吸血花 第一幕
作:坂田火魯志





第一幕 惨劇の中の花


 「総員起こし、五分前」
 隊舎に放送が入る。ベッドの中にいる者が一斉に身構える。
 ここは海上自衛隊幹部候補生学校。瀬戸内海に浮かぶ江田島にそれはある。
 かっては海軍兵学校があった。その跡地につくられたものである。
 かって世界にその名を知られた帝国海軍の息吹がここには残っている。ここにいる者達は皆その意志の継承者達なのである。
 その生活はかっての海軍のそれをそのまま行なっている。五分前精神に五省、そして厳格な規律。訓練の内容も旧帝国海軍のものをそのまま行なうか、基にしている。
 象徴となっているのが赤煉瓦と呼ばれる建物である。全てイギリスから直接輸送した煉瓦により作られたこの建物で海軍を支えた多くの軍人達が育った。今は海上自衛隊の指揮官の卵達を育てている。
 その赤煉瓦から歩いて数分の距離に隊舎はある。指揮官としての教育を受けている自衛官達、自衛隊でいう『幹部候補生』達がここで寝起きしているのである。
 中は六階建てで廊下はカーペットが敷かれている。部屋は二つの部屋がドアを挟んで結ばれておりそれぞれ四人ずついる。候補生それぞれに一つずつベッドと木製のロッカーが支給されている。ベッドには濃い紫の作業服と黒い帽子、そして黒靴下が掛けられている。海上自衛隊の指揮官、自衛隊でいう『幹部』の作業服の色は濃い紫である。下士官や兵士は青である。
 部屋の外をジャージ姿の教官達が歩いている。ちらちらと部屋の中を見る。五分前になると動いてはいけない。それを監視しているのだ。
 「総員起こし」
 ラッパの音が放送される。かっての海軍の起床ラッパの音だ。
 候補生達が一斉に飛び起きる。そして服を素早く着込み帽子を被り黒い革靴を履く。そして全てを身に着けた者から順に部屋の外へ駆け出していく。
 階段を飛ぶように降りていく。そして隊舎の前にあるグラウンドに出た。
 そこにもジャージ姿の教官達がいた。彼等は『分隊長』と呼ばれる。候補生達は三十人程を一つの単位としてグループごとに分けられている。そのグループを『分隊』という。分隊長はそれまとめて指導する者である。学校でいうと担任といったところか。ちなみに彼等を補佐する者として『分隊士』がいる。彼等もジャージ姿でグラウンドにいる。
 候補生達が降り立った。そして各分隊ごとに並び何やら大声で叫びだす。よく聞くと命令する声だ。それは軍隊、とりわけ海軍でよく使われる号令である。『号令調整』という。部隊で部下達を指揮する時の為の練習である。
 「号令調整止め」
 また放送が入った。すると候補生達はそれを止めた。そして皆作業服の上着を脱ぎはじめた。男は下の白いシャツまで脱ぐ。女はシャツは着たままである。
 上着とシャツを丁寧に畳み下に置く。そして体操を始めた。
 ラジオ体操とは違う。かなり独特の動きだ。『海上自衛隊体操』というものである。
 隊舎を見る。時々窓から何か落ちてくる。毛布や枕である。隊舎を出る際畳み方が悪かったりすると落とされるのである。
 これは幹部候補生学校で『赤鬼・青鬼』と呼ばれる教官達が行なっている。彼等の役職は『幹事付』。候補生達の生活指導全般を監督及び指導する。
 毛布や枕が落ちるのを候補生達は体操をしながら黙って見ている。ひょっとしたら自分のものかも、そう不安を抱く者もその中にはいる。だが彼等は今動けない。今は体操をしなければならない。それが終わったら腕立て伏せ等の体力錬成、そして掃除。彼等の生活は朝から忙しい。
 毛布や枕はまだ落ちてくる。それを見る候補生達。顔や態度には出さないが不安そうである。その落ちるものの中でいっぷう変わったものが落ちてきた。
 「!?」
 それは枕ではなかった。かなり大きかった。毛布か、いや違う。平べったくはなかった。それにそれは窓から落ちてきたのではなく隊舎の屋上から落ちてきたのである。
 「何だ、あれは」
 グラウンドは騒然となった。教官達が屋上から落ちてきたそれへ一斉に駆け寄る。そしてそれを見て皆顔を蒼ざめさせた。
 「これは・・・・・・」
 それは人間の屍だった。既にその両眼に生気は無い。肌も蒼白となっている。
 その屍で奇妙な点は異様に軽いことだった。身体は干乾びミイラの様であった。まるで全身から血が吸い取られたように。
 「?この匂いは・・・・・・」
 鼻のいい教官の一人がふと辺りに漂う香りに気付いた。それはダリアに似た花の香りだった。

 「という事件がこの学校で起きまして」
 黒地の制服を着た中年の男が歩きながら傍らの白ジャケットに青ジーンズの男に話をしている。
 黒く濃い髪に濃いしっかりとした眉。人懐っこそうだがしっかりとした顔立ちである。
 身体つきもしっかりしている。背こそあまり高くはないが筋肉があり贅肉は少ない。姿勢も良く歩き方が堂々としている。
 見れば腕に金の太い線が三本入っている。これは幹部を表わすらしい。太い線三本だと二佐になる。
 「何かこの江田島にはあまり似つかわしくない話ですね。幽霊とかならともかく」
 ジャケットの男は松林を見ながら話をした。よく手入れされている。
 「おや、ここの事はご存知でしたか」
 二佐は少し眉を上げて言った。眉を上げたぶんだけ嬉しそうである。
 「ええまあ。そっちの方面じゃあ有名なところですからね」
 右手にその隊舎が見える。坂道を下っていく。
 「随分綺麗な隊舎ですね。赤くて」
 隊舎を一目見て言った。
 「ええそうでしょう。これからの海上自衛隊をしょって立つ人材が育てられる場所ですし。これ位の設備がなくては」
 「成程ね。確かに住居環境も大事ですからね」
 「そうです、よくわかっておられますな」
 男はそれはちょっと褒め過ぎだろう、と思ったが口には出さなかった。少し恥ずかしかった。
 「昔は今目の前に見える建物で寝起きしていたのです。夏は暑くて大変でしたよ」
 二佐の顔が懐かしいものを見る目になる。色々と思い出があるらしい。
 「一部屋に二十人程いまして。あまり暑いと屋上で寝たものです」
 「それはまた凄いですね」
 確かにこの江田島は暑い。瀬戸内海にあるせいか気候が暑く感じられる。
 「昔の話ですけどね。今のこの隊舎はクーラーも暖房もありますよ。ただ節約はしていますが」
 「ははは、まあそうでしょうね」
 その言葉が妙におかしかった。ただし本当に節約して夜の十時以降はクーラーも暖房もスイッチを入れてはいけないらしい。
 坂道を降りる。左手に少し小高い丘みたいなものが見える。
 「かっての海軍の時代にはあそこに登って故郷を偲んだそうです。今は携帯電話という便利なものがありますから登る者はおりませんがね」
 「成程」
 かっての海軍の息吹がまだ残っている。そう感じた。
 右手にはグラウンドがある。実に広いグラウンドだ。
 先程二佐がかっての隊舎だと説明してくれた建物の横を進む。見れば学校の校舎にそっくりだ。
 (なんか職員室の前みたいだな)
 ふとそう思った。
 その校舎に似た建物を過ぎ階段を登る。ふと左手に小さい建物が目に入った。
 「あれは?」
 「ああ、あれは武器庫です。中に銃等が保管されております」
 「あそこがですか」
 特に驚かなかった。自衛隊の施設である。銃位置いていなくては話にもならないだろう。
 階段を登り終え廊下に出た。見れば赤煉瓦の建物の前だった。
 「これがあの・・・・・・」
 本では読んだ事がある。海軍兵学校の教室として使われ今は幹部候補生達の教室として使われている建物、赤煉瓦である。
 本来の名は生徒館といった。だが殆どの者がこの通称で呼ぶ。それ程親しまれている名なのだ。
 「こちらです」
 左手にある階段に案内される。コンクリートの階段を登っていく。
 階段を登り終え左を曲がる。講堂が並んでいる。 
 「今は教務中でしてね。皆中で講義を受けておりますよ」
 古い床である。しかし頑丈に出来ている。
 ある部屋のドアの前に着く。二佐はそのドアにノックをした。
 「入ります」
 そう言って中に入る。男も案内される。
 「こんにちは」
 男は部屋に入ると頭を垂れて挨拶をした。部屋の中は質素ではあるが綺麗に清掃され床には絨毯が敷かれている。前に学校の校長が使うような机が置かれその後ろは大きな窓である。左に我が国の国旗が飾られ右にはトロフィー等様々なものが置かれている。
 机のところには白髪の男性が立っていた。黒地に金の制服である。腕にはかなり太い金の帯がある。これは海将補のものである。彼も実際に見たのは初めてだった。
 見ればその海将補の男性も頭を下げている。これには正直驚いた。将軍や提督といえば威張っているものだと思っていたからだ。
 「ようこそいらっしゃいました」
 海将補は言った。見れば端正な顔である。歳は五十程であろうか。しかしその顔には皺もあまりなくよく日焼けしている。そしてやはり背筋が伸びている。背も高く体格もいい。
 「京都から来られたそうですな。遠路はるばると御苦労様です」
 「いえ、仕事ですから。本郷忠(ほんごうただし)と申します。どうかよろしく」
 「こちらこそ。この海上自衛隊幹部候補生学校の校長を務める山本と申します。よろしくお願いします」
 「は、はい。こちらこそ」
 あまりに低姿勢なので驚いた。自衛官は一般市民に対して腰が低いとは聞いていたがこれ程までとは思わなかった。
 「ところで本郷さんお一人だけですかな」
 山本校長は落ち着き、かつしっかりとした声で尋ねてきた。
 「はい」
 「もう一人来られると聞いたのですが」
 「相方ですか。ちょっと仕事で遅れます」
 本郷は簡潔に言った。
 「おや、そうだったのですか。私はてっきりお二人が同時に来られると思ったのですが」
 「すいません、こちらの連絡ミスでして」
 「まあそれでは仕方無いですな。本郷さん、貴方がこの海上自衛隊幹部候補生学校に呼ばれた訳はお聞きしていますね」
 「ええ。何でも奇妙な殺人事件が起こったとか」
 本郷の顔が変わった。眼の光も鋭くなる。
 「はい。これがその写真です」
 校長は一枚の写真を取り出した。
 「これは・・・・・・」
 それは一人の若い男の亡骸だった。黒と金の制服を着ている。
 だがその制服は彼にとって大き過ぎた。否、大き過ぎるようになってしまったと言った方が良いか。
 全身の血が抜かれている。その身体はまるでミイラの様であり肌は木の皮の様になっている。眼には生気どころか水気も無く乾燥しきっている。見れば髪や唇にも水気は無い。
 「課業中トイレに用を足しに行った帰りの僅かな間に襲われたようです」
 「課業・・・ああ授業ですね」
 「はい。自衛隊用語で申し訳ありませんが」
 「いえ、いいです。それにしても・・・また凄い時にやられましたね」
 本郷は言葉を続けた。
 「それにしてもこの亡骸・・・・・・吸血鬼にでもやられたのですか」
 「やはりそう思われましたか」
 本郷の言葉に校長は頷いた。
 「皆そう噂しているようです。ただ昼に吸血鬼が出るのかと言っていますが」
 「昼でも出ますよ。それはスラブの方のやつだけです」
 本郷は素っ気無く答えた。
 「そうだったのですか!?」
 後ろに控えていた二佐が驚きの声をあげた。
 「学生隊長・・・・・・」
 校長がそれをたしなめる。
 「はい・・・。申し訳ありません」
 「まあ知っていても仕方の無い事ですからね。私も職業柄知っているだけですから」
 「怪奇事件専門の探偵として」
 「・・・・・・はい」
 校長がそう言った時彼の眼が再び光った。
 「吸血鬼は世界中にいますからね。大体はスラブのやつみたいに死体が知性と魔力を持って甦った所謂『アンデット』ですが中には巨人とか首が飛ぶ奴とかいますね。我が国にもいますよ」
 「・・・・・・飛頭蛮の事ですか」
 「・・・・・・よくご存知ですね」
 本郷は校長の言葉に思わず息を呑んだ。
 「学生時代小泉八雲の小説を読みましたら出てきましたので。ろくろ首の首が飛ぶものと聞いておりますが」
 「はい。元は中国にそういう種族がいたという伝説がありましてね。それが渡来して来たものではないかとも言われていますが。ただろくろ首が人を襲わないのに対しこいつは夜になると首が身体から離れ人の血を吸いに夜の空を飛び回ります」
 「夜、ですか」
 「はい。昼は普通の人間と変わりなく暮らしていますから。昼動けるといっても正体を表わすのは夜ですからおそらくこいつではないでしょうね」
 「そうですか。それでは一体・・・・・・」
 校長は表情を暗くした。
 「おっと、暗くなるのはまだ早いですよ」
 本郷は校長をあえて明るい声で励ました。
 「それを解決する為に私を呼んだんでしょ。任せて下さい、必ずこの事件を解決して御覧に入れます」
 その言葉に校長も学生隊長も顔を明るくした。
 「それでは貴方にお任せしましょう。一刻も早い事件の解決を期待しております」
 「はい」
 本郷は笑顔で答えた。

 まず本郷は学校内を見て回った。事件が起こった場所を一通り見回し手掛かりを得る為だ。
 「しかし広い所ですね、ここは」
 赤煉瓦の向こうにある芝生のグラウンドを歩きながら言った。
 「それに景色もいいですね。緑が多い」
 「ええそうでしょう、観光地にもなっておりますしね」
 よく日に焼けた顔の男性が側についている。階級は二尉、歳は二十七程であろうか。妙に澄んだ瞳が印象的だ。
 「掃除も徹底させておりますよ。海軍からの伝統ですしね」
 見れば砂地も綺麗に手入れされている。よくはかれている。
 「それは私達が監督しています。少しでも手を抜けば容赦しません」
 にこりと微笑んで言った。その顔がまた妙に子供っぽい。
 この二尉こそ幹事付である。彼は赤鬼、二人いる幹事付のうちの一人である。
 「えっと・・・井上二尉でしたっけ」
 「井上は相方です。私は伊藤といいます」
 「あ、すいません。伊藤さん」
 「はい」
 伊藤二尉は新ためて本郷の話をうかがった。
 「あそこにある花は何ですか?」
 赤煉瓦の前に咲いている一輪の赤い花を指差して尋ねた。
 「?あれですか?」
 伊藤二尉はその花を見て目を見開いた。
 (?どういう事だ?)
 本郷はその反応を見て不思議に思った。まるで見た事も無い、といった顔だったからだ。
 「ちょっと行ってみましょう」
 伊藤二尉に誘われ花のすぐ側まで行く。ダリアによく似た派手な花だった。
 「ダリア・・・・・・じゃないですね」
 「それよりもこの花を見たのは初めてなんですが。こんなとこにあったかなあ」
 「え!?」
 首を傾げる伊藤二尉を見て本郷は思わず声を出した。
 「いえ。この候補生学校に植える草花は購入する段階で皆決められているのですよ。雑草なら清掃の時に抜かれますし。小さい花ならともかくこれだけ目立つ花が抜かれない筈は無いですしね」
 伊藤二尉が花を見下ろしながら言った。
 「それにしても・・・綺麗ですが妙な感じの花ですね」
 伊藤二尉は言葉を続けた。
 「確かに。何か変に赤い花ですね」
 本郷もそれに同意した。見れば絵の具、いや鮮血を塗ったかの様に不自然な色の赤であった。
 「全部の花を知っているわけではないですがこんな色の花は・・・・・・。見た事が無いですね」
 少し顔を顰めて言った。首を思いきり傾げている。それにしてもこの人はどうも花に詳しいようだ。
 「成程、確かに変わった花ですね。ところでもう一つお聞きしたいのですが」
 「はい、何でしょう」
 「先程話が出た候補生学校で草花を決める方は一体どなたでしょうか?」
 「それですか?それでしたら勝手事務官ですね。経理課におられますよ」
 「経理課ですか。何処にありますか?」
 「あの建物ですが」
 ここへ来る時に本郷が学校の校舎みたいだと思った建物を指差した。
 「少し解かり難い位置にありますからね。案内させて頂きます」
 「あ、有り難うございます」
 かくして本郷は伊藤二尉に案内され経理課へ入った。
 「花?最近購入していないですけれどねえ」
 少し細長い顔の色の白い若い男性が電話で話をしている。
 「あちらです」
 伊藤二尉が手で指し示したのはその色の白い男性だった。見れば薄い黄色の作業服を着ている。
 「まあこっちで調べておきます。またお電話差し上げるので暫くお待ち下さい」
 若い事務官はそう言って電話を切った。
 「勝手事務官」
 伊藤二尉が彼に声を掛けた。伊藤二尉の声を聞き彼はこちらに顔を向けた。
 「あ、アルファじゃないですか。どうしたんですか?」
 「アルファ?」
 聞きなれない言葉に本郷が反応した。
 「自衛隊用語です。アルファベットをそれぞれ独特の言い方で読むんです。Aだと
『アルファ』、Bだと『ブラボー』というふうに。同じ役職が複数あるとABCで表すんです。例えば幹事付は私がAになります」
 「へえ、そうだったんですか、成程」
 伊藤二尉の説明に本郷は納得し首を縦に振った。
 「お疲れ様です。私に何か御用ですか?」
 伊藤二尉が説明をしている間に勝手事務官がこちらに来ていた。
 「うん、こちらの方が君に聞きたい事があるというので」
 「本郷です。探偵をやっております」
 「こんにちは。勝手といいます。探偵というとやっぱり・・・・・・」
 「うん、その通りだ」
 伊藤二尉は暗い表情で本郷の代わりに答えた。
 「そうですか。それではよろしくお願いします」
 「いえ、こちらこそ」
 伊藤二尉は自分の受け持ちの講義の時間がきたので帰っていった。本郷と勝手事務官は応接間に入った。
 「ご用件は何でしょう?」
 「はい。実は先程面白い花を見つけまして」
 その言葉に勝手事務官の眉がピクリ、と動いた。
 「また花ですか」
 「また?」
 その言葉に本郷も反応した。
 「ええ。さっきも一術校の方から電話があったんですよ。最近赤いダリアに似た花を見かけるが何時何処で購入したのかと」
 「赤いダリアに似た花ですか」
 本郷は表情を変えずに言った。
 「それならさっき私も見ましたよ。赤煉瓦の前で」
 「えっ、本当ですか?」
 勝手事務官が驚いて声を出した。
 「はい。宜しければ見に行きますか?」
 「はい、是非とも」
 二人は応接間を出て赤煉瓦の前に行った。そしてその赤い花のところへ来た。
 「この花です」
 花を見る。そして勝手事務官が首をかしげた。
 「やっぱりこんな花注文した覚えは無いですねえ」
 「やはり」
 「はい。それにうちは景観を大事にしますから。赤煉瓦の前に一つだけ置くなんて事はしないんですよ」
 「えっ、そうなんですか?」
 「はい。花を植えるとしたら一つの場所に集めて植えます。一つだけ植えるなんて事はしません」
 「そうですか。だとすれば雑草ですかね」
 「多分そうでしょう。おそらく明日の朝には候補生の人達が清掃で抜いてくれますよ」
 「だったら問題ありませんね」
 「ええ。後は幹事付の方でやってくれます」
 勝手事務官は安心した顔で言った。彼は早速伊藤二尉に電話をし伊藤二尉の方もそれを了承した。こうして赤い花の話は終わった。かに思われた。
 「あれ、赤い花なんて無いよなあ」
 翌日の朝清掃に来た候補生の一人が言った。
 「ああ。ダリアに似た花だろ?そんなの無えぞ」
 別の候補生も言った。
 「けど報告はどうするよ。無いなんて言ったら話がこんがらがるぜ」
 「適当に言っておこうぜ。抜きましたって」
 「そうするか。無いものは仕様が無いしな」
 こうして例の赤い花は抜かれ捨てられた事になった。こうして赤い花の話は一先終わり本郷はその日は自衛官達への聞き込みに当たっていた。

 その日の夜見回りが学校や隊舎内を回っていた。これを『巡検』という。自衛隊ではかっての軍と同じく当直及び副直の士官、そして海曹、士がいる。彼等が学校内を点検して回るのだ。
 だがこの候補生学校ではもう一つ点検に回る人達がいる。幹事付だ。彼等は候補生の掃除や生活の点検をする為校内及び隊舎内を見て回る。この際週番という候補生達が持ち回りで当たっている当直の学生達が同行する。
 前述の通り幹事付は二人いる。アルファこと伊藤二尉は別のコースを点検して回っている。時折隊舎からベッドを壊す音が聞こえてくる。
 もう一人の幹事付井上二尉が教官室前を点検していた時だ。ふと一枚の赤い花びらに気付いた。
 「何なんだ、これは」
 その花びらを手に取り週番学生達に言った。背が高く眼鏡を架けている。日に焼けて一見怖そうだがよく見れば愛敬のある顔立ちである。
 「教官室前の清掃ふ・・・・・・」
 不備、といいそうになった。指摘を受けたなら最悪の場合掃除をやり直す事になる。
 だが彼はふと気付いた。昼に伊藤二尉が話していた赤い花の事が脳裏によぎる。
 (そういえば勝手事務官も頼んでいないと言っていたな)
 この花びらが妙に気になった。それに赤煉瓦前にあった筈のその花の花びらがどうしてこんな所にあるのか不思議だった。
 (とりあえずあの探偵さんに見せてみるか)
 井上二尉はそう思った。そして不備と言おうとした事を取り消すと花びらをズボンのポケットにしまい点検を再開した。
 その時本郷は隊舎二階に設けられた来客用の部屋にいた。この日調べた捜査の内容を整理検証していた。
 「結局今のところ手懸かりは無しか」
 聞き込みや写真を見ながら溜息混じりに言った。
 「どうもこういうのは苦手だなあ。いつも役さんがやっている仕事だし」
 本郷はどちらかというと行動派であり歩き回って捜査するタイプだ。それに対して役は頭で考えるタイプである。
 「仕事が別に入ったから仕方無いけれど早く来て欲しいな。頭を使う仕事は嫌いなんだよなあ」
 ブツブツと不平を言いながら操作内容をまとめている。証言も特にこれといってない。
 「そもそもこの学校の人間全員にアリバイがある。化け物が候補生や教官に紛れ込んでいるというわけではなさそうだな」
 持って来た一冊の本を取り出す。吸血鬼について書かれた本だ。
 「だとしたらアンデッドではないか。それだけでかなり限られてくるな」
 吸血鬼の多くは甦った死者が己が精気を得る為に生者の血を吸うものである。
 「狐か。いや、我が国の狐にそこまで性質の悪い奴はいないな」
 本郷は何回か狐や狸とも対決している。いつも人間を化かして喜んでいる不良狐や狸を誘き出して懲らしめている。
 「それにあいつ等だったら人の血なんかより揚げの方がずっと好きだ。油揚げなんてそこいらに幾らでもある」
 狐の可能性も消えた。
 「鬼か」
 本郷の顔色が変わった。
 「だとすれば問題だ。江田島は山が多いから隠れる場所が多過ぎる」
 ちらりと左手を見た。そこには古鷹山がある。
 「あの山にしろ険しいしな。鬼が潜んでいても誰も解からない」 
 しかしここで眉を顰めた。
 「だがこの血の吸い方はどう見ても鬼のやり方じゃないな」
 鬼は普通人の血より肉を好む。血はあくまで酒と同じく嗜好品なのである。実際酒に混ぜて呑んでいたりする。
 「余計解からなくなってきた。結局何なんだ」
 そこへ井上二尉が入ってきた。
 「あれ、どうしました?」
 本郷は意外な来客に少し戸惑った。
 「実は先程の巡検中にこれを拾いまして」
 ズボンのポケットからさっきの花びらを取り出した。
 「これは・・・・・・」
 人目見て解かった。赤煉瓦の前に咲いていたあの花のものだ。
 「教官室の前に落ちていました。掃除の不備かと思いましたが場所が離れ過ぎていましたのでおかしいと思いまして」
 「確かに。普通あそこから教官室までこんな物は飛んで来ませんし」
 「それに朝の清掃で既に除去したと学生の方から報告を受けています。伊藤二尉が点検に行きましたが確かに除去されていました」
 「だったら何故」
 本郷は首を傾げた。
 「ちょっと気になりますね。赤煉瓦の前まで行っていいですか?」
 「ええ、どうぞ」
 彼の許しを得て赤煉瓦の前へ向かう。赤煉瓦は真っ暗闇であり人の気配は無い。
 「こうして見るとかなり不気味な建物だな」
 ポツリと呟いた。この学校は兵学校からの歴史もあり幽霊話も極めて多い。
 懐中電灯を点ける。井上二尉から借りたものだ。
 「この辺りだな」
 懐中電灯で照らしてみる。あの赤い花は何処にも見当たらなかった。
 「やっぱりな。じゃあどういう事だ」
 ゴミ捨て場は隊舎の一階にある浴室のすぐ下にある。教官室からはかなり離れている。
 「風が吹いてもあそこまで飛ぶとは考えられない。ましてや午前中のゴミはとっくに捨てられている」
 考える。その時ふと芳しい香りがした。
 「これは・・・・・・」
 それは花の香りだった。きつい、何処か癖のある自己主張の強い花の香りだった。
 「・・・・・・ダリアか?」
 その花の香りはダリアのものに似ていた。だが違っていた。ダリアの香りはここまできつくはない。
 「違うな。何の香りだ」
 その時本郷の全身に寒気が走った。恐ろしい妖気を感じた。
 「!!」
 咄嗟に身構える。懐から短刀を抜いた。
 「そこかっ!」
 気配のした方へ短刀を投げる。そして背中から刀を抜いた。
 だが気配は消え去っていた。既に何処かへ逃げ去ったらしい。
 「素早い奴だ。もういなくなったか」
 暫く様子を見ていたがやはり気配はしない。刀を収め立ち去った。
 ちらりと右の方を見る。そこには短艇が置かれている松林があった。
 「そういえば我が国には海から来る血吸いの化け物もいたな」
 磯女や濡れ女といった妖怪達である。これ等の妖怪は陸に上がり人の血を吸い殺す。
 海は黒く闇の中に沈んでいた。本郷はそこにえも言えぬ不気味さを感じていた。
 翌朝早く本郷は置き海辺のところを歩き回っていた。怪しい場所は無いか捜査しているのだ。
 「こうして見ると色々とありそうだな」
 ヨットや訓練用の船まで置かれている。その置き場のどれもが怪しく見える。
 「ここまで来ると疑心暗鬼だな」
 そう言って苦笑した。海の表面は静かだがその奥は暗闇に包まれ見えないのだ。
 「一回この辺りの海を潜って調べてみるか。冗談抜きに怪しいぞ」
 そうこう考えているうちに六時になった。総員起こしを知らせるラッパが鳴った。
 「もうそんな時間か。早いな」
 短艇置き場を見回る。やたらとフジツボが目につく。
 「舟虫までいる。これは何処にでもいるな」
 カサコソと動き回る灰色の虫を見ながら呟いた。その時向こう側から何か大きな音が聞こえてきた。
 「何だ?」
 赤煉瓦の方だった。振り向くと紫の作業服の一団がこちらへ向けて全速力で駆けて来る。
 「一体何の訓練だ?」
 慌てて短艇庫の方へ走る。そして彼等の邪魔にならないようにする。
 見れば候補生達である。皆必死の形相で短艇に飛びつきそれを降ろす。そして次々と飛び乗る。
 短艇が次々と出て行く。そして漕ぎ去っていく。
 「あ、何処にいらっしゃったんですか?」
 学生隊長である。ジャージを着ている。
 「いえ、海辺の方も調べていたんです」
 本郷は正直に答えた。
 「おやっ、海にも吸血鬼はいるんですか?」
 「ええ、まあ。ところでこれは一体何の訓練です?」
 あるブイからUターンして来る短艇を手で指しながら問う。
 「あれですか?総短艇というものです」
 学生隊長は誇らしげに答えた。
 「総短艇ですか。話には聞いてましたが」
 「おや、ご存知でしたか」
 何故か妙に嬉しそうである。
 「ええ。この候補生学校の名物とも言える訓練の一つだとか。以前何かの本で読んだ事があります」
 「そうです。何時この訓練が行なわれるかは秘密であう。これで即応体制等を養うのです」
 「そうなのですか」
 そういえば教官室の一つが昨日夜遅くまで明るかったな、と本郷は思った。
 そうこう話しているうちに訓練は終わった。優勝は2分隊だった。
 「何かやけに嬉しそうな方がいますね」
 「あの人でしょう?元木一尉といいます。あの分隊の分隊長です。こういった勝負事に異様に燃える人でしてね」
 「成程、だからあんなに嬉しそうなのですか」
 「ええ。そのかわり負けた時は物凄く機嫌が悪くなりますが」
 「ははは、解かり易いですね」
 そして本郷は隊舎に帰った。とりあえず海に潜る事を許可してもらおうと考えていた。
 「俺自身で潜るか。自衛隊の人に迷惑かけちゃ悪いしな」
 彼はダイバーの資格も持っている。実際に河童や水虎を潜って退治した事もある。
 大講堂と呼ばれる古風な趣のある建物の前を横切る。入校式や卒業式等重要な行事が行なわれる場所だという。
 「綺麗だけどやけにものものしい建物だな」
 本郷は見上げながらそう思った。欧風を取り入れる事の多かった兵学校だがこの建物は赤煉瓦と並んでその傾向が強い。白くまるで宮殿の様である。
 「これだけ大きいと掃除も大変だろうな。そういえばいつも大人数で掃除してるな」
 その時前から誰かが全速力で駆けて来た。
 「?俺にか?」
 その通りだった。見れば当直士官の武藤一尉である。3分隊の分隊長らしい。
 「どうしたんですか?一体」
 そう言いながら何かあるな、と思った。また犠牲者が出たか。内心暗澹たるものになった。
 「・・・・・・ちょっと来て下さい」
 その必死に狼狽しそうになるのを抑えた様子から大体察しはついた。彼について行く。
 隊舎の二階だった。そこに犠牲者はいた。
 「やはり・・・・・・・・・」
 その屍を見て自分の予想が当たった事を嫌に思った。物言わぬ屍は虚空を見上げたまま何も語らない。

 またもや起こった事件に候補生学校は騒然となった。話される事はそればかりであり皆姿を見せぬその殺人鬼の影に怯えていた。
 「まずい事になったな」
 こういった状況は容易にパニックに繋がる。そうすれば魔女狩りかそれに似た状況になる。そうすれば除け者にされる者も出て来る。それこそ吸血鬼の狙いなのである。
 「捜査を急ぐか。このままでは恐慌状態になる」
 学校長に海中の捜査を求めた。これは思っていたよりもあっさりと認められた。
 「意外ですか」
 学校長は快諾され拍子抜けする本郷に対して笑いながら言った。
 「ええ、まあ」
 とかくお役所は何だかんだと言ってこうした面倒な事を好まない。だからこそ本郷も何としても認めさせるつもりだったのだ。
 「全ては事件の迅速な解決の為です。大いにやって下さい」
 「それにしてもスーツやボンベまで貸して頂けるとは・・・・・・」
 あまりの太っ腹に流石に少し悪い気がした。
 「なあに、こういった事は徹底的やりませんとな。中途半端が一番良くない」
 どうも思ったよりざっくばらんでさばけた人である。
 「そうですか。それでは早速取り掛からせて頂きます」
 本郷はにこりと笑って言った。 
 「ええ。ただし水中銃もお忘れなく」
 「水中銃?ああ、そうでしたね」
 江田島が浮かぶ瀬戸内海はわりかし鮫が多い。何年かに一度鮫の被害もある。
 「どうぞ」
 ある教官からスーツとアクアラング、そして水中銃を手渡される。
 見れば顎がやけにしゃくれた人物である。一分隊の分隊長らしい。福本三佐という人である。
 「気を付けて下さい。あの下は色々と岩が入り組んでいますから」
 真摯な表情で忠告される。
 「解かりました」
 それを聞いて本郷の顔も曇る。そういうところにこそ妖怪は潜んでいるのだ。
 福本三佐はこれから講義らしく一緒には行けなかった。代わりに別の教官が来た。国母二尉という人だ。かなりの巨漢である。
 「くれぐれもお気を付けて、何かあったらすぐに行きますから」
 国母二尉もスーツを身に着けている。
 「その時は・・・・・・出来る限り来ないようにします」
 アクアラングを口にし飛び込んだ。中は緑の世界だった。
 視界は悪い。水中眼鏡を着けているとはいえ殆ど見えない。
 (これは思ったより厄介だな)
 目の前を魚が横切る。結構大きな魚だ。
 海底に辿り着く。福本三佐の言葉通り岩が入り組み穴が多い。
 (むっ)
 穴の一つから何かが出て来た。それは蛸だった。
 (蛸か。そういえばここは牡蠣の名産地だったな)
 思えば折角江田島に来たのに海の幸を全然食べていない。朝から昼まで歩き詰めで捜査ばかりしている。
 (まあそれが仕事なんだけれど。終わったら食べに行くか)
 泳ぎ去っていく蛸を見ながらそう考えていた。海の幸は嫌いではない。
 小さい穴は用心して通り過ぎて行く。隠れているとすれば大きな穴だ。小さな穴はかえって危険だ。蛸なら墨を吹くだけだがもしウツボなら冗談では済まされない。
 (見ればガンガゼまでいる。下手に触ったら吸血鬼どころじゃないぞ)
 手の動きに敏感に反応する海栗を見て思った。それにしても大きな穴が見つからない。
 (おかしいな。怪しい場所は一つも無いぞ)
 本郷はいぶかしんだ。海ではなかったのか。
 (一番怪しい場所だったが。だとすると陸しかないな)
 そう考えていた時だった。頭上を何かが襲った。
 『何っ!?』
 それは緑の槍だった。二三本空から海中へ突き刺さった。
 『上かぁっ!』
 急いで上へ急ぐ。どうやら第二撃はまだらしい。
 海上へ顔を出す。そして咄嗟に周りを見る。
 「何処だっ!」
 だが緑の槍の主は何処にもいなかった。周りには小船も無く海面も静かだった。
 「いないか・・・・・・」
 気配もしなかった。何処から攻撃したのかさえ解からなかった。
 「本郷さ〜〜ん、どうしましたあ〜〜〜っ?」
 見れば短艇置き場はかなり遠くになっていた。呼び掛ける国母二尉の巨体がまるで豆粒の様である。
 「あ、何でも無いです」
 大声で言葉を返す。結局この捜査では何も手懸かりは得られなかった。
 「海にはいないか、結局」
 スーツやアクアラングを返し本郷はヨット置き場から海を眺めていた。
 「しかしさっきの緑の槍・・・・・・。明らかに俺を狙っていた」
 それが誰の手によるものか、解からぬ筈がない。
 「やっぱりいるな、化け物が」
 ふと赤煉瓦を見る。日に照らされその赤さが一際際立っている。
 「俺に喧嘩を売ってくれるとはな。じゃあ買ってやるよ、高くな」
 風が吹いた。静かだった海面が波立つ。

 その頃江田島に一隻のフェリーが呉から来た。この島には当然の様に電車は走っていない。車で来れないこともないがかなりの遠回りとなる。従って最もよく使われる交通手段は船である。
 フェリーは呉からのものと広島からのものの二つがある。広島から呉に行くのに結構時間がかかるが広島からでも時間は大して変わらない。ただ船は呉からのものの方が大きくゆったりと出来る。
 そのフェリーから一人の男が下船した。茶色の髪を中央で分けた細面の男である。細い一重の眼をした色の白い中々の美男子である。紺色のスーツに青いネクタイと白のカッター、そしてその上からクリーム色のコートを着ている。
 背は結構ある。本郷よりも少し大きい程か。だが全体的に細い為大柄という印象は受けない。
 「遅れてしまったな」
 その男はフェリーの桟橋を出て一言言った。
 「本郷君はどうしているかな。また可愛い女の子に声を掛けていなければいいが」
 どうも本郷の事を良く知っているらしい。
 「さて、と行くか。あの道をまっすぐに行けばいいな」
 目の前に車道は広いが歩道の狭い登り道が見える。
 ふとタクシーやバスが目に入る。だがそれには乗ろうとしない。
 男はそのまま歩いていく。そして登り道の歩道を歩いて行く。
 
 「そうですか、海の中には何もおかしな所は無かったですか」
 学校長が校長室で本郷の報告を受けていた。
 「はい。どうやら海から来た奴ではないようです」
 本郷は言った。捜査中に攻撃を仕掛けられた事は黙っている。
 「だとすればやはり中にいるのですか。だとすれば何処に」
 校長は腕を組んで考えた。
 「何日かこの学校を捜査させて頂きましたが色々と隠れようと思えば隠れる事の出来る場所が多いですね。ひょっとしたら思わぬ場所に潜んでいるのかも」
 「思わぬ場所・・・・・・」
 その言葉に校長は更に思案を巡らせた。
 「何しろ広い学校ですからな。思い当たる場所は多くあります。とにかく隠れていそうな場所は私が考える限りでもかなりありますよ」
 「ですね。今その場所に一つずつ結界を置いていっているのですがこれにも一つ問題があります」
 「何ですか?」
 「若し吸血鬼が一つの場所に隠れておらず常にこの学校内を移動しているとしたら」
 その言葉を聞いてさしもの学校長にも悪寒が走った。まさかこのすぐ側にも吸血鬼は蠢いているのかも、そう考えるだけで言いえぬ恐怖に囚われた。
 「しかも相手は昼にも行動を起こしています。これは注意して考えるべきです」
 多くの人は吸血鬼は夜行性だと考えている。ここに盲点があるのだ。
 「しかも襲われているのは一人でいる者ばかり」
 「はい。複数でいる場合は事件は起こっていません。これからは校内にいる人は極力一人での行動は控えるべきです」
 「・・・わかりました。すぐに通達しておきましょう」
 「これだけで犠牲者がかなり減る筈です。ここは自衛隊なので団体行動が基本ですがそれをより徹底させて下さい」
 「はい」
 校長は頷いた。本郷は正直将補の様な地位のある年配の人にこうして命令の様に言うのは気が引けたが悠長な事を言っている場合ではないと考えたからだ。
 「後は対策ですが・・・・・・」
 ここで本郷は表情を暗くした。
 「申し訳ありませんが相手が一体どの様な種のものかまだ把握出来ていません。ですが海からのものでもアンデッドでもないのは確かです。そして確実にこの校内にいます。絶対にこの手で倒してみせます」
 「それはお願いします。我々は海と空から来る人に対しては対処出来ますが人でない異形の者は難しいので。頼みますよ」
 「はい」
 ここに来た時と似たようなやり取りで校長との話は終わった。

 本郷は赤煉瓦を歩いていた。今は昼休みで中に生徒はいない。
 だが隊舎内は別である。昼の間も彼等は忙しく動き回っている。
 教官室の前にも多くの生徒がいる。皆皮の黒い鞄を手にせわしなく動いている。
 「俺より忙しそうだな」
 映写講堂と呼ばれる講堂の横を通る。民間から講師等を招いたりした場合はここで講義を行なうらしい。
 「何かどっかの団体の館長も呼ばれた事があるらしいな」
 顔を講堂に向けながら呟いた。
 「あそこを贔屓にしている野球選手は嫌いだがな。態度が酷過ぎる」
 そう思いながら視線を下げる。その時ある花に気が付いた。
 「この花は・・・・・・・・・」
 間違い無い。赤煉瓦の前にあったあの花だ。この血の様な赤は忘れようとしても忘れられない。
 「こんな場所には無かった筈だが」
 本郷の心の中に凄まじい疑念が生じた。
 「一体どういう事だ、花が動くわけがない」
 今までの事が彼の脳裏で目まぐるしく動いた。そしてある結論に達しようとした。
 「結論を下すにはまだ早いか」
 本郷はそこで思考を止めた。
 「どちらにしろすぐにわかることだ」
 本郷は隊舎に戻った。そしてその刃を白く光らせた。
 
 隊舎に戻ると何やら妙な事が起きている。入口にニンニクの束が飾られているのだ。
 「これは?」
 見れば十字架まである。何がしたいのか一目瞭然だった。
 「まあ一応気休めにですが。こうしておけば学生達もいささか安堵するでしょうし」
 伊藤二尉が言った。どうやらこの人が全て手配したらしい。
 「しかしお言葉ですがこれは吸血鬼のほんの一部にした効きませんよ。スラブの方のものにしか」
 「それはよく解かっております。しかし」
 伊藤二尉は顔を暗くすると共に締めた。
 「このままでは学生達がパニックに陥りかねません。それを防ぐには例え気休めでもしておかないと」
 「そうですか」
 その気持ちは痛い程よくわかる。確かにこのままでは皆恐怖に耐え切れなくなるだろう。
 「けれど御安心下さい。吸血鬼の正体はもうすぐ掴んでみせます。それまでの辛抱です」
 「はい」
 本郷は部屋に戻った。そしてそこで刀や短刀の手入れをはじめた。
 (早ければ今日にでも出て来るな)
 刃をかざす。白銀の光がその場を照らす。
 (その時に決めてやる。必ずな)
 やがて日が暮れた。夜の帳が学校を支配する時になった。

 消灯の時間になった。本郷は部屋にいなかった。
 「ここなら全部見えるな」
 隊舎の屋上にいた。その場所から学校全体を見下ろしている。
 「さて、何が出るか。鬼や狐みたいな生半可な奴でない事だけは確かだな」
 教官室の方を見る。流石にもう誰もいないらしく灯りは灯っていない。
 左手には夏期に使われる講堂がある。そこにも灯りは点いていない。
 「隊舎の中は来れまい。あれだけの結界を張るのには苦労したがな」
 ニヤリ、と笑う。どうやら相当の自信がある様だ。
 夏期講堂から目を離し教官室の方を見る。廊下を見渡した後映写講堂を見る。
 「あの花は見えるかな」
 ふとあの赤い花の事を思い出す。そして目をやる。
 見れば相も変わらず赤い花を咲かせている。夜だというのにその中に赤い光を発するように咲いている。
 「あそこまでいくとかえって不気味だな」
 そう思いながら見ていた。ふとその花が妖しく動いた。
 「むっ!?」
 花が急に大きくなる。花びらが人の形を取りはじめる。
 「どういう事だ・・・・・・」
 植物の妖怪とも何回か闘った事がある。『ほうこう』という木の精の一種や呪木っ子という妖怪等である。
 「人に変化する物の怪か・・・・・・」
 見た所西洋の妖精に近いのかも知れない。緑の長い髪を持つ全裸の若い女に変化した。
 「緑の髪・・・・・・」
 それには心当たりがあった。海中を捜索していた時頭上から彼を襲ったあの緑の槍だ。
 「あいつか。間違い無い」
 本郷は屋上から降りた。そして隊舎を出た。
 女怪は教官室の上の階の廊下を進んでいた。本郷の事には気付いていないようだ。
 映写講堂の方を遠回りに回りその廊下へ向かう。彼が着いた時女怪はそこにはいなかった。
 「何処だ」
 辺りを警戒しつつ前へ進む。既に刀を抜いている。
 廊下の中央に出た。上下へ進む階段がある。
 「どちらだ」
 強い花の香りがした。赤煉瓦の前で嗅いだあの香りだ。それは上の方からした。
 「上か」
 階段を登る。三階に出た。
 香りは更に上にまで続いている。それは屋上にまで続いていた。
 「屋上か」
 学生隊長の言葉を思い出した。暑い時にはよく屋上で寝たものだと。
 屋上へ上がった。そこにはあの女怪がいた。
 こちらに背を向け前へ進んでいる。だが本郷の気配に気付きこちらを振り向いた。
 白い肌に赤い血の様な眼をしている。人の血を吸う魔物には紅い眼を持つものが多い。
 「やっと会えたな。思えば遠回りしたものだ」
 あの花が正体だったとは。今思えば妙な事が多過ぎた。
 「もっともそちらは早いうちからこちらの事には気付いていた様だがな」
 左手で刀を構える。右手には短刀を持つ。
 「海でのあの緑の槍、御前の仕業だな」
 それに対し女怪は笑みで答えた。魅惑的でありかつ残忍さをたたえた笑みだ。
 「そうだとしたら?」
 高く澄んだ美しい声である。しかし何処か血の混ざった感じがある。
 それは肯定であった。それが証拠に右腕を本郷に向けてきた。
 「だったら話は速い。宣戦布告はとっくの昔に行なわれているんだしな」
 本郷はその目を光らせた。
 「どういたしまして。そしてそれは受け取るの?どうするの?」
 その右手を顔に近付けた。見れば緑の爪をしている。
 「決まっている。買ってやるさ。代金は貴様の命、釣りはいらないぜ」
 短刀を投げた。一直線に女怪へ向かって飛んでいく。
 刀身には盆字が書かれている。経典にも使われ法力が込められている。
 一本だけではない。本郷は短刀を次々に投げた。一直線に、流星の様に女怪へ向かって飛んでいく。
 しかし女怪は怯まない。その数本の短刀を表情を変えず見ている。
 「その程度か」
 笑った。不敵な笑みだった。
 右手を横に一閃させた。すると短刀が全て地に落ち音を立てて転がった。
 「何!?」
 見れば女怪の指が変形していた。その緑の爪が蔦になっていたのだ。
 その蔦の色には見覚えがあった。海で捜査をしている時上から襲い掛かってきた槍だ。
 「成程、それが貴様の武器か」
 縮み元の爪に戻っていくその蔦を見ながら言った。
 「その通り。けれどこの蔦はこれだけじゃないのよ」
 「ほお、まだ使い道があるのか。便利な蔦だな」
 「どういたしまして。それはそうと何に使うか知りたいでしょ?」
 「勿論」
 本郷は懐から新しい短刀を取り出しながら言った。まだストックはある。
 「こう使うのよ」
 そう言うと右手を前に伸ばした。爪が再び蔦に変化した。
 その蔦が本郷の喉下に襲い掛かる。本郷はそれを刀で咄嗟に打ち払った。
 「首を・・・・・・そうか」
 その攻撃で本郷はこの蔦が何の為に使われるのか悟った。
 「その通りよ。私はここから血を吸うのよ」
 女怪はニイィ、と笑った。その唇が血の様にぬめった。
 「勿論口から吸う事も出来るけれどね。けどね、指から吸うのが一番美味しいの」
 「だろうな。植物は根から養分を吸うからな」
 本郷は場所を移動した。出来る限り攻撃し易い場所を探している。
 「そうよ。これでここの子達の血を頂いたの。とても美味しかったわ」
 蔦を爪に直しながら言った。
 「成程ね、じゃあ今までさぞかしたっぷりと頂いたことだろう」
 「いえ、まだよ。まだ満腹にはなっていないわ。私のこの美しい身体をより美しくする為にはもっと血が必要よ」
 「ふん、何処ぞの伯爵夫人みたいな事を言いやがる。結局人も化け物も血に狂った奴は考える事が同じってことか」
 かってハンガリーにはエリザベート=バートリーという女がいた。彼女は自分の美しさを保つ為多くの若い娘を鉄の処女と呼ばれる機械で惨殺し、その搾り取った血で風呂に入り恍惚としていたという。今でも欧州の暗黒の歴史にその名を残す呪われた魔性の女である。
 「今度は貴方の血を頂いてあげるわ」
 そう言うと腕を本郷に向けてきた。爪が蔦に変わり襲い掛かる。
 「生憎俺の血は吸わせるわけにはいかなくてね」
 跳躍でそれをかわす。そして着地してすぐに構えを取った。
 「もっともこれ以上他の誰の血も吸わせるつもりは無いが。諦めて魔界にでも帰ったらどうだ」
 「折角だけれどお断りするわ。だってまだまだ満腹になっていないんですもの」
 そして再び蔦を伸ばす。本郷はそれを冷静に見ていた。
 「見切った!」
 蔦が本郷の身体をすり抜けた。そして逆に短刀が女怪を襲う。
 「うっ!?」
 女怪はそれをぎりぎりのところでかわした。蔦を慌てて引き戻す。
 「どういう事!?身体をすり抜けるなんて」
 「ふん、見切りというものを知らないらしいな」
 本郷は自信に満ちた顔で笑った。
 見切りとは武道の極意の一つである。相手の攻撃の動きや早さを完全に掴みそれを至近で最少の動きでかわすのである。武道の達人のみが為し得る技である。
 「見切り・・・・・・。よくは解からないけれど要するに私の攻撃を読んでいるということね」
 「まあそういう事だ。もう貴様の蔦は通用しないぞ」
 「それはどうかしら」
 それに対して女怪は笑った。
 「強がりか。プライドの高い吸血鬼らしいな」
 「強がり?違うわね」
 女怪は言い返した。
 「知っているのよ。貴方の確実な死を」
 「それは七十年後か、八十年後の話か?少なくとも今の話じゃないな」
 「いえ、今よ」
 女怪の腕が上がった。すると床から棘が出て来た。
 「ムッ!?」
 それは地走りの要領で本郷に向かって来る。本郷はそれを横に見切ってかわした。
 「甘いわね」
 そこへ蔦が来た。本郷の右肩をかすった。
 「失敗したわね。その首に突き立てて吸ってやろうと思ったのに」
 「お生憎様・・・・・・」
 軽口を叩くがその顔は笑っていない。頬を冷や汗が伝う。
 「けれど今度は外さないわ。覚悟するのね」
 女怪は笑った。勝利を確信した笑みだった。
 「それはどうも」
 表面上は軽口を叩く。だが内心はまだ冷や汗が流れている。
 (まずいな、これは)
 一つだけなら何無くかわせる。だが複合攻撃となると厄介だ。
 (見切りは駄目だな。跳ぶしかないか)
 棘が来た。それが地走りしてこちらに来る。
 「はっ!」
 本郷は跳んだ。こうするしかなかった。
 「やはり!」
 女怪の爪が伸びた。だが本郷はそれを刀で打ち払った。
 「何の!」
 だげそれで終わりではなかった。もう一撃来た。
 「なっ!」
 それは左腕だった。刀には右の蔦を打ち払った衝撃がまだ残っている。こちらに戻すにはまだ間がある。
 「かかったわね」
 それを見て女怪は笑った。蔦はそのまま一直線に本郷の首筋へ向けて伸びていく。
 (終わりか・・・・・・!)
 さしもの本郷も観念した。その時だった。
 何かが左の蔦を撃った。その衝撃により蔦は大きく弾き飛ばされた。
 「誰っ!?」
 咄嗟に辺りを見回す。危機を脱した本郷は両足を屈めて着地した。
 「だらしがないな、本郷君」
 本郷から見て右手、女怪から見て左手から声がした。二人はそちらへ顔を向けた。
 「遅いですよ、全く」
 本郷がその声の主に対し微笑みながら言った。
 「申し訳ない、手こずったものでね」
 声の主もそれに対し微笑みをもって返した。コートを着た男がそこにいた。手には拳銃を持っている。昼にフェリーで江田島に来たあの男だ。月の黄金色の柔らかな光を背に立っている。
 この男の名は役 清明(えんのきよあき)という。本郷と一緒に京都で探偵を営んでいる。言わば彼の相棒である。
 「吸血鬼と聞いていたが意外だな。アンデッドではなく植物の変化とは」
 役は銃を構えながらその女怪と対峙した。
 「だがそうだからといって対応が変わるわけじゃない。遠慮なくこの銀の銃弾を受けてもらうぞ」
 照準を女怪の胸に合わせる。
 「あら、私が植物の変化ですって?」
 役の言葉に対し皮肉混じりに言った。
 「他にどう見ろというんだよ、花から変化してるっていうのに」
 本郷が言い返した。
 「所詮その程度の知識しか無いの。とんだヘボ探偵ね」
 「生憎今まで失敗した仕事は無いけれどな」
 本郷は更に言い返した。
 「それは今までの相手が大した事なかったからでしょうね。今の仕事で失敗してあの世に旅立つことになるわ」
 「それはどうも」
 女怪の言葉に今度は役が返した。
 「しかしその蔦でどうして植物の魔物でないと言えるのだ?」
 役が照準をその頭部に当て直しながら問うた。
 「それはあの赤煉瓦を見る事ね」
 「赤煉瓦?」
 その言葉に二人は眉を上げた。
 「そう、あの赤煉瓦をよく調べてみることね。そうすれば私が何なのか解かるかも知れないわよ」
 女怪はそう言うと左手を肩の高さで掲げた。
 「今日のところはこれでさようなら。次に会う時までその血と命、預けておくわ」
 「むっ、待て!」
 二人が叫び攻撃を仕掛ける。だがそれより前に女怪の身体を赤い無数の花びらが包んだ。
 花びらは吹雪となり彼女の身体を包んだ。そして彼女はその中に姿を消した。
 「消えたか」 
 花びらが全て地に落ちた時女怪の姿は無かった。その花もまるで幻影の様に消えていった。
 「今日のところは仕留め損ないましたね。次に会った時にしますか」
 「ああ。しかし気になる事を言っていたな」
 役は考える顔をした。
 「ええ、赤煉瓦がどうとか」
 本郷も眉を顰めた。
 「どういう事だ。あの建物に何か秘密があるとでもいうのか」
 二人はふと左手を見た。そこには闇夜の中月の光に照らし出される古い欧風の建物があった。