月があなたと踊る夜 7
作:ASD





第六章(後編)




    4

 カリルは、それをぼんやりと眺めていた。
 血を流して倒れている自分。そのおびただしい血の量は、死を意識させるには充分過ぎる量だった。しかし意外にしぶといのか、彼女の意識はぼんやりと薄れつつありながらも、決して暗転すること無く、司祭と化け物との、おのれの認識力を越えた戦いをぼんやりと眺めていた。
 その背後の森に、ちらちらと見える光。
 そう、それは光だ。その正体は何とも知れないが……松明の炎であるとか、そういう明確に光源の窺い知れる光ではない。それは森をさまよう亡霊だか精霊だかのごとくに、薄ぼんやりと白い光を放っていて……。
 こちらに近づいてくるに連れて、光ははっきりとした姿を見せ始める。そう、驚いた事に、その光は人の形をしていたのだ。……彼女の目には、人の姿を形取った光が、まるで人の真似をして森をさまよっているような……そんな錯覚さえ覚えさせるようなものだったのだ。
 その光に、やがて戦っていた二人も気付いたようだった。それはそうだろう、そんな異形の輝きが接近しているのだ。血を流して争っている場合ではない……。
 だが、彼らが気付いたのはその光ゆえではなさそうだ。何故ならその光は、本物の人間のように物音を立てながら歩いていたのだから。
 なんと奇妙な光景なのだろう。ざわざわと茂みを揺らしながら、ざくりざくりと落ち葉や小枝を踏みしめながら、本当の人間のような素振りでそれはこちらに近づいてくる。そんな風に取り繕ったところで、まばゆく光り輝くその姿が、人ではない事をはっきりと示していたのに。
 ……けれど、それにしては二人の様子が変だった。そんなあからさまな異形を前に、さしたる驚きも示すわけでもない。
 アーシアは夜の住人、司祭は司祭……二人には、それは怪異ではないのだろうか……そんな彼女の思考を打ち破ったのは、司祭の発した言葉だった。
「イーヴ……イーヴなのか?」
 イーヴ? あれが、イーヴですって?
 ……カリルは、消え行こうとする意識を振り絞るようにして、顔を上げた。闇の中にぼんやりと輝くその光の正体を見極めようと、目を凝らす。
 そう、その光の向こう側に、確かに彼女は見た。
 所々に赤いしみの浮かぶ白い寝間着。ふらり、ふらりと頼りない足取り……その青白い、血の気の無い顔は確かに見知った少年のものだった。
「イーヴ……本当にイーヴなの?」
 そう、それは確かにイーヴだった。
 森の中から這い出してきた少年は、今にも倒れそうなくらいに真っ青な顔をしていた。おぼつかない足取りのままに、二人の前に……おのが父と、アーシアの間に進み出る少年。
 その頼りない足取りを、見ていられなかった。
 気がつけば、カリル自身もふらつく足取りで立ち上がっていた。まさか、その傷で立ち上がれるとは自分でも思わなかったが。
 そのまま、意識しないうちに彼女は歩き出して、斜面を下っていた。
 イーヴのうつろな眼差しが、よたよたと駆けるカリルの姿を見出す。そのカリルもまた、ぼんやりとする視界の中に、光を放つ少年の姿を見出していた。
 そうだ。
 あの時と、同じだ。
 あの朝の礼拝。
 あの雨の日の、お葬式。
 誰の目にも見咎められる事のない不思議な輝きを、少年は放っていた。その不可思議な輝きを、少女だけが見出していた。
 斜面を駆け下りたカリルは、凶刃を突きつけられている司祭の側を通り過ぎて、少年の前に立った。
 少年の目が、まっすぐにカリルを捉えている。血の気の無い、土気色の肌。彼女以外の何をも見出していないかのような、うつろな眼差し。
 血に汚れ、砂埃にまみれ、汗に濡れた寝間着。
 今にも崩れ落ちそうな、細い身体。
 そんなイーヴの身体が、不意にがくりと傾いた。
「!」
 カリルは反射的に、彼を支えようと手を伸ばした。だが、多量の血を流し、やはり言う事をきかなくなっていた彼女の身体も、その急な動作にバランスを保ってはいられない。
 カリルは崩れ落ちるイーヴの身体を抱き止めたまま、その場に膝をついた。
 少年と少女は、お互いがお互いに持たれかかるように、墓地の片隅で身を寄せ合っていた。
「……カリル」
「イーヴ? 大丈夫なの? ねえ、大丈夫なの」
「ああ……大丈夫だよ」
 少年は、かすれる声でそう答えた。その返事の不確かさに、カリルは胸を締めつけられるかのようだった。
 不意に、背中に鋭い痛みを覚える。彼女にしなだれかかったイーヴの指先が、背中の傷を捉えていた。
「カリル、この傷は……? 君こそ、大丈夫なの?」
「大丈夫よ。大丈夫に決まっている……」
 痛みに苦悶しながら、彼女は苦し紛れの言葉を吐いた。
「カリル……死なないで……」
 イーヴの両腕が、彼女をぎゅっと抱き締める。
 次の瞬間、痛みがすうっと引いていった。
「……?」
 意識が、急速に覚醒していく。
 まるで……何かが、彼女の中に流れ込んで来るようだった。流した血の代わりに、みなぎる何かが彼女の身体を満たしていく。その甘美な感覚に、彼女はうっとりと身を委ねた。
 彼女の腕が、イーヴをそっと抱き締める。
 その腕の中で、まばゆい光が輝いていた。
「……イーヴ?」
 その光を確認した瞬間――身体を満たしていく充足感とはまったく逆に、彼女の胃の附を何か冷たいものが撫でていく。
 イーヴの身体を包む輝きが、彼女の中に流れ込んで来ていた。
 イーヴの命が、彼女を満たしていた。
「……駄目! イーヴ、駄目よ!」
 彼女は慌てて少年を引き剥がそうとする。
「カリル……死んじゃだめだ……」
 ほとんど聞き取れぬ声で、イーヴはそう呟く。先程までの彼女とはまるで違う、生命の力に満ちあふれたカリルの姿が、そこにはあった。
 その代わりに……少年の命の火が、今度こそ消えかかっていた。カリルの腕の中で、急速に彼は力を失っていく。
「駄目……駄目よ……あなたが死んでどうするの……」
 いつの間にか、カリルは泣いていた。声が震える。漏れる嗚咽を押し隠す事は出来なかった。
 イーヴは、そんな彼女を見て力無く微笑んでみせた。
「イーヴッ!」
 ほとんど、悲鳴に近い声。
 カリルの身体は、ほぼ完治していた。背中の痛みはすっかり消えてなくなっていた。あれだけ多量の血を流したのがまるで嘘だというように、身体が軽い。
 そのカリルに向かって、少年は消え入るような声で問い掛けてくる。
「……カリル、もう大丈夫なのかい?」
「……ええ、大丈夫よ。あなたのおかげで、私は大丈夫」
 あなたは。
 あなたはどうするの。
 カリルは大粒の涙をこぼしながら、心の中でそう問いかけていた。
 私の命は、あなたが満たしてくれた。
 自分の命を他人に満たす、その力で私を助けてくれた。
 でも……あなたは?
 あなたの命は、誰が満たすの?
 誰が、あなたを救うというの……?
 ……。
 少年の命が、今まさに消えつつあった。遠目からでも確認できた輝きが、今ではカリルの目にもまったく見えなくなりつつあった。
 そんなイーヴが、ぽつりと彼女に問いかけた。
「カリルをそんな目に合わせたのは、一体誰なの?」
 胸が締めつけられるようだった。自分が死にかけているというのに、何故他人の心配なんかするのだろう。
 誰が……誰がカリルを傷つけたのか。
 イーヴの目が、闇の中を泳ぐ。
 カリルが、その視線の先を追いかける。
 その向こう側に……イーヴの父の姿があった。
 その父を羽交い絞めにし、鋭い爪を心臓に突きつけている異形の怪物の姿が、そこにはあった。
「アーシア……?」
「イーヴ、私を見ないで」
 アーシアは、静かな口調でそう告げた。
「アーシア」
「お願い。この私を見ないで。この醜い姿を、あなたの目に焼きつけないで」
 訴えるような言葉も、イーヴの耳には届かなかった。初めて見るアーシアのその姿を目の当たりにして、驚きに呆然としながらも、彼女をじっと凝視していた。
「アーシア……あなたなの?」
「……そうよ。これが、この私のもうひとつの姿」
 自嘲気味に、アーシアは呟いた。
「闇の世界にしか住まうことを許されていない、夜の住人。人の生き血をすすり、死肉を喰らう呪われた存在。それが、この私」
 言いながら、その手が震え出して来た。
 見れば、彼女の立つ地面が赤く汚れていた。脇腹の傷からは、今もなお血がどくどくとあふれ出して来ている。
 彼女もまた、傷ついていた。
 左腕に込められた、力の制御が出来なくなりつつあった。心臓に突きつけた爪の、その狙いがふらふらと揺れはじめる。
「イーヴ……ごめんなさい。もう持たない……」
 変容した彼女の太い腕が、司祭を力強く締め上げている。司祭は首を締め上げられて、いかにも苦しげな声を漏らしていた。
 その鋭い爪が、司祭の心臓に突き立てられた。
 赤い奔流が吹き出すその直前に、ウォーレン司祭はおのが息子をまっすぐに見据え、こう告げた。
「イーヴ……母を頼むぞ」
 次の瞬間――彼女の右手の爪が、司祭の心臓を貫いた。
 彼の細い身体が、あっという間に赤く染まりかえる。アーシアの爪は司祭の心臓を簡単に貫いたばかりか、彼の胸部をまっぷたつに切り裂いた。斜めにすっぱりと裁断され、司祭の身体は行き別れになる。
 下の半身がバランスを失って、どさりと倒れた。
 上の半身は、その首をアーシアの左腕ががっちりと掴んでいた。その力が強すぎたせいか、首はへし折れてあらぬ方向にねじ曲がっている。
 アーシアはただ静かに、その半身を投げ捨てた。
 どさり、と無情な音がして、ついさっきまで生きていた司祭は物言わぬ姿となってその場に転がっていた。
 異形の姿に変容していた、アーシアの二本の腕。イーヴとカリルの見ている前で、それはゆっくりと元の、人間のような姿を取り戻していく。
 それでも拭えないのは、血。
 両腕をべったりと司祭の血で汚したアーシアは、どこを見るでもなくぼんやりと前方を見据え、その場に立ち尽くしていた。
 腕ばかりではない。おのが目前で司祭をまっぷたつにしたのであるから、その返り血で彼女は真っ赤に染まり返っていた。
「……アーシア?」
 心配そうな声を上げたのはカリルだったが……彼女はその場から、一歩も動く事が出来なかった。
 力尽きたイーヴが彼女の腕の中にある。そしてカリル自身、血にまみれたアーシアが恐ろしくないと言えば、嘘だった。
 カリルは、おのれの腕に寄りかかる少年を見やった。
 もはや自力では立ち上がるのも難しいだろう、しかし少年はそのうつろな目で、アーシアをじっと見入っていた。
 目の前で行われた惨劇……おのが父がまっぷたつに裂かれるその瞬間を、イーヴは確かにその目で見ていたのだ。
「……イーヴ?」
 心配になって、声をかけてみる。けれど返事はなかった。
 父の死を、何とも思っていないのか……目の前に広がる赤い惨劇の後を、彼は無表情にぼんやり眺めているだけだった。 




     5

 イーヴは、一言も何も言わなかった。
 カリルは、そんな少年を抱き止めたまま、何も言えずにいた。
 そして二人の前に立つアーシアもまた、無言のままに二人を見やっていた。二人を……と言うより、イーヴを。
 アーシアの目……金色に輝いていた彼女の瞳は、いつのまにか元の青色に戻っている。その青い目が、不安に揺れていた。
 血にまみれた彼女。腹部の傷口からおびただしい血を流す彼女のその姿から、司祭を無情にも引き裂いた異形の怪物の姿を想起するのは難しかった。
 それでも、彼女は確かに、司祭を殺したのだ。
 アーシアは、自身の負傷も省みずに、ゆっくりと二人の元に歩み寄ってくる。
 カリルは不安を覚え、思わず身を硬くした。抱きかかえていたイーヴの身体を、思わずぎゅっと強く抱いてしまう。
 不意に……イーヴの手が動く。不安に脅えるカリルの手を、少年の手が握った。その手は、まるで氷のように冷たかった。
「……イーヴ?」
 カリルの問いかけに、イーヴは何も返事をしない。彼はただうつろな目で、前に立つアーシアを見やっただけだった。
 アーシアもまた、どこか哀しそうな表情で少年を見返す。そんな二人を、ただぼんやりと見ているしか、カリルには出来なかった。
「ごめんなさい、イーヴ」
「……いいんだ、別に」
 イーヴが、かすれるような声で応える。
「父さんは……カリルを殺そうとした。アーシアも傷つけた。墓を荒らして、あなたが疑われるのを見過ごそうとしていた……」
 父の死。それを語る少年は、何を思っていたのだろう。
 その時だった。
 それまでの静寂を破るように、墓地の向こうの森がざわざわと騒がしくなってきた。
 人の話し声。一人や二人ではない。
「……なに? 何なの?」
 不安そうな声を上げるカリルに、アーシアは平静を保ったまま静かに応える。
「……村の人達」
 その一言で、カリルは司祭の言葉を思い出していた。墓地の向こう、外の森へと捜索の手を広げていった男達。そんな事も知らずに、カリルはずっと助けを求めて森の中を逃げ回っていたのだ。
「い、今更戻ってきて……」
 怒りに近い感情がこみ上げてくる。少女は思わず、不平の声を漏らす。
 次に思ったのは、この惨劇のあとを、大人達にどう説明すればいいのか、という事だった。
 血にまみれて立ち尽くすアーシア。傍らには、司祭の哀れな残骸。
「アーシア、逃げて……!」
「もう、遅いわ」
 アーシアはそう呟いて、諦めともとれる哀しそうな微笑みを浮かべた。
 やがて……墓地の丘の向こうから、足音と怒声が聞こえてくる。墓地に立ち尽くす一行を見つけたのか、後から来る者を急かす声が響く。
 アーシアは、何かふっ切れたような……諦めともつかない、そんな微笑みを浮かべていた。その場から一歩も動こうとせずに、じっと立ち尽くしていた。
 ふと見やれば、いつの間にか腹部の出血は止まっていた。やはり彼女は、人外の存在なのだ……。
「カリル、見て」
 そう言って彼女は、両手をそっと広げていく。
「カリル、イーヴ……見て。今夜は月がとってもきれい」
「……」
 アーシアはそのまま、そっと目を閉じた。
 カリルはちらとイーヴを見やる。いつの間にか少年は目を閉じていた。軽く寝息のような音が聞こえてくる。まだ死んではいない……。
 カリルは、月を見上げるアーシアを見やる。
 赤く染まり返った彼女は、月の明かりを全身に浴びていた。まるで降り注ぐ光と戯れるかのように、ステップを踏んでくるりと一回転する。
 その神秘的な光景から、カリルは目を離すことが出来なかった。
 やがて……。
 そのステップも、すぐに止んだ。
 村の男たちが、周囲に続々と集まって来ていた。見渡せば、どれもこれも見知った村の人々の顔。
 そんな男たちの手には、思い思いの武器が握られている。農具を手にしているものもいれば、古びた剣や手製の槍を持つものもいる。普段は狩りに使う弓矢を持ち出しているものもいた。中には適当な棒切れを持つ者もいて、それは武器なのか杖なのかちょっと判断しづらかった。
 そんな男達は、惨状を見やって、しばし言葉を失った。
「……こりゃひでえ」
 誰かが、そんな事を口走る。
 それをきっかけに、男達は口々に何かを言い合い始めた。カリルはそんな人々から目を逸らし、唇を噛んで、物言わぬイーヴをぎゅっと抱き締める。
 人々の目は、二つの物体に注がれていた。ほぼ全身を血に染めて立つアーシア。その足元に転がる、無残な司祭の死骸。
 村人の一人が、進み出てきて彼女に問いかける。
「おい……薬屋のおかみよ」
「……なに?」
「一体、この場で何があったんだ?」
 まるで、詰問するような鋭い口調だった。アーシアは、彼女を取り囲む男達をゆっくりと見回す。その視線のほとんどは、彼女への不信感や敵愾心、無用な恐れ……そんな感情に満ちていた。彼らはそんな思いを、まったく隠そうとしていない。
 そう、彼女は、断罪されているのだ。
 それを直感した彼女――アーシアは、何も答えなかった。
 男が、一歩踏み出して、さらに問う。
「……司祭さまを、こんな風にしちまったのは……あんたなのか?」
 人々の不審と好奇の目に晒らされて、アーシアはため息をついた。
「あなた達が口々に、私の事をどう噂しているのか、知らない私じゃない……もう答えは決まっているのでしょう? あなた達は真実を知りたいわけじゃない。自分たちが出した答えに、私が従うのをただ見届けたいだけ。……だから、私がここでどう返事をした所で、決まってしまった答えが変わるわけじゃないわ。今更、私の口から何が聞きたいというの?」
 余裕すら感じられる笑みをたたえながら、彼女は悠然と答えた。男達の間でどよめきが走るが、結局それ以上彼女への問いかけは為されなかった。
 カリルは、そんな光景を苦々しく見つめていた。
 司祭を殺したのは確かにアーシアだ。それだけは、疑いようのない事実だ。けれど、その司祭はこの自分に何をしようとした?
 彼女が口を開こうとしたその時……彼女の腕の中で、イーヴがうめき声を上げた。
「イーヴ?」
「……カリル?」
「イーヴ、大丈夫なの?」
「カリル、僕は、僕は……」
 イーヴは力無く呟く。けれどそれっきり何も言わず、身動きすらしなかった。
 そんな二人の周囲では、大人達が無責任な事を言い始めている。
「……あの腕を見ろ」
「腕だけじゃねえ。全身血まみれだ」
「司祭を見ろよ。まるで人間の死に方じゃねえ」
「この女がやったんだ」
「この女が、司祭さまを殺したんだ」
「なんて女だ。本当に人間なのか」
「人間じゃねえ……魔女だ! 化け物だ」
 その声に、カリルは耳を塞ぎたい衝動にかられる。でも、目の前に立つアーシアは何も言わず、少しうつむいた表情のまま、黙ってその言葉を聞いているだけだった。
「みんな……待って……」
 不意に、カリルの口からその言葉が漏れる。
「みんな待って! アーシアは悪くない! 彼女は何も悪い事なんかしていないわ!」
 少女は、渾身の力でそのか細い身体から声を絞り上げた。
 口々に勝手な事を言っていた村人達が、ぴたりと口を閉ざす。
 見れば、子供達の姿にも目を覆うべきものがあっただろう。カリルの背中には血の染みが浮かび、寝間着姿の少年も血と砂ほこりにまみれていた。
「悪くない……アーシアは悪くないんだから……」
 そう呟いたカリルの声は、震えていた。
 司祭は死んだ。イーヴも気を失っている。ならば、アーシアの無実を……真の罪人が何者なのかを、告発出来るのはカリルだけだった。
 なのに……なのに、声が震えて、言葉にならない。
 目頭に、熱いものがこみ上げてくる。大粒の涙が、彼女の目からぼろぼろと零れ落ちた。
 嗚咽を漏らすカリルを、大人たちが冷ややかな目で見下ろしていた。
 そんなカリルに、大人達が声をかけてくる。
「カリル。お前とそのぼうずは、大丈夫なのか?」
「その背中はどうした。怪我をしているんじゃないのか?」
「それもおおかた、この女の仕業なんだろう?」
 口々に飛び交う声。
 カリルはそんな中、アーシアを見上げた。
 彼女は淋しげな視線をカリルに投げかけたまま、小さく首を振った。
 何を言っても無駄。……そう言っているような気がした。
「くそ、子供たちまで、こんな目に合わせやがって!」
「この二人も、殺して木に吊るすつもりだったんだろうが!」
「冗談じゃねえ……何が魔法使いだ。魔女め! 貴様は魔女だ!」
「違う……そうじゃない……」
 呟くようなその言葉は、大人達には届いてはいなかっただろう。もはや、彼女には彼らを止めることは出来なかった。
 村人達は、無言のままアーシアをぐるりと取り囲んでいた。その数、十数人と言ったところか……これで全部では無く、まだ森から戻って来ていないものもいる。
 アーシアはずっと、カリルとイーヴの上に視線を落としていた……が、未練を振り切るように、目を逸らす。
 その青い眼差しが、彼女を取り囲む男たちの姿を捉えた。
 その中に、ロシェの姿は無かった。まだ森から戻ってはいないのだろう。
 ならば、この連中はただの農民達だ。人外の存在であるアーシアの敵ではない。
 ……だが、男たちはアーシアがそこまでのものとは、未だ知らなかった。
「もう一度聞くぞ。司祭さまを殺したのは、あんたか?」
 問われて……アーシアはすうっと深呼吸すると、よく通る声ではっきりと返答した。
「そうよ」
 男たちの間に、衝撃と動揺が走る。それを見ながら、アーシアは続ける。
「まさしくその通り。それだけははっきりと、事実だと言えるわ」
「墓を掘り返していたのも、あんたなのか」
「それは違う。犯人は別にいる。私はその犯人が誰なのかも知っている」
「……ふざけるんじゃねえ! 犯人じゃないっていうのなら、何故司祭様を殺したんだ! ……見ろ、カリルだってこんなに怯えてやがる!」
 違う! 叫ぼうとしたカリルだが、声が出ない。
「それは……」
 代わりに、口を開いたのはアーシア。……だが、何かを言おうとした口を、結局彼女はそのまま閉ざしてしまった。
 怪訝そうな顔でそんなアーシアを見やる村人達。そんな彼らをぐるりと見渡すと、アーシアは自嘲するようにぽつりと呟いた。
「……それはきっと、あなたたちには信じてもらえないでしょうね」
 フフ、と笑みが漏れる。
 この状況下で笑みを漏らしていられる彼女を目の当たりにして、村の男たちの上に緊張が走る。武器を手にした男達を前にして、アーシアはまったく怯む素振りを見せなかった。
 村人の一人が、自分達を奮い立たせるために言う。
「覚悟を決めてくれ、おかみよ」
「いいわよ。……でも、あなたたちもね。勇者クラヴィーアスの妻たるこの私が、あなた達に遅れを取ると思ったら、それは大きな間違いよ」
 男たちの間に、一瞬の逡巡が生まれる。
 その戸惑いを、振り切るように……。
「……構わねえ、やっちまえ!」
 誰かが、号令をかけた。村人達はその声に、反射的に駆け出していた。
 だが、遅かった。
 その一瞬の間に、アーシアの姿がその場からあっという間にかき消えたのだ。
「……なに!?」
 武器を手に迫った村人達は、慌てて立ち止まった。そんな一瞬の事に呆気に取られ、そのまま立ち尽くした。
 どこへ行ったのだろうか……彼らは敵の姿を求めて、あたりをきょろきょろと見渡した。
「お、おい! 見ろ!」
 一人が、声を上げた。まさかと思い視線を巡らせたその先に――月がまぶしく輝いているその虚空に、その姿はあった。
 皆が一斉に、そこを見上げる。そこは確かに、彼女の白い影が浮かんでいた。
 彼女はまるで夜の闇を切りさくように……一瞬の間に、彼らの頭上を横切っていった。
 まるで駆け抜ける風のごとき速さで、彼女の姿はそのまま森へと消えていく。
「逃げたぞ!」
「追え! 絶対に逃がすな!」
「敵は手負いだ! 恐れるこたあねえ!」
 アーシアの消えていった森に、男たちは一斉に雪崩れ込んでいく。
「おい、ロシェを呼べ! 早く!」
 そんな言葉が、カリルの脇を駆け抜けていく男たちの口から叫ばれていた。
 誰も彼もが、逃げていったアーシアに気を取られていた。うずくまる少女の方など、誰も見向きはしない。
 今頃になって森の奥から現れたロシェが、村人に指し示されるままに、アーシアの逃げ込んだ森へと駆けていく。
 すれ違う一瞬、カリルはそんなロシェと目を合わせた。
「……おい、その血はどうした。大丈夫なのか」
「放っておいて」
 カリルはそう言うと、気を失ったイーヴをぎゅっと抱きしめ、そしてそっぽを向いた。
 皆がまた森へと繰り出して行くと、カリルはイーヴと共にその場に取り残されてしまった。彼らの他は、司祭の残骸のみ。
 取り残された事を、寂しがっている暇は少女には無かった。
 気を失っていると思えたイーヴだが、どうやらそうではないらしい。彼女の腕の中で、少年は今度こそ力尽きつつあった。
 いや――。
 眠るような表情の彼だが、気がついてみれば息をしていなければ、心臓の鼓動も感じられない。
 彼女の腕の中で、少年はみるみる冷たくなっていって……カリルはただ、泣き崩れるより他になかった。