家族の食卓 8
作:芹沢 りら





 第八回 『迎えに来た男は……』



 久しぶりに辿る、白樺ヶ丘への道。
 そこに、篠崎家がある。
 母と父と祖父と、四人で住んでいたあの家が。
 今はもう、誰もいない――あの、寂しい家が。
 ハルは、少し憂鬱な気持ちで帰途を歩いていた。曇り空が余計に、気分を沈ませる。母と父が旅行先でテロに巻き込まれて死んだという電報を受け取ってから、この家には戻っていない。本当は、戻ってはいけないのだ。この家はもうすぐ、不動産会社を通じて売り払われることになっているのだから。
(私一人じゃ、おじいちゃんを養っていけない……)
 両親が死んだと聞いて、ハルが最初に思ったことはそれだった。
 二人は死亡保険を掛けていなかったので、保険金など一円も出ない。そんな状態でこんなに大きな家を所有していたら、莫大な相続税を取られる上、固定資産税だけで首が廻らなくなる――両親の友人からそう聞かされて、ハルは、この家を売る決意をしたのだ。
 中の家具なども手つかずのままになっている。片付けなければ、とずっと思っていた。だがあまりにも両親の死は突然すぎて、気持ちの整理がつかないまま今日まで来た。電報を受け取り、呆然として頭が真っ白になったハルの意識を現実に引き戻したのは、祖父の「ハル、メシはまだかぁ」という間延びした声だった。考えるのをやめよう、と、その時にハルは思った。考えたって、どうにもならない。泣いたって、二人は戻ってこない。私はこれから一人で、おじいちゃんを背負ってでも、生きていかなくちゃいけないんだから……。
 そしてこの家を不動産会社に託し、ハルは家を出た。
 住み込みのバイトを探し回ったが、祖父も一緒に受け入れてくれるようなところはどこにもない。老人ホーム……その考えもよぎったが、祖父を一人にしておくのは、自分が耐えられなかった。唯一の親戚、大塚家の電話番号は分かっている。ハルは、電話しようと思った。電話して、何とかしてもらおうと思った。だが電話ボックスにこもって受話器を持ち上げた時、その手は――ついに、プッシュボタンを一つも押せなかった。
(お母さんは、大塚の叔父さんに嫌われてた。それに、会ったこともない私が何を――)
 それに祖父は、以前の祖父ではない。痴呆が、少しずつ進行しつつあるのだ。生活出来ないほどではないが、連れて行けばきっと、イヤな顔をされる。何十年も前に「老後の面倒は見る」と言ってくれた叔父を顧みず、奔放な性格の母について行くことを選んだのは祖父自身だ。ボケたからっていまさら頼って来るなと内心、思うに違いない。
 ――そうして、ハルは受話器を降ろした。
 外には祖父が、退屈そうに待っていた。ハルは電話ボックスを出て、祖父に力なく微笑み、言った。「おじいちゃん。あの家、もう住めなくなっちゃったよ。私たち、どこに行ったらいいんだろう?」――と。すると祖父が、何でもないように答えた。「ヒロキのところに行ったらええ。あれは気はきかんが、根は優しい子だで」――。



 ――血の繋がらない母、篠崎サキには、嫌な思いをさせられた記憶ばかりがある。
 授業参観に行くと約束したのに平気ですっぽかしたり、運動会の前日にはすごいお弁当を作ると張り切っていたのに、肝心の朝には寝坊し、起こしても「今日は動きたくない」の一点張り。あの時はどうしたっけ……ああ、確か自分でお弁当を作って、一人で食べてたら友達の家族が呼んでくれて、一緒に食べたんだ。旅行中にヘソを曲げて、急に「帰る」と言い出した時も困った。父が必死でなだめたけど、母は一度怒り出したら止まらない。結局、京都まで行ったのに、予約していたホテルに入ることなく引き返した。ハルはあの時も、何も言わずに黙っていた。本当は、言いたいことは沢山あったけど……。
 ――それでも、一緒にいられるだけで幸せだと思っていた。
 物心ついた頃にはもう一人で、そこが孤児院だということさえろくに知らずに育っていたハルを、ある日、少し離れたところからじいっと見ていた人――それが、サキだった。あまりにも熱心に見つめられたので不思議に思って見つめ返すと、その人はカメラを構え、不意に、ハルの写真を撮った。
「これ、あげる」
 真っ黒な紙を渡されて、ハルは戸惑った。
 その人はそのまま、どこかへ行ってしまった。
 ハルはその真っ黒な紙を、じぃっと見ていた。
 すると、どういうことだろう? その黒い紙に、次第に、何かが映りはじめたのだ。まるで魔法のようだと思わず目を見張ったハルを、その魔法の紙はさらに驚かせた。やがてそこにくっきりと映し出されたのは、まぎれもない。自分の姿そのもの、だった。
 ――何でもない孤児院の庭を背景に、昼の光がハルを、まるで天上に拾い上げようとするかのように包み込んでいる。その中に立ち尽くした少女は凛と背筋を伸ばし、じっと、何かを見据えていた。何も知らなかった頃の輝くような純粋さと好奇心、そして、何をも乗り越えていきそうな、意志の強さを宿した瞳――初めて見せられた『見知らぬ自分』の姿に、ハルは、驚いて言葉を継ぐことも出来なかった。
 それから何度も、その人と孤児院で会った。そのたびに彼女は、ハルの写真を撮った。もう、くれはしなかったけど。後で知ったことだが、その後に撮られた写真は全て、一冊のアルバムの中に収められていた。
 気まぐれで、自分勝手で、他人の気持ちを考えない無神経な人――だがその人の撮る写真が、ハルはとても、とても好きだった。そのアルバムの中に光り輝いた自分の姿を一つずつ発見するたびに、偽りではない、本物の『愛』を感じた。ああ、この人はこんなにもちゃんと、私のことを見てくれている――。それは世間一般の『愛』とは違う形だったかもしれないけれど、ハルには、それで良かった。
 ――それからほどなくして、ハルは、その人に引き取られることになる。
 一体、どんな気まぐれだったのだろう。被写体として気に入ったのだと、後に、父に話しているのを聞いたことはあった。「顔が可愛いから」と。それは道端の猫を「綺麗だ」と言うのと変わりはなかったかもしれない。だが、それでも良かった。それでも、拾ってくれたのだから。そしてハルに家族と、居場所とを与えてくれたのだから。
 ――だから。
 ――だから、私、あの人が好きだった。
 最高の母ではなかったかもしれないけど、あの人を、愛してたんだ――。



(本当に……本当に、死んでしまったの? お母さん。また、悪い冗談じゃないの?)
 そう思った瞬間に、ハルの両目から涙がつっと、こぼれ落ちる。
 今まで、ずっと泣くのをこらえていた。遺体もなく、現地の言葉が分からないハルには、事故の様子も確認のしようがなかったからだ。だから、もしかしたらどこかで生きてるかもしれない。病院に運ばれて、手当てされたかもしれない。そう、気丈に思い続けてきた。
 けれどこの空の家を見た瞬間に、なぜだろうか。涙が溢れて、止まらない。
 人が死ぬって、本当はどういうことなんだろう。今まで、分からなかった。
 でも、きっとこういうことだ。
   ……もう二度と、その人と一緒にご飯を食べられないということ。
   ……この家で二度と、その人が歩きまわったりしないということ。
(こんなにいきなり、置いていくなんて……ひどいよ)
 ハルは、人けのない家を眺めたまま、涙を拭わずに想う。
 その言葉に、返事などあるはずもなかった。……けれど。
「……なんで、泣いてんの?」
 声がした。
 振り向いたハルの視界に映ったのは、「……誰……?」
「さあ……?」
 その長身の男はレザーの上着のポケットに手を突っ込んだまま、ハルをじっと、見据えて言った。そしてそのままハルに近寄り、その腕を掴む。ハルは驚いて、涙を拭うひまもなく抵抗した。だが、その男の力は強かった。そのまま、近くの車に連れ込まれる。真っ赤なスポーツカー……あまりにも、目立ちすぎる。
「あんたの彼氏に、よろしくって頼まれててさ」
 叫ぼうとしたハルの口を、その言葉が封じた。
(この人は、ヒロキさんの……友達?)
 尋ねようとしたが、車に押し込まれるほうが先だった。
 そしてその男は運転席に乗り込み、鍵を掛けて走り出す。車窓に見慣れた町の景色が流れていくのを呆然と見ながら、ハルは運転席の、その男の後ろ姿に問いかけた。「……ヒロキさんの、先輩の方――ですか?」
「ヒロキ」
 男はなぜか、皮肉げな声で呟いた。
「そんな名前だったっけ……あの男」
「知り合いじゃないの……?」
 ハルは顔色を変えると、後部座席で身を竦める。恐怖が、全身を走った。
「あなた、誰ですか……!? 降ろしてください。今すぐ、降ろして……!!」
「俺の彼女が、あんたの彼氏とナカヨクしてるだろ」
 男は、苛立ちを抑え切れない口調で言った。「ッたく、ふざけたヤツだよな……だから俺がどんなに不愉快な気持ちでいるか、教えてやろうと思ってさ! それには、あんたを捕まえるのが手っ取り早いと思ったんだ。野郎の顔なんかブン殴ったって手が痛いだけだし、イイことなんか何もないからね」
 運転中にも関わらず振り返った男が、薄く笑いを浮かべる。
「違います、それは誤解で――それは、あのひとの一方的、な……」気丈に言いかけたハルの顔から、見る見る血の気が引く。そして、ひどい眩暈がした。まさか、こんな時に貧血になるなんて……冗談じゃない! 気をしっかり持ってなければ……そう思いはしたけれど、体は思うように動いてくれない。
 そのまま、ずるずると後部座席でへたりこむ。
 男は顔を前に戻すと、再び、運転に集中した。



『思い知らせてやる』
『思い知らせてやる』

「……何コレ?」
「……何だこれ」

 その後同時刻、ヒロキはバイト先で、リカは自宅で、そのメールを受け取った。
 差出人は、ヒロキには身の覚えのないものだ。だが、リカにはあった。確実に。
「――何、企んでんでんのよ、アイツ……」
 リカは、ぽつりと呟く。
 それから、手の中でケータイを弄んだ。
 金持ちのドラ息子だから、金ヅル代わりに「遊んであげた」だけだ。「本気じゃない」って、最初からちゃんと言ってあったのに。「これだからしつこいオトコってキライ」リカは小さく呟いて、返信もせずに放置した。

「迷惑メールか?」
 一方ヒロキの方も、首を傾げながらそのメールをしげしげと眺めた。こんな脅し文句がタイトルだと、思わず読みたくなってしまう。だが、もしかしたらウィルスかも知れない。『I LOVE YOU』のように、ひとの気を引こうという巧妙なワナに違いない――それとも、「このメールを三日以内に五人以上に送らないと……」とかいう、例の下らないヤツかも。
 そして、ヒロキはそのメールを『削除』し、ケータイを折りたたんだ。
 顔を上げると、目の前にエロビデオを山ほど抱えた男が立っていて、カウンター越しに今にも怒鳴りだしそうなすごい顔で睨んでいた。ヒロキは慌てて「い、いらっしゃいませぇー」と愛想笑いをすると、バーコードを読み取る機械を握り締める。
 ――いつも通りの、仕事再開だ。