
 手にした切っ先からは、赤い血のしずくが滴っていた。それが遠目にも見て取れるという事は、カリルの傷は決して浅くはない、という事ではなかっただろうか。
 見ていられなかった。けれど、目の前の光景から顔を背けるわけにはいかない。
 司祭は倒れ伏すカリルを見やると、その手の中のナイフを再び大きく振り上げた。
 間に合わないのか……イーヴは祈るような気持ちで目を閉じる。
 そして次の瞬間、彼の身体はばねが弾けるように、その場から飛び出していった。
 間に合ってくれ! ……ただそれだけを願って。
 次の瞬間、司祭は手の中のナイフを、少女に向かって振り下ろす。
 その、一瞬の空白。
 駆けつけたイーヴは、つんのめるようにして、まるで飛びかかるような勢いでカリルに向かう。その腕が少女をしっかりと抱き抱えた瞬間。イーヴの背中に激痛が走った。
「……!」
 イーヴは苦悶に顔を歪める。発作の苦しみに散々苛まれたその身体にも、それは鋭い痛みとして感知されていた。
 痛みが、背中から全身に広がっていく。
 父の振り下ろしたナイフは、息子の背中に深々と突き刺さっていた。
「……イーヴ!?」
 そこで初めて、司祭は驚愕の声を漏らした。
 そう……イーヴはその背にナイフを受け止めて、身を挺してカリルを庇ったのだ。
 飛びついた勢いで、二人はもつれ合ったままごろりと転がる。イーヴの背から、ナイフの柄が突き出たままになっていた。
 白い寝間着に、赤い血の染みが急速に広がっていく。
「……!」
 声にならない苦悶の声が、イーヴの口から漏れた。彼の腕の中で、カリルは呆然とした表情を崩すことが出来なかった。
 そのまま、イーヴを見やる。一瞬の事で、一体何が起こったのか未だ把握し切れていない様子だった。
「イーヴ……! どうして……」
 カリルが、か細い声でやっとそれだけを問う。どうしてここにいるのか、どうして彼女を助けたのか……。途中で途切れた問いかけの言葉が、一体何を言おうとしていたのか……イーヴの耳には届いていただろうか。
 ナイフはイーヴの背中に刺さったままだった。そのまま少年はゆっくりと上体を起こす。血の染みはますます広がっていって、もはや少年がどうやって立っているのか、もはや少年自身にもその場にいるカリルや司祭にも、まるで見当がつかなかった。
 イーヴは、真っ青な顔で父を見やった。
「……父さん」
「イーヴ……お前は……」
 父もまた、それ以上言葉を続けることが出来なかった。
 イーヴは朦朧としていく意識の中、目の前に立つ男を見やった。カリルを襲っていた冷徹な殺人鬼の顔はなりを潜め、今は息子の怪我を気遣う、父親の表情を見せていた。
 イーヴは何故か、裏切られたような気分になった。
 一度は、冷徹な悪党となって、おのれの中の父の像を裏切った。
 そして今、彼は一度目の裏切りを簡単に撤回してしまった。
 その心変わりに、少年は落胆していた。
「父さん」
「……」
「そんなに生きた人間を犠牲にしたいなら、僕を殺せばいい」
「……」
「僕はもうすぐ死ぬ。母さんと一緒だよ。僕は、人並みに長く生きる事は出来ない……けど、父さんの魔導のわざがあれば、母さんは蘇るんだろう?」
「……イーヴ」
「だったら、僕を殺せばいい。もうこれ以上、カリルを怖がらせるんじゃない」
「イーヴ、それは違う。お前は誤解している……」
 彼が言い訳がましい言葉を喋っている間に、イーヴは傍らのカリルに、逃げろと合図を送る。カリルは対峙する親子を恐る恐る見やりながら、一歩二歩と後ずさっていく。
「イーヴ……」
「僕の事はいい。逃げて」
 カリルは、今にも泣きそうな表情でイーヴを見やった。イーヴは決して、彼女の方を見ようとしなかった。
 少女はゆっくりと親子の元を離れ、墓地の方へと駆けていく。
 睨み合う、イーヴと父。
 だが、それも長くは続かない。片膝をついて立つイーヴの背中から、重みでナイフがずるりと抜け落ちた。
「……グッ」
 イーヴの口からかすかに悲鳴が漏れる。それ以上彼は立っていられずに、またしても地面の上に崩れ落ちた。
 がくりと膝をついたまま、まるでうわ言のように告げる。
「僕を……殺せ……」
「いくらこの両手を血に染めようとも、お前の父であるということを、忘れることは出来ぬ。……すまないが、行かせてもらう」
 父はそう言うと、イーヴの側をさっと通り抜け、傷口から抜け落ちた血まみれのナイフを拾い上げる。
「……父を許せ」
 去り際にそう短く告げると、司祭はそのままカリルを追っていった。
 残されたのは、イーヴただ一人だった。
 二人を追いかけるだけの気力は、もはや残ってはいなかった。
 木の葉で埋めつくされた地面の上に、どさりと倒れ込む。
 そこまでか。
 カリルの前であんな大見栄を切ったにも関わらず、父を前にして何も出来なかった。
 そんな無力な自分が、情けなかった。
 疲労のままに、イーヴはそのまま目を閉じる。いよいよ最後か……そう思い、意識の消滅を覚悟した。
 イーヴはそのまま、じっと闇の森の中に身を横たえていた。
 じっと耳を澄ませば、木々のざわめき、虫たちの鳴き声……色々な物音がその耳に響いてくる。
 彼の意識は、まだその世界に踏み止まっていた。
(意外にしぶといな、僕も)
 もはや、父を止める事も、少女を守ることも叶わない。ただ、その成り行きだけでも見守れたなら……。
 その望みは、叶わないのかも知れない。
 その場から、再び立ち上がる事が出来るのかどうか……イーヴ自身にも、それは分からなかった。




     3

 そんな、少年の行く末を思いながら。
 少女は、ただひたすらに走っていた。イーヴを置き去りにしてしまった事に対する後ろめたい気持ち……そして、彼のために何も出来なかった無力感。そんな事を感じながらも、結局おのが身を守るために走り続けなければならない。
 イーヴのためにも、自分は助からなくてはならない。二人の間に立ち塞がる脅威を取り除いて、今にも死に瀕している少年を助けなくてはならない……カリルはせめてそう思うことで、自分を震い立たせていた。
 肩の傷は見た目ほどに深くは無かった。血で服が少し汚れていたが、走るのに支障は無かった。
 けれど、そろそろ足が言うことをきかない。
 森の中を右へ左へと迷走して来た。実際の直線距離以上に走ってきたはずなのだ。追う司祭の方も頑張るものだ……足元をふらつかせながら、そんな事を考える。
 ふと前方を見やる。森がそこで途切れていて、差し込む月明かりが彼女の目に飛び込んできた。
 墓地だ。……そこに誰か、夜回りの大人達でもいるものなら。
 その、瞬間。
「!!」
 ふいに、背後から無傷の方の肩を掴まれた。
「手を焼かせるんじゃない」
 非情な声が、カリルの耳元で響く。ぐいと肩を引き寄せられて、カリルは足をもつれさせて倒れ込みそうになる。
 そんな彼女の腕が、不意にぐいと引き寄せられた。腕が抜けるかと思えるほどに強く引っ張られる。
 いつの間にか彼女に追い付いていた、司祭の姿がそこにあった。
「は、離して……!」
 カリルはその手を振りほどこうと暴れるが、司祭はそんなカリルの二の腕を力任せにねじ上げる。痛みのあまり、少女の口から悲鳴が漏れた。
「ぐ……」
「……大人しくしてはもらえないものかな」
 司祭は暴れる彼女の眼前に、血濡れた切っ先をちらつかせた。そこにまとわりついているのは、イーヴの血だ。カリルは、背筋に薄ら寒いものを覚えた。
 さらに身をよじって逃げ出そうと試みるが、それは無駄な徒労でしかなかった。
 もがき続ける少女を、司祭は乱暴に突き飛ばした。
「!」
 少女の身体が、唐突に地面に投げ出される。硬い木の根に膝をしたたかに打ち据えて、カリルは苦悶のうめき声を上げた。
「……まったく、手を焼かせる」
 司祭は冷ややかな眼で少女を見下ろすと、そのまま少女の赤い髪を掴み、思いっ切り引っ張った。
 無理矢理立たされたカリルは、司祭に引きずられるがままにその後に続いていく。
 やがて、二人は森を抜けた。
 彼らはいつの間にか、墓地に出ていた。カリル自身が、大人達の助けを求めて目指した場所。
 けれど、そこに男たちの姿はおろか、人影すら見出す事は出来なかった。
「助けをあてにしていたのかい?」
「……」
 カリルの内心を見透かすかのように、司祭が指摘する。
「ロシェの奴め、だいぶ張り切っていたぞ……今夜は皆、墓地のずっと向こうの、外の森まで足を伸ばしているはずだ」
「……!」
 その言葉に、カリルは自分が置かれている状況を悟った。
「……放して! 放してっ!」
 いよいよ助けが来ないと知って、カリルは不意に取り乱し、暴れ始めた。司祭は逃げようとする少女の背中を、不意に足蹴にした。
 強く叩きつけられるように、カリルは草の上にどさりとその身を投げ出された。森の中で司祭に切り裂かれた肩口の傷が、ずきりと痛む。
 もはや、悲鳴すら出ない。
 その彼女の側にしゃがみ込んで、司祭は囁くような声を耳元に投げかけた。
「カリル……私だって、お前の事を気の毒だと思う気持ちは持っているつもりだよ……。けれど、もう少し私の言う通りにしてくれると嬉しいな」
「……」
 カリルは怒りと恐怖に満ちた視線で、司祭を睨みつける事しか出来なかった。
 その彼女を助けてくれるものは、この墓地にはいなかった。
 イーヴを……傷ついた少年を一人森に置き去りにして、自分はこの場所で果てるのだろうか。
 ……そんな結末を、彼女は望みはしなかった。
 地面についた手が、土をかきむしる。
 次の瞬間、カリルは動いていた。掴んだ土を司祭に向かって投げ飛ばす。
 少女がすっかり大人しくなったと思って、司祭の側にも油断があったのだろう。その土の粒手に視界を奪われ、そこに一瞬の隙が生まれた。
 カリルは立ち上がり、走り出した。
 だが――司祭の方が、速かった。
 その手に握ったナイフを、走る標的に向かって振り下ろす。その小さな背中に、切っ先はたやすく、深々と突き刺さった。
「ぐっ……」
 その痛みは、まるで全身を貫くかのようだった。
 そのまま、彼女は足をもつれさせて、またしても草むらの上にその身を投げ出した。
 したたかに身を打ち据えたが、そんな事などもはやどうでも良かった。
 背中を貫いた痛みが、彼女の感覚を麻痺させていた。
 全身にまとわりつく、不快な震え。身体の奥で何かがどくどくと脈打っていた。
 視線を落とせば、自分の転がっている草むらの辺りが、赤く穢れていた。
「あ……」
 言葉が出なかった。
 腹部に触れる。赤い液体が、指先にまとわりつく。背中の傷からあふれ出した血が、彼女をしたたかに濡らしていた。
 不意に、耳元に届く声。
「……こんな結果になって、残念だよ。カリル」
 そのセリフとともに、背中にもう一度、今度は鈍い痛みが走った。異物が体内でうごめいているような不快感。司祭が、背中に刺さったナイフをゆっくりと引き抜いていったのだ。
「あぐっ……」
 ぽっかりと開いた傷口から、鮮血がどくどくとあふれ出す。悲鳴ともうめき声ともつかぬ正体不明の声を吐く事しか、カリルには出来なかった。
「本当に、残念だ……」
 倒れ伏すカリルからは司祭の顔は見えなかったが、その口調は本気で彼女の身を案じているようには到底聞こえなかった。半ば愉悦の混じったような、少しうわずった声。
 もはや、カリルは何も考えられなかった。森に置き去りにしてきた少年の事も、司祭が地下室で行っているあやしげな秘術の事も、何も。
 それでも、本能はこの状況から逃れる事を望んでいた。両のひじを地面について、ゆっくりと這いながらその場を離れようとする。
 彼女はもう一度、ありえない助けを求めるように、墓地の斜面の上に視線をやった。
 傾斜のずっと上の方、その彼女の視線の先に何者かの影が立っていた。
 その細い影が、彼女を静かに見下ろしていた。
「……?」
 月が、まぶしいくらいに輝いていた。
 その月明かりに照らし出されて、彼女のシルエットが鮮やかに浮かび上がる。彼女はただ静かに、どこか哀しそうな眼で、血を流すカリルを見下ろしていた。
 その眼が、カリルの背後に立つ男の姿を捉える。彼女の眼に浮かぶのは、怒り、哀しみ……そして蔑みと憐れみ。
「……アーシア?」
 カリルが、その彼女の名前を短く呟いた。
 その声に呼ばれたかのように……白いかげろうのようなシルエットがふわりとその場から動く。
 彼女はそのまま静かに、ただ静かに……ゆっくりとした足取りで、二人に向かって歩み寄ってきた。
 そのアーシアを見やる司祭の目が、かすな動揺の色を示していた。
「……お前は」
「こんばんは、司祭さま」
 アーシアは、まるで昼の往来で顔を合わせたとでも言うように、何気ない会釈の表情を見せた。
 司祭は何も言わずに、彼女を睨むように見つめていた。動揺を隠しきれないその視線を、アーシアは余裕の笑みを浮かべながら平然と受け止めていた。
「……待ち人と違っていたのが残念そうね」
「何の事だ」
「いえ、別に……」
 そう言って、彼女は笑みを浮かべた。
 何を話しているのか、地面に伏せているカリルにはさっぱりだった。
 その彼女を、アーシアが見下ろす。
「司祭様、随分とひどい事をするのですね」
「……仕方がなかった。逃げなければ、ここまでの事をするつもりはなかったよ」
「そんなものを持って追いまわせば、誰だって逃げるに決まっているわ」
「……これか?」
 司祭は口の端をかすかに歪めて、手の中の凶器をちらつかせた。
「……確かに、君の言う通りだな」
 そう呟いて、自嘲気味に笑う。
 その司祭に、アーシアが冷たい口調で、問いかける。
「その子を……私に渡していただけますか。はやく手当をしないと」
 そんな言葉を、カリルは這いつくばったままぼんやりと聞いていた。助かる? 手当をすれば、助かる傷なのだろうか。おびただしく、とめどなくあふれる血が、それは気休めなのではないかという疑いをカリル自身に投げかける。
 そんな彼女を挟んで、対峙する二人。
 司祭がアーシアの問いかけを無視して、質問を放った。
「アーシア。どうして君が、こんな時間にこんな所にいるのかね?」
「どうして? ……村の人たちの噂を、司祭さまは聞いていない? 夜の住人たるこの私が、夜の月の下にいることに何の不思議が?」
「……ふむ」
 司祭が、不満げに鼻を鳴らす。
 そのいびつな視線を真っ向から受けて、アーシアはまったく怯む様子を見せなかった。それどころか、司祭を見返すその瞳は……何か不浄なものを見やるかのような、そんな冷たささえ帯びていた。
「司祭さま……もう、諦めなさい」
「……」
「司祭の身で、こんな少女にこんな事をしてまで……あなたの大切な人は、あなたがこんな事をして喜ぶのかしら?」
「……君に一体、何が分かる」
 ウォーレン司祭の目に、不意に殺気めいた色が見えた。
 アーシアはそんな視線を平然と受け止めると、ため息混じりに、まるで諭すような口調で語り始める。
「司祭様……あなたが散々安眠を乱してきたこの墓地には、私にとってとても大切な人が眠っているわ。彼はこの私を、この世界に置き去りにして、彼方へと旅立っていった。……私はそんな彼を恨みもしたし、彼をそこへと導いた、その運命を呪いもしたわ。……だから、あなたが何を願ってそんな事をしているのか、分からないわけじゃないのよ」
「ならば」
 司祭は凄みを聞かせた声で、アーシアににじり寄る。
「私を放っておいてはくれないか。君だって、もし機会があったなら、死んだクラヴィスを蘇らせたかっただろう? 魔法使いである君だから、そのすべがこの世に存在する事を知っていたはずだ。知っているという事そのものが、君にとっては苦痛だったはずだ」
「ええ、とても」
 アーシアは哀しい目で司祭を見返した。
「……でも、司祭さま。私はその苦痛に耐えたわ」
「……」
「あなたの神は、その苦痛に耐えろとあなたがたに説いているのではなくって?」
「……あなたがた、か」
 ふっ、と司祭は笑った。
「夜の住人……まさしく、君は夜の住人みたいだな。……私が何をしているのか、どこまで知っているつもりだ。誰にそんな事を聞いた」
「イーヴが、あなたの事を気遣っていたわ。あなたが罪人になる事を、恐れていた」
「……」
「大切な人を失ったのは、あなただけじゃないのよ。司祭様」
「……」
 司祭はアーシアを見据えたまま、言葉を失った。
「……私は」
「……?」
「私は、僧会の教えに背いているかも知れない。だが、間違った事をしているつもりはない」
「こんな子供を殺してまでも?」
「必要な犠牲だ……!」
 鋭い口調で、彼はそう断言した。
 そんな司祭を、アーシアは軽蔑と憐れみに満ちた目で見下ろした。
「ねえ、司祭さま。いえ、ウォーレン・ウィルフリード」
「……」
「あなたと私はとてもよく似ている。過去に失ったものの思い出にすがって、その思い出に埋没しながら、まるで死んだような生を過ごしている……」
「……同じ、か」
「そう。だから、私はあなたが何をしようと、それを責めるつもりはなかった。墓が荒らされたところで、死者はあくまでも死者。あなたがいくら人から忌み嫌われる事をしようとも、それはあなたの勝手」
「……」
「でも、生きている者を……イーヴやカリルまで不幸にするのは止めて。あなたの追い求めている幸福は、誰も幸せになんかしないのよ……あなたでさえも」
「……」
 何も言えない司祭を横目に、アーシアは血を流して倒れるカリルの脇にしゃがみこんだ。
「さ、カリル……」
「アーシア、私……私……」
「大丈夫、まだ助かるわ」
 そう言って、彼女は優しく微笑んだ。二本の腕を差し延べて、血にまみれたカリルの、その細い肩をそっと抱き止める。
 そんな二人の前に、司祭が立ちはだかった。
「この子は渡さぬ……離れてもらおうか」
「……」
「お前は言ったな。私の行いが、誰も幸せにせぬと……ただ、不幸だけを生み出すと」
「……ええ、言ったわ」
「不幸を生み出すのは私ではない」
「……?」
「それは、神の御業だよ」
 クックックッ……司祭の口から、狂気じみた笑い声が漏れ聞こえた。
「人々を不幸にしているのは、神だ。我らが父は我々の元に、さまざまな形で不幸を投げかけ、我々を試しているのだ……我々が、その不幸に対してどのような素振りを見せるのか、と」
「……」
「だから、私はその神の与えたもうた試練に、全力を持って抗うだけだ。精一杯抵抗して、神の御業を前に、人の力を示すのだ」
「……」
「……だのに、僧会の連中は何も分かっちゃいない。この私の実験を、神の意志に反する忌まわしき所行だと……とんでもない。やつらは本当に、まるで何も理解してはいないんだよ」
「……」
「アーシア、分かるか? 神が、我々を試しているのだよ。神は我々に、幾多の試練を与えてくださる。僧会の愚か者どもは、その受難に耐えてこそ信仰などとぬかしているが……それは違う。神は我らに試練を与え、その試練を恐れること無く乗り越える事を、望んでおられるのだ」
「……」
 アーシアは何も言わず、司祭を見上げていた。冷ややかな、軽蔑するような視線。
 司祭は続ける。
「神は、我々人間を神自身に似せてお造りになった。何故だと思うね? 神は望んでおられるのだよ。我々が試練を乗りこえ、英知を身にまとい、創造主に限りなく近づいていくようにと……。そう、神は我々を導いて下さっているのだ」
 司祭は興奮していた。何かに憑かれたように、堰を切ってほとばしる妄言。
 アーシアはただ、冷ややかな反応を示しただけだった。
「あなたが言っている『神』が、一体何者なのか私には分からないけれど」
「……?」
「そんなものはね、司祭様。この世界には存在しないのよ。……あなたに試練を与えているものなど存在しないし、あなたがそれを乗り越えることなんて誰も望んじゃいない」
「……何だと」
「『彼』は、あなたのようなちっぽけな存在には目もくれない」
 アーシアは冷徹な口調を崩さぬままに、淡々とその事実を告げた。傍らに、血まみれのカリルを抱いたまま。
 月が、彼女を照らしていた。
 その、彼女の言葉……司祭には理解し難かった。彼の知らぬ事を、まるで見て知っているかのような口調で告げる。……彼女は一体何を言っている? 聞いてはいけない事を聞いてしまったような、そんな後ろめたさに、司祭は震えた。
「……君は……君は一体何者だ?」
「さあ。人間達は色々勝手な事を言うけれど」
 司祭は息を飲んだ。彼を見やるアーシアの瞳が、ふと気付けばいつの間にか澄んだ青色から、燃えるようにぎらつく黄金の色に変わっていたのだ。
「……!」
 司祭は、息を飲んだ。
 無意識のうちに、手にしたナイフを振り下ろしていた。
 血の糸が、弧を描いた。
 宙にひらりと舞い上がる、彼女の身体。その腕にしっかりとカリルを抱いたまま、カーシアは瞬時に跳躍し、司祭の凶刃をかわして見せた。
 カリルの流した血のしずくが、空中に大きく軌跡を描く。人の身で可能であるはずもない、大きな跳躍だった。
 次の瞬間、彼女は斜面の上に音もなく着地していた。
 傷ついた少女の身体を、そっとその場に横たえると、アーシアは司祭を真正面から見据えた。
「……人ならざるあやかしの化物か」
「だったらどうする? あなたの汚れた魂で、この私を浄化出来るとでも?」
 その言葉を受けて、というわけではないが……その本性を見せ始めたアーシアを前に、司祭は両手の指を組み合わせ、印を結ぶ。その唇から声にならない微かな声で聖句が漏れ聞こえはじめると、その手が不思議な光を放ち始めた。
「どうやら、神の力はまだ私を見放してはいないようだぞ」
「……どこまでも身勝手な人」
 アーシアが呟く。司祭がなおも聖句を重ねると、印を組んだ司祭の手が白くまばゆい輝きを放ち始めた。その輝きが……ただまぶしいのか、それとも何かしらの効力を発揮しているのか、アーシアは顔をしかめ、後ずさる。
「滅べ、闇より出でし者よ」
「……堕落したあなたに、容易に屈する私だと思わないでっ!」
 苦しそうに叫ぶと、アーシアの身体が不意に動いた。
 まるで、バネが弾けるかのような俊敏さでもって、彼女は跳躍した。
 その彼女の身体が、一気に司祭に踊りかかっていく。一瞬でその距離を縮めた彼女。突き出した右の爪が、鋭利な刃物に変化していた。
 そんな彼女の身体が、空中でぴたりと静止する。
「!」
 アーシアは舌打ちをした。司祭の手から放たれた光は、放物上に彼を覆い、守っていた。
 障壁を破る事の出来なかったアーシア。司祭が、にやりと笑う。
「……滅べ! 化け物め!」
 次の瞬間……彼をとりまく光が、ぱちんと弾けた。
 まばゆい光の洪水が、四方に飛び散っていく。それは司祭に肉薄していたアーシアにも襲いかかった。
「……くそっ!」
 彼女の端正な唇から、罵りの言葉が漏れる。そのアーシアはいったん地面に足をつけて、今度は後方に飛び退いた。司祭の放ったその光を避けようとしたが、一瞬遅かった。
 光が、アーシアの半身を包み込んだ。
「ぐあぁぁぁっ!」
 そのまばゆい輝きに浸食された彼女の口から、痛々しい悲鳴が漏れる。
 彼女の左半身が、すっかり光の巨大なかたまりに飲み込まれてしまっていた。
 輝きに包まれて、その向こう側の様子は窺い知れない。だが、程無くしてその彼女の足元に、どぼどぼと赤い奔流がしたたり落ちて、地面を汚した。
 一面に立ち込める、血の匂い。
 とめどなく流れ落ちる血に気にも止めずに、彼女は身体にまとわりつく血を振り払おうと身をよじった。血が一面に飛び散り、地面を、周囲の墓石を赤く染めていく。
 獣のような咆哮が、遠くに響いた。
 やがて……。
 夜の墓地を照らし出したそのまばゆい光の奔流は、やがて小さくなって消えていった。辺りはすっかり、闇を取り戻した。
 その闇の中、アーシアは赤く染まった大地の上に立ち尽くしていた。今にも倒れそうだったが、かろうじて踏み止まっている。その半身が、無残にも真っ赤に染まり返っていた。
 カリルは、消え行く意識の中でそんな光景をぼんやりと眺めていた。
 闇の中、遠くからでもその鮮烈な赤色は目に眩しかった。少女が流した以上の血を、アーシアはすでに流していた。
 左の脇腹が真っ赤に染まり、あふれ出た血が半身を真っ赤に染め上げている。
 見れば、腹部の傷からはまだどくどくと血が噴き出してきていた。彼女は左手でその傷口を押えるが、指の隙間から赤い奔流はとめどなくあふれ、その勢いを緩めない。
「……ググゥ」
 そのアーシアの口から、人の悲鳴とも獣の咆哮ともつかぬ呻き声が漏れる。その顔は苦しみからというよりは、怒りで歪んでいた。
 彼女はその白い顔を苦悶に歪めながらも、決して膝をつこうとしなかった。
 右腕は、人間らしい姿をもはやまるで留めてはいなかった。太さは左腕の倍近くに膨れ上がっている。筋肉が隆々と盛り上がり、その指先にはまるで猛禽のような、鋭い爪が光っていた。
 その膂力、その鋭利な爪……腕自体が、凶器と化していた。
 その爪を光らせながら、アーシアは一歩、二歩と敵との距離を縮めていく。そんな彼女と相対するウォーレン司祭は、自分が何を敵に回したのかを目の当たりにして、身震いしていた。
「……まさに、化け物だな。その爪で私を引き裂いて、むさぼり食ってしまおうとでもいうのかね」
「あなたなんか、食べたって美味しくないわね、きっと。……さあ、来なさい。私を滅ぼすと言ったのは、一体誰なの」
「……」
 ここで背を向けて、逃げてしまおうか……彼はそんな事をちらりと考えた。
 心に去来する恐慌にその身を委ねて、そのまま逃げ出してしまえたら……。だが、背を見せたが最後、目の前の化け物は彼をいともたやすく引き裂いてしまうだろう。
 あとには引けない。宣言した通り、目の前の化け物を打ち破るより他に活路は有り得なかった。
 手の中のナイフは目の前の怪物には何の意味もなさないだろう。特に未練も感じずに、彼はその凶器を草むらの上に投げ捨てる。
 そして両手で印を組み、再び聖句を唱えた。
 アーシアは、燃えるような目で司祭を睨みつけていた。
 眼差しが、標的を真っ直ぐに見据えて――次の瞬間、彼女は動いていた。
 ばねのように弾け飛んだ彼女の身体が、虚空を真っ直ぐに横切っていく。次の瞬間には司祭に肉薄し、彼女はその鋭い爪を標的の上に振りかざした。
 司祭が恐怖を押さえつけられていたのは、そこまでだった。
「……!」
 悲鳴は辛うじて堪えた。しかし、印を組んだその手を思わず放してしまった。唱えていた聖句も、途中で途切れてしまう。
 飛来したアーシアの右の爪が、司祭の肩をがっちりと掴んだ。
「くっ!」
 爪が、肩に食い込んだ。司祭の口から罵りの言葉がこぼれ、傷口からは血がにじみ出す。
 その彼の視界を一瞬横切ったのは、血濡れた彼女の左腕だった。腹の傷を押えていたはずのその左手は、いつの間にか右手と同じ形に変容していた。
 血濡れのその腕が、彼の首をがっちりと掴んだ。
 「!」
 その勢いで飛びかかられて、そのまま地面に組みひしがれるものと司祭は思っていた。だが、アーシアは司祭の首をがっちりと掴んだまま、くるりと身をひねって、彼の背中に回り込む。
 その強靭な腕が、彼の首をねじ上げていた。
「うぐぐ……!」
 司祭は歯を食い縛って耐えた。締め殺そうというのではないだろうが、その気になればそれは容易に可能だっただろう。
 肩口に傷を作った右腕は、今は彼の心臓にまっすぐに狙いを定めている。その爪が深々と突き刺されば、それで司祭の命は終わりだった。 
「……」
 司祭は、それ以上身動きが取れなかった。
 動けば、それはすなわち死を意味する。彼の命は、まさにアーシアの掌中にあった。
「動かないで」
 おのれの身の自由を奪う、二本の強靭な腕……そして鋭い爪。背後から聞こえてくるその腕の持ち主の声は、どこまでも甘く、柔らかく、優しい口調だった。
 それだけに、司祭は恐怖を覚えざるを得ない。
「動けば、あなたを引き裂く」
 ただ静かに、彼女は運命を告げた。
 今更、殺さないでくれと懇願するのも白々しい。司祭はただ何も言えぬままに、彼女の裁量を待つだけの身分だった。
 その時だった。
 不意に訪れた静けさの中、司祭が耳にしたのは、茂みをかき分けてこちらに近づいてくる、何者かの足音だった。
 司祭の視界の前方にある森から、誰かが墓地に近づいてきていた。
 彼は鋭い爪を突きつけられたまま、茂みの方に視線をやった。彼のすぐ背後に立つアーシアも、二人の背後でその物騒な成り行きをただ見守っていたカリルも……皆がその茂みの方にじっと注視していた。