家族の食卓 7 |
作:芹沢 りら |
第七回 『宣戦布告』
広瀬先輩の家から大学とバイトに通うようになり、早くも一ヶ月が過ぎていた。
あのバアさん……なんとかシゲ? とかいう干からびたのについては、ハルが老人ホームに通報(×連絡)したはずなのに、いっこうに返事が来ないらしい。どうも家族もいない一人身のようで、引き取りに来る者の心当たりさえない。そうなってみるといかにも憐れにも思い、俺もむげに「早く出てけよ」とは言えなくなってしまった……ああ、泥沼。
そうして、俺は大学が終わると図書館でレポートを書いたりして過ごし、てきとうな時間になればアパートに立ち寄り、ハルの作ってくれた夕食を(ジジババと)一緒に食べてからバイトに出かけ、深夜過ぎに広瀬先輩の家に帰る――という、なんとも妙な生活を送っていた。
しかし、その間にも何もしていなかったわけではない。
俺は俺なりに、大塚家と、篠崎家……この二つの家の内情を探っていたのだ(偉いだろ?)。だが頑固で口数の少ない父は仕事中毒なのでなかなか捕まらず、捕まえてみたところで、俺のほうも(子供の頃からの癖で反射的に)萎縮してしまい、スムーズに話を切り出せない。つい、会話は「大学でちゃんと勉強しとるのか?」「またその話かよ。うるせーなぁ」とか、当たり障りのないものになってしまう。それでもなおもしつこく話そうとすると、息子が珍しくコミュニケーションを取りたがっている、と勘違いされてしまい、「俺はな、仕事一徹でここまできた……」「人間に必要なものは三つある、分かるか……」とか、素で語り始める。ウギャーまた始まったよ、三つだろうが六つだろうがンなことどうでもいいっちゅーの……。(イヤ、昔から耳から膿が出そうなほど聞かされたから、知ってるけどさあ??)
(親父はダメだ……やっぱ、口の軽さで言うならお袋が頼りだ!)
俺はそう思い、今度実家に帰ったら、またお袋をなんとかだまくらかして話を聞きだそうと決意した。しかし、それもこれもともかく、『ハルのため』なのである。会ったこともなかったジジイのためでも、まして、全くの他人であるババアのためでもない。それなのに、それを根本から覆すような出来事が起こってしまった。
――ハルが突然、姿を消したのだ。
「ただいまぁー」
アパートに立ち寄り、ハルに聞かせるためだけに言いながら靴を脱ぐ。
すぐに目の前に広がる台所……と呼ぶにはあまりにもお粗末なスペースの向こうに、見慣れた六畳の部屋。そこに寝転んで時代劇を見ているジジイの姿も、最近では――その隣に座って、熱心にラジオを聴いている(どっから持ってきたんだ?)ババアの姿も、見慣れたものになってしまったのは大変、遺憾な出来事ではあるが。
「ハルちゃん、卵買ってきといたよ……Mサイズので――」
言いかけた俺に、ジジイが、背中を向けたままで言った。「ハルなら、おらんぞ」
「……ん? 買い物でも行っちまったのか?」
「いや、家に帰った」
「……ハ?」
俺は聞き違いかと思って聞き返す。
「家に帰ったって――家って、どこだよ?」
「わしゃー知らん。家に帰る言っとったぞ」
「あの子も、家が恋しいの。」
ババアが、意味の分からない相槌を打つ。
なんだお前ら、ボケとるくせに黙っとれ!!
と怒りがこみ上げてくるのを我慢して、俺は周りを見回した。律儀なハルのこと、どこかに出かけるのにはいつも書き置きを欠かさない。『二丁目のスーパーに行ってきます』『クリーニングを取りに行って来ます』『少し散歩に出かけてきますが、すぐ帰ります』……。
だが、書き置きはない。こんなの、初めてのことだ。
「家……家って、篠崎の家か? なぁジイさん、篠崎の家ってどこだよッ!?」
俺がジジイに掴みかからんばかりに背中を揺すると、ババアが「タケシ、おとうさん叩くのやめなさい!」と俺の足元にへばりついた。う、うるせー! 俺はタケシじゃねー! しかもアンタの息子でも知り合いでも何でもねーッ!!
「なんだぁ、住所が知りたいんか? ペン持ってこいや」
すると、意外なことにジジイが体を起こした。ババアも、安心して俺を放す。
「お茶でも入れましょうか、おとうさん」
「ウン」
「……ほら、ジジイ! ペンと紙だ!!」
俺は、ジジイの前にその二つを叩きつけるようにして置いた。ジジイはペンの先をなぜかべろべろと舐めると(くっ……二度と使えねぇ……)、なにやらスラスラとメモ帳に書き出した。し、しかも。
(た、達筆……!?)
まるでペン習字の通信講座の宣伝のように美しい文字を見て俺は内心カナリ動揺したが、そ、そんなことはどうでもいい。そこに書かれていたのは、まさに住所だった。白樺ヶ丘四丁目、二の五の六……。俺はそれを鷲づかみにすると、アパートを飛び出した。
「おぉい、ヒロキ、どこ行くんじゃあ」
ジジイの声が聴こえたが、無視した。
久しぶりに動かす自転車は、雨ざらしのせいで車輪が錆びついていた。
それでも、ないよりはマシだ。俺はそいつをギコギコ漕ぎながら、坂道ばかりの苦しい道を必死で登っていく。この辺は坂や下りが異様に多いのだ。そして白樺ヶ丘は、その中でもてっぺんの方にある。
俺の住んでいたアパートがある町から、ほぼ一時間は走り続けただろうか。ようやくそこに辿り着こうという頃に、車輪が突然、パンクした。いくら漕いでも馬力が出ない。俺は舌打ちすると、そいつを道ばたに放り投げた。どうせこんなもん、ポンコツだ。どっかの自治体に迷惑がられながら回収されてしまえ!(※真似しないでください)
怒りを込めてそいつを蹴ってから、徒歩で丘を登る。
――すいぶんと見晴らしのいい場所だった。ここから、俺の住んでいる町も、その周辺も一望できる。建っている家もどことなく高級感の漂うものが多く、金持ちが多いのだろうと思った。どの家も玄関に警備会社のシールを張ってるし、車庫に入れられている車も高級車ばかりだ。
(こんなとこに、篠崎家があるのか……ホントに?)
あの、現代版シンデレラのようなハルちゃんが、そんな城のような家に住んでいるとは思えないのだが……。しかし考えてみれば、貧乏生活をしていたという割に、ハルには卑しいところが感じられない。やっぱりいいところのお嬢さんなんだろうか?
そんな、謎だらけの篠崎家の謎もこれから解けるのだと思うと、俺の疲れ切った足にも力が入ってくる。自転車で一時間走り通してきたが(今思うと、こんなに遠いんならバスに乗れば良かった……)、それももうすぐ報われるのだ。
『篠崎』。
その表札を見た瞬間、どっと、脱力した。
その家はいかにも現代風の建築物で、むしろ先進的でさえあった。玄関から階段で登っていく先には、総ガラス張りの居間がのぞいている。高い塀はそれらを隠しているが、デザイン的にうまく処理されていて圧迫感がない。小さな美術館か何かのようだった。
(そういえば、ハルちゃんのお母さん……叔母さん……は、カメラが趣味なんだっけ)
母の言葉を思い出しながら、インターフォンを押した。
(いるのかな、ハルちゃん……)
俺は待った。待った……、が。
誰も、出てこない。
誰も、いない。
(そんなバカな……)
俺は信じられない思いで、もう一度インターフォンを押す。だが、やはり返事がない。
俺は辺りをさっと見回すと、思いきって、ひらりと柵を乗り越えた。そして高い壁、これ幸いにとその中に身を隠すと、勝手に居間の近くまで近づく。こういうのを家宅侵入と言うのかもしれないが……ああ、そう言えばここは俺の親戚の家でもあるんだった。構うもんか。
(――いない)
だが、結果は同じだった。
総ガラス張りの居間からは、居間どころか、台所から中庭、その向こうの部屋まで全て見通すことが出来たが、汚れているせいであまり鮮明には見えない。ただ、中が電気もつかず閑散としており、家具類には布が掛けられていて、とうてい誰かが生活している気配はなかった。どう見ても、長いあいだ留守にしています、という感じだ。
(そんな……どこ行ったんだよ……)
俺は愕然として、ガラスの壁に背中を任せる。そのままずるずる、と座り込んだ。
『家に帰る』。
(家って、どこだよ……ハルちゃん、君の家は、どこにあるんだよ……?)
心の中の空しい問いかけに、あの柔らかい声が返るはずも……なかった。
「ちょっと、」
合鍵でドアを開こうとしたハルの手に、ふと、女の細い手が重なった。
薄い紫色のマニキュア。驚いて顔を上げると、そこに、まるで女性誌のモデルのようにブランド服に身を固めた女が一人、立っていた。身長もすこぶる高い。なんとなく下を見下ろすと、踵の折れそうなハイヒールを履いていた。
「何、見てんのよ……それはともかく、アンタ、何でこの家のカギ持ってんの?」
女はそう言うと、ハルの手から合鍵をもぎ取る。
「あっ……」
女は合鍵をぎゅっと握り締めると、ハルを、目を細めて睨みつける。
「アンタ、ヒロキの彼女なんでしょ?」
「えっ……」
突然に聞かれて、ハルは言葉を失った。
「いいえ、私は……」
「否定したってムダよ。ヒロキの様子がおかしいのにはこのあいだからずっと気づいてたもの。……それにしても、もう同棲なんだ? アイツ、いつのまにそんな手が早くなってたのかしら」
女は独り言のように呟くと、ハルを上から下まで眺め回す。
アパートの粗末な白色灯の下で、いかにも、自分の格好がみすぼらしいような気がハルはした。だがそれでも、そんなことを引け目に思う必要はないと思いなおす。顔を上げ、まっすぐな瞳で、ハルは女を正面から見つめ返した。
「――ふぅん。カオ、かわいいんだぁ」
女は残念そうな、それでいて、どこか揶揄するような口調で言った。
「あなたはどなたですか。……鍵を、返してください。それは、私のです」
「ヒロキの彼女」
「……え?」
「あたしは、ヒロキの彼女」
「ヒロキさんの、彼女……」
ハルの言葉に、女は、それ以上なにも言わなかった。しばらく合鍵を弄んだ後、それを、不意に廊下に投げ捨てる。ハルははっとして、それを拾い上げた。ハルが身を起こすまで、女は、ハルをじっと見下ろしていた。
「――正直、ヒロキがそんなにイイ男ってわけじゃないし」
女は突然、低い声で口にしはじめる。「あたしたちの関係も、もう、ほとんど終わってるようなものなんだけどね。あたしも、他に仲良くしてるヤツはいっぱいいるし? でも、あたしが初めてつきあった男って、……ヒロキだったの」
女はそう言って、今度は、長く伸ばした爪を弄び始める。
「中学とか高校の頃って、どうでもいい男が格好よく見えたりするじゃない? ……ヒロキも、そうだった。運動部に入ってて、それなりに活躍してて、後輩にもひそかに人気があったりしてね。……あの通り優柔不断だけど、優しいトコはあるし、あたし、その頃いろいろ悩みごととかあったからさ。そういうの話せるのって、なんでか、アイツだけだったんだよね。なんかちっとも偉そうじゃないとこが気に入ってたから。大学入ったらあの通り、ぜんぜん目立たなくて冴えないし、社会に出たらますます冴えない、ウダツのあがんない男になっていくんだろうけどさ。それでも……そういうとこが、気楽で好きだった」
女はそう言うと、一寸の隙もなく化粧で武装された美しい顔をハルに向ける。
「ヒロキは、あたしのお気に入りのオモチャなの。飽きて捨てたものでも、他人が欲しがり出すと勿体なく思えてきたりするでしょう。――ねぇ、アンタさ、ヒロキのこと、どれくらい好き? アイツと、どこまでやったの? アイツの何を、アンタは知ってるって言うの?」
「………」
ハルは、沈黙した。
目の前の女の仕草には、明らかに病的なものがあった。
そこにはまるで、意固地になり、相手を傷つけるためなら何でもやると決意した、残酷な子供のような光があった。ハルは、知っていた。そういう子供が、欲しいものを奪い取るためなら何だってやるということを。
「ヒロキさんは、オモチャではないし」
ハルは、しばらく考えた後、慎重に口を開く。「私は、彼と付き合っているわけじゃありません。私は、彼とは親類なんです。だから今は、家の事情で一時的にお世話になっているだけです」
「でも、好きなんでしょ?」
女が、素っ気なく言った。
「………」
ハルは、また沈黙した。
なんと答えればいいだろう――確かに、自分はヒロキを慕っている。存在だけは知っていたが一度も会ったことのない従兄のことを、半ば、憧れるように想ってきたのだ。そして今やっと対面し、ヒロキがやっぱり、思っていた通りの人だったと知ってほっとしも、している。
だが、ヒロキに対する思慕は、やはり『親戚』だからという理由が大きい。
生まれてすぐに本当の親に捨てられ篠崎家に引き取られた、本当の家族というものを知らないハルは、だからこそ、ニセモノであっても『家族』というものの絆にしがみついた。義母は無責任な人で、自分が引き取ると言い出したくせに料理も作らず子供の世話もせず、趣味のカメラに打ち込んであちこち飛び回ってばかりいた。義父は優しい人だったけれど、そんな義母に逆らえず、いつも女王の供をするように一緒に出かけ、家を留守にしていた。
一人きりで留守番をしていたハルの元に、ある日、一人の老人がやってきた。
義母が引き取ると言ってつれて来たその老人は、義母の父だという。ハルにとっては、血の繋がらない祖父だ。その祖父が、玄関に出てきた小さな少女を見てきょとんと、目を丸くした。「誰じゃ、この子は?」。
それから十数年、ハルは、その祖父と二人きりで生きてきた。義母と義父はときどき帰ってきて、自分の好きなときだけ家族の団欒を楽しみ、日本中、世界中から集めてきたお土産を家中に積み上げてまた、出かけていく。それでも、ハルは一家が集まる、その一日がとても好きだった。その日のためだけに一年を生きていた、と言ってもいい。
そんなハルだから、たとえ本当は他人であっても、『従兄』であるヒロキに対しての執着がある。今、この女に言われてはじめて気づいたことがあった――それは、ハルも、ヒロキと「離れたくない」と思っているという、その事実だった。
「――ヒロキさんのことを、好きなのかどうかは分かりません。でも」
ハルは、ようやく口を開いた。「でも私、あなたのことは嫌いです」
「いいわ」女は、なぜか嬉しげに笑った。
「宣戦布告ね……受けて立とうじゃない?」
一方ハルは、なぜ自分がそんなことを言ってしまったのか、自分で驚いてしまっていた。誰かを「嫌い」だなんて、滅多に……というよりもほとんど、口にしたことはなかったのに。――だが、この女を見ていると無性に腹が立って仕方ない。この奔放さは誰かに、似ている。
「また会いましょ、誰かサン」
女はそう言うと、ハイヒールの踵の音を響かせて、アパートの古い廊下を歩き去っていく。鉄の階段を降りる時まで、それは高らかに、ガツンガツンと鳴り響いていた。その音が完全に聞こえなくなってしまってから、ハルは、自分の手のひらを開き、その中をじっと見つめた。
――ヒロキのアパートの、合鍵。
(ヒロキさん……ごめん、ね)
自分が押しかけてきたせいで、ヒロキは自分の家にすら戻れないでいる。それどころか、見知らぬ他人であるシゲを追い出さず、家に置くことを許してくれた。ハルはドアに掛けようとした手をふっと止めると、合鍵を強く、握りしめた。
(私、あなたに甘えすぎたのかな……)
家族というものをろくに知らずに生きてきて、ヒロキに出会い、自分は、初めてひとに甘えたのかもしれない。この人なら何をしても許してくれると、心のどこかで、わがままなことを考えていた。
(このままじゃ、だめだ)
ハルは、顔を上げた。
――宣戦布告。
あの女(ひと)は、どっちがヒロキをモノに出来るか、という意味で言ったのだろう。だがハルは、「お前は、一人で生きて行けるの?」と、ずっと逃げ続けていた問いを突きつけられたように感じた。――ハルは合鍵を差し込み、ヒロキのアパートのドアを開けた。
「おぅ、ハルか?」
祖父が、ヒロキとは違う気配を敏感に感じ取り、テレビを見たまま手を上げる。
「おじいちゃん、」
ハルはそう言いながら、祖父によりそっているシゲに目を移す。それからまた祖父に視線を戻し、「おじいちゃん、私、家に戻ってくる。しばらく、帰らないかもしれない」と言った。
「ああ、ほーか。気をつけてなぁ」
祖父は何の疑問も抱かずに、惰性で返事をした。
「いってらっしゃい」
祖父の言葉に同調して、シゲがわけもわからずに笑顔で手を振った。
ハルは小さく頷くと、シゲに向かって、「鍵、閉めといてくださいね」と言った。
そして合鍵を靴箱の上に置き、ドアを閉めると、そのまま階段のほうへと向かう。カン、カン、カン……と、錆びた鉄の階段が、ハルのサンダルの下で小さな音を立てた。ハルの姿はそのまま、いくつも分かれた道のどこかへと向かい、小さくなっていった。