吸血花 第二幕
作:坂田火魯志





第二幕 闇に乱れ散る花


 屋上での闘いの後本郷と役は捜査を続けると共に赤煉瓦について調べた。それは主に図書室に置かれている資料や兵学校の歴史に詳しい広報官の人に聞く等して行なわれた。
 「こうして調べてみるとつくづく歴史のある建物ですね」
 「ああ。ここであの帝国海軍の提督達もその青春時代を過ごしていたしね」
 二人は中庭を歩き回りながら話していた。
 「あと上下関係がかなり厳しかったようですね」
 「それは有名だよ。一号生徒と四号生徒じゃ石ころと神様程地位が違っていたというし」
 役が中庭に転がっている一つの小さな石を見ながら言った。
 「それはちょっとオーバーでしょう」
 「オーバーじゃないよ。昔はそんなものさ。あの武専もそうだったし」
 武専、その正式名称は武道専門学校という。日本全国から柔剣道、そして薙刀の達人を選りすぐって集めた学校であり少数精鋭を旨とした武芸者の養成機関とも言える学校であった。その門は帝国大学など比べ物にならずこの学校に落ちた者の受け皿としてあの国士舘大学が設立された程である。今だにその名が伝えられている伝説的な学校である。
 「武専ですか。あそこはまた極端な例でしょう」
 「それより極端な例がここだよ。本郷君、それにしてもその事を知らなかったのかい?」
 役がそう言って本郷の顔を見た。少し意外そうな顔である。
 「いえ、知っていましたよ。ただあの武専より凄いとは」
 彼は剣術を学んでいる為武専の事にも詳しい。なお他の武道の事にも詳しいのである。
 「有名なのが鉄拳制裁かな。歯を食いしばれっ、というあれ」
 「あっ、それは映画でも見ました」
 「兵学校といえばその鉄拳制裁。入学したらいきなり始まったらしいからね」
 「何か体育会系ですね」
 「そう、体育会系の基の一つだったからね、ここは。その他にも色々と厳しかったんだよ」
 「それは本で読んだ事があります。『赤煉瓦の監獄』って呼ばれていたんでしょう」
 「何だ、詳しいじゃないか」
 役は少し呆れた顔で言った。
 「ある程度は知っているつもりでしたけれどね。ただそこまで物凄いとは」
 「けれどあまり辞める人はいなかったらしいよ」
 「何でですか?」
 「意地があるからね。折角入ったっていう。何せ東京帝国大学に入るより難しかったそうだから」
 「そうらしいですね。じゃあ武専とどっこいどっこいというところですか?」
 「だから何でいつも武専を出すのかな。まあ確かに難関だったけれどね」
 役はそこまで言うとふと顔を暗くした。
 「確かに辞める人は少なかったけれどね」
 「・・・・・・何かありそうですね」
 本郷は彼のその顔から何かを察した。
 「うん。自殺者は結構いたらしい」
 「自殺者、ですか」
 かっての軍は組織に人を合わせるという方針であった。これはどの組織でも大なり小なりそうであり責められる謂れは無い。組織とはそういった一面を持つ事は事実である。だから組織によっては合わない人もいる。ただ軍隊というものはそれが他の組織よりも強いのである。
 だからこそ合わない人物も多い。体育会系のノリについていけない人や厳格な規律に馴染めない人、暴力に耐えられない人。特に暴力に耐えられない人にとってはつらいものであろう。今だに暴力教師などという社会にとって悪性腫瘍でしかない輩が多々いる嘆かわしい現状であるがこの時代こうした暴力は常識であった。暴力教師とは似て非なるものではない。彼等はこの時代の常識に従って拳を振るっていたのであって暴力教師の様に自らの感情や嗜虐性を抑えられずに無意味な暴力に走る輩共とは根本から異なるのである。
 だがその暴力に耐えられない人というものは何処にでもいる。何時の時代にでも。こうした人達にとってそれは耐え難い苦しみであり何時それが振るわれるか怯える日々が続く。
 これに耐えられるうちはいい。だが耐えられなくなった場合事態は悲劇となりかねない。
 「・・・・・・まあ何時の時代にでもある事ですけれどね」
 「ああ。悲しい事にね」
 役は目を閉じ静かに頷きながら言った。
 「そうした歴史もここにはあるんですね」
 「そういう事になるね。この建物は伝統と共にそうした陰の歴史も併せ持っているんだ」
 役はその言葉で説明を締めくくった。
 「ただここまで聞いて一つ気になる事があるんですけれど」
 「何だい?」
 「あの吸血鬼は女ですよね。ここはつい最近まで男ばかりのところだったんじゃないですか」
 「そう、問題はそこだ」
 役が指をビシッと振りながら言った。指が一振りしたところで止まる。
 「出て来るのが死霊だったら話は解かるんだ。実際この学校はそういった話が多いようだしね」
 「軍の施設には付き物ですね」
 「まあね。特にここは世界有数の心霊スポットでもあるし」
 あまり知られていないが事実である。
 「しかし女の霊、ですか?何か違うと思いますけれど」 
 「そうなんだ。私も考えているんだが妙に引っ掛かる」
 役は首を傾げた。
 「大体蔦や棘、花びらを使うところを見ると花の怪だが違うようなことを言っているし。赤煉瓦というのなら死霊か何かだろうがやはりそれでもなさそうだ」
 「この学校に詳しい人に聞いてみますか?」
 「そうだな、それがいい」
 こうしてこの学校の事に詳しい人物に話を聞く事になった。教官の一人斉藤准尉という人である。
 髪に白いものが混じったやや小柄な人である。一見頑固で怖そうであるが話してみると温厚で気配りの出来た人である。
 「女の霊、ですか」
 教官室で幅の広い椅子にすわりさえ佐伯准尉は二人と話をしていた。それを聞いて彼は口に右手を当てた。
 「ご存知ですか?」
 本郷は思わず身を乗り出した。
 「ええ。一応は」
 准尉は口から手を離し答えた。
 「ですが赤煉瓦とは関係ありませんよ」
 「えっ!?」
 その言葉に二人はいささか拍子抜けした。ちなみに女怪の事は校長以外には話していない。
 聞くところによると戦前兵学校の時代に学校で訓練を受けている夫に赤子を見せる為に入った女性が撃たれたという。その場所は赤煉瓦の前のグラウンドだという。
 「あそこだったんですか」
 本郷はあの緑のグラウンドを脳裏に映し出した。伊藤二尉に案内してもらった場所だ。
 「はい。夜になると女の声が聞こえるとか」
 「そうですか。哀しい話ですね」
 「ええ、まあ」
 佐伯准尉はそう言うと顔を暗くした。どうもあまり話したくはなかった話らしい。
 その話の後二人はそのグラウンドに出た。
 「どうです?何か気配はありますか?」
 本郷が尋ねる。こうした事は役の方が得意だ。法力は彼の方が断然凄い。
 「ううん・・・・・・」
 役は顔を顰めた。
 「霊力は感じるが少し違うな。あの女怪のものとはまるで異なる」
 「そうですか。やはり」
 「君も感じるだろう?この場で感じられる気は人のものだ。あの女怪のものは明らかに魔物のものだ。しかも強さが違う。あの者からは強烈な妖気と憎悪が感じられた」
 「ですね。それは俺にもわかりました」
 本郷が頷いた。
 「あともう一つ気になるんだが」
 そう言って顔を海の方へ向けた。
 「君が攻撃を受けたのはあそこだったよな」
 短艇庫の方へ指を向けた。
 「ええ」
 「気になるな。見ておこう」
 二人は短艇庫の方へ向かった。
 「丁度あの辺りでしたね」
 短艇置き場のところから先日本郷が襲われたあたりを指差す。
 「そうか、あの場所か」
 役もその場所を確認した。目の光が強くなる。
 「何か感じますか?」
 「・・・・・・いや。海の方にもこちらにも妖しい気配は一切感じられない」
 役は首を振った。そこで視線を移した。
 「そういうわけでもないな。この砲台から妙な気を感じる」
 左手にある巨大な戦艦らしきものの砲台を見る。
 「これですか、確か陸奥の砲台ですよね」
 「うん。第二次大戦の時に爆発事故で沈没した艦だったね」
 陸奥はワシントン軍縮会議開催中に竣工した艦であり第二次世界大戦中も南洋に展開していた。この艦はある事件で有名である。
 昭和十八年六月八日、第三砲塔付近から突如として白煙を吹き上げた。そして火薬庫の爆発が生じ船は真っ二つになり沈没したこの際多くの船員が船と運命を共にしている。その数千百二十一名であった。その沈没の原因は放火とされるが今ひとつよく解からない。不明な点も多い事件であった。
 その後靖国神社や高野山にレリーフや碑文が贈られた。船と共に海に沈んだ英霊達は今静かに眠っている。
 この砲塔はその主砲塔である。爆沈後に引き揚げられたものではなく軍縮条約の時に取り外されたものである。
 「何か妙だな。ごく普通の砲塔なのに」
 「まあああいう事故のあった艦の砲塔ですけれどね」
 二人がそういった話をしていた時だった。不意に後ろから声がしてきた。
 「何しとるんですか?」
 中年の髪の黒い男性である。顔は見た事がある。大熊三佐という。この人も教官の一人だ。
 「いえ、ちょっとこの砲台が気になりまして」
 役が答えた。
 「おお、流石ですな。やはり気付かれましたか」
 大熊三佐は笑って言った。
 「えっ!?」
 その様子に二人は目を点にした。それを見ても笑っている。どうやらその様子が楽しいらしい。どうも少し人が悪いところがあるらしい。
 「実はこの砲台には面白い話がありまして。夜の十二時になると旋回するらしいのですわ」 
 「本当ですか!?」
 その話に二人は驚いた。
 「まあ噂ですけれどね。それを見ようと夜まで自習室で頑張った一術校の者もおります」
 一術校とは第一術科学校、幹部候補生学校とは別にある自衛官の技能教育の為の学校である。ここではミサイルや大砲、通信、レーダー等について学ぶ。
 「それでどうなりました!?」
 本郷が思わず身を乗り出した。
 「結局真相はわかりませんでした」
 大熊三佐はあえて素っ気無い口調で言った。
 「そうですか・・・・・・」
 本郷は拍子抜けした。どうやらこれが見たかったらしい。これは彼の計算のうちだった。
 「しかし一つ面白い事がありましてね」
 ニヤリ、としている。
 「それは何ですか?」
 拍子抜けしている本郷に替わって役が尋ねた。
 「その自習室で机や椅子が急に動き出したらしいのです」
 「!?ポルターガイスト現象ですか?」
 本郷も顔を上げた。拍子抜けしていた顔が急に生き生きとしだした。
 「そうです。それで危なくなって部屋を出たらしいですが」
 「そうなのですか。どっちにしろ不思議な話ですね」
 「この砲台よりもそのポルターガイストの方がよっぽど気になりますけどね」
 二人はそちらの方にも考えを巡らせた。
 「ははは、まあこういった話はここにはいくらでもありますよ、本当に。これはそのうちのほんの一つに過ぎません」
 「はあ」
 二人は陸奥の砲台を見上げた。
 「ですが今度の吸血鬼は怪談では済みませんなあ」
 大熊三佐はここで表情を暗くした。
 「候補生がもう何人も死んでいるのです。これはもうお話では済まされません。一刻も早い解決を望みますぞ」
 「はい」
 これには二人も表情を決した。
 
 大熊三佐が去った後二人は陸奥の砲台を後にした。そしてグラウンドの向こうにある建物を左に見ながら小道を歩いていた。
 「ここが少年術科学校ですね」
 本郷が役に尋ねた。
 「うん。中学校を出てすぐに入隊した自衛隊のホープ達のいる所だ」
 役はその建物を見上げながら言った。
 「ホープ、ですか」
 「ああ。その訓練は候補生達より凄いというな。話は色々と聞いている」
 「そんなに」
 「まあここから防衛大学に行く者もいるし若くして下士官、やがては幹部になっていくからな。相当鍛えられている筈だ。その証拠に彼等の着ている制服は七つボタンだ」
 かって予科練が着ていた服である。
 「七つボタンですか」
 本郷もその服を知っていた。
 「そうだ。それだけでも彼等がどれだけ期待されているか解かるだろう」
 「ええ」
 この七つボタンの制服を着ているのは彼らの他にはパイロット候補生の航空学生、幹部要員である曹候補学生等である。いずれも幹部自衛官になる事を期待されている人達である。
 二人は道を歩いていく。そして何かを探し回っている。
 「やはりここにもいませんね」
 「ああ。やはり何処かに消え去ったか」
 探しているのはあの花である。だが何処にも無い。
 「しかし何処かにいる筈だ。奴はこの学校からは出られないのだからな」
 「ええ。あの赤煉瓦と関係があるからには」
 二人は赤煉瓦の方を見た。
 「それにしてのあの赤煉瓦ですけれど」
 本郷が歩きながら役に尋ねた。
 「確か全部イギリス製でしたよね」
 「そう。イギリスで造られて船で運ばれたんだ」
 「そう思うとかなり手間が掛かっていますね」
 「そうだね。費用も掛かっている筈だ。あの建物は一朝一夕で出来たものじゃない」
 「それも歴史ですか。イギリスというのはやはりロイヤル=ネービーを意識してですか」
 「うん。戦前の帝国海軍はロイヤル=ネービーを範としていたからね」
 「まあ当時のイギリスといえば押しも押されぬ超大国ですからね」
 「そう。七つの海を支配する大帝国だったね」
 「ロンドンでは随分えらいめに逢いましたけれどね」
 「あれは君が悪い。ロンドン塔で白昼に刀を出せば大騒ぎになるに決まっている」
 「けれど皆映画撮影だとばかり思ってましたよ」
 ちなみに二人はかってイギリスで仕事をしたこともある。塔に出る謎の白い影との戦いである。
 「その割には向こうのお巡りさんが団体で血相変えて来てくれたな」
 「あれにはびっくりしました。我が国のお巡りさんに匹敵しますね」
 「おかげで我々はロンドン市警と京都府警のブラックリストに載っているそうだ」
 「残念です。もう少し捜査に理解を示して欲しいです」
 「理解して欲しかったら婦警さんに手当たり次第に声をかけるのを止めるんだね」
 「あれはごく自然な行為ですよ、ごく自然な」
 「ここの隊付の人がぼやいてたぞ。あちこちの女の子に声をかけまくってるって。苦笑していたぞ」
 「おかしいなあ。ちゃんと仕事はしているのに」
 「それと一緒にやるからだろ。嫌でも目につく。自衛官の人達が親切にしてくれるからといって頭に乗らないように」
 「わかりましたよ」
 実はほとんど判っていない。
 「で、話は戻る。赤煉瓦とあの吸血鬼の関係だが」
 「あ、はい、それですよね」
 その言葉に本郷も頷いた。
 「どう見てもあれは我が国の妖怪や魔人ではないな」
 「・・・ですね」
 二人の顔が真剣なものになる。
 「我が国の吸血鬼は飛頭蛮や鬼位だ。花の化身が血を吸うなど聞いた事も無い」
 これは本郷も考えていた事だ。
 「花の変化にしてもおかしい。あんな赤い花の化身は私の記憶には無いよ」
 「俺も初めて見ましたね。花の精とかなら普通可愛らしい女の子か着飾った美女ですからね」
 「あと樹木子かな」
 「あまり違和感はありませんがここに生えるにはちょっと不自然ですね」
 「ああ」
 樹木子とは戦場の跡に生える妖木である。外見は普通の木と変わらないが戦場に流れた血を吸って生きている為血を好む。常にそれに飢えており側に人が通ると木の枝をまるで触手の様に動かしその生き血を吸って殺すのである。
 「最初は樹木子か何かとも思いましたけれどね。それにしては行動範囲が広いですし」
 「そう。あれは近寄る人にしか襲い掛かれない。あの女怪は自分で動けるからな。それに」
 「それに・・・・・・?」
 「あの姿はどう見ても日本人のものではない」
 「ああ、成程」
 それには本郷も納得した。体型といい髪の性質といい顔の造りといい日本人よりも西洋人にそっくりだった。
 「心当たりがあるとすれば・・・アルラウネか」
 処刑場に流れた血を吸って咲く妖花である。外見は美しい女性である。だがその姿に見惚れた者は三日以内に死ぬと言われている。
 「アルラウネですか。確かに近いかも知れませんね」
 本郷もその言葉に頷いた。
 「しかしあの花も人の血を吸う性質ではなかった筈だしな。血を養分とするだけで見惚れた者が死ぬのも処刑場だからすぐに死ぬのは当たり前だしな」
 「ですね。その性質はそんなに悪い妖怪じゃなかった筈ですよ。確かバンシーと似たようなものだったかと」
 バンシーはアイルランドに伝わる妖精である。美しい少女の姿をしており人が死ぬ前兆に姿を現わし泣くのである。
 「そうだな。だがあの女怪には明確な悪意が感じられた」
 「ええ。あれだけの悪意を出している奴は化け物でもそうそういませんよ」
 「うん。おそらくアルラウネではない」
 「ですね。だとすれば一体何なのか」
 「調べてみるか。実は赤煉瓦の事に詳しい人が他にいてね」
 「誰ですか?」
 「今からその人のところへ行こうと思っているんだが。どうだい?」
 「誰か解かりませんけど・・・。手懸かりになるのなら」
 本郷は少し首を傾げながらそれに従った。
 「ようこそ」
 二人はアメリカ海軍から出向してきた人の前に来ていた。マクガレイ大尉という。金髪の大柄な人である。意外と言えば失礼だが日本語がかなり上手い。
 「この人だったんですね」
 「うん。何でもこの学校についての資料をかなり持っておられるらしい。それこそ兵学校の時代のものからな」
 「そうだったんですか・・・」
 これは迂闊だった。この人からも話は聞いていたがその様なものを持っているとは思わなかったからだ。
 「英語のものが殆どですがよろしいですか?」
 大尉は微笑んで言った。
 「ええ。どうか読ませて下さい」
 本郷は喜んで答えた。彼は英語が堪能なのである。
 「はい。それでは私の官舎にどうぞ」
 学校の敷地内に置かれているマクガレイ大尉の官舎に案内される。そしてそこで何冊もの本を手渡された。
 「どれも分厚くてとても読みがいがありますよ」
 大尉はそう言うと悪戯っぽく笑った。実際にずしっとくる重さだった。
 「有り難うございます。それでは喜んで」
 本郷は礼を言って部屋に戻った。そして二人でその書を読みはじめた。
 「こうして読んでみても本当に色々と歴史のある場所ですね」
 本郷が英文の本を苦労して読みながら言った。彼は役程英語が堪能なわけではない。
 「うん。まあ僕はこれだけはあると思っていたけれどね。ところで一つ面白い事がわかったよ」
 「?何ですか?」
 「うん、これだよ」
 役は本郷にその辞典の様な厚い本の一ページを見せた。
 「ここを読んでみて」
 そこにはイギリスで兵学校建設に使われた赤煉瓦を実際に作った職人達について書かれていた。
 「へえ、こんなものまで調べられているんですか」
 これには本郷も驚いた。
 「正直僕も驚いているよ。そこに興味深い人がいるよ」
 「興味深い人、ねえ」
 本郷はそこに目を通した。すると一人海軍と実に因縁深い関係を持つ者がいたのである。
 その人は名のある煉瓦職人だった。王宮の関係者にもその名を知られ王室の宮殿や別邸の建設にも関わる程の人物であった。彼は平民でありながらその腕で多くの人から尊敬されていた。
 だが彼の生活は質素であった。報酬というものにさ程興味を持たなかった。最低限の生活さえ出来れば満足であった。彼の願いはただ一つ、良い煉瓦を造る事だけであった。
 彼は結婚してすぐに妻を失った。妻との間には娘が一人いるだけであった。長く豊かな金髪を持つ美しい娘だったという。
 娘は成長してとある貴族の家の使用人になった。代々海軍の提督を輩出している名門であった。
 その子息の一人に見初められたのである。だがその子息は既に結婚していた。愛人として彼女を欲したのである。こういった話は当時よくあった。ローマの慣習に習った当時のイギリスの貴族のしきたりでは貴族が使用人の少女を愛人や恋人にしても問題は無かったのである。
 これに対し彼女は反抗した。そして言い寄られた時に窓から飛び降りて命を絶ったのである。
 彼女の亡骸は父親の下に送り届けられた。真相は解かっていたが誰も口にしなかった。ロイヤル=ネービーの名家に対しては誰も言えなかったのだ。それに当時の慣習で彼等に落ち度があったわけではなかったのだから。
 娘を失った父親の悲しみは深かった。彼はそれを忘れようとするかのように仕事に打ち込んだ。これまでより遥かに打ち込んだ。頬はこけ幽鬼の様な外見になった。ろくに食事も摂らず骨と皮ばかりになった。それでも彼は火の側から離れようとはしなかった。
 そして彼のところにある仕事の依頼が来た。日本の海軍兵学校の建物に使う煉瓦を造る仕事である。
 その話を聞いて一瞬彼の動きは止まった。だが彼はその仕事を快諾した。気の乗らない仕事は引き受けない気難しい性質の男であったが何故かその仕事は請けた。そしてその仕事に一心不乱に打ち込んだ。それこそ脇目も振らずに火の側に留まった。
 そして煉瓦は完成した。そして船で日本に運ばれた。そしてあの赤煉瓦が完成したのである。
 「あの赤煉瓦にはこんな話が隠されていたのですか」
 本郷はその話を読み終えて言った。
 「うん。私も今まで知らなかったがな」
 役が答えた。
 「それにしても当時では当たり前の話だったとはいえこの貴族の馬鹿息子には腹が立ちますね。こいつ名のある家の奴らしいですけれど誰なんですか?」
 「その本の後ろの方に載っているよ。A提督さ」
 「A提督!?第一次世界大戦の時に有名だった」
 「うん。ジェットランド沖会戦で戦死した人だったね」
 「あの人だったんですか。これは意外だったなあ」
 「まあよくある話だけれどね。僕もこれには気付かなかったよ」
 名提督として知られた人である。将としてだけでなく人としても優れていた人物だったという。
 「人格者ってイメージがあったんですけどね。まあ女好きは誰でもそうですけれど」
 「君みたいにね」
 「・・・・・・放っといて下さい」
 これには本郷も黙った。
 「けれどこれとあの女怪が何か関係あるんですか?この煉瓦職人の親父の怨念がこもっていて親父が出て来るというんなら話はわかりますけれど」
 「出て来るのはその職人だけとは限らないよ」
 「あ・・・・・・・・・」
 その言葉に本郷はハッとした。そう、人の心は他の人の中に入り生きる事があるのだ。
 「大体解かったろう。あの女怪の正体が」
 役は微笑んで言った。
 「ええ、とても。道理で日本の妖怪には見えない筈ですよ」
 本郷もその言葉に頷いて言った。
 「さて、相手の正体が解かったらおのずと戦い方も決まってくる。今夜にでもやるぞ」
 「ええ。向こうも出て来るでしょうしね」
 二人は笑った。そしてマクガレイ大尉に本を全て返すと戦いの準備を始めた。
 刀や短刀の刃を磨く。そしてそこに梵字を書く。
 拳銃に銀の弾丸を装填しポケットにストックを入れる。そして懐には札を忍ばせる。二人の用意は整った。後は夜になるのを待つだけであった。

 「消灯」
 放送が入った。だがまだ多くの候補生達は自習を続けている。候補生学校は夜も忙しいのである。
 その中本郷と役は隊舎から出た。そしてある場所へと向かう。
 「お二人共、お菓子でもどうですか」
 紫のジャージを着た伊藤二尉が部屋に入って来た。だが二人はもういなかった。
 「そうか、捜査中か」
 伊藤二尉はそう思いテーブルの上にその菓子を置いて部屋を去った。広島名物紅葉饅頭である。
 黄金色の柔らかい光を発する満月の下二人は進んでいた。息は白く空の中に吐き出される。だが寒くはなかった。その気が全身を包んでいた。
 気が張り詰める。それは四方八方に張られ辺りを支配していた。
 教育参考館の前に来た。厳しいギリシア風の建物である。
 ここには旧海軍からの歴史的資料が多くある。東郷平八郎や広瀬大佐、秋山真之等日露戦争において国難を救った誇り高き軍人達や山本五十六等二次大戦の提督やパイロット達の資料が多く集められている。意外な事に明治の文豪森鴎外の筆もある。彼は軍医としての地位も高かったのである。本名である森林太郎の名で収められている。
 その中でも特攻隊の資料は心を打つ。その若い命をもって国を救わんと出撃し、そして散華していった若き侍達。彼等の純粋で哀しい志もここに伝えられている。その激しく、純粋な心を見て涙を落とす人は多い。
 その多くの資料が収められている建物の前で二人は立っていた。口から吐き出された白い息が夜の冷たい空気の中に消えていく。
 二人は遠くを見ていた。闇夜の中の、遥か彼方を。
 遠くから影が来た。白い、妖気を漂わせた影だった。
 影はあの女怪だった。二人のところへ空を漂うように動くことなくすうっと近付いて来る。
 「暫くぶりね。元気そうで何よりだわ」 
 女怪は二人を見て言った。
 「それはどうも」
 役は女怪に対して言葉を返した。
 「やけに嬉しそうだな」
 「それはもう。法力の強い者の血はそれだけ美味しくて力になるのですもの」
 笑った。妖艶であるが血の臭いのする笑みだった。
 「ほお、そりゃあどうも。俺達はあんたの食事ってわけかい」
 「ええ。とても美味しい御馳走よ」
 女怪はクスクスと笑って言った。
 「御馳走ねえ。女の子を食べた事はあっても食べられた事はないんだが」
 背中から刀を抜きながら言った。
 「あら、そうだったの。じゃあこれが初めてね」
 目を細めて笑った。
 「もっとも最後でもあるけれど」
 その細めた目が光った。不気味な赤い光を放つ。
 「それはどうもお嬢さん」
 役が口を開いた。そしてゆっくりと次の言葉を出した。
 「いや、メアリー=スコットと呼んだほうがいいか」
 その名を出された女怪は整った眉をピクリ、と動かした。
 「・・・・・・そう、知ったのね、その名を」
 女怪はその顔から笑みを消して言った。
 「ええ。ちょっと調べているうちにね。貴女の人間だった頃の名前だ」
 役は一歩前に出て言った。
 「父はウィリアム=スコット。名のある煉瓦職人だった。君はそのたった一人の娘だった。これだけ言えばわかるね」
 「・・・・・・ええ、そうよ。私は死んでから父の心に潜り込んでいたのよ」
 女怪、いやメアリーは二人を見据えつつ言った。
 「そしてお父さんの怨念が込められたあの赤煉瓦に私の心は入っていった。お父さんの心と半ば融合していたからね。そして私はここに来た。赤煉瓦の中で怨みを抱いたままね」
 「そして兵学校と共に気の遠くなる程過ごしていたのか。恐ろしい執念だな」
 「そうよ。そしてその怨みが花を咲かせたのよ。ほら、この花」
 右手の平を肩の高さで上に向けた。するとあの赤い花が浮かび出てきた。
 「この花は私自身。この花が咲くようになって私は初めて動けるようになったの。そして・・・・・・」
 「人の血の味も知ったってことか」
 本郷が言った。
 「そう。怨みは血そのもの。血が欲しくてたまらなかったわ。渇いて、乾いてしょうがなかった。だからここの生徒の血を頂いたのよ。とても美味しかったわ」
 メアリーはその血の色をした唇を歪めて笑った。
 「そしてそれにより渇きを癒した」
 役が問う様に言った。
 「そう。血を吸ったら身体に力がみなぎったわ。今まであの煉瓦の中に潜み飢えと渇きに悩まされていたのにそれが嘘のように満ち足りたわ。そしてこの美しい身体も元に戻ったし」
 メアリーは二人にその白い身体を見せつけるようにして言った。
 「血、血さえあれば私は飢えや渇きに悩まされず美しさを保っていられるの。どう、素晴らしいでしょ。永遠にこの美を保っていられるのよ」
 二人に問いかける様な声で言う。
 「そしてそれにより多くの罪の無い人達が死んでもいいのか」
 役が言った。表情が無くまるで仮面の様な顔である。
 「人?人がどうしたっていうの」
 メアリーはせせら笑うように言った。
 「人なんて私にとっては食べ物でしかないわ。だってそうでしょう?私はもう人じゃないもの」
 その笑みはまさに異形の者の笑みであった。
 「私は人でなくなったの。それなのにどうして人の命を考えなくてはいけないの?」
 逆に二人に問い掛ける様に言う。
 「私はほとんど殺されたようなものだったわ。あの貴族の将校様に。人にね。それがどうして人の事を考えなくてはならないの?」
 「・・・・・・・・・」
 二人は黙っている。一言も発しない。
 だがその目はメアリーから離れない。口を横一文字に結び彼女を見ている。
 「そしてずっとこの煉瓦の中で飢えと渇きに苦しめられてきたわ。その苦しみが貴方達にわかるかしら。わからないでしょうね。人には」
 まだ言葉を続ける。
 「そしてやっと花に変化する事が出来て煉瓦の中から出て人の血を吸う事が出来たの。そして飢えも渇きも癒えこの美しい身体も戻ったわ。人の血でね」
 口を三日月の様な形にした。その間から緑の歯が見える。犬歯は牙の様になっていた。
 「もう飢える必要もないわ。これからは人の血を吸って永遠に生き続けるのよ。そして夜の世界を何時までも楽しんでいくの」
 「・・・・・・言う事はそれだけか?」
 本郷が口を開いた。
 「何?」
 メアリーはその言葉に整った眉を少しだけピクリ、と動かした。
 「言いたい事は終わったかと言ったんだ、化け物」
 「化け物?この美しい私が」
 その目に不快の色を映し出す。
 「そうだ、貴様は醜い化け物だ。恨みだけでこの世に残りそしてそれが肥大化した化け物だ。その赤い花は貴様のその醜い飢えた心そのものだ」
 「醜いですって!?私とこの花が」
 眉を歪めて問うた。
 「ああ、醜いな。何故なら貴様の心が醜いからだ」
 本郷は吐き捨てる様に言った。
 「今の貴様はどう理由をつけようが恨みで変化した血に飢えた化け物だ。恨みを血への欲望の為に理論武装して都合良く言っているだけだ。そんな貴様が美しい筈が無いだろう」
 「・・・・・・口上を言うの?」
 「口上と思うならそれでもいい。だがな、血に飢えた化け物が美しいとは誰も思わないだろうな」 
 「そうだな、本郷君の言う通りだ」
 役が口を開いた。
 「貴様は最早人ではない。人に害なす魔物だ。その魔物を討ち滅ぼすのが我等の仕事。貴様に殺され血を吸われた人達の無念、今ここで晴らす」
 そう言って懐から拳銃を取り出した。
 「出来るかしら?人に」
 メアリーは笑った。宙に浮いた。そしてその高さから二人を見下ろした。
 「そうして人を馬鹿に出来るのならやっていろ。死ぬまでな」
 本郷はそう言って背中から刀を抜いた。
 「じきにそれも終わる」
 役が拳銃を構えた。
 「そうね。それは本当ね」
 メアリーは二人を見下ろして笑いながら言った。
 「貴方達はここで死ぬんですものね」
 そう言うや否や両手から蔦を伸ばしてきた。
 二人はそれを左右に跳んでかわす。そして二人は反撃を開始した。
 本郷は懐から短刀を取り出した。そしてそれをメアリーへ向けて投げる。
 役は拳銃を発砲した。サイレンサーを取り付けてあるので音は漏れない。
 メアリーはそれに対し姿を消した。花びらがその場に散る。
 「ムッ!?」
 二人は辺りを見回す。気配はする。すぐにでも襲い掛かって来る。
 「ここよ」
 本郷の後ろから声がした。背中へ蔦を刺そうとする。
 だが本郷はそれより速く右へ動いた。武道の動きの一つ、摺り足だ。
 その足で横に滑り左手に持つ刀を払う。その高さはメアリーの首の位置だ。
 だがメアリーはそれを髪の毛で防いだ。何と髪が生物の如く動きメアリーの首の前に出てきてそれを防いだのだ。
 「何ィッ!?」
 「フフフフフ」
 驚く本郷に対してメアリーは妖艶に笑った。今度こそ貫こうとする。
 「させん!」
 だがそれに対して役が銀の弾丸を放った。メアリーは舌打ちすると蔦をその弾丸へ向けた。
 銀の弾丸は退魔の効果がある。だからこそ使っているのだ。一撃で高位の魔物を倒す事も出来る。
 メアリーはそれに対し蔦を途中で切った。鞭の様だった蔦は槍になり弾丸とぶつかった。
 弾丸は蔦を砕いた。だがそれにより地に落ちた。
 「そう来るか」
 「フフフ」
 表情こそ変えないがメアリーを睨みつける役。本郷はその間に間合いを開いた。
 「人に私は倒せないわ。所詮百年程しか生きられないのに最早不死となった私は倒せない。それが解からないようね」
 メアリーは余裕に満ちた笑みを浮かべて言った。
 「その言葉は今まで飽きる程聞いているんだがな」
 本郷がその言葉に対して言った。
 「俺達は今まで化け物ばかり相手にしてきたんだ。そういった台詞はもうどれだけ聞いたか解からない位だ」
 「そうだな。どうも異形の者達の考えは大体同じらしい」
 役もそれに同意して言った。
 「人に害を為す魔性の者、この刃でも受けるんだな」
 本郷が短刀を投げた。
 「愚かな事。何度やっても同じだというのに」
 メアリーはそう言って笑うと再び姿を消した。
 「そう動くのはもう計算のうちだ」
 役が前へ跳んだ。そして先程まで自分がいた場所へ向けて発砲した。
 「がはっ」
 その銀の銃弾はメアリーの肩に命中した。
 「俺達が人間だからって馬鹿にしているだろ。だからそういう事になるんだよ」
 本郷は肩を押さえるメアリーに対して言った。
 「そう。どうやら我々とは身体の能力が違うだけで頭の中は変わらないという事を何故理解出来ないのだろうな」
 役が硝煙を漂わす銃弾を構えながら言った。
 「頭の中が、同じ・・・・・・」
 肩に蔦を入れ銃弾を出す。銀を受けその蔦は瘴気を出しながら溶けていくがそれを途中で切った。
 「そうだ。大体元々人間なのに当たり前だろう」
 「我等人間も魔界の住人もその元は同じ。ならば環境により身体の能力が変わるだけで頭脳は変わらないのが道理」
 二人はメアリーを見据えて言った。
 「私が、人と同じ・・・・・・・・・」
 その言葉を受けてかなり狼狽しているようである。
 「頭の中はな。だがその心は違う」
 本郷が言った。
 「姿や力が違っていても心が正しければ異形の者ではない。だが心が違えば異なる」
 役も言った。
 「さっきも言ったが今の貴様は醜い化け物だ。貴様の心は血に飢え恨みを肥大化させた化け物だ。俺達はその化け物を俺達は討つ」
 「・・・・・・黙って聞いていれば好き放題言ってくれるわね」
 メアリーは宙に少し浮きながらその髪を動かした。まるで蛇の様にうねる。
 「この美しい私を化け物と、醜いと言ってくれるわね」
 目が光る。その赤い光が徐々に強まる。
 「その言葉、あの世で後悔するのね」
 そう言うと髪が総毛立った。将に天を衝く様であった。
 「その血、一滴残らず吸い尽くしてあげるわ!」
 叫んだ。その目が禍々しい光を放つ。緑の牙が闇を照らす。
 髪が伸びた。そしてそれを振り回してきた。
 「気をつけろ!髪からも血を吸えるようだ!」
 役が叫んだ。本郷がそれに従い身を後ろへ跳ねさせる。
 役も後ろへ跳ぶ。そして懐に手を潜り込ませた。
 「花に変化しているならこれが効く筈だ」
 札を投げた。それはすぐに鳥へ変化した。
 「鳥!?」
 メアリーがそれを見て言った。
 「違うな。式神という。我が国に伝わる陰陽道の術の一つだ」
 阿部清明で知られる陰陽道、その中でも最も有名な術の一つがこの式神である。術が込められた札が変化し相手に向かって行くのである。
 「そして残念だがそれは鳥ではない」
 役は言った。表情を変える事は無かったがその声には笑みがあった。
 鳥が赤いものに包まれた。それは炎であった。
 「何!?」
 炎はそのまま鳥を覆っていく。そして炎の鳥になった。
 炎がメアリーを直撃した。流石の女怪もこれには血相を変えた。
 「火、火!」
 慌てて蔦から緑の液を吹き出して消す。そして役の方を見た。
 「まさか火を使うとは・・・・・・」 
 「驚いたか。だがこれは私の使う術のほんの一部だ」
 「何っ!?」
 「これを見るがいい」
 そう言って右腕を振った。するとその手に何か赤いものが出て来た。
 「それは・・・・・・」
 それは燃え盛る赤い柱だった。いや、柱ではない。一本の巨大な剣だった。
 「炎の剣、貴様もこれは知っていよう」
 幼い頃父に聞かされた遠い北の国の話。
 神々と巨人達の最後の戦い。その時に炎の巨人の長がその手に持つ伝説の炎の剣である。その名は。
 「レーヴァティン・・・・・・」
 「あそこまで大それたものではないがな。そうだ、全てを焼き尽くす炎の剣だ」
 役は剣を構えながら言った。
 「そしてそれを持つのは私だけではない」
 見れば本郷の刀も赤くなっていた。だがそれは役のものとは違い刀身を炎が包んでいた。
 「これは“気”っていうんだ。武道に伝わる奥義の一つでな」
 「気・・・・・・」
 メアリーはその名を呟いた。
 「そうだ。自分の持つオーラを修業により高め様々な方法に使う。その一つがこれよ」
 本郷は燃え盛る刀身を構えながら言った。
 「これは不動明王の術でもある。邪悪なものを焼き尽くす聖なる炎だ」
 「そう、炎は邪悪なものを焼き尽くす。特に植物の化身である貴様には効果があるだろう」
 役はその隣で言った。
 「覚悟しろ。この炎で貴様を焼き尽くしてやる」
 二人は剣を振り被った。そしてメアリーへ向けて脚を進めた。
 本郷のそれは武道の摺り足である。そして役は西洋の剣技のそれである。
 「言ってくれるわね」
 メアリーは言葉に怒気を含めた。そして髪を逆立たせた。
 髪を伸ばし二人へ向けて飛ばした。それは細い槍となり二人を襲う。
 だが狙いが定まっていなかった。心の何処かに焦り、そして恐怖が見られた。
 「甘いっ!」
 二人はそれぞれ左右に跳んだ。そして同時に肩口から斬り掛かる。
 メアリーはそれを瞬間移動でかわした。本来ならば二人のうちの何れかのすぐ後ろに現われただろう。
 だが彼女はそこには現われなかった。参考館の上にいた。
 「そこか」
 炎の剣は到底届かない。だが二人には余裕が見られた。
 「ここならっ」
 メアリーは今度は狙いをしかと定め髪の槍を放った。それは的確に二人を狙っていた。
 だがそれも二人にはかわされた。
 「もうそれは見切った」
 「そんなくだらねえ事してないで降りて来いよ」
 二人は悠然と彼女のほうを見上げた。それを見た彼女の顔が口惜しさで歪んだ。
 「ちっ」
 役は式神を放つ。炎の鳥がメアリーに迫る。
 彼女はそれを身を捻ってかわした。こちらもその程度の攻撃、と甘く見ていた。
 だがそれが失敗だった。式神は自らの意志も持っていたのだ。
 火の鳥は弧を描いた。そしてメアリーの背を狙った。
 「がはっ」
 背に炎の直撃を受けた。メアリーはそれに耐えられず下に落ちた。
 「ぐうう・・・・・・」
 それでも立ち上がる。火は髪で消したがかなりのダメージだった。 
 「迂闊だったな。式神は自らの意志も持っている」
 役は苦悶の表情を浮かべながら立ち上がるメアリーを見つつ言った。
 「もっともそれにあえて気付かせないようにしたのだがな。どうだ、中々の威力だろう」
 「ぬ、ぬかったわ・・・・・・・・・」
 メアリーはその整った顔を歪ませた。役を睨みつけるその顔はまるで夜叉の様であった。
 「しかしこの程度で私を倒せるとは思わないことね。夜はまだまだ長いわよ」
 そう言うと両手を胸の前で交差させた。そして爪を全て伸ばしてきた。
 「行けっ」
 爪を二人へ向けて突き出した。まるで機関銃の様に二人に襲い掛かる。
 「ムッ」
 二人はそれをかわした。爪は隊舎やアスファルトに突き刺さった。
 「そういった使い方もあるのか」
 本郷はアスファルトに突き刺さった緑の爪を見て呟いた。
 「どうかしら、中々の威力でしょう」
 メアリーは満足げに微笑んで言った。
 「確かにな。だがそれならばこちらにも考えがある」
 役の目が光った。
 「行くぞ本郷君、場所を変える」
 「はい、役さん」
 本郷は役の言葉に従った。二人はじりじりと退いていく。
 「フフフ、何処に場所を移そうとしても無駄な事」
 メアリーは爪を飛ばしつつ二人を追った。剣や刀に帯びられた炎を警戒して瞬間移動による攻撃は行なわない。
 二人が選んだ場所は短艇庫の前だった。二人は松林に隠れるとうにしてメアリーを待っていた。
 「あら、ここは」
 その場所を見てメアリーは笑った。
 「そうだったな。俺はここで貴様に手厚い歓待を受けたんだったな」
 本郷が言った。彼が海中を捜査している時メアリーが上から攻撃を仕掛けて来たのだ。
 「そうよ。よく憶えていてくれたわね」
 「忘れるか、だがあの時とは状況が違うぜ」
 「フフフ、それはどうかしら」
 本郷の言葉をメアリーは嘲笑した。
 「この爪の餌食になるのには変わりはないわ。海の中が上に変わっただけ」
 「それは最後に言うんだな」
 本郷は短刀を投げた。メアリーがそれを蔦で弾き返す。それが戦闘再開の合図だった。
 夜の松葉林の下での闘いが始まった。紫の空には黄金色の月がある。その下で激しい死闘が行われているのだった。
 「そこねっ」
 メアリーの蔦が伸びる。松の木の陰に隠れる本郷を襲う。
 本郷は木の陰にいた。メアリーの蔦を避ける為である。
 だが蔦は曲がって本郷に襲い掛かってきた。まるで蛇のように。
 「何っ!」
 本郷はそれを慌ててかわした。蔦は松の木に突き刺さった。
 「危ないところだった。まさか曲がるなんてな」
 「私の蔦を甘く見ないことね。この蔦は私の意のままに動くのよ」
 メアリーは蔦を爪に戻しながら本郷に言った。
 「そしてこんな事も出来るわ」
 そのすぐ側の松の陰で隙を窺う役を見た。するとその足下から何かが飛び出た。
 「ムッ」
 役は横に飛び退きそれをかわした。それは棘だった。
 「何と・・・・・・」
 本郷はそれを見て目を丸くさせた。あまりにも意外な攻撃だった。
 「隠れる場所が多ければそれだけ有利に立てると思ったのでしょう。けどそれが裏目に出たわね。花に変化出来る私が木々の中での戦いに弱い筈はないでしょう」
 メアリーはそう言って笑った。
 「さあ、そろそろいいかしら。ここで貴方達を葬ってあげるわ」
 両手を胸のところで交差させた。そして爪が徐々に伸びていく。
 その時だった。不意に二人の姿が消えた。
 「えっ!?」
 メアリーは辺りを見回した。だが彼等の姿は何処にも見えなかった。
 「なっ、逃げたか!?」
 必死に辺りを探る。だが何処にも気配はしない。
 「一体何処に・・・・・・!?」
 焦りを覚える。相手には炎もあるのだ。つい先程まで優位に立っていたとはいえ安心は出来ない。
 何かが落ちる音がした。後ろだ。振り向き様に蔦を飛ばす。
 だがそれは松の枝だった。バサリ、と音を立てて落ちる。
 「何っ!?」
 枝に目がいった。そこに一瞬だが隙が出来た。
 何かが動いた。しかし気配は感じない。
 「短刀、それとも拳銃!?」
 咄嗟に髪で払った。だがそれは髪を突き抜けた。
 「なっ!」
 腹に何かが突き刺さった。それは急に浮かび上がってくる。本郷の刀だった。
 「馬鹿な、何故・・・・・・」
 そう呟いた時腹にもう一本突き刺さった。それは役の炎の剣だった。
 「ガハァッ・・・・・・」
 メアリーは叫び声をあげた。口から緑の液を吐き出す。
 「どうやらそれが貴様にとって血と呼べるものらしいな」
 刀を持つ手から次第に実体化してきた。本郷が現われた。
 「その量から見ると致命傷だな。これで勝負ありか」
 役もすがたを現わした。二人共浮かび上がってくるとうに現われた。
 「ま、まさか姿を消せる術を知っていたとは・・・・・・」
 刀が抜かれる。傷口から溢れ出てくる血を手で止めながら呻くように言った。
 「違うな。俺達は姿を消してはいない」
 本郷は間合いを離して言った。刀の血を紙で拭いている。
 「そう、私達は姿を消す術はまだ覚えてはいない」
 役が炎の剣を消して言った。
 「だとしたらどうやって・・・・・・」
 メアリーは口から緑の液を流しながら問うた。
 「この松の木の木と同化したのさ」
 本郷は言った。
 「松の木と!?」 
 メアリーはそれがどういう意味か理解できなかった。
 「木にもそれぞれ気がある。それぞれにな。私達は自らの気をこの松の木達と同じにしたのだ」
 役はメアリーに問い聞かすように言った。
 「馬鹿な、つまり木の心と同じ心にしたというのか」
 「まあそういう事になるな。言い方を変えると」
 本郷は素っ気無く答えた。
 「忍者とかがよくやるんだよな。周りと一体化するってやつ。完全にやれば姿も見えなくなるんだ」
 「そこまで達するにはかなりの修練と集中力が必要だがな。しかしこういった状況では力を発する」
 役も言った。
 「これは我が国に古来から伝わる気の使い方の一つ。それを知らなかったとは迂闊だったな」
 「確かに・・・・・・・・・」
 メアリーはよろめいた。既に血が足下を緑に染め上げている。
 「どうやらもう立つ事もままならんようだな。せめてもの情けだ」
 役はそう言うと懐から拳銃を取り出した。
 「止めを刺してやる。一撃でな」
 トリガーにかかっている指に力を入れる。しかしメアリーはそれを見て笑った。
 「私がそんなものに倒されるとでも?」
 「何!?」
 これには二人共驚いた。
 「私はそんなものでは死なないは。私を殺せるのはそう・・・・・・」
 その笑みに人のものではない凄みが加わった。
 「私自身よ」
 彼女は口から鮮血を滴らせながらも言った。
 「私は誇り高き吸血花、花は人に折られるのを良しとしないのよ」
 そう言い放った彼女の脳裏に人であった時の記憶が甦る。あの貴族の若者の誘いを断り窓から身を投げて死んだあの時の記憶が。
 「そんな銃弾に胸を貫かれる位なら・・・・・・」
 右手の爪を伸ばした。それはまるで槍のようになった。
 「私自身の手で!」
 それを自身の左胸に突き立てた。彫刻の様に整ったその白い胸を緑の血が染め上げた。
 「な・・・・・・・・・」
 これには二人も絶句した。メアリーはその二人に顔を向けて笑った。最早死が間近に迫っている顔であった。
 「お生憎様ね。私を倒せなくて。けれどこれで全てが終わったわ」
 メアリーは己が血で緑に染まった口で言った。
 「私は滅びるわ。そして魔界に堕ちる」
 言葉を続ける。
 「そしてその片隅で永遠に咲き続けるのよ。そう永遠にね」
 身体が屈んでいく。もう立っている事さえつらいようだ。
 「貴方達が魔界に来たら喜んで迎えてあげるわ。そしてその血を一滴残らず吸い取ってあげる」
 そしてまた言葉を言った。
 「その時を楽しみにしていることね。それじゃあさようなら」
 そう言うとメアリーの身体は消えた。無数の赤い花びらが辺りに舞った。
 「これは・・・・・・・・・」
 本郷の手の平にそのうちの一枚が舞い降りた。
 「彼女の最後の一咲きだ。滅び去る間際のな」
 役の手の平にも一枚舞い降りた。彼はそれを指で取った。
 「今度は魔界に生まれ変わるか」
 役はその花びらを見つめつつ言った。
 「それも良いだろう。せめて折る者のいないあの地で永遠に咲き続けるのだ。父の想いを抱いてな」
 「え・・・・・・・・・」
 彼の言葉は本郷の耳にも入った。そして同時に別の言葉も。
 『パパ・・・・・・・・・』
 それはメアリーの言葉だった。父の造った赤煉瓦に対して言った最後の言葉だった。
 「あの女・・・・・・・・・」
 「死して魔物になってもその根には人のものが残っていたようだな」
 一陣の風が吹いた。それが花びらを全て運び去ってしまった。
 風が役のコートをたなびかせる。それはまるでマントのように見えた。
 花びらは全て風が運び去ってしまった。そしてその中に消えていった。
 「終わったかな、これで」
 本郷が風の中に消え去っていく花びらを見送りながら呟いた。
 「うん。これでこの事件は全て終わった」
 役が赤煉瓦を見ながら言った。
 「・・・・・・そうか、やっとか。長かったような短かったような」
 本郷が肩の力が急に抜けたような感じの声で言った。
 「私にしては短かったな。まあ途中からここへ来たせいもあるが」
 「俺はその前から色々と調べてましたからね。二回もあいつに近寄られましたし」
 懐から煙草を取り出す。そして火を点けようとする。
 「おい、ここでは慎んだほうがいい」
 「おっと、そうでした」
 役に窘められ本郷は煙草を元へ戻した。
 「まあ煙草は何時でもいいか。それにしてももうすぐ朝になりますね」
 二人は海のほうを見た。そこに広がる空は次第に白くなってきていた。
 海もである。その闇の中に潮騒だけ響かせていたのが徐々に白波も見せはじめている。
 「もうすぐ朝か」
 本郷はその空と海を見ながら呟いた。
 「どうだい、煙草よりもこっちのほうが一服にいいだろう」
 役は彼に微笑んで言った。
 「ええ」
 本郷も微笑んだ。そして海の方へ進んだ。
 「確かに仕事の後の朝日は最高ですね」
 「ああ。今日でここともお別れだ。じっくり見るとするか」
 「そうですね」
 しかしそうはいかなかった。海を見る二人のところに誰かが自転車で来た。
 「あっ、お二人共そちらにいたんですか。探しましたよ」
 伊藤二尉である。紫のジャージを着ている。
 「探したって・・・何かあるんですか?」
 二人は怪訝そうに尋ねた。
 「ええ。我が校の名物行事ですよ」
 伊藤二尉はそう言うとにこりと笑った。
 「名物行事って・・・・・・あれですね」
 「ええ、あれです。役さんは確か初めてでしたね」
 「ええ、まあ」
 「運がいいですよ。今日見れるんですから」
 役の言葉に対しても笑みで返した。本心から楽しそうである。
 「丁度今総員起こし五分前です。もうちょっとしたらここへ全員駆けて来ますよ」
 「そうですか。それは楽しみですね」
 二人のこの言葉にはいささか社交辞令も入っている。
 六時になった。起床ラッパが鳴る。
 そして怒濤の様な足音が聞こえて来る。紫の作業服を着た彼等が来た。
 「さあ、総短艇ですよ」
 伊藤二尉が少年の様な笑みと共に言った。候補生達は必死の形相で短艇に付いていく。
 短艇が次々に降りて行く。そして海へ漕ぎ出していく。
 「何か凄い光景ですね」
 必死の形相をする候補生達と教官。そしてそれを照らす太陽。青い海。全てが対照的であった。
 「そうだね。しかしだからこそ綺麗だ」
 「ええ」
 二人はその光景を静かに見ていた。戦いの後の朝日がやけに眩しかった。

吸血花          完


              2003・12・24