家族の食卓 5
作:芹沢 りら





第五回 【ハルの過去】


 六畳一間の小さな、というよりは狭すぎるアパートに、ジジイ、ハルちゃん、俺、そして――見知らぬババア!! あ、あまりにも無理すぎる。というか、わけがわからなすぎる。
「こ、この人……誰……この、おばあさん……」
 呆然と呟いた俺の膝に、いきなり、ハルが縋りついた。
「ヒロキさん追い出さないで、お願い……! この人は……!」
「あの、失礼ですけど、どちら様……?」
 俺はあまりにのことに頭痛さえ覚えながら、ババアの前に膝をついた。
「あたしは、このしとの妻です」
 ババアは、かなりの高齢そうな見た目とは裏腹に、はっきりした声で言った。
 落ち窪んだ目が、俺をまっすぐに見ている。見ているが……何かが、おかしい。まるで、俺を突き抜けてその向こう側を見ているかのような目線なのだ。俺は不安になり、ジジイの襟首を掴んだ。
「おい、ジジイ! このバーサンは、あんたの嫁なのか!?」
「いや、わしゃ知らん。何だ知らんが、勝手についてきた」
 ジジイの返答に、俺は青筋がブチ切れそうになった。
 ジジイは相変わらずテレビを見ている。テレビだけが人生の娯楽なのか。
 情けないやら、頭に来るやらで、俺はまともに言葉が継げなかった。
「いったい、何が、どう、なってるんだ……」
「ヒロキさん、ちょっと来てください」
 俺の腕を、ハルが掴んだ。
 俺ははっと我に返った。
 そうだ、ハルがいる。ハルなら、事情を知っているはずだ。
 俺はハルに引っ張られるまま、アパートの廊下を通り、外へと出た。
 蒸し暑い夏の空気を避けるように、そのまま、近くのスーパーへと足を踏み入れる。エアコンがきいていて、中は涼しかった。午後9時を回っているだけあり、人もまばらだ。もうすぐ、閉店時間なのだろう。
「――あの、あの、本当にすみません」
 最初に、ハルが頭をがばっと下げた。
 ショートカットが、揺れる。
「そ、そんなことはいいからさ……事情を説明してくれよ。この間から俺、わけがわかんないんだよ」
 俺がありのままに混乱していることを告げると、ハルは暗い顔をして、唇を噛んだ。だが、やがて小さくうなずくと、スーパーの隅の『浄水器』コーナーの前で話し始めた。
「――あの、あのおばあさんは、おじいちゃんの奥さんなんです。でも」
 ハルは言葉を切って、それから躊躇っていたが、続けた。「でも、それは、本当のことじゃないんです。説明しても、難しいんです。でも、家族なんです。おじいちゃんと、あのおばあさんは、夫婦なんです」
 ハルの言葉に、俺は眉をひそめた。
「――どういうこと?」
 ハルは俺の顔を見上げた。そして、意を決して、話し始めた。
 去年の夏の、とんでもない出来事の話を。


 ジジイがボケはじめたのは、去年の夏からだったのだと言う。
 わがままになり、ハルの言うことをきかなくなった。昔のことばかりに固執し、昔のことだけを鮮明に覚えている。だが、その記憶も時々混乱し、何を言っているのか分からない状態が続いた。
 ハルは困惑し、病院に行った。
 医者は、ジジイを見て一言、「いわゆる痴呆ですね」と言った。
 その時のハルのショックは、大変なものだったと言う。
 ハルがバイトに行っている間、ジジイは勝手に近所を徘徊するようになった。ジジイが帰ってこなくて、警察に捜索願を出したことも一度や二度ではないらしい。(ほとんど相手にしてはもらえなかったが)近所では有名な、徘徊ジジイとなっていたそうだ。そんなことが何度も続いたある日、ジジイを老人ホームから逃げ出したと勘違いした他所の人が、ジシイを老人ホームまで連れて行った。
 ジジイはそこで、あのばあさんと出会った。
 ジジイの身元はしばらく分からず、ジジイも言わなかったため、その老人ホームではジジイをしばらく預かることにしたらしい。だがあいにく、手違いにより捜索願を警察に出すのが遅れてしまったのだが。
 ジジイは、うわごとのように「ばあさんや、ばあさんや」と繰り返していた。この頃、いつもそんなことを言っていたようだ。それに反応したのが、あのばあさんだった。あのばあさんは、夫に死なれてから急速に、痴呆が進行していった人だった。妻を捜し求めるジジイの姿に、自分の夫の姿を重ねたのだろう。ばあさんは、ジジイを自分の夫だと思い込んだ。そして、献身的に世話をした。ジジイもそれが、まんざらではなかったらしい。ばあさんを妻だと思わないまでも、自分を好いてくれる人物として、好意を持った。
 それから一週間して、ハルの元に、警察から連絡が入った。
 あなたの探している老人らしき人物が、この老人ホームにいる、と。
 ジジイを連れ戻しに向かったハルは、そこで、夫婦のように仲むつまじい二人の姿を見た。ばあさんは、ジジイを夫と信じて疑わず、なにかにつけて面倒を見ていた。ジジイが迷い込んできてから、「田中さんは元気になった」と、職員がハルに言った。
 そのままジジイを老人ホームに置いていてはどうか、という提案もなされたが、ハルはそれを断った。そして、ジジイをつれて戻ろうとした。その時、ばあさんがハルに飛びついてきて、「主人をどこに連れて行くんですか!」と怒鳴ったのだと言う。
 職員が必死で引き剥がして、ジジイは、ハルとともにタクシーに乗せられた。
 ばあさんは、泣きながら「連れて行かないで」と叫んでいた。
 ハルはそれを見ながら、タクシーの窓ごしに、泣いた。
 だが、ジジイをそこに置いていくわけにはいかない。ハルは身を切り裂かれるような思いで、ジジイを家に連れ戻ったのだと言う。――そして帰宅した時、海外から、訃報が届いていた。両親の知人で、共にエジプトへと旅立った人だった。その人が、「あなたの両親がテロに巻き込まれ、死んだ。遺体を捜すことは出来なかった」と、電報を送ってきていたのだ……。


「どうしていいか分からなかった時に、おじいちゃんから、ヒロキさんのことを聞いたんです。孫がいるって。親戚からはもう、みんな見放されていると思ってた。だから、頼るつもりなんてなかったんです。でも、私、それを聞いたら……無性に、ヒロキさんに会いたくなってしまったんです。どうしても、誰かにこのことを聞いて欲しくて」
 ハルはそう言いながら、スーパーの隅ですすり泣いていた。
 その後ろには、浄水器から水を入れたがっているらしき人たちが、いつのまにか行列を作っていた。俺は慌ててハルを外に連れ出すと、明るい自動販売機の前で、「そんなことがあったなんて……知らなかったよ」と言うのが、精一杯だった。
 ――ハルは、小さく泣き続けていた。
 俺は少し迷ったけれど、ハルの肩を、抱きしめた。
 小さい、と思った。それに、細くて、折れそうだった。
 このか細い体で、ジジイを背負って生きてきたのだ。どれだけ辛かっただろう。俺は、自分とはあまりにも違う人生を送ってきたハルに、掛けてやる言葉がないことに呆然とした。


『もしもし、大塚ですけどー』
「……母さん」
『あら、ヒロキ! あんた、まだ生きてたのねー。元気でやってんの』
 能天気な母の言葉が、電話越しに聞こえた。俺はアパートの前の自販機のボックスの中で、自分のアパートの窓を見上げながらため息をついた。……ハルはもう、そこに帰らせている。
「生きてるけどさ。ちょっと、聞きたいことがあって」
『あら、なによ。母さん、今からドラマ見なくちゃいけなくて忙しいんだけど』
「……どうせ再放送するんだろ!」
『まあ、よく知ってるわねー』
 口調を荒げた俺の言葉に、少しひるんだように母は言った。『それで、何よ。聞きたいことって』
「ウチの親戚にさ。篠崎っていうのいる?」
『……篠崎?』
 母の口調が、さっと変わった。
『ちょっと待って』
 母はそう言うと、電話を切る――いや、保留になったのだ。エリーゼのために、が、長々と流れて俺の神経を逆なでした。減っていくテレカの数字を睨みながら、俺は母が出てくるのを待った。
『……あんた、それ、どこで聞いたのよ。ヒロキ』
「どこでって……この間、偶然、そこの子と会ってさ。従妹で、ハルっていう子」
『――あらいやだ。それ、姉さんたちの子よ。……あの人たち、今どうしてるのかしら』
「海外で、爆弾テロに巻き込まれて死んだって」
『――ええっ!?』
 淡々と言った俺の言葉に、母が仰天したように叫んだ。
『何ですって、あんた、それほんとなの!? 母さんも父さんも、そんなことぜんぜん聞いてないわよー!!』
「俺だって聞いてないんですけど」
 不機嫌に、俺は言った。受話器を握りなおす。
「それで、どういう関係なの。断絶してるって聞いたけど」
『断絶っていうか、ねえ……こんなこと、お父さんに聞かれたら怒られるからね、今母さん、二階のトイレにいるのよー』
「………」
 何もトイレに立てこもらなくてもいいじゃないかと思ったが、俺は沈黙していた。
『篠崎家っていうのは、お父さんのお姉さんの家でね。お姉さん、大塚家をつがずにお嫁にいっちゃったのね。お父さんはその頃、なんだっけ、なんだかで、したいことがあったのよー。それで、お姉さんが大塚家をつぐって言うことだったんだけど、あっさり、お嫁にいっちゃってねー。お父さんはそれでハラを立ててたんだけど、でも、おじいさん、お父さんのお父さんね、おじいさんのゲンジさんをお姉さんが引き取るって言い出してね。その代わり、養育費をよこせってお父さんに言ったのよう。おじいさんはお父さんが引き取るつもりだったから、お父さん、また怒っちゃってね。でも、おじいさんがお姉さんのとこに行くって言ったもんだから、しょうがなくおじいさんを篠塚に行かせてね。なんだかそんなのでゴタゴタもめたんだけどねー。お母さんも、よく知らないわぁ』
 母の長ったらしい話が一段落したのを見計らい、俺はすかさず、尋ねた。
「それで、ハルっていう女の子は?」
『えー、それは多分、お姉さんちの養女だと思うわよー。ずっと子供ができなくってね、三十過ぎに引き取ったんだったもんね。でも、引き取って早々にお姉さん、だんなさんを連れて海外に行っちゃってね。もともと、カメラだっけ、そういう趣味があるもんだから、あちこち飛び回っているじゃない? ぜんぜん、家に戻ってこなくてねー。あれじゃない、ちょっと子供が欲しくなって引き取ってみたけど、育てるのが大変で、ほったらかしにしたんじゃない? あのお姉さん、そういうちょっと、いい加減っていうか、気まぐれなところがあるからさぁ……一時期はうちに引き取るって話も出たんだけど、あんたも年頃だし、一緒に住むのはちょっと、ねぇ……それで、おじいさんが育ててたみたいよー』
(あのジシイが、ハルちゃんを育てた……)
『おじいさんにとっちゃ、血の繋がってない孫なんだけどねー。それでも、可愛かったんじゃない? でも、今どうしてるのかしらねぇ、海外で亡くなったなんて、そんな大変なことになって……お父さんに相談したほうがいいかしら? でも、またおじいちゃんとケンカするかもしれないしねぇ』
「そのジジイなら、ボケちゃってるみたいだよ」
『ええっ!』
 母が、また素っ頓狂な声を上げる。
『まぁ……まぁ、そうなのぉ! 大変だわー、ボケ老人の世話ってとっても大変なのよ、あんた、ほんとよ。……困ったわねー、うち、老人ホームに行かせるほどお金に余裕なんかないのよねぇ。あんたの学費の仕送りで、一杯一杯で……』
「……ごめん、テレカ切れる。また、電話する」
『ええ? あんた、ケータイくらい使いなさいよ、今時……」
 母の小言が聞こえないうちに、俺は受話器を置いた。
 テレカの残りの数字が、15、になっている。
 それでももう、電話する気になれなかった。
 ――それから、電話の上に突っ伏した。
 ――どれくらい、そうしていただろう。
 外からコンコン、とノックする音が聞こえた。
 電話を使いたい人か、と思って顔を上げると、そこに立っていたのは……ハルだった。