月があなたと踊る夜 9
作:ASD





第八章(前編)




     1

 夜はまだ、漆黒の闇の中にあった。
 まるで、光という光の存在が否定されたその世界の中を――森の中を、少年はただひたすらに疾走していた。
 行く先は、少年自身も知らない。
 目に見えない何かが、彼を導いているかのようだった。
 以前、森の中で亡骸を見つけた時のように。カリルの姿を求めて、ぼろぼろの身体を引きずって歩いたほんの数時間前のように――。説明出来ない何かが彼の行く末を定め、導いていたのだ。
 だから、少年はその内なる声に従って、ただ走り続けた。
 今の彼には、新しい力があった。
 その胸で強く躍動する、新しい心臓。
 急がなければならない。間に合わなければならない……そんな焦る気持ちに応えるだけの力が、彼の内にみなぎっていた。
 それは、かつて無い高揚だった。
 肉体が、躍動している。四肢の弾けるままに任せ、ただひたすらに疾走する。まるで少年自身、夜の森を駆け抜ける風とひとつになったかのような、酩酊感にも似た不思議な気持ち。
 もう少し。そう、もう少しだ――。
 説明しようのない内なる感覚が、その時の到来を告げていた。




 アーシアは、もう走るのを止めていた。
 どのみち、それだけの余力がすでに残されてはいない。
 人と似た姿をしていても、それは人の目を欺くかりそめの姿に過ぎない。半身を裂かれ四肢を失っても、なおも命を失わないだけの脅威的な生命力を持った、異形の存在――それが、彼女だった。
 そんな命の灯火が今、消えつつある――それを彼女は実感していた。当たり前だ。不死の力の源たる心臓は、今はもう少年に分け与えてしまったのだから――。
 だから。
 今は、そこに残した遺恨を、取り除く事だけに専念すればいい。
 それを取り除いてしまえば、彼女は安らかに眠る事が出来るのだから。
「隠れていないで、出て来たら?」
 柔らかい、優しげな口調。彼女は森の木々の向こうの闇に、そんな言葉を投げかけた。
 それはまるで、黒く塗り潰したような闇だった。
 その向こう側――その闇の中に、アーシアの目はその姿を見出していた。
 当てずっぽうに誰何しているわけではない――追っ手である彼にも、それは分かっていた。
 どのみち、いつまでも隠れているわけにはいかない――そう判断し、彼は傷ついたあやかしの獣の前にその姿を晒した。
 天を仰げば、生い茂る木々の枝葉の間から、月明かりが漏れていた。
 その光に照らされて、男の巨躯が浮かび上がる。
「……ロシェ・グラウル。やはり、あなただったのね」
 アーシアはそう言って、その目を曇らせた。
 姿を現したのは、筋骨隆々たる威丈夫だった。背中には、その体格でなければ振り回すこともままならないであろう、幅広の大剣が背負われている。
 アーシアの言葉の意味を、ロシェは別の意味に取った。
「おいおい。まさかあんた程の人が、追っ手の正体を今の今まで知らなかったわけじゃあるまい?」
「まさか」
 そう言って、アーシアはうっすらと微笑みを浮かべる。子供達に向ける優しい笑みとは違う、やや険のある挑発的な笑み。
「思い出していたの。あなたが何者なのか――その顔、その名前、確かに私の記憶の片隅に残っていたはず」
 そう――墓地で見せた拒絶の態度は、そんな記憶ゆえのものだったのだろう。漠然と感じていた疑惑。それが、今この森において、彼女の中で確信に変わっていた。
「それで、思い出してもらえたのかい」
「多分ね――ロシェ・グラウル。本当に呆れた男。こんな所まで、クラヴィスと私を追いかけてきたのね」
 クラヴィスの名を聞いて、ロシェはつい笑みをこぼしてしまった――そう、彼が何のためにこの地を訪れたのか、ようやくアーシアにも知れてしまったようだった。
「そうする価値は、充分にあるはずだろう?」
 そういって、ロシェはにやりと笑った。
 周囲を見れば、彼の他に追っ手の姿はただの一人もなかった。
 今頃、村の男達は捜索の手を森一面に伸ばしているはずだった。……とは言え、森は広い。数十名の村人では、完全に捜索を行き渡らせるのは困難だったろうか。それとも、村近くのこの内の森に彼女の姿を見出せずに、再び外の森へと足を伸ばしていったのだろうか。
 何にせよ、二人のいるその場所は奇妙なまでに静かだった。
「……彼らをまいて、一人で私を追って来たのね」
「あんたは闇雲に逃げるような事はしない……そう思ってね。こっち側で張り込んでいた甲斐があった」
「村人達は?」
「外の森だろう、多分――まったく、連中も元気なものだぜ。一人じゃなんにも出来ねえくせに――ま、寄り集まった所で何が出来るわけでもないがな。お前さんを見つけて、吊るし上げようって息巻いてやがる」
「私を殺すのが目的なら、あなた一人だと少し不利ではない?」
「馬鹿言え。俺の用事は、お前さんを倒した後にあるのさ……連中に、邪魔されたくねえからな」
 そう言って、ロシェは再びニヤリと笑った。
 アーシアはその下品な笑顔に、嫌悪感を覚えた。そんな不快な思いを覆い隠して、作り笑いを浮かべる。
 そう、彼はまだ気付いていない……血まみれの彼女の身体に出来た、一番新しい傷の事を。彼女の身体から失われた部品があることを。
 何も知らずに、獲物を追い詰めた肉食獣を気取って、粗野な笑みを浮かべる男。
 その笑みを以前に見たのは、いつだったか――。
 そう、あれは奥辺境での話だ。
 奥辺境……彼女が潜んでいた人外の秘境。高山地帯のその奥で、アーシアは彼らと遭遇した。
 出会いそのものは、特別ではなかった。今までそうやって、何人もの愚か者が、無謀にも奥辺境に足を踏み入れ、彼女に挑みかかって来たのだ。
 不死の心臓。
 永遠を約束する、生命の源。
 ただ規則的に脈打つだけの肉のかたまりを求めて、多くの人間が遠い異郷の地でその命を散らせていった。
 いや……ただ無為に命を落としたのではない。彼らは皆、アーシア自身がその爪で引き裂いてきたはずではなかったか。
 そう、その爪で、幾多の血を流して来たのではなかっただろうか。
 それに罪悪感を覚えたことは一度たりともなかった。心臓を奪うという事は、彼女の命を奪うという事。彼女はただ、おのが身を守ってきた。ただ、それだけの話。
 そしてその日――幾多の愚か者とまったく同じように、彼女の目の前に現れた二人の男。
 今目の前にいる、粗野な笑みを浮かべる大男の姿がそんな記憶の中にあった。
 ――そう、あの時、彼と一緒にいた男だ。
 大剣を振り回し彼女に迫る大男。その後ろに静かに佇む、線の細い印象の若い青年。どこか陰のある、そのシルエット――。
 特別ではない? そんなはずはない。彼女自身、その時に何か予感を覚えていたのかも知れない。おのれの命を奪いに来た、その青年との出会い――。
 目を閉じれば、いつだって思い出せる。
 クラヴィス。
(君の心臓が欲しい)
 何故、そんなものを欲しがるの。心臓なんて、貴方も持っているでしょうに。
 何故に人間は、自分がすでに持っているものを殊更に欲しがるの……心臓に限らず、貴方にもこの私にも、運命は等しく、お互いにふさわしいだけの時を与えてくれているはず。なぜ、それで満足しようとしないの――
 僕の心臓は、いずれ止まってしまうだろう。君の時間のみならず、僕達の時間から見てそれはとても短い間の話だ。――永遠とは言わぬ、せめて余人と同じだけの時間が、僕にもあれば――
(クラヴィス)
 目を閉じれば、いつだって――
「あの時は、すっかりクラヴィスの奴に出し抜かれちまった。覚えているか? お前さんは俺を、あの谷底へと思いっきり蹴落としてくれた……まったく、いい蹴りだったぜ」
「……ええ、覚えているわ」
 忘れていた感覚が、甦ってくる。懐かしい思い出とともに、もう一人の彼女が甦ってくる。
 獣としての彼女が、甦ってくる。
(不思議だ。心臓はもう、この私の身体を離れているというのに――)
 残された余力は、僅かだろう。その余力で、目の前の愚かな生き物を狩れと、目覚めた本能が告げていた。
 引き裂いてしまえ。
 声が、囁く。
「あそこで俺が果てたと思ったか? ま、あの高さじゃな。奥辺境のあんな奥地に置き去りにされて、そりゃ腹は立ったが、まあしょうがない」
「……」
「だが、命からがら王都へ戻ってみりゃ、どうだ? 奴は死んだなんていう噂も聞いたが、僧会の連中の話じゃ、あいつは嫁さんを連れて故郷の村に帰ったっていうじゃないか。病で死ぬとか言ってたやつが……」
「それで、私達を探し歩いた」
「おうさ。故郷の村ってのがどこかなんて事までは、僧会の連中に聞いても分からなかった。だから、辺境域の村をしらみ潰しに探し歩くしか無かったってわけさ」
「そして、この村にたどり着いた」
「クラヴィスは死んでやがった……だが、あんたが残っていた」
 ロシェ・グラウルはそう言って、目の前に立つアーシアを見やった。半ば闇に溶け込んだ、血に染まった細い身体。
「俺はな」
 ロシェは、なおも言葉を続ける。
「俺はてっきり、奴は無事にお前さんの心臓を手に入れたんだと思ってた」
「……」
「心臓を手に入れ、不死の生命を手に入れ、死んじまう運命を克服したのかと思ってた。嫁さんを見つけて、新たな人生を……だが、そうじゃなかった」
「……」
「奴はそのまんま、病で死んだ。だったら、残された嫁さんってのは一体何者なんだ」
「……」
「あの時はあんたの顔をじっくりと眺める暇もなかったからな。いざあんたと顔を合わせてみても、あの時の化け物かどうか、確信が持てなかった」
「それで、村人達に追い立てられて私が動くのを待っていたのね?」
「ああ、そういう事になるな。……なあ、教えてくれないか。何故この村に残った。こうやって連中にいずれ追い立てられる事は、目に見えてたはずじゃないのか。どうして、そのまま奥辺境に帰らなかったんだ?」
 それはどちらかと言えば、興味本位の質問だっただろう。アーシアはその問いには、何も応えなかった。
 ――離れられるわけがない。おのれ自身のすべてを賭けて愛した男が、眠っているこの土地を。
 彼女はただ笑みを浮かべて、こう告げた。
「……話しても、きっとあなたにはわからないでしょう」
「……いいさ。別に俺も、そんな答えに用事はない」
 そう言いながら、ロシェは背中に背負った剣に手を伸ばし、その刃をゆっくりと鞘から抜き放った。
 抜き身の刃が、月明かりを受けてぎらりと輝いた。
「お喋りはこのくらいにしておこうや。お互い、他にやることがあるはずだからな」
「そうね。確かに」
 仁王立ちのロシェの挑発的な視線を受け止めて、アーシアは微笑みを返した。




     2

 抜き放ったその剣を、ロシェはまっすぐに構えた。
 切っ先の狙う先は、血にまみれたアーシアの姿。見た目には傷だらけだが、そんなロシェを見返すその眼光は鋭く、油断は出来なかった。
(怪我の具合が、どんなか……だな)
 王国に敵無しと呼ばれ、ロシェですらその強さを認めざるを得なかった、あのクラヴィス。
 そのクラヴィスとともに、この化け物と相対したのが今から七年前。クラヴィスを片手であしらえるだけの力が、彼女にはあった。――むしろ、人外の化け物に追従する事が出来た、クラヴィスの剣技の方が信じられないくらいだったが。
(三秒で引き裂かれちゃ話になんねえぞ、ロシェよ……)
 自分に言い聞かせながら、ゆっくりと間合いを詰める。
 まさに、命を賭けた戦いだった。
(久しぶりだな、こんなのは……)
 剣を頼りに世を渡っていくという事は、常に自分の命を賭けてギャンブルをしているようなものだ。負けるリスクは常に付きまとって離れない。そんな勝負を、おのれの身一つで渡っていくのだ。
 そして、危うい勝負ほど、そこには心地好いスリルが伴っていた。
 おのが命を、自分でわざわざ危険に晒している。あまりにも愚かしい行為が、彼の感情を昂ぶらせていた。
 次の瞬間に、自分と言う存在は果ててしまうのかもしれない――そんな恐怖を、彼は久しぶりに感じていた。
 そう、それはかつて見られなかった大勝負――。
 そんな彼の目の前に立つアーシアは、立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
(俺の出方を窺っているのか――)
 迂闊に踏み込んで、殺されるのか――いや、ここで攻撃されるのを待っていても仕方あるまい。
 ロシェは、覚悟を決めた。
「てえいっ!」
 剣の重量を感じさせない一撃だった。切っ先が空を切り裂き、血まみれの怪物の頭上に降り下ろされる。
 次の一瞬、アーシアの姿が揺れた。
 動いた、というよりは、彼の網膜に映る像そのものが歪んだ、としか表現のしようが無かった。
 それはまさに生物の為す動きではなかっただろう。
(やばいか……?)
 感じた身の危険は、スリルを愉しむなどという範囲を逸脱していた。とは言え今更後には引けない。
 ロシェはその恐怖を打ち破るかのように、揺れ動く像に向かって立て続けに次の一撃を繰り出す。
 まるで、実体の無い幻覚を相手にしているかのようだった。
 横に凪いだ一撃を、アーシアはこれも素早くかわした。
 彼女の身体が、ふわりと沈み込む。
 瞬きをしている間もなかった。次の瞬間には、彼女の姿はロシェの懐深くにあった。
「……!」
 慌ててロシェは身を引く。アーシアの繰り出した爪が、紙一重の間隔でロシェの胸部をかすめた。
(かわせた……!?)
 自分でも少し意外だった。
 慌てて体制を立て直す。少し息が上がっているが、まだ状況を判断するだけの冷静さは残っていた。
(傷がよっぽど堪えているのか……動きにキレがねえ……) 
 それとも、アーシアという怪物の動き――その恐ろしさを、ロシェは過大評価していたのだろうか。
 考えている暇もなく、三度剣を振るう。
 アーシアの爪がそれを軽々と受け止める。……いや違う、身をかわす余裕が無かったのだ――。
(いけるぞ)
 ロシェの中で、それは実感となった。 
 受け止められた剣を引く間もなく、ロシェはアーシアの腹部に思いっきり蹴りを繰り出した。
 その細い身体に、無骨な革靴がめりこむ。
 アーシアは身をよじらせながら、後ずさりした。
 身を退いて、呼吸を整える。――そう、化け物は呼吸を乱していた。
 ロシェが見やると……今さっき彼が蹴り飛ばした腹部から、血がじんわりと流れ出していた。先の司祭との戦いで受けた傷が、今の蹴りで開いてしまったのだろうか。
 アーシアは、歯がゆさに耐えていた。
 罪人であっても、司祭は司祭だったということか。神に仕える者のつけた傷は、闇の住人たる彼女には癒すことが出来ないとでもいうのか。
 相対するロシェは、勝利を確信していた。
 剣を構え直し、アーシアをまっすぐに見据える。
 アーシアの息が荒くなっていた。いや――彼女はもはや、人間らしい落ち着いたたたずまいを保てなくなりつつあった。
 元はたおやかな白い両腕だったのが、今は隆々たる筋肉の浮かび上がる、鋭い爪に変容している。その整った顔立ちも、今はものすごい形相に変化していた。獣らしい変容というよりは、ロシェごときに遅れをとらざるを得ないもどかしさの現れであろう。
 ならば、時間を費やしてはいられない――
 彼女は、ここで雌雄を決するつもりなのか……再び、ロシェの心を恐怖がよぎる。
 どうせ、勝負は時の運――。
 ぶつかってみなければ、結果は分かりはしないのだ。
 ロシェの足が、地面を蹴った。
 化け物が、咆哮をあげた。
 その瞬間――何かが、茂みから飛び出していた。
「――!」
 ロシェは、それにすぐには気付かなかった。
 森の向こうから近づいてくる、白いぼんやりとした光――。それが、まっすぐに二人のいる場所を目指していた。
 目指していた、などという呑気なものではない。
 それは、すぐ目の前に迫っていたのだ。
「な――」
 なんだ、と言おうとしたが、声にはならなかった。
 次の瞬間、その近づいてきた何かが、ロシェの側面から思いっきりぶつかって来たのだから。身をかわしている暇など、ありはしなかった。
 あまりにも突発的な事で――不覚にもロシェは、その身に危険を感じる暇すらなかった。それだけアーシアとの対決に集中し過ぎていたという事か。
 いや、むしろぶつかったその「何か」は、あまりにも殺気や邪気といったものに乏しかった。意図的な攻撃を受けたというよりは、落石のような災害にでも見舞われたかのようなものだった。
 その「何か」ともつれ合うように、ロシェはその身を地面に投げ出した。
「くっそう、何だってんだ!」
 見れば、けものと化したアーシアも呆気に取られたような表情になっていた。真剣勝負を妨害するそれは、彼女にとってもあまりにも無粋なものだっただろう。
 何が起こったのか、とロシェは周囲を確認した。
 すぐに見つかるはずだった―― 何せ、それは自ら発光しているのだ。にも関わらず、それを視界に見出すのにロシェは随分と手間取ってしまった。
 そして、彼の目がそれを捉える。
 思っていたような光は、そこには無かった。光っていたそれの、その光は徐々に収束しつつあったのだから。
 ロシェは新たな危険を前にした、というよりは無粋な妨害者をどやしつけるような心持ちでそれに相対した。
「てめえ……!」
 罵りの言葉を吐こうとして、ロシェは言葉を詰まらせた。
 同時に、アーシアが奇妙なまでに呆気に取られている理由も、そこで明らかになった。
 そう、そこに立っていたのは……。
 そこに立っていたのは、まぎれもなくイーヴ少年その人であった。
「……おいッ! 何でてめえがこんな所にいやがる!」
 ロシェは思わず、怒声を張り上げてしまった。そういう詰問が飛び出す事自体、拍子抜けも甚だしい。
 とは言え……体格で言えば三回りも四回りも上回るロシェを簡単に弾き飛ばした事は尋常では無かったし、その上に――その上に、少年は「光って」いた。
 身体中から、ぼんやりと白い光を放っていたのだ。
「おめえ、一体……」
 問うても答えを返さぬ少年を前に、ロシェもまた呆然と立ち尽くすより他になかった。
 



     3

 ロシェもアーシアも、ただ呆然と少年を見やるより他に無かった。
 いや、呆気に取られているのは少年も同様だった。まさか、自分の身にこのような変化が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
 その不可思議な力で瀕死のカリルを救った事は、少年の記憶には無かった。自分の身にどんな力が秘められているのか、彼がそれを意識する事はこれまでに無かった事だったのだ。
 新たに手に入れた心臓は、少年のそんな力を、彼自身にはっきりと認識させていた。そしてその能力を、よりはっきりと具現化するだけの力を秘めていた。
 そんな力が今、発露していたのだった。
 そう――。
 その力こそ、少年をここまで導いた力なのだろう。実際その場所に、彼が求めていたアーシアの姿はあった。
 彼に心臓を託し、顔も合わせずに去っていった人。彼女を助けるために、少年はこの森に再び足を踏み入れたのだ。
「イーヴ……どうしてこんなところに」
「アーシア。僕はあなたを助けに来たんだよ」
「助けに……どうして」
 ロシェの前では冷静だった彼女も、少年の行動には驚きを隠し切れなかった。
 彼女を助けに。彼女が危機に置かれている事が、少年には分かっていたとでもいうのだろうか。
 ともあれ、傍目で見ているロシェには、それは何となく面白くない光景ではあった。
「おい、ぼうず」
「……?」
「その姐さんから離れろ。そいつは、化け物だぞ」
 そう言って、ロシェは切っ先を少年に向ける。攻撃の意志はない。ただぞんざいに、それで差し示してみせただけだった。
 その行動に敵意がない事は分かっていたのだろう。イーヴは何も応えずに、無言でロシェを見返していた。
 その無言が、ロシェを苛立たせた。
「おい、分かってんのか! そいつはお前の親父をぶっ殺したんだぞ!」
「アーシアには、指一本触れさせない」
 ロシェの怒声もまったく気にかけずに、少年は冷静に言い放った。彼の目は何の迷いもなく、ただまっすぐにロシェを見据えていた。
 その少年の真意が、ロシェには図りかねた。
「おい、坊主……邪魔をするんなら、お前でも叩っ斬るぞ?」
 それでも、少年は無言だった。
 ロシェは大剣を振り上げると、隙の多い大振りな一撃を少年の上に繰り出した。踏み込みも甘い。本気ではなく、ただの威嚇だった。
 イーヴは軽く飛び退いて、その切っ先をかわした。
 少年はロシェをじっと見据えたまま、ゆっくりとアーシアの前に立った。丁度、ロシェが彼女に向かっていくのを立ち塞ぐように。
 そのイーヴの背中に、アーシアの声が飛ぶ。
「イーヴ、逃げなさい」
「逃げるもんか」
 少年の声は、決意に満ちていた。
 ロシェは、そんな少年に向かって今度はまっすぐに切っ先を突きつける。
 その目は、本気だった。
「どけ、ぼうず。こやつの心臓は、俺のものだ」
「あなたのものにはならないよ。絶対に渡さない」
「な……?」
 ロシェにとって、それは意外な一言だった。
 つまりこの少年は、アーシアが人外の化け物である事を承知の上で、彼女を守るというのか――。
「……面白いな、小僧。司祭の息子ともあろうお前が、邪なるけだものを守って死ぬというのか」
「神は人の貴賎など問わない。ただその行いだけを見て、その罪を裁く」
「説教するなよ、小僧!」
 瞬間、ロシェの身体が動いた。
 鋭い踏み込みで、少年との距離を一気に詰める。その大振りな剣を軽々と振るい、その切っ先を迷わずイーヴの心臓に向けて叩き込んだ。
 本気で、少年を殺す気だった。
 だが、その刹那……。
 不意にロシェの視界が、真っ白になった。
「なに!?」
 前方に突き出されたイーヴの両手から、光がほとばしる。少年の口が、何かを呟いていた。
 ロシェにも多少は聞き覚えがある。それは聖句だ。
「小僧、俺を魔物のように浄化出来ると思ったか!」
 真っ白な光は、やがて青白い炎に変化していく。収束した熱気が、次の瞬間には爆発していた。
 炎が、ロシェの半身を包み込んだ。
 が、しかし。ロシェは魔物でも化け物でも何でもない、通常の人間である。そのロシェが、炎に焼かれる事はない――。
 はずだった。
「!」
 ロシェは瞠目した。その炎を割って、踊り出てきたひとつの影。
 それは本当に一瞬の事だった。その腕が、爪が、鋭利な刃物となってロシェの上に振り下ろされる。
「ぐあっ!!」
 悲鳴が響いた。
 アーシアの振り下ろした爪が、左の肩口を深々とえぐっていた。
 そのまま彼女は鋭い爪で、彼の身体を斜めに引き裂く。すかさずもう片方の爪が、まるで猛禽のくちばしのように、柔らかい腹部に襲いかかった。
 傷口から、どくりとあふれ出す鮮血。
「……!」
 声にならない悲鳴が、ロシェの口からほとばしった。
 アーシアの腕が、ロシェの腹部を貫通していた。
 新しい血にまみれながら、胸部を裂いた爪がすかさず彼の頭を鷲掴みにする。その長い爪に、ロシェの頭はすっぽりと収まった。
 アーシアはそのまま、ロシェの身体をゆっくりと掴み上げた。
 彼女の腕はまるで何か醜悪な別の生き物が寄生しているかのようだった。太い筋肉がしっかりとその機能を果たし、ロシェの重い身体をがっちりと支えていた。
 もがく彼のその手からはいつしか大剣は滑り落ちていた。自身の頭部をがっしりと掴む彼女の指を解きほぐそうと、必死になって腕を伸ばす。だが、アーシアはその巨大な手のひらに力を込め、ロシェをきりきりと締め上げていく。
 爪が、皮膚に食い込んだ。血のしずくが流れ出していた。
 指の隙間から垣間見える彼の表情が、苦悶と恐怖に歪んでいた。抵抗しようにも、そのための武器はすでに彼の手を離れていた。
 少しばかり、力を込める。
 メキ、と少し嫌な音が響いた。
 頭蓋の砕ける音だ。
 アーシアの指の隙間から、熟れた果実を握りつぶすように、赤黒い液体がぐずぐずとこぼれ出してきた。
 そのまま、バキバキとさらに嫌な音が響いて、彼の頭蓋は跡形もなく粉々に砕け散ってしまった。そのままロシェの身体は、アーシアの指をずるりと擦り抜けて、草むらの上にどさりと落ちた。
 それを冷ややかに見下ろして、アーシアは手の中に残された頭蓋の破片を、無造作に投げ捨てた。
 血のしずくが、彼女の指先から滴っていた。
「残念ね……長年の捜索の旅が、こんな形で終わるなんて」
 アーシアは、そんな冷ややかな言葉を、物言わぬ肉塊と化したロシェの上に投げかけた。
 彼の血肉は、どこか腐臭がして食欲をそそられなかった。あるいは、狩りのやり方は思い出しても、捕食の習慣はついに思い出せなかったのだろうか。
 終わった。狩りは終わった。
 遺恨は、無事にそこから取り除かれた。
 安堵の気持ちが、彼女の中にゆっくりと広がっていく。張り詰めた緊張の糸が、不意にほぐれた。
「……大丈夫?」
 そんな時……彼女の耳に入った、その言葉。
 そうやって心配げに言葉をかけてきたのは、イーヴだった。
 狩りの余韻は、まだその身体に残っていた。醜悪に変容した爪も半ばそのままだったし、どのみち彼女は血まみれだった。
 そんな風に半ば獣と化した風貌のアーシアを、少年は不安そうな目で眺めていた。アーシアを恐れているのか……いや、そうではない。
 少年の視線の先を見やると、先程彼の放った聖なる炎が、彼女の肩のあたりでまだちろちろと燃えていたのだ。
 けれどその炎も、次の瞬間にはかき消えた。
 アーシアはそんな少年を安心させようと、その表情を綻ばせたが……次の瞬間、彼女の身体ががくりと傾いた。
 足の力がふっと抜けた。……立っていられるのは、そこまでだった。
 彼女は地面に、がくりと膝をついた。
「……アーシア!?」
 少年は思わず駆け寄ろうとする。だが、膝をついたまま何とか倒れずに済んだアーシアは、そんな少年を制止する。
「だめ。……来ては、だめ」
 そう言った彼女の身体が、小刻みに震えていた。
 背中が、ひりひりと痛い。イーヴの放った炎が、彼女の身体に痛みを残していた。
「……大丈夫なの?」
 イーヴはそう尋ねた直後に、おのれの手を見やる。あれだけの光を放った余韻なのか、それとも今の今までまったく気付かなかったがこれが彼にとっての通常なのか、その手のひらがぼんやりと輝いている。その手でアーシアに触れる事は、やはりためらわれた。
 その時――。
 イーヴはふと視線を感じ、森の向こう側の闇に視線を走らせた。
 村の男達が、今しがたの騒ぎを見咎めて、集まってきたのだろうか……? そう思ったが、闇の中に少年が見出した人影は、たったのひとつだった。
 そもそも村人達ならば、血まみれのアーシア達を遠目に垣間見ただけで大騒ぎするはずだ。
 森の木陰の闇に、その白い影はぼんやりと立ち尽くしていた。
 真っ直ぐに、二人を見ている――いや、その人影の視線はイーヴ一人に注がれている……少年は何故か、そう直感していた。
 まるで、イーヴをこっそりと盗み見ているようだった。その視線に気付かぬままの少年を、そしてようやくそれに気付いていぶかしむ様子を、まるで楽しんでいるかのような視線。……そんな視線を、イーヴは感じていた。
 恐る恐る、視線の主を見やる。
 そこに……その暗闇のなかに、それは立ち尽くしていた。
 月明かりの下に、その人影が一歩、足を踏み出す。
 浮かび上がってくる、青白いまでに真っ白なその姿。豊かな黒髪が、風にそよいでなびいている。
 まるで、踊るように優雅な足取りで……その細身のシルエットが、イーヴの前に進み出てきた。
 イーヴは息を飲んだ。
 目の前の女性が、ゆっくりと口を開く。
「やっと会えたわね、イーヴ」
「……母さん」
 目の前に立つ母の優しげな微笑みに、イーヴは戦慄を覚えていた。