家族の食卓 2
作:芹沢 りら





 第二回 【WHO ARE YOU?】


 その日、俺は一日中、顔が緩みっぱなしだった。
 気をつけていなければ、虫歯治療中の患者のように隙間からヨダレが垂れてしまいそうなほどに。だって――目が覚めたら、自分のベッドに美少女だよ!?(酒のせいかサッパリ覚えていないが、)きっと昨日、色々とイイコトがあったに違いない(そんな余力があったのかどうかは謎だけど)。もしも今日、帰宅したら彼女の父親が仁王立ちになっていて、「キサマ、娘をこんなにした責任は取ってくれるんだろうな!?」と怒鳴ったとしたら――脊髄反射で土下座しつつ「フツツカなムコですがよろしくお願いします、お父サマ!」と答えるだろう。
 ――と、妄想に耽っていたところ。
「ちょっとヒロ、アンタなに、アホみたいな顔してんのよ?」
 と、脇を小突かれる。
 気がつけば、講義の真っ最中。
 左隣には、高三の時に付き合っていた(そして受験前に自然消滅した)元彼女の顔。ちょっと化粧は濃いが、媚っぽい仕草と顔つきで男共にはかなり人気がある。目は大きくてバッキリ二重だし、そこそこ身長が高くてスタイル抜群だし、誰が見ても美人の部類だろうとは思うが……いかんせん、その上目遣いは辞めて欲しい。それと、その気もないのに未だに恋人面するのも。(それに騙されてまた告白し、この間アッサリ撃沈させられたバカが俺だ……)
「別に、アホみたいな顔はしてねぇよ」
 俺はムッとして小声で答え、のろのろとノートを取り始める。「もう講義終わるよ」と、冷ややかな彼女の声。ちなみに名前は、松野リカと言う。こう見えても、そこそこの資産家の一人娘――いわゆる、オジョウサマというやつだ。
 そんなオジョウサマがなぜこんな三流大学にいるかというと――結論から言えば、アホだからだ。父親はかなりシビアな人らしく、「バカな娘に掛ける金はない」と、平然と言い放ったという。某有名私立女子大に行くのがリカの希望だったが、その鶴(タカ)の一声で、彼女の人生は半ば、終わった。
 こうなったらグレてやるとばかりに、大学に入学した後のリカは、壊れた。
 連日コンパ、連日ラブホテル、連日朝帰り。手軽にヤレル女として一躍有名人になる。携帯電話にはひっきりなしに『お誘い』のメールが入り、それを見てまた嬉々として出かけていくあたり……元彼氏としては、フクザツなものは確かに、あった。
 だがリカの屈折する気持ちも分からないでもないし、他人の人生に口出したって何の責任も取れないわけだし、というか責任取るつもりで再び体当たりしたら、見事に避けられて頭から壁に激突したわけだし……。
 正直「見ず知らずの男は良くて何で俺はダメなんだよ」みたいな気持ちも、なきにしもあらず。要するにリカの中でも、昔の男は昔の男として、とっくに終わっているということなのだろう。だったらこんな風に、隣に座ったりしなきゃ、いいのにって思うけどさ。(たまに知らんヤツに睨まれるんですけど、俺……)
 ――まぁ、いいけどね。
 面倒なこと抜きの気軽な『オトモダチ』として付き合えるのが俺しかいないっつーんだったら、それくらいは昔の誼で付き合ってはあげますがね。でも、腕組んで歩きながら「コイツ誰?」って聞かれた時、「昔のオトコ(はぁと)」って答えるのだけは、マジ勘弁してもらいたいですが。


「昨日、さぁ」
 いつものように、キャンバスの並木道を二人で歩きながら。
 俺はついつい緩みそうになる頬を右手で押さえなければならない羽目に陥りつつも、信じられない『真夏の夜の夢(奇跡)』について、リカに話して聞かせようと、した。
「うん」
 だが。頷きつつ、肩ヒモを首の後ろでリボン結びにした、薄いキャミソール一枚でするりと腕に手を通してくるリカの、腕の細さを感じてちょっとヒヤリ、とする。(ドキリ、ではない) その瞬間、さすがにこれは元彼女に語って聞かせるようなことではないだろうという理性が、働いた。
「――打ち上げで飲みすぎちゃって、死ぬかと思ったよ」
「ふーん」
 とっさに話を(体よじり気味で)逸らすと、リカが上目遣いにこちらを見た。
 ヤバイ。この、ともすればニヤニヤしそうになる、だらしない口元を引き締めなければバレル……と思ったが、元々カンの鋭いリカがすぐに、それを指摘する。
「それはいいけど何、さっきからニヤニヤニヤニヤしてんの? かなりキモイんですけど」
「いや……」
「なによ。新しいバイクでも買った? それとも彼女でも出来たとか?」
 歯切れの悪い答えに、リカはすぐにイライラする。生まれついての女王体質なので、すぐに反応する男じゃないとストレスが溜まるのだ。だが、俺はあいにく熟考型である。慎重に言葉を選びつつ、考えながら口を開いた。
「最近○○のCMの女の子、可愛いよな……って、思って」
「バカじゃないの?」
 考えたわりに、この内容。しかも、リカからは秒速で容赦ないツッコミ。_| ̄|○
「どうせバカですよ……」
 不貞腐れて口を閉じる。そのまま、無言で百メートルほど歩いた。
 不意にリカが、腕を絡ませる力を強めつつ「ねぇ、」と言った。
「何だよ。……何でもいいけど腕組むなっつってんだろ。他人なんだから」
 一応、かっこつけて言ってみたり。
「ヒロさ。もしかして欲求不満なんじゃない? それとなくあたしに伝えようとしてない?」
「……(イイエ……)」
「そう言えばそういう話、別れてからしたことなかったよね?」
「……フツウはしないだろ」
「知ってるでしょ、あたしが誰とでもすんの。今更ナニ聖人ぶってんの?」
 当たり障りのない答えを返してはみたが、アッチ側の世界に生きているリカには通じなかった。
「あのなぁ……」
「いいよ、じゃー今からどっか行く? お金持ってる? 一万円」
 あっさりと手のひらを出してくる、この神経。
「……援助交際でも始めるつもり?」
「ナニ言ってんの? ホテル代に決まってるでしょ」
 嫌味のつもりで言ったが、いちいち言わせないでよもー、という感じでリカは唇を尖らせた。こういう顔は、素直にけっこう、可愛いと思う。だが言っていることは支離滅裂だ。感情で流されそうになりつつも、理性が「冷静に」と告げていた。……言われなくても。
「そういう話、すんなって。俺ら、もう終わってるじゃん」
「何で? ってかジュケンでウヤムヤになっただけっしょ」
「って……この間……」
「だからさ。あれは付き合うとか付き合わないとかさ。そういう基準でかたっくるしく考えるのやめない、ってあたしは言いたかったワケ。別にヒロが嫌いとかそういうんじゃなくって。」
 きっぱりと言い切ってくれる、潔さには感心するものの。
「そんなこと言ったってさ。俺、お前ほど色々割り切れないもん」
「……ユウジュウフダンな男ね」
「……そう? フツウじゃね?」
 淡々と言うと、リカは黙り込んでしまった。
 なにそれ。要するにあたしがフツウじゃないって言いたいワケ? あっそう。じゃあいい。あんたなんか二度と誘わないっつーの。さっさとどこへでも行くがいいわ。という、苦いオーラを妄想アンテナが受診。かすかな溜め息をついて、リカの腕を振り解く。
「いい加減、まともな彼氏作れよ……」
 余計なお節介だと思いつつ毎度恒例のセリフを言って、違う方向へと歩き出す。
「余計なお世話」
 案の定、トゲトゲしく言われて溜め息がまた、密かに漏れる。
 結局『謎の白雪姫』のことは話さないまま、この日は別れた。


 そのままバイトに直行し、帰宅したのはすでに夜の十時を回っていた。胡散臭いビデオ屋の店長のシフトはいい加減で、隙間に詰め込まれるものだからかなり不規則な時間帯で働いている。軽く自販機でコーラを買ってのみつつ、じっとりと汗ばむ夜の熱気を冷ましながら歩いた。
(たぶん、夢だったんだろうな? やっぱ……)
 いつもの坂道を噛み締めるように登りながら、この時はもう、そういう気分になっていた。冷静になって考えると、朝起きたら美少女がいたなんてそんなウマイ話があるわけない。そういうのはもっぱら漫画かアニメか、ゲームの中にしか存在しない『出来事』なのだ。
(べろべろに酔ったせいで、イイ夢見たんだな)
 と思っとくほうがいい。などと、アパートに近づくたびに弱気になっていく自分が悲しかったりもする。だが、『最悪の事態』を常に考えることはいろいろと効果的ではあるのだ。たぶんに、期待しやすく、落ち込みやすい種類の人間には。
「ただいま……」
 誰もいないはずの自宅のドアを開けながら、思わず、呟いてみる。
 電気をつけ、部屋を見回す。
 ――特に、異状はない。
 ――異状が、あるべきなのだが。
(いないし……)
 ガックリ、というのはこういう気分なのだろう。
 やはり、あれは『真夏の夜の夢』だったのだ。こうなったらまた飲んでやるとばかりに、足取りも荒く冷蔵庫に向かいドアを開ける。がらんとしたその中に、冷え切ったビールだけ二本。両方つかみ取りして、鼻息もあらくソファに座り込んだ。その時だった。

『ピンポーン』

 ――誰かが、来た。


 ドクン。
 心臓が、高鳴る。
 俺は急に速くなり始めた鼓動を意識しつつ、立ち上がる。ビールを持ったままなことに気づいて、投げ捨てるようにソファに放る。それから、一瞬考えてあわててそれを取りにいき、きちんと冷蔵庫に戻す。フクロウのように首をぐるぐる回し、部屋中に変なブツやゴミがないか確認する。――幸いにして綺麗好きな性格のお陰で、さほど汚れてはいない。
(ってか、昨日泊まってったんだし。今更そんなの、気にしないか)
 心の中で思い、速攻、ドアに飛びついた。
「はいいっ」
 上ずった声で言うが早いか、ウェルカムとばかりにドアを開ける。
 覗き窓で確認、という手間さえ惜しんだ。

 ――そして人生最大の、驚愕――違う、イミで。

「この汚にゃーところが、お前しゃんの家か?」
「えっあっ、えっ、だ、だだっ誰……ぅおっ!?」

 WHO ARE YOU? そんな簡単な言葉が口から出てこない緊急事態。
 この、目の前に突っ立った……イボ顔で、八割がたハゲで、ランニングシャツ一枚の、なぜか事務員みたいに黒い腕抜きを装着した、枯れ木のような腕の、腰の曲がった、水気の少なそうな、つまり……

 こッ、このジジイは誰だぁぁぁぁぁーーー!!(ダレダーダレダーダレダー……《エコー》)

 ――誰か、これは夢だと言って欲しい。