月があなたと踊る夜 8
作:ASD





第七章




     1

 森の一本道を、少女は歩いていた。
 たった一人……そう、一人と言えば、一人の道のりである。
 墓地から一人離れていった少女を、見咎める者は誰もいなかった。手を貸そうという者も、誰一人いない。
 彼女は時折立ち止まっては、背中に背負った重い「それ」を担ぎ直す。
 ……そう、すでに物言わぬイーヴの姿がそこにはあった。もはや力尽きた少年の身体を担いで、カリルはとぼとぼと一人、夜道を歩いていた。
 一度は死を覚悟した少女だったが、イーヴのおかげで今はびっくりするくらいに身体が軽かった。同時に……少年の細い身体もまた、担いでみるとびっくりするくらいに軽い。少女の細腕に余ると言えば余るのだが、一人で運べぬ重さではなかった。
 彼を携えて、カリルは村へ……教会へと戻ってきた。
 村に、人影はなかった。
 男達はアーシアを追って森へ行ってしまい、残された女や子供はただ息を潜めてそんな彼らの帰りを待っているのだろう。寝静まる村は、森の騒ぎを知らないかのようにも見えた。
 教会へと向かう無人の道を、カリルはとぼとぼと歩いていく。
 礼拝堂の重い扉を押し開け……その頃にはさすがのカリルもイーヴの身体を持て余していたが、何とかそこまで運んできた少年の身体を、彼女は長椅子の上に横たえた。
「イーヴ……」
 明かりらしい明かりのない暗闇の中、高い天窓から差し込む月の光だけが、少年の青白い顔を照らし出していた。
 名を呼んでも、返事はなかった。少年は目を閉じて、安らかな寝顔を彼女に向けるばかりだった。
 カリルはその指先で、少年の白い頬を撫ぜた。その肌が、急速にその温もりを失いつつある。その顔は汗で汚れ、服も彼自身の血に染まっている。その心臓の鼓動も、呼吸も、すでに止まって久しい。
 目の前で起きている事実が、急速に現実感を伴って来ていた。
 傷を負い、血を流し、一度は死にかけたカリル。そのカリルを、イーヴは説明しようのない不思議な力で助けてくれた。
 そのイーヴの命が、やがて消えていった。
 それも、彼女の腕の中で。
 すぐには信じ難い出来事だった。その安らかな寝顔……本当にただ眠っているだけにしか見えない。
 彼が死んだなんて、嘘だ。
 否定の感情が、急激に込み上げてくる。
 それは、彼女の感覚が、無意識のうちに少年の死を自覚し始めたからだろう。死を意識するからこそ、それを否定する感情が働き始めるのだ。
 不意に、涙がこぼれてくる。
「イーヴ……私、どうすればいいの」
 声に出して問いかけても、そこに答えはない。彼女は少年の手をとって強く握ってみるが、少年がその手を握り返すことはなかった。
 それを、事実として受け入れる事が出来ない……いや、受け入れたくなかった。
 その時だった。
「……?」
 不意の物音に、カリルは思わず顔を上げた。
 彼女は真っ暗闇の礼拝堂に、素早く視線を巡らせる。そこにいるのはイーヴと彼女、ただ二人……いや、イーヴが目覚めぬ今は彼女たった一人が、闇の中に置き去りにされていたはずだった。
「……誰か、いるの?」
 恐る恐る問いかけてみる。返事はない。いや……。
 返事の代わりに……足音が、響いてきた。
「……!」
 カリルは身を硬くした。思わずイーヴの冷たい手を、強く握り締める。
 そんな彼女の脅える心を知ってか知らずか、足音はただゆっくりと彼女に向かって近づいてくる。
 そして、闇の中から声が聞こえた。
「……カリル? そこにいるのはカリルなの?」
「……アーシア?」
 そう……。
 彼女の耳に飛び込んできたのは、まさしくアーシアの声だった。
 礼拝堂の天窓から、小さく差し込む月の光。
 その光が照らし出す直下に、彼女は……アーシアは立っていた。
 血に染まったその姿が、カリルの眼前に露わになっていた。
 そのシルエットは、まぎれも無く人間そのものだった。だが、彼女が人間ではない事はすでに明らかになっている。人なのか、そうではないものなのか……どちらともつかぬあやかしの生き物が、今カリルの前に立っていた。
 優しく笑みを浮かべて……それでもどこか寂しげな表情で。
「アーシア……どうしてこんなところに?」
「……人ならざるあやかしの生き物が、神の家を頼るなんて、普通思わないでしょう? ……ところで、あなた一人なの? 他には誰もいないの?」
「……イーヴだけ。他には誰も」
「そう」
 アーシアは短く応えると、ゆっくりとカリルの元に歩み寄ってきた。カリルは少しだけ身を硬くするが、彼女には恐らく危害を加えるだけの理由はないはずだった。
 彼女はカリルのすぐ側に立って、横たわるイーヴを見やる。
「……イーヴは、大丈夫なの?」
 その問いに、カリルは黙って首を振るしかなかった。
 それを確認するように、カリルはもう一度その手を取る。強く握ってみても、その手が彼女の指先を握り返してくる事はなかった。
 アーシアは、イーヴのもう片方の手を取ろうとするが……一度は伸ばしかけた手を、結局は引っ込めた。
 彼女の青い瞳が、寂しそうに物言わぬイーヴを見下ろしていた。
「どうしたの、アーシア……?」
「いえ……別に」
 カリルの問いに、彼女は軽く首を振った。
 そこでカリルは思い出していた。あの雨の葬儀の時の、ひと騒ぎ……イーヴの手を取ったアーシアの反応。
 あれを、カリルも垣間見ていたのだ。
(アーシアは、触れないんだ)
 イーヴの手が放つ不思議な輝き……それはひょっとしたら、闇の住人たるアーシアには、癒しの力とは反対の作用を示すものなのかも知れない。
 だから、アーシアは恐れているのだ。
 今は、その輝きはまったく見出すことが出来ない。
 アーシアはもう一度おずおずと手を伸ばして、今度は確実にイーヴの手を取った。
 何も、起こりはしなかった。
 イーヴの力の作用……それはカリルの思い過ごしだったのだろうか。
 いや、違う……そうじゃない。アーシアの手が触れられるという事、それはイーヴの力が、本当に消えてしまっている事を意味していた。
 医術の心得があるアーシアは、彼の手首をとって、ついで軽く首筋に触れる。だが、そこに脈動は無かった。
 彼女は失望とともに首を振った。
 その意味が、じわりとカリルにも浸透していく。
 そう、イーヴは死んだ。
 死んでしまったのだ。
 認めたくない……絶対に認めたくない事実が、彼女の目の前に横たわっていた。
 涙が、彼女の頬を伝った。
 それを止める事は出来なかった。心の奥底から、何かが込み上げてくる。突き上げてくるその感情を、押しとどめることは不可能だった。
 静寂。
 礼拝堂を包むその静けさを、カリルのすすり泣く声が破る。
 押し隠すような嗚咽は、やがて堰を切ってあふれ出した。
 闇に響くその声を聞くのは、人ならざるあやかしの存在。彼女は半ば血も渇きつつあるその腕で、少女の赤い髪をそっと撫でた。
「……泣かないで、カリル」
「だって……!」
「こうなることは、あらかじめ分かっていた。イーヴは、定められた時を……彼に与えられた時間を生きて、それを終えた。ただ、それだけの話」
「だって、イーヴは……」
 そう言って、カリルは言葉を詰まらせる。
「私を追って来なければ、死なずに済んだのよ。私が、森の方なんかへ逃げなければ」
「でも、あなたは森へ逃げた。ウォーレン・ウィルフリードはあなたを森へと追い込み、そしてイーヴはその後を追いかけた……」
「……私のせい? イーヴが死んだのは、私のせいなの?」
「誰のせいでもないわ」
 思い詰めたような表情を見せるカリルに、アーシアは笑顔を見せた。どこか寂しい、つくり笑い。
 カリルは震える声で言う。
「……司祭さまのせいよ。あんな……あんな呪われた事を」
「イーヴから、何かしているという風には聞いているけど……結局、地下には何があったの?」
 アーシアのそんな問いに、カリルは地下で何を見たのかを説明した。あやしげな魔導の書物、人ともけものともつかぬ、生き物の臓器……そして、生前の姿を少しも損なってはいないであろう、美しい母の亡骸。
「……なるほどね」
「どうかしてる。死んだ人が、蘇るなんて」
 やや侮蔑を込めた口調で、カリルは言う。
「そんな方法があれば、イーヴの身体の弱いのを治してあげればいいのに」
 ふいに呟いたその言葉に、カリルはふと、とある事に思い当たった。
「ねえ、アーシア」
「……何?」
「イーヴは……イーヴはどうなの?」
 カリルは、うわごとのように彼女に問う。
「アーシア、あなたは魔法使いでしょう? ……もしかしたら」
「カリル、やめなさい」
「どうして!? 彼のお父さんは、人を殺してまで死人を生き返らせようとしたのに……」
「……」
「そんなの不公平よ。間違っている。そんな事って……」
 そのまま、カリルは声を詰まらせた。声を押し殺して泣く彼女を、あやかしのけものがなだめる。
「……ねえ、アーシア」
「何?」
「もしも、イーヴが生き返るのなら……私、何でもする」
「……?」
「司祭様みたいに、人が殺せるかどうかは分からないけど……私に出来ることなら、何だってやる」
 思い詰めたような言葉に、アーシアは返事を返す事が出来なかった。ただ何も言わず、その手で少女の髪を撫でる事しか出来なかった。
 血がつくのもお構いなしに、カリルはそんなアーシアの胸に、顔を埋めた。
 そのアーシアの手が、不意に止まった。
「ねえ、カリル。あなた、今の言葉に嘘偽りはない?」
「え……?」
 突然の問いに、カリルはおのが耳を疑った。
「さっきの言葉。イーヴが息を吹き返すなら、何だってするって」
 その問いに……カリルはおのが言葉の意味を反芻した。しばし考え込んでから、おもむろに口を開く。
「……イーヴは、私に命をくれた。自分を犠牲にして、私を助けてくれた」
「……」
「だから、私もイーヴのためなら何でもする」
 きっぱりとそう答えたカリルの顔を、アーシアが覗き込んだ。その目は少しだけ不安に揺れていたけれども、その決意は固い。
「分かったわ」
 アーシアはすうっと深呼吸すると、カリルの前に一本のナイフを差し出した。
「あなたの決意を、私に見せて」
「……?」
 そのナイフに、カリルは見覚えがあった。それはウォーレン司祭が、カリルの背中に突き立てた、そのナイフではなかったか。
 カリルはそれをおずおずと受け取る。
「ど、どうすれば……」
「ここよ」
 アーシアはそのナイフをカリルの手にしっかりと握らせると、その手を誘導し……そして、おのれの胸に、心臓にぴたりと位置を合わせた。
「……ここに、私の心臓がある。これがあれば、イーヴは蘇る」
 カリルのその手が、思わず震えた。
「心臓……ですって……?」
 不意にナイフを置いて、少女は後ずさる。イーヴの脇から立ち上がり、得体の知れない提案をするアーシアに、不審の眼差しを向けた。
「……どういう事なの?」
 問い詰める彼女に、アーシアは慌てる素振りも見せずに、ゆっくりとその場から立ち上がる。
 そして、天窓から差し込む月明かりの下に、ゆっくりと進み出た。
「私はね、カリル」
「……」
「あなたはおかしいと思うかも知れないけど、私は司祭のやったことを責めたりはしない。……あなたを殺そうとした事は、確かにどうかとは思うけど」
「……」
「失った奥さんを蘇らせたいというその想い……そして、イーヴを生き返らせたいと願うあなたの思い。私にはそのどちらも、痛いくらいによく分かる」
「……何が言いたいの?」
「私だって、クラヴィスには生きていて欲しかったもの」
「……」
 その名前に、カリルははっとした。
「イーヴのお父さんは聖職者だったから、それをやるのに多少の抵抗はあったでしょう。でも、死人を生き返らせる禁呪は確かに存在するし……そんなものを使わなくても、この私の心臓さえあれば、どんな人間でも永遠の命を持つことは出来る」
「あなたの、心臓……?」
 この人は何を言おうとしているのか……カリルは徐々に、混乱を覚えつつあった。
 そんな中、脳裏に甦ってくる、とある言葉。
 あの地下室……イーヴの母が横たわっていたあの地下の部屋で、司祭が少年に告げた言葉。
 あの時、彼は何と言っていた?
 ――イーヴ、お前は知っているか。この世界のどこかに、人の血をすすり肉を食らって糧とする、人と同じ姿をした人ならざる闇の世界の住人がいるという。永遠の命を持つその生き物の心臓は、永遠に鼓動を打つと言われ――
「……司祭さまも、きっとこれをとても欲しがっていたでしょうね。いいえ、彼だけじゃない。この地上に住む人間達の、大勢の愚か者たちが、これを求めて止まなかった……。これさえあれば、イーヴだって、地下にいるっていうお母さんだって、きっと生き返らせられるわ……でもね」
「……」
「でも、クラヴィスはそれを望まなかった」
「……」
 彼女はそう言いながらも、あくまでも優しそうな微笑みを崩さなかった。
 どこか陰りのあるその笑顔を浮かべたまま、彼女の姿はぼんやりと月明かりのもとに浮かび上がる。その横顔を、カリルはじっと見つめていた。
「おかしいでしょう? 王国を未曾有の危機から救った勇者クラヴィーアス。比類なき勇猛さと英知を兼ね備えた、遠い未来に神話として語り継ぐべき勇者……その彼もね、最初は愚か者達と同じように、この私の心臓を追い求めていたのよ。永遠の命を求めて、この私を探して放浪の旅を続けていた……王国が用意した広大な辺境の領地も、貴族の身分も……莫大な恩賞の、その全てをふいにして、ね」
「……」
「……彼はね。その時から、病にその身体を蝕まれていたの」
「……」
「どんな勇者だって、病には勝てない。彼は偉大なる剣士にして、偉大なる魔法使い。彼の力を持ってすれば何事も叶わぬ事はないかのように思われた。それでも、その病にだけは勝てなかった」
「……だから、あなたを?」
「そう。ただ、その命を長らえる事を望んで」
 そういって……アーシアは目を閉じる。その二本の足が、軽やかにステップを踏む。閉じたまぶたの向こう側に、亡き夫の面影でも思い描いているのだろうか。
「そして、私達は巡り合った。私を殺し、心臓を奪いに現れた勇者クラヴィーアス」
「……」
「……そうよ、私達は出会ってしまったの。一度は刃を交えもした。愚かな人間よと、罵りもした。けれど……それだけじゃなかった」
「……」
「私達の出会いは、そんなものじゃなかったの。ただ時の狭間ですれ違う、幾多の出会いのひとつなんかじゃない。それは一生に一度……あの人の瞬くような人生にとっても、私の呪われた永劫の時にあっても、それはたった一度、本当にただそれっきりの出会いだった」
「……」
「私達はお互いに、お互いを自分にとって最も大切なものとして認め合ってしまった。その瞬間に、彼は運命に抵抗する事を止めてしまったの。……そう、この私のために」
「……」
「私は望んだわ。この私が滅びても、クラヴィスだけは永遠にいて欲しいと。私には何でも出来たの。この心臓を与える事も出来たし、呪いをかけて彼を永遠の時の中に縛りつけてしまうことも出来た。でも、彼はそのどれをも望まなかった……」
 ステップを踏んでいたその足が、止まった。そのまま、彼女は黙りこんでしまった。
 カリルは……そんな彼女を、恐る恐る見やる。
 不意に、アーシアの青い瞳が、カリルを見返した。
「私が何者なのか……考えているんでしょう?」
「わ、私は……そんな」
「いいのよ、別に。……人ならざる私を、人々は皆恐れて忌み嫌う。その恐怖を克服するために、人間達は何かにつけて私のような存在を追い立てようとするのよ……。それを脅威と思ったことはないけれど、彼らはいつもは隣人のふりをしながら、いつの日かそうやって簡単に手のひらを返してしまう……そんな彼らの心変わりが、私にはとても恐ろしく思えるのよ。……でも、イーヴのお父さんをあんな目に合わせた私だから、あなたは私の事を、きっと恐れているのでしょうね」
「……」
 カリルはその言葉に、何も言い返せなかった。
「アーシア、私は……」
「司祭は」
 カリルの言葉を遮るようにして、アーシアが言う。
「彼はとても悔しがるでしょうね。おのれの目的を満たすあやかしの生き物が、こんな間近にいたんですから。彼は私が人間ではない事は見抜けても、そんなあやかしのものだとは最後まで思ってもいなかった……」
 フフ……。自嘲するかのような笑みがこぼれる。
 ――赤い血の流れる生き物の心臓をえぐり、代わりにその心臓を埋めれば……その呪われた生き物のごとく永遠に生き長らえる事が出来るという――
 カリルの脳裏に、再び司祭の言葉が甦る。
 そう、目の前にいるのは、そんな生き物なのだ……。
 彼女は思わず、息を呑んだ。
 目の前に、まるで聖女のように優しげな笑みを浮かべる女。けれどその身は血で穢れ、その心臓にはあやかしの闇の時を渡るだけ力があるという。
「あなた次第よ、カリル」
 まるで囁くようなその声が、静けさの中に響き渡り、カリルの心の奥底へと響いていく。血に汚れた彼女のたおやかな指先が、椅子の上に置かれたナイフを取って……それを再び、カリルの手に握らせる。
 やさしく、包み込むように。
 その手が、カリルの手を取って。
 握らされたその切っ先が、まっすぐにアーシアの心臓を狙っていた――。
「……アーシア」
「何?」
「あなたは、ここで死ぬつもりなの……?」
 その問いに、アーシアは何も答えなかった。ただ微笑んで……そして少女を、促した。
「さあ」
 カリルは目をつむって、ナイフに力を込めて……。
 その切っ先が、アーシアの身を切り裂いた。




     2

 その闇は、ただ静かだった。
 目を開けても闇。再び閉じても闇。そんな、漆黒の暗闇。そんな暗い静寂の世界に、少年は横たわっていた。
 そこが、死の世界なのだと少年は思った。
 なんと暗く、冷たい世界であるか……! 最初はそう思ったものの、徐々に目が慣れてくると、そこはそれほどまでに人を惑わす深い闇でもない事が分かった。なんとなく肌寒いのも、単に夜の冷え込みに過ぎない。
 天窓から差し込む、月の光。
 その柔らかい光に、少年は見入っていた。
 死んではいない……そう、少年は死んでなどいなかった。
 ゆっくりと身を起こして、周囲を見渡してみる。
 見れば、そこは見慣れた礼拝堂の中だった。ただ夜の闇に包まれただけの、勝手知ったる場所。
 気がついてみれば、彼はずっと長椅子の上で眠っていたらしい。上体を起こし、床に足をつく。
 記憶は相当に混乱していた。自分がなぜそこにいるのかも思い出せない。自分はそれ以前まで、一体どこにいたのか……そこではないどこかには違いなかったが、そのどこかが思い出せなかった。
 ふと、気付いてみれば。
 寝汗でもかいたのか、妙に肌がじっとりとしていて気持ち悪い。特に、左の胸に何か張りついているような、そんな違和感を覚える。
 触れてみれば、左の胸から肩にかけて、何故か少し濡れていた。
 鼻腔をつく、微かな匂い……錆びた鉄のような、そんな匂いだ……。
 気がついてみれば、濡れているのはおのれの胸ばかりではない。椅子の周囲や、床も濡れているのが分かった。
 水などではない……これは、なんだ……?
 不審に思った少年は、指でそっと触れて、舌先でなめてみた。
 血の味がした。
 何だか嫌な予感がして、その場から立ち上がる。慌ててそこから離れ、椅子の回りを見やった。
 ぼんやりとした月明かりの下……そこが赤く濡れているのがわかった。
 嫌な胸騒ぎが、やまない。
 見れば、礼拝堂の入り口の扉が、大きく開け放たれていた。今が夜のいつ頃なのか、少年にはまったく見当がつかない。戸口に駆け寄って、彼は月を見上げた。
 まぶしいくらいの月明かりが、静まり返った村を照らし出していた。
 何故だろう。何故こんなにも、胸騒ぎがするのだろう……少年は自問する。
 そう言えば、身体が軽い。
 たった今、わずかに数歩歩いただけだったが、森の中を駆けずり回っていたあの時に比べれば、びっくりするくらいに身体が軽く動くのを実感していた。一体、自分の身に何があったのか……。
 いや、待て。
 さっきまで……そう、確かにさっきまで、自分は森の中を駆けずり回っていた。何かそうしなければいけない理由があったのだ。
 不意に――。
 静寂を、声が破った。
 少年は思わず振り返る。その声は、別に少年の名を呼んでいるわけでも、そもそも意味のある言葉が発せられたわけでもなかった。
 すすり泣く、か細い嗚咽。
 それが、礼拝堂の中から響いて来ていた。
 少年は戸口から引き返して、その声の主を探す。その足取りの一歩一歩の、その軽さが心地好かった。
 祭壇の前……長椅子の最前列に、その少女の姿があった。
「……カリル?」
 その名前が、すうっと口から滑り出てきた。
 名を呼ばれた少女は、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
「……イーヴ?」
「カリル、どうしたの」
 少年――イーヴはそう言って少女を問い正す。
 その少女の手が、血で真っ赤に濡れている事に、イーヴはその時になって初めて気付いた。
「……カリル!?」
 驚きを隠し切れないイーヴを、カリルはただ黙って見上げていた。
 やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
 天窓から差し込む月明かりが、彼女の姿を浮かび上がらせた。
 カリルの全身が、真っ赤に染まっていた。
「……!」
 驚愕に目を見張ったイーヴ。そんな少年に向かって、彼女は無言のまま、ゆっくりとその足を踏み出した。
 右手には、血にまみれたナイフが握られていた。
 そして左手には……得体の知れない赤黒い物体が、しっかりと握られていた。
 ひたひたと聞こえて来る音は、そのかたまりから水滴が落ちて、床にしたたり落ちている音だろう。
 顔を上げたカリルの目が、イーヴを捉える。
 カリルの右手のナイフがするりと滑り落ちる。それは床に転がって、からりと音を立てた。
「カリル、それは一体……」
 血まみれのナイフ。血にまみれた少女。血にまみれた自分自身。
 一体、何があった?
 混乱を覚えるには、あまりにも充分過ぎる材料が揃っていた。 
 イーヴは困惑しつつも、何気なしにおのれの胸部に手をやる。血に汚れたその位置に……まったく身に覚えのない傷跡のようなものを探り当ててしまった。
 困惑する彼を前にして、彼女はその赤黒い物体を、両手で大切そうに抱えたまま、ゆっくりとイーヴの前に差し出した。
 その、物体……イーヴの目には、それが何かの肉片のように思えた。
「カリル……それは一体」
「あなたの心臓よ」
 そう言い切った彼女の目は、うつろだった。
 その口調こそしっかりとしていたが、その目は震えていた。
 イーヴは少女の眼差しを、まっすぐに見据える。カリルの目は、涙で揺れ動いていた。
 イーヴは……少年はゆっくりと進み出て、少女が差し出したそれをまじまじと見やる。
 そう、それは確かに肉のかたまりだった。それは未だ鮮血に染まって、少女のか細い指先を真っ赤に染め上げていた。
「それが、僕の心臓なら……僕はどうやって生きている? それとも僕は、幽霊か何かなの?」
「イーヴ。あなたのお父さんが、地下室であなたに言ったこと、覚えている?」
「……?」
「不滅の心臓を持つ、あやかしの生き物の話」
「……」
「……アーシアは、もう行ってしまったわ。最後にやり残した事があるって」
 カリルは一体何を言おうとしているのか……。少年には、何が何だかさっぱり分からなかった。何故そこで、アーシアの名前が出てくる?
「最後にって……彼女がここにいたの?」
「多分……もう帰って来ないと思う」
 そう言ったカリルの目から、大粒の涙が、ついにこぼれ落ちた。
 その指先から……グロテスクなかたまりがずるりと滑り落ちていく。
 それを見やりながら、イーヴはおのが左胸の傷跡に指を這わせた。
 真新しい傷跡。だがそれは、もはや完全に癒着しつつあった。縦に大きく裂けた傷跡。
 その奥に埋まっているもの。
 ――少年の脳裏に浮かんだのは、おのが父親を真っ二つに引き裂いた、あの生き物の姿。
「……彼女の心臓が、僕の身体に?」
 呆然と呟いた言葉。それに答える声は無かった。カリルは何も言えずに、ただじっとその場に立ち尽くしていた。
 少年の胸に、何故か不安がいっぱいに広がっていく。
 心臓を失ったはずのアーシアは、何故ここにいない?
 彼女は未だその命の灯火を消せぬままに、夜の世界をうろついているという。一体、何のために……?
 やり残した事とは、一体何だ――。
 その瞬間、少年の足は動いていた。
「……どこへいくの?」
 カリルが、今にも泣きそうな表情で問いかけてくる。不安でいっぱいの彼女は、イーヴにここにいてくれと、無言のままに訴えかけていた。
「地下室だよ」
 その訴えを無視するように、少年は短く答え、足早に歩き出す。礼拝堂の奥、物置へ。その地下へ……。
 そんな彼の後ろを、カリルがおろおろと不安そうな眼差しのままについてくる。
「どうして……? 今更、あんな場所に何の用あるの?」
「母さんだ」
「……お母さん?」
「……父さんは、その最期に確かに言った。母さんを頼む、って」
 母を頼む……そう、引き裂かれる寸前に、彼の父親は確かにそう告げた。それが、彼の最後の言葉だったのだ。
(母さんを頼むって、一体何を僕に……)
 不思議だったのは、父の無残な死に関して、今に至るまで少年の心が平穏をかき乱される事がなかった、という事だった。
 父が死んだのなら、あの地下室は。
 あの、母の亡骸は。
(一体、どうなっている……?)
 物置の戸を足早に潜り、地下への扉を探る。
 重いその扉をその細腕で一気に持ち上げたイーヴは、そのまま地下へ続く階段へと足を踏み入れた。




     3

 カリルはそんな一連のイーヴの行動を、何が何だか分からぬままに、見守るより他になかった。
 自分が、イーヴに対して何をしたのか……。
 そう、二人の人間の胸をこじ開けて、心臓を二つもえぐり出したのは、彼女自身の所業だった。
 その感触は、まだその手の中に残っている。おのが手を血に染めた罪悪感が、血と一緒にいつまでも拭えなかった。
 そして……彼女が望んだ通り、少年は再び息を吹き返した。
 彼女が望んで止まなかった結果が、確かに導き出されたのだ。
 本人は気付いているのだろうか……新たな心臓を得たイーヴは、それ以前の弱々しい、頼りない彼ではなかった。驚異的な生命力を持つその心臓、その力を得て、彼はまさに生まれ変わったといっても過言ではなかっただろう……。
 ……そう、彼女の望みは叶えられた。
 イーヴのために、彼女が出来る事。それは、そこまでだった。
 少年が慌てて駆け下りていった階段を、カリルもおずおずと追って下っていく。
 下の部屋の壁は、相変わらず不思議な光を放っていた。けれど、前に来た時――考えてみれば、ほんの数時間前の話だ――とは違い、身を切るような冷気は幾分和らいでいた。
「イーヴ……?」
 階段を下り、その部屋に足を踏み入れる。
 そこに、少年は呆然と立ち尽くしていた。
「カリル」
「イーヴ、どうしたの?」
「あれを見て」
 イーヴが指さした先は、部屋の中央にあった祭壇のような台だった。そこには確か、イーヴの母の亡骸が横たわっていたはずだ。
 棺は、確かにそこにあった。
 けれどそこに、母の姿は無かった。
「……どういう事?」
「母さんを頼む……父さんは最期に、そう言い残した」
「……?」
「朝になれば、ここは村の皆に見つかってしまう。そうなれば、父さんがここで何をやっていたのかが知れ渡ってしまう……。そうなれば、アーシアは自分の罪を晴らせるんだ」
「でも……でも、遺体が無いと」
「そうだ。母さんの遺体さえ無ければ、確たる証拠は他に何もない……何かないのかな?」
 イーヴはそう呟いたまま、考え込んでしまう。
「もしかしたら……ねえ、カリル」
「……何?」
「もしかしたら、アーシアが持ち出したのかも知れない。最後にやり残した事があるって、まさかこの事なんじゃ」
 そうだ……アーシアは、イーヴに先んじて父の奇行を知り得た唯一の人間のはずだ。その彼女は、父の罪を疑う少年に対して、父を信じろと告げたではないか。
 まさか……おのれ自身を追い込んだ司祭の罪をかばうために、母の遺体を処分しに森へと戻っていったのだろうか。
「それは、ちょっと違うと思うけれど……」
 ぽつり、と呟くようにカリルが言う。
「何故?」
「私は、あの人が森へ出ていくところをこの目で見ているのよ? 地下室の事は確かに話して聞かせたけれど、あの人はまっすぐに森へ出ていってしまった……こんなところには、立ち寄ってはいないはずよ」
「それじゃ……それじゃ、一体誰が母さんの遺体を持ち出すのさ!」
 イーヴは思わず声を荒げてしまう。カリルが顔をしかめ目を背けるのを見て、自分の態度に少しだけ後悔する。
 その気まずさをごまかすように……少年は、部屋中をじっくりと見回す。
 部屋の一方の壁の側にある書きもの机。その側にある戸棚には、何やら正体の知れない薬品の入ったビンや、いろんな容器が並んでいる。
 無言でそれに見やるイーヴ。その沈黙に、カリルは耐え切れない思いを感じていた。
 カリルは思わず身を震わせた。寒いわけではない。今この場所で、この村で、何かとても得体の知れない事態が起こっている……そして、自分達――少なくとも彼女の側に立っているこの少年が、おそらくは一番の当事者であるらしいのだ。
 そのイーヴは、机に近づいて、上に散らばっている紙片に目を通し始めた。
「……何かのメモみたいだな」
「メモ?」
「父さんはここで、母さんを魔導の力で、禁じられた秘術で蘇らせようとしていた。その実験の、メモだと思う」
 メモをかき分けたその下から出てきたのは、一冊の古びた書物。魔術書か何かだろうか。開かれているページに、イーヴは目を通す。
「……ひょっとしたら」
「……?」
「僕が思っていた以上の事に、なっているのかも知れないな……」
 まるで独り言のように呟いたイーヴは、そのまま考え事をするように、壁の一点を見入っていた。
 その表情が、見る見るうちに青ざめていく。
「……もしかしたら」
 口の中で呟くようなその言葉を、カリルは聞き逃さなかった。
「ねえ、カリル」
「何?」
「アーシアは……確かに、まっすぐに森を目指したんだね? ここには立ち寄っていないんだね?」
 その問いに、カリルは無言で肯いた。その彼女を、イーヴは真正面から見据えた。両肩をがっちりと抱えて、しっかりと言い含めるように彼女に告げた。
「カリル、君は今すぐに家に帰るんだ。今日あったこと、今日見たもの……全部無かった事にして、忘れてしまった方がいい」
「イーヴ……あなたはどうするの」
「僕は……僕も、やり残した事がある」
 イーヴはそう告げると、地下室を飛び出していった。
 階段を駆け上がっていく足音。その音が、徐々に遠ざかっていく。置き去りにされたカリルの胸は、いつまでも不安に高鳴っていた。