月があなたと踊る夜 10
作:ASD





第八章(後編)




     4

 月の明かりは、木々の隙間から優しくこぼれ落ちてきていた。
 その明かりの下に浮かび上がった、ほっそりとした、たおやかなシルエット。彼女はどこか焦点の合わない眼で、少年を見据えていた。
「母さん……どうして」
 少年の目は、驚愕に見開かれていた。当たり前だ。彼女はここにいるはずのない人間なのだから。
 半年前。冬の王都。あの寒い朝――。
 ――いや、数時間前に、少年はあの地下室で、確かに母の亡骸を目の当たりにしたはずだ。まるで生きているような保存状態のその亡骸だったが、死んでいたのは確かだった。
 その、はずだった。
 思いが揺らいでいた。まるで生きているような――?
 そう、その死体はもう一度地下室に足を踏み入れた時には、どこかへ消え失せていた。
 誰が持ち出した?
(イーヴ……母を頼む……)
 父は、最期にそう告げた。頼む――何を頼むというのか。
 その瞬間に、イーヴは父の最期の言葉の意味を理解した。
 そう。父はその歪んだ研究において、すでに結果を……結論を見出していたのだ。彼の最後の遺言は、途上に果てた研究の後始末などではなく――文字通り、目の前に立つ母の身を頼むと、そう言ったのではなかっただろうか。
(父さんは、とっくに実験に成功していた……母さんを、蘇らせていたんだ……)
 信じがたい事実。
 だが、それが事実だった。
 そう自分に言い聞かせる少年に向かって、目の前に立つ女は微笑みを投げかけた。その微笑み、その立ち姿……それは確かに、かつてイーヴが母と呼んだ女性とそっくり同じであった。
 同時に。
 同時に、恐ろしいくらいに、とてもよく似てた。
(アーシア――)
 少年はおのが目を疑った。
 母の面影を、長く忘れていた。別れを告げて半年、彼は努めてその記憶を忘れようとしていたのかも知れない。
 目の前に立つ女性と、彼の後ろで崩れ落ちるアーシア。その両者の面影がだぶって見える。少なくとも、少年の目にはそう映った。
 髪の色も違う。目の色も、目の前に立つ母は少年と同じ茶色だ。それでも、二人はどこか似たような佇まいをしていた。まるで、傷つき果てたアーシアに変わって、新しいアーシアが姿を見せたような――。
(それで、どうして今まで気付かなかったんだろう――)
 そう……今の今まで、その事に気付かない振りをしていたのかも知れない。
 事実、地下室で眠る――今から思えばそれはまさに眠っていただけだったのだが――母の姿を見て、カリルはなんと漏らしたか?
(ねえイーヴ、この人って――)
 アーシアではないのか――彼女はそう言おうとしていたのでは無かったか。
 ちらりと振り返れば、当のアーシア本人は膝をついたまま、立ち上がる事が出来ずにいた。まだ意識はあるのか、この場に現れた第三者を無言で見やっている。
「イーヴ」
 不意に――。
 彼の名前を呼ぶ声がした。
 血を流し倒れるアーシアではない。向こうから、ゆっくりと近づいてきている方のアーシア。
「イーヴ」
「母さん……」
 喉の奥がからからに渇いている。震える声で、その名を呼ぶ。
「……母さん、なの?」
「そうよ、イーヴ」
 そう言って、もう一人のアーシアは微笑みを浮かべた。その笑みまで、アーシアにそっくりだ。
 けれど、彼女はアーシアではない。
 そして、彼女はまともな存在ですらないのだ。アーシアとて人の世に馴染まぬ闇の生き物ではあっても、この世界の片隅に存在を許されている事には違いはない。
 だが……だが彼女は、死の世界からの帰還を果たした、世界を支配する法則のひとつに真に背いてしまった、そんな呪われた存在――死人なのだ、彼女は。
 そんな彼女が、優しげな笑みをたたえながら、ゆっくりとイーヴに近づいてくる。そう、まさに手を伸ばせば届く距離まで……。
「イーヴ、私に会えて嬉しくないの?」
 不意に、彼女が問う。
「母さん、僕は――」
「私は嬉しいわ。あなたにもう一度会えて。父さんも、私との再会を喜んでくれた」
「……」
「そうよ。私はあなたに会うために、この地上に戻ってきたの。あなたのために――」
「何でだよ。何で戻って来たりしたんだ!」
 イーヴは――。
 彼は不意に声を荒げて、身を退いた。まるで、母を拒絶するかのように。
 少年は、母を見ていなかった。
 少年は、自分がどこにいるのかも、見ていなかった。
 少年の目に映っていたのは――。
 彼が見ていたのは、あの寒い冬の朝。
 そう、確かに彼女は息絶えたのだ。
 病は、彼女の身体を蝕んで、彼女を傷つけていた。
 苦しみに耐えられずに、幾度も幾度も死にたいと漏らす母。
 その声を、少年はいつも耳にしていた。
 毎晩毎晩、彼女の部屋から夜ごと聞こえてくるあの音――壁を越えて響いてくる声。苦しみもがき、神を呪詛し、死を渇望する、あの絶望に満ちた呻き声――。
 耳を塞いでも、その声だけが耳に響いた――。
「――そうね」
 彼女は、ゆっくりと口を開く。
「確かに、私はそう言った。あの苦しみは、想像を絶するものだった」
「……」
「そうやって、病に苦しんで果てるのが、神様が私に課した運命だったのでしょう。私は愛する息子に看取られて、愛する夫とも別れを告げた」
「……止めてくれ」
「代償は払ったのよ。神に祝福された存在であった私は、まるで神に疎まれているかのように罰を受けたわ。でも、その罰はどんな罪ゆえの罰?」
「……もういい、やめてくれよ」
「だから、私は堕ちた。神の教えに背くやり方で、この世界にもう一度生を受けた。いいえ――いいえ、私はその死に方すら、神の意志に添うたものではなかった」
 母の言葉に、イーヴはただ耳を塞いだ。
 聞きたくなかった。
 彼女の口から、そんな言葉を聞きたくなかった。
 真実を、聞きたくなかった。
 それを、認めたくなかった――


 あの冷たい冬の日。
 彼女の死を看取ったのは、少年だった。
 病にその身を蝕まれ、苦しみ抜いた末の死。
(そうだ、あの日僕は――)
 まだ日も暗いうちだった。
 母の部屋の、その隣で眠る少年の耳に、その言葉は届いた――。
(僕は――僕はただ、母さんが一人で不安だったんだと思って――)
「様子を見に来たあなたに、私が頼んだのよ。だから、あなたが気を揉む必要は一切ないの」
(でも――でも、手を下したのは僕だ)
 寝台のすぐ隣に立って、少年は母の頭の下に手を差し入れ、枕をそっと取り上げて――。
「その苦しみなんて、大した事なかった。発作の苦しみ、痛みに比べれば、そのくらいの息苦しさなんて――」
 そうだ。それは本当に呆気ない出来事だった。
 発作で苦しむ母のその顔に、
 僕は
 その枕を
 そっと押し当てて――
 

(お願いだ。お願いだから僕を恨まないで。僕は最期までずっと見ていたんだ。母さんが、息が出来なくなって苦しそうにもがき出して――)
(でもそれは、とても弱々しいんだ。僕の手を取って振りほどこうとしたけれど、それ以上母さんは何も出来なかった)
(何も出来なかった母さんを、僕は――)
 僕は――。


 やがて、彼女がぐったりと身動きをやめるまでに、そう長い時間はかからなかった。
 少年は、母が息絶えたのを確認すると、急速にその温度を失っていく手を握り締めたまま、朝までずっと側に寄り沿っていた。


(それきり、忘れる事にしたんだ。なのに――)


 なのに、母は目の前に立っていた。
 父が施した呪われた秘術によって、彼女は呪われた存在として彼の前に戻ってきたのだ。
 過ぎし日の、忌まわしき思い出とともに。
「イーヴ……」
 彼の名を呼ぶ声が、また聞こえた。
 もう僕の事は放っておいて。
 罪は、罪として認識している。だから、それ以上僕を責めないでくれ。
「イーヴ……ねえ、イーヴ、聞いて……」
 ちょっと待て――。
「……アーシア?」
 その声は、後ろから聞こえていた。
 振り返ると、彼の背後でうずくまっている虫の息のアーシアが、彼をじっと見据えていた。
「アーシア……?」
「イーヴ。気をつけなさい……彼女は、在りし日の彼女じゃないわ。同じ姿を持ち、同じ記憶を持ち――けれど、彼女は、あなたのお母さんなんかじゃない。暗き地の底からやって来た、私と同じ呪われたけだものよ」
 その言葉に、イーヴははっとしながら母を見やる。
 待て――母は今こうやって、呪われた身となって目の前にいる。
 だったら――だったら、父は何故、カリルを殺そうとした?
(必要な犠牲……父さんは確かに、そう言っていた)
 それは死体の代わりに、カリルを殺して臓物を奪ったりするのだと思っていた。
(違う……そんな意味じゃない……)
 その時――。
 アーシアが、よろよろと立ち上がろうとする。
 糸の切れた操り人形のような、ぎこちない動きだった。身をよじるごとに、脇腹の傷口から血がどくりと溢れ出してくる。
「アーシア!」
「イーヴ、よく見て」
 彼女は結局、立ち上がれずにもう一度膝をつく。弱々しく血に濡れた右手を持ち上げて、まっすぐにイーヴの母を指さした。
「見せなさい……」
 その声が、何事かを彼女に告げる。
「見せなさい。その両手を、あなたの愛しい息子に見せてあげなさい。そして――そして、あなたが行った所行を、息子の前に告白しなさい!」
 母の表情に、不意に陰りが差した――
 無言のままに、彼女はゆっくりと両手を差し出す。言われるがままに……。
 白い肌。たおやかな細い指先。
 その両手が、どす黒い血に濡れていた。
 イーヴは、息を呑んだ。
「――母さん――!」
 イーヴは戦慄した。差し出された母の手の、赤い汚れ。渇いた血ではない。それは明らかに鮮血だった。血のしずくが、彼女の足元にぽたりぽたりと落ちている。
 不意に風が、微かな死臭と血の匂いを運んでくる。アーシアの血に紛れて、その匂いに今の今まで気付かなかったのだ。
「……その血は、誰の血なの」
「ぼんやりと森をうろついている連中が、何人かいたわね」
 悪びれもせずに、彼女はそう答えた。
「僕が森で見つけた死体、あれも母さんがやったんだ――」
「あれを見つけたのはあなただったの? 余計な事を……後の愉しみにと残しておいたのに」
 そういって彼女は、凄惨な笑みを浮かべた。
 イーヴは、そんな母から目を逸らした。
 見ていられなかった。
 そんなイーヴに向かって、彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。
「さあ、イーヴ、行きましょう」
「……? 行くって、どこへ?」
「この村を出るの。あなたと、ウォーレンと、私とで。実験が成功した以上、こんな村にもう用事は無いわ」
 そんな母に、少年は震える声で告げる。
「母さん、知らないのかい? 父さんは死んだよ」
「何ですって……?」
 彼女が、ピタリと足を止めた。
 いぶかしむような視線を、おのが息子に投げかける。まるで睨みつけるようなその視線に、少年は不快感を覚えた。
 その時だった。不意に少年の背後から声が飛んだ。
「私が殺したの」
 静かな、それでいて鋭い口調。力強くは決してなかったが、そこに迷いは見られなかった。
 イーヴは、恐る恐る振り返った。
 そこに、他に余人のいるはずがない。虫の息のアーシアが、まるで挑みかかるような視線でイーヴの母を睨みつけていた。
 彼女はなおも、言葉を続ける。
「司祭ウォーレン・ウィルフリードを殺したのはこの私。彼は子供達に刃を向けた。だから、殺した」
「……」
 イーヴの母は無言だった。だがその目には、見る見るうちに怒りの色が浮かんでくる。
 何も言わず、ゆっくりと歩き始める。イーヴに向かって――アーシアに向かって。
「あの人を……殺した? あなたが?」
「彼は神に仕える身でありながら、神の名の元に許されることの無い大罪を犯したのよ。罪のない子供に凶刃を振るい、あなたの永遠の眠りを妨げた!」
「言うなっ!」
「イーヴにだって指一本触れさせない! 母親だか何だか知らないけど、お前などには絶対に渡さない!」
 息も絶え絶えのアーシアの身体から、言葉がほとばしった。彼女は肩で息をしながら、呪われた死人を睨みつける。その視線を真っ向から受け止めたイーヴの母は……ものすごい形相で睨んでいたのを、ふっと解いた。
「フフフ……」
「……」
「いいでしょう。でもね、そんな身体になって、一体何が出来るというの? イーヴは私がお腹を痛めて生んだ息子。余人に委ねたりなどはしないわ」
 そういって、余裕の笑みを浮かべながら……彼女は一歩ずつ、イーヴに近づいてきた。
 イーヴは、もう一度アーシアを見やる。そんな傷ついた身体で、イーヴの母親を挑発して……どういうつもりなんだろう。
 その彼女の目が、ちらとイーヴを見やった。
 アーシアは……何かを、企んでいた。
 何がなんだか分からないままに、イーヴはもう一度、母の方に向き直る。いつの間にか彼女は、すぐに手の届く距離に来ていた。
「さ、イーヴ……」
 母の差し伸べた手を、イーヴはじっと見やっていた。
 アーシア、僕はどうすればいい……?
 心の中で、それを問うてみる。けれどそこに、答えなどあるはずもなかった。
 おのれの手を、ぎゅっと握ってみる。
 そこに、少年はぼんやりと熱い何かを感じていた。
 ――そうか。
 そういうことなの、アーシア?
 少年は、握り締めた手をそっと開いた。
 不思議な暖かさが、その手のひらに集まって来るかのようだった。
 彼はそっと手を上げて、差し伸べられた母の手を取った。
 そのイーヴの手が、不思議な白い光を帯びていた――。
「!」
 一瞬だけ、指先が彼女の冷たい肌を撫ぜた。その瞬間に、母はその手を大慌てで引っ込める。
 驚愕に見開かれた目が、おのが息子を何か信じられないものでも見るかのように揺れ動いていた。
 イーヴは、そんな彼女にそっと手を伸ばした。
 右手をまっすぐに伸ばし、彼女の左の肩に触れる。
 白く淡い光が、そのまま急速にまばゆい輝きへと変わっていく。
 指先が、じわじわと彼女の肩に食い込んでいく。聖なる白い光が、その冷たい肌を灼いていく。
 その手で、なだらかな肩をそっと掴むと、まるで溶け出した蝋細工の人形のように、簡単に指先がめり込んでいった。まるで砂糖菓子を握り潰すかのようなたやすさで、イーヴは彼女の肩を握り潰した。
 潰す、というような嫌な感触はひとつも感じられなかった。砂で造った城が簡単に崩れていくように、彼女の左腕が肩の付け根からぽろりとこぼれ落ちた。
 血は流れなかった。
 簡単に外れた左腕が、草の上にごろりと転がる。次の瞬間には、風化して、風が砂を吹き飛ばしていくかのように、ぼろぼろに崩れて跡形もなく消え去っていった。
「イーヴ! あなたは……!」 
 母が何か言おうとしたが、イーヴは何も聞いていなかった。
 母さん。
 もう一度、さよならだ。
 イーヴはその右手を、母の眼前に真っ直ぐにかざす。いっぱいに開いた手のひらから、まばゆい光がこぼれ始めた。
 かつて無い、まばゆい輝きだった。
 夜の森に、空の星が舞い下りてきたような、神秘的な輝き。
 その輝きを、少年が放っていたのだ。
 手のひらだけではない。右腕が全体的にその光を放ち、やがて全身がまぶしいくらいの光を放ち始める。
 心臓が、どくどくと強く脈打ちはじめる。 
 アーシアの心臓が、彼に力を与えてくれている――。
 ずきり、と胸が痛んだ。
 この胸の痛みは何だ。……一体、何が痛いっていうんだ。
 少年の目の前で、母が断末魔の悲鳴を上げていた。けれど、そんなものも少年の耳には届かない。
 彼女は白い光に飲み込まれていった。
 あっという間の出来事だった。
 もう一度、ずきりという胸の痛みが身体中を駆け抜けた。
 光が、収束していく。
 胸が痛い……心臓が、悲鳴を訴えている。
 それは、心臓を取り替える前からよく知っていた痛み。
 なぜ、そんな痛みが今更僕を穿つのだろう。
 そんな事を疑問に感じながら、少年の意識は、白い輝きが収束するのと同時に暗転していった。




     5

 気を失っていたわけではない。
 そのはずだったが、自信は無かった。不意に目の前が眩んで、次の瞬間にはイーヴは草の上に、膝をついていた。
「……大丈夫?」
 そんな声に振り向いてみると、そこにアーシアがいた。
 紛れも無い、本物のアーシアだ。彼女は力の無い、弱々しい笑顔を少年に向かって浮かべた。
「アーシア……大丈夫なの?」
「自分でもびっくりしている。意外に、しぶといみたい」
 そう言って彼女は、自嘲気味に笑みを漏らした。
 そんな彼女の右の二の腕に、うっすらと火傷のような痕が残っていた。痛々しいその痕に、イーヴは思わず顔をしかめた。
「その傷……ひょっとして僕のせい?」
「すごい力だった。私の方に向けられていたら、ひとたまりも無かったかも」
「……! そう言えば、母さんは……?」
 慌てて、イーヴは辺りをきょろきょろと振り返ってみる。草の上に、半分焼けただれた死体がごろりと転がっていた。
 近づいてみる。顔も半ば崩れていて、それが母かどうか判別はつかなかったが……何故か少年には、その無残な死体が母のものだという実感があった。
 アーシアのすぐ脇には、ロシェ・グラウルの無残な死体も転がっている。よくよく見やれば、何と惨澹たる光景だろうか。けれどもう、血は見慣れてしまっていた――その凄惨さが、もはや少年の感情を突き動かすことはなかった。
 少年は、アーシアの元にゆっくりと近づいた。
 彼女はいつのまにか、目を閉じたままぐったりと木陰に寄り添っていた。その白い整った顔を、少年はじっと見やる。
 その顔形が、母の面影に重なることは決してなかった。何故二人が似ていると思ったのか……少年は苦笑するより他になかった。確かに、目鼻立ちは多少似ているかも知れないが……面影をだぶらせるほどではない。言われて初めて気付く程度のものだと思った。
 手を伸ばして揺り起こそうとしたが、ついためらいを覚えてしまった。触れてしまえば、母と同じ事が起こる……恐らくは、そうなるだろう。
「皮肉なものね……」
 不意にアーシアが、目を閉じたままぽつりと呟いた。
「アーシア……?」
 イーヴは反射的にその名を呼び返していた。その問いかけに、すぐに返事はない。アーシアはまるで無言の静寂を噛み締めるようにしながら、ゆっくりと口を開いた。
「この私は永遠の時を生きる、呪われたけだもの。その心臓は確かに永遠の時を刻むかも知れないけれど、それは時に縛りつけられる呪いのようなもの。その心臓を、あなたみたいな人が持っているなんて」
「僕みたいな……?」
「暗闇に潜むもの全てをうち滅ぼす、聖なる光を持つ者」
「……」
「その力があれば、あなたはこの世界に存在する邪なる存在の全てを、無に帰すことが出来る。あなたのお母さんも、この私も」
「あ……」
 そう……あの時心臓が痛んだのは、そのせいかも知れない。身体の内側から湧き起こった魔を滅ぼす力が、闇の力で動く心臓を快く思っていないのかも知れなかった。
「どうして……心臓を僕に?」
「それは、カリルが望んだから」
「違う。あなたがカリルをそそのかしたんだ」
「……」
 アーシアは何も言わずに、ただ微笑むだけだった。イーヴに言い咎められて、まるで悪戯を叱られる子供のように、にこにこと笑う。
 見れば、一度は塞がった脇腹の傷が開いて、血でべったりと汚れていた。
「その傷……どうすれば直るの?」
「無理。心臓があれば、こんな傷放っておけば治るんだけれどもね」
 そう言って、彼女は自嘲気味に笑みを漏らす。
「心臓なしで、生きていけるはずが無い……アーシア、あなたは死ぬつもりだったの?」
「……待っていたのかも知れない。今日みたいな日を」
「……?」
 ふと漏らした彼女の呟き。意味が分からずに、少年は首を傾げるばかり。
「最初から、私達には与えられた時間というものが違い過ぎた。呪われた永遠の時を生きるこの私と、一瞬の生を駆け抜けたクラヴィス――始めから、私達の接点なんてほんのささやかなものに過ぎなかったのよ」
「……」
「けれど、それを私は後悔なんてしない。彼との出会いは一瞬だったけど、その思い出は永遠に等しい価値を持って私の中に残っている」
「……アーシア、あなたは」
「あなたに、分かるかしらね……私は少しでも、あの人の思い出と共にいたかった。この村に残り、あの人の墓所を守り、永遠に生きていく……それも、悪くないと思っていた。私は死ぬまで……この存在が滅びるまで、クラヴィスを守っていくつもりだった……」
「……」
「でもね。時は永遠であっても、流れていくものなの。いつか人々は、救国の英雄クラヴィーアスの名を忘れていく。その名を忘れ、その業績を忘れ、いつしか彼の救った王国さえ消えてなくなって、忘却の彼方に去っていくでしょう。この私の記憶だって、永遠不滅ではありえない……」
「……」
「彼の思い出が、消えていく」
「……」
「あの人の面影が消えていく。目を閉じても、その笑顔がぼやけていく。あの人と過ごした日々の記憶が、ひとつひとつ指先からこぼれ落ちていくの……」
「……アーシア」
「あの人が消えていく。ひとつずつ私からいなくなって行く。もしあの人がすっかりいなくなってしまったら、私はどうすればいいの? 私は何のために、永遠を渡っていけばいいの?」
 彼女はいつしか泣いていた。永遠の命を持ち、闇を生きるけもの。幾多の人間の命を引き裂いてきた化け物が、今はまるで童女のように泣きじゃくっていた。
 顔を伏せたアーシアの肩に、イーヴはおそるおそる手を伸ばした。触れる事は、さすがにためらわれた。
 その手を、アーシアがそっと掴んだ。
「あ……」
 少年はその手を引っ込めようとしたが、アーシアはその指先を絡めたまま、離そうとはしなかった。
 彼の指先が、ぼんやりと白く光り始める。
「イーヴ……あなたの手、暖かい」
「……」
 アーシアは笑っていたけれど、彼の手から漏れた光は、確実に彼女の指を傷つけていた。イーヴがあまりにも不安げな表情をしているので、アーシアはくすっと笑ってその手を離した。
 焼けただれたおのれの指先を見やりながら、アーシアは続けた。
「どうせこの私は闇を渡る呪われた存在。そんな私が、この世界に何かを残すことが出来たとしたら――それは、その心臓くらいでしかありえない……幾多の愚かな人間たちが、不死の命を求めて私を狩ろうとした。そこに死んでいるロシェも、その一人……そんな愚か者たちには渡したくなかった。もっと、価値ある人間にこの心臓を持っていて欲しかった――本当に、必要としている人間に」
「……それが、この僕だというの?」
「本当はね。クラヴィスにあげたかったんだけど……彼は、要らないって言ったから。……フフ、おかしな人よね。あんな奥辺境の奥地まで私を探しに来たはずなのに、いざ出会ってみたら要らないだなんて」
 くすくすと笑みを漏らすアーシア。だが、その目には涙が光っていた。
「これでもう、思い残すことは何もない。私もまた、クラヴィスと一緒に消えていくだけの存在になれる。私とクラヴィスが、等価値になる――」
「……アーシア、やめて。そんな事を言わないでよ。アーシアもクラヴィスさんも、消えてなくなりなんかしないよ」
「……?」
 イーヴのその言葉に……涙をこぼしていたアーシアが、はっと顔を上げた。
 その彼女を真っ直ぐに見据え、イーヴが言った。
「思い出は消えていく。面影はいつか薄れていく。けれどあなたはクラヴィスさんを絶対に忘れない……そう、絶対に。あなたという存在がこの世界の片隅にあり続ける限り、彼は絶対に消えてなくならない」
「でも、私の中で彼との思い出は消えていくわ。彼と旅したあの街も、ともに暮らした記憶も――」
「思い出は、ひとつじゃないよ」
「でも」
「思い出はひとつじゃないし、消えてなくなりも、減ったりもしない。それらはいつかみんな、ひとつになっていくんだよ。減っていくんじゃない。混ざりあって、ひとつになっていくんだよ」
「……」
「クラヴィスさんも一緒だよ。アーシアの中で、クラヴィスさんはひとつになろうとしているんだ。沢山のクラヴィスさんがひとつになって……そして、いつかあなたともひとつになって、クラヴィスさんはあなたの一部になる。そしてあなたは、クラヴィスでもアーシアでもない、新しいあなたになるんだ」
「……」
「だから、クラヴィスさんは決して消えて無くなったりはしないよ」
「イーヴ……」
 アーシアはそれ以上何も言わなかった。ただ無言のまま、涙を流す。
 イーヴは続ける。
「僕も、母さんが好きだった。母さんの思い出はいくつもあるけれど、いつか思い出はひとつに溶けあって、そして僕の一部になる。父さんの事も、カリルの事も……そして、あなたの事も」
「私の事も?」
「……あなたの事も。僕は絶対に、あなたを忘れない――」
 だって、僕はあなたの事が――
 次の言葉を言わなくても、彼女は満面の笑みをイーヴに投げかけてくれた。愛する夫を記憶を失うと泣き伏せていた彼女だったけど、今は幸せでいっぱいの笑顔を見せていた。
 そう――僕はあなたを、忘れないよ。
「……そう、絶対に」
 そう呟いた少年に、アーシアは満面の笑みを投げかけた。
 そして彼女は、ゆっくりと目を閉じる。
 そう、ゆっくりと――。
「アーシア……?」
 問いかけても、二度と返事はなかった。
「アーシア――」
 イーヴは、嗚咽を噛み殺した。
 アーシア――。
 それは、その晩に訪れた、いくつかの別れのうちのひとつだった。
 イーヴは、ふらりと立ち上がる。
 その時だった。森の闇の向こうで、茂みをかき分けるざわざわという音が聞こえてきた。
 振り向いてみると、そこに立っていたのはカリルだった。
「カリル……? どうしてここに」
「……光が、見えたから」
 震える声で、彼女はそう告げた。
 そのまま彼女は、三つの死体が転がるその凄惨な場面に、言葉を失った。
 そんなカリルを見やるイーヴの目が、ある一点に止まった。
「カリル、それは……」
「え……?」
 何を問われたのか一瞬分からなかったが、すぐに何の事か気付いた。彼女の手には、あの血に汚れた短剣が握られていた。
 イーヴの胸を開いて、古びた心臓をえぐり出した、その短剣。
 あんな目にあったカリルだから、森にまだ危険が潜んでいると警戒して、それを携えて来たのだろう。
「貸して」
 イーヴは手を伸ばして、その短剣をほとんど無理矢理に取り上げた。
 カリルは何も言えなかった。彼女が見ている目の前で、イーヴはその短剣を眼前にかざす。切っ先をじっと眺めて……まるで、切れ味を検分しているかのようだ。
「ねえカリル、君に頼みがあるんだけれども」
「……何?」
 不意にイーヴが口を開く。……なんだか、よくない予感がする。
「もしも僕が途中で倒れたら、……続きを頼むよ」
 軽い口調でそう言った少年だったが、その次の行動にカリルは息を飲んだ。
「イーヴッ、何をするの……!」
 制止の声は、虚しかった。
 少年は何のためらいもなく、おのれの胸に切っ先を突き立てた。
 赤い血がもうひとしずく、森を赤く染めていった。