家族の食卓 1
作:芹沢 りら





第一回 【人生で最高にシアワセな朝】


 俺の両親は、ごく普通の人間です。
 毎日十二時間以上働いている、勤勉な日本人の見本みたいな父親。ちょっと天然気味だが、それなりに子供を愛しているらしいのんきな母親。さほど裕福でもないが貧乏でもない中流家庭。小さい頃から、欲しかったものはたいてい買ってもらえたりしていた。――当時流行ってたアニメのプラモデル(数千円)、友達から借りて欲しくなった漫画六十巻(数万)、プログラムの勉強をすると言って買わせたDOS−V機(数十万したが、結局は『三国志V』を遊んで終わった)――だが、あまり感謝したことはない。ねだれば欲しいものが買ってもらえる。それが、当たり前だと思っていた。
 ――今思えば、甘やかされて育ってきたのだろう。
 受験勉強も浪人も嫌で三流大学を狙って入り、今は、ごく平凡な大学生活を送っている。アメリカの大学生は学費を自分で払うというが、俺は、親の仕送り五万円に頼った生活を続けている。これでも、少ないほうだと思う。(校門の前へわざわざポルシェで乗りつける嫌味なバカは、信じられないことに仕送りが二十万だと聞いた。)
 アパートは1K、六畳のフローリングの洋室(室内のみリフォーム済み+ロフト付き)と一畳半の小奇麗なキッチン。家賃は月に五万円。田舎だから、それほど高くないのが救いだ。生活費は不定期のバイトで稼いでいる。遊ぶのには少々、物足りない。(なので実家に戻っては、母親に米や小遣いをせびったりしている)
 そんなだらしない若者に育っていた俺を、変える事態はある日突然、起こった。
 忘れもしない、そう――あれは、蒸し暑い真夏の夜――


 サークルの打ち上げから戻ってきた俺は、かなり悪酔いしていた。
 いつものゆるい坂道も、この時ばかりはガードレールにつかまらなければ歩けないほど。懐かしの我がアパートがちらりと見えだした時は、さすがにほっとした。少し汗ばんでいてシャワーを浴びたい気分だったが、(とにかく速攻で寝よう)と心に決め、息を切らしつつ最後の傾斜を上りきる。
 虫がたかりそうなまっ白い外灯の下、煌々と照らし出されているのは郵便受けが並ぶ入り口。そこへ向かってまっしぐらに歩いていた俺は、だが不意に、違和感に気づいて立ち止まった。
 アパートを分岐点に二股に分かれていく道の右側、歩道に佇む白い影がある。
 よく見れば、白いワンピースを着た若い女(らしきもの)だ。それが、ある一点をじいっと見上げていた。その視線の先が分からなければ、違和感など感じなかったろう。だがそれは、間違いなく俺の住むアパートに向けられている。


(何だろうな)
 思ったが、彼氏の帰りを待ってるとか、どうせそんなところだろう。このアパートには、俺を含めて若い男の割合が高い。大学に近いせいもある。それにしても真夜中の二時、こんなところに立ちっ放しとは少々、物騒な気はしたが。(なにしろこんなご時世だ)
 声を掛ける、なんてことも実際、考えてはみた。アパートに近づけば、彼女の姿が否応なく近くなっていく。暗闇で目を凝らしてみれば、なんとなく『かわいい』オーラを発しているではないか。ショートカットだが、生ぬるい風に揺れる柔らかそうな髪。ほっそりしたシルエット、育ちの良さそうなたたずまい。だが、ここで声なんか掛けたらいかにも軽そうだしバカそうだし、むしろチカンぽい。
 それに考えたなくないが、かわいい顔をして実は、女版ストーカーかもしれない。(なにしろこんなご時世だ) とにかく彼女は視線をアパートの上方にピタリと当てたまま、それを外そうとはしないのである。見つめているというより、凝視しているという感じだった。
(関わらないでおこう……)
 結局はそう思って、急に込み上げてくる吐き気と戦いながら玄関に滑り込む。郵便受けをチェックする余力もなく、のろのろと階段を上がる。自分の部屋は三階の奥。エレベーターなんぞという気の利いたものはない。上りきった頃には、うさぎ跳びで神社の階段を登りきったスポーツ選手のように、疲れ果てていた。
「ああ、やっと家だよ……ふぅー!」
 鍵を開けてドアの中に入ると同時に、誰もいないのに思わず、独り言を呟いてしまう。そのままベッドに直行、と行きたいところだったが――熱い! あまりにも、空気が蒸し暑い!!
 当然だ。出かけてからずっと、締め切ったままの狭い部屋である。
 たまらず、窓を開け放つ。四角く切り取られた暗闇が、のっぺりとそこに広がる。手探りで雨戸を閉めながらなんとなく、下を見回した――そして、俺は驚きのあまり一瞬、息を呑んだ。(この時ゲロが少量、喉元まで込み上げてしまった)

 ――あの白いワンピースの女と、目が合ってるよ!!(絶句)

 ここは、ぞっとするところだった。まさしく、身に覚えのないストーカー事件発覚の瞬間なのだから。だが不思議なことに全くもって、そんな気分にならなかった。
 ――なぜかって?
 ――そりゃあ、
 その子が稀に見る、『美少女』だったからに決まってるだろ!!――

 そして。

 気がつけば、いつの間にか、小鳥のさえずる声も爽やかな朝になっているわけで。
 気がつけば、妙にしびれる腕の先で、彼女がすやすやと眠っていたりするわけで。
 気がつけば、彼女がふと目を覚まし、「おはよう」とか、甘い声で言ったりして。


「うっそぉ!?」
 茫然自失で叫んで飛び起きる。
 ――と、思ったらクサイ夢でした。
 ――と、いうのが普通の展開である。
 だがなぜか、俺はフローリングの固い床の上で目を覚ましていた。おかしいなあちゃんとベッドで寝たはずなのに……と思って首を起こすと、ベッドの上から妙になまめかしい、白い足(の裏)がはみ出している。思わず、触ってみた。
「ふふふっ」
 なんとも言えない声がして、白い足(の裏)は引っ込んだ。
(な、なんだ?)
 俺は訳が分からなくなりつつ、上半身を起こす。そこに、こちらに背を向けた、白いワンピース姿の女が横たわっていた――あ、あり得ねぇ。一瞬青ざめたが、調子に乗って、身を乗り出して顔を確認する。もしかして「すみません、あなたはどこの星から来られた、何と言う種類の生き物ですか?」と問いかけなければならない、アタラシイ顔だったらどうしよう。だが、その懸念は宝くじに当たるより幸運なことに、杞憂に終わってくれた。
 ――そこにいるのはまごうことなき、輝くばかりの美少女。
 まさに今、俺は白雪姫を発見した小人の気分を味わっている。
 ああ神様ホトケ様お母様、俺をこの世に送り出してくれてありがとう!! 俺は思わず、天井を仰いで「おっしゃあッ!!」とガッツポーズをキメた。明日は、実家と先祖の墓と寺と神社と教会にお布施を持って行こう。ついでにどこの方角か分からない方に向かって三回土下座をし、同じくどこの方角か分からない方に向かってニヤニヤ笑いながら巻物をむさぼり食ってやる。
 もし、この幸運が、夢でなかったなら――!!

(夢だったら泣いてやる……)